竹下登
竹下 登(たけした のぼる、1924年(大正13年)2月26日 - 2000年(平成12年)6月19日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。竹下家第12代当主。
目次
概要[編集]
自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者として政府・与党に影響力を誇った。ふるさと創生1億円、消費税導入などを行った政治家。リクルート事件により総辞職。昭和最後の内閣総理大臣であり、また平成改元の際の内閣総理大臣でもある。
漫画家の影木栄貴、タレント・ミュージシャンであるDAIGOは孫にあたる。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)に竹下勇造・唯子の長男として生まれる。生家の竹下家は、江戸時代には庄屋(現在の村長)を務め、幕末から現在まで代々造り酒屋を営む素封家である。登は竹下家の12代目である。
旧制松江中学校(後の島根県立松江北高等学校)、早稲田大学第一高等学院を経て1944年4月早稲田大学商学部に入学。大学時代は早稲田大学雄弁会に所属。在学中に学徒出陣として、帝国陸軍の特別操縦見習士官に志願し第4期生として入校。卒業後は陸軍航空部隊の操縦者として飛行第244戦隊などの部隊にて軍務に就くが、在隊中に妻・政江が自殺。妻の自殺理由に関する噂は生涯、竹下を苦しめた[1]。1946年早稲田大学を卒業する。
郷里・島根に帰り地元掛合中学校の代用教員(英語科)となる。傍ら、青年団活動に身を投じた[2]。後に竹下の側近として活躍した野中広務とはこの時代に知り合っている。
初当選[編集]
奥出雲の山林大地主田部長右衛門 (23代)の支持を得て政界へ進出。島根県議会議員を経て、1958年、34歳で島根全県区から第28回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。この時、同じく初当選を飾った金丸信、安倍晋太郎とは、後々まで深い信頼関係を築く。その後、衆議院議員総選挙に連続14回当選した。
ニューリーダーへ[編集]
自民党内では佐藤派、後に田中派に所属。佐藤栄作と、佐藤派五奉行の1人で早大雄弁会の先輩でもある橋本登美三郎の寵愛を受ける。1964年11月に佐藤栄作内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代を担うニューリーダーとして次第に頭角を現す。
また、長女・一子が金丸信の長男・康信に嫁ぎ、金丸信との盟友関係はより一層強固なものとなった。この結婚は、佐藤栄作の妻・佐藤寛子のすすめによるという。
1971年7月、歴代最年少となる47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣。田中角栄内閣でも再び内閣官房長官となる。その後も三木武夫内閣で建設大臣、大平正芳内閣で大蔵大臣を歴任した。中曽根康弘内閣では4期連続して大蔵大臣に就任。先進5カ国がドル高是正で一致した1985年の「プラザ合意」に加わった。
創政会結成から新派閥経世会誕生へ[編集]
1985年2月、派閥領袖の元首相・田中に反旗を翻す形で、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。当初はなかなか煮え切らない竹下の態度を周囲は心配したが、田中との会談中「俺がもう一回やってからお前がやれ」との発言に決意を固めたといわれている。反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。
やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つに分かれる。その後二階堂と竹下はしのぎを削るが二階堂は高齢で資金力が乏しく、また田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派メンバーは徹底的に追い詰められ、田中派会長の二階堂を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)へと転落した。
このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから参加せず後に経世会に参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。後の幹部に野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。また、後に民主党代表となる鳩山由紀夫、岡田克也も若手として所属していた。
内閣総理大臣[編集]
昭和最後の総理大臣[編集]
経世会を結成したのと同じ1987年の11月に、中曽根首相の裁定により安倍晋太郎、宮沢喜一の2人を抑え第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任した。同時に竹下は昭和最後の総理大臣となった。日本初の地方議会議員出身の首相でもある。首相時代の答弁は「言語明瞭意味不明瞭」と評され、回りくどい表現が多いことで有名だった。
主な施策と事件[編集]
- 全国の市町村に対し1988年から1989年にかけて地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業を実施した。
- 1988年、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入した。
- 日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議で輸入自由化することで合意した。
- 1988年にリクルート事件が発覚し、政治不信が高まった。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年4月26日に自殺している。
退陣[編集]
こうした状況のなか世論の反発を受け、支持率がついに3.9%に落ち込むまでに至り、財界も石原俊らが公然と竹下の退陣を迫り、1989年6月3日に内閣総辞職に追い込まれた。内閣総辞職直前には竹下登邸周辺でデモも起きた。この竹下邸は旧佐藤栄作邸である。
総理大臣退任後[編集]
1989年の首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」と言いつつも宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一という歴代の内閣誕生に関与するなど、政権に強い影響力を持っていた。しかし、1992年に東京佐川急便事件が発覚。1987年の総裁指名に関連したほめ殺しで知られる皇民党事件が報道されるなど、ますます政界不信が高まり自民党支持が減る原因となった。
同じ1992年10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂状態となった。この派閥は1993年6月に自民党から離脱し、新生党となった。そして1993年7月18日の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。
自民党は1994年の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことから再び隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身の橋本龍太郎、小渕恵三内閣を実現させた。
竹下は、1999年4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなった。かわって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参議院議員・青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。そして2000年5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の竹下派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。
第42回総選挙期間中の同2000年6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去、(2000-1924)+((6-2)*100+(19-26)>=0)-1歳没。法名顕政院釋登涯。選挙区地盤を譲られた異母弟の竹下亘は錦織淳らを退け当選している。
人物像[編集]
- 血液型はB型。
- 初当選した衆院選の公示日に出雲市の目抜き通りで「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土になる」と第一声を上げた。
- 口癖は「~だわな」。これは出身地の方言(出雲弁)の影響である。
- 国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、言語明瞭、意味不明瞭な竹下語を駆使し、野党に言質を与えることがなかった。
- 「気配り・目配り・金配りで総理になった」と揶揄されるほど敵を作らない性格であり、政財界に幅広い人脈を持っていた。他派閥では安倍晋太郎、宇野宗佑、海部俊樹、藤波孝生、河野洋平、三塚博、武村正義、野党では村山富市、山口鶴男、矢野絢也、塚本三郎などと交流があった。「反経世会」を掲げる小泉純一郎(後に首相)とも大蔵大臣-大蔵政務次官としてコンビを組んだ間柄であり、悪い関係ではなかったようだ。とはいえ「竹下さんの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」など、学歴関係で馬鹿にしてきた宮沢喜一には、さすがに我慢ならなかったようである。
- 自社さ連立政権で不慣れな総理職を務めた村山富市にとって、同い年の竹下は党派を超えて「良き相談相手」だった[1]。
- 社会民主党衆議院議員の辻元清美は、これまでで一番面白いと思った政治家は誰かの質問に真っ先に竹下の名前を挙げている[2]。
- 佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作り「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」と宴席で歌っていた。
- 口癖は「汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう」
- 経世会の議員は中選挙区時代に自民党同士の争いになった場合でも落選することが少なかった。「選挙上手」が多いことで知られていたが、これは竹下の選挙戦略を用いていたため、といわれる。竹下自身「私の専門は選挙学」と言い、周囲から「選挙の神様」と呼ばれていた。選挙学の要諦を表す標語は「組織しつつ選挙し、選挙しつつ組織する」。
- 総理就任後、2週間も経たないうちに首相官邸にて右翼団体幹部と面会し、一部からはその見識を問う声が上がった。
- 長年田中派の後継者と見られていながら、頭を抑えられ耐え忍んでいたため、当時NHKで放送されていたドラマになぞらえておしんと呼ばれていたこともあった。
- 孫の影木栄貴、DAIGOや妻の直子によると、総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったという。
- 後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めた時、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃ出来ないのか」と尋ねたという。
- 「歌手1年、総理2年の使い捨て」、「一内閣一仕事」などの言葉を残している。
- 絶対に人の悪口を言わないことで有名だった。また、「石橋どころか二重橋でも叩いて渡る」といわれたほどの異常な慎重さでも知られる。
- 他人を絶対怒らないことでも有名。航空隊員として出征した竹下は、当時すでに結婚していたが、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵した。しかしそれにショックを受けた政江は、島根に帰った後自殺してしまう。このことがトラウマになった竹下は、以後他人を叱れなくなったという。また、出征中に妻が竹下の実の父親と肉体関係を持たされていたことが自殺の背景にあったとの噂がその後の竹下をさらに苦しめることになる。
- リクルート事件もあって首相在任中は、週刊誌を中心に金権政治批判を受けていたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめた。
- 死後、元韓国大統領・金泳三が早稲田大学で行った講演の中で、日韓共催サッカーW杯の発案者が竹下であることを明らかにした。
- 「平成」の元号を公式発表した際に使用された平成の文字を墨書した半紙を記念品として所蔵しており、20世紀末年になってバラエティ番組で所有の事実を公表した(番組に出演はせず、会場とは電話でのやりとりをしたのみであった。電話応対の声は年齢を感じさせぬほど大きく、現役当時と変わらず言語明瞭であった、その後、再びバラエティ番組で映像で映された)。現在は、孫のDAIGOがうたばんやめちゃ×2イケてるッ!などに出演した際に持ち込んでいる。
- 書道を趣味とした。
- 昭和から平成になったときの首相であることはあまりにも有名だが、大正から昭和になったときの首相若槻禮次郎も島根県出身である。
- その影響力から、島根県を「竹下王国」と比喩されることがある。竹下本人の死後は、青木幹雄にちなんで「青木王国」とも。小沢一郎の地元である岩手県が、いわゆる「小沢王国」と呼ばれるのも、これに関連する。2007年の参議院選挙で、景山俊太郎が落選したことにより、自民党がすべて占めていた島根県の衆参の議席の一角が崩れることになった。
- 孫の影木栄貴いわく「政治オタク」で、孫達にも何かにつけ長々と政治や行政の話をして聞かせ、最後の入院生活で容態が徐々に悪化していく中でも税制や選挙の話を喋り続けていた程だったという。[3]
- 毎年娘達とその家族を富士の裾野に持っていた別荘に呼び寄せて過ごし、長いときには1ヶ月近く孫達を滞在させていた。孫達には「周りの人にいつも感謝しなきゃいかん」が口癖だったという。[4]
略歴[編集]
学歴[編集]
政歴[編集]
- 1951年 - 島根県議会議員選挙に初出馬して当選
- 1958年 - 第28回衆議院議員総選挙に出馬し、島根全県区でトップ当選
- 1964年 - 内閣官房副長官(第1次佐藤内閣、1966年7月まで)
- 1971年 - 内閣官房長官(第3次佐藤内閣、1972年7月まで)
- 1974年 - 内閣官房長官(第2次田中内閣、1974年12月まで)
- 1976年 - 建設大臣(三木内閣、1976年9月まで)
- 1978年 - 衆議院予算委員長(第87回国会)
- 1979年 - 大蔵大臣(第2次大平内閣、1980年7月まで)
- 1982年 - 大蔵大臣(第1次・第2次・第3次中曽根内閣、1986年7月まで)
- 1985年 - プラザ合意
- 1986年 - 自由民主党幹事長(1987年10月まで)
- 1987年 - 経世会(竹下派)旗揚げ
- 1987年 - 11月6日 第74代内閣総理大臣となる(1989年6月3日まで)
- 1989年 - 6月3日 内閣総辞職
- 1992年 - 経世会分裂
- 1999年 - 4月、変形性脊椎症のため入院。
- 2000年 - 5月、入院中の病院より政界引退を表明。6月19日、呼吸不全のため死去。墓所は島根県雲南市掛合町掛合の竹下家墓地。
受賞歴[編集]
栄典[編集]
家族・親族[編集]
- 実家
- 父 勇造(酒造業、政治家)
- 実母 唯子
- 異母弟 亘(政治家)、三郎
- 自家
- 岩瀬達哉の著書 『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』28ページによると、竹下家と遠藤家は親戚筋にあたり、竹下の父・勇造の兄と、直子の母・周子の姉が結婚していることもあって、竹下が早稲田大学第一高等学院の受験に上京したときは、直子の家に泊まるなど、両家の交流は比較的頻繁に行われていたという。
- 他家
系譜[編集]
- 竹下家
- 江戸時代、竹下家は奥出雲の山林大地主田部家傘下で庄屋(現在の村長)を務めた関係から、慶応2年(1866年)酒造りの権利である「酒座」を同家から譲り受けた[7]。戦前の竹下家は「田部家の“中番頭”」ではあったものの、掛合地区では圧倒的な権勢を誇っていた。戦後の農地解放で竹下家が手放した農地と山林は、『掛合町誌』によれば合計約569反(17万700坪)に上っている。これは、掛合地区で3番目に多く農地と山林を手放した地主であった。また祖父・儀造は第28区掛合村戸長を長く務め、明治22年(1889年)から大正14年(1925年)まで掛合村の村会議員だった。父・勇造は昭和16年(1941年)掛合村の名誉村長を務め、昭和17年(1942年)島根県議会議員となった。戦後公職追放が解かれた後、掛合町の教育委員長を17年にわたって務めた[8]。
杉山寧━━瑤子 ┃ 平岡定太郎 ┏平岡公威 ┃ ┃(三島由紀夫) ┣━━平岡梓 ┃ ┃ ┃ ┃ 永井岩之丞━━━夏子 ┣━━┫ ┃ ┃ 橋健三━━━倭文重 ┃ ┃ ┗平岡千之 ┃ 近藤三郎━━近藤晋一 ┃ ┃ ┏夏美 ┣━━━┫ ┃ ┗久美 ┏寿美 ┃ 竹中藤右衛門━━╋竹中宏平━━竹中祐二 (14代) ┃ ┃ ┗竹中錬一 ┃ ┃ ┃ 米内光政━━━━和子 ┏公子 (元首相) ┃ 嶋崎均 ┃ ┃ ┃ ┏築子 ┃ ┃ ┃ ┗直子 ┃ ┣━━━┫ ┏竹下登 ┃ ┃(元首相)┃ ┏竹下勇造━━━━╋竹下三郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗武永貞一 ┗竹下亘 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣まる子 ┏栄子(影木栄貴) ┏雅子 ┃ ┣━━━┣男 福田正━━━━━┫ ┃内藤武宣 ┗大湖(DAIGO) ┗和子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 小沢佐重喜━━━━小沢一郎 ┃ ┗一子 ┣━━━女(幽木遊貴) 金丸信━━━金丸康信
文献[編集]
著書[編集]
- 『素晴らしい国・日本—私の「ふるさと創生論」』講談社、1987年10月、ISBN 406203719X
- 『証言・保守政権』読売新聞社、1991年11月、ISBN 4643911085
- 『竹下登 平成経済ゼミナール—数字で見る戦後の日本』日経BP出版センター、1995年12月、ISBN 4822740390
- 『政治とは何か—竹下登回顧録』講談社、2001年1月、ISBN 4062105020
参考文献[編集]
- 『田部長右衛門(朋之)先生追悼録』 1981年 12、59頁
- 花岡信昭・小林静雄著 『竹下登・全人像』 行研出版局 1987年 ISBN 4905786630
- 塩田潮著 『実録 竹下登』 講談社 1987年 ISBN 4062037580
- 浜田幸一著 『日本をダメにした九人の政治家』 講談社 1993年 ISBN 406206779X
- 岩瀬達哉著 『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』 新潮社・新潮文庫、2002年 ISBN 4101310319
- 神一行著 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店・角川文庫 2002年 181-196頁
- 小林吉弥著 『竹下登 不敗の人間収攬術』 講談社 2001年 ISBN 4062108917
- 清宮龍著 『盛田昭夫・竹下登・フルシチョフ 指導者達の素顔』 善本社 2002年 ISBN 4793904173
- 鈴木健二著 『「天下取り」の人脈・金脈・戦略』 政界出版社 1983年
- 『新訂 現代日本人名録2002』 日外アソシエーツ 2002年
関連項目[編集]
内閣[編集]
関連人物[編集]
脚注[編集]
- ↑ 『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』 25、26、27、28、66ページによると、自殺する少し前、舅・勇造による執拗な“干渉”に思い悩んでいた政江は、竹下に相談するためわざわざ島根から上京していたが、竹下は“お前のほうに問題がある”と逆に叱責したという
- ↑ 『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』77ページに当時の教員仲間の証言がある。元同僚教師は「そもそも竹下先生が代用教員となったのは、青年団運動をやるためだったと聞いています」、「普通、青年団の活動というのは一日の仕事を終えた夕方からはじまるものです。竹下先生はそれまでの間何をするでもなくブラブラしていた。大学まで出て昼間から遊んでいたのでは何かと世間体が悪い。ですから当時掛合中学の校長だった鹿田三郎さんが心配して代用教員の職を世話したのです」と述べている
- ↑ 「エイキエイキのぶっちゃけ隊!!」新書館
- ↑ 「エイキエイキのぶっちゃけ隊!!」新書館
- ↑ 神一行の著書『閨閥』には「内藤武宜」と表記されているが「内藤武宣」が正しい
- ↑ 『「天下取り」の人脈・金脈・戦略』69頁
- ↑ 岩瀬達哉『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』 71ページ
- ↑ 岩瀬達哉『われ万死に値す—ドキュメント竹下登』 74、75ページ
外部リンク[編集]
- 歴代総理の写真と経歴 竹下登
- 竹下本店 - 竹下の生家が経営する「株式会社 竹下本店」のサイト
- 竹下登
官職 | ||
---|---|---|
先代: | 内閣総理大臣 第74代:1987年 - 1989年
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次代: |
先代: | 大蔵大臣 第80代:1979年 - 1980年
第82代:1982年 - 1986年 第84代:1988年(兼任) |
次代: |
先代: 三木武夫(臨時代理)
|
建設大臣 第38代:1976年
|
次代: |
先代: | 内閣官房長官 第35代:1971年 - 1972年
第38代:1974年 |
次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第12代 : 1987年 - 1989年
|
次代: |
先代: | 自由民主党幹事長 第23代:1986年 - 1987年
|
次代: |
先代: 結成
|
経世会会長 初代:1987年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第73代 中曽根康弘 |
第74代 1987年 - 1989年 |
第75代 宇野宗佑 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |