ヘルマン・ゲーリング
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring テンプレート:Audio、1893年1月12日 ‐ 1946年10月15日)は、ドイツの政治家、軍人。ナチ党政権下のドイツにおいて、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。国会議長、プロイセン州首相、航空相、ドイツ空軍総司令官、四ヵ年計画全権責任者、ドイツ経済相などを歴任。軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 (Reichsmarschall) である。
目次
生涯[編集]
幼年期から青年期[編集]
生まれ[編集]
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、1893年1月13日にドイツ帝国領邦バイエルン王国南端のローゼンハイムにあるサナトリウムで生まれた[1]。父はハインリヒ・エルンスト・ゲーリング。母はその再婚の妻フランツィスカ (Franziska)(旧姓ティーフェンブルンtiefenbrunn)[2]。
ゲーリングの父ハインリヒ・ゲーリングは、ドイツ帝国の外交官であり、かつてドイツ植民地南西アフリカの帝国弁務官(植民地の行政責任者)を務めたこともある。さらにその後、ハイチの総領事に任命され、ゲーリングが生まれた頃にも父ハインリヒはハイチに在任していた。母フランツィスカは出産のためにハイチの夫の下を離れてドイツに帰国し、掛かり付けの医師ヘルマン・リッター(騎士)・フォン・エーペンシュタイン (Hermann Ritter von Epenstein) の経営するローゼンハイムのサナトリウムに入院して、そこでゲーリングを出産したのであった[3][4]。
ハインリヒとフランツィスカ夫妻には5人の子供があり、ゲーリングはそのうち第4子の次男であった[3][4]。兄弟には兄カール・エルンスト (Karl Ernst) [# 1]、姉二人、弟アルベルト (Albert) [# 2]がいる。さらに父ハインリヒは前妻との間にも5人の子供を儲けており、ゲーリングはハインリヒの計10人の子供の中では第9子にあたる[4][6]。
ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタインが代父になり、自らの「ヘルマン」の名を与えた。またミドルネームの「ヴィルヘルム」の名は皇帝ヴィルヘルム2世にちなんで付けられた[7]。エーペンシュタインはベルリン出身の裕福な大地主貴族の医者だった。プロイセン王室の侍医をしていたため、プロイセン宮廷にも影響力があった[8]。エーペンシュタイン自身の信仰はカトリックであったが、その父親がユダヤ人であったので彼は半ユダヤ人にあたる。彼は軍医だった頃にハインリヒ・ゲーリングが帝国弁務官を務めていた南西アフリカに赴任し、ここでハインリヒと知り合い、以降深い親交を結んでいた[4][6]。母フランツィスカはエーペンシュタインの掛かり付けの患者であり、また彼の愛人であった。二人が愛人関係を持ち始めたのはゲーリングの弟アルベルトが生まれる9カ月から1年前からといわれる。このためアルベルトにはエーペンシュタイン(半ユダヤ人)の子供であるという疑惑がある[9][10]。
母フランツィスカはゲーリングを生んだ後、父ハインリヒのいるハイチへと戻っていった。ゲーリングはフュルトにある母の友人の家に預けられた。ここで三歳まで実の両親と離れて育てられることとなった。1896年に両親がドイツへ帰国。この後、1900年までゲーリングはプロイセンのベルリンフリーデナウ (de:Friedenau) で両親と一緒に暮らした。父ハインリヒは高位の外交官ではあったが、子だくさんもありそれほど裕福ではなく、ここでの生活は慎ましかった[4][11]。
ハインリヒはドイツ帝国高官にしては珍しく比較的自由主義的な人物で植民地現地民の有色人種たちを人間扱いするかのような発言を繰り返していたため、帝国内での立場を弱め、帰国後には社会主義者のレッテルを貼られるようになり、早めの退官を余儀なくされた[12]。
上流階級の中での育ち[編集]
1900年からエーペンシュタインは彼の所有であるザルツブルク郊外のマウテルンドルフ城 (de:Burg Mauterndorf)、ついでニュルンベルク北方のノイハウス・アン・デア・ペグニッツ (de:Neuhaus an der Pegnitz) にあるヴェルデンシュタイン城 (de:Burg Veldenstein) にゲーリング一家を招き、一家はこれらの城で暮らすようになった[6]。
エーペンシュタインは中世の貴族のような生活に憧れを抱いていたので、その城の中は大変に豪華な粉飾がなされ、従者たちは中世の宮廷風の服を着て働いていた。またその領民に対しては絶対的支配者として接していた。ゲーリングの後の華美な装飾への嗜好もこの時期に代父エーペンシュタインから影響を受けて培ったものと見られる[6][9]。
一方、ゲーリングの父ハインリヒは退官させられてからというもの、アルコール浸りの毎日を過ごしており、幼少期のゲーリングの目には頼りない父親に映った。そのためこの頃のゲーリングは代父エーペンシュタインを実の父以上に尊敬していた[13]。エーペンシュタインもゲーリング一家の子供たちを可愛がっていた。特にはじめは自分の息子と思われるアルベルトを可愛がっていたが、アルベルトは気が弱くて内向的であるなど気質はエーペンシュタインに似なかった。そのためまもなくエーペンシュタインは社交的で大胆で冒険に憧れるゲーリングに一番関心を寄せるようになったという[9]。
エーペンシュタインと母フランツィスカはしばしば夜を共にしていた。同居者である父ハインリヒは不満を感じながらもそれを黙認していた。両親とエーペンシュタインの三人は奇妙な三角関係の生活をエーペンシュタインの城で送った[8][14]。この状態はエーペンシュタインが1913年にリリーという若い娘と再婚してリリーの要求でゲーリング一家が城から退去してミュンヘンへ移住することになるまで続いた[7][15]。
ゲーリングは10歳の頃から登山に夢中になっていた。13歳の頃には険しい岩登りをして標高3600メートルのグロス・グロックナー山 (de:Großglockner) の山頂の登頂に成功している[16]。狩猟にもよく連れて行ってもらった。ゲーリングの狩猟好きもエーペンシュタインの影響だった[17]。
学業では1904年にフュルトの小学校 (Volksschule) を卒業し、1904年からアンスバッハの寄宿制のギムナジウムに入学している。しかし城で豪勢な生活を送ってきたゲーリングには質素な寄宿生活が馴染めず、翌1905年にはこの学校を夜中に抜けだしてノイハウスのヴェルデンシュタイン城へと戻ってきてしまった[18]。
この後、ゲーリングは騎兵将校だった父ハインリヒや代父エーペンシュタインの尽力で、1905年からバーデン大公国のカールスルーエの士官学校 (kadettenanstalt) に入学。1909年に教練、騎乗、歴史、英語、フランス語、音楽で優秀の成績を修めてこの士官学校を卒業した。1909年から1914年にかけてベルリンのグロス・リヒターフェルデ (de:Groß-Lichterfelde) にあった名門のプロイセン王国高級士官学校 (de:Preußische Hauptkadettenanstalt) に在学した[11][16]。1911年に「優」の成績で下級曹長級士官候補生(Fähnrich)試験に合格して[# 3]、下級曹長級士官候補生に任官する。また1913年にはアビトゥーアにも合格している[11]。名門の士官学校の優秀な士官候補生であったゲーリングは、ベルリン社交界にデビューでき、上流階級との交際も経験した[19]。1913年12月には父ハインリヒがミュンヘンで死去した。若い頃には父をそれほど尊敬していなかったゲーリングだったが、ミュンヘンのヴェストフリートホーフ墓地での父の葬儀には涙を流した[7]。
1914年1月に陸軍少尉に任官し、帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンのミュールハウゼンに駐留していた第112歩兵連隊「プリンツ・ヴィルヘルム (Prinz Wilhelm)」(バーデン大公国歩兵連隊)に入隊した[11]。
第一次世界大戦[編集]
陸軍将校としての初戦[編集]
1914年7月末から8月初めにかけて第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1914年8月3日に開戦した[20]。
ゲーリングの所属する第112歩兵連隊はフランス国境地域エルザス=ロートリンゲンに駐留していたため、対仏開戦後、すぐに戦場に動員された。ゲーリングの率いる部隊はミュールハウゼンの攻防戦の中でフランス軍の前哨拠点の一つを攻撃して4人のフランス兵を捕虜にする戦功をたてた。この功績で二級鉄十字章を受章している。しかしまもなくリューマチ熱を罹患したため、フライブルク・イム・ブライスガウの病院へ送られた[15][21]。
航空隊移籍、観測員としての活躍[編集]
フライブルクの病院で入院中に第112歩兵連隊の友人で航空隊 (en:Luftstreitkräfte) に移籍していたブルーノ・レールツァーの訪問を受けた[21]。彼はフライブルクで飛行訓練を受けていた[22]。彼の話を聞いているうちに航空隊への憧れを抱き、航空隊移籍の志願書を提出したが、初め許可が下りなかった。しかしゲーリングは命令に違反して原隊に戻らず、レールツァーのアルバトロス飛行機の観測員として独断で訓練を受け始めた。軍法会議が命令不服従の容疑でゲーリングの捜査を行い、出頭拒否で兵舎拘禁21日の判決を下した。しかし宮廷に影響力がある代父ヘルマン・フォン・エーペンシュタインに手を回してもらって、第5軍司令官皇太子ヴィルヘルムの命令により判決の執行はされず、さらにゲーリングの航空隊への配属が認められた[15][23]。
1914年10月末から1915年6月末にかけてゲーリングは第5軍隷下の第25野戦飛行隊 (Feldflieger Abteilung 25 (FFA25)) 所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員を務めた[24]。1915年春ごろからレールツァーとゲーリングの航空機は戦場に出撃して偵察活動を行った。目標地点に着くとゲーリングはレールツァーに高度を下げるよう合図して機体の外に乗り出し、足の先だけでコクピットの中から自分の体を支えてカメラを構えた。そして地上から激しい銃撃を受ける中で数分かけて目標物の撮影を行った。登山の経験があるゲーリングはこれをうまくこなし、鮮度のいい写真を取る優秀な観測員となった。やがて「空飛ぶブランコ乗り」と渾名された[25]。他の多くの飛行機が失敗したヴェルダン要塞の砲火をくぐりぬけての詳細な写真撮影にレールツァーとゲーリングの機体は成功した。この功績で1915年3月にレールツァーとともに第五軍司令官の皇太子ヴィルヘルムから一級鉄十字章を授与されている[26][27]。レールツァーとゲーリングは写真説明のために高級将校たちの作戦会議にもしばしば呼ばれるようになっていた[26]。
エースパイロット[編集]
しかしゲーリングは、観測員だけでは満足していなかった。1915年7月から9月にかけてフライブルクでパイロットとしての研修を受け、1915年9月からいよいよ第25野戦飛行隊所属の戦闘機パイロットになる[24]。1915年10月3日に双方戦闘機のパイロットとして初出撃した。1915年11月にはイギリス空軍のハンドレページ大型爆撃機と遭遇し、攻撃を仕掛けたが、ソッピース戦闘機からの攻撃に被弾して負傷した。壊れた機体を何とか操縦して命からがらドイツ領まで戻ったが、傷の治療のため、1年ほど戦線から離れることとなった[28][26]。
1916年11月に戦線に復帰[29]。第7飛行中隊 (Jagdstaffel 7)、第5飛行中隊 (Jagdstaffel 5)、第10飛行補充隊 (Flieger Ersatz Abteilung 10)、第26飛行中隊 (Jagdstaffel 26) などに属して戦った。着実と撃墜スコアを増やし、1917年5月には第27飛行中隊長 (Jagdstaffel 27) に抜擢された[24]。1917年から運用されたばかりの単座戦闘機アルバトロス D.Vに搭乗して、飛行中隊を率いて出撃した[30]。
第一次世界大戦後期に入り、空戦はいよいよ激烈になってきた。ゲーリングの飛行中隊とレールツァーの飛行中隊はしばしば作戦を共にし、フランダース上空での格闘戦ではフランス軍機に狙われたゲーリングの危機をレールツァーが救い、その後、逆にイギリス軍機に狙われたレールツァーの危機をゲーリングが救うといった場面が見られた[31]。
技量・戦意ともに認められて、ドイツ軍パイロットの最優秀人物の一人に数えられるようになり、「鉄人ヘルマン」の異名を取るようになった[32]。個性が没却しやすい陸軍陸上部隊や海軍と比べて、航空隊のエースパイロット達はとにかく目立っていたので全ドイツ軍のスターであった。彼らのブロマイドがドイツ中に出回っていたが、1917年代からはゲーリングのブロマイドも出回るようになっていた[33]。
1917年10月にはプロイセン王国のホーエンツォレルン王家勲章剣付騎士十字章とバーデン大公国のカール・フリードリヒ軍事勲章騎士十字章 (de:Militär-Karl-Friedrich-Verdienstorden) を受章した[34]。さらに1918年6月2日には18機撃墜の功により皇帝ヴィルヘルム2世から一般軍人の事実上の最高武勲章であるプール・ル・メリット勲章戦功章を授与されている[34]。プール・ル・メリット勲章戦功章のパイロットの受章は一般に敵機25機撃墜が必要とされていたが、ゲーリングは特別に優秀なパイロットとみなされていたため、特例で早くに受章する事が認められたものだった[30]。
リヒトーホーフェン大隊指揮官[編集]
1918年7月7日には「リヒトホーフェン大隊」の名前で名高い第1戦闘機大隊 (Jagdgeschwader 1 (JG1)) の指揮官に任じられた。この大隊の初代指揮官マンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵は80機を落として連合国から恐れられていた伝説的人物であった。リヒトホーフェンが1918年4月21日に英軍機を低空で追撃中にオーストラリア第53砲兵中隊の軽機銃に撃墜されて戦死[35] し、その後任となったヴィルヘルム・ラインハルト (Wilhelm Reinhard) も7月3日にアドラーショフでの第二回戦闘競技会(新型飛行機の公開コンペ)でドルニエD-1型三葉機の空中分解で墜落死した。その次の指揮官として白羽の矢が立ったのがエースパイロットとして名声をあげていたゲーリングであった。しかしこの大隊の後継者となるのはゲーリング以上に名を上げていたエルンスト・ウーデットかエーリヒ・レーヴェンハルト (Erich Loewenhardt) のどちらかと目されていたため、これは意外な人選だった[36]。
リヒトーホーフェン大隊は、ウーデット、レーヴェンハルト、ロタール・フォン・リヒトホーフェンら有名なエースぞろいであったため、初めゲーリングを隊長と認めようとしない者も多かったが、ゲーリングは隊長として優れた指導力を発揮し、自分の撃墜スコアを伸ばそうと独自行動を取りやすいリヒトーホーフェン大隊の各パイロットを抑えてチームプレイを成功させ、1918年8月初め頃にはすっかり大隊の隊員達の信頼を勝ち得、初代隊長マンフレート・フォン・リヒトーホーフェン以上に人望のある隊長になっていたという[37]。
しかしながらドイツの戦況は悪化していた。ゲーリングのリヒトーホーフェン大隊でも飛行士や補給部品、燃料が慢性的に不足した。連合軍はますます強力になりつつあった。1918年9月にゲーリングの副官カール・ボーデンシャッツは日誌に「このような緊張は、ゲーリング中尉の顔にも表れるようになった。彼は痩せて厳しい顔つきになった。我々も全員が、厳しい表情になっている。」と書いている[38]。
ゲーリングは大隊を率いて最後まで戦い抜いたが、11月初めにキールの水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり(ドイツ革命)、皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダへ亡命、11月11日にはドイツ社会民主党の共和国政府がパリのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った[39]。
休戦協定の後、リヒトーホーフェン大隊は飛行機をストラスブールのフランス軍に引き渡すよう命令を受けたが、ゲーリングは隊員たちとも相談の上、この命令を無視して大隊をドイツのダルムシュタットへと飛ばせた。しかし悪天候だったため、大隊の隊員の一部はマンハイムに緊急着陸した。革命を起こしてマンハイムを実効支配していたマンハイム労兵委員会はこの隊員たちから武器を奪った。隊員たちはダルムシュタットにトラックで向かい、ゲーリングにこのことを報告した。激怒したゲーリングは大隊の機体を率いてマンハイムへ出撃し、マンハイムの労兵委員会に武器を返還させ、謝罪文を書かせている[40][41]。この後、ダルムシュタットに着陸する際にゲーリングたちはわざと着陸を失敗させて大隊の機体を次々と壊した。彼らにできる連合軍への最後の抵抗だった[40][42][43]。ゲーリングの最終撃墜スコアは計22機であった[32]。
リヒトーホーフェン大隊の解散を悼む席でゲーリングは「今日のドイツにおいてのみ、その名は泥にまみれ、その記録は忘れ去られ、将校は嘲笑されている。しかし自由と正義、そして道徳の力が究極的には勝利をおさめるだろう。我々は我々を隷属させようとする勢力と闘い、最後には勝利をおさめるだろう。リヒトーホーフェン大隊を輝かしき物とした資質は、戦時中においても平和時においてもその力を発揮するだろう。我々の時代はまたやってくる。諸君、私は乾杯したい。祖国に対し、リヒトーホーフェン大隊に対して。」と挨拶し、グラスを一気に飲み干してグラスを床にたたきつけた。隊員たちもゲーリングに倣った。ゲーリングも隊員たちも涙を流していたという[44]。
リヒトホーフェン大隊で戦った戦友たちをゲーリングは生涯忘れることはなかった。1943年にルーターというリヒトホーフェン大隊で一緒に戦ったユダヤ人が逮捕されるとゲーリングはゲシュタポに圧力をかけて彼の釈放に尽力し、その後個人的保護下に置いている[45]。またこの大隊の隊員だったエルンスト・ウーデットやカール・ボーデンシャッツなどは後にドイツ空軍の幹部に取り立てられている。
第一次世界大戦後[編集]
1918年12月に母のいるミュンヘンへ戻った。同じく家族がミュンヘンにいるエルンスト・ウーデットが同行した。しかし母の生活はかなり貧しくなっていた。代父エーペンシュタインはオーストリアにいて連絡はつかなかった。当面の生活費に困ったゲーリングとウーデットだったが、ミュンヘンに派遣されていたイギリス空軍将校フランク・ボーモント大尉と再会し、彼から資金援助を受けた。彼は一次大戦中にイギリス空軍のパイロットだったが、ドイツ軍に撃墜されて捕虜となり、その時にゲーリングがしばらく保護したことがあった[46][47]。
革命以来、ミュンヘンはクルト・アイスナーを中心とした多数・独立の両派社民党の社会主義政権に支配されていた。ゲーリングは反アイスナーの政治協会にいくつか参加している。アイスナーが右翼青年将校に暗殺された後、共産党が革命を起こして「バイエルン・レーテ共和国」が樹立された。共産党は保守・右翼の逮捕を開始し、ゲーリングも捜索された。ゲーリングはボーモント大尉の助けを借りてミュンヘンを脱出し、ベルリン中央政府(フリードリヒ・エーベルトの社民党政権)の命を受けてミュンヘンに攻めのぼらんと進軍中のドイツ義勇軍の一部隊の保護を受けた。義勇軍はこの後ミュンヘンへ攻め込み、レーテ共和国を打倒し、ミュンヘン市内で共産党員虐殺を行った。ゲーリングは右翼と左翼の殺し合いばかりになったドイツの未来にすっかり絶望した[48][49]。
この後、航空会社フォッカーからフォッカー F.VIIのデンマーク・コペンハーゲンの展示会での飛行依頼が来た。ゲーリングはこれを引き受け、デンマークに活動の場を移すことにした。彼の曲芸飛行は観客から大好評となり、フォッカーはその後もゲーリングに飛行機を貸した[50]。その後、スウェーデンでも曲芸飛行を行うようになり、一次大戦のヒーローの経歴もあってデンマークやスウェーデンで大変な人気者になった。リヒトーホーフェン大隊の仲間たちもしばしば呼んで一緒に曲芸飛行した。客を乗せての遊覧飛行やエアー・タクシーの業務も行い、希望は常時殺到していた。ゲーリングのもとにはたちまちに大金が転がり込んだ。ボーデンシャッツはこの時期のゲーリングを「まるでボクシングのチャンピオンのように暮らしていた。彼は必要以上に金を持っており、望みのままに女たちを手に入れた。」「一晩中をシャンパンの風呂の中で過ごしたと手紙に書いていた。」と回想している[50][51]。
スウェーデン時代に貴族の娘でスウェーデン軍人の妻カリン・フォン・カンツォフ(旧姓フォン・フォック(von Fock))と恋に落ち、彼女の夫ニルス・フォン・カンツォフから奪う形で駆け落ちし、二人はドイツに帰国した後の1923年2月3日にミュンヘンで挙式した[52][53][54]。
ナチ党闘争時代[編集]
ミュンヘン一揆まで[編集]
1921年夏にドイツへ帰国し、1922年から1923年にかけてミュンヘン大学に入学し、経済学と歴史学を学んだ。国家主義者の教授の授業を受け、ナショナリズムに傾倒していった。1922年11月のミュンヘン・ケーニヒ広場 (Königsplatz) の政治集会で初めてアドルフ・ヒトラーと会見する機会を得た。ゲーリングは初対面でヴェルサイユ条約打破や「ユダヤ人と共産主義者による背後の一突き」説を熱く語るヒトラーに魅了された。ヒトラーもプール・ル・メリット勲章を受章したこの空の英雄に利用価値を見た[55]。
1922年12月、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党(この際の党員番号は不詳。1928年に党員番号23が与えられている)。入党間もないにもかかわらず、1923年3月には突撃隊 (SA) の最高指導者に任じられている[11]。ゲーリングは短期間で突撃隊に訓練を積ませて統制のとれた軍隊に仕立て上げた。規律正しくなった突撃隊の行進は多くの通行人から拍手を送られるようになったという[56]。ヒトラーも「私は、ゲーリングに規律のないヤジ馬連中を与えたところ、彼はそれをあっという間に1万1000人の師団にまで仕立てあげてしまったのだ。」と後に語っている[57]。しかしゲーリングが魅了されていたのはあくまでヒトラー個人であったため、当初ナチ党の活動にはあまり関心がなく、ルドルフ・ヘスやアルフレート・ローゼンベルクなどヒトラー以外の党の同志を見下したような態度があったという[58]。
1923年8月末に母フランツィスカがミュンヘンで死去した。父ハインリヒと同じくミュンヘンのヴェストフリートホーフ墓地に葬られた[59]。1923年9月26日にグスタフ・フォン・カールがバイエルン州総督となった[60]。彼はナチ党はじめバイエルンの各右翼勢力と連携してバイエルン独立とベルリン進軍を狙っていたが、中央政府の圧力でやがてベルリン進軍を抑制するようになり、特にベルリン進軍を強硬に主張したナチ党との連携を排除するようになった。不満に思ったヒトラーはミュンヘン一揆を計画し、カール達の身柄を抑えて自分に協力させ、ベルリン進軍を行わせることを企図した[61]。
1923年11月8日夜、ヒトラーはゲーリング以下突撃隊を率いてカールが演説をしていた「ビュルガーブロイケラー」へ突入し、ピストルを撃って威嚇してその場を制圧するとカール達の身柄を抑えた。ヒトラーがカールとともに奥の控室にいっている間、ゲーリングは聴衆が心配した様子であるのを見て「心配するな。我々は友達だ。ビールでも飲もう。」と声をかけたという[62]。
11月9日朝、ヒトラーとエーリヒ・ルーデンドルフ将軍に率いられてゲーリング以下突撃隊は、ミュンヘンの中心部オデオン広場 (Odeonsplatz) へ行進を開始した。先頭を進むのはヒトラー、ルーデンドルフ、そして突撃隊司令官ゲーリングであった。しかしオデオン広場のフェルトヘルンハレ (Feldherrnhalle) まで数メートルというところで警官隊から銃撃を受けた。この時にゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れた。突撃隊員は彼を車の中へ運びいれてその場を離れると、近くに住んでいたイルゼ・バーリンというユダヤ人家具商の夫人に匿ってもらった。さらに彼女は元看護婦だったため、応急処置もしてもらっている[# 4]。その後、ナチ党シンパの医師の病院へ担ぎ込まれ、知らせを受けたカリン夫人がこの病院に駆け付けた。警察の追跡を振り切るため、カリンの友達がいるガルミッシュ=パルテンキルヒェンへ移り、さらにその後、オーストリアのインスブルックへ国外逃亡した[58][64][65]。
一揆後の療養生活[編集]
ゲーリングはインスブルックの病院で治療を受けることとなった。オーストリアのナチ党支持者から讃えられて、応援の電報や見舞、見舞金がたくさん届いた。ゲーリングのための募金活動もはじめられた[66]。しかし傷の方は深刻だった。銃弾は深くまで食い込んでおり、右腰と右足の手術が必要だった。このとき麻酔のためにモルヒネが使用された。傷が治癒した後も長く依存症に苦しみ、ゲーリングはモルヒネ中毒者になってしまった[58]。
ドイツ国内ではヒトラーやルーデンドルフなど一揆指導者が逮捕されて、ヒトラーは投獄を受けた。ゲーリングもバイエルン州警察から手配書を出されており、ドイツへの帰国ができなかった。ドイツ国内の財産もすでに警察に差し押さえられていた。しかも早期に釈放されたエルンスト・レームが突撃隊の偽装組織を作って再建を開始し、突撃隊の実権はすでに彼に移っていた。ゲーリングはランツベルク刑務所を訪れた妻カリンを通じてヒトラーからイタリアへ行くよう命じられた。ベニト・ムッソリーニに頼んでイタリアがナチ党へ資金援助を行うよう仕向ける任務だった。ゲーリングは総統への影響力を喪失させぬため、ほとんど資金がないにもかかわらず、1924年5月から1925年5月にかけてカリンとともにイタリアを訪問することになった。ムッソリーニとは一度面会できたが、確約は特に何も得られなかった[# 5][67][68][69]。
落胆したゲーリングは、妻カリンの実家があるスウェーデンへ戻っていった。負傷した傷の激痛に苦しみ続け、毎日のようにモルヒネを注射した。薬物の大量投与によってホルモンバランスの異常をおこし、美男子だったゲーリングの容貌はどんどん変貌して見るも無残な肥満体となってしまった[70]。薬物の禁断症状で精神的な障害も起こすようになった。妻カリンに支えられて精神病院に入ったものの、モルヒネ依存を抜け出すことはできなかった。一度自殺未遂も起こしている。ゲーリングの失望の時期であった[71][72]。
政治活動再開[編集]
1927年秋のヒンデンブルク大統領の政治犯に対する恩赦によりドイツへ帰国した。ヒトラーから再度迎え入れられてナチ党での政治活動を再開した。ヒトラーもゲーリングも合法的選挙活動によって政権を取る路線に立場を変更していた[73]。1928年5月20日の国会議員選挙ではナチス党は12議席しか取れなかったが、ゲーリングは当選者の一人であった[74][75]。
国会議員になったゲーリングは、ブルジョア出身であること、プール・ル・メリット勲章の受章者であること、そのユーモラスな話術、美人で気品ある妻カリンなど持てるすべてを利用して社交界で活発に運動した。下層階級出身者の多いナチ党幹部には近づき難かった上流社会・財界人と接触し、人脈の構築に尽力した。ナチ党の最大のパトロンだったルール地方の鋼鉄王フリッツ・ティッセン (de:Fritz Thyssen) もゲーリングが捕まえたパトロンである。ティッセン以外にもクルップやメッサーシュミット、ドイツ銀行、BMW、ルフトハンザ、ハインケルのような大企業が党に献金するようになり、それまで空っぽだった党の金庫は献金でいっぱいになった。特にハインケルやBMWは、ゲーリングを会社の「コンサルタント」にしており、給料も支払っていた。またルフトハンザもゲーリングに事務所と秘書を提供している。さらに製鉄業界からもベルリンのバデンシェシュトラーセに豪華なアパートをもらっている[74][76]。
後にゲーリングが空軍で重用するエアハルト・ミルヒはこの頃ルフトハンザの重役でこの時期のゲーリングの社交界での活躍で知り合っている。ヒンデンブルク大統領とヒトラーの初会談を実現させたのもゲーリングだった[77]。一次大戦でドイツ軍参謀総長だったヒンデンブルクは「ボヘミア人伍長」ヒトラーについては軽蔑していたが、一次大戦の英雄だったゲーリングには好意を寄せており、彼とよく会合を持っていたのだった[78]。
王侯・貴族層とも親交を深め、特にヴィクトル・ツー・ヴィートやアウグスト・ヴィルヘルム王子とは親密な関係を持った[79]。
1930年にはヒトラーの公式な相談役になるなど、ナチ党最重要人物の一人となった。1930年9月の選挙ではナチス党は一気に107議席を獲得。ゲーリングはこの107人のナチ党議員団のトップとなった。このナチ党の躍進を予想していたのは党内でもゲーリング一人であったという[80]。
1931年10月17日、カリン夫人を亡くすが、悲しみながらもますます活発な活動を行っていく。1932年7月31日の選挙でナチ党が更に躍進して230議席を掌握し、社民党を抜いて第一党となった。そのためゲーリングが新たな国会議長に就任することとなった。国会の多数派を握るナチ党出身の国会議長としてフランツ・フォン・パーペン内閣やクルト・フォン・シュライヒャー内閣への不信任決議を可決させた。パーペン内閣不信任可決された後に首相から議長席へ解散命令の書類を置かれた際には、ゲーリングは当初これを無視した上に不信任案が可決された内閣の構成員の署名入り書類は無効であるから受理できないとして嘲笑した(ただし、これは不信任案が可決されたために無効としたことは法律上無理があり、また解散を望んでいたヒトラーの意向と対立することになるため、ゲーリングは大慌てで発言を取り消した。
ゲーリングは、大統領府を実質的に差配していた大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルクに接近して国軍の支持も取り付けてヒトラーの首相任命への下地を作っていった。
ナチ党政権掌握後[編集]
プロイセン州統治[編集]
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ヒトラーは、ゲーリングを自らの内閣の無任所相に任じた。2月6日にプロイセン州政府が解体されると、州の内相となった。プロイセン州内相職を得たことによってゲーリングは、親衛隊や在郷軍人組織「鉄兜団」のメンバーを補助警察として採用し、プロイセン州警察のナチ化を進めた。
1933年2月6日にプロイセン州警察の政治警察部門「1A課 (Abteilung 1A)」(ゲシュタポの前身)の課長にルドルフ・ディールスを任じた。ディールスは当時ナチ党員ではなかったが、ゲーリングの有能な片腕として働いた。ディールスは、1933年2月27日の国会議事堂放火事件で迅速に事態を収拾し、共産主義者のオランダ人マリヌス・ファン・デア・ルッベを犯人と断定した。さらに翌28日には4000人のドイツ共産党員を逮捕に成功している[81]。国会議事堂放火事件の真相は今日まではっきりと確定した説はない。しかし一部にナチ党の自作自演の事件とする説があり、これらの説にはゲーリングを主犯とするものが多い。ゲーリングの国会議長公邸が国会議事堂とトンネルでつながっていた事などがゲーリング主犯説の根拠になっている。自作自演説は事件当時から流布されていた噂で、ゲーリングの耳にも入っていた。ゲーリングは「共産党に断固たる措置をとるのに、何ら特別な事件など必要なかった。」「もしも私が焼き払うなら、もっと重要ではない建物を焼いている。」といった反論をして容疑を否認している。また「もしも私が国会議事堂に放火するとしたら、それは共産党をやっつけるためではなく、全く別の理由だろうな。国会議事堂の議場は実に醜かったからね。漆喰塗りの壁なんだよ。」といったジョークを飛ばしたこともあった[82]。1933年9月からライプツィヒで国会議事堂放火事件の放火犯として起訴されたマリヌス・ファン・デア・ルッベら共産主義者たち五名の裁判が行われた。ゲーリングは検察側証人として出廷した。しかし明確な証拠を提出することができず、ルッベ以外の四人は無罪となった。特にゲオルギ・ディミトロフの裁判ではディミトロフの反論にゲーリングが取り乱した場面も見られた[83][84]。
1933年2月24日にはヴァルター・ヴェッケ警察少佐 (de:Walther Wecke) の下に政治的に信用できる警察官400名を集めて「ヴェッケ特殊任務警察大隊 (Polizeiabteilung z.b.V. Wecke)」を創設させている。大隊はベルリン=クロイツベルク近郊に基地を構え、ゲシュタポの逮捕の実行部隊として活躍した。この部隊は拡張再編成されて「ゲーリング将軍州警察集団 (Landespolizeigruppe General Göring)」、さらにその後「ゲーリング将軍連隊 (Regiment General Göring)」と改名されてゲーリングの空軍司令官就任に伴い、空軍の部隊となった[85]。
1933年4月10日にはフランツ・フォン・パーペンから譲られてプロイセン州首相 (de:Preussischer ministerpräsident) とプロイセン州国家代理官 (de:Reichsstatthalter) に就任。1933年4月26日、ゲーリングはプリンツ・アルブレヒト街8番地にあったホテルを接収して、ここにプロイセン州秘密警察局 (Preussisches Geheimes Staatspolizeiamt) を新設し、プロイセン州の政治警察の一本化をはかった。1A課もここに吸収され、その中核となった[86]。これが「ゲシュタポ」という略称で有名なナチスの秘密警察の創始であった。ゲシュタポ局長 (Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt) には1A課課長ルドルフ・ディールスが就任し、トップである長官 (Chef der Geheimen Staatspolizeiamt) はゲーリング自身が務めた[87][88]。
ヘルマンはゲシュタポを個人的指揮下に置くことを図り、ドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックから切り離していった。プロイセン州は「ゲーリング王国」の様相を呈したが、これを快く思わなかったフリックは、ヘルマンへの対抗として1933年11月から1934年1月にかけてプロイセン州以外の各州の警察権力を親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーにゆだねていった。ヒムラーはプロイセン州の警察権力の掌握も狙い、ヘルマンに様々な圧力をかけるようになった。ヘルマンもついに折れ、1934年4月20日、ゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理 (Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)」を新設し、これにハインリヒ・ヒムラーを任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポ長官の座にとどまったが、形式的な存在であった[89]。プロイセン州一般警察の指揮権も親衛隊の圧力で徐々にドイツ内務省に移され(ドイツ内務省警察局長には親衛隊高官クルト・ダリューゲが就任しており、さらに1936年にはハインリヒ・ヒムラーがドイツ内務省内の全ドイツ警察長官となる)、ゲーリングのプロイセン州首相や州内相の地位は形骸化していった。
ゲーリングがゲシュタポをはじめとする警察組織の実質的指揮権を親衛隊に譲った理由は諸説あり定かではない。緻密さが要求される警察業務に飽きてしまったとも、自らの国民的な人気を秘密警察業務で汚したくなかったともいわれる。1934年6月のエルンスト・レーム以下突撃隊の隊員たちの粛清(長いナイフの夜)に備えるため、親衛隊と手打ちする必要があったのではないかともいわれる[87][90]。
長いナイフの夜[編集]
1934年6月30日から7月初めにかけて行われたエルンスト・レームら突撃隊幹部の粛清事件(長いナイフの夜)は、ヒトラーとゲーリング、そしてSSのヒムラーやハイドリヒらが主導したものである[91]。ゲーリングにとってレームはかねてからの党内の政敵であった。レームは公の場でヘルマンを「反動の権化」などと呼んで批判してくるほど二人は仲が悪かった[92]。特にナチ党の政権掌握後には二人は国防軍総司令官の地位を巡っての潜在的なライバルになっていた。また突撃隊に所属する警察高官達の持つネットワークはヘルマンのプロイセン州警察指揮権を常に脅かしていた[93]。
突撃隊が正規軍の座を巡って国防軍と軋轢を強め、ヒトラーは突撃隊の大掃除を考えるようになった。この機を見計らってゲーリングやヒムラーらは突撃隊幹部の謀反の証拠を捏造し、これをヒトラーに提出してレーム以下突撃隊幹部の粛清の必要性を訴え、とうとう粛清を決断させた。6月30日、ヒトラーはバイエルン州ミュンヘンへ飛び、レーム以下突撃隊幹部を集めていたヴィースゼーへ移動してそこで自ら突撃隊粛清を行った。一方ゲーリングはプロイセン州首相・内相としてゲシュタポの指揮官であるヒムラーやハイドリヒとともにベルリンにおける粛清を指揮した。ゲーリングはヴェッケ特殊任務警察大隊を出動させ、突撃隊本部へ突入させた。大隊が突撃隊本部を制圧した後、ゲーリング自ら突撃隊本部に訪れて、突撃隊幹部が集められている部屋を次々と移動しながら「そいつを逮捕しろ。そいつもだ。いやそいつじゃない。そこの後ろに隠れようとしている奴だ。」といった具合に逮捕していった。逮捕された突撃隊員はリヒターフェルデへ送られ、そこで銃殺されていった[94]。
ゲーリングは、後にニュルンベルク裁判で勾留された際に「殺人行為だ」として長いナイフの夜の粛清を批判してきたアメリカ軍心理分析官グスタフ・ギルバート中尉 (en:Gustave Gilbert) に対して「いいかね。相手は変態で血に飢えた革命主義の集団だよ。ナチ党初期に乱痴気騒ぎをしたり、街でユダヤ人を殴ったり、窓ガラスを割ったりして、ナチ党がごろつきの集まりかのような印象を持たせた元凶は奴らなんだ。奴らはドイツ将校団も党首脳も、そしてユダヤ人も大量虐殺によって一掃するつもりでいた。私が彼らを一掃したのは全く正当なことで、そうしなければ逆にこっちが殺されていたんだ。」と反論している[95]。
しかしそもそもこの粛清の主役はゲーリングというよりSSであった。ゲーリングはSSの独断専行を抑えようとしていたため、SSの粛清に歯止めをかけようともしている。ゲーリングはジークフリート・カッシェSA中将 (de:Siegfried Kasche) やアウグスト・フォン・プロイセンSA大将、外務省書記官フォン・ビューロー、かつてのゲシュタポ局長ルドルフ・ディールスなど命があやぶまれていた人たちを庇護した[96][97]。また副首相フランツ・フォン・パーペンは、自らに知らされず突然始まった粛清について状況説明を求めるためにゲーリングの官邸に訪れていたが、パーペンがゲーリングの官邸を出ようとした際に親衛隊員が彼の行く手をふさごうとした。この時、ゲーリングの副官ボーデンシャッツ少佐が「ここでは誰が命令権を持っているのか知りたい。ゲーリング首相なのか、SSなのか」と大声で叫んで親衛隊員たちを牽制した。結局パーペンは逮捕も死も免れた。クルト・フォン・シュライヒャーについてもゲーリングは逮捕でとどめようとしていたが、すでにヒムラーとハイドリヒの支配下になっていたゲシュタポがゲーリングのプロイセン州警察を出し抜いて独断で殺害を強行したのだった[96]。一方でナチス左派のグレゴール・シュトラッサーの殺害にはゲーリングもSSも異様に力を入れていたという[98]。
ヒンデンブルク大統領は7月1日にヒトラーとゲーリングの二人に対して感謝の電報を打っている[99]。
動物・自然保護への功績[編集]
1934年7月3日に森林長官 (Reichsforstmeister)、狩猟長官 (Reichsjägermeister) に就任した[100]。これはゲーリングの名誉欲によって集められた形式的な役職の一つではなく、彼はこの役職に熱心に取り組んでいた。乱獲や密猟で減っていたドイツの狩猟場の動物たちの保護と補充に努めた。1934年7月3日にゲーリングが制定させた「ドイツ国狩猟法」は、狩猟に関する規制や動物保護や繁殖を目的とした内容の優れた法令で、現在もドイツ連邦共和国に存続している法律である。この法律により狩猟は政府の厳重な許可が必要となり、狩猟をおこなう者は銃の取り扱い試験が義務付けられ、狩猟犬も訓練を受けた犬に限定された。割り当て以上の獲物を撃った者には厳しい罰則が与えられた。動物の苦痛を取り除くため、負傷した動物には必ず止めをさすことを義務付けた。また鋼鉄の罠や毒物を使用するような残虐な狩猟や夜間照明を使用した狩猟は禁止された。密猟に対する罰則も強化した。狩猟長官執務室には「動物を虐待する者は、ドイツ国民の感情を傷つける。」という標語が掲げられていた[17][101]。
ゲーリングは狩猟愛好家だった。ベルリンの北東にあるショルフハイデ (Schorfheide) に専用の狩猟区を持ち、ここに死別した妻カリンの名を冠する豪邸「カリンハル」(de:Carinhall) を建設させた。しばしばここで狩猟を楽しんだ。近隣の村人や招待した友人にも狩猟場の使用を認めた[102]。彼は乱獲や残虐な方法による狩猟に反対するルールある狩猟家であったが、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーのような極端な動物愛護主義者からは彼の狩猟熱は白い目で見られた。ヒムラーは「あんな可愛い目をした鹿を撃ち殺すなんて彼は残酷だ」とゲーリングの陰口をしたという。
森林長官として自然保護にも功績がある。ドイツの大都市の周囲に大規模な植林計画を実施し、グリーン・ベルトを設けさせた。この地帯は動物たちの聖域となり、また労働者の憩いの場となった。ゲーリングが森林長官・狩猟長官に就任した後、数年にしてドイツの森林は世界中から自然保護の見本と呼ばれるまでになった[102]。
空軍総司令官就任[編集]
1933年1月30日のヒトラー内閣の成立とともに閣僚職と併せて空輸国家弁務官 (Reichskommissar für den Luftverkehr) に任命されている。3日後には同職は航空国家弁務官 (Reichskommissar für die Luftfahrt) に改名された。さらに5月5日には航空国家弁務官事務所は航空省に昇格し、ゲーリングは航空相となった[100]。これらは実質的にドイツ空軍再建のためのポストであった。ゲーリングは、社交界で活躍していた頃に知り合ったルフトハンザドイツ航空の重役エアハルト・ミルヒを次官(国務長官)に置き、二人は空軍創設へ向けて秘密裏(ヴェルサイユ条約でドイツは航空戦力の所持を禁止されていた)に動き出した。航空機の大量生産計画を立て、1936年3月までに空軍は2680機保有を達成した(さらに1939年ポーランド戦までに4333機に)。また人材集めにも励み、陸軍からの引き抜きの他、民間飛行士からも募集して将来の空軍幹部候補の育成を開始した。一次大戦の戦友であるエルンスト・ウーデットを航空省のアドバイザーに招き、同じく戦友のブルーノ・レールツァーを「エア・スポーツ・クラブ」(将来のドイツ空軍飛行士を育成するための地下訓練グループ)の会長に任じて飛行士の育成にあたらせた[103]。また、この航空省内部には調査局という部局が置かれ、政敵等の電話盗聴に当たった。
1935年3月、ドイツ再軍備宣言(ヴェルサイユ条約破棄)にともなって正式に設置が宣言されたドイツ空軍 (Luftwaffe) の総司令官に任命された。5月には空軍大将位を与えられ、さらに1936年4月には上級大将、1938年2月には元帥に昇進した。
空軍における実務はエアハルト・ミルヒが握るところが多かった。ゲーリングはミルヒを警戒して航空省で技術局長を務めていたエルンスト・ウーデットを空軍の「航空機総監 (Generalluftzeugmeister)」に任じ、新型機開発にあたらせ、1937年はミルヒを飛び越えて直接ゲーリングに具申する権限を認めた。ミルヒには1939年に「空軍総監 (Generalinspekteur der Luftwaffe)」の肩書を与えたが、これは空軍の総指揮権からミルヒを遠ざける目的であったという[104]。
1936年にスペイン内戦が起こるとドイツ空軍は「コンドル軍団」として非公式に参戦した。この戦いへの参加はドイツ空軍に色々な教訓を与え、大きな発展をもたらした。スペインを新型機の実験場として急降下爆撃機ユンカースJu-87や双方爆撃機ハインケルHe111など有用な新型機が続々と開発されることとなった。またスペイン内戦に参加したパイロットヴェルナー・メルダースが二機編成(ロッテ)にする戦術体系を編み出すなど戦術面においてもドイツ空軍は大きく飛躍した。スペイン内戦を経て粗末な組織だったドイツ空軍は一流の航空戦力へと変貌した。
しかし航空整備に関して、ゲーリングとウーデットはスペイン内戦で活躍したユンカースJu-87に代表される急降下爆撃機に絶大な自信を持つ反面、雷撃機には関心が無かった。当時の日本駐在武官との会話で、『イギリス艦艇を全て爆撃で沈める』と豪語したが、上部構造物に爆撃しても船は沈まないとの武官の反撃に沈黙している。ドイツ空軍は単発の魚雷攻撃機を一部改造はしてみたが、結局作ってはいない。さらに長距離重爆撃機の開発にも不熱心だった。このため戦争中、特にイギリスとの戦い(バトル・オブ・ブリテン)でドイツ空軍は戦略爆撃を行えず苦戦に陥り、イギリス上陸作戦を断念している。命中精度の高さ故に急降下爆撃に固執し、双発爆撃機のユンカースJu-88のみならず、4発重爆撃機ハインケルHe 177にさえ急降下性能を要求するなど、ドイツ空軍は適切さを欠いた方針を示した。
ゲーリングは空軍総司令官だけでは飽き足らず国防相の座を狙って策動し、SSのヒムラーやハイドリヒらの協力を得て、1938年に国防相ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将を失脚させた(ブロンベルク罷免事件)。しかし、この事件後、ヒトラーは国防相の職を廃止して国防軍最高司令部を置き、軍の指導権を自らが掌握したため、ゲーリングの国防相の夢は消え去った。
経済における活動[編集]
1936年8月、ヒトラーは四ヵ年計画 (Vierjahresplan) の覚書を書き上げた。1936年9月9日のニュルンベルク党大会での総統告示で「ドイツ軍は四年後には戦闘能力を身につけてなければならない。ドイツ経済は四年後には戦争能力を身につけていなければならない」という四ヵ年計画宣言が行われた。こうしてはじまった四ヵ年計画の全権責任者に、1936年10月、ゲーリングが任じられた。
ゲーリングは、ヒトラーの命を受けてドイツの外国資源への依存を減らし、自給自足経済(アウタルキー)の確立を急いだ。また軍備支出を大幅に増やしていった。結果、国家負債は激増し、国民の生活水準の成長率も半減したが、戦争経済体制の構築は進んだ[105]。この四ヵ年計画において実質的な実権者はゲーリングと親密な関係にあったIG・ファルベンのカール・クラウホ (de:Carl Krauch) であった。計画の役員もIG・ファルベンの社員で占められていた。そのため計画の全投資の三分の二はIG・ファルベンに割り当てられている[106]。
鉄鉱石の不足から四ヵ年計画に反して輸入の拡大を望んでいた既存の鉄鋼資本に対抗するため、ゲーリングは、1937年6月16日に国内鉄鉱石の開発とそれを基盤とする鉄鋼プラントの建設計画を打ち上げた。こうして7月15日にザルツギッターにおいて全額政府引き受けによる資本金500万マルクで「ヘルマン・ゲーリング鉱山・製鉄」を設立させた。合同製鋼 (de:Vereinigte Stahlwerke) など既存の鉄鋼資本も最終的にはゲーリングと妥協していった[107]。
1937年11月から1938年2月にかけてヒャルマール・シャハトに代わって経済相に就任し、経済省を四ヵ年計画の執行機関にかえていった[108]。1938年2月の増資で「ヘルマン・ゲーリング鉱山・製鉄」はIG・ファルベン、合同製鋼に次ぐ大企業となった。1938年7月に同社は「国家工場ヘルマン・ゲーリング」(de:Reichswerke Hermann Göring)に改組され、その下に鉱山・製鉄、兵器・機械、内陸水運の三部門を置く体制へと変更された[107]。
外交における活動[編集]
1938年のオーストリア併合ではヒトラーさえ出し抜いて指導的な役割を演じ、シュシュニック首相を脅迫、軍隊の進駐を決定した。ミュンヘン会談の際には媒介役をつとめたが、戦争のリスクを負ってまでも対外進出に賭けるヒトラーの姿勢について行かれなくなり、徐々にヒトラーとの関係を悪化させた。そのため、この頃から政策決定に対するゲーリングの影響力は次第に薄れ、1939年3月のチェコスロバキア併合の際には完全に政策決定から外されていた[109]。
第二次世界大戦勃発直前には英仏との了解を目指し、旧知のスウェーデン人実業家ビルエル・ダーレルス をロンドンに派遣したが、この工作は実を結ばなかった。
ヒトラーの後継者[編集]
ゲーリングはドイツ国民から広い人気があり、財界との橋渡し役もできるなど強い国内統合効果を持っていた。対外的にもナチ政権成立後から大戦勃発に至るまでは、リッベントロップらと対比され穏健派と見られていた。そのためヒトラーはゲーリングを非常に重視していた。1934年12月13日、ヒトラーは極秘裏に「首相兼総統の後継者に関する法」を定めて、ゲーリングを後継者に指名している。ゲーリングの政策決定力が落ちた後でもこの姿勢は変わらず、1939年9月1日のポーランドへの開戦に際しての国会演説でヒトラーはゲーリングを第一の後継者に指名している[109]。1941年6月29日にも「ヒトラーが任務に堪えられなくなった場合、ゲーリングが総統職を代行する」という総統布告が出されている。
第二次世界大戦[編集]
国家元帥[編集]
1939年9月のポーランド侵攻を機にはじまった第二次世界大戦では空軍総司令官として急降下爆撃機と戦車を関連させた電撃戦の一端を担った。ドイツ空軍は1939年9月の対ポーランド戦、1940年4月のスカンジナビア半島戦、5月の対フランス戦において大成果を上げた。
この功績により1940年7月19日の叙位でゲーリングは空軍元帥よりも上の階級国家元帥に昇進し、また彼の部下の空軍将軍のうちエアハルト・ミルヒ、アルベルト・ケッセルリンク、フーゴ・シュペルレの3人が元帥に叙せられた。さらに1940年8月19日には鉄十字勲章の最高勲章大鉄十字章を授与された。この勲章は第二次大戦においてはゲーリングのみが受章している。
バトルオブブリテン[編集]
ゲーリングは第一次大戦当時の観念から抜け切れず、兵站や長距離の航空機を軽視した。1940年5月末のダンケルク戦では、陸軍の進撃を自らの空軍の面目の為に遅らせ、この戦域での英仏軍の撃滅の機会を逃し、英本土への撤退を許してしまった。続く8月~9月の「バトル・オブ・ブリテン」では、航続距離の短い戦闘機による護衛を十分に受けられなかったうえ、イギリス軍のレーダーによる早期での探知を受けたドイツ空軍爆撃隊は予想外の大損害を被り、イギリス上空の制空権獲得を放棄する羽目となってしまった。
1940年8月下旬、ゲーリングは損害に苦しみながらもこのまま飛行場・航空機工場と船舶・港湾などに対する攻撃をもう2週間も続ければ英国が屈服すると信じており、最後の攻勢のため飴と鞭を使って搭乗員達に刺激を与えようとした。時には搭乗員に攻撃精神が不足していると怒鳴ったかと思えば、最善を尽くす搭乗員へのフランス食やワインが不足していると兵站部を叱りつけた。しかし8月25日、ベルリンが空襲されるとヒトラーは激怒し、ロンドン報復空襲を数倍の規模で行うようゲーリングに命じた。ゲーリングは困惑したが、ロンドン周辺の飛行場を無力化すれば「ロンドン空襲の先行条件ができる」とまずロンドン周辺の軍事施設に対する爆撃を進言した。しかし、ヒトラーは拒否した。「彼は政治的な理由から、また報復の意味で、ロンドン自体の攻撃を主張した」とゲーリング後に述べている[110]。ゲーリングは「オランダ人ならこのやり方で成功したろうが、イギリス人ではダメだ」と考え、「ロンドンを攻撃してもイギリス人を屈服させることはできない」と繰り返し総統に述べたが、ヒトラーの意思は固かった[111]。
ドイツ軍が劣勢に転じた後、爆撃機よりも戦闘機の開発を求める現場の声をゲーリングも理解はしていたが、攻撃的な姿勢を崩したがらないヒトラーは爆撃機開発にこだわった。ゲーリングはヒトラーに直言する事ができず、無駄な爆撃機を作り続ける羽目となった。
独ソ開戦[編集]
ロンドン空襲への方針転換はこれまでより高い損耗率を出すことになり、戦況はより不利になっていった。そんな中ヒトラーがソ連侵攻計画を陸軍参謀本部に考慮させているのを知ったゲーリングは総統が将来的にソ連侵攻を意図していると考え、航空戦苦戦という罪滅ぼしの意味もあって、対英戦終結に向けた自身の計画を練った[112]。それは地中海作戦であり、スペイン・ジブラルタル・モロッコ、トリポリからエジプト、バルカン・トルコ・シリアという3つの攻勢軸を使ってスエズ運河を占領するというもので、この既成事実を突きつければ海外植民地と遮断される英国は和平交渉に応じざるを得なくなると考えた[113]。ゲーリング自身はヒトラーに訴え続け、ヒトラーがこの準備を許可したことは好感触であり、ソ連侵攻前に英国を屈服させる気であると思っていた。2正面作戦の回避、それこそ独ソ不可侵条約の時にヒトラーがゲーリングと国防軍将軍達に述べた理由であった[114]。
1941年早春、ゲーリングはヒトラーから地中海作戦の中止を告げられて呆然とした。ヒトラーの見方によれば、英国は大敗北を喫した1940年でさえ和平提案を拒否したのであり、それはチャーチルがスターリンの参戦を待っているからであると結論付け、地中海戦線だろうがどこで負けてもさらに耐え続けるだろうと述べて地中海作戦に反対した。そもそも最も可能性があると思われたスペインのフランコさえ参戦を控えており、その現実性は低かったが、ゲーリングは遂行可能と信じていた。そしてヒトラーはベルヒテスガーデンで対ソ侵攻を告げた。「それは非常に晴れた日だったことを覚えている…総統は2時間にわたって、なぜ彼がロシアを先制攻撃して、ロシアからの攻撃の機先を制するよう決定したかを私に説明した。私は彼の言葉に耳を傾け少し時間をくれと頼んだ」[114]。その夜、ゲーリングは鎮静剤を飲んで反対意見を具申した。第2戦線の創出はヒトラー自身の信念を裏切るものであると反論すると、ヒトラーは最近ソ連がドイツ軍部に許可した軍需工場視察の報告を指摘して、ソ連が強大になりすぎるのを懸念しており、スターリンの独走ぶりも顕著となりつつあると述べた。そして、ドイツがすぐに手を打たなければ、時期を失ってソ連が最初に攻撃してくるのだと。ヒトラーが「我々はロシアを冬の来る前に壊滅してしまえる」と言うと、ゲーリングはロシア人民は和平交渉には応じないし、ナポレオンのことを考えてほしいと頼んだ。ヒトラーはナポレオンには最強の装甲軍団も空軍もなかったときっぱり答え、「今度こそは、ドイツ空軍に、世界最強の戦力として働いてもらいたいな」と皮肉を込めた[115]。
こうなるとゲーリングはヒトラーの考えを忠実に実行するしかなかった。ソ連侵攻を打明けられたミルヒはゲーリングが総統と同じく賛成していると感じた程だし、予定外のバルカン侵攻における空軍の活躍は彼を再び上機嫌にさせた。ゲーリングはソ連侵攻の偽装工作としてクレタ島占領後にパリにおいて行われた、エースパイロットのアドルフ・ガーランドとヴェルナー・メルダースを含む各戦闘航空団司令達との会議で、クレタ占領は英国本土侵攻への序曲であると演説し、空軍増強と潜水艦による封鎖の末に本土侵攻が行われると語ったのである。それはガーランドをして「まことに信頼するに足るもの」と感じさせるものだったが、ゲーリングはガーランドとメルダースだけを呼び手をこすりながら笑って「全部が嘘なんだ」と嬉しそうに言った。そして、極秘として喫緊のソ連侵攻を告げた。ガーランドによると「メルダースまでも、興奮して、熱烈に支持した」し、ゲーリングはソ連空軍が数だけで質は劣りきっており「ある編隊の編隊長機を撃墜しさえすればいい、そうすれば未熟な他の飛行士達は迷って基地に戻れなくなる」「そうした奴らをクレイ射撃のように撃ち落すことができる」と言ったという[116]。英国戦の行方については、ソ連を倒せば「ロシアの無限といえる戦略資源で強化された状態となっている」ドイツ軍は「全力で西部に向かって進撃する」し、「総統はドイツの背後が、疑いもなく攻撃的で、敵意を抱く一大勢力に脅かされている限り、我がドイツ軍の総力をあげて英国と闘うことはできないのだ」と語っている[117]。ゲーリングにとって避けられないソ連侵攻は空軍の再評価の場となりえる希望でもあり、「ドイツ空軍は新たな勝利をおさめるだろう」と信じた[117]。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦が開始されるとドイツ空軍はソ連空軍を圧倒、ゲーリングは得意げに増大する敵機撃破数を総統へ報告できた[118]。しかし、ゲーリングが嫌うマルティン・ボルマン党官房長との対立によって、ヒトラーはますますゲーリングを公然と小馬鹿にしたり、批判するようになった[119]。ボルマンは几帳面にゲーリングの判断ミスを書き留め[120]、総統に中傷すら行っていた。ゲーリングは会議に顔を出す頻度が次第に減り、ほとんど副官ボーデンシャッツ航空兵大将を出席させた。ヒトラーはゲーリングがいないと「きっとイギリスの飛行機の代わりに、かわいそうな鹿でも射っているのだろうな」などとと言って皆を笑わせた[121]。秋から冬にかけてドイツ軍の攻勢が行き詰まり始めると、ヒトラーとの関係も悪化の一途をたどった。
お粗末なドイツ空軍の装備の全責任を航空機総監ウーデットに押しつけ、彼を進退窮まらせて自殺に追いやってしまうなど、問題の多い情緒的行動から、部下の信頼を早期に失っている。またゲーリングは海軍の航空部隊を空軍の管轄へと強引な線引きを行なわせた為に、空中哨戒機をはじめ海軍独自の航空隊の育成が行えず、艦隊の編成や作戦に重大な支障を生じさせ、例えば、大西洋でのUボートの空中哨戒を困難にさせたり、空母ツェッペリンの就役を困難にした一因を作っている。現在に至るまでドイツ海軍航空隊がないのは実に彼のためであるという評価もある。
スターリングラード以降[編集]
さらに1942年末から1943年、権威の回復を賭けてゲーリングが力を入れて取り組んだスターリングラード攻防戦における無謀な空輸作戦(包囲された部隊への兵站の全てを空輸に頼ろうとした)は失敗し、多数の輸送機と教官クラスのエリートパイロットを失う羽目となった。また1943年8月のハンブルク空襲以降、ドイツ各都市への空爆も本格化しはじめたため、ゲーリングの権威はますます凋落の一途をたどった。ヒトラーも大勢の部下たちが見ている前で公然とゲーリングを叱責や罵倒するようになった。ゲーリングの政治・軍事への影響力は激減した。
日々冷遇されていくゲーリングは公の場にあまり姿を見せなくなり、ドイツ軍占領地から美術品を収集させるなど趣味の世界に没頭していった。あまりに存在感が無くなったことでついには「ゲーリングはもう死亡している」などという噂まで流れる始末となった。空軍指揮権はほとんどミルヒに移行していた。さらに1944年2月にはヒトラーは正式にミルヒを空軍総司令官代理に任じている。戦争後期、ドイツの苦境の中でも航空機増産ができたのはミルヒと軍需大臣アルベルト・シュペーアの功績であった。しかし1944年10月に彼が自動車事故を起こしたのを機に1945年1月にゲーリングはミルヒを解任した。それでも時折、空襲被害の視察に出ると、市民達は皆申し訳なさそうなゲーリングの肩を叩き、歓声を上げた。シュペーアはその現場を見て、未だ市民達がゲーリングを賛美の目で見ていると知ったゲーリングが喜んでおり、市民達が「彼はいい奴だよ。あのデブ君は。本当に心配してくれているんだからね」としゃべりあっていた旨を語っている[122]。ガーランドは「民衆は彼にトマトを投げつけるべきなのだ」と怒っていたが、「それなのに彼らは握手を求めるのだ」と語っている[122]。ゲーリングはその反抗的なアドルフ・ガーランド戦闘機隊総監も解任したが、シュタインホフ大佐やリュッツォー中佐ら飛行団長から弾劾されたため、ガーランドに自由な人選を許し精鋭による戦闘機部隊の結成を認めた[123]。大戦後期には連合国軍の爆撃が激しくなりパイロットの消耗が激しくなる中、ドイツ全土からエリ-ト・パイロットを集めて迎撃し連合国軍のパイロットを悩ませた。
ドイツ本土内に連合国の部隊がなだれ込んできていた1945年4月20日に、ヒトラーは国防軍最高司令部、陸軍総司令部、空軍総司令部の機能をオーバーザルツベルクに移す許可を与えた。オーバーザルツベルクにはヒトラーの山荘ベルクホーフやゲッベルスなどの高官達の別荘が建ち並んでおり、空軍総司令官であるゲーリングも自らの別荘に移った。この時、ゲーリングはベルリンの広大な屋敷「カリンハル」を爆破し、所有していた莫大な美術品はオーバーザルツベルクに移した。
「反逆」[編集]
1945年4月23日、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えオーバーザルツベルクの別荘を訪れる。ゲーリングは同じくオーバーザルツベルクに逃れてきていたナチ党総統事務長フィリップ・ボウラーとともにコラーを迎えた。
コラーがゲーリングにもたらしたヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。コラーは付け加えて「今は貴方が行動すべき時と思います。国家元帥閣下。」とも進言した。しかしこの伝言についてゲーリングは不仲であったナチ党官房長マルティン・ボルマンの工作を疑っていた。
ゲーリングはまずヒトラー本人から国家の指揮権移譲の同意を取り付けたいと思い、オーバーザルツベルグに逃れていた総統官邸官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースを召集して、彼に1941年6月29日にヒトラーが公布したゲーリングを総統の後継者と定めた法律の有効性について尋ねた。ラマースはその効力を否定する別の命令や法律は一切ないので当然に有効であろうという見解を示した。ゲーリングは迷いながらも結局、ベルリンの総統地下壕にいるヒトラーに対して電報を打った。
解任と逮捕[編集]
電報を受け取ったボルマンは、ゲーリングに反逆の意図があるとヒトラーに告げる。ヒトラーは激怒し、ゲーリングの逮捕とナチ党からの除名、そして別荘への監禁を命じた。一方その間もゲーリングはコラーやボウラーとともにアメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマン、連合軍総司令官ドワイト・アイゼンハワー米元帥、イギリス首相ウィンストン・チャーチルに宛てた親書の草稿作りに必死になっていた[124]。
4月23日午後9時頃、ボルマンの電報での命令を受けたベルンハルト・フランク(de:Bernhard Frank)SS中佐率いるベルヒテスガーデンの親衛隊部隊によってゲーリングたちは別荘ごと包囲された。ゲーリングの家族・召使・部下はまとめて監禁された[125][126]。しかし、4月25日にはオーバーザルツベルクが空襲を受け、ゲーリングの別荘やベルクホーフを含む施設が焼失した。ゲーリングたちは山腹の防空壕に隠れた。防空壕でもゲーリングとその家族は親衛隊員により他の人々から隔離され、会話を禁じられた[127]。防空壕を出た後、破壊された自分の別荘を見たゲーリングは、親衛隊部隊の隊長フランクとフォン・ブレドウに自分を銃殺してくれて構わないので家族や召使を釈放するようヒトラーに伝えてほしいと訴えた[127][126]。
フランクとフォン・ブレドウはボルマンから「ベルリンが陥落し総統が亡くなられた場合には4月23日の反逆者は銃殺せよ」との命令を受けたが、二人はヒトラーが死んだとしたら命令を果たす意味がないうえもしかしたらゲーリングが連合国との交渉に大きな役割を果たせるかもしれないと考え命令を果たすべきかどうか迷っていた。とりあえずゲーリングを処刑せずに監禁を続けることにした。
ゲーリングはフランクに「ベルヒテスガーデンで暮らす事はもうできないからオーストリアのマウテルンドルフにある自分所有のヴェルデンシュタイン城へ移ってはどうか」と提案した。フランクはこれを認めた。ゲーリングと家族、召使ら、親衛隊部隊が乗り込んだ自動車の一隊がマウテルンドルフへ向かった[128]。なおその道中にラジオ・ハンブルク放送が「ヘルマン・ゲーリング国家元帥は心臓病の発作に見舞われ、危険な状態となった。それゆえ国家元帥はドイツ空軍総司令官職の辞職を総統に申しでた。総統はこれを認め、リッター・フォン・グライム上級大将を空軍総司令官に任命するとともに、元帥に昇進させると発表した」と報道している[128][129]。
4月30日にヒトラーは自殺した。ヒトラーは遺書の中で再度ゲーリングの解任を言明するとともに後継者はゲーリングではなく海軍総司令官カール・デーニッツと定めた。また「ドイツ空軍の失敗は完全に国家元帥の責任である」としてゲーリングを罵っている[130]。
5月1日にマウテルンドルフの城でラジオ放送によってヒトラーの死を知ったゲーリングはエミーに「ヒトラーは死んだよ。これでもう私は最後まで忠実だったと彼に伝えることはできなくなったのだ。」と述べたという[131][128]。親衛隊による監禁は続けられていたが、まもなく親衛隊員たちはボルマンの命令を果たさずにゲーリングをドイツ空軍部隊に引き渡して彼を解放した[132]。
5月6日にゲーリングはフレンスブルク政府のデーニッツ大統領に対して「ヨードルをアイゼンハワーのところへ派遣するつもりであると聞くが、ヨードルの正式交渉の他に、私が"元帥対元帥"でアイゼンハワーと会談しドイツにとって名誉ある平和を手に入れる交渉をすべきである」などという電報を打った。しかしデーニッツからの返答はなく無視された[129][132][133]。
米軍の捕虜に[編集]
ゲーリングはデーニッツの許可がなくともアイゼンハワーと「元帥対元帥」会談を行うつもりだった。5月7日、ゲーリングはツェル・アム・ゼー近くのフィッシュホルン城へ移り、副官の空軍大佐を米軍の使者に立てた。アイゼンハワー宛に「元帥対元帥」会談を申し込む手紙、また現地の米軍司令官宛てに「ゲシュタポおよびSSから自分を守ってほしい」という嘆願の手紙を書いて、副官に持たせた[129][133]。しかし副官が米軍を見つけるのに時間がかかり、米軍はなかなかフィッシュホルン城へ来なかった。待ちきれなくなったゲーリングは自ら車にのって米軍を捜しに出た。やがて米兵がフィッシュホルン城へ到着したが、行き違いとなった。米兵たちはラートシュタット近くの山道で避難民や混乱した車の交通渋滞に巻き込まれて動けなくなっていたゲーリングの車を発見して彼を拘束した[134][135][136]。
当初の米軍のゲーリングの扱いはほとんどVIP待遇であった。ゲーリングはひとまずフィッシュホルン城へ戻ることを許され、城で米軍准将ロバート・スタックと夕食を共にした[137]。ゲーリングは翌日にはキッツビューヘルの米軍第7司令部へ連行され、米陸軍航空隊司令官カール・スパーツ大将の出迎えを受けた。彼は「空で戦ったよしみだ」と言ってシャンパンをゲーリングにふるまった[138]。夜にはゲーリングのための歓迎パーティーも催された[137][134][138]。これを聞いたアイゼンハワー元帥は激怒し、「通常の捕虜の扱いをせよ」と命令を下し[139][134][140]、以降ゲーリングは厳しい取り扱いを受けるようになった。米第7軍司令部は直ちにゲーリングが身に着けていた様々な勲章や元帥杖、ダイヤの指輪などを全て没収した[137][141]。更にゲーリングをアウクスブルクの捕虜収容所へ移送し、そこのみすぼらしい住居へ押し込んだ[139]。
アイゼンハワーの冷たい態度を知り、ゲーリングはすっかり落胆した。「元帥対元帥」会談など夢のまた夢となった。アウクスブルクでゲーリングへの予備的な尋問が開始されたが、その時の米軍将校の報告書はゲーリングの高い知能、機知、老獪さを強調している[142][141]。
5月21日、ルクセンブルクのモンドルフのパレス・ホテルの一室に監禁され、四カ月ほどここで過ごした[143][144]。ここには間もなくカール・デーニッツ、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、アルベルト・シュペーア、ヴィルヘルム・カイテル、アルベルト・ケッセルリンク、フランツ・フォン・パーペン、ヒャルマル・シャハト、アルフレート・ローゼンベルク、ユリウス・シュトライヒャーなども収容された[145][146]。
一日6時間にも及ぶ尋問、質素な食事、モルヒネを服用できなくなったことなどによりゲーリングの体重は80ポンドも落ちて200ポンド(約91キロ)まで痩せた[147]。ゲーリングをモルヒネ中毒から抜けさせたのはアメリカ軍の精神科医ダグラス・ケリー少佐だった。ケリーによるとゲーリングのモルヒネ中毒は重度の物ではなく、ただ習慣で服用する癖が付いていただけで、痛みは穏やかな鎮静剤で容易に解消できたという[148]。
この間、ロバート・ジャクソンらによってゲーリングたちを裁くための遡及法「ロンドン憲章」が急遽制定された。犯罪の定義、法廷の構成、訴訟手続き、刑罰などがこれにより定められた[149]。
またアメリカはアメリカ軍が占領しているバイエルン州ニュルンベルクで裁判を行うことを提案した。一方ソ連は赤軍が占領しているベルリンでの開廷を提案した。しかしアメリカはイギリスとフランスの賛同を得、三対一でニュルンベルクで裁判を行うことが決定した[150]。
ニュルンベルク裁判[編集]
開廷前[編集]
1945年9月にゲーリングの身柄は、アメリカ軍が管理するニュルンベルク刑務所に移送された[151]。
ゲーリングは起訴第一事項「共同謀議」、起訴第二事項「平和に対する罪」、起訴第三事項「戦争犯罪」、起訴第四事項「人道に対する罪」と全ての起訴事項において起訴された[152][153]。
裁判前、自分の起訴状の写しを読んだゲーリングは「起訴に何か法的根拠があるとは思えない。この裁判では弁護士よりもいい通訳が必要だ。」と述べた[154]。また刑務所付き精神分析官のグスタフ・ギルバート大尉とダグラス・ケリー少佐から起訴状の感想を一言求められたゲーリングは「勝者は常に裁判官であり、敗者は被告人である」と書いている[153][149]。
ゲーリングは、後悔の念をあらわにしたり、勝者の前で卑屈にふるまったり、自分を責めたりすることを嫌い、連合国に公然と抵抗した[155]。
ギルバート大尉は、裁判が始まる前に被告全員に、アメリカのウェクスラー・ベルビュー成人知能検査を行った。これによると。ゲーリングは知能指数138で、カール・デーニッツと並んで全被告人中第3位の知能の高さであった(1位のヒャルマル・シャハトは高齢を考慮して一定数数値を水増ししていたのでこれを除くとアルトゥール・ザイス=インクヴァルトに次ぐ第2位であった)[156]。
ゲーリングは弁護士の人選にこだわりがなく、「私は弁護士連中と付き合いが全くないんだ。誰か見つけてくれたまえ」と述べていた。ゲーリングにはオットー・シュターマー博士が弁護士に付けられることとなった[149]。
検察側論告[編集]
1945年11月20日からニュルンベルク裁判が開廷した。裁判での被告人の席次は決められており、ゲーリングはヒトラーの後継者となったデーニッツを差し置いて一番の主要被告が座る前列左端の席をあてがわれた[157]。
11月20日には起訴状の読み上げのみ行われ、11月21日に起訴状の意味において自分が有罪であるか無罪であるかを答弁する罪状認否が行われた。ゲーリングは「私が有罪であるか無罪であるか述べる前に一言申し上げておきたい事があります。」と述べて早速演説を開始しようとしたが、裁判長に「有罪か無罪であるかだけで答えて下さい」と言われて遮られた。結局、ゲーリングは「起訴状の意味においては無罪を申し立てます」と述べるにとどめた。他の被告の罪状認否が終わった後、ゲーリングが再びマイクの前に出ようとしたが、裁判長に「貴方は今法廷で発言することはできません」と再び遮られた[158][159]。
その後は検察側論告が4か月にわたって行われた。この期間はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の検察官が証拠文書を読み上げたり、告発したり、映画を見せたり、証人を喚問したりする期間で被告人は法廷でしゃべることはできなかった[160][161]。
検察はゲーリングについて、ドイツの侵略戦争の準備をした中心人物であること、占領地からの搾取に関係した人物であること、強制収容所を設置して囚人を奴隷労働力として使用した人物であること、ユダヤ人を迫害し、その財産を押収した人物であること、そしてラインハルト・ハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」を命じてヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅を図ろうとした人物であることを主張した[162]。
11月29日にアメリカ検察団が上映したマウトハウゼン強制収容所の記録映画をゲーリングはあくびしながら見ていた[163]。上映が終わった後、ゲーリングは不機嫌そうになり、「オーストリアにはみんな楽しい思い出を持っていたのに、あのつまらん映画が全てを台無しにしたな」と吐き捨てた[164]。
一方で12月11日にアメリカ検察団が上映したローラント・フライスラーの人民裁判所でのヒトラー暗殺未遂事件に関与した将軍達の裁判の記録映画はかなり応えたらしく、ゲーリングは「あの忌まわしい強制収容所の映画より、もっと私を傷つけたのがローラント・フライスラーの大口だ。あいつが被告人に罵声を浴びせるのを見て、いたたまれなくなったよ。あの被告たちはまだ有罪が立証されていないドイツ軍の将軍だったのに。私は恥ずかしさのあまり、死にたいと思ったほどだよ」と語っている[165]。
ゲーリングは他の被告人に対して強い影響力を発揮した。被告たちは自分の第三帝国での地位や個人的な性向に応じていくつかのグループを作るようになっていたが(狂信的反ユダヤ主義者ユリウス・シュトライヒャーだけはどこのグループも爪弾きにされていた)、ヒトラーに次ぐナンバー2だったゲーリングは全てのグループから被告全体の指導者と認められており、彼はあちこちのグループに顔をだしては様々なアドバイスを与え、ナチスとヒトラーを擁護する被告人の統一戦線の構築・維持を図ろうとした[166]。
しかし被告の一人アルベルト・シュペーアがこれに反感を持った。シュペーアはドイツとナチス、ヒトラーと自らの罪を認めようと決意していた。1946年1月3日にはシュペーアの弁護士は証人として召喚されたSD国内諜報局長オットー・オーレンドルフ親衛隊少将への質問の中で、シュペーアがヒトラー暗殺計画を企んでいたことを暴露した[167][168]。ゲーリングはこれに激怒し、休廷後にすぐにシュペーアの方へ駆け寄り、「なんであんな反逆的な事を暴露した!?我々の統一戦線の足並みを乱すな!」と突っかかった。しかしシュペーアはゲーリングを冷たく突き放し、ゲーリングは警備兵に連れ戻された[167][169]。
以降シュペーアは完全にゲーリング(およびヒトラーとナチス)と決別した。さらにシュペーアは心理分析官ギルバート大尉に対して、ゲーリングを他の被告と一緒に食事させると他の被告たちを脅しつけて従わせてしまうことを指摘し、ゲーリングを隔離することを提案した。ギルバートは所長バートン・アンドラス大佐にこれを報告し、アンドラスの命令で2月18日にゲーリングは一人で食事をさせられることとなった[170][171]。
被告側弁論[編集]
弁護側尋問[編集]
1946年3月8日からゲーリングの弁護が始まり、3月13日にゲーリングがはじめて証言台に立つこととなった。ニュルンベルク裁判の関心もこの日から絶頂に達した[172]。
まず弁護士シュターマーから質問を受ける形式で始まった。初めは緊張して手や声が震えていたゲーリングだったが、10分ほどで調子がでてきて、すらすらと雄弁に語りだした。彼はナチ党の歴史とヒトラーの人物像を、共に生き、共に経験した立場から、細かく説明していった。ゲーリングの20分に及ぶ演説はその場の人々を感心させた。被告人達が退廷する際にデーニッツはシュペーアに「見たかね。判事たちまで感心してただろう」と呟いた。ゲーリングの宿敵のシュペーアさえも「いい演説だった」と認めるほどだった[173][174]。雑誌『ザ・ニューヨーカー』はゲーリングを「優れた頭脳の持ち主の少ない現代における、卓越した偉才」「良心を持たない偉才」と評した[175]。
3月14日にゲーリングは「私は今でも指導者原理を積極的かつ意識的に支持している。各国の政治構造にはそれぞれ特有の起源、異なった発展があるということを忘れてはならない。ある国ではうまくいく政治制度でも、他の国ではうまくいかない事もあるに違いない。ドイツは数世紀にわたって君主制であり、指導者原理でやってきた。だから私は -特に全ての力を結集しなければならない困難な状況では- 指導者原理がドイツの唯一の道であると確信している。」「指導者原理はナチ党特有の物ではなく、カトリック教会やソ連政府が基盤においている物と同じである」と述べて指導者原理を正当化する演説を行った[176][174][172]。また同日、反ユダヤ主義の法律ニュルンベルク法を国会議長として布告したことについて「これらの法律を発令し、施行するよう、総統から命令を受けた事についての全責任は私が取る。それには私の署名があり、私が発令したのであり、私に責任がある。総統の命令を言い訳として逃げ隠れするつもりはない」と述べ、自らに全面的責任がある事を認めた[173][177]。一方でこうした反ユダヤ主義法は、当時のユダヤ人の財力・影響力・権力がドイツ社会の中で強力すぎた故に制定された物であると主張した[178][172]。またゲシュタポについては少なくとも自分の指揮下にあった時代には行き過ぎた行為は処罰を行っていたと主張した[176]。
3月15日にはオランダ侵攻の際のドイツ空軍によるロッテルダム空爆について命じたものではなく誤爆であった事を主張した。また占領地からの美術品収集について「私は戦争が終わった後、あるいは私が適当だと判断した時期に美術館を設立して、集めた美術品を全て飾り、ドイツ国民に贈呈するつもりでした」などと語った。さらに戦争に関する条約の交戦規定の遵守の上でドイツが連合国と異なる行動を取ったかについてこう語った。「ジュネーヴ条約やハーグ陸戦条約と言った条約は、近代戦争によって踏みにじられていました。私はここで我々にとって最大かつ最強で、最も重要な敵対者の言葉を引きたいと思います。イギリスのウィンストン・チャーチル首相はこう言いました。『生死をかけた戦いでは結局のところ、法律は存在しない』」。これを聞いたイギリス人の裁判長ジェフリー卿は休廷を命じた。その後、裁判所はイギリス政府にそのような演説があるのかどうか調査を求めた。イギリス外務省は、チャーチルが海軍大臣の頃の1940年に行った「死闘において、侵略者があらゆる人間的な感情を踏みにじる一方で、抵抗する側がボロボロになった条約にいつまでも縛られていたのでは、正義というものが無くなってしまう」という演説が最も近い物であると回答した[179]。
弁護側の尋問は終わり、週末を挟んでゲーリングと検察の直接対決となる検察側反対尋問が行われることとなった[180]。
検察側反対尋問[編集]
3月18日午前には他の被告の弁護士たちが、それぞれの依頼人に罪がない事を明らかにするため、ゲーリングに対する質問を行った。ゲーリングは堂々たる態度でほとんどの事柄について自分の責任を認め、気軽に他の被告人たちに恩恵を施しているかのようだった[181]。
3月18日午後から3月22日にかけて検察側反対尋問がはじまった[182][183]。
まずアメリカ首席検事ロバート・ジャクソンが質問に立った。ジャクソンはヴァイマル共和政時代の民主主義政体の破壊についてゲーリングに質問したが、ゲーリングは民主主義はドイツにあっておらず不要であること、指導者原理がドイツにあった政体である事を再び力説した。ジャクソンはつづいてソ連侵攻について質問したが、これもゲーリングは自分がヒトラーにソ連侵攻に反対の意を示したことを説得力ある議論で展開した[184]。
ジャクソンは、ゲーリングが「ラインラントの解放」計画によってヴェルサイユ条約を破ったと主張して質問をおこなったが、ゲーリングから「その文書は"ラインラント"ではなく"ライン川"に関する物であり、また"解放"について述べた物ではなく、戦時体制下の動員の際に航行の障害となる物を川から"除去"することについて書かれた物である」と訂正されてしまった。しかしジャクソンはなおもこれがラインラント再武装計画の一部だと主張し、「これを外国に隠していたのは、侵略的な性質の物だからではないか」と追及したが、ゲーリングは「アメリカ合衆国が動員準備を公表したという記憶がありませんが」とピシャリと言い返した。ジャクソンはこれに動揺して取り乱してしまった[185]。
しかしその翌日にはジャクソンは落ち着きを取り戻してユダヤ人迫害と占領地からの美術品・食糧・資源などの略奪の追及でゲーリングを動揺させる効果的な質問をした[186]。もっともゲーリングは、「ユダヤ人問題の最終的解決」のハイドリヒへの命令書について、それは「全面的解決」と理解すべきでユダヤ人の絶滅ではなく、ユダヤ人を東ヨーロッパへ移住させることを意味していると主張して、ユダヤ人絶滅政策の存在と関与を否定した[187]。
更にその後、ジャクソンはワルシャワ空襲の際にアメリカ大使の邸宅が爆撃された証拠としてドイツ空軍が撮影したという写真を持ちだしたが、一次大戦で偵察機に乗って写真を取っていたことのあるゲーリングから「取られた角度からしてこれらの写真は航空機からではなく、塔のような場所から撮影されたもののようです」と見抜かれてしまった。ジャクソンはその後、連合軍パイロットの処刑問題の質問に移ったが、これも単調で精彩を欠いた。その後、さほど重要でもない命令書のゲーリングの署名の真偽を巡って応酬があった後、ジャクソンの質問は終わった[188]。
全体的に言ってジャクソンには反対尋問の法廷テクニックが欠けていた。ゲーリングに長々と反論する機会を与えてしまった[189]。ゲーリングは英語を理解できたので、ドイツ語に通訳されるまでの時間を利用して答えを慎重に考えることができたのである[190]。またジャクソンはドイツの歴史をよく勉強して来ていたが、細かい事実関係の知識は不足しており、ゲーリングにしばしば訂正されていた[189]。ジャクソンには証人を決定的に追い詰めることはできなかった[190]。
3月20日からイギリス首席検事デーヴィット・マクスウェル=ファイフ卿(en)による反対尋問が行われた。彼はイギリスで最も有能といわれる反対尋問の名手だった[191]。ゲーリングに最も効果的な打撃を与えた検察官は彼だった。ファイフは通訳が追いつかなくなり、しばしば裁判長から注意されるほどの矢継ぎ早の質問で回答を考える時間を与えない反対尋問を行った[192]。これは効果的だった。ゲーリングを有利にするために召喚されたはずの弁護側証人ダーレルスはファイフの反対尋問でしどろもどろになり、「和平交渉に奔走していた際にゲーリングは二枚舌を使っていた」ことや「総統官邸にイギリスとの接触状況を知らせた時、ヒトラーはまるでキチガイのようで、ゲーリングの方は麻薬の幻覚症状に似た興奮状態だった」ことなどを証言した[193]。ファイフはゲーリングが和平に奔走していたのは平和のためではないという印象を法廷に持たせた[194]。ゲーリングはダーレルスが抱いた印象は全部主観的な物にすぎないと主張してこれを否定した[193]。
またファイフはシュレージエン・ザガンにあったドイツ空軍の捕虜収容所から1944年3月14日にイギリス空軍捕虜76名が脱走し、その後捕まった50名がゲシュタポに引き渡されて銃殺された事件(この事件はアメリカ映画『大脱走』でよく知られている)で質問し、ゲーリングに効果的な打撃を与えた。続いてユダヤ人虐殺に関する質問でゲーリングの証人としての信頼性を傷つけ、致命的な打撃を与えた[195]。
ゲーリングの答弁が空々しく法廷に響き渡ったのを確かめたファイフは「どうもありがとう」と述べて、ここで質問を切り上げた[196]。
その後、ソ連の首席検事ローマン・ルデンコ中将(ru)の反対尋問を受けた。ルデンコの質問は滅茶苦茶だったのでゲーリングには楽な相手だった。「ユダヤ人虐殺について知ることが貴方の義務ではないのか?」と聞いたルデンコに対して「どういうわけでそれが私の義務なのか。」と撥ね退けた。さらに「数百万人のドイツ人が行われた犯罪を知っていた。なのに貴方は何も知らないのか。」と聞いたルデンコに対して「数百万人のドイツ人が知っているわけがない。それは、実証されていない申し立てだ。」と一蹴した[197]。最後にフランス首席検事オーギュスト・シャンペティエ・ド・リーブ検事(fr)が質問に立ったが、リーブも効果的な質問はできなかった[198][196]。こうして検察側反対尋問は終了した[196]。
最終陳述[編集]
1946年8月31日、審理を完了する前に被告人は最終陳述を行う事が許可された[199]。ゲーリングは二つの特別声明を読み上げた。一つは虐殺に関する物、もう一つは戦争に関する物であった[200][201][202][203]。
私はいかなる時にも、人殺しを命じた事はないし、残虐行為を指示したり、それを容赦したこともありませんでした。私がそれを知っており、かつ止める力があるときには、決して容赦しなかったのです。私がユダヤ人を殺せとハイドリヒに命じたなどという主張は、一切の証拠がありません。
– 虐殺に関する陳述
私は戦争を望んでもいませんでしたし、それを始めもしませんでした。外交交渉によって戦争を阻止する為に全力を尽くしました。しかし、いったん戦いの口火が切られた後には、勝利のために全力を尽くしました。地球上の三大国が、他の国々と一緒に、私達に対して戦いを挑み、結局、私達は、圧倒的な敵の優位に屈しただけなのです。私は、私が行なったことで被告席に立っていますが、戦争手段によって、他国民を服従させようとか、彼らを殺害しようとか、彼らを略奪しようとか、彼らを奴隷としようとか、虐殺や犯罪を犯そうと願って、行動したのではないと断言します。私を導いてきた唯一の動機は、我がドイツ国民に対する真摯な愛情であり、その幸福と自由を願う気持ちでした。私はここに、全能の神とドイツ国民を証人として誓うものです。
– 戦争に関する陳述
判決[編集]
1946年9月1日から被告の妻エミー・ゲーリングは毎日夫を訪れる事を許可された。ゲーリングも妻と娘エッダと面会した。エッダの手を引いてエミーが入って来る姿を見た時、ゲーリングは涙を流した。だがエッダが「お父さんは、いつお家に帰るの?そうしたらお風呂の中で勲章をいっぱい付けて見せてくれる?だってみんなそう言ってるわ。私、勲章に石鹸の泡が付いているのなんか見た事がないんですもの。くすぐったいんじゃない?」と言葉をかけると、ゲーリングは涙を流しながらもにやっと笑ってみせた[204]。
1946年9月30日に判決が言い渡された。判決はまず午前に被告人全員そろう中、一人ずつ判決文が読み上げられ、午後に個別に量刑判決が言い渡された。ゲーリングの判決文は裁判長ジェフリー・ローレンス卿(en)により読み上げられた。以下の通りであった[205][206][207]。
ゲーリングは判決文を無表情で聞いていた[206]。全員の判決文が読み上げられた後、ゲーリングたち被告人は一度独房に戻された。そして午後に個別の量刑判決を受けるため一人ずつ法廷へ連れて行かれた。ゲーリングは最初に法廷に招集された。ローレンス裁判長が「ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング」と名前を読み上げた時、ゲーリングがヘッドフォンが作動していないことをジェスチャーで示したので技官がそれを直した後に仕切り直して量刑判決文が読み上げられた[208]。「ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング。有罪と認められた訴因に基づき、国際軍事法廷は、被告を絞首刑に処する」。判決を聞いたゲーリングはゆっくりヘッドフォンを外すと机の上に落とし、一言も発せずに振り向いて法廷を出て行った[208][207]。判決を聞いた被告人と話をするのはギルバート大尉の任務だった。ギルバートによると判決を聞いて独房に戻ったゲーリングの次のような様子であったという。「平静を装っていたが、その手は震えていた。彼の目は潤んでおり、感情の発露を抑えようと必死になり、喘いでいた。彼は不確かな声でしばらく一人にしてくれ、と頼んだ。」[208][207]。
自殺[編集]
シュターマー弁護士はゲーリングに減刑嘆願書を書くよう求めたが、ゲーリングは拒否した。代わりに判決の翌日の10月1日に絞首刑ではなく銃殺刑による処刑にしてほしい旨の嘆願書を書いた。彼はギルバートに「私は軍人だ。私は一生を軍人として過ごし、別の軍人の弾丸によって倒される事を覚悟していた。だから、敵の銃殺隊の手で私を処刑してくれても構わないじゃないか。決して無理な願いではないと思うのだが」と述べている[208]。しかし要請は却下された。
1946年10月7日に妻エミーと最後の面会をした。ゲーリングはまずエッダに刑のことを伝えたか聞いた。エミーは頷いた。ゲーリングは「エッダの人生が辛いものでない事を祈りたいな。もしも私がお前を保護できさえすれば、死も私にとっては救いになるのだが。お前は私に慈悲を願い出てほしいかね?」と聞いた。エミーは首を振り、「いいえ。ヘルマン。貴方はこのニュルンベルクで貴方の同僚とドイツのためにできる全ての事をやった。私はずっと貴方がドイツのために戦って倒れたのだと思い続けます。」と答えた。ゲーリングは「有難いことを言ってくれたな」と答えた。そして「君は固く信じていい。奴らは私を吊るす事は出来ない」と述べた[209][210][211]。
執行直前の1946年10月15日午後9時30分、ゲーリングたちは就寝についた。午後10時44分頃にゲーリングが拳を握ったまま顔の方へもっていき、目を覆うようなしぐさをした。その3分後、ゲーリングが息をつまらせるような音を立て始めた。ゲーリングの独房を監視していた米軍上等兵は上官の伍長を大声で呼び、ゲーリングの異変を伝えた。医者が駆けつけた時にはゲーリングはもう息を引き取っていた。青酸カリのカプセルを飲み込んでの自殺だった。毛布をめくるとゲーリングの腹部には遺書の入った封筒があった[212]。連合国管理委員会と収容所所長アンドラス大佐と妻エミーとゲレック牧師に宛てた四通の遺書であった[213]。
ゲレック牧師への手紙は短かった。ゲレックは刑務所の囚人たちのために祈りをささげに来ていた牧師だが、自殺することで彼を裏切ることになるので許しを請う内容の手紙だった。「政治的な理由から、こうせざるを得なかったのです」と書いている[214]。
駆けつけたアンドラス大佐はゲーリングの遺体を見ると連合国委員会にすぐさま通報した。それによって米英仏ソの委員がやってきた。ソ連の委員はゲーリングの遺体の顔に突然激しい平手打ちをした。他の国の委員が思わず「何をする!?」と叫んだ。ソ連委員は「死んだふりしてんじゃないかと思ってね。彼は死んでるな」と言った[215]。4国の委員は対策を話し合った。自殺を隠蔽して死体を絞首台にかける案も検討されたが、それは中止された。すでにかなりの数の人間がゲーリングの自殺を知っていたので、外部に漏れる危険が高く、そうなった場合、ニュルンベルク裁判の信憑性が疑われるためだった[216]。4国の委員は早急にゲーリングの自殺の調査委員会を設けるとともに、他の死刑囚の刑執行は予定通りに行うということで合意した[216]。アンドラス大佐がマスコミにゲーリングの自殺と他の死刑囚の予定通りの刑執行を発表した[217]。後に調査委員会は青酸カリの入手ルートについてゲーリングの遺書に書かれた内容が真実であろうという結論を下した[218]。
連合国にとってゲーリングの自殺は大打撃であった。その日の各国の新聞の一面の見出しが「正義の勝利」ではなく、「ゲーリング、連合国に一杯食わせる」になってしまったためである。ドイツでもゲーリングの自殺が高く評価されていると当時の『ニューヨーク・タイムズ』が報道している[219]。
ゲーリングが青酸カリをどこから手に入れたかは長い間謎とされてきたが、2005年2月7日、当時19歳の看守だった元アメリカ陸軍兵士が、「毒物を渡したのは自分だ」と『ロサンゼルス・タイムズ』に名乗り出た。証言によると「街角で出会ったドイツ人女性から2人のドイツ人男性に引き合わされて「ゲーリングは病気で薬が必要」と説明を受け、カプセルを忍ばせた万年筆を渡され、これを薬と信じてゲーリングに渡した」という。元兵士は懲罰を恐れて長期間黙っていた。
自殺したゲーリングと死刑に処された10人、あわせて計11人の遺体はアメリカ軍のカメラマンによって撮影された(正面、左側、右側、全裸の計4枚)[220]。撮影後、11人とも木箱に入れられ、アメリカ軍の軍用トラックでミュンヘンへ運ばれ、そこで火葬された。遺灰はイザール川の支流コンヴェンツ川に流された[221][222]。「人は誰でも死ななければならない。だが殉教者として死ぬということは不死になるということだ。諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石の棺に納めるだろう。」と生前語っていたゲーリングだが[223]、そうした聖堂を作られることを恐れての処置であった[224]。
ゲーリングが、判決の直前の面会で娘エッダの姿を見て涙を流したという話を聞いた重光葵は、彼が死亡したとの一報を受けて、「男泣く 淋しき秋や ゲーリング」という句を詠んだ。
人物像[編集]
性格[編集]
第一次世界大戦での英雄であり、野心にも富んでいたが、政治的能力には欠けていたと言われる。たとえばヨーゼフ・ゲッベルスはその日記で、ゲーリングの事を「無能だ」と徹底的に非難していた。ヒトラー政権でも彼は徐々に浮き上がり、政治面のみならず軍事面でも影響力は徐々に弱くなっていった。
また、彼はモルヒネ中毒者であり、戦時中にかけて症状が悪化していった。シュペーアは挙動不審でかなり傲慢な性格であったと著書に残している。また、日本外相松岡洋右が彼の屋敷を訪れた際、通訳パウル=オットー・シュミット(de:Paul-Otto Schmidt)に「海外では彼は狂人だと言われているのをご存じか?」とささやいている。
しかし、ニュルンベルク裁判時には、モルヒネ中毒を克服し、それまでのゲーリングとは別人であるように堂々と振舞い、死刑宣告を受けても微動だにしないほど落ち着き払っていたという。シュペーアは「元帥の時にこの精神力があれば」と語り、支持者達は彼を「太った鋼鉄」と賞賛した。
貴族趣味・華美な生活[編集]
貧しい青年時代を送ったヒトラーとは対照的に、裕福な育ちを反映して貴族的で豪華な生活を好んだ。派手好きな性向は時に幼児的なほど大胆で単純なものであったが、ドイツ国民にはしばしば「憎めない奴」という一種の好印象さえ与えた。亡き妻カリンを偲んで建てたベルリン郊外の豪邸「カリンハル」はサウナ、映画館、トレーニングジム、迎賓ホールなどを備えた宮殿のような館だった。
ペットのライオン「ツェーザー」や巨大鉄道模型、特注のメルセデス・ベンツやホルヒのオープンカー、銀の装飾が施されたルガーP08もまたゲーリングの派手好きな性向をさらけだすおもちゃのひとつだった。
彼は貴族的な趣味として狩猟も好んだ。服飾に対する執着も非常に強く、本人がデザインしたと言われる白い軍服を常に着用していたことをはじめ、何種類もの制服や前近代的なほど華美な服装は、しばしば周囲の物笑いの種となった。ゲーリング自身は「私はルネサンスの人間なのだ」と語っている。美食家であったためにまるまると太っており、減量に取り組んだこともあったが失敗している。
1935年4月10日のエミーとの結婚式は国を挙げた盛大なもので、3万の空軍将兵と最新鋭の戦闘機隊を動員して一大スペクタクルを演出し、私事では質素なヒトラーに代わって国民の虚栄心を満足させた。
戦時中も華美な生活は止まず、権力の中枢から排除されるとその分一層奢侈への嗜好を強めていった。ドイツ中から「退廃芸術展」のために押収された近代美術作品の中から、『医師ガシェの肖像』をはじめとしてゴッホ、セザンヌ、ムンクらの作品を取り置きさせて自分用に持ち去り、パリに出かけては親衛隊がユダヤ人から没収した美術品をかき集め、「国家社会主義の使命」として最良の美術工芸品の私物化に励んだ。中にはいわゆる退廃芸術とされる作品もあったが、そのような美術品も密かにムッソリーニと交換したりしている。また、オランダでは画商ハン・ファン・メーヘレンからフェルメールらの17世紀絵画を大量に購入したが、実はそれらはメーヘレン自身が描いた贋作であった。戦後、メーヘレンはこの件が元でオランダ当局から国家反逆罪で逮捕・起訴されたが、彼が売った一連の絵が贋作と証明されたために詐欺罪の禁固1年のみですんだ。
実直な女性関係[編集]
ゲーリングの生活は退廃的、享楽的な色彩で彩られているが、女性関係に関しては実直で夫人以外の女性と関係を持つことはなかった。ゲッベルスをはじめとして女性スキャンダルが多いナチス幹部のなかでは珍しいが、これはゲーリングの一種の騎士道趣味によるものとも言われる。
ゲッベルスとの女性に対する接し方の違いが如実に現れているのは映画監督のレニ・リーフェンシュタールをめぐる話と思われる。記録映画『オリンピア』の撮影をゲッベルスがことごとく妨害して彼女を泣かせたのに対し、ゲーリングは泣いている彼女を慰めた。
渾名[編集]
家族[編集]
前妻カリン[編集]
ゲーリングの最初の妻カリン・ゲーリングは、スウェーデン陸軍大佐カール・フォン・フォック男爵の四女であり、スウェーデン陸軍大尉ニルス・フォン・カンツォウ男爵と結婚して、彼との間にトーマスという息子を儲けたが、1920年2月に当時スウェーデンで民間飛行士をしていたゲーリングと出会い、不倫するようになった。やがてカリンはニルスと離婚して、1923年2月にミュンヘンでゲーリングと再婚した。
1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後、カリンは腰に銃弾を受けて負傷した夫ゲーリングとともにオーストリアのインスブルックへ逃れた。カリンは病院で付きっきりで夫ヘルマンの看病をした。その後、ゲーリングとカリンはスウェーデンへ戻り、カリンの実家フォン・フォック家に頼ることになった。フォン・フォック家のお金で施設や精神病院へ入ったゲーリングをカリンは支え、モルヒネ依存を抜け出させようとした。
ヒンデンブルク大統領の恩赦があったのちの1928年1月にベルリンへ戻り、ナチ党での活動を再開したゲーリングは5月にはナチ党の国会議員に当選した。カリンは不治の心臓病でありこの頃にはだいぶ危険な状態になっていたが、彼女は最期の力をふりしぼってヘルマンの社交界での活動に尽力した。1931年10月17日、心臓病で死去した[226]。
ゲーリングにとって彼女は死後も崇拝の対象であり続けた。自らの豪華な別荘に「カリンハル」と名付け、所有の二隻の豪華なヨットに「カリン1号」「カリン2号」と名付けている。ベルリンのカイザーダムの自邸にはカリンの個人的な記念品で埋め尽くされた部屋があり、ゲーリング以外入ることを禁止されていた。エミーとの再婚後もエミーとの関係には常にカリンが影響していたといえる。ゲーリングの奇抜な私服も多くはカリンのデザインであったという。
後妻エミー[編集]
ゲーリングの後妻エマ・ゲーリング(愛称エミー)は、ワイマール州立劇場の女優だった。1932年にゲーリングと初めて知りあった。エミーはゲーリングの前妻カリンへの愛情の深さに感銘を受け、ゲーリングもカリンを気にしてくれるエミーに好感を持ち、彼女にカリンの写真を送るなどしている。これをきっかけに二人は付き合うようになった。エミーはゲーリングがカリンを通じて自分を愛していることを知っており、決して前妻カリンと争うことはしなかった。このことはゲーリングに好感を持たせた。
1935年2月に二人は婚約した。4月10日に結婚式が催された。3万人の空軍軍人が動員された華々しい物となった。結婚後、エミーはゲーリングの希望により劇場の女優の仕事を辞めた。二人は結婚後、オーバーザルツベルクの自邸で暮らした。1938年6月に一人娘エッダを儲けた。ヒトラーに夫人がいなかったため、エミーが第三帝国の「ファーストレディー」の役割を果たすこととなり、ヒトラーの公務の軽減にも功績を残した。エミーは、ブルガリア王ボリス3世、ハンガリー王国摂政ホルティ、ギリシア王ゲオルギオス2世、イギリスのウィンザー公、日本の松岡洋右外務大臣、山下奉文将軍、チャールズ・リンドバーグなどを「カリンハル」に迎えている。
ドイツ敗戦後に夫ゲーリングが逮捕され、1945年10月25日にエミーも逮捕された。1946年2月に釈放された後、ニュルンベルク軍事法廷に夫との面会許可を申請し続けたが、なかなか許可が下りず、処刑前の1946年10月7日に30分間の来訪が許された。エミーは「あなたはここニュルンベルクであなたの同僚とドイツのためにできることすべてをやった…。私はずっとあなたがドイツのために戦い倒れたのだという思いを担い続けるでしょう…。」と述べた。これに対してゲーリングは「キミは固く信じていい。私は決して彼らには吊るされない。」と述べた。この時エミーはその意味に気付かなかったが、ヘルマンはすでに毒薬を手に入れており自殺を決意していたのだった。
エミーは、1947年5月29日に再び逮捕され、1948年6月に非ナチ化法廷にかけられ、有罪判決を受けた。釈放後、エミーはエッダとともにミュンヘンで暮らし、1967年には回顧録『我が夫の傍らで』を執筆し、この中で夫ヘルマンを弁護した。エミーは1973年6月10日にミュンヘンにおいて死去した[227]。
娘エッダ[編集]
エッダ・ゲーリングは、1938年6月2日、ゲーリングが45歳、エミーが44歳の時に生まれた娘である。ゲーリングにとって初めてにして唯一の子供だった。ゲーリングが尊敬するイタリア統領ムッソリーニの娘エッダにちなんで名付けられたという。生誕とともに世界中から62万8000通の祝電がゲーリングの下に届いた。総統アドルフ・ヒトラーが代父となった。ゲーリングはミュンヘン一揆の際に腰に受けた銃弾で精巣がひどく傷ついたため、生殖能力がないと噂されていた。カリンとの間に子供ができなかったことからゲーリング自身もその可能性を心配していた。そのためエッダが生まれた際にはゲーリングはとても喜んだが、市民の間には悪質なジョークも流れた。エッダはゲーリングの子ではなく、実はゲーリングの副官の子であり、エッダ (EDDA) の名前の由来は「副官に永遠の感謝 (Ewiger Dank Dem Adjutanten)」である、といったジョークである。芸人ヴェルナー・フィンクは「赤ん坊の本当の名前はハムレットであるに違いない。」「彼の子でいいのか、いけないのか (Sein oder nicht sein)」(「to be or not to be(生きるべきか死ぬべきか)」のドイツ語訳。ドイツ語のseinには「彼の」という意味があり、それをかけている)というジョークを述べた。これにゲーリングは怒り心頭し、フィンクを強制収容所へ送らせている。しかし赤ん坊は育てば育つほどゲーリングにそっくりになり、やがてジョークの面白みが消えて、この件はほとんど噂されなくなった。
戦後、エッダは母とともにミュンヘンで暮らし、医学技術助手となった。しかしゲーリングの娘であるエッダは結婚ができず、仕事と母親の世話にいそしむこととなった[227]。
キャリア[編集]
階級[編集]
軍階級
- 1911年5月13日、士官候補生 (Fähnrich) [11]
- 1914年1月20日、少尉 (Leutnant) [11][228]
- 1916年8月18日、中尉 (Oberleutnant) [11][228]
- 1920年6月8日、名誉階級大尉 (Charakter als Hauptmann) [11][228]
- 1933年8月30日、名誉階級歩兵大将 (Charakter als General der Infanterie) [# 6][11]
- 1935年5月21日、空軍大将 (General der Flieger) [# 7] [11]
- 1936年4月20日、上級大将 (Generaloberst) [11][228]
- 1938年2月4日、元帥 (Generalfeldmarschall) [11][228]
- 1940年7月19日、大ドイツ国国家元帥 (Reichsmarschall des Grossdeutschen Reichs) [11][228]
警察階級
ナチ党階級
- 1923年3月1日、SA最高指導者 (Oberste SA-Führer) [11]
- 1931年12月18日、SA中将 (SA-Gruppenführer) [11][228]、NSFK中将 (NSFK-Gruppenführer) [11]
- 1933年1月1日、SA大将 (SA-Obergruppenführer) [11][228]
受章歴[編集]
ドイツ勲章
- 鉄十字勲章
- ツェーリンク獅子勲章 (de:Orden vom Zähringer Löwen)(バーデン大公国)
- ホーエンツォレルン王家勲章
- 軍事カール・フリードリヒ功労勲章 (de:Militär-Karl-Friedrich-Verdienstorden)(バーデン大公国)
- プール・ル・メリット勲章戦功章(1918年6月2日)[228][34]
- 戦傷章
- プロイセン王国パイロット兼観測員バッジ (Kgl.Preuss.Flugzeugführer- und Beobachterabzeichen)(1914年11月15日)[228][34]
- プロイセン王国パイロットバッジ (Kgl.Preuss.Flugzeugführerabzeichen)(1915年10月12日)[228][34]
- パイロット兼観測員バッジ (de:Flugzeugführer- und Beobachterabzeichen)
- パイロットバッジ (de:Flugzeugführerabzeichen)
- ダイヤモンド章[228]
- 名誉十字章
- 前線戦士章(1934年)[34]
- 勤続章 (de:Dienstauszeichnung)
- Uボート戦争バッジ (U-Boot-Kriegsabzeichen)
- ダイヤモンド章[228]
- 黄金ナチ党員バッジ(1933年12月1日)[228][34]
- 1923年11月9日記念メダル(血盟勲章)(1933年11月9日)[228][34]
- ダンツィヒ十字章
- 航空研究学校ヘルマン・ゲーリング記念勲章 (Hermann-Göring-Denkmünze der Deutschen Akademie der Luftfahrtforschung)(1938年1月21日)[34]
外国勲章
- 1915年版戦争メダル(鉄半月勲章)(オスマン帝国勲章)(第一次世界大戦中)[228][229]
- 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章(イタリア)
- 大十字章(1938年)[229]
- 聖タマル勲章(グルジア)正式な受章は確認できないが佩用している写真がある[230]。
- ダンネブロク勲章 (da:Dannebrogordenen)(デンマーク勲章)
- ダイヤモンド付大将校章(1938年8月6日)[229]
- くびきと矢の勲章 (Orden Imperial del Yugo y las Flechas)(スペイン勲章)(1939年)
- 大十字章(1938年)[229]
- 剣勲章 (sv:Svärdsorden)(スウェーデン勲章)
- 大十字章(1939年2月2日)[229]
- イタリア軍事勲章 (it:Ordine militare d'Italia)(イタリア勲章)
- 大十字章(1941年11月27日)[229]
- 旭日章(日本勲章)
- 勲一等旭日桐花大綬章(1943年9月29日)[229]
- 白バラ勲章 (fi:Suomen Valkoisen Ruusun ritarikunta)(フィンランド勲章)[229]
- ミハイ勇敢公勲章 (en:Order of Michael the Brave)(ルーマニア勲章)
- 戦争勝利勲章(スロバキア)[229]
メディア作品[編集]
テレビドラマ『ニュルンベルク軍事裁判』ではブライアン・コックスがゲーリングを演じ、エミー賞助演男優賞を受賞した。
映画『魔王』(フォルカー・シュレンドルフ監督 ジョン・マルコヴィッチ主演 1996年独仏英)に登場するゲーリング(フォルカー・シュペングラー)には、彼のバロック的な奢侈を好む側面がよく再現されている。
なお、チャップリンの映画『独裁者』でトメニアの独裁者アデノイド・ヒンケル(役: チャップリン)の側近として登場するヘリング元帥(役: ビリー・ギルバート)は、ゲーリングのパロディである。映画でのヘリングは、地位こそ高く、虚栄心の塊ではあるが、行動では失敗ばかり繰り返し、ヒンケルからも侮られるという、喜劇的に誇張された人物として描かれている。
注釈・出典[編集]
注釈[編集]
- ↑ ゲーリングの兄カール・エルンストは第一次世界大戦において戦死している[5]。
- ↑ ゲーリングの弟アルベルトはナチ党への入党を拒否し、1938年まで反ナチ活動を行っていた。プラハの自動車メーカーのスコダの外国部長となった[5]。
- ↑ 「優」の成績で合格したという情報源は『ヒトラーの共犯者 上』89ページによる。同書はゲーリングが1911年に受けた試験を少尉の試験であるかのように書いてあるが、『Leaders of the SS & German Police, Volume I』423ページの記述には1911年にゲーリングが合格した試験はFähnrichの試験であるとなっている。
- ↑ ゲーリングはこのときのイルゼ・バーリンの献身を忘れなかった。ナチ党政権掌握後、ユダヤ人の彼女を庇護し、アルゼンチン亡命の手助けをしている。ユダヤ人の国外亡命は財産の没収を伴うのが通常だったが、ゲーリングの庇護を受ける彼女は財産を奪われなかった[63]。
- ↑ 『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 上』や『第二次世界大戦ブックス40 空軍元帥ゲーリング 第三帝国第二の男』によるとこのイタリア訪問でゲーリングはムッソリーニと会見したとされている。一方『ナチスの女たち 秘められた愛』によるとムッソリーニとは会見できなかったとされている。
- ↑ 『Luftwaffe Generals The Knight's Cross Holders 1939-1945』17ページによると歩兵大将となったのは1933年8月31日となっている。
- ↑ 『Luftwaffe Generals The Knight's Cross Holders 1939-1945』17ページによると空軍大将となったのは1935年3月1日となっている。
- ↑ 『Luftwaffe Generals The Knight's Cross Holders 1939-1945』17ページによると大鉄十字章の受章は帝国元帥への昇進と同じ日の1940年7月19日となっている。
- ↑ 『Luftwaffe Generals The Knight's Cross Holders 1939-1945』17ページによると彼の受章したツェーリンク獅子勲章のランクは柏葉・剣付き一級騎士十字章となっている。また受章日は7月8日となっている。
出典[編集]
- ↑ モズレー、上巻p.21
- ↑ モズレー、上巻p.21-23
- ↑ 3.0 3.1 モズレー、上巻p.23
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 マンベル、p.8
- ↑ 5.0 5.1 ゴールデンソーン、上巻p.115
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 Miller, p.444
- ↑ 7.0 7.1 7.2 モズレー、上巻p.33
- ↑ 8.0 8.1 モズレー、上巻p.27
- ↑ 9.0 9.1 9.2 モズレー、上巻p.26
- ↑ 『図説ドイツ空軍全史』、p.138
- ↑ 11.00 11.01 11.02 11.03 11.04 11.05 11.06 11.07 11.08 11.09 11.10 11.11 11.12 11.13 11.14 11.15 11.16 11.17 11.18 Miller,p423
- ↑ モズレー、上巻p.24
- ↑ モズレー、上巻p.25
- ↑ クノップ、上巻p.88
- ↑ 15.0 15.1 15.2 マンベル、p.14
- ↑ 16.0 16.1 モズレー、上巻p.30
- ↑ 17.0 17.1 モズレー、上巻p.220
- ↑ モズレー、上巻p.28
- ↑ クノップ、上巻p.89
- ↑ 阿部、p.29
- ↑ 21.0 21.1 モズレー、上巻p.36
- ↑ キレン、p.46
- ↑ モズレー、上巻p.39
- ↑ 24.0 24.1 24.2 Miller,p424
- ↑ 25.0 25.1 モズレー、上巻p.40
- ↑ 26.0 26.1 26.2 マンベル、p.17
- ↑ モズレー、上巻p.41
- ↑ モズレー、上巻p.47
- ↑ モズレー、上巻p.50
- ↑ 30.0 30.1 マンベル、p.19
- ↑ モズレー、上巻p.51
- ↑ 32.0 32.1 32.2 『図説ドイツ空軍全史』、p.136
- ↑ マンベル、p.18
- ↑ 34.00 34.01 34.02 34.03 34.04 34.05 34.06 34.07 34.08 34.09 34.10 34.11 34.12 34.13 34.14 34.15 34.16 34.17 34.18 34.19 34.20 34.21 34.22 34.23 34.24 34.25 Miller,p442
- ↑ D.ティトラー・南郷洋一訳「レッド・バロン」フジ出版 1970
- ↑ モズレー、上巻p.57
- ↑ モズレー、上巻p.63
- ↑ モズレー、上巻p.64
- ↑ 阿部、p.44
- ↑ 40.0 40.1 キレン、p.58
- ↑ モズレー、上巻p.67-68
- ↑ モズレー、上巻p.68
- ↑ マンベル、p.23
- ↑ モズレー、上巻p.69
- ↑ ドラリュ(文庫版)、p.53
- ↑ モズレー、上巻p.75
- ↑ マンベル、p.24
- ↑ キレン、p.60
- ↑ モズレー、上巻p.76
- ↑ 50.0 50.1 モズレー、上巻p.77
- ↑ マンベル、p.25
- ↑ ジークムント、p.41
- ↑ モズレー、上巻p.85
- ↑ マンベル、p.30
- ↑ クノップ、上巻92頁
- ↑ モズレー、上巻94頁
- ↑ マンベル、33頁
- ↑ 58.0 58.1 58.2 クノップ、上巻93頁
- ↑ モズレー、上巻102頁
- ↑ 阿部、98頁
- ↑ 阿部、99頁
- ↑ マンベル、43頁
- ↑ モズレー、下巻50頁
- ↑ モズレー、上巻113頁
- ↑ マンベル、45頁
- ↑ ジークムント、47頁
- ↑ ジークムント、51頁
- ↑ モズレー、上巻126頁
- ↑ マンベラ、50頁
- ↑ 『図解第三帝国』41ページ
- ↑ ドラリュ、文庫57頁
- ↑ クノップ、上巻94頁
- ↑ ドラリュ、文庫58頁
- ↑ 74.0 74.1 Miller,429ページ
- ↑ ドラリュ、59頁
- ↑ パーシコ、下巻130頁
- ↑ クノップ、上巻95頁
- ↑ モズレー、上巻6頁
- ↑ モズレー、上巻147頁
- ↑ ドラリュ、60頁
- ↑ 阿部、221頁
- ↑ モズレー、上巻198頁
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- ↑ マンベル、81頁
- ↑ 『鉄十字の騎士』46頁
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- ↑ 87.0 87.1 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)114頁
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- ↑ 大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)90ページより
- ↑ ヘーネ、98頁
- ↑ 『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』29ページ
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- ↑ ヘーネ、104頁
- ↑ モズレー、上巻236頁
- ↑ パーシコ、上巻252頁
- ↑ 96.0 96.1 ヘーネ、130頁
- ↑ 『図解第三帝国』19ページ
- ↑ ヘーネ、128頁
- ↑ モズレー、上巻239頁
- ↑ 100.0 100.1 『Leaders of the SS & German Police, Volume I』430ページ
- ↑ クノップ、上巻99頁
- ↑ 102.0 102.1 モズレー上、221頁
- ↑ モズレー、上巻208頁
- ↑ 『歴史群像 第2次大戦欧州戦史シリーズ Vol. 26 図説ドイツ空軍全史』140ページ
- ↑ オウヴァリー、58頁
- ↑ 成瀬・山田・木村、236頁
- ↑ 107.0 107.1 成瀬・山田・木村、237頁
- ↑ 成瀬・山田・木村、264頁
- ↑ 109.0 109.1 成瀬・山田・木村、264頁
- ↑ モズレー、下巻p.81、82
- ↑ モズレー、下巻p.82
- ↑ モズレー、下巻p.92
- ↑ モズレー、下巻p.92
- ↑ 114.0 114.1 モズレー、下巻p.94
- ↑ モズレー、下巻p.95
- ↑ モズレー、下巻p.96
- ↑ 117.0 117.1 モズレー、下巻p.97
- ↑ クノップ、上巻133頁
- ↑ モズレー、下巻p.100
- ↑ クノップ、上巻131頁
- ↑ モズレー、下巻p.101
- ↑ 122.0 122.1 モズレー、下巻p.137
- ↑ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫134-136頁
- ↑ モズレー、下巻p147
- ↑ モズレー、下巻p148
- ↑ 126.0 126.1 マーザー、p56
- ↑ 127.0 127.1 モズレー、下巻p149
- ↑ 128.0 128.1 128.2 モズレー、下巻150頁
- ↑ 129.0 129.1 129.2 マーザー、p57
- ↑ マンベル、p197
- ↑ クノップ、上巻91頁
- ↑ 132.0 132.1 マンベル、p198
- ↑ 133.0 133.1 モズレー、下巻p152
- ↑ 134.0 134.1 134.2 マーザー、p58
- ↑ モズレー、下巻p153
- ↑ クノップ、上巻p146
- ↑ 137.0 137.1 137.2 モズレー、下巻p154
- ↑ 138.0 138.1 パーシコ、上巻p27
- ↑ 139.0 139.1 マンベル、p199
- ↑ パーシコ、上巻27-28頁
- ↑ 141.0 141.1 マーザー、p59
- ↑ モズレー、下巻p156-157
- ↑ モズレー、下巻158-159頁
- ↑ マーザー、59-60、76頁
- ↑ モズレー、下巻p159
- ↑ マーザー、p76
- ↑ モズレー、下巻162-163頁
- ↑ モズレー、下巻161頁
- ↑ 149.0 149.1 149.2 パーシコ、上巻70頁
- ↑ パーシコ、上巻69頁
- ↑ マンベル、203頁
- ↑ マンベル、204-205頁
- ↑ 153.0 153.1 モズレー、下巻167頁
- ↑ マーザー、105頁
- ↑ パーシコ、下巻67頁
- ↑ モズレー、下巻166頁
- ↑ マーザー、112頁
- ↑ マーザー、126頁
- ↑ パーシコ、上巻190-191頁
- ↑ マンベル、205頁
- ↑ モズレー、下巻171-172頁
- ↑ マンベル、207頁
- ↑ パーシコ、上巻202頁
- ↑ パーシコ、上巻204頁
- ↑ パーシコ、上巻224頁
- ↑ モズレー、下巻172頁
- ↑ 167.0 167.1 モズレー、下巻173頁
- ↑ パーシコ、上巻282-283頁
- ↑ パーシコ、上巻283頁
- ↑ モズレー、下巻176頁
- ↑ パーシコ、下巻20頁
- ↑ 172.0 172.1 172.2 マンベル、208頁
- ↑ 173.0 173.1 モズレー、下巻178頁
- ↑ 174.0 174.1 パーシコ、下巻96頁
- ↑ パーシコ、下巻95頁
- ↑ 176.0 176.1 モズレー、下巻179頁
- ↑ マンベル、208-209頁
- ↑ パーシコ、下巻97頁
- ↑ パーシコ、下巻97-98頁
- ↑ パーシコ、下巻98頁
- ↑ パーシコ、下巻102-103頁
- ↑ パーシコ、下巻103頁
- ↑ モズレー、下巻182頁
- ↑ パーシコ、下巻105頁
- ↑ マーザー、180-181頁
- ↑ パーシコ、下巻111-113頁
- ↑ マンベル、212頁
- ↑ パーシコ、下巻113-114頁
- ↑ 189.0 189.1 モズレー、下巻181頁
- ↑ 190.0 190.1 パーシコ、下巻104頁
- ↑ パーシコ、下巻109頁
- ↑ パーシコ、下巻119-120頁
- ↑ 193.0 193.1 マンベル、214頁
- ↑ モズレー、下巻189頁
- ↑ マンベル、215-217頁
- ↑ 196.0 196.1 196.2 パーシコ、下巻121頁
- ↑ マンベル、217頁
- ↑ モズレー、下巻181-182頁
- ↑ パーシコ、下巻184頁
- ↑ マーザー、358頁
- ↑ モズレー、下巻184頁
- ↑ パーシコ、下巻243頁
- ↑ マンベル、219頁
- ↑ モズレー、下巻185-186頁
- ↑ マーザー、190-191頁
- ↑ 206.0 206.1 モズレー、下巻187頁
- ↑ 207.0 207.1 207.2 マンベル、221頁
- ↑ 208.0 208.1 208.2 208.3 モズレー、下巻188頁
- ↑ モズレー、下巻190-191頁
- ↑ ジークムント、92-93頁
- ↑ パーシコ、下巻285頁
- ↑ パーシコ、下巻305頁
- ↑ パーシコ、下巻299-300頁
- ↑ パーシコ、下巻300頁
- ↑ パーシコ、下巻306頁
- ↑ 216.0 216.1 パーシコ、下巻307頁
- ↑ パーシコ、下巻307-308頁
- ↑ パーシコ、下巻316-317頁
- ↑ パーシコ、下巻316頁
- ↑ パーシコ、下巻311頁
- ↑ パーシコ、下巻313頁
- ↑ 阿部良男、662頁
- ↑ クノップ、上巻148頁
- ↑ パーシコ、下巻313-314頁
- ↑ モズレー、下巻p.106
- ↑ ジークムント、2章
- ↑ 227.0 227.1 ジークムント、3章
- ↑ 228.00 228.01 228.02 228.03 228.04 228.05 228.06 228.07 228.08 228.09 228.10 228.11 228.12 228.13 228.14 228.15 228.16 228.17 228.18 228.19 228.20 228.21 228.22 228.23 228.24 Dixon,p17
- ↑ 229.00 229.01 229.02 229.03 229.04 229.05 229.06 229.07 229.08 229.09 229.10 229.11 Miller,p443
- ↑ Der königlich-georgische Orden der Königin Thamar
外部リンク[編集]
- http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/GoeringHermann/
- http://www.shoa.de/p_hermann_goering.html
- Zahlreiche private Fotoalben von Hermann Göring befinden sich heute in der Library of Congress - Suchbegriff "Hermann Goering" (Public Domain)
ヒトラー内閣(1933年1月30日 – 1945年4月30日) | |
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国家元首 | パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領(1934年8月2日に死亡。以降大統領位は空位だが、ヒトラーが国家元首の地位を吸収した) |
首相 | アドルフ・ヒトラー総統(指導者兼首相) |
閣僚 | フランツ・フォン・パーペン副首相 - コンスタンティン・フォン・ノイラート外務相 - ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務相 - ヴィルヘルム・フリック内務相 - ハインリヒ・ヒムラー内務相 - ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相 - アルフレート・フーゲンベルク経済相 - クルト・シュミット経済相 - ヒャルマル・シャハト経済相 - ヴァルター・フンク経済相 - ヘルマン・ゲーリング航空相 - フランツ・ゼルテ労働相 - フランツ・ギュルトナー司法相 - フランツ・シュルクベルガー司法相 - オットー・ゲオルク・ティーラック司法相 - ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相 - ヴィルヘルム・カイテル国防軍総司令部総長 - パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ運輸相兼郵政相 - ユリウス・ドルプミュラー運輸相 - ヴィルヘルム・オーネゾルゲ郵政相 - リヒャルト・ヴァルター・ダレ食糧相 - ヘルベルト・バッケ食糧相 - ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相 - ベルンハルト・ルスト教育相 - フリッツ・トート軍需相 - アルベルト・シュペーア軍需相 - アルフレート・ローゼンベルク東方担当相 - カール・ヘルマン・フランクベーメン・メーレン保護領担当相 - ハンス・カール宗教相 - ヘルマン・ムース宗教相 - オットー・マイスナー無任所相 - ハンス・ハインリヒ・ラマース無任所相 - ルドルフ・ヘス無任所相 - エルンスト・レーム無任所相 - ハンス・フランク無任所相 - アルトゥル・ザイス=インクヴァルト無任所相 - マルティン・ボルマン無任所相 |