全国指導者
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全国指導者(ライヒスライター、独: Reichsleiter )は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の最高指導部である全国指導部(Reichsleitung)を形成するメンバーであり、またはその階級を指す。党の最高指導者 (Führer)であるアドルフ・ヒトラーを補佐し、原則的には職能別に権限を分掌していた。
全国指導者のリスト[編集]
全国指導者、すなわち全国指導部の概要が初めて公表されたのは1931年8月である。全国指導者は、その担当分野において最高指導者ヒトラーから全権を委託されており、その職務遂行にあたってはヒトラーだけに責任を負うとされていた。また政府においては内閣の閣僚など重要な公職を占めるものも多かった。
ただしヘルマン・ゲーリングのように党内において特定の役職を割り当てられていないメンバーもいた。また、「全国指導者」と訳される党役職を持っていても、全国指導部の一員ではない者も存在した。その事例として下記のようなものがある。
- 1934年以前の親衛隊全国指導者: この時期の親衛隊は突撃隊に属する一組織にすぎなかった。しかし1929年のハインリヒ・ヒムラーの親衛隊全国指導者就任をきっかけとして親衛隊は著しく拡大し、1934年の長いナイフの夜による突撃隊の地位低下の後に突撃隊からの独立を果たした。同年8月23日、親衛隊全国指導者は全国指導部メンバーとして正式に位置づけられた。
- 「全国女性指導者」(Reichsfrauenführerin)のゲルトルート・ショルツ=クリンク
名前 | 画像 | 役職名 | 期間[1] | 官職 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
ヘルマン・ゲーリング | 総統後継者[2] | 1930年 | 1945年 |
航空大臣 四カ年計画全権 国会議長など |
1945年4月に全役職から解任 | |
ルドルフ・ヘス | 総統代理[3] | 1933年 | 1941年 |
無任所大臣 NSDAP/AO長官など |
1941年5月に秘密裏に渡英したため、解任 | |
マルティン・ボルマン | 党官房長[4] | 1930年 | 1945年 |
無任所大臣待遇 総統秘書 |
ヒトラーの政治的遺書でナチ党担当大臣に指名 | |
フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ | 財政全国指導者 | 1925年 | 1945年 |
|||
グレゴール・シュトラッサー | 宣伝全国指導者 (1926年~1929年) 組織全国指導者 (1929年~1932年) |
1926年 | 1932年 |
1932年に失脚、長いナイフの夜で殺害 | ||
ロベルト・ライ | 組織全国指導者 | 1932年 | 1945年 |
ドイツ労働戦線指導者 | ||
フィリップ・ボウラー | 総統官房長[5] (Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender) |
1933年 | 1945年 |
全国経営指導者 T4作戦(「劣等分子」安楽死計画)責任者 |
||
ヴァルター・ブーフ | 党最高裁判所[6]長 | 1928年 | 1945年 |
|||
ヴィルヘルム・グリム | 党第2最高裁判所長 (Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.) |
1932年 | 1939年 |
|||
ヨーゼフ・ゲッベルス | 宣伝全国指導者 (Reichspropagandaleiter) |
1929年 | 1945年 |
国民啓蒙・宣伝大臣 ベルリン大管区指導者 総力戦指導者 |
ヒトラーの政治的遺書でドイツ国首相に指名 | |
オットー・ディートリヒ | 新聞全国指導者 (Reichspressechef) |
1931年 | 1945年 |
1945年3月に解任 | ||
マックス・アマン | 出版全国指導者 (Reichsleiter für die Presse) |
1931年 | 1945年 |
フランツ・エーア・フェルラーク主宰 全国出版院総裁 党機関紙指導者 (Der Leiter der Parteipresse der NSDAP) |
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ハンス・フランク | 司法全国指導者 (Der Leiter des Reichsrechtsamtes) |
1933年 | 1945年 |
無任所大臣 ドイツ法アカデミー総裁 ポーランド総督 |
||
アルフレート・ローゼンベルク | 対外政策全国指導者 (Der Leiter des Außenpolitischen Amts der NSDAP) |
1933年 | 1945年 |
東部占領地域大臣 | ヒトラー入獄中の1924年には一時指導者代理の地位にあった | |
リヒャルト・ヴァルター・ダレ | 農政全国指導者 (Der Leiter des Amtes für Agrarpolitik) 農民全国指導者 |
1930年 | 1945年 |
食糧大臣 | 1933年に農政全国指導者を農民全国指導者に改称 | |
カール・フィーラー | 書記全国指導者 (Schriftführer der NSDAP) 地方行政本部長 (Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik) (1933年~1945年) |
1933年 | 1945年 |
ミュンヘン市長 | ||
エルンスト・レーム | 突撃隊幕僚長 | 1931年 | 1934年 |
無任所大臣 | 長いナイフの夜によって殺害 | |
ヴィクトール・ルッツェ | 突撃隊幕僚長 | 1934年 | 1943年 |
無任所大臣 | 1943年に事故死 | |
ヴィルヘルム・シェップマン | 突撃隊幕僚長 | 1943年 | 1945年 |
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ハインリヒ・ヒムラー | 親衛隊全国指導者 | 1934年[7] | 1945年 |
全ドイツ警察長官 内務大臣 |
1945年4月に解任 | |
バルドゥール・フォン・シーラッハ | 青少年全国指導者 (ヒトラー・ユーゲント指導者) (1933年~1939年) |
1928年 | 1939年 |
帝国大管区大ウィーン大管区指導者 | 1939年以降はユーゲント教育のためのナチ党全国指導者 | |
アルトゥール・アクスマン | 青少年全国指導者 (ヒトラー・ユーゲント指導者) |
1939年 | 1945年 |
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コンスタンティン・ヒールル | 労働全国指導者 | 1936年 | 1945年 |
国家労働奉仕団総裁 | ||
フランツ・フォン・エップ[8] | 国防政策全国指導者 (Leiter des Wehrpolitischen Amtes) 植民政策全国指導者 |
1932年 | 1945年 |
バイエルン州国家弁務官・国家代理官 | 1945年4月にバイエルン自由行動に参加したとして逮捕 | |
ヴィルヘルム・フリック[8] | 国会議員団長 (Fraktionsführer) |
1924年 | 1945年 |
内務大臣 ベーメン・メーレン保護領総督 |