世界恐慌
世界恐慌(せかいきょうこう)とは1929年10月24日にニューヨーク株式市場(ウォール街)で株価が大暴落したことに端を発した世界規模の恐慌である。大恐慌、世界大恐慌ともいう。
発端と展開[編集]
第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的栄光を手に入れた。1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他生産も過剰になっていった。また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱があおられ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。
そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。そこでウォール街の大手株仲買人たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースで相場は値を戻し、数日間は平静を保った。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺したものはこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。しかし5日後の10月29日、24日以上の大暴落が発生した。前日の28日も921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落を起こしており、この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでになってしまった。この日だけで1638万3700株が売りに出され、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした戦費をも遥かに上回った。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は火曜日だったため、後にこの日は「暗黒の火曜日(Black Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。
過剰生産によりアメリカ工業セクターの設備投資縮小が始まったのが大きな要因であり世界恐慌がさらに投資縮小を誘引したため、強烈な景気後退に見舞われることになった。
産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。
各国の状況[編集]
未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになった。植民地を持っている国(アメリカ・イギリス・フランス)は様々な政策を採りダメージの軽減に努めたが、持っていない国(日本・ドイツ・イタリア)はそれができず全体主義の台頭を招くことになる。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた国際協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。
アメリカ[編集]
共和党のフーヴァー大統領は古典的経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーレー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌のピークだったようで恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。
こうした中、修正資本主義に基いたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法や全国産業復興法を制定し、更にラテンアメリカとの外交方針を以前の棍棒外交から善隣外交へ転換した。ただ、ニューディール政策は1930年代後半の景気回復を前に規模が縮小されるなどしたため、1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほど効果があったかについては今日でも賛否両論がある。
アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。
イギリス[編集]
労働党のマクドナルド内閣は失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党と自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成、これを母体にブロック経済(スターリングブロック)を推し進めていくことになる(ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。
フランス[編集]
イギリスと同様、ブロック経済(フランブロック)を形成したフランスはファシズムに対抗するため、仏ソ相互援助条約を締結。そしてコミンテルンの指導を受けたレオン・ブルム人民戦線内閣を組閣する。
ドイツ[編集]
元々第一次世界大戦の敗戦で各国から巨額の賠償金を請求され、ハイパーインフレーションやフランスのルール占領などにより極度に弱体化が進んでいたドイツ経済は世界恐慌によって深刻な状態へ陥った。アメリカ企業も次々と撤退、少しずつ復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。結果、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。
その中、共産主義とファシズムが台頭。失望した人々の期待を受けて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が大躍進を遂げ1933年、ヒンデンブルク大統領の下で国家社会主義ドイツ労働者党党首のヒトラー内閣が成立。ドイツ国会議事堂放火事件でドイツ共産党を弾圧し全権委任法を成立させる。翌年、大統領の死去と共にヒトラーは総統に就任、第三帝国が成立した。
ヒトラーはソ連での計画経済の成功を受けて作成された四カ年計画に基づき軍拡と公共事業の拡大(アウトバーンの建設等)を実施した。また、民間の重工業化を支援した。二次に亘るこの計画により失業者は劇的に減少し、経済的な回復は達成された。
その後、ヴェルサイユ条約、ロカルノ条約を相次いで破棄、ラインラントに軍隊を進駐させる。
イタリア[編集]
第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りファシスト党の一党独裁が始まっていたイタリアでは世界恐慌後も更にその傾向を強め、エチオピアを侵略した。
日本[編集]
大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は世界恐慌発生とほぼ同時に行った金解禁と生糸などの輸出が落ち危機的状況に陥る。株の暴落により都市部では多くの会社が倒産し失業者があふれた。農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。
国民が困窮する中、労働者や小作農の立場に立つ政党が,代表者を国会に送るようになり労働争議や小作争議が増え、政府は治安維持法を改めて最高刑を死刑にし、特別高等警察を全国に設置して社会主義運動の取締りを強化。
高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)、円の切下げ、アジア貿易への依存、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。安価な綿布や雑貨を大量に輸出して1930年代後半には世界に先駆けいち早く大恐慌前の水準を回復したが、ブロック経済政策をとる欧米諸国との貿易摩擦が起こった。この間にも財閥は産業界を支配し、利権を求めて政治や軍に対する影響力を強めた。その後も目白押しの大規模プロジェクトなどで経済的成長が図られたが、資源配分転換と国際協調を背景にした軍縮への軍部の抵抗を止められず太平洋戦争へと向かうことになる。
この間「満州は日本の生命線である」と言った言葉の通り、日本は大陸進出へと進んでいくことになる。ドイツやイタリアのようにファシズムを唱える政党の躍進はなかったものの軍部の発言力は強まり、政府を無視して満州事変を引き起こしさらに五・一五事件で政党政治の幕引きをし、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約の破棄、二・二六事件、日独伊防共協定の締結、そして日中戦争、第二次世界大戦という経緯で十五年戦争に突入していく。
ソ連[編集]
ソ連は社会主義国家だったため、主要国の中でただ一国世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続けた。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。
世界恐慌中の各国工業生産の推移[編集]
年 | アメリカ | イギリス | フランス | ドイツ | 日本 | ソ連 |
---|---|---|---|---|---|---|
1928年 | 93 | 94 | 92 | 99 | 90 | 79 |
1929年 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 |
1930年 | 81 | 92 | 100 | 86 | 95 | 131 |
1931年 | 68 | 84 | 86 | 68 | 92 | 161 |
1932年 | 54 | 84 | 72 | 53 | 98 | 183 |
1933年 | 64 | 88 | 81 | 61 | 113 | 196 |
1934年 | 66 | 99 | 75 | 80 | 128 | 238 |
1935年 | 76 | 106 | 73 | 94 | 142 | 193 |
(1929年=100)
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