菅直人
菅 直人(かん なおと、1946年(昭和21年)10月10日 - )は、日本の政治家、弁理士。衆議院議員(10期)、民主党最高顧問。
閣僚としては厚生大臣(第85代)、財務大臣(第13代)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当、経済財政政策担当)、内閣総理大臣(第94代)、党職としては社会民主連合副代表、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代、第8代)などを歴任した。
目次
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1946年10月10日、山口県宇部市に菅寿雄、純子の長男として生まれた(本籍地は岡山県久米郡福渡町(のち御津郡建部町、現岡山市北区建部町)。父寿雄は地元の宇部曹達(現セントラル硝子)に勤める技術者から、のちに重役に出世した。ごく普通のサラリーマン家庭に育った直人は、何不自由なく、のびのびと育った。
宇部市立神原小学校、琴芝小学校、神原中学校を経て、地元の進学校県立宇部高校に進む。宇部高校2年の夏に、父の転勤に伴って一家は東京三鷹市に引っ越した。都立小山台高校2年に編入し、卒業。
東京工業大学理学部応用物理学科に入学。学生運動にのめり込んだ。「全学改革推進会議」を立ち上げ、リーダーとして活躍した。
きちんと卒業研究をしたいとの自身の意向により一年留年し、1970年に東工大を卒業。
学生時代[編集]
- 小学校から高校まで
- 宇部市立神原小学校、琴芝小学校、神原中学校を経て、山口県立宇部高等学校へ進学。高校2年生の夏、父の転勤に伴い菅一家は東京都三鷹市に引っ越した。東京都立小山台高等学校2年に編入し、1965年卒業。
- 学生運動
- 同年、東京工業大学理学部応用物理学科(現・物理学科)に入学。在学中は学生運動にのめり込んだ。東工大の同級生によれば「大学の自治会に、中核派が入り込んでいたんですが彼は“イデオロギーでは何もかわらない。現実的な対応をしなければ”と、よく中核派に食って掛かっていた。「全学改革推進会議」なるものを立ち上げて、15人くらいを率いて極左系とは違う学生運動を行っていました」という。
- 初代内閣安全保障室長の佐々淳行によれば、「菅さんは東工大の学生時代、ノンセクト・ラジカルのグループに所属し、学園紛争を煽っていた。私は当時、警視庁警備課長として機動隊を連れ、3回ほど東工大に行ったので、菅さんを知っていました。彼は我々の間で“4列目の男”と呼ばれていた。アジ演説が巧く、聴衆を集めるが、検挙を覚悟の上でゲバ棒で逆らってくるようなデモ隊の3列目には決して加わらなかった。巧妙なリーダーでしたよ」と述べている。
- 全共闘や民青からは一線を画した「全学改革推進会議」を立ち上げ、リーダーとして活動した。先鋭化していく全共闘や、共産党の支配下にある民青にも加わらず、さらに大学寄りの体制側グループでもない第4のグループ「全学改革推進会議」を結成して200人ほどを組織し、そのリーダーとして、独自の行動をとった。
- 大学紛争の影響で卒業研究が出来なかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年。1970年東京工業大学理学部応用物理学科卒業。
結婚[編集]
菅伸子参照
弁理士時代[編集]
技術者であった父から、会社内での技術者に対する不遇を聞かされており、本屋で見つけた弁理士の本で関心を持ち、有名企業に就職しても「自分の将来・先が見える等」の理由から弁理士を志す。弁理士という職種を選んだのは、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった。
卒業後は小田島特許事務所に就職。在職中に弁理士資格を取得して独立し、「菅特許事務所」を開設する。
政界入り[編集]
市川房枝の選挙事務所代表を務め、選挙参謀として市川の当選に尽力したことが政界入りのきっかけ。その後、1976年の第34回衆院選に東京都第7区(当時)から無所属で立候補し落選したが、こうした活動が江田三郎の目に止まり、誘われる形で社会市民連合に参加。 1977年の第11回参院選では社会市民連合から出馬したがまたも落選し、1979年の第35回衆院選では社会市民連合から名称を変更した社会民主連合から出馬し、またも落選したが、1980年の第36回衆院選で初当選。土地問題などを中心に市民派の政策通として頭角を現した。
1981年には丸山ワクチンの不可思議な不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。
社会民主連合では主な役職として1978年副代表、1985年に副書記長兼政策委員長を務めた。1986年の総選挙で社会民主連合は4議席を獲得したが、選挙直後に2人ずつ日本社会党会派と民社党会派に分かれて所属することになり(その結果民社党会派が日本共産党会派を数で上回り、議会内ポストを共産党会派に渡すことを阻止した)、菅は社会党会派に属した。この形式は、1990年の総選挙まで続いた。
国鉄分割民営化では民営化支持を表明した。
1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介・議員運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した。
非自民連立政権から自社さ政権へ[編集]
- KKライン
1993年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に就任した。1994年の社会民主連合解散後は新党さきがけに入党。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として、政策調整に当たった。当時の自民党政務調査会長の加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれ、この時代に「住専処理スキーム」が決定された。
厚生大臣として[編集]
1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣(第74代)として入閣した。
- 薬害エイズ事件
- 薬害エイズ事件の処理に当たり、当時官僚が無いと主張していた行政の明白な過ちを証明する“郡司ファイル”(当時の厚生省生物製剤課長・郡司篤晃がまとめていたのでこの別名がある)を菅直人指揮の下にプロジェクトを組んで発見させ、官僚の抵抗を押し切って提出。血液製剤によるエイズに感染した多くの被害者たちに対して、初めて行政の責任を認めた。薬害エイズ事件の被害者たちに菅が土下座をして謝罪した事で被害者の感動を呼び、この厚生大臣在職中に得た功績が、菅が現実に官僚と戦った稀有な政治家としての大きな人気・政治的資産獲得の基盤となり、後の民主党結党に繋がる事になる。さらにこの事件の菅の処理は、彼が対談を行っていたカレル・ヴァン・ウォルフレンらから、日本に初めて官僚の説明責任という概念を持ち込み、「アカウンタビリティ」という言葉を定着させた、と高く評価された。
- 不法投棄問題
- 1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島(てしま)へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入り、問題解決の端緒となった。またこの年に出版した著書『大臣』(岩波新書)は、前書きで自身が「現役の政治家が岩波新書から本を出すとは異例だが」と書く通り、前代未聞の出来事でベストセラーとなった。
- 基礎年金番号制度の導入
- 菅の厚生大臣在任中に、基礎年金番号制度の導入が閣議決定された(導入は小泉純一郎が厚相だった1997年1月で、当時総指揮を取っていたのは橋本龍太郎総理大臣(当時)であった)。そのため、2007年の年金記録問題(「消えた年金記録」問題)について責任を問う主張があった(自民党では2007年3月に、年金問題に関するパンフレットを作成し、当時の年金問題の責任者は菅直人であったと言う事を併せて示した。これについては自民党内からも批判の声が上がり、またそれに対して、菅は「言いがかり以外の何ものでもない」と反論した)。
また、衆議院の会議録(136-衆-厚生委員会-28号)によると1996年6月12日に国保、介護保険の件で年金からの天引きを提案。 これにより後に後期高齢者医療制度が問題化した際、民主党が年金からの天引きを批判するのはおかしいのではないかとの指摘もある。
- O157とカイワレ問題
- また、1996年8月のO157騒動の時には、「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根への風評被害が発生し、結果倒産・破産するカイワレ農家や業者(その大半が自営業者や零細企業であった)が続出、自殺者まで出る事態となった。これらの経緯を受け、菅は記者会見の場でカイワレのサラダを食べることで、安全性のアピールを図った。その一方で、「O157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。
この問題については東京と大阪でカイワレ業者らによる損害賠償請求訴訟が起こされ、双方とも第二審で公表方法の過失が認定され、国が敗訴した。
大阪地裁での判決について、菅は、ホームページ上で「十分な科学的根拠がない」と判決が認定した疫学調査は集団食中毒などでは極めて有効な調査方法であるとして「裁判官の判断は疑問」と反論した。
民主党時代[編集]
結党・初代党代表[編集]
1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅も参加し、抽象的だった党の理念や政策を具体化した。菅は鳩山と共に代表となり旧民主党がスタートした。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流して、新民主党を結成し、代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。
1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。橋本龍太郎首相は敗北の責任から内閣総辞職に追込まれた。総理大臣指名選挙では、小沢自由党と日本共産党は第一回投票から菅に投票し決選投票では公明・改革クラブ・社民党・さきがけの支持もあり参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。
1998年の金融国会では、「われわれの要求が受け入れられれば政府の退陣は求めない」と発言し、所謂政策新人類と呼ばれた自民党若手議員らとともに、金融関連再生法案の策定に励み、実際に丸呑みと揶揄されるほど、菅らの主張が受け入れられたが(ただし、菅は雑誌で不良債権発生当時の都市銀行役員等の刑事責任を問えと雑誌で発言した事があるが、これは受け入れられなかった)、小沢一郎らは「参院選で大勝した直後に政局にしないとは弱腰極まりない」と批判するなど、この言動に対する評価は二分された。菅の金融問題への対応は素早く、経済学者金子勝は朝まで生テレビにて菅を、政治家としては最も早く金融に着目・解決のためのスキームをまとめさせたとして、菅の功績を高く評価する発言をしている。
1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙では、1月には再選するも松沢成文に善戦を許し、9月には鳩山由紀夫に敗北したが、党政策調査会長に就任した。
二度目の党代表就任[編集]
2000年(平成12年)に党幹事長に就任。2002年(平成14年)に党代表の鳩山由紀夫の辞任を受けて、党幹事長代理の岡田克也と党代表選挙を争い、党代表に再び就任した。その後、岡田には党幹事長就任を要請するなど党内融和を積極的に進めた。
民由合併・マニフェストの導入[編集]
2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した(民由合併)。
同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェスト(政策綱領)に掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例代表では自民党を上回った。
菅は党代表として、やがて衆院選を迎えるに当たり、時の小泉首相に対し、自民党はマニフェストを国民の前に提示するのかどうかを迫り、期限や事後チェック付きの政権公約としてのマニフェストと従来の公約との違いを自民党にも明確化するよう迫った経緯がある。小泉首相は、政党統一の政権公約として期限や事後チェックなどマニフェストとしての扱いを受けることを嫌い明言を避け続けていたが、実際に2003年衆院選が行なわれる段になると、小泉自民党を含む主要政党のほとんどがマニフェストを掲げて選挙戦を戦うこととなり、結果として菅および民主党が日本におけるマニフェスト選挙の定着に大きな役割を果たすこととなった。
菅個人は、この2003年衆院選において初めて比例を辞退して小選挙区のみで出馬し、比例上位優遇で国替えしてきた鳩山邦夫に完勝した(ただし、鳩山邦夫も比例復活)。
年金未納問題・党代表辞職へ[編集]
2004年6月、小泉首相との党首討論において、年金一元化を実行すると言いながらまったく着手しようとしない内閣の姿勢を「“オレオレ詐欺”ならぬ“やるやる詐欺”じゃないですか」と批判した。
小泉内閣の閣僚の国民年金未納が相次いで発覚した際、菅は街頭演説で「ふざけてますよね。“未納三兄弟”っていうんですよ」と自民党議員を批判し、年金未納問題に火を付けることとなった(“未納三兄弟”は、1999年に流行った歌“だんご3兄弟”にちなむ)。年金未納閣僚は、3人に留まらず、その後も続々と発覚し続けた。これをチャンスと捉えて民主党「次の内閣」全員の国民年金納付書を公開して国民にアピールしようとしたところ、菅自身の厚生大臣時代の年金未払い記録が明らかとなった。菅は行政側のミスであると何度も主張したが、行政側がその都度強く否定し、マスコミ報道等による世論の風当たりにより、同年5月10日に党代表を辞任せざるを得ない状況に追い込まれた。菅の代表辞任後に厚生労働省自身が、菅の主張を認めて謝罪し、菅の厚生大臣時代の国民年金未納期間も国民年金に加入していたということに訂正された。菅が主張したとおり国民年金の資格喪失は「行政上のミス」によるものであるにも関わらず、事後納付もできないため、未納は解消されず(未納期間2ヶ月)、「自身の無年金のおかしさに気付き、対応しなかったのは、政治家としてうかつさがあった」といった指摘もなされた[1]。この点につき自身は、年金の専門家であるはずの社会保険庁職員でさえ誤った手続きをしてしまう現状の年金制度の複雑さを指摘し、一元化を目指すべきだとしている。
同年7月、菅は年金未納騒動を吹っ切り自己を見つめ直したいという意図から伝統的な「お遍路さん」スタイルで四国八十八カ所巡りを開始した。また、この間法政大学大学院の客員教授に就任し、「国民主権論」と題して講義を行った 。
2005年9月11日の第44回衆院選(小泉首相の解散による郵政選挙)では、東京都の民主党候補では僅差ながらも唯一小選挙区での勝利を果たした。なお、この郵政選挙では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認(比例単独2位)でついに立候補し、事実上の一騎打ちとなった。郵政民営化・刺客選挙を展開して時流に乗る自民党に対し、民主党は党全体が大逆風を受けていたが、そんな中、菅は全開票所で勝利し、面目を保った(土屋正忠候補は比例復活当選)。
同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補し、小沢一郎からも本命視されていたものの、投票直前の演説で若き日からの辛酸と情熱を巧みに訴えた若手の代表格前原誠司に2票差で敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されたが、これを固辞し、一兵卒として前原民主党を支えると表明した。
党代表戦に敗れた後は、団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動や、バイオマスの活用を盛んに提唱し始めた。
代表代行時代(トロイカ体制)[編集]
2006年4月7日、「堀江メール問題」による前原執行部総退陣を受けて行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争い47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任。2009年5月に小沢が西松建設の違法献金疑惑に関連して自身の公設秘書が逮捕された件で辞任すると、後任の代表となった鳩山由紀夫により、引き続き党代表代行に再任された。党代表代行として国会論戦について主に担当した。
- 「子供の生産性」発言
2007年1月、柳澤伯夫厚生労働大臣の「産む機械」発言が政治問題化した際、代表代行としてこれを批判したところ、2月6日、自民党中川秀直幹事長によって、「東京は日本で一番生産性の低い大都市。何の生産性か、それは子どもの出生率において…」という民主党大会(2007年1月)における菅の演説が中川のホームページで取り上げられ、「出生率と生産性を結びつけるということは、出産と機械が結びつくことではないのか」と反撃されたのを皮切りに、翌日、公明党議員からも、名古屋市内での演説(2007年1月18日)や、山陰中央新報のインタビュー(2006年8月5日)における同様の発言を非難され、波紋を呼んだ。これら「産む生産性」発言の真意については、「12月の衆院本会議で同様の趣旨の発言をしているので議事録を読んでください」、「生産性のいい景気のいい地域では、出生率の点では低いところが多い」と弁明した後、自身のホームページで「広辞苑によれば、生産という言葉には出産という意味がある」と反論した。
- 東京都知事選挙
2007年4月の東京都知事選挙への出馬待望論が民主党内でたびたび沸き起こった。背景には民主党が都議会で与党だったにも関わらず独自候補の擁立を図る小沢執行部の方針と人選がなかなか決まらぬお家事情があり、党中央の要職にある菅本人が出馬の可能性を否定し続ける中、石原都知事に対抗できる目玉候補として朝日新聞などにも立候補を促され続けたが、これまでどおり「国政に携わり政権交代を実現する」ため「太陽が西から出ても、出ることはない」と固辞を貫いた。その一方で浅野史郎前宮城県知事など党内外の知名度の高い人物に出馬を打診したとされるがことごとく失敗した。この問題では、菅直人と親交関係にある五十嵐敬喜法政大学教授らが立ち上げた市民団体「浅野史郎さんのハートに火をつける会」(現都民のハートに火をつける会)などの説得に応える形で浅野が立候補を決意したことで、民主党は独自候補の擁立を見送って社民党などとともに支援に回ることとなった。
- 道路特定財源・暫定税率問題
2008年2月、民主党道路特定財源・暫定税率問題対策本部長として、小沢代表のもとでガソリン国会の陣頭指揮を取り、国会論戦、テレビ出演、地方視察を精力的に行う。 自民党の二階俊博、古賀誠のことを「なんとしても道路利権を守ろうという決意が表れている「利権顔」」と発言した。これに対して、二階は身体的特徴をあげつらう差別発言ではないかと反論した。また同年3月、日銀総裁の後任人事をめぐり、民主党は武藤敏郎副総裁の人事に反対したが、大蔵省出身というだけではなく大蔵省の利権顔、「ミスター大蔵省」だと発言した(2008年3月8日NHKの番組で)。さらに、その後街頭遊説において、「みなさん、自民党道路族は威張っているが、じつは国土交通省の利権を守る番犬なんですからね」と述べ、道路族幹部を重ねて激しく批判した。
- 麻生内閣に対して
麻生内閣発足後は、衆議院解散・総選挙を一刻も早く行い、国民の信を問うべきであるとの主張を続けていた。また最近は衆議院予算委員会で度々質問に立ち、菅の質問、麻生の答弁がマスコミに頻繁に取り上げられた。
- 東京都町田市の街頭演説会で麻生内閣が景気対策として提案している定額給付金を毒まんじゅうとして「(通常国会召集の日までに)毒まんじゅうを分離する予算修正案を用意し、国会に出したい。毒まんじゅう分離法案を与野党で通して雇用対策などを実行し、解散して国民の信を問うべきだ」と語った。
- 2009年2月4日、衆院予算委員会で麻生首相に「民主党の経済対策は真水で57兆円、総額87兆円。この方が国民のためになる」とアピールした。これに対し、与謝野馨経済財政担当相は「数字の競争ならばいくらでもできる」と述べた。
鳩山由紀夫内閣[編集]
2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣発足により、内閣府特命担当大臣(経済財政政策・科学技術政策担当)に就任した。あわせて、国務大臣として「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することになった。内閣法第9条に基づく内閣総理大臣臨時代理の指定順位は第1位となり、いわゆる「副総理」格としての入閣となった。ポスト鳩山の呼び声もあるが、国家戦略局設置のための法案の年内での国会提出が見送られ、その前身となる国家戦略室もうまく稼動していないとされ、閣内における存在感を発揮し切れていないと評されることもあった。
2010年1月7日、財務大臣の藤井裕久の体調不良による辞任に伴い、後任の財務大臣に横滑りの形で就任した。また、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)は続投する。なお、これまで務めていた職務のうち、「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」に関する職務は内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)の仙谷由人が、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)は文部科学大臣の川端達夫がそれぞれ兼務する形で引き継がれた。鳩山内閣の支持率が低下する中、菅は各種世論調査で「次期首相にふさわしい人物」の上位に位置するなどポスト鳩山の有力候補の一人と目された。
内閣総理大臣[編集]
2010年6月2日の鳩山首相の退陣表明を受け、後継を選出する民主党代表選挙への出馬を表明。6月4日、2010年民主党代表選挙にて勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に指名され、6月8日に正式に就任した。
「あのおっさんに発言する権利があるんですか」吉田所長、菅元首相に強い憤り[編集]
「私にとって吉田(昌郎)さんは『戦友』でした。現(安倍)政権はこの(吉田)調書を非公開としていますが、これは特定秘密にも該当しないし、全面的に公開されるべきです」
菅直人元首相は月刊宝島8月号で、ジャーナリスト(元朝日新聞記者)の山田厚史氏のインタビューに対し、東電福島第1原発の元所長、吉田氏を自らの「戦友」だと述べている。
だが、産経新聞が入手した吉田調書を読むと、吉田氏側は菅氏のことを「戦友」とは見ていない。むしろ、現場を混乱させたその言動に強い憤りを覚えていたことが分かる。
例えば、政府事故調査・検証委員会の平成23年11月6日の聴取では、「菅さんが自分が東電が逃げるのを止めたんだみたいな(ことを言っていたが)」と聞かれてこう答えている。
「(首相を)辞めた途端に。あのおっさんがそんなのを発言する権利があるんですか」
「あのおっさんだって事故調の調査対象でしょう。辞めて、自分だけの考えをテレビで言うというのはアンフェアも限りない」
菅氏は同年8月の首相辞任後、産経新聞を除く新聞各紙やテレビ番組のインタビューに次々と応じ、自身の事故対応を正当化する発言を繰り返していた。これを吉田氏が批判的に見ていたことがうかがえる。
また、菅氏が自分も政府事故調の「被告」と述べていたことから、吉田氏は「被告がべらべらしゃべるんじゃない」とも指摘し、事故調が菅氏に注意すべきだとの意見を表明した。
菅氏だけでなく、当時の海江田万里経済産業相や細野豪志首相補佐官ら菅政権の中枢にいる政治家たちが、東電が全面撤退する意向だと考えていたことに対しては「アホみたいな国のアホみたいな政治家」とばっさり切り捨てている。
その菅氏は2014年7月24日付のツイッターで、吉田調書についてこう書いた。
「吉田調書など(で)当時の状況が明らかになり、発生翌朝現地で吉田所長から話を聞き、撤退問題で東電本店に行った事も理解が増えています」
吉田氏の肉声はこれとは食い違う。政府事故調の聴取(23年7月22日)で「(菅氏は)何のために来るということだったんですか」と質問され、こう突き放している。
「知りません」
「行くよという話しかこちらはもらっていません」
さらに必死で作業を続けている所員らに菅氏が激励もせずに帰っていったことを証言している。
菅氏が震災発生4日後の15日早朝、東電本店に乗り込んだことにも冷ややかだ。同じ頃、現場でまさに死と向き合っていた吉田氏は7月29日の聴取で、テレビ会話を通してみた菅氏の東電本店での叱責演説についてこう語っている。
「ほとんど何をしゃべったか分からないですけれども、気分悪かったことだけ覚えています」
「何か喚いていらっしゃるうちに、この事象(2号機で大きな衝撃音、4号機が水素爆発)になってしまった」
周囲も認める菅元首相の激高ぶり、朝日はなぜ擁護したのか?[編集]
政府が2014年9月11日に公開した東京電力福島第1原発事故にかかわる政府事故調のヒアリング記録の中で、現地対策本部長を務めた池田元久元経済産業副大臣の証言が注目を集めている。
事故発生翌日の平成23年3月12日早朝、現地を訪れた菅直人首相(当時)が、誰彼かまわず怒鳴り散らす様子が活写されているからだ。
「イラ菅にしても今日はひどすぎる」「大荒れでした」「大変な激高」…。
これに対して菅氏自身は9月17日付の自身のブログで「怒鳴ったという意識はない」「全くの誤解だ」などと否定している。だが、池田氏が政府事故調に対してこう指摘している部分については触れていない。
「非常に遺憾なのは、(菅氏が)打ち消しにかかって、あの日以外はほとんど冷静だったと朝日(新聞)の記事で言わせたり」
これを読み、かつて朝日の長期連載企画「プロメテウスの罠に覚えた強烈な違和感を思い出した。24年度新聞協会賞も受賞したこの名物連載記事は、菅氏の原発視察の場面(24年1月27日付)で次のように記していたからである。
「このときの菅は憤りを隠さなかった。本人も否定しない」
「3月11日以来、菅が感情をむき出しにした数少ない場面だった。しかしこのときのイメージが『怒鳴り散らす菅』の印象を増幅させた」
朝日は24年1月4日付の同連載記事でも「(事故発生3日後の)菅の口調は落ち着いていた」と描写していたが、震災発生後の菅氏が周囲に当たり散らし、怒鳴りまくっていたことは当時、首相周辺を取材していた記者には当たり前の常識だった。首相秘書官からは直接、こんな話も聞いた。
「菅さんがあまりに感情的に怒鳴りつけてくるので、秘書官同士で『きょうは何ミリ菅シーベルト被曝した』とか言い合っている」
また、首相周辺の一人は夜回りの記者団に「いま菅さんから電話がかかってきたけど、『あうあうあう』と言うばかりで何だか分からないから適当に切ったよ」と言い放った。
こうした実態を日々うんざりするほど見聞していた身にとって、朝日の記事は不可解そのものだった。
朝日は菅氏が感情をむき出しにしたのは数少ないと強調し、菅氏は現在、朝日に対し認めたその数少ないという事例すら、相手の受け止め方の問題へとすり替えようとしている。
だが、第1原発元所長の吉田昌郎氏も政府事故調のヒアリングに対し、菅氏が東電本店に乗りこんで「演説」した際のことをこう語っているではないか。
「ほとんど何をしゃべったか分からないですけれども、気分悪かった」
「かなり態度悪く、怒り狂って喚き散らしていた」
朝日が取り消して謝罪した2014年5月20日付の記事「所長命令に違反 原発撤退」からも、こうした吉田氏が菅氏の激高ぶりを証言した部分は省かれていた。
このときの《解説》記事は「事故の本質をつかむには一つひとつの場面を具体的な証言から再現・検証する必要がある」と説く。ならばなぜ、現場に介入した菅氏に関する具体的な証言は割愛したのか。
9月11日の朝日の記者会見でこの点を問うと、杉浦信之編集担当(当時)は「意図があったとは全く考えていない」と答えた。何か事情でもない限り、ああいう記事にはならないはずだが。
参議院選敗北と党内対立の激化[編集]
2010年6月の民主党代表選挙において菅が出馬表明すると小沢一郎の党運営に不満を持っていた枝野幸男、仙谷由人らが菅の支持に回った。これに対し小沢グループは菅の対抗馬の擁立を模索し、樽床伸二が名乗りを挙げた。選挙の結果、樽床を破った菅は、反小沢の急先鋒ともいわれた枝野、仙谷をそれぞれ党幹事長、官房長官に起用し、小沢の意向により廃止された政策調査会を復活させた。また小沢、鳩山代表時代に作成されたマニフェストの一部修正にも取り掛かった。こうして政権交代の原動力とも言われたトロイカ体制は崩壊し、マスコミなどから"脱小沢"とも称される路線に傾いていくこととなる。こうした動きを世論はおおむね評価し、内閣支持率は60%前後という高水準で内閣は出発した。
しかし、2010年7月11日投開票の第22回参議院議員通常選挙では、獲得議席は現有の54議席を大きく下回る44議席にとどまった。この結果、参議院で過半数を失うねじれ状態にとなり、菅の党内における求心力は低下した。9月に行われる党代表選に向け、菅は再選に意欲をみせるが、とくに小沢に近い議員グループを中心に党執行部の参院選敗退の責任を問う声が強まり、小沢を擁立する動きも加速した。こうして現職の総理と党内最大グループの領袖の全面対決の構図となり、党分裂も懸念される事態となる中、前首相の鳩山由紀夫が菅、小沢両者の仲介に乗り出した。告示直前まで両者の調整が行われたが、菅は密室談合となるのを懸念し両者折り合わず、最後に菅-小沢会談が行われたが、結局物別れに終わった。鳩山はこれまでの菅続投支持から一転、小沢支持を表明。これを受け小沢は告示日である9月1日に出馬表明し、代表選での菅との直接対決に突入した。
この代表選において両陣営の激しい多数派工作が行われ、立会演説会における動員が指摘されるなど激しい選挙戦となった。政策面では金銭問題が取りざたされる小沢を意識し、菅はクリーンでオープンな党運営や雇用政策の重視を主張し、一方の小沢は衆議院総選挙での2009マニフェストの順守、地方への紐付き補助金の一括廃止、早期の消費税率アップの反対など主張した。
9月14日に国会議員による投開票が行われた結果、菅は小沢一郎を下して再選を果たした。小沢の出馬表明当初は党内最大グループを率い、鳩山グループの支持を取り付けた小沢が国会議員票では優勢との見方もあったが、菅は報道各社による世論調査で小沢を大きく上回る支持を得たことを背景に攻勢を強め、最終的には国会議員票でも小沢を上回った。
代表選挙後に行われた内閣改造・民主党役員人事では、仙谷官房長官は留任、枝野の後任の幹事長に外相の岡田克也、岡田の後任の外相に前原誠司を充てるなど非小沢系が要職に起用され、結果的に「脱小沢」を強化 した形となったが、副大臣・政務官人事では小沢グループからも多数起用し、党内融和に一定の配慮を示したとも見られている。
この代表選で再選されたことにより内閣支持率は急速に回復するが、代表選期間中に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件への対応が批判を浴びたことなどにより支持率は再び低下に転じた。また、衆院北海道5区補選(2010年日本の補欠選挙)や、2010年和歌山県知事選挙、2010年茨城県議会議員選挙といった大型地方選で敗北を重ねたことで、統一地方選を翌年春に控えた民主党内の不満が高まっていった。
東北地方太平洋沖地震への対応と菅おろし[編集]
2011年に入って以後も政権の低迷は続き、3月6日、前原誠司が外国籍の人物から献金を受けていた件で外務大臣を辞職し、菅自身にも外国人献金問題が持ちあがった。しかし、3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)及びそれに付随する形で福島第一原子力発電所事故が発生すると、地震災害並びに原子力災害の対策に政府・与野党が集中することとなり、菅内閣への退陣運動は一時的に中断した。
福島第一原子力発電所事故の発生を受け、菅は国のエネルギー政策の見直しに乗り出した。5月6日、菅は緊急記者会見を開催し、中部電力浜岡原子力発電所に対して「(迫りくる東海地震への)安全確保がなされるまで原子炉運転を停止するよう」指示を出した[2]。続く5月10日には記者会見の中で原発の増設が謳われた従来のエネルギー基本計画を白紙に戻すと宣言し、5月26日、27日に行われた第37回主要国首脳会議(ドーヴィル・サミット)の中では原発の安全性を高めた上での利用と同時に自然エネルギーの割合を「2020年代のできるだけ早い時期に、少なくとも20%を超えるレベルまで」拡大していくと表明した。
菅は震災の発生を機に国会のねじれを解消し、復興対策を円滑に進めるため、自民党に対し大連立を打診したが、結局、不発に終わった。これに加え、4月に行われた統一地方選で与党が敗北するなど、与党・民主党内でも菅政権に対する不満が募り、小沢一郎を中心とする民主党一部勢力が「菅おろし」への動きを活発化させるようになる。
そして6月2日、菅の地震・原発災害への対応が不十分であるとして野党の自民・公明両党により内閣不信任決議案が衆議院本会議に提出・上程。小沢に近い議員を中心に野党の不信任案に同調する動きが強まり、前首相の鳩山由紀夫も同調する構えを見せ、一気に不信任決議の可決や党の分裂が懸念される事態となった。菅は不信任決議投票の本会議を前に鳩山と会談し、自らの退陣を匂わせて不信任決議案に反対させる合意を取り付け、その後の民主党代議士会で「震災対応にメドをつけたら若い人に責任を引き継いでもらいたい」と語った。これを受けて小沢グループは不信任案に同調する方針を撤回し、当日の衆議院本会議で内閣不信任決議案は否決された。
退陣へ[編集]
不信任決議案が否決されて以降、「震災対応のメド」がいつになるのかという解釈をめぐり、政権内でも見方が分かれ、官房副長官の仙谷由人など閣内の一部からも早期退陣論が出るようになった。菅が退陣した上での大連立を模索する動きもあったが、菅自身は、自然エネルギー庁構想を掲げ、再生エネルギー法案を通そうと模索し、続投することに意欲をみせた。しかし、与野党からの早期退陣の要求は止まず、6月27日に会見を開き、自らの退陣する条件として、「今年度第2次補正予算案の成立、再生可能エネルギー特別措置法案の成立、特例公債法案の成立」を挙げ、これを以て「『一定のめど』に当たる」とした。
7月13日には、会見において「原発に依存しない社会を目指すべき」と表明し、大きな反響を呼んだ。翌日の予算委員会において、野党から追及を受けると、「個人的な思いを言っただけだ」と一旦トーンダウンしたが、その後8月6日に広島市で行われた記者会見の中で「脱原発依存」は、政府の方針となっているとの認識を示した。
2011年8月26日、菅は退陣の条件としていた3法案の成立を受け、「本日をもって民主党代表を辞任し、新代表が選出された後に総理大臣の職を辞する」と辞任を表明した。「厳しい環境のもとでやるべきことはやった。一定の達成感を感じている。国民の皆さんのおかげ。私の在任期間中の活動を歴史がどう評価するかは、後世の人々の判断に委ねたい」と述べた。福島第一原発事故について「総理としての力不足、準備不足を痛感した」と振り返った。8月29日に民主党代表選が行われた結果、後任の総理大臣には菅の下で財務大臣を務めた野田佳彦が選出された。
今後の自身の活動として、8月29日のブログにて「再生可能エネルギー促進はライフワーク」とし、植物のエネルギー利用を図るため「『植物党』を作りたい」と記した。
年譜[編集]
- 1946年10月10日、山口県宇部市で出生(父・寿雄、母・純子)。本籍地は岡山県久米郡福渡町(のち御津郡建部町、現岡山市北区建部町)。
- 1959年3月、宇部市立琴芝小学校卒業。
- 1962年3月、宇部市立神原中学校卒業。
- 1962年4月、山口県立宇部高等学校入学。
- 1963年夏、父親の転勤に伴い、東京都立小山台高等学校に編入。
- 1965年3月、東京都立小山台高等学校卒業
- 1965年4月、父親の母校でもある東京工業大学理学部応用物理学科に入学。
- 1970年3月、東京工業大学理学部応用物理学科を卒業。
- 1971年、弁理士試験に合格。
- 1974年、市川房枝を第10回参議院議員通常選挙に担ぎ、選挙事務長を務め、当選させる。
- 1976年12月5日、第34回衆議院議員総選挙に旧東京7区から無所属で出馬し落選。
- 1977年7月10日、第11回参議院議員通常選挙で社会市民連合から出馬し落選。
- 1978年、社会民主連合副代表に就任。
- 1979年10月7日、第35回衆議院議員総選挙で社会民主連合から出馬し落選。
- 1980年6月22日、第36回衆議院議員総選挙で初当選。
- 1983年12月18日、第37回衆議院議員総選挙で当選(2期目)。
- 1985年、党副書記長兼政策委員長に就任。
- 1986年7月6日、第38回衆議院議員総選挙で当選(3期目)。
- 1990年2月18日、第39回衆議院議員総選挙で当選(4期目)。
- 1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙で当選(5期目)。
- 1994年、社会民主連合の解散に伴い、新党さきがけに入党。後に党政策調査会長に就任。
- 1996年1月11日、第1次橋本内閣で厚生大臣(第74代)として入閣。
- 1996年9月28日、鳩山由紀夫と民主党を結成。鳩山と共に共同代表に就任。
- 1996年10月20日、第41回衆議院議員総選挙に東京18区より立候補し当選(6期目)。
- 1998年4月27日、新民主党の代表に就任。
- 1999年9月、党代表選挙で鳩山由紀夫に敗北。党政策調査会長に就任。
- 2000年、党幹事長に就任。
- 2000年6月25日、第42回衆議院議員総選挙で当選(7期目)。
- 2002年12月、代表選挙で岡田克也を破り党代表に就任。
- 2003年11月9日、第43回衆議院議員総選挙でともに旧民主党結党時のメンバーだった自民党公認の鳩山邦夫を破って当選(8期目)。鳩山邦夫は比例で復活。
- 2004年5月、年金未納が発覚して代表を辞任。
- 2005年4月、法政大学大学院の客員教授に就任、講義を行う(2005年10月まで)。
- 2005年9月11日、第44回衆議院議員総選挙で地方選挙で長年の宿敵であった土屋正忠前武蔵野市長を小選挙区で破り当選(9期目)。土屋正忠は比例で復活。東京の小選挙区では唯一の当選者となる。
- 2005年9月17日、衆院選敗北を受けて岡田が党代表を辞任する。党代表選挙に立候補して、前原誠司に敗北。
- 2006年4月7日、堀江メール問題で前原執行部が退陣。党代表選挙に再度立候補して小沢一郎に敗北。党代表代行に就任。
- 2009年5月17日、小沢に替わり党代表となっている鳩山由紀夫により党代表代行に再任。
- 2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で当選(10期目)。
- 2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣の副総理兼内閣府特命担当大臣に就任。
- 2010年1月7日、財務大臣に就任。同時に国家戦略担当国務大臣及び科学技術政策担当国務大臣は退任。
- 2010年3月19日、民主党東京都連会長辞任(後任は、民主党東京都連通常総会開催まで海江田万里衆議院議員が民主党東京都連会長職務代行に就任)。
- 2010年6月4日、民主党第8代代表に就任。同日、第94代内閣総理大臣に指名。同年6月8日、内閣総理大臣に就任。
主な政策・主張[編集]
- 防衛に関しては、自衛隊に治安維持活動、国際協力を行う部隊の創設を政策として持っている。
- 台湾問題に関しては台湾の国連加盟を中国が容認し、国連加盟国同士の問題として国連の場で平和的解決を目指すべきと主張している。
- 北朝鮮の日本人拉致問題・核問題について、政府の対応とは異なる発想の解決を目指すべきだと提唱。菅は新人議員時代に菅の先輩議員にあたる田英夫の求めに応じ、在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名。この中には後年明らかとなる北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者辛光洙をはじめとする北朝鮮スパイ容疑者10名が含まれていた。その事実を事前に看破できなかったことが、公明党・社会党など同じく署名を行った議員とともに批判をされた。しかしながら、近年の北朝鮮に関する言動は苛烈であり要出典、西村眞悟の選挙応援演説の際に「フセインやスターリンの銅像が倒れた歴史の中で、北朝鮮のあの大きな銅像も倒れる日が来ると確信している」と発言している。この発言をとりあげた北朝鮮当局は、菅直人はもともと信念も政策も何も無い政治家だと一方的に非難、激しく個人攻撃を行った。菅の拉致問題への政策は、拉致被害者全員の原状回復・核問題の解決・国交正常化・経済支援の三本柱を別々に行うのではなく、パッケージとして行う政策を提唱している
- 長崎県諫早湾干拓事業に対して、自然環境保全の観点から反対を表明していた。そして1997年4月、水門が閉められる正にその時間に現地事業事務所を訪問し、テレビカメラの前で「誰の指示でやっているのか。責任者を出せ」と述べた。
- 菅は自民党議員に多い世襲を批判しているが、自身に関しては菅の長男である菅源太郎が、2003年の衆議院議員総選挙に菅家の本籍地でもある岡山1区から民主党公認候補として立候補した。この長男の立候補に関して菅は、地盤が全く異なっており、地盤・看板・カバンといった世襲の弊害の元を引き継いでおらず、世襲ではないと指摘。民主党内規では、同一選挙区の世襲を禁止しているため、菅の主張はこれに沿ったものと思われる。
- 憲法改正論議に対しては、代表時代に「日本の国のあるべき姿を示す新たな憲法を作る」とした「創憲」を唱えており、「憲法発布から60年目に当たる2006年までに国民的運動を集約する形で民主党として新たな憲法のあり方を国民に示せるようにしたい」と主張していた。
- 首相の在任期間について「首相というのは少なくとも4年間は同じ人物が続けるべきだ。常々、鳩山首相にも言っている」と述べた。一方、参院選で自民党が大敗し、ねじれ国会となった際には「安倍首相が総理の座にいるかぎり国民が納得できる政治はできない」などと早急に辞任や解散をすべきと発言している。
- 日米関係について、「政治的には日米同盟が果たしてきた役割は大きかったし、これからもアジア、世界の安定のために最も重要な関係だ」と述べた。
- 沖縄県の米軍普天間基地移設問題について「基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と語っことを、民主党の参院議員、喜納昌吉が2010年6月1日発売の著作『沖縄の自己決定権』の中で暴露した。『沖縄の自己決定権』によれば、喜納昌吉に対し「沖縄問題は重くてどうしようもない。もう沖縄は独立した方がいいよ」と語ったとされる。
菅元首相、みのもんた降板も自分の退陣も「原子力ムラの陰謀」(2013年10月)[編集]
民主党の菅直人元首相は、26日付の自らのブログで、次男が窃盗容疑などで逮捕されたタレント、みのもんた氏が報道番組のキャスターを降板したことについて「原子力ムラ」の陰謀説があると紹介、自分も原子力ムラの被害者だとする内容を展開した。
ブログでは、原子力ムラはマスコミに対して広告料を通じて「自分に批判的な報道に圧力をかけてきたことは知っている」と明記、「みの氏は原発問題で東京電力と安倍晋三首相を厳しく批判していた」ことから陰謀の可能性を指摘した。
平成23年の福島第1原発事故で「菅氏が1号機への海水注入の中止を指示した」と報道されたことも、退陣に追い込むための原子力ムラが流したウソの情報と断じた。
「ヒットラー、自分の思いの実現を全てに優先させ、国を滅ぼした。安倍総理にもその危険性がある。」[編集]
安倍総理の今の姿は「我執」そのものだ。安倍一次内閣で出来なかった集団的自衛権を滅茶苦茶な屁理屈で押し通そうとしている。
安倍総理は国民や国のことよりも自分の思いの実現が大事と考えている。正に「我執」だ。そうでないのなら60年間定着してきた憲法解釈を、国会でいろいろな立場の参考人の話を十分聞く事もなく、閣議決定するというのはあまりにも滅茶苦茶だ。
ヒットラーが首相になってから短期間で全権を掌握し、実質的に憲法を廃止して独裁者となった歴史を思い起こしている。ヒットラーも国民や国よりも、自分の思いの実現を全てに優先させ、国を滅ぼした。安倍総理にもその危険性をがある。
ネット上の反応[編集]
- 本当こう言う自分の不手際を棚上げして他人叩く連中はヒトラーと比較するの大好きだな
- 集団的自衛権を行使してる欧米は全部ヒトラーですか
- ヒトラーのハードル低すぎww
- お前程じゃ無いぞ
- お前が言うな。
- ドイツっていつ滅んだん?
- 確か管さんの時でしたよね?閣僚が「この事を記事にしたらその社は終わりだから」って発言をしたのは。
- 第一期安部内閣の時はヒトラーだとかナチスだとかって話は全くなかったよな。なんでサヨクの奴らっていきなりヒトラーだとかナチスだとか言い出したの?
- 物事を単純化しやがって。そんなんにだまされるほど馬鹿ばかりじゃねーぞ
- 批判するだけなら楽だな。誰でも出来る。対案を用意してこそ本物の政治家ではないだろうか
- ヒトラーをたとえに出して人を批判する人は例外なく馬鹿だと思ってる。その中でもヒットラーと書く奴は本物の馬鹿
- ヒトラーの話を出すならマスコミがこぞって自民党をディスりつつ民主党を圧勝させたあの選挙がまさにファシズムに近かったから
- 民主党は神秘的な力で我々を魅惑し、熱狂させる何か違ったものがあったのです。それは国民目線に立ち、官僚と対決し、舌鋒鋭く討論する、一糸乱れぬ自民党批判でした。この政党には何か心を揺さぶる圧倒的なものがありました。しかし、私の父が民主党について語る時、その言葉に感激や誇りが無く、それどころかひどく不機嫌な響きがあるのが理解できませんでした。父は「連中の言うことを信じるな、連中はペテン師だ。民主党は日本国民を恐ろしいかたちで誘惑しているのだ」というのです。しかし父の言葉は、興奮した私たちの耳には入りませんでした。――民主党サポーターの手記より
「安倍政権を倒すことも夢ではない」(2014年11月)[編集]
菅直人オフィシャルブログ「原発ゼロと平和な未来」の実現を目指して 2014-11-18
安倍総理の自己都合解散が迫ってきた。自民党内部からもブーイングが沸き起こっている。安倍総理の狙いがなんであろうが、有権者としては安倍政権がこの2年間でやったことを審判する絶好の機会だ。
安倍総理はこの2年、自衛隊を海外に出して戦争に参加できるようにする集団的自衛権を閣議決定し、原発再稼働を強行し原発輸出まで進めようとしている。アベノミクスの失敗も明らかになってきた。
私は「原発ゼロ」にYES!,「危険な安倍政権」にNO!というビラを遊説で配っている。手ごたえがある。野党間の協力体制がどこまで進むかにもよるが、原発ゼロ、集団的自衛権反対に同調できる政党がが大同団結できれば、安倍政権を倒すことも夢ではない。
「菅直人の復活に期待する会」の受付になぜか「取材はご遠慮ください」の貼り紙、「非常に手応え」本人は謎の自信(2014年11月)[編集]
衆院選公示を来月2日に控えた25日夕、東京都内のホテルで政治資金パーティーが開かれた。その名は「菅直人の復活に期待する会」。
この手のパーティーは取材フリーなのが常識なのだが、元首相で元民主党代表という立場にもかかわらずなぜか非公開だった。受付にはご丁寧に「取材はご遠慮ください」と大書されていた。
「なぜ取材させないのか。何か後ろめたいことでもあるのか?」
取材陣はこう詰め寄ったが、事務所側は「今回はダメなんです」の一点張り。その間にも法政大の山口二郎教授、ジャーナリストの高野孟氏ら“民主党応援団”が続々と扉の向こうに吸い込まれていく。先日、不出馬表明した元官房長官、仙谷由人氏の姿もあった。
「まるで秘密結社みたいだな」と思って眺めていると、テレビでおなじみの朝日新聞の星浩特別編集委員が制止もされずスルリと会場に入っていくではないか。
「それならば私にも取材させてほしい」と求めたが、事務所側は「彼は(菅氏との)個人的なつながりで来た。マスコミとしてではない」と譲らなかった。ふ~ん。個人的な関係ね…。結局、この日はSPを引き連れてトイレに入る菅氏の姿を見ただけだった。
そもそもパーティーの名目である「菅直人の復活」とは何を意味するのか。究極は首相の座に返り咲くことだろうが、およそ現実的とは思えない。多くの国民もそれを望んではいまい。
菅氏は、民主党で鳩山由紀夫元首相、小沢一郎元代表(現生活の党代表)とトロイカ体制を敷き、「党の顔」として君臨してきたが、今は見る影もない。
平成24年12月の前回衆院選では、東京18区(武蔵野・府中・小金井の各市)で、自民党の土屋正忠氏に1万超の票差で敗れ、比例復活で何とか議員バッジをつなぎ留めた。
その後は「反原発の闘士」を自任。翌25年7月の参院選では、民主党の公認を外れた無所属候補を支援して党員資格停止3カ月の処分を受け、党最高顧問の役職も解かれた。
今年4月には、トルコなどへの原発輸出に関する原子力協定承認案の衆院採決を無断欠席した。桜井充政調会長(当時)は「党の方針と異なる運動をするのであれば党を離れて活動すべきだ」と離党を促したが、馬耳東風。もはや党幹部が「今度変なことをしでかしたら次は切る」と公言するほどの“お荷物”となっている。それでも復活を望むならば、まずは小選挙区で勝ち、元首相の威厳を示さぬことには話になるまい。
パーティーから一夜明けた11月26日午前7時、菅氏は冷たい雨が降りしきる東京都府中市のJR北府中駅前で、ビニール傘を片手に辻説法を始めた。「原発ゼロ実現」の幟を背に、菅氏は東京電力福島第1原発元所長、故吉田昌郎氏の聴取記録「吉田調書」に言及した。
「吉田さんは調書の中で『東日本が壊滅する』との言葉を残しています」
吉田氏が調書で、菅氏を「馬鹿野郎」呼ばわりして激しく批判したことには触れず終いだった。続いて菅氏は安倍晋三首相をナチス・ドイツのヒトラー総統を何度もなぞらえ批判した。
「集団的自衛権の解釈変更を閣議決定した安倍さんを見て私はヒトラーの行動を頭に浮かべた。なぜドイツはヒトラーの独裁政権になったか。やり方がそっくりなんですよ!」
ちょっと待ってほしい。「議会制民主主義とは期限を区切った独裁」と断じ、首相時代は数々の法令を平然と無視し、超法規的存在として振る舞ったのは一体誰だったか。東日本大震災と原発事故という未曽有の災禍が襲いかかる中、政府機能を麻痺状態に追い込んだ張本人ではなかったか。
辻説法は1時間余に及んだが、立ち止まって耳を傾けた人は皆無。ほとんどは菅氏の姿が見えないかのように無関心に通りすぎた。
菅氏と握手を交わしたのは2人だけ。うち1人は事務所関係の知人のようだった。菅氏と写真を撮った人が2人いた。その1人は20歳の女子大生。「菅氏を支持しているんですか?」と聞くとこう即答した。
「いいえ違います。今年有権者になったので、ちょっと興味があって…」
それでも菅氏は演説後、居合わせた記者数人に「手応えは非常に感じています…」と謎の自信を示した。一方、菅氏と4回目の対決となる土屋氏はこう語った。「今回ははっきり決着をつけたい。最後の決戦だ。お互いの年齢的にも負けた方は引退だ…」
市民活動から政界に身を投じ、一世を風靡したこともある菅氏は復活の狼煙を上げるのか。それともこのまま埋没していくのか。この衆院選で東京18区は民主党の将来を占う意味でも最大の注目区といえる。
人物像[編集]
政治家として[編集]
- 高校時代に読んだオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の影響を受け、自身の政治哲学として「最小不幸社会」の実現を掲げている。
- 「イラ菅」というニックネームが示すように、癇癪持ちで短気な性格で知られる。もっとも近年は丸くなったとの評も多い。
- 政治家としての変わり身の早さから三木武夫、武村正義と並ぶ「バルカン政治家」(欧州の火薬庫といわれ駆け引きにあけくれたバルカン半島にちなむ)ともいわれ、「バル菅」とも称されている。
- 中尾則幸は1998年第18回参議院議員通常選挙で当初は北海道選挙区から出馬を希望していたが、定数4から2に変更されたことで92年初当選同期の現職峰崎直樹に同候補の座を奪われ比例区へ転出。さきがけ時代からの同志で中尾の後見人的存在であった幹事長代理鳩山由紀夫が民主党代表の菅に「くれぐれも、犠牲を払った中尾君が再選出来るように宜しく頼む」と上位にランクするように依頼したが結果は当選圏外。それ以後の鳩山は菅に対して不信感を露わにし、(中尾の友人)でジャーナリストのばばこういちにまで吐露した。
- 1980年の解散総選挙で議員に当選するまで、選挙で3回落選している(そのうち1回は参議院選挙)。また弁理士試験も3回落ちている。
- 1978年度版の平凡社百科年鑑に名前が載るなど、議員になる前から市民運動家としてそれなりの知名度を持っていた。
- 当時菅の選挙を手伝っていたジャーナリストの下村健一(元TBSアナウンサー)によると、「初当選から十年で自民党に対抗しうる勢力をつくり、その後十年で天下をとる」話を聞かされていたという(因みに下村以外に当時学生だった久和ひとみも菅の事務所に出入りしており、選挙の際はウグイス隊長を務めた。また、歌人の俵万智も久和の下でウグイス嬢を務めた)。
- 自身のO-157に関連する対応でカイワレ大根が打撃を受けた時には、カイワレ大根、狂牛病が騒がれると牛丼、トリインフルエンザが騒がれると焼き鳥をそれぞれ食べた。自著『大臣』で、カイワレ大根を食べるプレゼンテーションは知り合いの雑誌編集者からのアドバイスだったことを明らかにしている。なお、カイワレ大根のパフォーマンスについては、東京地裁の判決文において、「(カイワレ業者などが)納得するのであれば、批判の限りでない」が「(カイワレ大根がO-157に汚染されていたという)自ら招いた疑いを解くことができると期待してのことであれば、国民の知性を低く見過ぎるのではあるまいか」と批評されている。
- 2003年1月の衆院予算委員会において、当時の首相・小泉純一郎に対して国債30兆枠についての公約違反を厳しく追及し、「この程度の公約を守れなかったことは大したことではない」との失言を引き出したことがある。
- 近年では自民党の山崎拓、加藤紘一、国民新党の亀井静香としばしば意見交換を交わすなど連携を深めており、4人の頭文字から「YKKK」とも称されている。山崎は2008年12月14日に4人そろって出演したテレビ朝日系の番組サンデープロジェクト内において「この4人が政界再編の一つの軸となり得る」と強調、その動向が注目された。
- 民主党東京都総支部連合会の会長も務めている。『WILL』10月号において、「除名覚悟で民主政権を内部告発する!」と称する論文を掲載するなど、所属政党である民主党を激しく批判した板橋区選出東京都議会議員の土屋敬之に離党を勧告。土屋は、離党勧告の撤回と質問への回答を要求する抗議文を都連宛に送付している。
- 1991年、所属する民主党の党議拘束が外された国旗国歌法案の議決の際、民主党の一部議員や共産党、社民党と同じく、法案に反対した。また、一度も日本国歌である君が代を歌ったことはないと発言要出典したことがある。こういった経緯もあり、保守系勢力からの批判も多い。
- 2010年1月26日の参議院予算委員会に財務大臣として出席し、「公共事業は、一兆円出したら一兆円の経済効果しかない」などと従来型公共事業を批判した上で、子ども手当の経済効果はそれを上回ると言う趣旨の発言をした。これに対し、自由民主党の林芳正委員から、「それは乗数効果のことを言っているのか」「子ども手当の乗数効果はいくらか?」などと質問され答に窮して質疑を止めて官僚を呼び、再開後「子ども手当の消費性向は70%を見込んでいる」と答弁した。
- これに対し、再び林芳正委員から「乗数効果と消費性向の違い」について質問されると、再び質疑を止めて官僚を呼び、再開後、最終的には「乗数効果についての計算はしていない」と答弁した。答弁ではこれらを含め、計4回、答弁を止めて官僚を呼んだ。このことについて、林芳正委員は、「よく整理をして、この政策の効果はこれぐらいだというのが、ばらばらばらばら役所の人が紙を持ってきて慌てて答えるというふうにならないようにしておいていただきたいと思います。」と苦言を呈した。
その他[編集]
- 身長175㎝、体重70㎏。
- 趣味はスキューバダイビング(但しライセンスは未取得)、囲碁(小沢一郎とは20年来の囲碁仲間)。
- 歴史上の人物では児玉源太郎を尊敬しており、長男の源太郎という名前はこれに因んでいる。
- 新党さきがけ政調会長に就任する以前は、東京都武蔵野市境の自己所有マンション(2室)に居住していたが、深夜・早朝のマスコミ対応を余儀なくされたため、周囲の住民への配慮から、同市吉祥寺本町の借家に転居し、現在もそこに居住している。
- 武蔵野市では元市長の土屋正忠と長年に渡って都議選での代理戦争など主導権争いを続けている。通称「土菅戦争」(どかんせんそう)と地元では呼ばれている。
- 1999年に「週刊文春」で報じられた戸野本優子との不倫疑惑に関して菅自身は男女関係を否定。その際の「一夜は共にしたが男女関係はない」「(妻から)脇が甘いと言われた」という表現が、世間の流行語となった。愛妻家・恐妻家としても有名であり、不倫騒動後には「『バカたれ』と叱られた」と釈明した。
- 酒好きで、酒を飲まないのは年に5日程度と発言している。また大福にウィスキーなど和菓子を肴に酒を飲むのを好む(テレビ出演時の発言)。
- 好きな食べ物は焼魚・漬物など和食党である。
- 猫好きであり、自宅には拾って来て育てている猫がいる。
- 2004年に発生した新潟県中越地震によって発生した上越新幹線脱線事故について、公式ウェブサイトに「新幹線を迅速に止めるため、最後尾からパラシュートを出す」とのアイデアを紹介している。
- 本宮ひろ志が、参議院選挙に全国区から立候補、選挙の様子をリアルタイムで執筆し連載する予定だった漫画『やぶれかぶれ』に秘書らとともに、本宮の指南役として登場している。
- 東京工業大学在学中に麻雀点数計算機を発明。特許を取得し、いくつかの企業に製品化を持ち掛けたが、実用化には至っていない。現在もその試作機が存在し、千葉県いすみ市の麻雀博物館に展示されている。
- 元秘書に、秘書給与詐欺事件で実刑判決を受けた山本譲司がいる。
- 2011年12月18日放送のたかじんのそこまで言って委員会で2011年ポンスケ大賞に選ばれた。[1][2][3]
主な所属議員連盟[編集]
一族[編集]
家族・親族[編集]
- 実家
- 自家
- 母親は岡山県金光町議会議長を務めた地方政治家である。
- 長男 源太郎(政治運動家)
- 衆議院議員立候補経験がある。
- 二男
- 他家
- いとこ・義兄 姫井成(開業医)
- 浅口市金光町で開業医を営んでおり、2010年4月の浅口市長選に立候補し自身も3度に渡って応援したものの落選した。これを受け多くのメディアが民主退潮と報じた。
系譜[編集]
- 平安時代を代表する学者・詩人であり、有能な政治家でもあった菅原道真(学問の神様)の末裔を自称(仮冒)する“美作菅家党”とよばれる豪族が、中世の岡山県勝田郡を拠点に活動していた。その一族の有元佐弘の孫・佐常は下神目村に住み菅納左近と称して菅氏の祖となる。菅直人の父祖は代々下神目出身で、その末裔であるという。
- なお江戸時代、菅家は庄屋を務めた家柄であったといわれ、現在も下神目には菅姓を名乗る何軒かの家があり、その家紋は菅原氏の紋の「梅鉢」である。
- 美作菅家党は有元家を宗家として近世作州の名門とされている。しかし菅公の後裔とはしながらも、確実な系譜はないというのが実状である。
- 祖父の實は開業医であり、岡山県久米郡医師会長、郡会議員等を歴任した。
(有元筑後守) (菅納左近) 菅原道真……(中略)……忠勝━祐頼━佐高━佐弘━佐顕━佐常━━━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗(中略)…利兵衛為重━勘八━利兵衛━善三郎勝重━實太郎重秀━元太郎家重━實忠重━寿雄━直人┳源太郎 ┗男
著書[編集]
- 『新・都市土地論』飛鳥新社、1988年12月、ISBN 4870310481
- 『国会論争「土地政策」』新評論、1992年11月、ISBN 4794801599
- 『変革の時代』開発社、1995年6月、ISBN 4759100938
- 『日本大転換 二十一世紀へ希望を手渡すために』光文社、1996年10月、ISBN 4334971261
- 『民益論 われら官僚主導を排す』(鳩山由紀夫との共著)、PHP研究所、1997年7月、ISBN 4569556426
- 『大臣』(『岩波新書』)、岩波書店、1998年5月、ISBN 4004305586
- 『改革政権準備完了 私に賭けてください』光文社、2002年9月、ISBN 4334973582
- 『総理大臣の器 「菅」対「小泉」マニフェスト対決』幻冬舎、2003年10月、ISBN 4344004051
- 『政権交代のシナリオ 「新しい日本」をつくるために』(小沢一郎との共著)、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908
- 『菅直人 市民運動から政治闘争へ 90年代の証言 』(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編)、朝日新聞出版、2008年6月 、ISBN 4022504447
脚注[編集]
関連書籍[編集]
- 『がんばれ菅直人』板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810373304
- 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769
- 『菅直人の一歩 : 薬害エイズ問題でなぜ官僚に勝てたのか?』伊藤雄一郎、ハローケイエンターテインメント、1996年、ISBN 4584182469
- 『菅直人総理待望論 菅直人政権で日本はこう変わる』木下厚著、あっぷる出版社、ISBN 4871771482
- 『菅直人は天下を取れるか』山口朝雄著、エール出版社、1998年、ISBN 4753917576
- 『沖縄の自己決定権』喜納 昌吉 (著) 、未来社、2010年、ISBN-10: 4624301145
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第94代 : 2010年 -
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次代: 現職
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先代: | 国務大臣(副総理) 2009年 - 2010年
|
次代: ー
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先代: | 財務大臣 第13代:2010年
|
次代: |
先代: | 特命担当大臣(経済財政政策) 第13代 : 2009年 - 2010年
|
次代: |
先代: | 特命担当大臣(科学技術政策) 2009年 - 2010年
|
次代: |
先代: | 厚生大臣 第80代:1996年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 民主党代表 初代 : 1998年 - 1999年
第3代 : 2002年 - 2004年 第8代 : 2010年 - |
次代: |
先代: | 民主党代表代行 2006年 - 2009年
|
次代: ー
|
先代: | 民主党幹事長 第2代:2000年 - 2002年
|
次代: |
先代: | 民主党政策調査会長 第3代:1999年 - 2000年
|
次代: |
先代: 結成
|
(旧)民主党代表 初・第2代 : 1996年 - 1998年
初代時は鳩山由紀夫との共同代表制 |
次代: 民主党へ
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歴代内閣総理大臣 | |||||
第93代 鳩山由紀夫 |
第94代 2010年 - |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
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