パリ
パリ(Paris、巴里、英語では「パリス」と発音)は、フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府である。ロンドン、ニューヨーク、東京と並びトップ水準の世界都市である。
概要[編集]
パリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。市役所はセーヌ川右岸の北緯48度52分00秒、東経2度19分59秒に位置する。行政上では、一市単独で県を構成する特別市であり、中心部から順に20個の行政区に分割される。市域は西部のブローニュの森と東部のヴァンセンヌの森を併せて105.40平方キロメートルと、世界の大都市の中でも狭い部類に入る。更に旧城壁部分(純粋な市街地)の面積となると86.99平方キロメートルしかない。そのため市街地エリアに限定した人口密度は2万5000人近くに達する。ヨーロッパ随一の過密都市である。市域人口は1950年代の約290万人をピークに長くドーナツ化現象によって減少し続けたが、ここ数年は減少が下げ止まり微増傾向に転じている。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。
フランスの政治・経済・文化の中心である上、世界四大都市にも挙げられるほどの世界都市であり、歴史的な建造物や美術館を数多く抱えるため「芸術の都」、「花の都」などと呼ばれる、世界屈指の観光都市としての顔も持つ。歴史的に戦火を巧みに避けてきたため、パリは街全体が数多くの由緒ある歴史的建造物を有する一つのテーマパークのような存在になった。
古くから宗教・文化面などにおいて欧州各地、そして世界中から人を集める多民族集住地区であった。1960年代以降旧植民地であったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、更に近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増えてきた。
パリっ子はパリジャン (Parisien) (男性)・パリジェンヌ (Parisienne) (女性) と呼ばれる。
歴史[編集]
フランスの歴史 も参照
語源[編集]
語源はパリシー (Parisii) と呼ばれるガリア人部族。Parisiiは「田舎者」、「乱暴者」を意味する。ローマ人が入ってくる以前のこの土地の先住民である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語では Pariisi(パリーシ)と発音されるのはここからだという説がある。Lutetia (Parisiorum) 「(パリシーたちの)ルテティア」とも呼ばれていた。
古代[編集]
セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシー族の集落ルテチアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテチアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテチアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場や公衆浴場などが築かれた。しかしローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテチアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。
フランス王国首都[編集]
5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代ってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。
西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁が築かれた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学はヨーロッパ最古の大学のひとつであり、特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。12世紀にはパリ水運商人組合が結成された。後にその商人頭は事実上の市長として市政を司るようになり、エティエンヌ・マルセルのように王に匹敵する権力を持つものも現れた。市の規模が大きくなるにつれ、城壁は何度か壊され市域が拡大していった。
百年戦争後半にはパリはオルレアン派とブルゴーニュ派の対立で混乱に陥った後、イングランドと同盟したブルゴーニュ公の支配下に入った。しかし1436年にはフランス軍に奪還され、翌1437年、シャルル7世は改めてパリをフランスの首都と定めた。しかしこの後もフランス王はパリには住まず、ロワール渓谷の城を好むようになった。ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こった。
アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。これ以降パリ市内ではテュイルリー宮殿、リュクサンブール宮殿、廃兵院などの大規模建築が相次いで作られた。しかしルイ14世はパリ郊外のヴェルサイユに造営した離宮に政治の本拠を移し、ルイ16世の治世の末期までヴェルサイユが政治の中心となった。
1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのチュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。
19世紀[編集]
19世紀のパリは政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的、文化的には繁栄した。
1837年にはパリ(現在のサン・ラザール駅)-サン=ジェルマン=アン=レー間に鉄道が開通し、以後各方面への鉄道路線が次々と開業した。
第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行なわれた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発やインフラストラクチャーの整備が行なわれた。これによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこの時の状態をとどめている。
普仏戦争でナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1891年1月に政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2ヶ月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。
19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数会の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。
20世紀[編集]
第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。
戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復した。
しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1ヶ月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月14日にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領した。6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者は後に対独協力者として糾弾されることになる。
ノルマンディー上陸作戦から2ヶ月半後の1944年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放された。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたフォンコルティッツ将軍はヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォンコルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている
戦後のパリでは主に郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。
行政区画の変遷[編集]
フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。市域は現在より狭く、ほぼメトロ2号線、6号線の内側に相当する。
1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に20の行政区が設けられた。1968年にはセーヌ県が廃止され、パリ市は単独で県と同格の自治体とされた。1976年にイル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。
地理[編集]
行政区[編集]
パリは、一市単独で県を構成するコミューン、いわゆる特別市である。市内は20の行政区に区分されている。区は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号が付けられている。1~4、8~12、16~20区は右岸に、5~7、13~15区は左岸に位置する。
各地域[編集]
括弧内の数字は区を示す。
- 右岸
- シャンゼリゼ通り (8)
- 凱旋門からチュイルリーまで続く、パリを代表する目抜き通り。
- シテ島 (1, 4)
- パリ発祥の地であり、ノートルダム大聖堂など歴史的建造物も多い。
- パッシー (16)
- 高級住宅地。
- オペラ界隈 (2)
- デパートや高級ブティック、銀行などが立ち並び、日本人街でもある。日本料理店や日本の生活雑貨店が並ぶ。
- マレ (3, 4)
- 貴族の館が集中して残る地域であり、現在は裕福なユダヤ系住民が多く住む。美術館やギャラリーも多い。お洒落なゲイの集まる地域でもある。
- バスティーユ (4, 11, 12の各境)
- フランス革命の発端となった場所として有名だが、今では若者が集まる歓楽街となっている。オペラ・バスティーユもある。
- オベルカンプ (11)
- 同じく歓楽街だが、比較的新しい。テクノ音楽やゲームなど新しい文化を紹介する場として認識され、日本のアニメショップなども複数見られる。
- ピガール、ブランシュ (18)
- モンマルトルのふもとに位置する。高級キャバレー「ムーラン・ルージュ」があるが、その他は怪しげなキャバレーやいかがわしいセックスショップが多く並ぶ性的歓楽街でもある。昔から猥雑な界隈であり、永井荷風の「ふらんす物語」にも描かれている。
- モンマルトル (18)
- パリを見下ろす高台。パリ市に編入されたのは1860年以後だが、現在ではパリを代表する名観光地となっている。2001年のフランス映画『アメリ』の舞台にもなった。サクレ・クール寺院が一番の高台にそびえ、そこから西側へ行くにつれテルトル広場やムーラン・ド・ラ・ギャレットなど観光名所が多く並ぶ。寺院東側は観光地ではなくアフリカ系移民が多く暮らすシャトー・ルージュ地区。
- ベルシー (12)
- ベルヴィル (11, 20)
- バルベス (18)
- ベルヴィルと同じくアラブ系やアフリカ系の移民が多く暮らす。有名な安物服屋やアフリカ系商店街があり、人口密度も多く、駅前は常に混雑している。
- 左岸
- モンパルナス (14)
- 庶民的な雰囲気を残す左岸の地域。
- サンジェルマン・デ・プレ (5, 6)
- 歴史的地区であり、美術学校に近いことからギャラリーも多い。サルトルら哲学者が集まった場所として有名な2軒のカフェがある。カルチエ・ラタンに隣接する。
- カルチエ・ラタン (5, 6)
- ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中しており、昔から学生街として有名。カルチエは「地区」、ラタンとは「ラテン語」のことであり、「ラテン語を話す (= 教養のある) 学生が集まる地区」という意味が語源。羅典区。
- エッフェル塔とシャン・ド・マルス公園 (7)
- パリを代表する観光名所としてあまりに有名。セーヌ川の観光船のうち有名な2つの船の発着点ともなっており、観光客が集中する。
- トルビヤック (13)
- いわゆる中華街だが実際はベトナム系が多く、中華・ヴェトナム料理店が並ぶ。昔はゴブラン織りで栄えたが、今は高層ビルが林立する再開発地域である。
川、運河[編集]
川[編集]
- パリ市内を横断する川であり、パリのセーヌ河岸は世界遺産に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸、南部を左岸という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひとつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けた後は蛇行を繰り返し、ノルマンディー地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。詳細はセーヌ川の項を参照。
- ビエーヴル川
- 13区のトルビヤック地区やゴブラン地区には、セーヌ川の支流であるビエーヴル川という自然の川がかつて流れていた。今は下水道として完全に地下化してしまい、現在の一般の地図上でその存在を確認することは出来ないが、古地図などで見ることが出来る。国立ゴブラン織り製作所は、この川の上に存在する。
運河[編集]
- パリ東部セーヌ右岸を南北に流れる運河。セーヌ川に面したサン・マルタン運河の出入口はアルスナル港と言う。ここからバスティーユ広場を経て、運河は地下水道となる。10区に入ったあたりで、運河は地上に顔を出す。この辺りには水位を上下するための水門がいくつかある。10区の運河沿いにはかつて革製品などの町工場が多く並んでいたが、今はそれらの工場は衰退しており、徐々に再開発の動きが進んでおり、最近は、景観を生かしてレストランが並ぶ。10区と19区の境にある地下鉄2番、5番、7番のジョレス駅およびスタリングラッド駅付近にあるラ・ヴィレット運河まで出たところで、サン・マルタン運河の名称は終わる。今はサン・マルタン運河を走る運搬船はほとんどないが、観光船が走っている。
- ウルク運河
- サン・マルタン運河と一続きの運河だが、ラ・ヴィレット運河より以北はこの名称になる。パリ19区からパンタン市へ、さらに遠方のウルク川へと繋がっている。メトロ5番は、終点、ボビニー・パブロピカソ駅手前でこのウルク運河沿いの地上部を走る。ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐(合流)している。
- サン・ドニ運河
- ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐・合流している。パリ市内では19区のごく一部を流れる。パリ郊外のオーベルヴィリエ市、サン・ドニ市を経て、パリ北部で蛇行するセーヌ川下流と合流する。ウルク運河経由で水路をショートカットするためにつくられており、運搬船が頻繁に行き来している。
広場、公園、森[編集]
広場[編集]
- コンコルド広場 (1)
- パリの中心部、チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。歴史ある広場で、フランス革命の後にはルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われた。現在はツール・ド・フランスの終着点としても知られ、最終日には多くのファンが集まる。
- ヴァンドーム広場 (1)
- ナポレオン2世の記念柱が立っている。この広場および隣接するサントノレ通りには高級宝石店や高級ブティックが並ぶ。
- バスティーユ広場 (4, 11, 12の各境)
- フランス革命の発端となったバスティーユ要塞があった場所で、要塞は革命後に取り壊されて現在の広場となった。広場中央には革命の記念柱が立っている。広場に面してオペラ・バスティーユがある。サン・マルタン運河出入口のアルスナル港にも面している。
- ヴォージュ広場 (4)
- バスティーユ広場のすぐ近くだが奥まった場所にあり、赤い煉瓦と石造りの美しい建物に囲まれたほぼ正方形の広場である。その赤い建物の一角にはヴィクトル・ユーゴーの住んだ家がある。フランス革命前は国王(ロワイヤル)広場と呼ばれていた。
- サン・ミッシェル広場 (6)
- カルチエ・ラタンの中心部に位置し、セーヌ川および対岸のシテ島、ノートルダム寺院に面している。本屋などが多くあるほか、広場裏手には安手のレストランが立ち並ぶ。
- シャルル・ド・ゴール広場(エトワール広場) (8)
- 凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを含め放射状に道路が伸びる、パリの顔とも言うべき広場。元はエトワール広場と呼ばれたが、第二次世界大戦後シャルル・ド・ゴール将軍をたたえて現在の呼称となった。通常はエトワール広場の呼称でも通じる。1860年のパリ拡張以前はパリの西の玄関だった。
- レピュブリック広場 (3, 10, 11)
- 訳すと共和国広場。庶民的な地区に位置するが、広場としてはきわめて大きいそれの一つ。マニフェスタシオン(デモ)がある際にはほとんどここが起点となる。
- ナシオン広場 (11,12)
- エトワール広場と同じく道が放射状に伸びる、1860年以前のパリの東の玄関。かつてカルーゼル凱旋門が置かれていたが現在同門はルーヴル正面に移され、現在ナシオン広場には2つの柱が立っている。ロベスピエールの恐怖政治時代にはここで多数の反体制者がギロチンで処刑された。
- テルトル広場 (18)
- モンマルトルがパリに編入される以前はこの広場が村の中心だった。現在は絵描きが多く並ぶ一大観光名所となっている。
- イタリー広場 (13)
- パリの南の玄関口。
公園、庭園[編集]
公園はパーク (Parc)、庭園はジャルダン (Jardin) と呼ばれ区別されている。
- テュイルリー庭園 (1)
- パリの中心部、ルーヴル宮の正面に位置する。かつてテュイルリー宮殿があった。
- リュクサンブール庭園 (6)
- リュクサンブール宮殿(現在のフランス上院議会)の正面に位置する庭園。カルチエ・ラタンに隣接し、学生たちの憩いの場でもある。
- シャン・ド・マルス (7)
- エッフェル塔に登ると先ず目に入るのが眼下に広がるこの公園の全景である。かつては軍事演習場だったところ、1889年のパリ万博の会場にもなった。
- モンソー公園 (8)
- 1860年のオスマン公によるパリ大改造で公園に整備された。
- ベルヴィル公園 (20)
- 庶民的なベルヴィル地区に位置する。高台になっており、パリを一望できるとても眺めの良い公園。
- ビュット・ショーモン公園 (19)
- 同じく1860年のパリ大改造で整備され、昔の石切場跡を公園にした。
- 植物園 (5)
- モンスーリ公園 (14)
- これも1860年のパリ大改造で整備された。14区の外れにあり、国際大学都市に面している。
- ジョルジュ・ブラッサンス公園 (15)
- 馬市場、家畜市場の跡を整備した公園で、銀色の巻貝のような劇場を併設する。馬市場の跡の19世紀の鉄骨屋根のテントの下では、定期的に古本市が開かれる。
- ラ・ヴィレット公園 (19)
- 庶民的な地区に属するが、かつての食肉処理場跡および旧鉄道用地の広大な敷地を再開発して公園とした。広大な敷地内にはサン・ドニ運河(サン・マルタン運河に繋がる)が流れる。代表的な建物として、食肉処理場時代の19世紀の鉄骨建築ホールをそのまま流用したグランド・アール(見本市会場)、科学産業都市(博物館)および音楽都市(クラシック用コンサートホール)、ZENITH(ロック・ポップス用コンサートホール)、パリ音楽院現校舎などがある。
- アンドレ・シトロエン公園 (15)
- ベルシー公園 (12)
- フランソワ・ミッテラン元大統領により整備された。新大蔵省の建物に面している。付属のベルシー体育館ではスポーツのほかコンサートなども行われている。
森[編集]
パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。
- ブローニュの森 (16)
- パリの西側に位置する。16区の高級住宅街パッシーやオートゥイユ、近郊の高級住宅市街に面し、高級社交場でもあるオートゥイユ競馬場なども併設する、高級的な雰囲気の漂う森である。ただし夜暗くなってからはゲイの人達が集うことでも知られる。
- ヴァンセンヌの森 (12)
- パリの東側に位置する。こちらは庶民的な森として知られ、アフリカ・オセアニア博物館のほか、動物園、農場(パリ唯一の農場)、パーク・フローラル(花公園)などを併設する。中世の砦だったヴァンセンヌ城もある。
四大墓地[編集]
パリは東西南北に4つの主要な墓地があり、多くの著名人が眠っている。
- ペール・ラシェーズ墓地 (20): 東
- パッシー墓地 (16): 西
- モンパルナス墓地 (14): 南
- モンマルトル墓地 (18): 北
この他、パリ中心部に位置するパンテオンにもルソーやヴォルテール、ヴィクトル・ユーゴー、デカルトといった偉人たちが埋葬されている。
郊外[編集]
パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。
16-17区に繋がるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18~20区から繋がる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外(バンリュー)」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的なベッドタウンとなっている。
パリより電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンスには「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業オフィスを抱える新都心となっている。
詳細はイル・ド・フランス地域圏を参照。
観光名所[編集]
- 建造物
- 美術館
- その他
交通[編集]
空港[編集]
- パリ北部郊外ロワッシーに位置する、TGVの駅とも直結する、フランスの玄関口である。現在拡張工事が続けられている。3つのターミナル(主なものは2つ)よりなり、エールフランス航空と日本航空、全日空が成田空港と関西国際空港、中部国際空港から直行便を運行している他、アエロフロート航空がモスクワ経由便を運航している。
- パリ南部オルリー市にある空港。かつては最も主要な空港だったが、シャルル・ド・ゴール空港にその座を譲った。とはいえ現在も国際空港として機能しており、主にヨーロッパ近隣諸国のほかアフリカ・中近東方面の便が発着している。Orly-sud(南)とOrly-ouest(西)の2つのターミナルがある。
- 最も初期に作られた空港で、1927年にアメリカ人のチャールズ・リンドバーグが世界初の大西洋無着陸横断飛行を行ったときに着陸したのがこの空港である。現在は初夏に行われるパリ・エアショーの会場として知られている。
- ヘリポート
鉄道[編集]
ターミナル駅[編集]
- リヨン駅 (12)
- ベルシー駅 (12)
- リヨン駅の近くにある駅。当駅から出た線路はリヨン駅からのものと合流するため方面は同じだが、イタリア方面への国際夜行列車および乗用車運搬用列車が発着。
- 北駅 (10)
- 東駅 (10)
- モンパルナス駅 (15)
- サン・ラザール駅 (8)
- 西部方面
- オーステルリッツ駅 (13)
市内にはメトロ(地下鉄)とRER(高速地下鉄)がくまなく走っている。14番まであり、運営はRATP(パリ市営交通)が行っている。2006年にパリ市最南端でトラム(路面電車)が開通した。このほか郊外を結ぶトラムがある。
詳細は「パリの交通」を参照。
道路[編集]
主な一般道[編集]
- 凱旋門のあるエトワール広場とパリ中心部のコンコルド広場を結ぶ、パリで最も有名な目抜き通り。フランス一周自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」はここがゴールとなる。
- フォーブール・サントノレ通り
- 有名ブランドのブティックが並ぶ。
- リヴォリ通り
- ルーヴル宮北側に沿って市内最中心部を横断する道路。
- サンタントワーヌ通り
- リヴォリどおりとバスティーユを結ぶ、パリ中心部横断道路の一つ。
- フォーブール・サンタントワーヌ通り
- バスティーユとナシオン広場を結ぶ通り。
- ヴァンセンヌ大通り
- ナシオンからパリ最東端ヴァンセンヌ門までを結ぶ目抜き通り。目抜きと言ってもシャンゼリゼ通りのようには栄えておらず市の外れではあるが、決して寂れてはおらずパリの東の玄関の品格を保った通りである。週2回、パリ最大規模の朝市が開かれる。
- オペラ通り
- ガルニエ宮(オペラ座)からルーヴル宮に向かって伸びる通り。高級ブティックやホテルなどが立ち並ぶが、付近は日本人街でもある。
- グラン・ブールヴァール
- 1860年のオスマン公によるパリ大改造で生まれたブールヴァールのうち、9-10区の北部沿いの一部の通りを指す。メトロ8番と9番が走っている。
- サンジェルマン通り
- サンジェルマン・デ・プレからカルチエ・ラタンを通る、左岸の代表的な通り。
- パリ5区にある道路であり、多くのレストランや市場などが立ち並んでいる。
主な車輛専用道[編集]
- ヴォワ・エスプレス
- 河岸沿いの一部は、パリを横断する一方通行専用の高速バイパス道路となっている。
- パリ市内最外周部を囲んで走る道路のうち、一般道をまとめてこう呼ぶ。ティエールの城壁の後に作られたブルヴァール。ペリフェリックより少し内側に位置する。
- ペリフェリック
- パリ市内最外周部を囲んでいる環状高速道路で、現在はこれがパリ市の境界となっている。(2つの森など一部の区間を除く。これらの区間は地下化されている)
姉妹都市・提携都市[編集]
モットー[編集]
パリ市民のモットーは “Fluctuat nec mergitur (Il tangue mais ne coule pas)”、「たゆたえど沈まず」である。
経済[編集]
フランスにおける経済の中心地であり、多くの大企業や国営企業が本社を構える。観光が大きな産業となっているフランスにおいても最も多くの観光客を迎え入れる街である。
文化[編集]
「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは絵画から彫刻、ファッション、音楽に至るまで、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。特に近年はパリコレクションやクッキングコンペの開催にみられるように、フランスを代表する服飾文化や食文化の分野で世界的な情報発信地となっている。
パリを代表する施設・企業[編集]
各節とも日本語での五十音順。
企業本社[編集]
ファッション[編集]
- アニエス・ベー
- エルメス
- クリスチャン・ディオール
- クリスチャン・ラクロワ
- ケンゾー(高田賢三)
- コム・デ・ギャルソン(川久保玲)
- ジバンシィ
- シャネル
- ジャン=ポール・ゴルチエ
- ルイ・ヴィトン
スポーツ[編集]
- ベルシー体育館
- サンドニ・スタッド・ド・フランス(サッカー競技場)
- パリ・サンジェルマン(サッカーチーム)
- ロンシャン競馬場
- オートゥイユ競馬場
- ヴァンセンヌ競馬場
オペラ・舞台・音楽[編集]
- オディオン座
- オペラ=コミック座
- オペラ・ガルニエ(日本で「オペラ座」と呼ぶのはこちら)
- オペラ・バスティーユ
- オランピア劇場
- ゲテ・モンパルナス劇場
- コメディ・フランセーズ
- サル・ガボー
- サル・ドゥ・ヴュ=コロンビエ
- サル・プレイエル
- サル・リシュルー
- シテ・ドゥ・ラ・ミュジーク
- シャイヨー国立劇場
- シャトレ座
- シャンゼリゼ劇場
- テアトル・デュ・ラ・ヴィル
- パリ市立劇場
- ボビノ劇場
- マデレーン座
- モガドール劇場
- ユシット座
- ラ・シガール
- ラ・スプレンディド
関連項目[編集]
上述までの既出のリンクを除く。
- 施設
- 音楽教育機関
- テレビ局
- ラジオ局
- Radio FG
- NRJ
- France Inter
外部リンク[編集]
- パリの空港 (英語・フランス語)
- パリのウェブカム
- パリの橋
- パリの日本人コミュニティー
- Paris pictures