ホロコースト
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ホロコースト(the Holocaust、Holocaust、חורבן אייראפע、השואה)は第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。元来はユダヤ教の宗教用語である燔祭(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で[1]、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった[2]。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (the Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。
目次
概要[編集]
1933年のナチ党の権力掌握以降、反ユダヤ主義が国是となったナチス・ドイツにおいては様々なユダヤ人、共産主義者に対する迫害が行われていた。第二次世界大戦の勃発後、ナチス内部には「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束し、強制収容所に送った。収容所では強制労働を課すことで労働を通じた絶滅を行い、また占領地に設置された絶滅収容所においては銃殺、人体実験、ガス室などの直接的な殺害も行われた要出典。1943年以降、絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。親衛隊は強制収容所の管理および各地でユダヤ人狩りを行い、東部戦線ではアインザッツグルッペンが活動した。ドイツ国防軍は、親衛隊や中央官庁の要請に従ってユダヤ人狩りへの協力を行った。軍需省や四カ年計画庁、一部の企業は工場において強制労働を行わせ、虐殺した。また、ヴィシー政権下のフランスをはじめとする占領地における「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施された。ナチス・ドイツの人種政策に関するものにはロマ人に対するポライモス、身体障害者・精神障害者へのT4作戦、同性愛者(ナチス・ドイツによる同性愛者迫害)、エホバの証人に対する迫害などが知られている。
「ユダヤ人絶滅」が戦前からの計画の目的であったのか、戦争突入後の状況変化によって発生したものであったのかは研究者によって意見が分かれる。公式な法令としてユダヤ人殺害が命令されたことはなく、担当閣僚や特定の官庁も存在せず、特定の予算が割かれたこともなかった[3]。計画性や統合性のなさを指摘している[3]。当初の政策では、まずユダヤ人を強制収容所やゲットーなどに集合隔離し、その後ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によって追放するという計画(マダガスカル計画など)であり「劣悪な輸送環境と移送先の過酷な気候によって大多数が死滅するだろう」という、漠然とした予測をもって立案されていた。しかし1940年以降、対英仏・対ソ戦局の推移に伴って追放予定地がドイツ支配圏内に入り、移送すること自体が非現実的となり、ドイツ国外のゲットーへの隔離と1942年7月から開始された強制収容所における強制労働を通した絶滅および、毒ガス・一酸化炭素・排気ガス等を用いた労働に適さない者への「間引き」、そして組織的殺戮へと計画は変更されたと言われている[誰?]。
ナチスによるユダヤ人虐殺は大戦後期の連合国による元ドイツ占領地およびドイツ本土の占領課程で明らかにされ、ニュルンベルク裁判では「ユダヤ人の大量虐殺」計画が罪状の一つとして認定された。戦後にはジェラルド・ライトリンガー、ラウル・ヒルバーグ、ウィリアム・シャイラー等の歴史家によってこの時代のユダヤ人の運命についての通説が確立された。
ドイツによるホロコーストによって殺害されたユダヤ人は600万人以上、最多で1100万人を超えるとされている。また、主に独ソ戦における戦争捕虜、現地住民が飢餓や強制労働による死亡者に対しても「ホロコースト」の語が使用されることがあるが、この語を他の民族にも拡大して使用することに反発する個人・団体がある。こうした広い概念でとらえた場合の犠牲者数は、900万から1100万人にのぼるとも考えられている。
一方で「ドイツがユダヤ人を差別し、迫害したこと」自体は認めながら、ホロコーストの規模、犠牲者数、殺害手段に関する通説的見解を批判的に検証したり、ソ連やシオニストの流したプロパガンダもあったとして批判する「ホロコースト否認」と呼ばれる動きもある。これはイスラム世界に属しイスラエルと対立関係にある地域などでも論じられている。ヨーロッパではホロコースト否認を法律で禁止する動きもある。
語源および語の使用の変遷[編集]
- 語源
ホロコーストは「全部 (holos) 」、「焼く (kaustos) 」に由来するギリシア語「holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、元来は、古代ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える犠牲、「丸焼きの供物」、すなわち燔祭を意味していた[4][5]。こうしたことから殉教のための犠牲をも意味するようになり、またここから派生した意味に「火災による惨事」があり、一般的にはこちらの方が主に使われていた。例えばアルフレッド・ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』では劇中タンクローリーの炎上事故を伝える新聞の見出しで「Holocaust」という言葉が使われていた。日本では永井隆が長崎への原爆投下を「神の大きな御摂理によってもたらされた」とし、原爆投下を「大いなる燔祭」と解釈したこと[6]が論評されている(浦上燔祭説参照)。
- ジェノサイドからホロコーストへ
この言葉がナチスによるユダヤ人大量殺害を意味するようになったのは、大戦中から大戦後しばらくの間、ユダヤ人の間で、「ドイツはユダヤ人を生きたまま火の中に投げ入れて焼き殺している」との言説が広く信じられたことを起源に持ち[7]、エリ・ヴィーゼルが使い始めたといわれるが、ヴィーゼルはのちに撤回したがっていたといわれる。英語圏では「ジェノサイド」などが用語として一般的だったが、1978年アメリカで放映されたテレビドラマ『ホロコースト』[8]によって流行語となり、「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。またこの作品がドイツを含む多くの国々で放送された結果、第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人迫害、特に民族絶滅政策の実行の過程を「ホロコースト」と呼ぶことが定着した。『夜と霧』などの戦争直後に出版された書籍に「ホロコースト」と言う語が見られないのはこうした事情による。
- 「ホロコースト」という言葉の使用への批判
ただし、ユダヤ教徒の中には、神聖な儀式である「ホロコースト」の語をドイツのユダヤ人迫害を指す言葉として使用することを批判する声もあり、プリーモ・レーヴィは「虐殺行為を預言者ぶって解釈してみせる過激な宗教家」には怒りを感じると語り、またジョルジョ・アガンベンはジェノサイドでもなくポグロムでもなくホロコーストという語を使用することはユダヤ人犠牲者を神への犠牲、ナチスを祭司、焼却炉を祭壇として扱うことにむすびつき、結果としてナチによるユダヤ人殲滅政策を正当化することになると批判し、「この語(ホロコースト)をあいかわらず使う者は無知か無神経(あるいはその両方)」と批判している。
- ショア(ショアー)
燔祭に相当するヘブライ語は「オラー」であり、「焼き尽くす捧げもの」を意味した[9]。一方で特に「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合は“惨事”を意味するショアが用いられる。フランスのユダヤ系映像作家クロード・ランズマンによるドキュメント映画『ショア』が制作され、日本では1995年に上映されて以降、「ショア」という用語も用いられるようなった。
経緯[編集]
ユダヤ人問題と反セム主義[編集]
反セム主義 も参照 18世紀以降、啓蒙主義の浸透によって解放されたユダヤ人の社会的地位向上と西欧社会への同化が進むにつれて、反ユダヤ主義は宗教的なものから人種的な「反セム主義」へと変質した。19世紀後半になると、ユダヤ人の同化と地位向上によって引き起こされた「ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んになり、社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種論によって組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれた。既にユダヤ人は血統的・言語的に居住国に同化している場合がほとんどであることから、あくまで“疑似”人種・民族論である。
反ユダヤ主義・反セム主義は、ドイツ及びナチスに限定したことではなかった。イギリスやフランス・スペイン・ポーランド・ロシアその他、ヨーロッパの各国において見られ、特にポーランドなど東欧の反ユダヤ主義は残虐を極めた(関連項目ポグロム参照)。ヴァイマル共和政下のドイツはユダヤ人には比較的開放的で許容度も高かったため、ユダヤ人はドイツに多くなったとされる。
ナチス前のユダヤ人人口[編集]
1930年、ユダヤ教徒系ユダヤ人の世界的な人口分布がさまざまな本に掲載されることになったが、これは29年春にユダヤ側による人口表の作成があったためであり、これが当時の人口における唯一の情報源である。それによれば次の通り。
合計1545万9019名 ヨーロッパ1090万3864名 アジア57万0585名 アフリカ39万2736名 アメリカ357万2419名 オーストラリア1万9415名。
主要な国は次の順。ポーランド371万6010(内ワルシャワ30万)、アメリカ330万(内ニューヨーク150万)、ソ連297万0234(内モスクワ30万、キエフ14万4524)、ルーマニア95万(内ブカレスト4万2千)、ドイツ54万(内ベルリン14万2千)。以上5位。続いて、ハンガリー49万8913(内ブダペスト20万3687)、オーストリア38万(内ウィーン30万)、イギリス29万7千(内ロンドン17万5千)、トルコ15万8千(内イスタンブル6万5千)、フランス15万(内パリ6万)が10位までを占め、オランダの10万6309、イタリアの5万7千が続く。
ナチズムのユダヤ人観[編集]
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)はその創設時から反セム主義としての反ユダヤ主義を唱えていた。ヒトラーの著書『我が闘争』では「ユダヤ人問題の認識と解決なしには、ドイツ民族体再興の企ては無意味であり、不可能である」と書かれている。ヒトラーは入党前に記した最初の政治的書簡で「ユダヤ人とは即ち、無条件に人種であり、決して宗教団体などではない」という認識を示していた[10]。
ナチズムではユダヤ人は「反人間」「非人間」「最低の人種」であるとされたが、同時に「他の人種や共同体に巣くう寄生虫」「黒死病よりも悪質なペスト」であり、「すべての反ドイツ的なものの創造者」であるとされた。つまり第一次世界大戦の張本人であり、民主主義・議会主義・マルクス主義・ボルシェヴィズム・資本主義・自由主義・平等主義を生み出し、ドイツに敵対する国家の背後で糸を引きながら、ドイツ人を含むすべての民族の破滅を狙っているとされた[11]。世界支配の権利を持っているのは疑いなくドイツ民族であるが、その最大の障害がユダヤ人であり、「アーリア人の勝利か、しからずんばその絶滅とユダヤ人の勝利か」の二つの可能性しかあり得ないとしていた[12]。
またナチズムは、ドイツ民族の血によって結びつけられる「民族共同体」が自らの存立する世界観であると定義しており[13]、ナチズムの人種学では、ハンス・ギュンターらの提唱する、白人、中でも北方人種の要素を多く持つ民族が優れた民族であると考えられていた[14]。ナチズムにおいてはドイツ民族の血統改良(ドイツ語:Aufartung)が重要であるとされ、血統の北方人種化(ドイツ語:Aufnordung)の一方で、遺伝病や精神病などの「質的欠格者」や、ユダヤ人や黒人といった「劣等人種 」との混血を回避する必要があるとされた[10]。
ヒトラーはや演説で「我々の社会は危機に瀕している。徒に弱者や病気の者に助けの手を差し伸べて、適者生存の原理に背いてしまったためだ」と述べている。この考えの基に推進された政策の一つが、身体障害者や精神障害者の断種や、「生きるに値しない命」(Lebensunwertes Leben)と見られた身体障害者や精神障害者を安楽死させるT4作戦であった。T4作戦で安楽死を担当した技術者達は、のちにホロコーストにおける絶滅収容所でその技術を用いることになる。
ナチズムにおけるユダヤ人の定義[編集]
ナチズムにおいてはユダヤ人は人種として扱われたが、時期によって扱いはやや異なる。1933年4月7日の『職業官吏団再建法』では祖父母のうち一人でもユダヤ教徒であれば、「非アーリア人」とみなされた[15]。9月29日の『ライヒ世襲農場法』では先祖にユダヤ人がいたというだけで「アーリア人」から外された[16]。
ニュルンベルク法の一つである「帝国市民法」は「ドイツ人あるいはこれと同種の血」を持つ帝国市民にユダヤ人は含まれないとしている。さらに「帝国市民法第一次施行令」では、祖父母のうち3人以上が「人種上の全ユダヤ人」であれば、当人の信仰によらず「完全ユダヤ人」として扱われた[17]。またこの施行令では、ユダヤ人と婚姻していた者もユダヤ人となり、「非ユダヤ教徒ユダヤ人」という扱いも存在した。さらに血統上は疑いなくドイツ人であっても、何らかの都合によってユダヤ教会に属した者も「ユダヤ教会への所属は、通例、ユダヤ的なるもののへの確固たる信仰告白」であり、「その者の子孫もかかるユダヤ的態度を受け継ぐことが当然予想される」ため、ユダヤ人として扱われた[18]。また、二人の祖父母がユダヤ人であった場合には「第一級混血児」、一人の場合は「第二級混血児」として扱われた。混血ユダヤ人は帝国市民として扱われたものの、混血児同士の結婚や、第一級混血児がドイツ人と結婚することは原則として認められなかった[19]。
ヒトラーはこれら「ユダヤ人」が人類学的には「単一人種としての特徴を示す共通の標識をもっていない」という認識を示しながらも、「にもかかわらず、疑いもなく、どのユダヤ人も、我々が特にユダヤ人の血と呼ぶところの数滴の血液を血管の中に隠し持っている」としている[20]。ただし、当時左耳の形がユダヤ人であるかどうかわかるとされており、身分証明書では左耳がはっきりと分かる形の写真が掲載された[21]。ヒトラーもこの方法を信じており、後にヨシフ・スターリンの耳を撮影させて、ユダヤ人ではないと判定している。
ナチス・ドイツ時代戦前期の反ユダヤ政策[編集]
ヒトラーは1919年の段階で「ユダヤ人全体を断固除去することが最終目標」であるという書簡を記しており[22]、その後もしばしばこれに類した演説を行っている。ヒトラー内閣成立後の1933年3月28日には党組織に対してユダヤ人商店に対する大規模なボイコット命令『反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令』を発し、4月1日から三日間にかけて行われたこのボイコットでは、私服のナチ党員がユダヤ人商店の営業や宣伝を妨害し、店舗の破壊やユダヤ人経営者への暴行、殺害を行った。警察はあらかじめその場をパトロールしないように措置されていた[23]。この全国的な運動は、それまでユダヤ人がほとんど住んでおらず、反ユダヤ主義と無縁であった地域にまで反ユダヤ主義が国家の基本方針となったことを知らしめるようになり、ユダヤ人たちは徐々に地域社会から阻害され始めた[24]。4月7日には『職業官吏団再建法』が制定され、公務員からユダヤ人を含む非アーリア人が追放された[25]。その後、この法の対象は徐々に増加し、弁護士や大学教授、医師、徴兵対象者なども対象となった[26][27]。一部のユダヤ人は国外に逃れるようになり、毎年2万人から4万人のユダヤ人がドイツ国外に脱出していた[28]。
1935年9月に制定された一連の『ニュルンベルク法』によって、ドイツ国民であったユダヤ人は「国籍を保持するが、帝国市民(ライヒ市民)ではない」という存在となり、ドイツ人および類縁の血を持つ者との婚姻や性交渉を禁じられた[29]。1937年12月からは経済分野における「アーリア化」が開始され、ユダヤ人資本の経営は解散や譲渡を余儀なくされた[30]。1939年9月1日以降にはは独立した経営を行ったり、責任者になることすら禁じられた[31]。また1938年8月17日からは、国民およびドイツ国内に滞在するユダヤ人は、姓を「ユダヤ人らしくない」姓に変更することができなくなり、また名前も「イサク」や「ラケル」など当局が指定した「ユダヤ人らしい」名前を名乗るよう義務づけられ、それ以外の名前を持つ者には「イスラエル」や「サラ」といったミドルネームをつけることが義務づけられた[32]。12月31日からは身分証明書にユダヤ人であることを示す「J」の文字が記入されるようになり、1939年4月にはユダヤ人が持つ旅券がすべて無効となり、「J」の字が刻印された旅券が新たに交付された[33]。
しかし、ヒトラーやヘルマン・ゲーリング、ヨーゼフ・ゲッベルスらといったナチ党幹部にとって、これらの措置はまだ生ぬるく感じられた。それらが解き放たれるきっかけは、1938年11月7日に発生した、駐フランスドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートがユダヤ人青年に殺害された事件であった。11月9日、ユダヤ人商店・シナゴーグなどが突撃隊員達によって徹底的に破壊された。この事件は「水晶の夜」とよばれる[34]。11月10日には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが武器を持ったユダヤ人を拘束する命令を出し、11月11日にはユダヤ人の武器保有が禁じられた[35]。
11月12日には事件の後始末についての会議が行われ、その結果をふまえたゲーリングによって三つの命令が下された。その内容は事件によってドイツ国が被った総額10億ライヒスマルクの損害を「ユダヤ人」に賠償させるというものであった[36]。1939年4月にはドイツ国籍および無国籍のユダヤ人はその全財産の20%を賠償として国に支払うこととなり[36]、さらに破損した店舗や施設の修復も義務づけられただけでなく、損害を申請して保険金を受け取る権利すら奪われた[37]。この決定が行われた同日、ゲッベルスはライヒ文化協会会長の権限でユダヤ人の文化・娯楽施設への入場を禁じ、ミュンヘンでは一週間あたり引き出し可能額が100ライヒスマルクに限定された。11月13日の冬季援助活動の集会で、ゲッベルスは「ユダヤ人問題は今後ごく短期間のうちにドイツ民族の感情を満足させる解決策を見いだすことであろう」と演説した。翌日の「フェルキッシャー・ベオバハター」は「ユダヤ人問題の最終解決」という見出しの記事でゲッベルスの演説を掲載し、「すべてのユダヤ人は今後一切の慈悲無しに取り扱われることになるだろう。そのことを欲したのは彼ら自身なのだ」と警告した[38]。この後もドイツ人学校からのユダヤ人生徒の排除、運転免許の剥奪、毛皮・宝石類・伝書鳩・自動車の保持禁止、第一次世界大戦の恩給停止、ベルリン市内の大規模なユダヤ人立ち入り禁止区域の設定、寝台車や食堂車の使用禁止などの措置が矢継ぎ早に行われた[39]。 しかしこれらの措置も、新たなユダヤ人迫害のための準備作業に過ぎなかった[39]。
ユダヤ人国外移住政策[編集]
1939年1月24日には四カ年計画全権としてのゲーリングが、内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対し、「ドイツ国内からのユダヤ人の国外移住を全力をもって促進すべき」として、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒの指揮下に「ユダヤ人国外移住のためのライヒ中央本部」を設置することを命じた[40]。ユダヤ人の財産の剥奪や移動手段の制限はこうした「移住」を効率的に実行するための措置でもあった[41]。しかしこのころから、ユダヤ人を受け入れてきた南米諸国など各国が難色を示すようになり、第二次世界大戦の勃発はさらにこうした移住を困難なものとした[42]。
最終解決の決定[編集]
1939年9月のポーランド侵攻に先立つ9月21日、ハイドリヒはユダヤ人問題の「最終目標」として、ドイツ領となるべきポーランド占領地域に住むユダヤ人をできるだけ追放し、ごく少数の年に集中収容するべきであるという報告書を作成した[43]。12月から移送が開始され、ユダヤ人とポーランド人あわせて87000人が、占領地域からワルシャワなどの各都市のゲットー(ユダヤ人街)へ送致された。翌1940年11月には、400,000 人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれて交通が遮断された。これはワルシャワ市の全人口の30%に相当するが、ゲットーそのものの敷地はたった2.4%であった。各部屋に平均9.2人が住んでいたという。ゲットーへの囲い込みから収容所移送までの間に、移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅の準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情からすでにこの期間に多くの犠牲者が出ている。1941年だけでも、ワルシャワ・ゲットー住人の十人に一人(4万3千人)が腸チフスなどで死亡した。また、シンティ・ロマ人(ジプシー)の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。
この時期検討されたのはユダヤ人のドイツ国外への追放であった。この考え方は古くからあり、ヒトラーも結党間もないころの演説では「ユダヤ人にとっとと(ドイツから)出て行ってもらう」とたびたび語っている[44]。ナチ党の幹部でもあるアルフレート・ローゼンベルクは1937年の著書『Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten』の中で、「ドイツのユダヤ人の集団が毎年パレスチナに移送されるであろう、そのためにシオニズムは強力に支援されねばならない」 (p.153) と述べている。
しかし一方で、ヒトラーおよびナチ党員は、ユダヤ人問題の解決策としての大量殺戮をほのめかす発言をたびたび行っている。「シュテュルマー」の編集主幹であったユリウス・シュトライヒャーは、「最後のユダヤ人がドイツから去ったとしても、(ユダヤ人問題は)解決されたことにならない。世界中のユダヤ人が殲滅された、その時初めて解決されたと言えるのである」[45]と述べている。『我が闘争』の中には「これらヘブライ人の民族破壊者連中を、一度毒ガスの中に放り込んでやったらとしたら、前線での数百万の犠牲も決して無駄ではなかったであろう」という記述があり、ナチ党の地方幹部であったヘルマン・ラウシュニングは、ヒトラーが「(ユダヤ人の)人種単位の除去が私の使命である」「望ましくない人種を、体系的に、比較的苦痛もなく、ともかく流血の惨事もなく、死滅させる多くの方法がある」と語ったとしており[46]、1939年1月30日の国会演説は、さらにそれを直接的にしたものであり、ヒトラーがたびたびこの演説を引用したこともあって[47]、時に大量殺戮によるホロコーストを予告したものとされる。
今日私は再び予言者となろう。即ち、もし国際主義的ユダヤ人金融資本家どもが、ヨーロッパの内外で、再び諸民族を世界戦争に引き込むことに成功したとしても、その結果は地球のボルシェヴィキ化、ユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の殲滅となるであろう。
—1939年1月30日のヒトラー国会演説 (南利明 1995-11 187)
マダガスカル計画[編集]
マダガスカル計画 も参照 1940年5月頃には外務省参事官フランツ・ラーデマッヒャーが西方ユダヤ人をマダガスカル島に送ることを提案した。この案は同年6月18日のヒトラーとムッソリーニとの会談で「マダガスカルにイスラエル国家を作ることも可能である」ということを述べているように、ヒトラーを含む上層部でも検討された。国家保安本部ゲシュタポでユダヤ人問題を担当するB4課長を務めたアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は戦争終結後に5年をかけて、ドイツ占領地域に住む600万人のユダヤ人をマダガスカルに送る計画に従事していた[48]。
しかし6月24日になって、ハイドリヒは国外移送は不可能であり「最終的領域的解決」が必要であるという報告を行った[49]。ラーデマッヒャーは8月になって計画が正式に中止されたという報告を行っているが[50]、少なくとも1941年2月までヒトラーが破棄していなかったとする見解もある。[51]。いずれにしても計画の断念後、「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従って、ユダヤ人の中で生産活動にとって無価値な老人・女子・子供は移送の後に殺害し、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。
ヨーロッパ東部における組織的殺戮[編集]
このような計画とは別に、独ソ戦の開始の翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に追随してハイドリッヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツグルッペン)が戦線後方の占領地域に展開し、現地のラトヴィア人・リトアニア人・ベラルーシ人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した。この一連の作戦において最も悲惨な例が、1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊のバビ・ヤールでのユダヤ人の大量殺害である。 ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告で無警戒に集められ、入り組んだ地形を利用して先頭で行われる殺害を隠蔽し、長い列になったユダヤ人37,000 人をアインザッツ・グルッペンがこの2日間で次々に射殺した。それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。
銃撃による大量殺害は、銃撃する親衛隊員に過重な精神的な負担を負わせることとなった。このことから、その他の方法が考案され、1941年9月3日、アウシュヴィッツ第一収容所でソ連兵捕虜に対して毒ガス・ツィクロンBによるガス殺が初めて行われたとされる。
また、戦線の後方でのこれらのことは、悲惨な出来事を見聞きしたドイツ国防軍上層部、あるいはショル兄妹事件のように一般のドイツ人の中にも政権に対する疑問を拡大させることになった。
ヴァンゼー会議と「ユダヤ人問題の最終的解決」[編集]
1941年末になると、ヒムラーや国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒは「ユダヤ人問題の解決」に進展がないといらだちを募らせた。彼らは、ドイツ領内から一刻も早くユダヤ人を取り除きたいと考えたが、これにはゲーリングや軍部から反対があった。ユダヤ人は、軍事工場などで貴重な労働力となっていたからである。ハイドリヒは、移送計画を推進するため、1942年1月20日、ベルリンの高級住宅地アム・グローセン・ヴァンゼーにある邸宅(現在ヴァンゼー会議博物館)で関連省庁の次官級会議を開催した。そこでは「ヨーロッパのユダヤ人問題の最終的解決」について討議された。アイヒマンが作成したとされる議事録によると、会議でヨーロッパに住むユダヤ人1,100万人という数がハイドリヒによって確認され、その「最終的解決」なるものが決定された。ドイツ領内には230万人のユダヤ人、ハンガリーには85万人, 他の占領地域には110万人、ソビエトには500万人の合計650万人を、アウシュヴィッツ=ビルケナウなどの強制収容所に列車で送る計画が承認された。労働力として役に立つものはしばらくは生かしておくが、最終的には全員殺戮するというのである。アイヒマンによって作成された公式な議事録には直接的に殺戮を意味する表現は全く使われていないが、その他のナチ党関連文書においても使用されている「強制移住」・「特別措置」などの語を大量殺戮を意味する隠語と解釈するのが通説である。
移送の本格化とゲットー蜂起[編集]
1942年7月19日に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは強制移送の命令を下すが、その後わずか60日足らずでワルシャワ・ゲットーの住民30万人が強制収容所へ移送され、多くのゲットーは空になった。ユダヤ人たちは占領に対する抵抗活動を行うが、1943年4月19日より親衛隊少将ユルゲン・シュトロープの指揮下で第二次移送が行われることとなった。これに対してワルシャワ・ゲットー蜂起がおこるが、ドイツ軍によって鎮圧され、ワルシャワ・ゲットーは消滅した。残ったユダヤ人達も収容所に移送され、ドイツ政府はこれを「東への移住」と呼んだ。
また、1943年にイタリアの休戦によってイタリア社会共和国が成立し、1944年3月19日のマルガレーテI作戦によってハンガリー王国がドイツの占領下となると、イタリアやハンガリーからのユダヤ人移送も開始された。中でも、アイヒマンが派遣されたハンガリーでのユダヤ人狩りは過酷であり、40万人に及ぶユダヤ人が移送された。
戦時中におけるホロコースト情報[編集]
ドイツはホロコーストについて一切公式の発表をしなかったが、ドイツ占領下にある地域のユダヤ人が大量に消息を絶ったことは連合国にも漏れ伝わっていた。1942年5月のニューヨーク・タイムズ紙はバルカン半島において10万人のユダヤ人が殺害されたと報道し、6月26日のボストン・グローブ紙はポーランドにおいて70万人以上のユダヤ人が殺害されたと報じた[52]。また、ロンドンのポーランド亡命政府もユダヤ人殺害に抗議を行っている[53]。6月29日には世界ユダヤ人会議が100万人以上のユダヤ人が殺害されていると発表し、ナチス・ドイツによる「ユダヤ人絶滅計画」の存在を訴えた[54]。世界ユダヤ人会議の報告書を見たアメリカにおけるユダヤ人指導者の一人スティーヴン・サミュエル・ワイズは、国務次官補に救済を求めた。11月24日、国務省はワイズに報告書が正しいと認め、ワイズはこの報告書を公表し、ホロコーストがアメリカで公式に知られるようになった[54]。この報道はアメリカのユダヤ人社会に衝撃を与え、かねてから高まっていたシオニズム運動、つまりパレスチナでのユダヤ人「コモンウェルス」建設の動きを加速させ、アメリカ政府による「イスラエル建国」承認につながることとなった[55]。12月17日には西側連合国が「ドイツ政府がヨーロッパにおいて野蛮なユダヤ人絶滅政策を行っている」と公式に批判したが、国際世論に与えた影響はほとんどなかった[53]。
ただし、これらの公的な動き以前に、ドイツ警察の無線を解読していたイギリスやアメリカにホロコーストに関する情報が渡っていたが、彼らがさまざまな事情からその阻止に動かなかったという指摘も行われている[56]。
ドイツ国内においては一般国民のおよそ三分の一が、ユダヤ人が大量に殺害されているという情報や噂を聞いていたとも言われている[57]。大戦後に行われた市民に対する調査では、これらの「犯罪行為」をニュルンベルク裁判開始後にはじめて知ったという回答が全体の3分の2を占めた[58]。
戦後の扱い[編集]
戦後におけるイスラエル建国も、ホロコースト被害者であるユダヤ人に対する同情が後押ししたという意見がある[55]。戦後イスラエルや各国のユダヤ人はホロコーストに対する研究と、ホロコーストの広報活動を活発に行っている。ドイツの多くの町や村においては毎年11月9日に、かつてシナゴーグが存在した場所で追悼式典が行われている[57]。アメリカ合衆国においては1978年の『ホロコースト 戦争と家族』の放送以降、特にホロコーストに対する関心が高まり、大統領がホロコーストの記憶を保ち続けるよう要請した。ジミー・カーター大統領は「ホロコーストに関する大統領諮問委員会」の設置を命じ[59]、毎年「ホロコースト犠牲者を記憶する日」の式典が行われ[60]、各地にホロコースト博物館が建設され、大学などでの講座も増加した[61]。2005年には国際連合において、毎年1月25日を「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」とするという決定が行われている[59]。同様にヨーロッパ各国にもホロコーストを記念する日が存在する[59]。
一方で、戦後社会におけるイスラエルが、こうしたホロコーストを利用しているという批判や、ホロコーストが商業貸しているという批判[62]も生まれている。2000年にはアメリカのノーマン・フィンケルスタインが世界ユダヤ人協議会などがホロコーストを金をゆすり取る手段、つまり「ホロコースト産業」であると批判し、各国での論争を招いた[63]。またホロコーストを否定する動きも根強く残っている。
絶滅収容所[編集]
ドイツ国内には、すでに戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在したが、それらの収容所は当初は比較的小規模であり、政治的敵性分子や西側の捕虜などが比較的多く収容されていた。のちに収容者たちの労働によって拡張され、ユダヤ人だけでなく、ロマ人その他の人々が雑多に収容され、収容者はのべ20万人を超えることになる。特にダッハウは薬草農園労働と生体医学実験で有名である。同地には43年に「バラックX」と呼ばれる死体焼却炉付きガス室が建設されたが、完成せず実用には至らなかったと言われる。しかし、このことはガス処分がなかったことを意味するのみで、墓地その他の調査によれば、実験による感染・郊外での銃殺などにより、労働強制収容所だったはずのダッハウから数万人の組織的大量虐殺(ホロコースト、ただしユダヤ人以外をも多く含む)が始まった事実は揺るがない。
絶滅を目的とした収容所としては、1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ・トレブリンカ・マイダネク・ベウジェツ・ソビボルなどの収容所が次々と完成し、ゲットーや占領地域から多くのソ連兵捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地に建設され、収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所では、ほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ90万人がそこで殺されたという。
1944年中頃には、「最終計画」はおよそ完成していた。ナチスが容易に手の届く範囲のユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅された。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25% が殺害された。5月にヒトラーは、「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と演説している。1944 年後半になると、殲滅計画を続けることは難しくなった。ドイツ軍はソビエト連邦やバルカン半島・イタリアから撤退を余儀なくされ、同盟国の日本とイタリアも敗色が濃厚になった。ロシア軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収容所に移された。すでにドイツのインフラは崩壊寸前であり、ユダヤ人は収容所から収容所へ食料もなく雪の中を無理に徒歩で移動させられた(死の行進 (ホロコースト) )が、その過程でさらに10万人死んだ。
解放と終戦[編集]
収容者に比べて管理する親衛隊の看視兵数は非常に少なく、またしばしば敵機が飛来したことから戦況の悪化が収容者にも知られ、ソビボルとトレブリンカでは蜂起が発生したが、いずれも鎮圧された。トレブリンカではこのとき少数ながら脱走に成功する収容者が出たため閉鎖され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に統合された。その他の収容所も、アウシュヴィッツの収容能力が上がったため同様に統合された。東部占領地域の収容所は証拠を残さぬよう徹底的に破壊された。90万人の死体が埋められたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。1944年7月23日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945年1月27日アウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の1944年10月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病者や残留を希望した者など約7,000人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠はほとんど隠滅されていたと言われる。ベルゲンベルセンでは捕虜6万人が保護され、死体1万3千体が遺棄された状態で発見された。またダッハウ強制収容所を占領したアメリカ軍は、その凄惨さを見て看守達を殺害するという事件が起きている(ダッハウの虐殺)。その後アメリカ軍は、強制収容所内部を地域住民に強制的に見学させた。
犠牲者[編集]
犠牲者について正確な資料が残されていない。ドイツ降伏直前や収容所の解放直前、戦犯追及を恐れる関係者により各種書類は破棄された。これはどこの国でも同じようになされるため、特に後期の犠牲者の数を推測するのは困難である。なお、ユダヤ人の定義は国や時代によって異なることに留意すべきである。著名な犠牲者はCategory:ホロコースト犠牲者、収容されたものの死を免れた者についてはCategory:ホロコースト生還者参照。
ソ連・ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキア・ルーマニアといった東ヨーロッパの国々に犠牲者数が多い。一方で古い調査はプロパガンダもあり、被害者数が大きく見積もられる傾向もあった。またソ連は自国での大量殺戮事件であるカティンの森事件、ヴィーンヌィツャ大虐殺もドイツの犯行であると主張していたが、ニュルンベルク裁判では証拠不十分で告発されていない。
- ユダヤ人
- 出身国別の犠牲者数
- このほか
- シンティ・ロマ人: 250,000 - ロマに対する迫害は特にポライモスと呼ばれる。
- 同性愛者: 10,000から25,000 - ナチス・ドイツによる同性愛者迫害
- 精神障害者・重病人など: 20,000から30,000 - T4作戦
- エホバの証人:約2,000 - エホバの証人とホロコーストを参照
合計すると1100万人前後 (ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人) となっている。
ホロコーストを免れたドイツのユダヤ人[編集]
亡命せず、国内に残留したユダヤ人がすべて収容所に送られたわけではなかった。国際的な哲学者カール・ヤスパースの妻ゲルトルートなど、迫害を受けながらも収容所送りをかろうじて免れた者もいる。当時健在だった作曲家リヒャルト・シュトラウスの息子の妻はユダヤ人だったが、妻本人もその子供(リヒャルトの孫)も強制収容所に送られることはなかった。伝説的な大作曲家であるリヒャルト・シュトラウスの名声をナチスがはばかったためとも、リヒャルトがナチスに協力した代償ともいわれている。ヒトラーの料理人を務めていたマレーネ・フォン・エクスナーの家族は、アーリア人認定を受けて収容所送りを免れた。
アウシュヴィッツの死亡者数についての諸説とその推移[編集]
収容所のなかで最大規模であったアウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、しばらくの間、連合諸国によるアウシュヴィッツの調査を許可しなかった。そのために、死亡者数については色々な説がある。ニュルンベルク裁判ではソ連検察が「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と主張し、ニュルンベルク裁判においてソ連・ポーランド調査委員会はアウシュヴィッツで400万が死亡したと告発し、イギリス軍の裁判でも450万人が死亡したと告発されたが[64]、収容所長ヘスの裁判の際には最大でも150万人を超えないと認定された[65]。
1990年までアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡の記念碑には400万と書かれていた。1995年には完全にソ連側の主張が否定され、公式の記念館も全て150万に書き換えられた。1999年の検討では110万人と見積もられている[65]。ラウル・ヒルバーグは、アウシュヴィッツで死亡した収容者は「125万人」と推計。ユネスコは犠牲者「120万人」としている[66]。(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に詳細)。
ホロコースト裁判[編集]
戦後のニュルンベルク裁判でホロコーストの審理が行われ始めたのは1946年2月8日以降であった。国家保安本部長官だったエルンスト・カルテンブルンナーの弁護人は、彼がアウシュヴィッツを訪れておらず、従ってホロコーストを知らなかったということを立証しようとして、アウシュヴィッツ収容所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスを証人として法廷に招致した。4月26日、証人台に立ったヘスは、アウシュヴィッツの実態や、ホロコーストの命令がヒムラーの直接命令であり、その命令はヒトラーの命令に基づいていたと証言した[67]。これまでの審理でホロコーストの存在を知らないと証言していたカルテンブルンナーやヘルマン・ゲーリングに対する致命的な反証もあり、両者の有罪につながった。ニュルンベルク継続裁判のポール裁判 やIG・ファルベン裁判 でもヘスは証言を行い、「ツィクロンB」の製造や使用に関わった人々が有罪となった[64]。
また、1961年4月11日からイスラエルで行われ、アドルフ・アイヒマンを裁いた「アイヒマン裁判」は、広く世界の注目を集めた。
ホロコースト否認論[編集]
ホロコーストについては、その実在や規模を疑問視する声が存在する。たとえばニュルンベルク裁判においてヘルマン・ゲーリングなどの被告が、虐殺があったことは間違いないだろうが自分たちは大量虐殺に関与していないし、そんな事実も知らなかったとして無罪を主張していたことなどが傍証として挙げられている。こうした立場は、「ホロコースト否認 (否定)」、あるいはより広い意味を包含する目的で「ホロコースト・リヴィジョニズム(Holocaust revisionism)」と呼ばれている。日本でこうした立場から単行本を出版している論者(西岡昌紀、木村愛二)は、「ホロコースト見直し論」という訳語を使っている。また、こうした立場を取る日本の歴史家加藤一郎(文教大学)は、「ホロコースト修正主義」と言う訳語を使用している。日本におけるホロコースト否認論の批判者は、「ホロコースト修正主義」という訳語を好む傾向が強い。
主な主張には、1988年にアウシュヴィッツを訪れ、同地で公開されている「ガス室」が本当に処刑用のガス室であったか否かを検証した『ロイヒター・レポート』、当時マックス・プランク研究所で化学による博士課程にあったゲルマー・ルドルフのルドルフ・レポート(1993)がある。また歴史家であったデイヴィッド・アーヴィングも「ナチス政策の正当化とホロコースト否定」について著書を記しているが、1996年にはアメリカ人の歴史学者デボラ・リップシュタット は、アーヴィングが意図的に事実をゆがめて書いていると非難した。アーヴィングはリップシュタットと彼女の書籍を出版した会社を名誉毀損で訴えたところ、イギリスの裁判所ではリップシュタットの主張が正しいと認定される事件が起きている(アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件 )。2006年、アーヴィングはオーストリアの裁判所によってホロコースト否定の罪によって起訴され、この場で「私は1989年にホロコーストを否定したが、1991年にアイヒマン論文を読んでからは認識を改めた」「ナチスは数百万人のユダヤ人を殺した」「具体的な数字は知らない。私はホロコーストの専門家ではない」と、自らの否定説を撤回するような発言を行ったものの、3年の懲役刑を受けた[68]。
また日本では、一連のユダヤ陰謀論書籍で知られる宇野正美がアンネの日記は捏造であると述べたフランスのロベール・フォリソン などの説や、ロイヒター・レポートを引用してたびたびホロコーストを否定する書籍を出版している[69]。また社会問題となったものとしては、医師の西岡昌紀がロイヒター・レポートなどを引用して書いた、「『ガス室』はなかった」という記事が、月刊誌「マルコポーロ」(1995年2月号)に掲載されたマルコポーロ事件が特に著名である。 この記事は寛容博物館 の運営団体であるサイモン・ウィーゼンタール・センターによって激しい抗議を受けた。出版元だった文藝春秋は当時の社長・田中健五が公式に謝罪して退任するとともに、マルコポーロそのものの廃刊と編集長の花田紀凱の解任を決定した。1997年には自らの否定説を梶村太一郎と金子マーティンによって批判された木村愛二が、掲載誌の『週刊金曜日』と著者の二人を名誉毀損で告訴しているが、1999年2月に全面敗訴している。この際裁判所は「ホロコーストは世界にあまねく認められた歴史的事実」という認定を行っている[69]。
2006年3月6日、イラン国営日刊紙Jomhouri-e Eslami(Jomhouri Islami/ジョムホーリ・イスラーミ)の準公式的記事は、元ドイツ連邦共和国首相ヘルムート・コールがドイツにおけるイラン人ビジネスマンたちとの夕食会の席で、イラン大統領マフムード・アフマディーネジャードの発言「ホロコ-ストは作り話」という件に関し「心底賛成する」と述べ、また「アフマディネジャド大統領が言ったことは、我々が胸に深く秘めていたことだ。我々はこのことを長い間言いたかったが、言う勇気がなかった」とも述べたと伝えた。[70]。しかし後にコール自身が公式にこの発言を否定し、その根拠も存在するため、これは誤報であったことが判明した[71]。また同年の12月11日にはホロコースト・グローバルヴィジョン検討国際会議という否定論者を集めた国際会議がテヘランで開催され、欧米諸国などから強い批判を受けた。
2008年11月、聖ピオ十世会の司教リチャード・ウィリアムソンは「ユダヤ人600万がガス室で殺害されたことは史実ではない」と語り[72]、ユダヤ人の死亡者総数は約20万から30万人だと主張した(これは歴史修正主義者の説とほぼ一致する数である)。ウイリアムソンら聖ピオ十世会の聖職者は1988年に叙任問題で自動破門されていたが、教皇ベネディクト16世は聖ピオ十世会との宥和を目指すため、2009年1月に彼らの破門を解除した。バチカンは破門解除にあたってウィリアムソンの発言を知らなかったと釈明している。ベネディクト16世はホロコースト否認をくりかえし非難しており、ウィリアムソンは後に聖ピオ十世会からも追放された。
ホロコースト否定禁止法および関連法[編集]
ドイツ[73]、フランス[74]、オーストリア[75]、ベルギー[76]、ルクセンブルク[77]などでは「ナチス(政権下におけるドイツ)の犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されている。2004年にはイスラエルで、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」が制定された。
また、フランスの人種的憎悪教唆罪など、人種差別禁止法律に抵触して「ホロコースト否定」が裁かれる事例もある。これらの罪で有罪判決を受けたホロコースト否認論者ロジェ・ガロディはこれらの法律が欧州人権条約に違反しており、権利を否定されたとして欧州人権裁判所に訴えた。1998年に同第四小法廷はこの訴えを不受理とし、ガロディの主張が明白な人種主義によるものであると裁定した[78]。
現在[編集]
ドイツ公文書の一般公開[編集]
2006年5月16日、ルクセンブルクで開催されたドイツを含む関係国11か国と赤十字国際委員会(ICRC: The International Committee of the Red Cross)による年次総会で一般公開に関する合意が得られ、ナチス政権下におけるドイツ政府の公文書が一般公開されることが決まった[79]。この文書は最大5000万件にも達するもので、アメリカ、ポーランド、ドイツ、イスラエルを始めとした11か国とICRCがドイツ中部のバート・アーロルゼンにある国際追跡事業 という名前の公文書館で共同で管理している。
公文書には強制収容所に収容されたり虐殺された人々約1750万人の個人情報が、収容された経緯やその後の処置なども含めて詳しく記載されているものがあるという。
同公文書はドイツの行為の直接被害を受けた者あるいはその遺族だけが特別に閲覧を許されてきた。同公文書館には毎年15万件もの問い合わせがあったというが、一般閲覧できる資料が限られていたため、研究者にとっては調査の障害となっていた。
ドイツ政府は国家賠償問題が新たに発生することを懸念して、プライバシー保護を建前としてこれまで一般公開を拒んできたが、その他のITS管理者、つまり関係10か国と赤十字国際委員会は一般公開を希望していた。アメリカやフランスなど関係国の圧力と、戦後60年という歳月が流れた事実が、ドイツが一般公開を受け入れることになった要因となったとされる。
ホロコースト記念碑とその論争[編集]
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑 も参照 2005年5月12日、ベルリンのブランデンブルク門の南に「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑 Denkmal für die ermordeten Juden Europas」(通称ホロコースト記念碑)が一般公開された[80]。[81]。設計したのはアメリカ・ニューヨーク在住のピーター・アイゼンマン。建設計画はドイツ再統一前の1988年に、開始されたが[82]、慰霊対象者をユダヤ人に限定するのか、それとも戦争犠牲者、シンティおよびロマ、同性愛者、強制労働者、障害者などの犠牲者全体を対象とするか、またなぜこのような巨大な記念碑を建設する必要があるのかで激しい論争が起きた。1999年、連邦議会は、対象をヨーロッパのユダヤ人に限定することが可決。2003年4月から建設が開始されるが、コンクリートの液化装置と石碑の落書き防止に関わっていたデグサ(Degussa)社が、ナチス時代に強制収容所で使用されたツィクロンBの製造会社の姉妹会社であることが判明し、同年10月に工事は一時停止される。建設責任者のレア・ロッシュ は非難されたが、結局、デグサ社への委託は続けられ、同年末に工事が再開され、第二次世界大戦終結および強制収容所解放60周年、ドイツとイスラエルの国交樹立40周年である2005年の完成に至った。
なお、ユダヤ人以外のシンティとロマ、同性愛者といった犠牲者のための記念碑は、連邦政府がすでに建設案を決議し、現在建設計画中である。
イスラム世界における認識[編集]
イスラム世界では、ホロコーストに対するユダヤ人への同情論が結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へとつながったとする反発から、ホロコーストを否定又は過小評価しようとする意見も根強い(特に、エジプトはファールーク1世王当時から親ナチであった)。2005年にイランのアフマディネジャド大統領が「ホロコーストはなかった」と発言。2006年12月にはイランでホロコーストをイスラエルなどの捏造だと考える世界の歴史研究者が集まり会議が開かれ、欧米諸国は言論を弾圧しデマで真実を覆い隠していると非難声明を出した。
2009年現在、イスラエル本国でもホロコーストを信じないアラブ系イスラエル人が増加している。ホロコーストは実在しなかったと信じるアラブ系イスラエル人は40.5%にのぼり、2006年の調査時の28%を大幅に上回った[83]。
イスラエル・パレスチナ紛争[編集]
2008年2月29日、イスラエルのマタン・ヴィルナイ国防副大臣は、パレスチナ過激派のハマースによるロケット弾攻撃に対して、「カッサムロケット弾がさらに撃ち込まれ、遠くまで着弾するようになれば、パレスチナ人はわが身のうえに大規模なהשואה(shoah、ショアー)を引きよせることになるだろう。というのは、我々は防衛のために全力を使うからだ。」[84]と述べ、「ショアー」という表現をあえて使った。この発言について、イタン・ギンツブルグ国防副大臣などは「ショアーは災害を表す普通名詞で、ジェノサイド(大量虐殺)を意味しない」[85]と火消しした(パレスチナ問題も参照)。
また、イスラエルによるパレスチナへの攻撃に対し、パレスチナ側などから「イスラエルによるホロコースト」という批判を受けている。ヴィルナイ発言は、その批判に拍車を掛けることになった。
エルサレムのホロコースト記念館「ヤド・ヴァシェム(記念と記憶)」は、パレスチナ人の村を占領したあとに造られている要出典。
ホロコースト関連作品[編集]
映画[編集]
- 夜と霧 - 1955年、フランス、監督:アラン・レネ
- ショア - 1985年、フランス、監督:クロード・ランズマン
- シンドラーのリスト - 1993年、アメリカ
- ベント/堕ちた饗宴 - 1997年、イギリス
- ライフ・イズ・ビューティフル - 1998年、イタリア
- 聖なる嘘つき - 1999年、アメリカ
- ホロコースト 救出された子供たち - 2000年、アメリカ・イギリス
- 名もなきアフリカの地で - 2001年、ドイツ
- 灰の記憶 - 2001年、アメリカ
- 戦場のピアニスト - 2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス
- ホロコースト アドルフ・ヒトラーの洗礼 - 2002年、フランス
- ヒトラーの贋札 - 2007年、ドイツ・オーストリア
- 縞模様のパジャマの少年 - 2008年、イギリス・アメリカ
- 黄色い星の子供たち - 2010年、フランス
- アンネの追憶 - 2009年、イタリア
- ハンナ・アーレント - 2013年、ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作
テレビドラマ[編集]
- ホロコースト 戦争と家族 - メリル・ストリープ主演。
書籍[編集]
- アンネの日記 - アンネ・フランク
- 夜と霧 - ヴィクトール・フランクル(みすず書房)
- ショアー - クロード・ランズマン(作品社)
- ゼルマの詩集 強制収容所で死んだユダヤ人少女 - ゼルマ・ミーアバウム=アイジンガー 著、岩波書店、1986年12月(ISBN 4-00-500119-X)
- ハンナのかばん アウシュビッツからのメッセージ - カレン・レビン著、石岡史子 訳、ポプラ社、2002年7月(ISBN 4-591-07309-2 (ハンナ・ブレイディに関して)
- マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語 - ホロコーストを描きピューリッツァー賞を受賞した漫画作品
- 暗闇の中で マーリオン・ザームエルの短い生涯1931−1943 - ゲッツ・アリー 著、三修社、2007年7月(ISBN 4-384-04073-3)
- ジャック・デロシュの日記―隠されたホロコースト - ジャン・モラ(Jan Mora)著、岩崎書店、2007年6月
- ハンナの戦争 - ギオラ・A・プラフ(Giora A. Praff)著、ミルトス、2011年5月(ISBN 978-4-89586-151-9)
- 私はホロコーストを見た 黙殺された世紀の証言 1939-43(上・下)- ヤン・カルスキ(en:Jan Karski)著、吉田恒雄訳、白水社、2012年9月(ISBN 4-560-08234-8 ISBN 4-560-08235-5)
- ショアーの歴史 ユダヤ民族排斥の計画と実行 - ジョルジュ・ベンスサン著、白水社(文庫クセジュ)、2013年8月(ISBN 4-560-50982-1)
絵画[編集]
- ホロコーストの遺品-村田茂樹
脚注[編集]
- ↑ 高橋哲哉『国家と犠牲』NHKブックス、66頁
- ↑ ジーニアス英和辞典 第五版、大修館書店、1992年
- ↑ 3.0 3.1 「結局、ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産物というよりも、精神とか、共通理解とか、一致や同調の問題であった。この企てに加担したのは誰なのか。この事業のためにどんな機構が作動したのか。絶滅機構はさまざまなものの集合体であった。全作業を担った官庁はなかった。ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかったし、特定の予算も割かれなかった。それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし、それぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった。」
ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』上、柏書房 44、50頁 - ↑ 高橋哲哉『国家と犠牲』NHKブックス,66頁
- ↑ 「新英和中辞典携帯版」第3版 1971年 研究社でも大虐殺と並んで「全焼死」を意味するとある。
- ↑ 高橋哲哉『国家と犠牲』NHKブックス、2005年
- ↑ これはエリ・ヴィーゼルの回想録『夜』で確認できる。
- ↑ アメリカNBC系列
- ↑ 高橋哲哉『国家と犠牲』NHKブックス、2005年、22頁
- ↑ 10.0 10.1 南利明 1994-06 10
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- ↑ 南利明 1995-11 195
- ↑ 南利明 1995-11 182
- ↑ 南利明 1995-11 184
- ↑ 南利明 1995-11 183-184
- ↑ 南利明 1995-11 187
- ↑ 南利明 1995-11 198
- ↑ 南利明 1995-11 168-198
- ↑ 南利明 1995-11 199
- ↑ 「実現の可能性が薄まった時でさえ、もう一度この計画は、1941年2月初めに、ヒトラーの本営で、話題にのぼった。その時に、党の労働戦線指導者ライが、ユダヤ人問題のことを持ち出したのである。ヒトラーは詳しい返答の中で、戦争がユダヤ人問題の解決を加速するであろうが、いろいろな困難も付け加わっていると指摘した。彼が言うには、最初はせいぜいドイツのユダヤ人に対処することしかできなかったが、今では枢軸国の勢力範囲全体でユダヤ人の影響を除去することを目標としなくてはならない。…自分は、マダガスカル計画についてフランスと話し合ってみよう。以上のように、ヒトラーは語った。ボルマンが、この戦争の最中にどうしたらユダヤ人をそこに運べるのかと尋ねると、ヒトラーは、その点は考えなければならないと言った。」
ラウル・ヒルバーグ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(上)301-302頁 - ↑ 池田有日子 2011 804-805
- ↑ 53.0 53.1 芝健介 2002 23
- ↑ 54.0 54.1 池田有日子 2011 805
- ↑ 55.0 55.1 池田有日子 2011 809
- ↑ 芝健介 2002 40
- ↑ 57.0 57.1 山本達夫 2002 27
- ↑ 芝健介 2002 29
- ↑ 59.0 59.1 59.2 加藤幸実 2013 59
- ↑ 加藤幸実 2013 57
- ↑ 吉田徹也 2004 337
- ↑ 加藤幸実 2013 58
- ↑ 吉田徹也 2004 328
- ↑ 64.0 64.1 芝健介 2001 26-27
- ↑ 65.0 65.1 芝健介 2001 38
- ↑ ユネスコの2007年6月28日のリリース
- ↑ 芝健介 2001 25-26
- ↑ (20 February 2006) Holocaust denier Irving is jailed BBC News BBC [ arch. ] 16 June 2009
- ↑ 69.0 69.1 松浦寛「ロベール・フォリソンと不快な仲間たち――歴史修正主義の論理と病理」上智大学仏語・仏文学論集2000年3月。
- ↑ (2006-03-05) Iran: Helmut Kohl agrees with Ahmadinejad on Holocaust Iran Focus www.iranfocus.com 2006-03-05 [...] The government-owned daily wrote that at a dinner gala with Iranian hoteliers and entrepreneurs, Kohl said that he heartily agreed with Ahmadinejad's remarks about the Holocaust. What Ahmadinejad said about the Holocaust was in our bosoms, the former German chancellor was quoted as saying. For years we wanted to say this, but we did not have the courage to speak out.[...] [ arch. ] 2011-06-18
- ↑ (2006-03-08) Kohl: I didn't deny Holocaust WorldNetDaily www.wnd.com 2006-03-08 [ arch. ] 2011-06-18
- ↑ スウェーデン国営テレビのインタビュー
- ↑ 1994年追加の刑法130条3項、(光信一宏 2009 63)など
- ↑ 1990年制定のゲソ法(光信一宏 2009 64-66)、「出版の自由に関する1881年7月29日の法律」24条の2(光信一宏 2009 54-55)など
- ↑ 1945年5月8日の憲法的法律、(光信一宏 2009 63-64)など
- ↑ 1995年制定(光信一宏 2009 63)など
- ↑ 1997年の刑法改正(光信一宏 2009 63)
- ↑ 光信一宏 2009 58-61
- ↑ 今後協定の変更作業や各国議会の承認などの法的手続きを経て、2007年に公開予定。←現在どうなったか情報を求む
- ↑ ホロコースト記念碑公式サイト
- ↑ http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/berlin_view/01/
- ↑ http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/berlin_view/01/index2.html
- ↑ 調査はハイファ大学により700人の男女を対象に行われた、と2009年5月17日イスラエル紙エルサレム・ポストが報じた。詳細は世界日報のウェブサイト「ホロコースト信じないアラブ系イスラエル人が増加」を参照。
- ↑ BBC "Dozens die in Israel-Gaza clashes"
- ↑ shoahはdisaster(災害、惨事)を表す普通名詞であり、ナチスのユダヤ人大虐殺を指す時は、定冠詞のHaをつけて、HaShoah(ハショア)という表現を使うという。ただし、ナチスによる惨事(すなわちユダヤ人虐殺)に対して、惨事を表す他の単語ではなく、shoahが主に使われる表現であることも、また事実である。
参考文献[編集]
- 『ホロコースト』中公新書、2008年4月、ISBN 9784121019431
- 『ヒトラーとホロコースト』ランダムハウス講談社 、2006年11月9日、ISBN 9784270001615
- 『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001年1月、ISBN 9784818813212
- 『ナチス第三帝国を知るための101の質問』現代書館 、2007年12月、ISBN 9784768469613
関連項目[編集]
ホロコーストに対する抵抗[編集]
研究と追及活動[編集]
外部リンク[編集]
- 「ホロコーストと国連」アウトリーチ・プログラム
- ホロコースト記念館 - 日本の福山市にあるホロコースト記念館の公式サイト
- アウシュビッツ徹底ガイド
- 米国ホロコースト記念博物館