中国
中国(ちゅうごく、テンプレート:ピン音)とは、世界の中心を意味する空間的概念を基礎とする自称であり、夷狄と対置される。中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のことであり、中原漢民族が居住していたことからこの名称が用いられるようになった。ベトナムでは、阮朝が自国を中国(チュンコック)と呼んだ。漢民族や華夏族が居住した地域の文明では、19世紀半ばの清から自称として広く用いられようになり、次第に固有名詞としての性格を濃くしていった。現在ではその地域、文明、民族を広く指し、また後にそこで成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。
目次
概要[編集]
現在の中国では、地理的にはアジア大陸の東部に広がる地域、亜大陸とそれに付随する島嶼を指して使用している。またその地域に紀元前から継続する文明の総体を指して使用している。この地域は様々な民族が入り混じっており、現在中国の中心となっている漢民族をはじめとして、一時全土を支配していたモンゴルなど、様々な民族による異なる王朝が出現、滅亡、戦乱を繰り返してきた。戦後、一時合作していた中国共産党と中国国民党が再び全面戦争を行った。この戦いに勝利し、大陸部を実質的に支配した中華人民共和国と、敗北し日本から領土を回収し、実効支配した台湾に後退して大陸支配の正当性を訴える中華民国という二つの国家に分かれた。この分断は現在に至り、両岸問題という形でいまだ政治的な問題として存続している。
日本で使用され始めたのは、中華民国政府の要求で外交文章として登場した1930年からである。ただし、日本で一般的に使用されたのは第二次世界大戦後のことである。それ以前は支那(しな)、唐(から)、唐土(もろこし)などと呼ばれていた。
名称[編集]
「中国」[編集]
中国は「国の中心」、または中華思想に基づき「世界の中心」を意味している。中国と言う用語は中国の古典である ‘詩経’で最初に使われた。 詩経で使われた ‘中国’は四方と四夷 (中国四方に居住した辺方民族)の対称される概念で使われた。
‘中心部(Center)’と言う意味で初めて使われた‘中国’は政治と軍事的な意味の統治境界を設定する意味で徐徐に民族間のアイデンティティを境界を作る意味に拡張されて行った。 漢族と辺方民族の境界を象徴する‘中国’という用語は孔子とその他思想家たちの潤色を経りながら‘文化的優越性を持った中心部’という意味で深くなった。
‘中国’という用語が主権国家の概念で使のは 1869年に調印されたネルチンスク條約で当時清朝の外交使臣が自らの身分を称する時 ‘中国’と言う用語を満洲語で初めて使った。 外交文書上で漢文の‘中国’が使われた用例は1842年阿片戦争の敗北で中国清朝がイギリスと結んだ南京条約が最初のことと知られている。
本来は特定の民族、国家を指す語ではないが、中心地域に中原漢民族が居住していたことからこの名称が用いられてきた。辛亥革命以前は「国家」という概念が無く、『「天下」あって「国家」無し』という状態だったため王朝の名前が使われたようであるが、辛亥革命後に近代的な国民国家形成を目指し1912年に中華民国が成立してから後は、中華人民共和国・中華民国のそれぞれの国号の略称にもなった。
「中華」[編集]
本来「華」は「夷」「戎」「蛮」「狄」「倭」などの周辺民族に対して、優れた文化を持った者を意味し、黄河の流域に都市国家を築いて漢民族を形成していった人々によって自称として用いられた。
ここから、「中心の国に住む優れた文化」という意味の「中華」は‘地理的中心部’という意味だけではなく ‘中国民族アイデンティティ’と ‘華夏文化の優越性’という要素が一緒に溶けている用語である。現代中国の立場で使われる ‘中華’と言う用語の中で漢族の自己同質性と言う要素は ‘多民族の仲直りと統一’と言う要素に変わるようになったし多民族の構成員が主体になって建設した ‘中国文化の優越性’だけが共通分母で落ち着くようになった。その持ち主という意味の「華人」という呼称が生まれ、中華人民共和国・中華民国の国号や「華僑」「中華思想」という言葉はこれに由来している。
「セーレス」[編集]
古代ギリシアでは中国の商人はセール(σηρ)(複数形:セーレス(σηρεσ))と呼ばれた[1]。 しかし、やがて後述する「チーナ」に由来する「スィーン」が伝わるとその系統の呼称に取って代わられた。セーレスが中国に伝わり「賽里斯」(音訳)、「糸国」(意訳)と漢訳された。
「秦」に由来する呼称[編集]
漢字圏以外からは、古くは秦に由来すると考えられるチーナ、シーナという呼称が一般的に用いられ、古代インドではチーナスタンとも呼んだ。これが仏典において漢訳され、「支那」「震旦」などの漢字をあてられる。この系統の呼称はインドを通じて中東に伝わってアラビア語などの中東の言語ではスィーン (Sīn) となり、ヨーロッパではギリシャ語・ラテン語ではシナエ (Sinae) に変化する。また、更に後にはインドの言葉から直接ヨーロッパの言葉に取り入れられ、China(英語)、Chine(フランス語)などの呼称に変化した。
日本でも「秦」に由来して、江戸時代初期より支那の呼称も使用されていた。詳細は、支那#語源を参照。
「漢」に由来する呼称[編集]
最初の統一王朝ながら短命に終わった秦王朝に代わって400年間に渡って中国を支配した漢王朝(前漢と後漢)の時代に、漢民族を中心とする中国の版図は定着していった。そのため、「漢民族」や「漢字」のような言葉に漢の字が使われている。
「拓跋」に由来する呼称[編集]
7世紀末から8世紀初頭の突厥(第二突厥帝国)の人々が残した古テュルク文字の碑文において中国の人々を指して使われている呼称に「タブガチュ(タブガチ、Tabgach、Tabγač)」があり、北中国に北魏を建てた鮮卑の拓跋部、拓跋氏に由来すると考えられている(白鳥庫吉やポール・ペリオらの説。桑原隲蔵は唐家子に由来するとの説、つまり唐由来説を唱えた)。
タブガチュの系統の呼称は、1069年のクタドグ・ビリク (en:Kutadgu Bilig) におけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後も中央アジアで広く使われた。1220年-1224年に西方を旅した丘長春(長春真人)は「桃花石」と記録している。11世紀-12世紀のカラハン朝においては数人の可汗がTabghach (Tavghach) という名である (en:Qarakhanid dynasty) 。しかしモンゴル帝国の時代前後に後述するキタイに取って代わられた。
なお古テュルク文字碑文以前、東ローマ帝国の歴史家テオフィラクトス・シモカッタ (en:Theophylact Simocatta) の7世紀前半に書かれたとみられる突厥による柔然滅亡(552年)関連の記事にタウガス (Taugas) との記載があり、これも同系統の呼称と思われる。記事が書かれた時期は隋末-唐初期と思われ、柔然の滅亡は西魏から北周、東魏から北斉への禅譲と同時期となる。
「唐」に由来する呼称[編集]
江戸時代以前の日本の人々は、しばしば遣唐使を通じて長く交渉を持った唐の国号をもって中国を呼んだ。古語で外国を意味する「から」の音を唐の漢字にあてる例も多い。中国を「唐土(もろこし)」と呼称したり、日本に来航する中国商人は「唐人(からびと、とうじん)」と呼ばれ、文語の中国語を「漢文」というのに対して口語の中国語は「唐語(からことば)」と呼ばれた。
「契丹」に由来する呼称[編集]
11世紀頃に中国の北辺を支配したキタイ(契丹)人の遼王朝から中央アジア方面ではキタイ、カタイという呼称が生まれた。ペルシア語やテュルク語を通じて中国の文物の名前を知ったと見られるマルコ・ポーロは、北中国のことをキタイという名で記録した。ロシアでは現在も中国のことをКитай (Kitay) と呼んでいる。
西ヨーロッパにはCathayとして伝わり、キャセイパシフィック航空の社名などに使われているが、Chinaに比べるとあまり広汎に用いられる呼称ではない。
「中国」「中華」に由来する呼称[編集]
現在、漢字文化圏の日本、朝鮮半島、ベトナムでは「中国」という呼称で呼んでいるが、それ以外では「秦」に由来する呼称などおおむね違う呼称を用いている。しかし、漢字文化圏以外でもまれに「中国」または「中華」に由来する呼称を用いる言語もあり、ケチュア語では中国のことを「中華」に由来するChunwaと呼び、マレー語、インドネシア語ではもともと「秦」に由来するチナ(Cina、China)を用いていたが、20世紀初頭から華僑の影響で「中国」の福建方言に由来するティオンコック(Tiongkok)も用いられるようになった。特にインドネシアではCina、ChinaよりTiongkokのほうがが一般的になりつつある。
歴史[編集]
中国の歴史参照
政治[編集]
中国の歴代王朝は自らが人類の唯一の国家でありそれ以外は国の辺境に過ぎないという態度を取ってきた。故に中華王朝には(対等な国が存在しないのだから)対等な関係の外交というものは存在せず、全て朝貢という形を取っていた。
しかし近世に入りロシア帝国の南下の圧力が強まるとやむを得ずロシアを国家と認めた。
地理[編集]
中国は気候や風土の違いから大きく華北・華南・華東・華西に分けられる。華南人と華北人の気質の違いは古来からよく対比されてきており、日本人が関東人と関西人をよく対比するのと相似的である。華南と華北を区切るラインはほぼ秦嶺(チンリン)山脈から淮河(ホワイ川)に一致し、これは年間降水量1000mmのラインでもある(秦嶺・淮河線)。ここより南側の華南では湿潤で温暖湿潤気候 (Cfa) にあたり、アジア的稲作農業が行われる。長江(チャン川、揚子江)をはじめとして河川・湖沼に富み、水上交易も古くから盛んであった。華南地域の中心的都市は上海であり、現在も貿易の拠点として重要である。
これに対して華北は比較的乾燥して温暖冬季少雨気候 (Cw) や冷帯冬季少雨気候 (Dw) にあたり、畑作農業が中心となる。華北平原と呼ばれる平野地帯が広がり、陸上交通が発達した。華北の中心的都市は中華人民共和国の首都でもある北京である。こうした南北の風土の違いは「南船北馬」などの慣用表現にも反映されている。
また華北では異民族王朝として侵入したモンゴル人・満州人などとの混血が、華南ではもともと中原以南に住んでいた越人や閩人といった異民族との混血・吸収があり、それぞれの言語や風貌に大きな違いを生じさせている。
古くから中国人は自分達の住んでいる黄河流域周辺を文明中心地として誇り、周辺地域を自分達の中国に対して辺境とみなし蔑んでいた。その地域に住む人をそれぞれ「北狄」(ほくてき)、「東夷」(とうい)、「西戎」(せいじゅう)、「南蛮」(なんばん)、「外倭」(倭寇)、と呼んでいた。
民族[編集]
漢民族が多数を占めるが、中国東部の漢民族の版図とされる地域を含め、漢民族以外の数おくの民族が居住しており、中華人民共和国政府が公式に民族として認定しているものだけでも少数民族は55を数える。これら漢民族を含め、全ての民族を中華人民共和国憲法では「中華民族」と規定している。
文化[編集]
黄河文明以来、中国は東アジアの文化の中心地であり周辺諸国へ多大な影響を与え続けた。
サミュエル・P・ハンティントンは『文明の衝突』で儒教を中心とした儒教文明と呼んでいる。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 彼らのもたらす絹はセーリコン(σηρικον)と呼ばれ、英語やロシア語などで「絹」を表す言葉の由来ともなっている。