ナチ党党大会
ナチ党党大会(正式名称は「全国党大会(Reichsparteitag)」)は、ドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が1923年から1938年にかけて行っていた党大会である。1933年のナチ党の権力掌握以来、一貫してニュルンベルクで党大会が開催されていたため、ニュルンベルク党大会と呼ばれることが多い。ニュルンベルクでの党大会は、ドイツ民族とナチ党の結合を象徴させるための一大プロパガンダとして毎年9月初めに開催されていた。
10回の党大会[編集]
政権獲得前の党大会[編集]
ナチ党の第一回党大会は1923年1月27日から1月29日にかけてミュンヘンにおいて行われた。12か所での公開党大会となった。本大会は1月28日に行われ、ここでヒトラーは自らがデザインした突撃隊旗を突撃隊の各連隊に渡した。これは後の党大会まで受け継がれる慣例となる[1]。
第二回党大会は1926年7月3日から4日にかけてテューリンゲン州ヴァイマールで行われた。ここが選ばれたのは当時のテューリンゲン州がヒトラーの演説を許していた数少ない州だったためである[2]。この党大会でクルト・グルーバー率いるザクセンのナチ党青少年組織「大ドイツ青少年連合」を「ヒトラー・ユーゲント」と改名させて党内唯一の青少年組織と定めた[1][3]。ミュンヘン一揆の失敗で党が解散させられた後に再建した後の最初の党大会であり、党の復活を世にアピールする意味が大きかった[4]。ナチ党はこの時点で弱小政党に過ぎなかったが、それでも3500人ほどの突撃隊の行進を行ってヴァイマールでの党大会を締めくくった[5]。
第三回党大会は1927年8月19日から21日にかけてニュルンベルクで開催された。およそ2万人の党員が参加した。21日の演説でヒトラーは「ドイツ民族にはもっと生存圏が必要であり、それは力による領土拡張によってのみ実現される。しかしドイツは3つの忌むべき思想、国際主義と民主主義と平和主義によって力を奪われてしまった。この邪悪の三位一体はユダヤ人が創造した物である。」と述べ、生存圏概念を反ユダヤ主義に結び付けた[6]。
第四回党大会は1931年10月17日から18日にかけてブラウンシュヴァイクで突撃隊の集会という形で行われた[7]。
政権獲得後の党大会[編集]
第五回党大会は1933年8月30日から9月3日にかけてニュルンベルクのルイトポルトハイン(Luitpoldhain)に建設された国家党大会広場で開催された。ナチ党政権獲得後の最初の党大会であり、「勝利の大会」と名付けられた。32万人から40万人の人々が参加した。この大会はレニ・リーフェンシュタールが記録し、『信念の勝利』という題名で公開された。
初日の8月30日、ヒトラーはニュルンベルクを「帝国党大会の都市」とすることを宣言した。1927年に党大会を最初にニュルンベルクで開催したのは、ドイツ国のほぼ中央に位置すること、野外イベントに適したルイトポルトハインという公園があること、ニュルンベルクのナチ党組織は大管区指導者ユリウス・シュトライヒャーのもとでよく組織されていたためその組織力をあてにできたこと、現地の警察がナチ党に好意的だったことなど実用的な理由が中心だった。政権獲得後は、ニュルンベルクが党大会の開催地となることは、かつてここが神聖ローマ帝国(第一帝国)の中心地のひとつで、皇帝カール4世の「金印勅書」(1356年)以来、1543年まで帝国議会の開催される街であったという伝統と結び付けられて理念的に正当化されるようになった。
第六回党大会は1934年9月4日から10日にかけてニュルンベルクで開催され、「統一と力の大会」と命名された。この大会からアルベルト・シュペーア発案の夜間の130基の対空サーチライトによるライトアップが効果的に使用される。レニ・リーフェンシュタールがこの党大会を記念映画にして『意志の勝利』を作成した[8]。
第七回党大会は1935年9月10日から16日にかけてニュルンベルクで開催された。党大会のスローガンは「自由」であった。この党大会中の9月13日にヒトラーはユダヤ人から公民権を奪う法律を急遽作成するよう内務省に命じ、2日後の9月15日にニュルンベルクに緊急招集した国会でいわゆる「ニュルンベルク法」として可決され、ユダヤ人の市民権を完全にはく奪した。
第八回党大会は1936年9月8日から9月16日にかけてニュルンベルクで開催された。党大会のスローガンは「名誉の時代」であった。ヒトラーはこの党大会において四カ年計画を発表した。この党大会にはイギリスの元首相ロイド・ジョージも出席しており、彼はヒトラーの演説とナチ党の党大会の美しさに心酔して、帰国後にイギリスの新聞に「我が国にもヒトラーのような優れた素質を持った指導者が欲しいものだ」と寄稿している[9]。 第九回党大会は1937年9月6日から9月13日にかけてニュルンベルクで開催された。党のスローガンは「労働」であった。この党大会には、日本から秩父宮雍仁親王が来賓として出席している。
第十回党大会は1938年9月6日から12日にかけてニュルンベルクで開催された。党のスローガンは「大ドイツ」であった。
幻となった第十一回党大会は「平和」をスローガンに1939年9月2日から開催される予定だったが、直前の第二次世界大戦の勃発により開催されなかった。以降の党大会は戦争のため開かれなかった。
出典[編集]
- ↑ 1.0 1.1 阿部(2001)、p.92
- ↑ トーランド(1979)、上巻p.249
- ↑ 『ヒトラー・ユーゲント―青年運動から戦闘組織へ』(中公新書)9ページ。ISBN 978-4121015723
- ↑ 阿部(2001)、p.135
- ↑ トーランド(1979)、上巻p.250
- ↑ トーランド(1979)、上巻p.258
- ↑ 阿部(2001)、p.186
- ↑ 阿部(2001)、p.286
- ↑ 阿部(2001)、p.324
外部リンク[編集]
- A summary of the Nuremberg books from the World Future Fund
- The Schedules for the Parteitags of 1934-1938