ナチ党の権力掌握
この項目では、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)によるドイツ国内における権力掌握の過程を記述する。この過程はドイツ語で
目次
概要[編集]
アドルフ・ヒトラーとナチ党はドイツの今までの内閣や大統領、君主達が得ることのできなかった大きな権力を表面上合法的[2]に手中した。この権力掌握の過程は大きく分けて二つの時期に分類される。ナチ党が国内有数の政党になってから、1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するまでの期間と、政権についたヒトラーとナチ党が国内外の政敵をほぼ一掃し、立法権・行政権・司法権の三権[3]をドイツ国内の権力を党、国家、そしてヒトラーによって支配するまでの期間である。後者の過程は政権獲得からほぼ2年以内の短期間であった。
背景[編集]
ヴァイマル共和政 も参照 ヴァイマル共和政期のドイツは第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を課せられ、領土は割譲された。また軍備が制限されたために大量の軍人が職を失い、失業者や武装組織ドイツ義勇軍(フライコール)のメンバーとなり、社会の不安定要因となった。彼らと国軍に残留した者は、ドイツ革命に代表される『共産主義者とユダヤ人による背後の一突き』が敗北をもたらしたと考え、ヴァイマル共和政や共産主義者を敵視するようになった。一方でコミンテルン指揮下に置かれたドイツ共産党は再度の革命を目指し、勢力を拡大しつつあった。この二つの風潮がドイツの政治に深く影響を及ぼすことになる。
国会は安定多数を獲得する政党が最後まで出現せず、議会に基礎を置く首相の指導は不安定であった。またドイツ帝国以前からの伝統を持つ各州の独立傾向は強く、中央政府の権力は掣肘された。
ナチ党の躍進[編集]
国家社会主義ドイツ労働者党#歴史 も参照 1921年にヒトラーがナチ党の指導者[4]となって以降、同党は拡大を続けた。ヒトラーには魔力的とも評される演説の魅力があり、また党による演出もそれを大きくさせた[5]。ナチ党は1923年に首都ベルリンに進軍するためバイエルン州政府を掌握しようとクーデターを起こした。このミュンヘン一揆による権力掌握は失敗したものの、ヒトラーとナチ党の存在はドイツ国内外に広く知れ渡った。ナチ党はその後合法戦略に転換し、国会選挙での議席獲得を目指した。一方で党の半武装組織突撃隊は共産党の赤色戦線戦士同盟などと激しく衝突し、死者を出すことも珍しくなかった。
また政治活動が禁じられていた軍内部にも浸透を図った。しかしこの過程で党員の将校が党細胞を組織しようとしたとして、反逆罪で訴追される事態が発生した。これはウルム国軍訴訟 と呼ばれ、ナチ党の合法性をも問う訴訟となった。
1929年にはテューリンゲン州議会選挙で大幅な議席を獲得し、1930年にはヴィルヘルム・フリックが内相として州政府に入閣した。フリックは全権委任法、バウハウスの閉校、警察組織制度改革などナチ党の思想に基づく政策を実行し、テューリンゲン州はナチ党政策の「実験場」となった[6]。ヨーゼフ・ヴィルト内務大臣はナチ党の合法性を疑い、州政府から警察に出される補助金を打ち切ったが、これはライヒ政府とテューリンゲン州の訴訟に発展した。この訴訟においてはナチ党が非合法活動を行っている政党であるかどうかが争点となったが、ヒトラーは1930年9月20日に行われた「ウルム国軍訴訟」の法廷で「こうした高揚を代表する運動は、しかしながら、非合法な手段によっては準備されないのである」という「合法誓約」を行って党の合法性をアピールした[7]。また国防省がナチ党員である事を理由に職員を解雇したことは違法であると判決が下ったこともあり、ライヒ政府のテューリンゲン州への介入は違憲である可能性が高まった。こうした事で不利を察知したライヒ政府は和解に動き、12月30日にテューリンゲン州が和解に同意した。この和解によってナチ党の違法判断は行われる事が無く、ナチ党は完全な合法政党として扱われるようになった[8]。
選挙日 | 得票数 | 得票率 | 当選数 |
---|---|---|---|
1928年5月20日 | 810,000 | 2.6% | 12人 |
1930年9月14日 | 6,410,000 | 18.3% | 107人 |
1932年7月31日 | 13,750,000 | 37.3% | 230人 |
1932年11月6日 | 11,740,000 | 33.1% | 196人 |
1933年3月5日 | 17,280,000 | 43.9% | 288人 |
1933年11月12日 | 39,655,288 | 92.2% | 661人 |
1932年の大統領選挙[編集]
1929年の世界恐慌と、賠償金支払い期間が延長されるというヤング案への反発は政府への支持を一気に失わせた。1930年3月20日にドイツ社会民主党のヘルマン・ミュラー首相が辞職すると、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は後継首相に中央党のハインリヒ・ブリューニングを指名した。ブリューニングは社会民主党の協力を得て大連立による議会運営を目指したが、社会民主党を嫌っていたヒンデンブルクの意向やドイツ人民党との連携を嫌った社会民主党側の拒絶もあり、少数連立による議会運営を余儀なくされた。従来の内閣は議会勢力の支持を受けた結果、大統領に任命されるという形式が執られていたが、ブリューニング以降の首相任命においてはこれらの手続きはとられなかった。これ以降の内閣は国会を基礎とせず、ただ大統領の信任のみに基づく内閣であったため、大統領内閣 と呼ばれる。
1930年9月14日の選挙でナチ党は107議席を得て第2党となり、共産党も躍進した。一方で与党の国家人民党と人民党の議席が激減した。このためブリューニング首相の政権運営はさらに苦しくなった。ブリューニングはドイツ社会民主党の協力を得たが、議会運営は困難であった。このためヒンデンブルク大統領に議会の議決を必要としない大統領令を発出させることで政権運営を行った。1931年には大統領緊急令の数が国会採択を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5に留まっている[9]。しかし社会民主党に反感を持っていたヒンデンブルクは、次第にブリューニングへの信頼を失い、息子で陸軍大佐のオスカー・フォン・ヒンデンブルクや大統領官房長のオットー・マイスナー、国軍の実力者である国防次官クルト・フォン・シュライヒャーらといった側近グループを重用し始めた。
シュライヒャーはナチ党の協力を得ることが円滑な政権運営を可能にすると考え、ヒトラーを取り込もうとした。1931年10月14日、シュライヒャーの仲介でヒトラーははじめてヒンデンブルク大統領と会談した。ヒトラーは政府への協力を確約せず、さらに元帥の威厳に落ち着きを失ったこともあり、相互に悪印象を与えるだけの会談となった。ヒンデンブルクはヒトラーの長広舌にうんざりして「首相の器ではなく、せいぜい郵政大臣どまり」[10]と評している。10月21日、ナチ党は国家人民党や鉄兜団などの右派とともにハルツブルク戦線 を結成してブリューニング内閣とヒンデンブルク大統領への攻撃を強めた。
1932年3月、大統領選挙が行われた。ヒトラーは当初「自分は首相になるつもりだ。大統領の柄ではないし、大統領にはならないことも知っている」[11]と大統領選挙出馬を否定していたが、選挙公示の15日前に出馬を決めた。ナチ党は精力的な選挙運動を行ったが、ヒンデンブルク側はほとんど選挙活動も行わなかった。ヒトラーは次点となったが、決選投票の末に敗れた。しかしヒトラーとナチ党の勢いを物語るのに十分な結果であった。
ブリューニング内閣崩壊[編集]
選挙終了間もない4月13日、ヴィルヘルム・グレーナー国防相は、ブリューニング首相と大統領に要請してナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する大統領令を出させた。しかしシュライヒャーはこの措置に反発し、ヒンデンブルク大統領を説いて社会民主党の国旗団も同様に禁止させるべきであるという大統領書簡を発表させた。重大な問題を起こしていない国旗団を解散させることは出来ず、グレーナーはシュライヒャーの辞職要求を受けて辞任した。
さらにブリューニング内閣が打ち出した東部(東プロイセン)農業救済政策はユンカーの猛反発を受け、政権は末期状態となった。シュライヒャーは右派政権成立を目指し、再びナチ党との協調を目指した。5月8日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、突撃隊・親衛隊の禁止令を解除すること、新内閣成立まもなく総選挙を行うことと引き替えに協力を求めた。ヒトラーは応じ、次期内閣への支持を約束した。ユンカーであったヒンデンブルク大統領の信任も失い、5月30日にブリューニング内閣は総辞職した。
パーペン内閣[編集]
6月1日、シュライヒャーの旧友であるフランツ・フォン・パーペンが新首相、シュライヒャーは国防相となった。パーペン内閣には貴族出身者が多く『男爵内閣』と呼ばれた。パーペンは中央党の党員であったが、ブリューニングを裏切る形で後継首相となったことで中央党から離脱せざるを得なかった。このためパーペン内閣の与党は存在しなくなった。6月27日に密約通り突撃隊・親衛隊禁止令は解除され、国会も解散されたが、ナチ党は人気のないパーペン内閣を支持することはなく反政府の立場を鮮明にした。
7月17日に首都ベルリンを置くプロイセン州で突撃隊と赤色戦線戦士同盟が衝突し17名の死者が出た。パーペンはこの事態を利用し大統領令によって7月20日にプロイセン州政府を罷免し、自ら州の国家弁務官(総督)となって州を支配下に置いた(プロイセン・クーデター )。州政府罷免は裁判所によって違憲とされたが、パーペンは従わず乗り切った。この事件は後にナチ党が州政府を掌握する際の先例となった。
7月31日の国会議員選挙の結果、ナチ党はさらに躍進、230議席を得て第一党となった。パーペンは辞職してヒトラーに政権を渡すことを考えたが、ヒトラーを『ボヘミアの伍長』と嫌っていたヒンデンブルク大統領は許さなかった。8月5日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、副首相の地位を提示した。しかしヒトラーは首相の地位と全権委任法の成立を要求した。シュライヒャーはヒンデンブルクとヒトラーを会見させることのみ約束した。
8月13日、ヒトラーはベルリンを訪れシュライヒャー、パーペンと相次いで会談した。シュライヒャーはヒンデンブルクが提供できるのは副首相の地位だけであると再度強調し、パーペンも同じことを告げたがヒトラーは受け入れなかった。その日の午後3時、ヒンデンブルクとヒトラーの会談が始まった。ヒトラーは首相の地位を要求したが、ヒンデンブルクはあくまで拒否し、突撃隊によるテロへの警告を行うとともに、パーペン内閣への協力を求めた。ヒトラーは元帥の威厳に圧倒され、退出後には自分を『屈辱的な会談』に引っ張り出したパーペンを激しく罵った。すっかり気落ちしたヒトラーは副首相の地位でも良いかと弱気になったが、パーペンがこの会見の模様を新聞にリークしたことで激怒した。憤激した突撃隊が直接行動に出ようとする動きもあったが、突撃隊には2週間の休暇が与えられることで沈静化した。この新聞発表にはナチ党を引き入れようとしたシュライヒャーも当惑し、パーペンを見限って新政権を建てることを計画し始めた。
パーペン内閣崩壊[編集]
新国会が開催されると、ナチ党は中央党の協力を得てヘルマン・ゲーリングが国会議長に選出させた。国会は当初はスムーズに展開していたが、共産党が内閣不信任案を提出することで大荒れとなった。ヒトラーは不信任案に賛成するように命令したため、ゲーリングはパーペンを無視するような議会運営でこの不信任案を可決した。パーペンは大急ぎで国会解散の大統領令を出すことで不信任案の採決を阻止しようとしたが、ゲーリングは無視して不信任案の採決を行った。不信任案は圧倒的多数で採択されたが、同時に解散命令も発効しさらに国会選挙が行われることになった。パーペンは選挙を行わないことで政府独裁を行おうとしたが、内閣の賛同が得られず失敗した。
ヒトラーはこの選挙でさらに圧倒的な力を見せつけられると確信していたが、度重なる選挙でナチ党の資金は底をつきかけていた。このため以前の選挙のように大規模なキャンペーンを打つことは出来なかった。さらにベルリンの大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルスは、独断で共産党主導のベルリン市電ストライキ支援に突撃隊を参加させた。この行動はベルリン市民から反感を買い、新聞はナチ党を共産党扱いした。このため共産党を警戒する財界人は援助を引き上げた。11月6日の選挙ではナチ党は大いに票を失い、196議席に後退した。この結果はナチ党の勢いがピークを過ぎたという印象を与えたが、同時に共産党が着実に議席を伸ばしていることが保守派の警戒心をあおった。
パーペンはナチ党を含む各党に協力を求めたが、今まで国会を軽視してきたためあっさりと拒否された。パーペンは辞任の意向を伝えたが、ヒンデンブルクは「ペンキ屋ふぜいにビスマルクの椅子を与えるわけにはいかない」[12]と、あくまでヒトラーを拒否した。それから2回ヒンデンブルクとヒトラーの会談が行われたが、またしても交渉は物別れに終わった。この間にヒトラーを首相にするようにという請願書が多数大統領の下に送付された。特に11月19日にライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハト、合同製鋼社長フリッツ・ティッセン、ヴィルヘルム・クーノ元首相ら「ケップラー・グループ」の政財界人が連名で送った請願書は有名である (Industrielleneingabe)[13]。
事態は暗礁に乗り上げ、12月1日にパーペンは議会の機能停止と軍隊による治安維持、すなわち政府によるクーデターを提案した。しかしシュライヒャーがこれに反対し、政党の信頼を失ったパーペンの代わりに自分が首相になり、社会民主党やナチ党の一部を切り崩すことで事態を沈静化すると提案した。議論は長い間続き、疲れ果てた老体のヒンデンブルクはパーペンのクーデターを承認した。退出したパーペンは議会に秩序が戻るまでの数ヶ月間を首相として留まり、その後にシュライヒャーを首相にすると告げた。これに対しシュライヒャーは「坊さん、坊さん、汝は苦難の道を選びたり[14]」と、かつてマルティン・ルターに投げつけられた言葉を投げかけた[15]。ここにいたって二人の関係は完全に破綻した。翌日の閣議でシュライヒャーは軍や警察にナチ党が浸透しているため、強硬手段は内戦やポーランドの介入を招くとの軍の調査結果を発表した[16]。このため内閣のメンバーもクーデターに否定的となった。ヒンデンブルクも「祖国を内戦に追いやることは出来ない」として、パーペンの辞職とシュライヒャーの首相就任を決断した。シュライヒャーは「私は閣下の最後の乗馬である」として渋ったが、ヒンデンブルクが辞任をほのめかしたために応諾した。
しかしヒンデンブルクはパーペンを大変気に入っており、辞任の際も握手して落涙し、「私には一人の戦友がいた」と書かれた写真を贈った[17]。この後、パーペンはしばしばヒンデンブルクの元を訪れ、側近グループの仲間入りをした。
ナチ党分裂の危機[編集]
12月3日、シュライヒャーは正式な指名を受けて首相に就任した。しかしヒトラーの協力は得られなかったため、ナチ党の組織全国指導者であるグレゴール・シュトラッサーに副首相就任とナチ党の協力を要請した。シュトラッサーは組織の責任者であったため、ナチ党の資金力がこれ以上の選挙に耐えられないと考えており、この提案を党に持ち帰ることを了承した。しかし12月5日にホテル・カイザーホーフ で開かれた幹部会でこの提案を披露したところ、かつての部下であるゲッベルスをはじめとする幹部からヒトラーを裏切ったと猛反発を受けた。ヒトラーもシュトラッサーを猛批判し、ショックを受けたシュトラッサーは12月7日に党の役職をすべて辞任し、翌日ミュンヘンに帰った。この時、シュトラッサーは次のような言葉を残している。
今後ドイツの運命は生まれついての嘘つきであるオーストリア人と、変質者の元将校と、びっこの悪魔に握られるのだ。そしてこの最後の男が最も悪質だ。彼は人間の姿をしたサタンなのだ。
– エルンスト・ハンフシュテングル『失われた歳月』よりの引用 ジョン・トーランド著、永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』2巻、100p
ナチス左派の領袖であり、組織を仕切ってきた古参幹部シュトラッサーの離脱はナチ党にとって大きな衝撃であったが、シュトラッサーに追随する動きはなく、党の分裂は回避された。しかしヒトラーは激しく落ち込んだ。「私の夢はどれ一つとして実現しないでしょう。」「すべてが失われた時、私がどうするかおわかりでしょう。(中略)約束を守って、弾丸で自分の一生にけりを付けるつもりです。」[18]
一方でシュライヒャーは社会民主党の協力を得るため、労働組合の組織全ドイツ労働総同盟 の代表テオドール・ライパルトと接触を持った。しかし社会民主党はシュライヒャーに反感を持っており、ライパルトにシュライヒャーとの交渉を禁じた。また、シュライヒャーはユンカーを押さえようと1930年に行われた東部農業救済政策で不当な利益を得た者の調査を開始するとした。しかしこれはユンカーの猛反発を受け、自身も東部に農地を持つヒンデンブルクもシュライヒャーへの不信感を募らせた。この農地は息子オスカーの名義となっており、相続税の負担を逃れるための名義替えであるという疑惑が存在していた。
水面下の策動[編集]
この情勢を見てパーペンは復権のために動き出した。ワイン商でナチ党員のヨアヒム・フォン・リッベントロップを仲介にしてヒトラーと接触を取り始めた。1933年1月4日、ケルンの銀行家クルト・フォン・シュレーダー 男爵邸でヒトラーとパーペンは極秘会談を行った(銀行家シュレーダー邸におけるパーペンのヒトラーとの会談 )。この会談でヒトラーとパーペンによる内閣の設立が合意された。しかしこの情報は新聞記者に察知され、シュライヒャーの知るところとなる。
シュライヒャーはヒンデンブルクにパーペンに接触しないように依頼するが、ヒンデンブルクはパーペンが密かにヒトラーと交渉することを許可した。この数日後、ヒンデンブルクはシュライヒャー内閣が打ち出した、破産したユンカーの農地買い取り計画を拒否した。軍部の上層部は大半がユンカーであり、シュライヒャーはこのことで軍の支持も失った。
1月15日にはリッペ自由州 で州議会選挙が行われた。リッペ州は小さな州であり、普段は注目されないこの地方選挙をナチ党は一大キャンペーンで覆い尽くした。このことで、ドイツ国民はリッペ州選挙は国政の行方を担う一大選挙であるかのように錯覚した。選挙の結果、ナチ党は11議席中9議席を獲得して大勝利した。ナチ党は再び上り調子の党であると認識され、沈滞ムードを吹き払った。党には再び献金が殺到し、「党の財政状態は、一晩で根本的に改善された」[19]。この翌日、シュトラッサーは正式に党から除名された。1月18日、リッベントロップ邸でヒトラーとパーペンの再交渉が行われた。ヒトラーは首相の地位を再度要求したが、パーペンはヒンデンブルクやオスカーが強い反対を示し困難であると話した。この際にリッベントロップはオスカーとヒトラーの会談を提案した。
オスカーは公然とヒトラー嫌いの発言をしており、ヒンデンブルクを動かすためには彼の説得が不可欠であった。1月22日、リッベントロップの別荘でヒトラーとオスカーの極秘会談が行われることになった。オスカーは大統領官房長マイスナーを同行し、ヒトラーはゲーリングとヴィルヘルム・フリックを連れてきていた。一時間ほどオスカーとヒトラーは別室で会談し、それから食堂で豆とベーコン料理のみの会食が行われた。別室の会談で何が話されたのかは現在も明確になっていない。しかし、ヒトラーがヒンデンブルクの土地取得に関する疑惑を表沙汰にすると脅迫したものと見られている[20]。会食の後、車に乗ったオスカーは「こうなってはやむを得ない。ナチスを政府に迎えざるをえないだろう」とつぶやいた[21]。パーペンはこの時のオスカーの様子を見て、自らの首相就任を諦めた。以降パーペン・オスカー・マイスナーはヒトラーを首相にするよう、ヒンデンブルクに働きかけはじめた。
この会見の情報はすぐさまシュライヒャーにも知られた[22]が、彼に残された手段は限られていた。シュライヒャーはヒンデンブルクに国会の停止と軍部による独裁政権樹立を提案した。しかしヒンデンブルクは拒否し、しかもこの提案は外部に漏洩し、社会民主党や中央党から『憲法違反』『人民の敵』と罵られた。シュライヒャーは憲法を犯す意思はないと弁明したが、この弁明はかえって数少ない与党である国家人民党に見捨てられることとなった。これを見てパーペンは国家人民党と鉄兜団をヒトラー内閣派に引き入れた。
1月28日、シュライヒャーは最後の手段として国会の解散をヒンデンブルクに持ちかけ、受け入れられなければ自らは辞職するとした。ヒンデンブルクは再度拒絶し、シュライヒャーの辞職を求めた。しかしヒンデンブルクはなおも迷っており、次のように語った。
ヒンデンブルク大統領
「わたしがこれからしようとしていることが正しいかどうかは、私自身にもわからない。だが間もなく(天を指さして)あそこに行けば答えが出るだろう。私はすでに墓の中に片足を突っこんでいるが、後で天国に行ったときこの行為を後悔しないという確信はない」[23]
シュライヒャー首相
「このような背信のあとで、閣下は果たして天国へ行けるでしょうか?」[24]— ジョン・トーランド著、永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』2巻、113-114p
シュライヒャーが去った後、パーペン・オスカー・マイスナーがヒンデンブルクの元を訪れた。ヒンデンブルクは再びパーペンに組閣をすすめたが、彼は拒否した。「ではあのヒトラーを首相にするのが、わしの不愉快きわまる義務なのかね?」[25]と答えたヒンデンブルクは、パーペンを副首相、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク中将を国防相にすることと条件にヒトラー首相指名を了解した。翌日1月29日、パーペンは大統領の言葉をヒトラーに伝えた。ヒトラーはこの条件を承諾し、かわりに総選挙の実施と、選挙後の全権委任法の制定を要求した。パーペンはもっともな条件であると了解し、合意が成立した。
ヒトラー内閣成立[編集]
首相への道が開けたことにヒトラーとゲーリング、ゲッベルスは喜び、マグダ・ゲッベルスが焼いたナッツケーキで祝宴を開いた。そこにシュライヒャーの使者ヴェルナー・フォン・アルフェンスレーベン が訪れ、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に指名すれば、軍部のクーデターが起こると警告して去った。ヒトラーは驚き、ベルリンの突撃隊に警戒態勢を取らせ、党員である警察幹部にヴィルヘルム街(官庁街)の占領準備を命令した。さらにジュネーブ軍縮会議から帰国中のブロンベルク中将に連絡し、ベルリン駅から大統領官邸に直行させた。この措置は一揆の発生に対応するためと、シュライヒャーとの連絡を絶ってブロンベルクを確実に味方に引き入れるためであった。
翌1月30日朝、大統領官邸に新内閣の首脳が集まった。しかしナチ党と連立を組む予定であった国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクはナチ党が要求する総選挙に反対し、新政府発足は遅れた。パーペンは午前11時までに政府が成立しなければシュライヒャーと軍のクーデターが起こると激高した。そこにヒトラーとゲーリングが到着して選挙後も内閣改造はしないと言ってフーゲンベルクを説得したが、彼はなおも納得しなかった。しかしマイスナーが大統領を待たせてはいけないとたびたび注意し、解散については中央党やバイエルン人民党とも話し合うとヒトラーが告げたため、フーゲンベルクも折れた。
それから新首相の親任式が行われたが、大統領が通常行う歓迎演説や任務の説明も省略された。ヒトラーは憲法を守り、議会で過半数を制すると演説を行ったが、ヒンデンブルクは「では諸君、幸運を祈る」と言ったのみだった。ヒトラー首相就任を知ったナチ党員は歓喜し、街に繰り出して行進した。夜にはゲッベルスの演出で松明を持った突撃隊員が大行進を行った。後に「白いバラ」運動を起こす反ナチ運動家となったショル兄妹の姉・インゲは、「ラジオも新聞も今後ドイツのすべてがよい方向に進むであろう」と報じていたと回想している[26]。
ヒトラー内閣は首相こそヒトラーであるものの、閣僚の選定は各党の希望を入れてパーペンが選定した。ナチ党員の入閣は内相のヴィルヘルム・フリック、無任所相のゲーリングの2名のみであった。このため外部の観測では実権がパーペンのものであると見られていた[27]。パーペン自身もそのつもりであり、「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語っている[28]。
治安権力の掌握[編集]
2月2日、ヒトラーは中央党との話し合いが決裂したとして、早速国会を大統領令により解散させた。さらに軍の支持を得るために、ハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長(参謀本部の秘匿名称)宅で軍幹部を集めて政策の説明を行った。会談を仲介したのは新国防相のブロンベルクであった。ヒトラーはマルクシズムと「悪性腫瘍のような民主主義」の根絶を述べた。また「東方における領土征服とその容赦ないドイツ化」(東方生存圏)のために再軍備を行うとした。また軍事組織になるのではないかと警戒されていた突撃隊に関しては、軍隊が「唯一の武器の所持者であり、その組織に手を加えるつもりはない」と話した。ヴェルナー・フォン・フリッチュ、フリードリヒ・フロムといった将軍は侵略構想に不安感を覚えたが、海軍のエーリヒ・レーダーのように好感を持って迎えた将軍も存在した。これ以降、この時ヴィルヘルム・フォン・レープが感じたようにヒトラーとナチ党は軍部の取り込みに力を入れるようになった。一方で国防軍にかわって軍となることを目指していた突撃隊幕僚長エルンスト・レームを始めとする突撃隊幹部は次第に反感を募らせていった。
2月4日、「ドイツ民族保護のための大統領令 」が発出され政府による集会・デモ・政党機関紙の統制が行われることになった[29]。2月6日、かねてから中央政府やナチ党に反発していたプロイセン州政府に対して「プロイセン州における秩序ある政府状態を確立するための大統領令 (Verordnung des Reichspräsidenten zur Herstellung geordneter Regierungsverhältnisse in Preußen)」が出され、プロイセン州は国家弁務官となるパーペンの指揮下に置かれることになり、新しい州内相にゲーリングが就任した。これにより全土の3分の2を占めるプロイセン州の警察権力はナチ党によって握られることとなった。また国家弁務官は他の州にも相次いで置かれ、州の独立は失われていった。これは国家による州の強制的同一化(Gleichschaltung)の始まりであった。
州内相となったゲーリングは警察幹部を信頼できる人物に置き換え、「突撃隊、親衛隊、鉄兜団への敵意を示すような行動を避ける」ことと「国家に敵意を持つ組織には断固として対処し、銃の使用をためらわない」ように通達した。これは実質的な共産党に対する警察権力の行使であり、彼らは反発し、機関紙は政権を激しく非難した。ゲーリングはこれを『共産党叛乱の予告』として、2月21日には突撃隊、親衛隊、鉄兜団の団員5万名を『補助警察 』として雇い入れた。ラインハルト・ハイドリヒは後に「1933年にナチ党が国政の指導を引き受けたとき、自分たちにとって、国家の敵を撲滅する最重要手段の一つが警察組織でなければならないということははっきりしていた。」と述べており[30]、『警察国家』はナチス体制を示す象徴表現のひとつとなった。2月24日には共産党本部のカール・リープクネヒト館 をプロイセン州が捜索し、「共産党叛乱の計画書」を発見したと発表した。
国会議事堂放火事件[編集]
2月27日の夜、国会議事堂が炎上した。現場では一人の男、元オランダ共産党 員で国際共産主義グループ (IKG)に属するマリヌス・ファン・デア・ルッベが捕らえられた。ルッベは国会議事堂に火を付ければ革命勢力が立ち上がると考えて放火を行ったと供述している。調査に当たったプロイセン州政治警察局のルドルフ・ディールスもルッベの単独犯行であると見ていた。
しかしヒトラーやゲーリングはこれを「共産主義者による叛乱の始まり」であるとした。ヒトラーは「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」[31]と叫び、単独犯ではなく組織的な陰謀であると断定した。ゲーリングもディールスの意見を無視し、公式発表にあった「百ポンド」の放火材料も「千ポンド」と書き直した。さらに二人の共産党議員が共犯であるとも付け加えた。この日のうちに国会と地方の共産党議員および公務員への逮捕命令が出され、共産党系新聞はすべて発行停止となった。
翌2月28日、ヒトラーは閣議で「民族と国家の保護のための大統領令 」[32]と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令 (Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe)」の二つの緊急大統領令制定を提案した。これは「法的考慮に左右されずに決着を付ける」[33]ためのものであり、政府は非常大権を得た。言論・報道・集会および結社の自由、通信の秘密は制限され、令状によらない逮捕・「保護拘禁 」が可能となった。パーペンもわずかな修正を加えただけで賛成し、ヒンデンブルクも黙って署名した。この結果3000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束された。
こうした広範な保護拘禁は市民の間にも恐怖を与え、1933年の夏には「当局に反対しただけで警察の追求を受ける」という認識が広まった。さらにゲシュタポが密告を奨励したため、市民の間には友人が密告者かもしれないという恐怖心が芽生えた。また、拘禁された人々のその後が不明であることも恐怖に拍車をかけた。ウィリアム・アレン は『The Nazi Seizure of Power』において「こうした状況の下で、ナチスは、人々を威嚇するためにはほとんど何もする必要がなかった。みせしめのために左右両派の人物を攻撃し、残りのすべてを社会の自然な成り行きに任せれば良かったのだ。」と評し、市民は「今更じたばたしても無駄である」という感情に包まれたとしている[34]。
この動きは火事の発生時点からナチ党によって仕組まれた陰謀であるという説もあるが、トーランドのように火事がヒトラーとナチ党にヒステリー状態を引き起こした結果であるとする解釈もある。
「最後の選挙」[編集]
2月20日、シャハトの仲介でヒトラー、ゲーリングは国会内に置かれた議長公邸 でクルップやIG・ファルベンといったドイツ有数の企業の首脳との会合を行った (1933年2月20日の秘密会談 )。この席でヒトラーはナチ党への協力を求め、ゲーリングは「この選挙がこれから先10年間の、いやおそらくは100年間の最後の選挙となることを認識されるのであれば、われわれがみなさんに要求する犠牲は決して過大なものではないでしょう。」と語りかけている[35]。シャハトが全体で総額300万ライヒスマルクの献金を提案すると、グスタフ・クルップがルール財閥を代表して拠出した100万ライヒスマルクを筆頭に、他の企業も追随して献金した。シャハトは「(新内閣は)ナチス党が主張している『でまかせの改革』を実行するつもりはない」[36]と考えており、他の財界人も同じ考え方をしていた。ナチ党は圧倒的な資金力と国家権力で選挙活動を行えることになった。
ヒトラーは首相就任を「国家社会主義運動にドイツの指導をヒンデンブルクが託した」ものであると定義し、「国家社会主義革命」によって手に入れたものであるとした。つまりこの時点でヒトラーとナチ党は「国民と国家の指導者」(nationaler Führer)となっており、選挙はその信任投票であるとした[37]。ユダヤ人批判は押さえられたが、具体的な綱領は出されなかった。ただ「ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ、しかる後、我々に審判を下せ!」(Deutsches Volk, gib uns vier Jahre Zeit, dann richte und urteile über uns!)[38]と訴えた。党の主要な演説は、ラジオ放送された上に街頭に設置されたスピーカーからも流れた。突撃隊の暴力は警察によって見逃された。投票日の前日は「目覚める国民の日」と名付けられ、投票を促すキャンペーンが行われた。
3月5日に投票が行われ、結果ナチ党は288議席を獲得した。得票率は43.9%であり、単独過半数には及ばなかった。しかし連立相手である国家人民党の52議席を合わせれば340議席となり、過半数を越えた。共産党は票を大幅に減らしたものの、81議席を獲得した。
全権委任法[編集]
投票結果が発表された直後、ゲーリングはプロイセン州の公共建造物にナチ党党旗ハーケンクロイツ(鉤十字旗)旗を掲げさせた。中央党が抗議したが、「ドイツ住民の大部分は、3月5日に鉤十字旗に信仰を告白したのだ」と述べて撤回しなかった[39]。
3月7日、ヒトラーは閣議において選挙結果は「革命であった」と宣言し、当初予定されていた憲法の枠内に収まる全権委任法ではなく、憲法そのものを覆す包括的授権法である事を明らかにした[40]。しかしヒトラーは「かかる授権法をライヒスターク(国会)は可決するであろう。」と述べたが、憲法改正的な法律を通過させるためには国会において議員定数3分の2の以上の出席、そしてその3分の2の賛成を必要とした。さらに参議院(ライヒスラート) の賛成も必要であった。しかしヒトラーはこう続けた「共産党の議員はライヒスターク開会の際に姿を見せることは無いであろう。それというのも、彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているであろうから。」。
3月9日、突撃隊幕僚長レームとミュンヘン大管区指導者アドルフ・ワーグナーは、突撃隊を引き連れてバイエルン州首相官邸に押しかけ、州首相ハインリヒ・ヘルトに辞職を要求した。ヘルトは大統領に救援を求めたが、「首相と相談せよ」という返事を得たのみであった。ヘルトら州政府は「混乱を収拾できない」として解任され、国家弁務官にミュンヘンの突撃隊指導者フランツ・フォン・エップが任じられた。これにより、すべての州が政府の統治下に置かれ、州政府による自治は事実上終焉した[41]。
3月15日、再度行われた閣議で内相フリックが全権委任法の具体的な案を提示した。議案の内容は政府に国会や憲法に制約されない幅広い権限を授与するものであった。さらに「議長は許可を得ず欠席した議員を排除できる」「自己の責任によらず欠席した議員は、出席したものとみなされる。排除された議員も出席したものとみなされる」という議院運営規則の修正案を出した。パーペンやフーゲンベルクは国会を国民議会にし、新たな憲法作成の可能性を盛り込ませる事で授権を制限しようとしたが一蹴され、全員一致で承認せざるを得なかった[42]。
3月21日、ポツダムの衛戍教会 で新国会の開会記念式典が行われた。当日は「国民高揚の日」と名づけられ、ゲッベルスの演出による壮麗な儀式が行われた。儀式の場には旧ドイツ帝国皇族が参列し、空の皇帝玉座も据えられていた。しかし共産党議員と欠席を選んだ社会民主党議員の姿は無かった。ヒトラーは「国家社会主義運動」に国家指導が託され、「古い偉大さと若い力が結合」されたと演説した。大統領をはじめとする保守主義者はヒトラーがプロイセン王国以来の伝統を尊重すると感じた。ゲッベルスの日記によるとヒンデンブルクは眼に涙を浮かべていたという[43]。この日はナチス・ドイツ時代を通じて祝日となった。戦後はポツダムの日 と呼ばれ、ドイツの歴史における象徴的な日の一つとなる。同日午後、国会に全権委任法法案と議院運営規則改正案が提出された。また「国民高揚の政府に対する卑劣な攻撃の防衛のための大統領令 が制定され、「政府と政府を支持する政党」に反対する「虚偽の宣伝」を行うことが禁止された。すでに緊急大統領令による拘束者数は3月前半のプロイセン州だけで7700人を超えていた[44]。
国会は暫定議会場となったクロル・オペラ劇場 で行われた。閣議でのヒトラーの言葉通り、共産党議員81人全員、そして社会民主党議員26人、中央党・ドイツ人民党議員それぞれ1人は、逮捕・病気・逃亡などの理由で欠席した。緊急大統領令によって議員を拘束できるナチ党に抗う事はもはや不可能であった。議院運営規則改正案は起立多数で通過し、採択の時が迫った。中央党も党に降りかかる災難を恐れて賛成に回った。
3月23日、冒頭で議案説明に当たったヒトラーはこの法律が「国民と国家の指導の精神的かつ意思的統一を確立」するためであり、「民族の意思と真の指導の権威が結びついた一つの憲法体制をつくりあげる」ものであるとした[45]。さらに国会や州、大統領の権限は侵されないと強調した。議場を突撃隊が取り囲み、「われわれはこの法律を要求する!さもなければ放火と殺人だ!」と叫ぶ中、唯一社会民主党が反対に周り、党首オットー・ヴェルスが反対演説を行った。しかし抵抗はむなしく、圧倒的多数で可決された。突撃隊員は歓喜して党歌『旗を高く掲げよ』を合唱した。続いて開催された第二院でも、満場一致で採択された。第二院の議員は州政府選出議員であり、指示を行う州政府がナチ党によって握られた今、反対などできるはずも無かった。こうして国会が持っていた立法権は政府に吸収され、議会政治は終焉した。翌日、ナチ党の機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』は「ドイツは目覚めた。偉大な仕事が始まった。『第三帝国』の日が到来したのだ。」と書いている[46]。
国家と党の一体化[編集]
3月31日、ラントとライヒの均制化(グライヒシャルトゥング)に関する暫定法律 が制定された。これにより州議会の各党議席は国会の議席配分と同一のものに変えられた。ただし、すでに禁止された共産党は除外されている。4月7日には第二法律が制定され、国家弁務官にかわって州総督(または国家代理官、Reichsstatthalter)が設置されることとなった。これにより中央集権化の動きは加速していった。
4月10日にはゲーリングがプロイセン州首相となり、4月26日にはプロイセン州政治警察局が、プロイセン州秘密警察局に改組した。この組織は郵便略号から「ゲシュタポ」と呼ばれる。11月30日には『秘密国家警察に関する法律』が制定され、ゲシュタポの権限は国内全域に及ぶことになり、事実上ゲーリング直属となった。またこの頃には合議体であった内閣も「内閣の中で指導者の権威が完全に確立されるに至った。もはや表決が行われる事はない。指導者が決定を下すのだ。」とゲッベルスが日記に記すように、ヒトラーの独裁体制となった[47]。
国会無効化に続く次の目標は、ナチ党以外の政治勢力の消滅であった。6月21日、社会民主党の活動が禁止され、財産も没収された。この頃から他の政党も「自己解散」の道を選び、ドイツ国家党(6月28日)、中央党(7月3日)、バイエルン人民党・ドイツ人民党(7月4日)が次々と消滅した。ヒトラー内閣の与党も例外ではなく、6月21日に鉄兜団はナチ党に吸収され、6月27日にはフーゲンベルクが閣僚を辞任し、国家人民党は解散した。7月14日にはナチ党以外の政党は存続・新設を禁止された。11月12日にはナチ党のみを対象とする国会議員選挙が行われ、一党独裁体制が確立した。12月1日には「党と国家の統一を保障するための法律」が制定され、党は国家と一体であると発表された。党の組織はほぼ公的な組織となり、また、ナチ党の地域区分である大管区の指導者が事実上の地方支配者となった。
強制的同一化[編集]
ナチ党の基本理念では民族は国家社会主義運動にふさわしい考え方や行動を取ることが当然であると考えられていた。その理想的な民族による民族共同体を、一人の指導者が率いる指導者原理によって指導する体制がナチス・ドイツの理想とする社会であり、党や国家はそのための手段であると考えられた。この民族を「理想に合致した鋳型に入れて鋳直す」作業をナチ党は「Gleichschaltung」(グライヒシャルトゥング)と呼んだ[48]。この言葉は均制化、同質化の意味であり、この思想に基づきナチス体制の下で行われた一連の出来事は強制的同一化・同質化の訳語が当てられる。州自治の停止や政党解体もこの動きの一つである。
全権委任法成立に先立つ3月20日、大統領令により『国民啓蒙・宣伝省』が設立された。大臣となったのはゲッベルスであり、彼は就任直後の会見で「政府と民族全体のグライヒシャルトゥングの実現」が省の目的であると述べた[49]。以降この宣伝省が国民の意識を同質化する政策を行うことになる。
5月1日、「国民労働の日 」という労働者と政府が結束するというイベントが行われ、10万人の労働者が集まった。その翌日、ドイツ国内の労働組合は突撃隊と親衛隊の襲撃を受けて財産を接収され、解散に追い込まれた。5月10日には新たな労働組合組織としてロベルト・ライが率いる「ドイツ労働戦線」が成立し、ナチ党による労働者の組織化が行われた。5月26日には共産主義者の財産を没収する法律が定められた。
この頃から医師連盟や教職員会、フライコール、街のコーラスグループから同好会に至るまでありとあらゆる団体は解体され、ナチ党主導によるものに再編成された。ボーイスカウトなどの青少年組織も解体され、党の青少年組織であるヒトラーユーゲントに編入された。これにより、街の社会的な組織はほぼ完全に根絶され、「独裁者が歓迎するあの組織なき大衆へと鋳造された」[50]。出版・放送業界も宣伝省の監督下に置かれ、報道・表現の自由は消滅した。また、ナチズムによる「民族共同体」建設といったスローガンや、ヒトラーユーゲントなどのナチ党組織による運動によってもたらされる高揚感は、青少年たちにナチズム運動の一員であるという実感を与えた[26]。
このような動きに大きな抵抗は出ず、ヒトラーの山荘ベルクホーフはヒトラーの姿を一目見ようとする人々で賑った。海外にも熱烈な信奉者が生まれ、ドイツの「正当な要求」を理解する動きが生まれた。10月14日、ヒトラーはジュネーブ軍縮会議で突撃隊が軍隊扱いされることになったことに反発し、国際連盟から脱退した。ヴェルサイユ体制からの離脱は多くのドイツ国民の宿願であり、民族投票[51]では95.1%がこの措置に賛意を示した。ダッハウ強制収容所に収容されていた2242名中、2145名も賛成票を投じている[52]。
また、国会議事堂放火事件の共犯者に無罪判決を出すなど、一定の独立性を保っていた司法界もやがてナチ党の支配下に組み込まれた。1933年3月21日には上級地方裁判所の上に「証拠調査の必要を認めないという確信を得た場合、これを拒否できる」「判決に関してはいかなる法律上の救済も認めない」等強い権限を持つ特別裁判所が設置された[53]。9月6日からは刑法の見直し作業がはじまった。在来の法概念を根底から覆す罪刑法定主義の放棄により、犯罪そのものだけではなく、民族共同体に悪影響を及ぼすとされた「犯罪への性向」も刑罰の対象とされた[54]。さらに1934年4月24日には人民法廷が設置され、ヒトラー・国家・ナチ党・民族共同体に対する反逆はこの法廷で裁かれることとなった。この法廷においては職業裁判官と別にヒトラーに指名された者が裁判官となり、法律ではなくナチズムの見地から見て好ましい判決が要請される[55]、一種の政治裁判所であった[56]。
またユダヤ人・同性愛者・精神障害者・遺伝的疾病者などの「国民共同体に悪影響を与える異分子」を排除する動きが強まった。4月1日には突撃隊によるユダヤ人商店へのボイコット呼びかけが行われた。ヒンデンブルクはユダヤ人退役軍人への差別には強硬に反対したが、ある程度の配慮を行うという曖昧な約束がされるにとどまった。4月7日にはユダヤ人が公職に就くことは禁止され、教育機関からも追放された(職業官吏再建法 )。
長いナイフの夜[編集]
こうした動きの中で、不満を強めていったのが突撃隊の幹部達であった。彼らはこの国民革命が生温いと考えており、第二革命である「褐色革命」[57]を求めていた。彼らは政策に不満感を持っていたものの、ヒトラー個人に対する忠誠心は持ち続けた。また幕僚長レームらは、国軍にかわって突撃隊が新たな軍となることを目指していた。国軍首脳は突撃隊を押さえることを要求し、ヒトラーはレームを大臣にして懐柔しようとする一方、「新しい軍は褐色ではなく灰色になる」[58]として突撃隊を牽制した。
一方、親衛隊の長である親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは各州の警察権力を徐々に手に入れていった。1934年4月22日にはプロイセン州警察とゲシュタポの管理権限も与えられ、親衛隊は実質的な全土の警察権力を手に入れた。彼らとヒムラーに権限を譲ったゲーリングは、自分たちを「君側の奸」と見ているレームら突撃隊幹部排除の計画を建てた。
6月頃から突撃隊反乱のうわさが流れはじめ、情勢は不穏になった。6月17日、副首相パーペンがマールブルク大学で突撃隊と暗にナチ党に対する批判演説を行った。ゲッベルスは演説の放送禁止などの措置をとったものの、粗暴で同性愛者が多いなどという突撃隊に不信感を持っていた人々からは広く共感を得た。ヒンデンブルク大統領と国軍も突撃隊に対する何らかの措置を求め、もしもの場合は大統領権限で戒厳令を敷くと通告した。ここにいたってヒトラーも突撃隊粛清の意思を固め、親衛隊に準備を命じた。
6月30日、ヒトラーとの幹部会議の名目で突撃隊幹部達はミュンヘン郊外のホテルに集められていた。この日の早朝、ヒトラーは自ら幹部とともにレームらの逮捕を行った。またベルリンなどでも親衛隊が動き出し、次々に逮捕・処刑した。また前首相シュライヒャーやフェルディナント・フォン・ブレドウ将軍、元組織全国指導者グレゴール・シュトラッサー、マールブルク大学の演説原稿を書いたパーペンの秘書 エドガー・ユリウス・ユング などの政敵も逮捕・暗殺された。パーペンも自宅に軟禁され、外部との連絡を絶たれた。ヒトラーはナチ党草創期からの同志レームを助命したいと考えていたが、ゲーリングらの説得に応じて7月1日に処刑命令を出した。
こうした「長いナイフの夜」と呼ばれる一連の粛清は7月2日まで続いた。7月3日には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」が制定され、この粛清は合法的なものであるとされた。突撃隊は素行が悪く評判も悪かったために、粛清は大方の国民から好感を持って受け入れられた。こうして党内の最大勢力突撃隊は骨抜きにされ、親衛隊の勢力が大きく拡大していくことになる。
国家社会主義革命の完了[編集]
一方、すでに高齢であり衰弱していたヒンデンブルク大統領は死を迎えつつあった。パーペンはヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言書を書かせ、それを公表することでナチ党を押さえようとした。しかしヒンデンブルクはヒトラーへの私信の形で帝政復活の希望を述べたものの、公式な遺言書にはそれを書かなかった。
8月1日、緊急閣議が行われ、「国家元首に関する法律」(Gesetz über das Staatsoberhaupt des Deutschen Reichs) が制定された。これはヒンデンブルクが死んだ後に大統領の職を首相と統合し、権限を「指導者兼首相であるアドルフ・ヒトラー」個人に委譲するというものであった[59]。翌日ヒンデンブルクは死去し、法律が発効してヒトラーは国家元首の権限を手に入れた。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と称する。8月19日にはこの措置の正統性を問う民族投票が行われ、投票率95.7%のうち89.9%が賛成票を投じた(ドイツ国国家元首に関する国民投票)。すでにヒトラーに対する個人崇拝も高まっており、ヒトラーをキリストと同一視する風潮も存在した[60]。
国民投票終了の翌日、ヒトラーは肩書き無しの「アドルフ・ヒトラー」として次のような布告を行った。「ナチス(国家社会主義)革命は、権力事態としては終了した。これから1000年間、ドイツにおいてはいかなる革命も起こらないであろう」[61]。
その後[編集]
この後、ドイツ国内に残ったナチ党以外の勢力としては軍の存在があるが、ナチ党の教育を受けた若い世代の台頭、そしてブロンベルク罷免事件などにより、軍の権限もヒトラーに掌握されることになる。
年表[編集]
- 1921年 ヒトラー、ナチ党の指導者となる。
- 1923年 ミュンヘン一揆。偽装組織が国会議席を獲得。
- 1928年 ナチ党として初の国政選挙。12議席を獲得。
- 1930年 この年の選挙でナチス党は第2党の地位を獲得。ハルツブルク戦線 の結成。
- 10月14日 ヒトラーとヒンデンブルク大統領の初会見
- 3月~4月 大統領選挙。ヒトラーは次点となり、ヒンデンブルクが再選される。
- 6月1日 フランツ・フォン・パーペン内閣成立
- 7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第一党となる。ゲーリングが国会議長に就任。
- 8月5日 ヒトラーとシュライヒャーが会談。シュライヒャーはパーペン内閣協力の見返りとして副首相の地位を提示するが、ヒトラーは首相の地位と全権委任法の成立を要求する。
- 8月13日 ヒンデンブルク大統領とヒトラーの会談。ヒトラーの首相就任は拒絶され、ヒトラーも内閣への協力を拒否。
- 11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。
- 11月19日 ヒャルマル・シャハト、フリッツ・ティッセンらのグループが連名でヒトラーを首相にするよう大統領に書簡を出す。(Industrielleneingabe)
- 12月1日 パーペン内閣崩壊
- 12月3日 クルト・フォン・シュライヒャー内閣成立、シュライヒャーはナチス左派のグレゴール・シュトラッサーを切り崩すことで政権運営を図ろうとする。
- 12月8日 シュトラッサーが組織全国指導者を辞任、党内で失脚する。(翌年1月16日に正式に除名)
- 1月4日 ヒトラーと前首相パーペンが銀行家シュレーダーの邸宅で会見。シュライヒャー内閣の倒閣とヒトラー内閣成立への動きが始まる。(ケルン会談)
- 1月15日 リッペ自由州議会選挙。ナチ党はこの選挙に力をいれて勝利し、党が上り調子である事をアピールする。
- 1月18日 ヒトラーとパーペンがリッベントロップ邸で会談。
- 1月22日 ヒトラーとオスカー・フォン・ヒンデンブルク、オットー・マイスナーがリッベントロップ邸で会談。オスカーは父ヒンデンブルクの説得を承諾。
- 1月26日 パーペン、国家人民党と鉄兜団の協力をとりつけヒトラー支持に引き込む。
- 1月28日 シュライヒャー首相辞任
- ヒトラー内閣
- 1月30日 ヒトラー内閣成立。
- 2月2日 国会解散。ヒトラー、ハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長宅で国軍首脳と会談。再軍備と東方征服、突撃隊の抑制について語る。
- 2月4日 ドイツ民族保護のための大統領令。政府による集会・デモ・政党機関紙の制限が可能となる。
- 2月6日 大統領令により、プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡されることとなる。この措置は2月中旬までにほとんどの州で行われ、地方行政が国家の監督を強く受けることとなる。強制的同一化(Gleichschaltung)の開始。
- ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチ党が掌握。
- 2月20日 ヒトラー、ゲーリングとドイツ経済界首脳の会合。ナチ党は300万マルクの献金を得る(1933年2月20日の秘密会談)。
- 2月21日 突撃隊・親衛隊・鉄兜団団員5万名がプロイセン州の「補助警察」となる
- 2月24日 プロイセン州警察が共産党本部カール・リープクネヒト館を襲撃。「武力革命の計画書」を発見したと公表。
- 2月27日 国会議事堂放火事件発生。
- 2月28日 「民族と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」(Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe) の二つの緊急大統領令が布告される。後の政府が行う非常手段の大半の根拠となった。
- 3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチ党は43.9%の票を獲得、288議席を得た。
- 3月8日 ドイツ共産党が正式に禁止される。
- 3月10日 バイエルン州の国家弁務官にフランツ・フォン・エップが就任し、州政府を解体。すべての州が国家弁務官の支配を受けることになる。
- 3月12日 新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
- 3月13日 国民啓蒙・宣伝省設立。
- 3月20日 ダッハウ強制収容所設立。
- 3月21日 新国会の開会式。ヒトラーはヴァイマル共和国の伝統を否定し、ドイツ帝国からの権威継承を表明する。国民高揚の日と名付けられ祝日となる。(ポツダムの日 )
- 全権委任法成立
- 3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立された。
- 3月31日 ラントとライヒの均制化(Gleichschaltung)に関する暫定法律 公布。各州議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになり、地方自治権はほぼ停止する。4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布。国家弁務官に代わって州総督(または国家代理官、Reichsstatthalter)が中央政府から各州政府に派遣される。
- 4月4日 ヒトラー、ブロンベルク国防相が提議した再軍備計画を極秘承認
- 4月7日 ユダヤ人が公職から追放される職業官吏再建法。
- 4月26日 プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局と改名。ゲシュタポのはじまり。
- 5月1日 国民労働の日。政府と労働者の結束が謳われる。
- 5月2日 突撃隊と親衛隊が全国の労働組合支部を襲撃。ドイツ国内の労働組合が消滅
- 5月26日 「共産主義者の財産没収に関する法律」が成立。
- 6月21日 ドイツ社会民主党が禁止される。鉄兜団が突撃隊に吸収される。
- 6月27日 ドイツ国家人民党が自主解散。党首アルフレート・フーゲンベルクは経済相・食糧農業相を辞任。
- 6月28日 ドイツ国家党が自主解散。
- 7月3日 中央党が自主解散。
- 7月4日 バイエルン人民党・ドイツ人民党が自主解散。
- 7月14日「政党新設禁止法」公布。ナチ党以外の政党の存続・結成が禁止される。
- 8月30日 - 9月3日 第五回ナチ党党大会『勝利の大会』が開催される
- 11月12日 ナチ党のみが対象となった国会議員選挙 。
- 12月1日「党と国家の統一を保障するための法律」公布。ナチ党と国家の一体化が定められる。
- 1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。各州の主権がドイツ国に移譲され、州議会が解散される。すべての州公務員が国家の支配を受けることになる。
- 2月5日 州ごとの国籍が廃止となり、ドイツ国籍に統一される。
- 2月14日 参議院(ライヒスラート)が廃止。
- 2月16日 司法権の政府への委譲が定められる。
- 6月30日 「長いナイフの夜」事件。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。
- 8月1日 「国家元首に関する法律」(Gesetz über das Staatsoberhaupt des Deutschen Reichs) が閣議で定められる。
- 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。「国家元首に関する法律」が発効し、首相職に大統領職が統合されるとともに、「指導者およびドイツ国首相(Führer und Reichskanzler)アドルフ・ヒトラー」個人に大統領の権能が委譲される。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と称する。
- 8月19日 国家元首に関する法律の措置に対する民族投票。投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じる。
- 3月16日 ヒトラーが再軍備開始を宣言(ドイツ再軍備宣言)。
- 4月1日 司法全体が政府に継承され、各州すべての司法官が国家公務員となる。(司法権吸収の完了)
- 9月15日 ハーケンクロイツ旗が新国旗となる。ニュルンベルク法成立。
脚注[編集]
- ↑ テンプレート:Audio
- ↑ ナチ権力革命の合法性については議論が存在する。カール・ディートリヒ・ブラッハー は、全権委任法の成立過程においてナチ党が行った欺瞞や恐喝による同意の取り付け、左翼議員の逮捕や各州政府の改編は明らかな違法行為であったと指摘している(南利明 指導者-国家-憲法体制における立法(一) 216)
- ↑ このヒトラーが三権を掌握した状態をハンブルク行政裁判所は「三つの権利が指導者の手中にある民族指導の手段として」「一つの有機体の異なる機能」として存在すると表現している(南利明 指導者-国家-憲法体制における立法(一) 69-70)
- ↑ 独:Führer
- ↑ 南利明 民族共同体と法(三) 271-272
- ↑ 熊野、47p
- ↑ 熊野、56p
- ↑ 熊野、64p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-、10p
- ↑ トーランド、58-59p
- ↑ トーランド、62p、ハンス・フランクの回顧録より
- ↑ この時、ヒンデンブルクは大統領官房長マイスナーに「ヒトラーがかつてペンキぬりの仕事をしていたことがあるという噂は本当か」と質問している。ドイツ語において画家と塗装工は同じ『Maler』と表記される。
- ↑ ただし、この時点においても政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点での党財政の大半は党費収入によるものであったとヘンリー・アシュベイ・ターナーは指摘している。トーランド、95p
- ↑ 独:Mönchlein, Mönchlein, du gehst einen schweren Gang
- ↑ これは1521年にルターがヴォルムス帝国議会で異端宣告され、自説の撤回を拒否して退出する時に掛けられた言葉
- ↑ この時の発表に当たったのが国防省国防軍局長のオイゲン・オット
- ↑ トーランド、97p。
- ↑ クリスマスにヴィニフレート・ワーグナーへ送られた手紙。トーランド、102p
- ↑ ゲッベルスの日記の記述。児島、221p
- ↑ トーランド、村瀬興雄、林健太郎はいずれもこの考え方をとっている
- ↑ トーランド、111p、オットー・マイスナーの証言
- ↑ この会談を極秘にするためオスカーは手の込んだ偽装工作を何度も行っていた。しかしシュライヒャーの情報収集力は高く、翌日マイスナーに「昨日の一皿夕食の味はいかがでしたか?」と電話している。
- ↑ Thilo Vogelsang「Staat und NSDAP」490~491pに引かれた無署名の覚書より
- ↑ クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトの覚書。
- ↑ トーランド、114p
- ↑ 26.0 26.1 南利明 民族共同体と法(二) 78-79
- ↑ 当時のニューヨーク・タイムスは内閣の構成が「ヒトラー氏の独裁志望に祝福の余地を残していない」と論評し、東京朝日新聞1933年1月31日号の「惑星ヒトラー氏 遂に政權を掌握す」という記事でも「実権はパーペン氏の掌中」であるとしている。また国内紙のフランクフルター・ツァイトゥング 紙は「首相ではなくフーゲンベルク氏を中心に回転する」と論評した。児島、242p
- ↑ エヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィン 「Die letzte Möglichkeit」よりの引用、トーランド、124p
- ↑ 南利明 1992 269
- ↑ 芝健介 1989 77
- ↑ トーランド、135p
- ↑ 南利明 1992 266-268
- ↑ トーランド、137p
- ↑ 南利明 民族共同体と法(10) 303-304
- ↑ トーランド、142-143p
- ↑ 児島、224p
- ↑ 南、<論説>指導者-国家-憲法体制の構成、4-5p
- ↑ 1933年2月10日のヒトラー演説。
- ↑ 児島、260p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-、2p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-、6p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-、4p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-、6-8p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-、22p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-、14p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-、218p
- ↑ 南、指導者-国家-憲法体制における立法(1)、4月22日のゲッベルス日記
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-、2p
- ↑ 南、民族共同体と法(3)、11p
- ↑ ウィリアム・アレン「The Nazi Seizure of Power」よりの翻訳引用、南、民族共同体と法(1)、42-43p。
- ↑ 1933年7月14日に制定された「民族投票法」による。議会や国民の一定数の支持があれば行えたヴァイマル時代の国民投票とは異なり、投票の発議権は政府のみに存在していた。また民族投票は決定を行う手段ではなく、政府が行った決定を承認する性格しか持たなかった(南利明 指導者-国家-憲法体制における立法(一) 82-83)
- ↑ トーランド、171p
- ↑ 南利明 民族共同体と法(8) 56-57
- ↑ 南利明 民族共同体と法(8) 48-60p
- ↑ 南利明 民族共同体と法(8) 59-69p
- ↑ 南利明 民族共同体と法(9) 63-64
- ↑ 褐色は突撃隊、灰色は国軍の制服の色を指す。
- ↑ トーランド、193p
- ↑ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、19p。
- ↑ トーランド、247p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-、23p
参考文献[編集]
- 林健太郎 『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』、中公新書。
- 村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」出現の歴史的背景』(中公新書) ISBN 978-4121004789
- 南利明
- 「<論説>指導者-国家-憲法体制の構成」
- 「民族共同体と指導者―憲法体制」静岡大学法政研究第7巻2号
- 「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-」
- 「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-」
- 「指導者-国家-憲法体制における立法」1、2、3
- 「民族共同体と法―NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制―」
- 熊野直樹「ナチ党の合法性問題とライヒ・テューリンゲン紛争」九州大学法政学会『法政研究』 75(3) p43-75
- ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)2巻 ISBN 978-4087601817
- 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫)1巻 ISBN 978-4087601817
関連項目[編集]
- ナチス・ドイツ
- 強制的同一化
- 指導者原理
- 彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
- ホテル・カイザーホーフ 政権掌握前後にヒトラーが宿泊していたベルリンのホテル
- 戦う民主主義