大平正芳
大平 正芳 (おおひら まさよし)
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在任期間 | 1978年12月7日 - 1980年6月12日 |
生没年月日 | 1910年3月12日 |
出生地 | 香川県三豊郡和田村 (現観音寺市) |
出身校 | 東京商科大学 (現一橋大学) |
学位・資格 | 正二位大勲位 学士 |
前職 | 衆議院議員 大蔵大臣 自由民主党幹事長 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選挙区 | 香川全県区 |
当選回数 | 衆11回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
大平 正芳(おおひら まさよし、1910年3月12日 - 1980年6月12日)は日本の大蔵官僚、政治家。第68・69代内閣総理大臣。正二位大勲位。
演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをする事から「アーウー宰相」の異名を取る[1][2]。また、その風貌から「讃岐の鈍牛」とも呼ばれた[3]。大平正芳曰く「讃岐の貧農の倅」だが、父親の大平利吉は元和田村議会議員であり、政治と無縁ではない。
目次
経歴[編集]
生い立ち[編集]
香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家大平利吉・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの6人兄弟であったが、正芳が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半で既に亡くなっていた。[4]。父利吉は学歴こそ無かったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。また利吉は書をたしなみ,和漢の古典にもよく通じた読書家で正芳の読書好き漢籍への造詣は父の影響を強く受けていた。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、正芳も幼い頃から内職を手伝うなどして家計を支えていた[5]。
和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。当時、中学校に進学する者は学級で2、3人程度で、次男・三男には分けてやるものはないからせめて学業くらいは修めさせてやろうという利吉の気遣いからであった。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。中学時代の大平は温厚で目立たない少年で、級友たちは後に政治家になった大平には当惑したという[6]。
1926年、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4ヶ月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。1927年夏、父利吉が急死する。翌1928年4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学。[7]。高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた[8]。卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。母は四国水力(現四国電力)への就職を望んでいたようであるが昭和恐慌の煽りを受け採用自体が無かったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった。大平は信仰の師である佐藤の発明した薬品を商品化するとのことで桃谷の誘いを受け大阪に出てきたものの、一向に商品化される様子はなく自身の生き方について葛藤する日々を過ごした[9]。
1933年、再び学業に戻ることを決意した大平は坂出市の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した[10]。大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構える。在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した[11]。なかでも経済思想史に強い関心をもった大平は2年に進級すると上田辰之助ゼミナールに参加した。恩師上田について大平は「経済学者というよりも、むしろ社会学者であり、社会学者である前に実のところ言語学者であられた」と評している[12]。卒業論文は「職分社会と同業組合」[13]。また、大平は「わたしの思想というものが仮にあるとすれば(杉村先生の思想が)それをつくるものの考え方の素材となっている」と述べ[14]、杉村の著書『経済倫理の構造』(岩波書店,1938年)は亡くなる直前まで大平の傍らに置かれていた。[15]大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した[16]。
大蔵省時代[編集]
1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験合格。当時大蔵次官だった同郷の津島壽一の勧めで1936年に大蔵省に入省した。文官試験はまわりに流されて受験したに過ぎず大平自身は出身地の隣県愛媛県を拠点とする住友系の企業への就職を望んでいたが、津島は「ここで採用してやる」という型破りな方法で採用したという[17]。入省後大平は主に税務畑を歩んだ。大平は以下の役職を歴任した。
- 1937年(昭和12年) - 横浜税務署長[18]
- 1939年(昭和14年) - 興亜院にて大陸経営にかかわり、しばしば現地にも出張[19]。
- 1942年(昭和17年) - 本省主計局主査。なお、この時の仕事として幾分誇らしげに挙げていたのが国民酒場の創設である。戦時下の耐乏生活による国民の疲れを癒すことが目的だった[20]。文部省担当主査として大日本育英会(後の日本育英会、現独立行政法人日本学生支援機構)の設立に尽力した[21]。
- 1945年(昭和20年) - 津島壽一大蔵大臣の秘書官[22]
- 1946年(昭和21年) - 初代給与局第三課長[23]
- 1948年(昭和23年) - 経済安定本部建設局公共事業課長[24]
- 1951年(昭和26年) - 池田勇人大蔵大臣の秘書官[25]。秘書官時代、大平は安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履取りで信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答えた。大平は「貧乏人は麦を食え」に代表される欠点だらけの池田に仕えることで政治家になるための経験を積んだという[26]。
政治家としての活動[編集]
池田側近として[編集]
1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退官し自由党公認で衆議院議員に立候補し当選[27]。以後、連続当選11回。
宮澤喜一や黒金泰美らと池田勇人側近の秘書官グループと呼ばれる[28]。1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で官房長官に就任[29]。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された[30]。続く第2次池田改造内閣で外務大臣[31]。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案であった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」62年11月12日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である[32]。
宏池会会長[編集]
次の佐藤政権では政調会長を務めた後[33]、第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣[34]、第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣[35]、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務めるなど[36]、内政外政にかかわる要職を歴任した。
1971年(昭和46年)、「大平クーデター」で前尾繁三郎にかわって宏池会会長に就任[37]、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年の死去まで派閥の領袖の座にあった。
「三角大福の争い」となった1972年(昭和47年)総裁選では3位につけ[38]、その後も田中角栄と盟友関係を続ける[39]。田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた[40]。
その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈政変で田中が総理を辞任すると、蔵相であった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし、椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ[41]。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが[42]、このときに10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく[43]。
1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うも、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立[44]。福田内閣樹立に協力し、自民党幹事長ポストを得る[45][46]。保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャルれんごう)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める[47]。
総理大臣就任[編集]
1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する[48]。事前の世論調査では福田が有利だったが[49]、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票[50]を獲得[51]。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、十年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し[52]、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し[53]、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した[52]。
総理在任中の政策[編集]
大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱した[54]。
大平政権期の世界は、1978年に発生したイラン革命と第二次石油危機の余波、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し[55][56]、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定するなど、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権であった[57][58]。
また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり[59]、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりするなど[60]、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。
四十日抗争と衆参同日選挙[編集]
政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む[61]結果を招くと[62]、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求、ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し[63]、自民党は分裂状態になった。
選挙後国会の首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派・田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派・三木派・中曽根派・中川グループが推す福田の一騎打ちとなった結果、138票対121票[64]で大平が福田を下して[65][66]、第2次大平内閣が発足した[67]。
しかし、これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌1980年(昭和55年)5月16日、社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚き、民社党の春日一幸委員長は不信任決議案が可決された後、「切れない鋸を自分の腹に当てやがって」と野党の未熟ぶりを嘆いたという。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした[68]。
急死[編集]
総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労と不整脈で虎の門病院に入院した。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけという激務、70歳という高齢、心臓に不安があり、以前にもニトログリセリンを服用することがあるなど肉体は限界に来ていた[69]。なお、ニトログリセリンの服用は公表されていなかった。
大平入院により、反主流派の中川一郎は健康問題をかかえた大平ではベネチアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語り、暗に大平退陣を要求するなど反主流派の一部から大平退陣の声があがった[70]。
また、6月9日には大平派の鈴木善幸が大平の後は話合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語るなど大平派からも大平退陣について発言する動きがあがった。この鈴木発言を新聞でみた大平は「浅薄な腹黒者、不謹慎極まりない」と激怒したと言われている。大平本人は近日中に退院しサミットに出席する心づもりだったとされ、官僚時代からの盟友であり官房長官の伊東正義等にも話している。
一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日午前5時過ぎ容態が急変し、志げ子夫人以下家族たち、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら5時54分死去[71]。70歳3ヵ月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全。
死去前夜、7時半頃桜内義雄幹事長が選挙情勢について報告に訪れ、その後伊東官房長官とも30分程話し、そして午後9時ごろ娘婿で秘書官の森田一がベネチアサミットの準備に当らせるため佐藤秘書官をベネチアに派遣することを報告した際に返した「そうか、わかった」が最期の言葉となった。
大平の死によって権限は、首相権限は伊東正義官房長官が首相臨時代理として、自民党総裁権限は西村英一自民党副総裁が総裁代行として、ベネチアサミットには大来佐武郎外務大臣が代理出席し、3人に分かれた。
48年ぶりの現職総理の死去[72]という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は「弔い合戦」を大義名分に挙党態勢に向かい、有権者の多くも同情票[73]を自民党候補に投じた結果、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した[74]。大平の選挙区であった香川2区も娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し、当選を果たした。
評価[編集]
大蔵省の出身であり、蔵相時代の赤字国債発行や一般消費税への強いこだわりなど、財政家としての側面は広く知られているが、池田内閣時代の日韓交渉や、田中内閣時代の日中国交正常化交渉といった重要な外交交渉で大きな役割を果たし、戦後日本を代表する外政家といえる。大平内閣においては「環太平洋連帯構想」が著名であり、今日のAPECを始めとするアジア太平洋における様々な地域協力へと受け継がれている。なお、専任の外務大臣としての在職日数は戦後最長である(総理大臣との兼任を含めると吉田茂が1位)。
朴訥な印象の一方で、「戦後政界指折りの知性派」[75]との評が示すとおり、政治の場にあっても言葉を大切にし、知性を重んじる政治家であった。その政治思想や経済観、国際政治観などの先見性は今日顧みられることが少なくない。
人物エピソード[編集]
- 読書家として知られ、郷里の記念館には1万数千に及ぶ蔵書が収められている。また、文章を能くし、『財政つれづれ草』、『春風秋雨』、『旦暮芥考』、『風塵雑租』などといった政治経済論と随想を合わせた本を折に触れて出版した。なお、大平の著作のすべてと、研究者・政界関係者による大平についての論稿『大平正芳 人と思想』、『大平正芳 政治的遺産』、『在素知贅 大平正芳発言集』、『去華就實 聞き書き大平正芳』などが大平正芳記念財団でまとめられたが、下記外部リンクの大平財団ホームページにてPDFファイルの形で読むことができる。
- 盟友田中角栄は「オヤジ」と呼ばれたが大平は「おとうちゃん」と呼ばれていた。
- 敬虔なクリスチャン(聖公会)で、しばしば聖書を好んで引用した。葬儀も立教学院諸聖徒礼拝堂で行われている。
発言[編集]
- 「東京の人間は郵便番号も書かない○○だ」や「東京に三代住むと白痴になる」などと発言し物議を醸した。
- 長女に対して口癖のように「女子(おなご)は勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい」と語っていたとされ、こうした言動が『婦人公論』誌で長女により明かされたところ、国会で市川房枝により女性蔑視として厳しく追及された[76]。政治とは直接関係のない話題での追及に大平は顔をくしゃくしゃにしながら苦笑しつつユーモアたっぷりに答弁し、議場は大爆笑に包まれた。
- 靖国神社にはA級戦犯が合祀される前に参拝したことがある。靖国神社参拝に関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁した。
- 「政治とは?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。
栄典[編集]
親族[編集]
- 大平には自身の後継者として長男正樹を考えており、秘書として大平を補佐する準備として見聞を広めるために世界旅行に行かせていた。しかし、長男はアフリカ旅行をした時に風土病であるベーチェット病に罹り、1964年に他界した。大平は長男について『私の履歴書』で「私にとっては全部に近い存在であった」と語っており、長男の死はその後の大平の政治姿勢に影響を与えた。
大平を師と仰ぐ政治家[編集]
脚注[編集]
- ↑ この「あー」、「うー」は当時流行語にもなり、アニメ『タイムパトロール隊オタスケマン』主題歌の歌詞に引用されたり、物まねしたりする子供も多かった。
- ↑ 「あーうー」のイメージから、話すスピードが遅い印象を受けたが、実際のところ、1分間に話す文字数(速度)は、歴代の首相の中でも早い方であった。
- ↑ しかし、実際はユーモアのセンスがあり、頭の回転も早かった。訪米の折、当時日米間の懸案となっていた捕鯨問題に関して記者から質問された際、「鯨は大きすぎて、私の手には負えません」と答え、記者たちを大笑いさせ、その質問は立ち消えとなったり、国会での野党の質問に答える際、「私はあーうーですから」といってその場を和ませてから答弁をするなど、その場の雰囲気を掴んで和らげる手腕に長けていた
- ↑ 福永文夫『大平正芳』(中央公論新社,2001年)15頁。
- ↑ 『大平正芳』 16-17頁。
- ↑ 『大平正芳』 19-20頁。
- ↑ 『大平正芳』 24頁。
- ↑ 『大平正芳』 25-26頁。
- ↑ 『大平正芳』 27-28頁。
- ↑ 『大平正芳』 27頁。
- ↑ 『大平正芳』 28頁。
- ↑ 『大平正芳』 29頁。
- ↑ 『大平正芳』 30頁。
- ↑ 『大平正芳』 29頁、『在素知贅・大平正芳発言集』(大平正芳記念財団,1996年)
- ↑ 『大平正芳』 29頁。
- ↑ 『大平正芳』 28頁。
- ↑ 『大平正芳』 32頁。
- ↑ 『大平正芳』 34頁。
- ↑ 『大平正芳』 38-42頁。
- ↑ 『大平正芳』 43-45頁。
- ↑ 『大平正芳』 43-44頁。
- ↑ 『大平正芳』 45頁。
- ↑ 『大平正芳』 54頁。
- ↑ 『大平正芳』 55頁。
- ↑ 『大平正芳』 56頁。
- ↑ 『大平正芳』 59-60頁。
- ↑ 『大平正芳』 62-65頁。
- ↑ 『大平正芳』 79頁。
- ↑ 『大平正芳』 89頁。
- ↑ 『大平正芳』 93頁。
- ↑ 『大平正芳』 100頁。
- ↑ 『大平正芳』 110-112頁。
- ↑ 『大平正芳』 134頁。
- ↑ 『大平正芳』 138頁。
- ↑ 『大平正芳』 166頁。
- ↑ 『大平正芳』 186・192頁。
- ↑ 『大平正芳』 148-153頁。
- ↑ 『大平正芳』 163-165頁。
- ↑ 『大平正芳』 186頁。
- ↑ 『大平正芳』 166-173頁。
- ↑ 『大平正芳』 188-191頁。
- ↑ 『大平正芳』 192頁。
- ↑ 『大平正芳』 214-215頁。
- ↑ 『大平正芳』 207-210頁。
- ↑ 『大平正芳』 211頁。
- ↑ ただし、福田は著書『私の履歴書』で「大福密約」は存在しなかったとしている。
- ↑ 『大平正芳』 216-217頁。
- ↑ 『大平正芳』 221-223頁。
- ↑ 『大平正芳』 226頁。
- ↑ 福田47万2499票に対し大平55万0889票。
- ↑ 『大平正芳』 226-227頁。
- ↑ 52.0 52.1 『大平正芳』 229頁。
- ↑ 『大平正芳』 227頁。
- ↑ 『大平正芳』 233-239頁。
- ↑ 『大平正芳』 243頁。
- ↑ ホワイト・ハウスにおける歓迎式の際の大平内閣総理大臣答辞
- ↑ 『大平正芳』 258・261頁。
- ↑ 五百旗頭真編『戦後日本外交史』。
- ↑ 『大平正芳』 258-260頁。
- ↑ 『大平正芳』 236頁。
- ↑ ただし、獲得議席としては前回獲得議席を1議席しか下回らなかった。
- ↑ 『大平正芳』 247-249頁。
- ↑ 『大平正芳』 251頁。
- ↑ 新自由クラブを除く野党(社会党、公明党、共産党、民社党など)は欠席した。
- ↑ 『大平正芳』 254-255頁。
- ↑ この138票というのが首班に指名された者が獲得した最も少ない票の記録となっている。
- ↑ 『大平正芳』 256頁。
- ↑ 『大平正芳』 263-264頁。
- ↑ 『大平正芳』 265頁。
- ↑ 『大平正芳』 266頁。
- ↑ 『大平正芳』 266-267頁。
- ↑ 1932年5月15日に犬養毅が官邸で青年将校に暗殺されて以来(五・一五事件)、また、病死としては1926年1月22日に加藤高明が心臓麻痺で急死して以来。
- ↑ 「香典票」と呼ばれた。
- ↑ 『大平正芳』 267-268頁。
- ↑ 北岡伸一『自民党』中公文庫ほか
- ↑ 市川房枝君質疑 昭和54年1月31日第87通常国会参議院本会議
参照文献[編集]
- 福永文夫 () 福永文夫 [ 大平正芳 「戦後保守」とは何か ] 2008年12月初版 中公新書 中央公論新社 9784121019769
- 五百旗頭真編 『戦後日本外交史』 有斐閣 新版2006年3月
大平個人・大平政権に関連する文献[編集]
- 大平個人・大平政権に集中した一部を掲載する
- 森田一、新井俊三『文人宰相 大平正芳』(春秋社、1982年)
- 田中六助『大平正芳の人と政治』(朝日ソノラマ、1981年)
- 田中六助『再び大平正芳の人と政治』(朝日ソノラマ、1981年)
- 栗原祐幸 『大平元総理と私』(廣済堂出版、1990年)
- ※以上は大平側近(大平派幹部)の政治家たちによる回想・人物評。
- 国正武重 『権力の病室―大平総理最期の14日間』(文藝春秋、2007年) -大平政権時の官邸記者クラブ付朝日新聞記者による病床の大平についてのドキュメント。
- 杉田望 『総理殉職―四十日抗争で急逝した大平正芳』(大和書房、2008年)-新取材による書下ろし
- 伊藤昌哉 『自民党戦国史』(朝日ソノラマ、1982年/朝日文庫全3巻、1985年/ちくま文庫全2巻、2009年) -大平の側近による当時の政局の回想とドキュメント。
- 奥島貞雄 『自民党幹事長室の30年』(中央公論新社、2002年/中公文庫、2005年)
- ※「自民党幹事長室の30年(3) 寡黙な哲学者 大平正芳」-初出は<『中央公論』2001年9月号>、自民党幹事長室長による回想の一章。
- 続編 『自民党抗争史』 (中央公論新社、2006年/中公文庫、2009年)がある。
- 川内一誠『大平政権・554日 自らの生命を賭けて保守政治を守った』(行政問題研究所、1982年)
- 大平派の番記者による大平政権の公的な概説。
- ※村松岐夫 「第14章.大平正芳―歳入歳出政治の問題提起者」がある。
- 以下は研究論文
- 内田健三「第一次大平内閣」「第二次大平内閣」林茂・辻清明編『日本内閣史録6』(第一法規、1981年)
- 金斗昇「大平正芳と日韓会談―請求権問題合意の論理を中心に」『法学政治学論究』44号(2000年3月)
- 倪志敏「大平正芳内閣と中日関係(その1)-中日緊密化へのプロセス-」『龍谷大学経済学論集』第49巻第2号 2009年10月
- 倪志敏「大平正芳と阿片問題」『龍谷大学経済学論集』第49巻第1号 2009年9月
- 倪志敏「田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その1・その2・その3・その4)」『龍谷大学経済学論集』第45巻第5号/第46巻第5号/第47巻第3号/第48巻第3・4号(2006年3月・2007年3月・2007年12月・2009年3月)
- 倪志敏「池田内閣における中日関係と大平正芳(その1・その2・その3)」『龍谷大学経済学論集』 第44巻第5号/第45巻第2号・第45巻第3号(2005年3-12月)
- 倪志敏「大平正芳と日韓交渉――「大平・金メモ」の議論を中心に」『龍谷大学経済学論集』第43巻第5号(2004年3月)
- 倪志敏「大平内閣における第一次対中政府借款」『龍谷大学経済学論集』 第42巻第5号(2003年3月)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第68・69代:1978年 - 1980年
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次代: |
先代: | 大蔵大臣 第76代:1974年 - 1976年
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次代: |
先代: | 外務大臣 第92・93代:1962年 - 1964年
第100・101代:1972年 - 1974年 |
次代: |
先代: | 通商産業大臣 第31代:1968年 - 1970年
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次代: |
先代: | 内閣官房長官 第22代:1960年 - 1962年
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次代: |
先代: | 文部大臣 第124代:1979年(兼任)
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第9代 : 1978年 - 1980年
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次代: |
先代: | 自由民主党幹事長 第17代:1976年 - 1978年
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次代: |
先代: | 自由民主党政務調査会長 第16代:1967年 - 1968年
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次代: |
先代: | 宏池会会長 第3代:1970年 - 1980年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第67代 福田赳夫 |
第68・69代 1978年 - 1980年 |
第70代 鈴木善幸 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
歴代の財務大臣(大蔵大臣) |
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大蔵大臣(大日本帝国憲法下) |
松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 井上馨 -松田正久 - 松方正義 - 渡辺国武 - 西園寺公望 - 曾禰荒助 - 阪谷芳郎 - 松田正久 - 桂太郎 - 山本達雄 - 若槻礼次郎 - 高橋是清 - 若槻禮次郎 - 武富時敏 - 寺内正毅 - 勝田主計 - 高橋是清 - 市来乙彦 - 井上準之助 - 勝田主計 - 濱口雄幸 - 早速整爾 - 片岡直温 - 高橋是清 - 三土忠造 - 井上準之助 - 高橋是清 - 藤井真信 - 高橋是清 - 町田忠治 - 馬場鍈一 - 結城豊太郎 - 賀屋興宣 - 池田成彬 - 石渡荘太郎 - 青木一男 - 櫻内幸雄 - 河田烈 - 小倉正恒 - 賀屋興宣 - 石渡荘太郎 - 津島壽一 - 広瀬豊作 - 津島壽一 - 渋沢敬三 - 石橋湛山 |
大蔵大臣(日本国憲法下) |
片山哲 - 矢野庄太郎 - 栗栖赳夫 - 北村徳太郎 - 吉田茂 - 泉山三六 - 大屋晋三 - 池田勇人 - 向井忠晴 - 小笠原三九郎 - 一万田尚登 - 池田勇人 - 一万田尚登 - 佐藤栄作 - 水田三喜男 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 植木庚子郎 - 愛知揆一 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 坊秀男 - 村山達雄 - 金子一平 - 竹下登 - 渡辺美智雄 - 竹下登 - 宮澤喜一 - 竹下登 - 村山達雄 - 橋本龍太郎 - 海部俊樹 - 羽田孜 - 林義郎 - 藤井裕久 - 武村正義 - 久保亘 - 三塚博 - 橋本龍太郎 - 松永光 - 宮澤喜一 |
財務大臣 |
宮澤喜一 - 塩川正十郎 - 谷垣禎一 - 尾身幸次 - 額賀福志郎 |
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歴代の外務大臣 |
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外務大臣(太政官達第69号) |
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎 |
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号)) |
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -
田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号)) |
吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号)) |
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平 |
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号)) |
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦 |
歴代の経済産業大臣(通商産業大臣) |
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通商産業大臣 |
稲垣平太郎 - 池田勇人 - 高瀬荘太郎 - 横尾龍 - 高橋龍太郎 - 池田勇人 - 小笠原三九郎 - 岡野清豪 - 愛知揆一 - 石橋湛山 - 水田三喜男 - 前尾繁三郎 - 高碕達之助 - 池田勇人 - 石井光次郎 - 椎名悦三郎 - 佐藤栄作 - 福田一 - 櫻内義雄 - 三木武夫 - 菅野和太郎 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 宮澤喜一 - 田中角栄 - 中曽根康弘 - 河本敏夫 - 田中龍夫 - 河本敏夫 - 江崎真澄 - 佐々木義武 - 田中六助 - 安倍晋太郎 - 山中貞則 - 宇野宗佑 - 小此木彦三郎 - 村田敬次郎 - 渡辺美智雄 - 田村元 - 三塚博 - 梶山静六 - 松永光 - 武藤嘉文 - 中尾栄一 - 渡部恒三 - 森喜朗 - 熊谷弘 - 畑英次郎 - 橋本龍太郎 - 塚原俊平 - 佐藤信二 - 堀内光雄 - 与謝野馨 - 深谷隆司 - 平沼赳夫 |
経済産業大臣 |
平沼赳夫 - 中川昭一 - 二階俊博 - 甘利明 |