NHK紅白歌合戦
『NHK紅白歌合戦』(エヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、NHKが1951年から放送している男女対抗形式の大型音楽番組。生放送。公開放送。通称は『紅白』。デジタル双方向機能対応番組。日本の長寿番組の一つである。国民の多くにとって、大晦日の恒例行事と言われる。近年の出演者は大半が売れていない歌手で事務所の裏取引によって出演している。日本最大のインチキ番組である。
目次
放送メディア・放送時間[編集]
1951年・第1回 - 1953年1月・第3回まではラジオ放送の正月の特別番組としてNHKのスタジオで行っていたが、1953年12月・第4回以降、12月31日に放送している[1]。同年2月1日のNHK東京テレビジョンの本放送開始に伴い、この第4回よりラジオに加えてテレビでも放送を開始(同年1月の第3回ではテレビの試験放送が実施されている)。
国内向けにはNHKの総合テレビとラジオ第1で放送される。かつてはBS2(1984年・第35回より)・BShi(1989年・第40回より)でも放送されていた。このうちBS2ではBモードステレオ放送で、BShiでは5.1chサラウンドステレオでNHKホールの臨場感を楽しめた(これら2波での放送は完全デジタル化に伴うBSプレミアムへの整理統合、およびそれに伴う番組編成の見直しから、2010年・第61回を最後に終了。ただし地デジ難視対策衛星放送を除く)。ラジオ中継では、客席上のラジオ中継席(1972年・第24回以降の会場であるNHKホールでは、同ホール2階上手席にこれを設けている)から、ステージ上で行われていることの実況とともに放送。海外向けにはNHKワールド・プレミアム(1964年・第15回 - )とNHKワールド・ラジオ日本で放送される(短波放送は地域により数時間遅れまたは第2部のみの放送だが、2007年・第58回以降は東南アジア・アジア大陸地域のサイマル放送のみ。2009年・第60回以降は衛星ラジオでも全世界に向けて放送)。またNHK主体ではないが、海外の現地ケーブルテレビチャンネル(主として日本専門チャンネル)を通じて放送される場合がある(NHKワールド・プレミアム放送の際には字幕がないため)。
1953年・第4回 - 1963年・第14回までは白黒テレビでの放送だったが、1964年・第15回より紅白のテレビでのカラー中継が開始された。2003年12月1日より東京、大阪、名古屋の3地区で地上デジタルテレビ放送(通称:地デジ)の本放送が始まり、紅白も同年の第54回より地デジでも放送開始。2006年4月1日のワンセグの放送開始に伴い、同年の第57回よりワンセグでも放送開始された。一方、地上アナログ放送での放送は2011年3月11日発生の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の被災地である盛岡、仙台、福島の3局を除いて、2010年・第61回で終了し、この3局でも同年の第62回をもって終了した。
BS2・BShiでも放送されていた一時期はBSのアンテナとチューナーさえあれば山間部や島部の難視聴地帯でも生放送で視聴可能となっていた。1989年・第40回の後半からは同年よりアナログハイビジョン[2]での試験放送が開始されたことから、高精細度テレビジョン放送(ハイビジョン)での制作・放送が開始[3]された。1977年・第28回まではモノラル音声放送だったが、翌1978年・第29回からはステレオ放送に移行。
2001年・第52回よりリアルタイム字幕放送を開始。世界初、生娯楽番組での実施となった。
1967年・第18回以降、長らく21時00分(JST、以下同じ)に固定されてきたが、2部制となった1989年・第40回から19時20分に、2009年・第60回は19時15分に繰り上がった。その後、開始時刻は回によって19時15分から20時00分の間で推移している。第2部の開始は21時台、特に1994年・第45回以降は21時30分に固定されてきたが、2009年・第60回と2011年・第62回以降は30分繰り上がり21時00分となった。
終了時刻は1962年・第13回以降、一貫して23時45分である(総合テレビの場合。放送メディアによって例外もある)。
初期については、放送時間を度々変更していた。
2部制となった1989年・第40回以降、第1部と第2部の間にその年の最後の『NHKニュース』を放送する。
総合テレビはリアルタイム字幕放送を実施(中断ニュースも含む)。
番組内容[編集]
その年を代表する女性アーティストを紅組(あかぐみ)、男性アーティストを白組(しろぐみ)に分け、対抗形式で歌や演奏を披露する。番組初期において、紅組=女性、白組=男性と厳格に分けられていた風習から、男女混成グループは女性ボーカルのみが紅組で単独出場したり、男性ボーカルのみが女性ボーカルのパートも兼ねて男性陣のみで白組に出場するなどの処置が取られていた[4][5]。男女混成グループが初めて出場したのは、1968年・第19回のピンキーとキラーズである[6]。男女混成グループの組分けや出場した組の例外については以下の事例があり、下記、 AAA・原・和田のように、紅白両組から出場経験を持つ者も存在する。
- 男女混成グループの場合は、男女の人数にかかわらずメインボーカルの性別を優先する。
- DREAMS COME TRUEやいきものがかりなどなら紅組
- サザンオールスターズやAqua Timezなどなら白組
- ただし、枠が空いている組に振り入れられる場合があるとされ、1971年・第22回のはしだのりひことクライマックス、1972年・第23回の青い三角定規はメインボーカル的存在が女性であるにもかかわらずそれぞれ白組から出場。
- 2013年・第64回では過去3年間白組から出場していたAAAが同じメンバーで紅組から組替え出場する初の試みが行われた。
- ソロ歌手としての出場する場合は性別による(白組のサザンオールスターズ(1979年・第30回初出場)のメンバーである原由子(1991年・第42回に紅組より出場)など)
- 2005年・第56回でフジテレビ系列『ワンナイR&R』内でガレッジセールのゴリが女装(歌手デビュー)したキャラであるゴリエが女装した男性のソロでは初めて紅組で出場した。正確にはGorie with Jasmine & Joannとして活動しており、メインボーカルはゴリエではなく、女性であるジャスミン・アレンとジョアンであるため(ゴリエ本人も若干ソロパートがある)、紅組出場となった。一方、2006年・第57回に同じく女装スタイルでゴリエと異なり全編自身による歌唱の桜塚やっくんが(本人の強い意向により)紅組から出場すると、出場歌手発表前にメディアに報じられていた[7](結局、落選したため実現には至らず。ただし紅組の応援ゲストとして出演し、持ち歌「1000%SOざくね?」の一部を歌唱)。
- 2005年・第56回で和田アキ子がm-flo loves AKIKO WADAとして白組で登場した。これはメインボーカルのm-floが男性ユニットのためである。
- 男女のデュエットは基本的に紅組
- ソロ歌手同士の男女デュエットやコラボレーションなどの場合は各々がそれぞれの組の出場歌手として出場することもある。またソロ歌手同士の男女デュエットではないものの、2011年・第62回では薫と友樹、たまにムック。名義でコンビを組む芦田愛菜と鈴木福が、紅白の勝敗にはかかわらない演出で個々に紅組・白組から出場した。
- 2008年・第59回では、フジテレビ系列『クイズ!ヘキサゴンII』から誕生した女性3人組であるPaboが、同じ番組から誕生した男性3人組である羞恥心をメインとしてまとめられ、白組で出場した。
- 2007年・第58回では、性同一性障害を抱える戸籍上は男性の中村中が紅組で出場した。
「歌合戦」となっているが、楽器演奏者・グループの出場も可能である。
2部構成となった1989年・第40回以降において、労働基準法による制限から、中学生以下の年少の歌手や年少者が含まれるアイドルグループなどは第1部に集中的に出演しているが、出演時間が第2部に該当してしまい、その該当者は観客席で応援させることは稀にあるが、応援合戦・アトラクションでは原則出演できないことになる場合もある。
1953年12月・第4回を除き、下手を紅組、上手を白組としている(1953年12月・第4回は逆であった)。
出場回数がカウントされる。
その回毎に異なったテーマを掲げて放送を行う。
セットは回毎によって異なる。
1951年・第1回においては、放送前に出場歌手の曲目や曲順は公表されなかった[8](出場歌手は公表されており、放送前の1951年1月1日付の『毎日新聞』の番組紹介記事に出場歌手名の記載がある[9]。対抗戦形式を意識し、紅組キャプテンの渡辺はま子、白組キャプテンの藤山一郎がそれぞれ相手の出方を見ながら誰に何を歌わせるかを決めるというものだった[10])。しかしその後、放送前に出場歌手の曲目や曲順を原則全て公開するようになった。曲目は12月中旬、曲順は12月下旬に発表される(曲順については、放送の前日・前々日というギリギリのタイミングで発表となる場合もある)。そして歌唱曲や曲順の発表を以って、出場歌手側にこれが告知される格好にもなった。
放送枠が拡大した1956年・第7回に紅・白それぞれ25組の歌手が出場。以後、放送枠の変動などはあるものの、出場歌手数については20組から30組の間を推移している。また、紅組と白組で出場歌手の数が異なるというケースもある。
選ばれる曲は原則としてそのアーティストのその年のヒット曲または代表曲(過去のヒット曲など)である。その回のテーマに沿った歌が選ばれる場合もある。選曲の傾向や例外には次の事例がある。
- メドレーが選曲されることも多い(メドレーのタイトルは一風変わったものになることもある。またメドレーを歌唱する場合、その内容は当日ないしリハーサルの段階で判明となる)[11]。特に2010年代に入ってからはメドレーを歌唱する者が増えており、これに視聴者から批判も多く出ている(また、“メドレー”や“紅白スペシャル”になっているアーティストが結局どの曲を歌うのかわからず、曲目を発表する意味があるのかと指摘する声が散見される[12])。なお、メドレーのタイトルについては当該歌手が決めることもある[13]。
- アレンジしたヴァージョンの楽曲を歌唱する者もいる[14]。
- 世相やその年にちなんだ楽曲が選ばれるケースもある。
- 視聴者からのリクエストで歌唱曲が決まったというケースもある。
- 大ヒット曲ながら事情(歌詞や歌い方に性的な連想をさせたり、任侠ものの楽曲ということでNHKの内部規則に抵触したなど)で選曲できず、別曲に差し替えられるケースもある[15]。
- 桜田淳子が自身のヒット曲ではない「セーラー服と機関銃」(オリジナルの歌唱は薬師丸ひろ子)を歌った(1982年・第33回)[16]。これ以外にもカバー曲を披露する歌手が多数いるほか、複数の出場歌手により歌唱された楽曲も存在する。
- 2000年代後半以降、演歌・歌謡歌手は新曲の歌唱を敬遠されがち(正確には1990年代頃からその傾向が徐々に増えていた。この間2001年・第52回、2004年・第55回は比較的多くの演歌歌手がポップス歌手同様、新曲の歌唱が多かったが、これ以外は新曲を歌唱する演歌歌手が少数派となっている)で、過去のヒット曲が選曲される傾向にあり、かつ同一曲が何度も歌われることも多い(2・3曲をローテーション的に歌唱する演歌歌手も存在する)。一例として、これまで8回歌唱された楽曲が存在する。同一曲が何度も選曲されることに関しては、週刊誌などのメディアから批判記事が出ることがある。ただし、五木ひろし、氷川きよしは一部の回を除き、行われた年に発売されたシングルの新曲を歌っている(2011年・第62回まで連続出場していた小林幸子も同様だった)。
- また、「名曲紅白」と題した1982年・第33回のように同年のヒット曲でない曲や他人の持ち歌をあえて多く選曲する回もある(逆に「フレッシュ紅白」と題した1985年・第36回や先述の回のように原則同年に発売された新曲での選曲とする回もある)。
- ロングヒット曲を数年に渡って連続して歌唱するケースもある(後述の「紅白効果」によるものもある)。
- 選曲権は基本的に歌手側には与えられずに、番組側から歌手側へ一方的な押し付け状態となるケースが多く、歌手から反発を買うことがある。1991年・第42回では未発表曲「BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜」の歌唱を番組側に拒否されたHOUND DOGが出場を辞退した。(後述の話と関連するが)2009年・第60回の出場を最後に勇退を表明した布施明はその理由の1つに「(自身の)歌唱曲が固定している」ことを挙げた。その一方で、選曲に歌手側の意向が汲まれた(あるいは番組側からの歌唱依頼を歌手側が断った)された曲とされるケースも存在する。
「歌合戦」と称しているものの、演奏のみで歌わないグループの出場もある。1990年・第41回のG-クレフや2003年・第54回の女子十二楽坊など。
原則出演歌手は生放送内で歌唱するが、例外として2011年・第62回に特別出演したレディー・ガガは録画での出演となった。
原則として、紅・白両軍の歌手が1組ずつ対決する形式だが、稀に同組の歌手を2組ずつ連続して歌唱されるというケースもある。また、別々に出場したソロ歌手やグループが組んで1パッケージで登場することもある。2013年・第64回では、両軍トリである高橋真梨子・SMAP(大トリ)の歌唱後に同回を最後に紅白出場を勇退する北島三郎(「究極の大トリ」との位置付けがされた)のステージを行うという史上初の試みが実施された[17]。
紅・白両軍の対戦歌手同士が同一曲を歌い、直接対決となり、「同曲対決」が実現したことがある[18]。また、同タイトル曲(歌詞・メロディーともに全く異なる別曲)同士の対決となったこともある[19]。
歌唱時間は1回につき一組一回で3分程度が定番[20]だが、例外もある。演奏時間の長い曲を紅白で歌唱する場合、対応が分かれる。例外的に、1984年・第35回における都はるみ(同回での出演が引退前最後のステージだった。後に復帰)の歌唱時にはアンコールが行われ、自身の出番とは別の時間に組まれた他歌手のステージや企画内に参加し他の持ち歌(短縮版含む)を歌唱する者もいる。
随所で攻守交代が行われることが恒例。一方で、1980年・第31回のように攻守交代が一切行われなかった回もある。
1978年・第29回の古賀政男のケース以後、その年に逝去した芸能・音楽関係者の追悼演出が行われることがある(1コーナーを設けたり、出場歌手が該当者にちなんだ楽曲を歌唱するなど)。
海外でも放送されていることを踏まえ、国際的なメッセージを込めた歌唱・演出も行われる。その際、司会者が放送している国・地域数(その時点のもの)を述べることが恒例。
一部歌手(特別枠を含む)について、演出との兼ね合いからそのステージを審査の対象外とする場合もある。
歌の間には応援合戦やアトラクション、大合唱、コーナー[21]が行われ、かつてはほとんど恒例と言うべき出し物があった。このため、バラエティ番組の要素も持っている。NHKの人気番組が取り上げられることも多いほか、オリンピックなどスポーツにちなんだ演出が行われることもある。
- 1960年代以降、番組内で日本各地(後に海外からも)からの中継を挿入する演出が度々行われている。2000年代後半からは舞台裏(楽団の演奏室や楽屋付近)から中継を繋ぐこともある。
- 1970年代、紅組では若手歌手によるラインダンスが、白組では組体操が行われた。
- 出場歌手への激励や出場を祝福するための電報の紹介が行われていたことがあった。特に昭和基地の南極観測隊からの電報は恒例であった。2002年・第53回以降はそれが電子メールに変化している。
- 曲紹介中には司会者が(ステージ上で待機する)出場歌手からのメッセージを読み上げたり、出場歌手の関係者(身内など)から届いた手紙を読み上げるという演出が行われることがある。また歌手や司会者にちなんで過去の紅白やNHK番組、あるいは民放番組の映像・画像(民放局から提供の場合も)を放映することもある。
- 他の出場歌手が応援(コメント参加やバックコーラス・ダンサー)で登場する演出も行われる。特に2010年代に入ってからは演歌歌手の歌唱時にアイドルグループをバックで応援させる演出を行うことが多い。
- NHK教育テレビジョン→Eテレ番組のものやその年話題となったキャラクター(民放アニメ・特撮テレビのキャラも)が着ぐるみで登場することもある。また、動物が登場したこともある。
- 民放番組のタイアップ曲を歌唱する歌手がいる場合や出演者との関連性等により、民放番組と絡んだ演出が行われることもある。
- 映画にちなんだ演出が行われることもある。
- 生放送であり、時間が押してしまうことが多々あり、予定していた演出の一部が省略されることもあるほか、ハプニングの発生も見られる。
トリ歌手は初期から紅・白とも演歌・歌謡歌手が務めることが恒例だった(ポップス歌手が片方の組のトリに起用されても、もう片方の組のトリは演歌・歌謡歌手になるということが多かった)が、2000年代以降ではポップス歌手の起用機会も増えてきている。そんな中、2010年・第61回では紅組トリにDREAMS COME TRUE(2011年・第62回、2012年・第63回は出場辞退)、白組トリおよび大トリにSMAPと両軍ともにポップス歌手およびグループがトリに起用された。
- 先述の通り、初期におけるトリは圧倒的に演歌・歌謡歌手からの起用が多かった。初めてポップス歌手同士がトリを務めたのは、1978年・第29回であり、紅組トリに山口百恵、白組トリおよび大トリに沢田研二が起用された。同年が「演歌不作の年」とも評される程に、演歌勢で目立ったヒットがほとんど生まれなかった反面、ニューミュージックブームの到来であったため、ヒット作による出場作の不作でもあった。ポップス系で多くのヒット作や話題があったことから、企画の段階からこの年の紅白のラストは人気No.1のポップス歌手で、という方針は固まっており、先に紅組トリに百恵を起用することを決定。その後、彼女の対戦相手として最も適材な歌手として当時男性ポップス系歌手人気ナンバーワンの沢田が白組トリに起用されることとなったとされる。百恵・沢田のトリについては、ピンク・レディーが裏番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』(日本テレビ系列)出演により同回の出場を辞退しており、ピンク・レディー出演のその裏番組に対抗する意味合いもあったという[22]。ただしこれ以後、ポップス歌手同士がトリという事例は先述の2010年・第61回まで待つこととなる。また、紅組の10代の歌手が紅白のトリ歌手に起用されたのも百恵が最年少で紅白史上初(紅白両組ともに平成生まれの歌手の担当例はない)となっており、その記録は破られていない。
- かつてトリ歌手は「ソロ歌手でなくてはいけない」とのルールがあったとされ、1992年・第43回では紅組トリに由紀さおり・安田祥子、白組トリおよび大トリに同回で解散のステージとなっていたチェッカーズと紅・白ともにグループを起用する構想が挙がっていたが、このルールがあったために双方ともに見送りとなったという(由紀については、ソロでトリを務めし、安田は舞台裏でコーラスをするという形となった)。しかし、2003年・第54回にSMAPが白組トリおよび大トリに起用されたことでこの慣例はなくなった。2010年・第61回以降では両軍ともにグループがトリというケースもある。
- 1951年・第1回を除き、トリに初出場の歌手が起用されるケースは極めて稀である。
- 1981年・第32回、1982年・第33回では、曲順発表前に両軍ともにトリ歌手の候補を事前に公表するという試みが行われた。
- トリの定番曲も存在する。
- 1992年・第43回の由紀までトリでメドレーを歌唱する者はいなかった。
- 2012年・第63回、2013年・第64回の曲順の結果、初めて2年連続ポップス歌手同士のトリという事例が生まれた。
- 前年のトップバッターが翌年トリに起用されたり、前年のトリが翌年トップバッターに起用されるというケースもある。
- 2010年代に入ってから、幅広い層の視聴者や芸能事務所を納得させることを目的に、トリから2番目に演歌歌手、トリにポップス歌手を起用するという演出が行われることがある(事実上の「Wトリ」)[23]。
- トリ選出に関しては、その年を代表するヒット曲を持つ者やテーマとの合致、その年に節目(デビュー・結成○周年)を迎えた者、その回に節目出場を果たした者、その年に逝去した作詞家・作曲家が制作した楽曲を歌唱する者、国内で震災が発生した年では被害地域出身者あるいはその地域にちなんだ楽曲を歌唱する者、同回の出場を最後に歌手業を引退・休業もしくは紅白出場を勇退する者(後述)、記念回では最多出場回数歌手などのようなことが考慮される場合がある。
大トリ歌手の歌唱後には1977年・第28回、1978年・第29回、1993年・第44回を除き、ファンファーレ(別名:大エンディング)が流される。
勝敗はゲスト審査員と会場の観客および地上デジタルテレビ放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査とその結果の発表方式は回によって異なる。優勝チームが決定すると、テレビ画面には「○組優勝!!」の字幕スーパーが出て、天井から大量の紙吹雪がステージ一杯に降る(初期の頃はステージに紙テープを投げたり、天井から紙テープのみが降ったり、くす玉が割れて、紙吹雪・紙テープ・風船が降る演出があった。テレビ番組での先駆けである)。ただ、2000年代頃からは紙吹雪が優勝決定時には降らず、エンディングの「蛍の光」の場面で降る。そして、優勝司会者(キャプテン。組司会が複数となった場合は代表者1名)に優勝旗が授与される(優勝旗授与を行う人物は回によって異なる)。なお、表彰の音楽としてヘンデル作曲の「ユダス・マカベウス」の中の「見よ、勇者は帰る」が使われることが恒例[24]。また、この優勝旗には歴代の優勝チームの色のリボンが飾られている。
フィナーレは一部の回を除き「蛍の光」を出演者(出場歌手・司会者・ゲスト審査員・ゲスト・合唱団など)並びに会場の観客で大合唱されることが恒例である。
- 合唱の指揮は藤山一郎が逝去する前年の1992年・第43回まで務めた(1971年・第22回は岩城宏之が務めたが、総合指揮者として藤山も出演)。藤山は1957年・第8回まで白組出場歌手として出場した後、東京放送管弦楽団指揮者として出場しており、番組最多出演記録であった(後に番組最多出演記録は白組出場歌手の北島三郎が塗り替え、50回を記録した)。
- 藤山が逝去したため、1993年・第44回 - 2005年・第56回まで宮川泰が務めた。
- 宮川が逝去したため、2006年・第57回以降は平尾昌晃が指揮を務めている。
現代紅白においては「蛍の光」大合唱終了後、司会者の挨拶を経て、クラッカーが客席上に打ち上げられ、番組終了となっている。
番組専用のテーマ曲・テーマソング(オープニングなどで使用)を制作することがある。
放送するにあたっては、番組内でのサプライズやトークも進行台本にト書きされており秒単位での進行が行われている。バックバンドやダンサーを含む出演者ら本人および照明からセットを含むゲネプロを行い本番同様の綿密な予行演習が連日に渡り実施される。ただし一部の演出については、詳細を台本では白紙扱いにし(出場歌手や司会者にも伏せられる場合あり)、演出開始までシークレットにするものもある。
1980年代頃までは非常に厳粛な雰囲気で番組進行が行われた。
未曾有の大震災・災害が国内で発生した年の紅白はその復興を後押しする内容で放送となるケースがあるほか、芸能界で大事件が発生した年ではその影響が紅白の出場歌手や司会者の選考に波及したという事例も発生している。また、国内でスポーツイベント(オリンピック・FIFAワールドカップ)や国際博覧会などの大型イベントが開催される前後年の回では番組内でそれを取り上げることがある。
司会者とは別に「応援団」「応援団長」「応援リーダー」「サポーター代表」「紅白応援隊」「紅白デジタル応援隊」「紅白PR大使」などといったポジションが登場する回もある(出場歌手が兼任することもある)。これらは司会者のサポートや番組PR、番組の盛り上げに一役を買う位置付けである。また、ゲスト審査員の紹介や彼らへのインタビューを担う「審査員リポート」や中継出演する出場歌手がいる回では現地に赴き該当歌手へのインタビュー・リポート・曲紹介を行う「中継リポーター」という役が設けられることもあるほか、かつては「テレビ実況」という役も存在していた(これらの役はNHKアナウンサーが担う。ゲスト審査員への先述の役割は通常司会者が行う)。その他、両組出場歌手の中から「リーダー」[25]「キャプテン」というポジションを制定(1人ずつ)する回もある。
2004年・第55回までNHK放送総局長が務める大会委員長とのポストがあった。
出場歌手の演出によって、合唱団、バックダンサー、手話サークル等が登場する。
記念回では、歴代司会者がゲスト出演したり、過去の回で実績を残した歌手が再出場するということが恒例。
会場の観覧者にはペンライトが配られており、照明を落として行われるステージでは会場がペンライトの発光色で染まる場面が見られる。その他、ペンライトに加え、LEDライト、リアルタイムARシステム、サイリューム、ヒマワリ、お面が配られ、歌手の演出に花を添えることとなる。出場歌手にもペンライトを配って、ステージ上や司会席で使用させることもある。
12月下旬に数日間に渡ってリハーサルが行われる。出演歌手は原則全員リハーサルに参加するが、例外的に2009年・第60回に特別出演した矢沢永吉はリハーサルなしで本番に挑んだ[26]。
本番が迫る時期には、紅白のPR特番が多く組まれることも恒例。過去紅白の再放送や名場面放映を中心とした番組もある(いずれもBS2『思い出の紅白歌合戦』や『あなたが選ぶ思い出の紅白・感動の紅白』など)。
出場者の決定[編集]
基本的には前回の放送が終了してからの1年間にヒット曲を出した歌手を対象として出場者の選考が行われる。本人や所属レコード会社・所属事務所に対して選考対象とされることや出場への意思の有無の確認が行われ、これと平行して世論調査・アンケートやNHK内での数ヶ月間にも及ぶ事前の内部作業などを経て選考対象者の絞り込みも行われていき、その出場者は例年11月頃に行われる選考会議で最終決定され、出場者が発表され正式に出場が決定する。
過去には本人に対しては出場決定後の通知のみであった。そのため、江利チエミや田原俊彦などで出場決定後に本人が辞退の意志を表明するという出来事が起きている。
1960年代より紅白出場は歌手のステータスや格付けになる要素があるとされる(1962年・第13回の項を参照)。ただし、1950年代では裏番組の音楽番組を優先したり、そちら番組と掛け持ち出演する歌手も多数しており、多くの歌手が紅白を最優先するまでではなかった。
出場歌手の発表当日には司会者および出場予定者の代表者が出席しての記者会見が行われ、これには競合関係にある民放各局も含めた各メディアの取材陣が集まり、『NHKニュース』を始め各メディアでも報道され、年末が近くなってきたことを示す風物詩の1つになっている。この記者会見には初出場者が出席することが恒例(出席せずにコメントのみを発表する者も見られる)。また情報は記者会見とほぼ同時にプレスリリース・特設公式ウェブサイトなどでも並行して順次公表される。2010年・第61回以降、出場者発表会見はインターネットでもストリーミング配信で生中継がされている[27]。出場歌手発表は11月中旬 - 12月上旬に行われる。
原則として、出場歌手は一斉に全て発表されるが、1990年・第41回のような例外もある。
出場歌手の選考については、第一義的には音楽業界での活躍・音楽セールスの実績(レコード、カセット、CD、DVD、音楽配信、USEN、カラオケなど)・実力・知名度・話題性・・世論の支持・歌唱力・同回のテーマとの合致・『NHKのど自慢』出場者に自身の楽曲が選曲されることなどが重要となるが、他にもNHK番組への出演・関与や番組主題歌の歌唱など、「NHKに対する貢献度」が選考を左右する要素として決して小さからぬ割合を占めている。そのため、大きなヒット曲や話題性がなくとも、日頃のNHK各種番組への積極的な出演やテーマソングなどの楽曲提供を評価されて選出され、紅白の舞台でNHK番組のテーマ曲や過去のヒット曲を歌う者が例年見られている。このこともあって、紅白には主に演歌系を中心に「紅白常連組」などと呼ばれる多数回出場の実績を持つ中堅・ベテラン歌手が存在している。また落選者について、どの回も「次点」が存在する(特に1977年・第28回)。
特に『連続テレビ小説』や『大河ドラマ』の主題歌やオリンピック(パラリンピック)・FIFAワールドカップのNHK中継テーマソング、NHK全国学校音楽コンクール課題曲(中学校の部)を担当した者については、出場しやすい面がある(またNHKタイアップ曲での出場者の歌唱場面では、このタイアップにちなんだ演出が行われることも恒例)。ボーカルの桜井和寿による「音楽で勝敗を決める番組に出演したくない」との理由で出場辞退を続けてきたMr.Childrenが2008年の北京オリンピック・北京パラリンピックの同中継テーマソング「GIFT」を担当した縁で同年の第59回への出場を受け入れたというケースもある(Mr.Childrenの紅白出場は同回のみとなっている)。ただし、NHKがオリンピック中継実施時に自局テーマソングを設けるようになった1988年のソウルオリンピック以降、同テーマソングを担当した歌手がその年の紅白に出場するという事例は長らく実現しなかった[28]。初めてこのケースが実現したのは、2004年・第55回のゆずである[29]。ちなみに、それ以後冬季・夏季ともにオリンピック開催年において、同テーマソングを担当した歌手はその年の紅白に出場してそれを歌唱するようになっている[30]。そして2012年・第63回では、紅組トリを同年のロンドンオリンピック・ロンドンパラリンピックの同テーマソング「風が吹いている」を歌唱したいきものがかり、白組トリおよび大トリを同年上期の連続テレビ小説『梅ちゃん先生』の主題歌「さかさまの空」[31]を歌唱したSMAPが担当するというケースも実現している。
出場歌手選考の参考として1972年・第23回の選考時より「ご意見を伺う会」が発足し、その会員から意見を求むという体制が1987年・第38回まで続いた。視聴者から出場歌手アンケートを募り、そのデータも選考に加味される(そのアンケート結果は1986年・第37回までは重視されていたが、1987年・第38回以降は参考程度に留めている[32][33])。なお、このアンケート結果を公表することもある。
音楽業界で大きな実績を残しながらも、その年内をもっての引退・休業を発表した歌手や解散・活動休止を決定したバンド・グループを選出することがある[34]。この場合、紅白がラストステージ(ないし最後のテレビ・ラジオ出演)となること、その出演が社会的関心事となる場合も少なくない。また、紅白出演を最後に活動休止に入った歌手が翌年以降の紅白に出演して活動再開を果たすというケースも見られる[35]。
歌手業を引退していた者や解散したグループを選出することもある[36]。また、その時期に限定再結成を行っていたグループを選出したこともある[37]。
童謡やそれに類する子供向けの映画主題歌などの楽曲も、童謡歌手出身で声楽家・歌手として大成した由紀さおり・安田祥子(姉妹)が手掛けるまでは出にくかった一面があり、NHKの番組関連の楽曲を別とすれば出演の事例は少ない。かつては番組開始が21時であったことから、子供向けの楽曲であること以外にも、童謡歌手は低年齢である場合が多いことから、古くより深夜帯に掛かる番組であることや、その後も労働基準法などとの兼ね合いで中学生以下の子供の出場が事実上不可能であった点も、出場への大きなネックとなっていた。
逆に社会現象あるいは音楽市場全体の動向に影響を与えるほどの一大ブームを巻き起こしたジャンルの場合、視聴率への大きな波及が期待できることもあり、ジャンルとしては勃興期にあっても複数のグループを選出することがある(1990年代のヴィジュアル系の各バンドなど)。
1975年・第26回のずうとるび(日本テレビ系列『笑点』出身)以後、民放番組からデビューした企画ユニット・ソロ歌手(番組内のキャラクター)あるいは民放色の強い歌手も出場しており、特に1990年代後半以降は多くの民放番組出身歌手が出場するようになった(2008年・第59回のようにメディアに「民放色が強い」と評される回も出ている)。その場合、該当番組内でそれらの人物が「紅白を狙う」と公言したり、出場が決まった際には紅白本番中やその舞台裏の模様を後日番組内で「紅白ドキュメント」などと銘打って放映したりすることがある。また、これらの歌唱時には番組共演者が応援ゲストとして登場することもある。NHKが民放番組出身グループへの出演交渉を彼らの所属事務所やレコード会社ではなく直接該当民放局に行った事例もある。また、1999年・第50回、2000年・第51回に出場したフジテレビ系列『とんねるずのみなさんのおかげでした』出身の野猿は、メンバーにフジテレビの裏方スタッフが含まれていることから、民放テレビ局の社員が出場という事例にもなっている[38]。番組側は話題となっている民放番組出身ユニット・歌手に出場してもらうことで視聴率獲得への期待をしている面があり[39]、民放局側も自局番組出身のユニット・歌手を紅白に出場させることに協力的な姿勢であるという[40]。一方、1976年・第27回において、同年のフジテレビ系列『ひらけ!ポンキッキ』のオリジナルナンバーとして使用され、オリコン年間シングルチャート1位のヒット曲となった「およげ!たいやきくん」[41]を持つ子門真人が、1985年・第36回、1986年・第37回では当時社会現象を巻き起こしていたフジテレビ系列『夕やけニャンニャン』出身のおニャン子クラブが出場しなかった[42][43]。
上記の話と関連するが、タレントやお笑いタレント、俳優、女優、芸者、声優、会社員など本業が歌手ではない者の選出もされている。
海外アーティスト・外国人アーティストの招聘にも積極的であり、1990年代からはアジア・南米からも出場者が現れている。一方、過去には2010年・第61回、それまで9年間連続出場が続き、この年も民放などを中心に少なからぬメディアが複数出場も予想していた韓国のK-POP勢がことごとく不選出となったこともある[44]。2011年・第62回ではK-PОP勢から3組が出場したものの、2012年・第63回以降では1組も選出が行われていない。
出場歌手については、所属する芸能事務所毎に一定の枠、数的制限が設けられる慣例があるとされる。この慣例については、2009年・第60回出場歌手発表後に番組側は「枠を設けたことはない」と説明した[46]が、番組終了後にジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川が「NHKに2枠固定と言われ意固地になっていた」と事務所毎の一定枠が存在することを示唆する発言をしている[47]。ただし、2005年・第56回の出場歌手発表時にマスコミから番組側に「ジャニーズ事務所の歌手・グループを出さないのか?」との質問が出された際、番組側が「ジャニーズさんにはもっと出してほしいとお願いしているんですが・・・」と返答していた[48]。
かつて、2部制が導入された1980年代前半までは芸能事務所毎の枠という概念そのものが存在していなかった。このため1974年・第25回では、出場歌手の紅白計50組中10組を当時全盛期にあった渡辺プロダクションに所属する歌手が占めるという状況も見られた。だが、その後は一定の枠が事実上として設けられるこの慣例の存在もあり、かつての渡辺プロほどの規模で特定の一事務所が出場枠の一定割合を専有することは事実上不可能になっている。大ヒット曲を出しながら事務所枠の関係で出場機会に恵まれない者も存在する。
渡辺プロダクションの全盛期が過ぎ去るのと入れ替わる様に1980年代から芸能界で大きな影響力を持つようになったジャニーズ事務所に所属する歌手の出場は、1994年・第45回 - 2008年・第59回まで、近藤真彦の返り咲き出場を例外とすればSMAP・TOKIOに限定されていた。状況に変化があったのは2009年・第60回で、この両者に加え嵐とNYCboys(NYCの前身。「こども紅白歌合戦」に出場したスノープリンス合唱団も含めると5組)が出場した[49]。翌2010年・第61回でも、白組司会の嵐を含め4組が出場した。とはいえ、同回にはメンバーの井ノ原快彦が総合テレビ『あさイチ』で司会を務めていることなどから出場を有力視されていた[50]V6が不選出という事例もあった[51]。
大手芸能事務所の所属者については、事務所の重役(社長など)から気に入られている者が一般的知名度に欠けていても、同じ事務所の格上者をさしおいて出場となるケースもあるとされる[52]。
その年に節目(デビュー○周年)を迎えた者が優先的に出場となるケースもある。
国内で未曾有の大震災が発生した年の回では被災地に縁のある歌手(楽曲を持つ者)が選出されることがある。
ソロ歌手とグループ、あるいはソロ別名義・他アーティストとのコラボ等での活動を掛け持ちする歌手も多数存在するが、紅白では同じ1人・組のアーティストが同一回に複数名義で正式に出場することは、沢田研二が1989年・第40回において、沢田・ザ・タイガースの2名義で出場した事例以外はなかった。しかし、2000年代後半からは同系列のグループ絡みで複数のグループ・ユニットに参加する人物がそれらの一員として複数名義で出場となるケースも見受けられるようになっている。
『週刊文春』2012年10月25日号に、「紅白出場にはその1年以内に1曲は新曲を出していることが最低条件」と報じられている[53]。しかし、実際には年内に新曲発表を行わなかった者が選出されることもある(年内に新曲発表を行わなかった者に出演打診をしたが、辞退されたというケースもあり)。芸能ジャーナリストの渡邊裕二は「紅白出場にはシングルの発売枚数5万枚がボーダーライン」と語っている[54]。
歌手側が出演交渉を受けた段階で、歌手が番組側に出演の条件(トリ歌唱や中継出演等を確約)を述べ、番組側がそれを了承して出演決定となるケースもある[55][56][57]。
インディーズレーベル所属のJ-POPアーティストからの出場も実現している[58]。
どの回も出場歌手は基本的にポップス、演歌・歌謡系の歌手で大半が占められるが、それ以外のジャンルの歌手からの選出もされている。
2000年代では、その年の11月にメジャーデビューを果たしたアーティストが同年の紅白に出場(初出場)するという事例もあった[59]。
選挙に出馬する者を支援する歌手は、選挙が近い時期の回に出場できない場合があるとされる。2008年・第59回において、選出が有力視されていたBREAKERZが同ボーカルでリーダーのDAIGOが自身の大叔父にあたる竹下亘を支援していたことで、竹下が立候補を予定する第45回衆議院議員総選挙の日程を巡る国政の状況から落選した[60]。特定の宗教法人・政党の会員・支持を公言する者についても紅白出演を見送られる場合があるとされる。
グループについては、その元メンバーが何らかの騒動を起こした場合、紅白に出場できなくなる場合もあるとされる[61]。
その他、様々な事情により、大ヒット曲を出しても出場できないというケースもある。
出場歌手は数日間に渡るリハーサルを踏んだ上での出演(会場で歌唱する場合)となるが、ギャラは民放番組に比べれば相当安いものであるとされる。『リアルライブ』2010年1月4日付によると、「ギャラは諸経費込みであり、ほとんどの歌手は衣装代で赤字。初出場の歌手は5万円程度でグループは全員でその金額。歌手は皆『紅白に出られるなら仕方ない』とPR効果を見込みそのギャラで我慢してきた」としている(一方、『リアルライブ』や『ゲンダイネット』の報道によると、「特別枠」での出演者には例外的にギャラが倍増することもあるという)[62]。
紅白への出場が決まると、歌手は周囲から「紅白出場おめでとう」と祝福される風習がある。これは最盛期に大みそかの風物詩として多くの国民が支持した歌の祭典であり、その出場歌手となることは至難だったことから、その歴史もあってのものと思われる。しかし後にこの風習に違和感を持つ出場歌手も存在するようになった[63]。
出場歌手の発表後に回によっては、メディアから「目玉なし」と評される事例もある。
「出場辞退」[編集]
紅白については、セールス実績や話題性などから出場を確実視されていた歌手・グループの選出・非選出同様、出場予定者の出場辞退や直前の欠場、つまりエントリーの変更が、出場と同様か時にそれ以上に大きな社会的話題となる場合がある。
紅白出場自体を「興味ない」「メリットがない」としたり、年末年始に元々仕事をしない(家族と過ごすため等)方針であること、自身のカウントダウンコンサート(1980年代より。一方、2000年代以降では紅白にカウントダウン会場から中継で出演する者も見られるようになった)や海外でのレコーディングなど大みそか当日の別の仕事のために辞退する者も多く存在している。生放送での歌唱に難色を示したり、裏番組への出演や紅白に出場した場合の長時間拘束を嫌うということを名目に辞退する者もいる。また、辞退者側がその理由に関し、「おせち料理を作るため」「恥ずかしい」「個人的に出たくない」「トリなら出る」ということを挙げるケースもある[64]。
1980年代頃よりミュージシャン系の出場辞退が相次いでいる。
NHKは公共放送でありその番組は国民が払う受信料によって制作され、出演者に対して支払われるギャラもまたそれによって賄われている。そのため、すなわちイメージがクリーンであることも、出演者の選出・決定にあたって満たし、また出場当日まで守り続けなければならない重要な必要条件の1つとなっている。
これまで、暴力団関係者との不適切な関係や、金銭面のトラブルなどといったスキャンダル・不祥事の発覚により、「出場を希望したが不祥事を理由に落選」とされる前に、「内々で自主的に辞退」という名目を取って歌手側が自ら選考から降り、出演を断念するケースが幾度も繰り返されている。また、この様な出来事を巡って週刊誌などで音楽業界や芸能界の暗部を窺わせるような報道が見られることもある。
特に“黒い交際”の発覚、すなわち暴力団・ヤクザなどの反社会的勢力が絡むスキャンダルが表面化することは、紅白出場を目指す人物にとっては大きなタブーで、選考にも決定的な悪影響を及ぼす。それは大物歌手・ベテラン歌手であっても例外ではなく、過去には長年紅組トリを独占していた美空ひばりが、1973年、暴力団構成員であった弟・かとう哲也の逮捕をきっかけに、三代目山口組・田岡一雄との関係を問題視され、イメージが低下しアンケート支持の低さと「ご意見を伺う会」からの批判が相次いだことを理由に落選[65]となり、以後は「自発的に出場辞退」との姿勢を取り続けたが、実際には紅白を事実上追われて、正式な出場歌手としては遂に復帰しなかったことは有名である。2008年にも同様に暴力団組長が主催したゴルフコンペに複数のベテラン歌手が参加したことが発覚、この歌手らについてNHKは「当面は番組出演見合せ」という措置を取り、彼らの所属する事務所は「辞退した」と主張したものの、同年の第59回ではやはり事実上の落選となった。また、1986年・第37回では、北島三郎・山本譲二が1月に暴力団主催の宴席に出席していたことがメディア報道で暴露され、本番の差し迫った12月29日に出場辞退を余儀なくされ、代役として角川博と鳥羽一郎を選出したものの、今度は鳥羽が自身も暴力団と過去に関わりがあったことを自ら暴露し、この一件に対するNHKの偽善の姿勢を批判して辞退、最終的には30日午後というギリギリの段階で、31日夜のスケジュールがたまたま空いていたシブがき隊を確保して代替出場させ、どうにか取り繕ったという事例も発生している[66][67]。「黒い関係」については、暴力団関係者のものであることが意図的に伏せられた宴席に芸能人が招待・招聘され出席し、メディア報道による暴露で当事者や所属事務所が初めてその事実を把握したようなケースでも、その年の紅白出場に向けては致命的なマイナスとなる[68]。その他、2011年には、10月に暴力団の影響力排除を目的とした各都道府県の暴力団排除条例の施行の進捗や、8月に島田紳助が暴力団との交際の発覚を理由に芸能界を引退し大きな話題になったことなどもあり、NHKも暴力団排除指針を公表しており、同年の第62回の選考を巡って、黒い交際の情報がある人物は排除しなければならず、NHKが出場候補者の人選に通常より神経を使い、報道局など組織内の多くのリソースも投入していると各メディアで報じられた。
不祥事以外の事故や疾病などのアクシデントでもその内容や時期によっては、出場の可否を巡る話題が発生するケースもある。2008年・第59回では浜崎あゆみが直前に右手を負傷し緊急手術を受ける事態となり、紅白直前の日程のテレビ出演(テレビ朝日系列『ミュージックステーションスーパーライブ2008』)のキャンセルを余儀なくされたものの、最終的に紅白には出場を果たした。だが、この際には浜崎が出場できるか辞退を余儀なくされるかを巡って、さらには浜崎は通常は右手でマイクを握ることから、紅白に出場する場合どうやってマイクを使用するかについてまで、当日の放送開始のギリギリまで各種メディアで様々な情報が交錯した。浜崎以外にも、出場決定後に事故や疾病を患い、出場が危うい状態(あるいは体調不良を押して出演)となった歌手が存在する。
また、ベテランの域に達すると、「紅白常連組」として知られていた者の中にも「紅白卒業」を表明し、以後は基本的に選考・出場を辞退(不出場)するようになる者が見られる[69][70]。なお、この際に歌手側から述べられる理由は、「引き際を大切にしたい」「後進に道を譲る」「自らの楽曲やジャンルに対する番組側の軽視への不満(同じ過去のヒット曲ばかり歌わされる、同じジャンルの有望な若手・中堅に出場機会が与えられない、など)」「毎年繰り返される落選への恐怖に耐えられない」など様々である[71][72]。この他、連続出場していた歌手が、落選を機に「出演の意思がない」という姿勢を取った事例もある。
ただし、番組側は基本的に選考の過程や理由などを詳らかにはしておらず、非選出者については発表記者会見の質疑応答の中で特に話題になった一部の者についてのみ個別に最低限の事情を明らかにしている程度で、NHKの報道番組・番組情報等もほぼ触れない。また、民放各局・その他各メディアの選出・非選出にまつわる悲喜こもごもの芸能ニュースも大半はその記者会見の質疑応答の内容と「芸能関係者」からの情報・コメントを抜粋したものという構成である。しかし、辞退者側が明確な辞退理由・経緯等を公表するケースもある。また、常連歌手など功労者を落選させる場合、番組側が該当歌手に「辞退した」と公に発表することを許可する場合もあるとされる(これを該当歌手が拒み落選をそのまま公表することもある)[73]。
なお、出場が正式決定した後になってから、不祥事・スキャンダル以外の歌手側の都合で出場を辞退し、代替出場の歌手が立てられたケースは少ないものの、以下の事例がある。
- 1952年・第2回 松島詩子 - 理由:本番当日に交通事故に遭遇したことによる負傷。代役は越路吹雪。
- 1955年・第6回 サンディー・シムス - 理由:飛行機が欠航した影響で、本番当日までに滞在先の香港[74]から東京に戻れず。代役は芦野宏。
- 1956年・第7回 雪村いづみ - 理由:本番当日の急病(胃痙攣)のため。代役は立てられなかったが、雪村の親友である江利チエミが急遽、出場者の印の赤い花を2つ胸に付けて雪村の分と合わせ2曲を歌唱した(ちなみに、雪村が歌う予定であった曲目は「マンボ・バカン」、対峙する予定であった白組歌手は小坂一也であった)。
- 1970年・第21回 江利チエミ - 理由:「ヒット曲がない」という歌手側の意向。代役は日吉ミミ。
- 1971年・第22回 内山田洋とクール・ファイブ - 理由:ボーカルの前川清の急病[75]。代役はフォーリーブス。
- 1988年・第39回 田原俊彦 - 理由:当初、レコード会社・所属事務所の同意を得てNHKが出場を決定したが、田原本人が「紅白は卒業した」として辞退を表明。代役は男闘呼組。
- 1991年・第42回 HOUND DOG - 理由:歌唱曲の選曲を巡ってNHKとの間でトラブルとなり辞退。代役はバブルガム・ブラザーズ。
- 2004年・第55回 後浦なつみ - 理由:安倍なつみの詩の盗作発覚により辞退。残りの2人(後藤真希と松浦亜弥)でユニット名も改めて(後藤真希&松浦亜弥として。記録上はそれぞれをソロ歌手扱いとした)出場。
- サンディー・シムス、HOUND DOG、後浦なつみはこの後も出場をしておらず、幻の出場となっている(後浦なつみについてはメンバー3人が別名義で出場経験あり)。
この他、出場する予定だったグループの一部の人物が、病気・負傷・不祥事などの理由により欠場・出演辞退という事態になり、残りのメンバーで出場したケースも存在する。
司会者[編集]
2005年・第56回を除き、紅組司会・白組司会・総合司会と司会分担されており、紅組司会と白組司会は出場歌手の紹介などを行い、総合司会は全体の進行(オープニング・エンディングの進行や攻守交替のアナウンスなど。通常両軍司会より登場頻度は少なく、登場場面以外は舞台裏で待機する格好となることがある)を行う。また一部、紅組司会が白組歌手を、白組司会が紅組歌手を紹介するという演出が取られることもある(総合司会が出場歌手の紹介を行うケースもあり。他に両軍司会が揃って出場歌手の曲紹介がなされることもある)。回によっては総合司会はオープニング・エンディング以外はほとんど登場せず、両軍司会のみで大半の進行担当となることもある(逆に総合司会が随所で登場して組司会のサポート役を担うという回もあり)。
紅組司会は基本的に女性が務め1951年・第1回、1952年・第2回、1953年12月・第4回、1957年・第8回 - 1997年・第48回、2005年・第56回、2006年・第57回、2008年・第59回以降は女性芸能人(女優、歌手、お笑いタレント)が務めており、1953年1月・第3回、1954年・第5回、1986年・第37回、1998年・第49回 - 2004年・第55回はNHKの女性アナウンサーが務めている。白組司会は男性が務め1951年・第1回 - 1967年・第18回、1970年・第21回 - 1986年・第37回、2001年・第52回 - 2004年・第55回まではNHKの男性アナウンサーが務めており、1968年・第19回、1969年・第20回、1986年・第37回 - 2000年・第51回、2005年・第56回以降は男性芸能人(歌手、俳優、フリーアナウンサー、上方落語家)が務めている。紅組司会を男性(NHKアナウンサー・芸能人並びに歌手)が務めたケース(1955年・第6回、1956年・第7回の宮田輝、2007年・第58回のSMAP・中居正広)[76]や組司会が複数となったケース(1986年・第37回以降の事例。両軍2人体制やグループによる組司会[77])もある。なお、白組司会を女性が務めたケースはない。組司会について、2007年・第58回の司会発表の際に番組側は「紅組司会が女性でなくてはいけないということではない」と説明している[78][79]。
初期の白組司会がNHKアナウンサーからの選出が多かった理由は、紅組司会を務める女優や歌手には時間配分を計算する余裕がなく、時間調整ができる存在が求められたためとされる[80]。
組司会もプレーヤーの一員との考えから、名義・名称が「キャプテン」「リーダー」となることがある。
総合司会は基本的にNHKアナウンサーが担当しており、NHKアナウンサー以外(芸能人。お笑いタレント・フリーアナウンサー)が務めたケースは過去に2人のみで、1人目は1983年・第34回のタモリ、2人目は2005年・第56回のみのもんた(正式なものではない)である(なお、NHKアナウンサー以外の女性が務めたケースはない)。また、総合司会の名義が「進行役」というのもあり、総合司会が正式であったり・正式ではないのもある。初期から長らく男性アナウンサーしか起用されなかったが、1988年・第39回以降は女性アナウンサーも起用されるようになった。総合司会は1 - 2人の体制(2人体制の場合は男性2人か男女1人ずつ)である。
- ※1986年・第37回は紅組司会が目加田賴子・斉藤由貴、白組司会が千田正穂・加山雄三という体裁だが、事実上は目加田・千田は斉藤・加山の補佐役という体裁だった。
- ※2005年・第56回は正式には司会の区別はなく、みのもんた、山根基世、仲間由紀恵、山本耕史の4人で「グループ司会」という体裁を取っていたが、事実上は紅組司会が仲間、白組司会が山本、総合司会がみのと山根という体裁だった。なお同回に「グループ司会」との形式を採用した理由について、茂手木秀樹(同回時点での芸能番組センター部長)は「世代間の対話を大事にしたい。今までの紅白の対立構造に無理があると考えた」と説明した[81][82]。
司会者と位置付けられながら会場に一切登場しないというケースもある。2008年・第59回で総合司会を務めた小野文惠は飛行船に乗ってナレーションしたため、NHKホールのステージには登場しなかった。
司会選出については、NHK(『連続テレビ小説』や『大河ドラマ』など)・民放のドラマや映画、舞台等で活躍する女優・俳優、歌手(出場歌手)、NHK・民放の人気バラエティ番組・音楽番組の司会者・出演者、NHKの看板アナウンサーなど様々な人選がされており、司会経験が手薄な人物が選出されることも珍しくない(紅白での司会がテレビ番組そのものないし音楽番組の初司会担当となるケースも見られる)。司会選考にあたって、NHK内(全国の放送局)で司会希望のアンケートを行うことがある[83]ほか、年によっては複数の人物を候補に挙げることもある。先に起用を決めた組司会とのバランスも相手組司会の選考に影響することもある。また、NHKの番組で活躍する人物が選ばれることが比較的多い(例外的に1991年・第42回の浅野ゆう子や2005年・第56回のみのもんたのようにそれまでNHKへの出演が少なかったにもかかわらず司会に起用されたケースもある[84])。司会候補に挙がっていると報道され実際非選出だった人物が同回に司会以外のポジションで出演するということもある。その他、1994年・第45回 - 1996年・第47回の白組司会を務めた古舘伊知郎や2005年・第56回の司会を務めたみのもんたのように民放のアナウンサー出身者(前者はテレビ朝日、後者は文化放送)からの選出もされている[85]。なお、民放のアナウンサー出身である女性が司会に選出されたケースはない。
司会の打診を辞退したとされる芸能人も存在する。一方、司会打診を行った当初は辞退の方針を示した芸能人に懇請して最終的に司会を引き受けさせたというケースもある。逆に自ら紅白の司会に意欲を示したり、番組側に自身を司会に起用するようアプローチをかける芸能人もいる[86]。
司会が決定すると、記者会見を開き発表することが恒例[87]。司会者発表は10月中旬 - 12月上旬の間に行われる[88]。一斉に全司会者を発表とすることが多いが分けて発表することもあるほか、基本的には出場歌手発表の前に発表が行われる[89]。ちなみに、司会発表の記者会見はNHK放送センターのスタジオで行われることが恒例だったが、2012年・第63回以降はNHKホール前の屋外特設会場で行われている[90]。2001年・第52回での司会発表会見はNHK放送センターとNHK大阪放送局を中継で繋ぐ異例のスタイルとなった(同回の紅組司会・有働由美子が大阪局で番組収録を行っていたため)。また、司会に決定(内定)した場合、正式発表となるこの会見時まで誰にも明かしてはいけないと、番組側から注文が付くとされる(2006年・第57回で白組司会を務めた中居正広は司会発表会見の場において、「(司会を)秘密にしろと言われた」と語っている[91]。これは出場歌手のトリ内定の場合も同様とされる)。ただし、司会者の正式発表前にマスコミによりNHK・各芸能関係者等への取材を情報源とした司会者のリーク報道が行われている(外れる場合もある)。2013年・第64回では綾瀬はるか・嵐の両軍司会起用が発表前に各メディアでリークされており、正式発表後に女性誌記者が「以前は、紅白の司会者だけは当事者は口が堅くてスクープできないものでした。ここ数年ユルくなっている。今年は、嵐も綾瀬も既報の通りですからね。鮮度ゼロでしょ!」と述べた[92]。
紅白の司会者(主に両軍司会)は各テレビ情報誌の年末年始号の表紙に起用されることも多い(紅白の司会を務めるにあたってのインタビューも掲載される)ほか、両軍司会を表紙にしたテレホンカードや図書カードも発売される。
芸能人が司会を務めた場合のギャラは相当格安のものであると、各メディアに報じられている。『ゲンダイネット』2006年10月25日付では「民放(番組)に比べれば10分の1以下の150万円 - 200万円程度」、『リアルライブ』2010年1月4日付では「100万円程度」であるとしている。また、嵐のようにグループで司会を務める場合は100万円程度の額を用意し、グループ人数で均等に分けるというかたちとなる。
出場歌手が組司会を兼任することもあり[93]、その際は基本的に出場歌手・組司会どちらも同一組から行うが、例外として2007年・第58回の中居正広は出場歌手はSMAPとして白組で、組司会は紅組で行った。1968年・第19回(紅組は水前寺清子、白組は坂本九。出場歌手での出番でも両者の直接対決となった)、1969年・第20回、1986年・第37回 - 1988年・第39回、1997年・第48回は出場歌手同士の両軍司会となった。美空ひばり(1970年・第21回、大トリも。組司会と大トリを兼任したのは紅白史上唯一[94])、森昌子(1985年・第36回)、和田アキ子(1987年・第38回)は紅組司会を兼任した回で紅組トリを務めた(男性歌手が組司会を兼任してトリを務めたケースはない[95])。なお、出場歌手が組司会を兼任する場合、その人物の歌手としての出番の曲紹介は基本的に相手組司会・総合司会・出場歌手・応援団・応援ゲスト・ゲスト審査員が代理で担当するが、本人が自ら紹介することもある。また、本業が歌手の人物が出場歌手には落選した上で組司会を務めたケース(紅組司会をそれぞれ務めたペギー葉山(1966年・第17回)、九重佑三子(1967年・第18回)[96])、組司会を務めた翌年に歌手として初出場を果たしたケース(紅組歌手の松たか子(1997年・第48回)[97])、同一回に歌手初出場と初組司会を双方果たしたケース(紅組歌手と紅組司会を兼任した斉藤由貴(1986年・第37回)[98])もある。
NHKアナウンサーが全ての回で司会に携わっている(なお、紅白の司会を務めるNHKアナウンサーは担当回時点における東京アナウンス室在籍者である)。これは紅白生放送中に有事(重大事件・事故・災害など)が発生したり、芸能人司会者が本番直前にアクシデント(病気・負傷・不祥事など)により出演不能となった場合への対応の意味合いもあるとされる。特に1953年1月・第3回、1954年・第5回 - 1956年・第7回、2001年・第52回 - 2004年・第55回は司会者が全員NHKアナウンサーで固められており、中でも2001年・第52回 - 2004年・第55回に関しては、当時NHK会長の海老沢勝二による「NHK色を強めたい」との強い意向を受けてのものである[99]。
司会進行の形式は、2006年・第57回まで大部分を両軍司会がそれぞれ下手(紅組)、上手(白組)(先述の通り、1953年12月・第4回のみ逆であった)に分かれて別々に進行するものだったが、2007年・第58回以降は番組の最後などを除き下手席で両軍司会が揃って進行する形に移行している。なお、両軍司会が揃って進行する形式に変更したことで対戦色が薄まったとの指摘もある[73]。グループで白組司会を担当した嵐の司会形態については、2010年・第61回 - 2012年・第63回ではほぼ全編5人全員で進行するものだったが、2013年・第64回ではパートによってメンバーを分けて登場させる演出も見られた。
オープニングにて、原則総合司会(例外として、1995年・第46回ではオープニングのナレーションを担当した江守徹、1998年・第49回では両軍歌手キャプテン同士である和田アキ子(紅組)、北島三郎(白組)が紹介)より両軍司会の紹介が行われる。紹介後、両軍司会が決意表明などを述べる。
司会者が番組内で随所に衣装替えを行うことも恒例。ちなみに、組司会はオープニングを含む序盤は和服姿(それぞれの組の色に合わせたもの)で登場することが多々ある。衣装に高額費用(数1000万単位の場合も)を使う人物もいる。
司会者が体調不良を押して出演するも、気丈に進行を務め上げたという事例もある。
現代紅白の司会進行にあたっては、台本と合わせてカンぺも用意される[100]。司会者に対し、スタッフから開始早々のタイミングで「巻き」(スタッフから出演者に早く進行するよう指示が入ること)が入ることも珍しくなく、放送内でアドリブを入れることも中々できないという[101]。その他、司会者が生本番内で言い間違いや失言をして話題となった事例がある(1980年代頃までは司会者の言い間違いなどのハプニングは一切許されないというほどの厳格さがあった(後にこのような演出やハプニングはある程度認められるようになった)。これに関連して1995年・第46回 - 2000年・第51回に総合司会を務めた宮本隆治は「NHKホールには魔物が住んでいる」「これまで多くの魔物が先輩の司会者達を苦しめて来た」と語っている[102])。ただし、これらは現代紅白のものであり、1970年代頃までは司会者によるアドリブや自由演出がごく当たり前のように行われていた。一例として、1970年・第21回では本番内において、白組司会の宮田輝が白組歌手の橋幸夫に対し、歌唱曲を当初予定の「俺たちの花」から「いつでも夢を」に変更することを持ちかけて歌唱させたという出来事があった。
リハーサルと並行して司会者と出場歌手で面談が行われる。その面談では、司会者側より出場歌手に本番内での曲紹介の内容について説明したり、出場歌手側より司会者に自身の曲紹介をするにあたっての依頼や自身の歌唱にあたっての思い入れ・エピソード等を語ったりするということが実施される[103][104]。この面談の際に出場歌手が話したことを司会者が本番内で語ることもある。
司会者が紅白本番直前に民放の音楽番組で共演するケースもある。2010年12月4日放送のフジテレビ系列『2010 FNS歌謡祭』において、同年の第61回の両軍司会起用が決定していた松下奈緒と嵐が共演した。番組中に紅白について語られることはなかったが、松下が赤のワンピース、嵐のメンバーが白い服で登場した。なお、2011年12月2日放送分の同じくフジテレビ系列『僕らの音楽 Our Music』でこの共演が前年の紅白を先駆けた演出であったとSMAPの草彅剛のナレーションで語られた。
司会者は番組関係者に差し入れを行うことが恒例とされる[105]。
ゲスト審査員[編集]
その年を代表する著名人(芸能人・スポーツ関係者・音楽関係者・文化人・メディア関係者など)が起用されることが恒例で、審査への参加だけでなく放送内で随所に番組の感想や自身の1年の活動や現時点で優勢と思うチームについてコメントする。なお、この敬称になったのは2005年・第56回からで、それまでは「特別審査員」(以後、2006年・第57回のみこの敬称)と呼ばれていた。また、2005年・第56回以降はゲスト審査員がステージに上がり、出場歌手や司会者とトークをしたり、曲紹介を行うという演出が行われるようになった。
翌年の『大河ドラマ』の主演者は出場歌手や組司会に選出されない限り、起用されることが多い。その年のプロ野球(日本のプロ野球・アメリカ合衆国のメジャーリーグ)で活躍(主に優勝・タイトル獲得者)した選手・監督や大相撲で実績を残した力士も選出されやすい(スポーツ関係者に関しては、その年を以って現役・指導者を引退・退任した者が選ばれるケースもある)。一方で、近代オリンピックのメダル獲得者は競技と無関係の場への登場を良しとしない日本体育協会の意向から選出されることは皆無だった。メダル獲得者の選出はロサンゼルスオリンピック(同大会からオリンピックの商業化が進行)が開催された1984年の第35回における江上由美(現:丸山由美、女子バレーボール・銅メダル)が最初でそれ以後は選出されることが恒例となっている(オリンピック開催前年にメダルを期待される選手・監督が起用されることもある)。現職の政治家が務めたり、夫婦や兄弟が揃って起用されたというケースも極稀にある。その他、NHKのドラマ(『連続テレビ小説』や『大河ドラマ』、NHKの記念ドラマなど)の脚本家や原案者、モデルが選ばれるケースもある。
一方で、その年に話題となった著名人に番組側があえてゲスト審査員の打診をしないというケースもある。2012年・第63回において、同年ノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学iPS細胞研究所所長・教授の山中伸弥に対し、オファーを出すことを検討しつつも最終的に見送った。原田秀樹(同回時点でのチーフプロデューサー)は「研究で忙しいでしょうし、テレビ出演で研究の邪魔をしてはいけない。人類のためにあえてオファーしなかった」と話した[106]。
2004年・第55回までNHK番組制作局長が務める審査委員長とのポストがあった。ゲスト審査員の発表は12月下旬に行われる。番組序盤において、ゲスト審査員の紹介演出がある(その人物のプロフィールやその年の活動についても触れられる)。その際、BGMが使用される。ゲスト審査員の後ろの席に該当者に関係する人物(身内・親交のある者)が座り、マイクを向けられてコメントを述べるという演出が行われることがある。
かつてはゲスト審査員席に該当人物のネームプレートが置かれていた時期があったが、後になくなった。
ゲスト[編集]
1955年・第6回のトニー谷を皮切りに多くの著名人が、出場歌手や司会者の応援(バックダンサーなども含む)・コーナー出演者としてゲスト出演している。その年に話題を集めた著名人のゲスト出演も多く行われており、話題となったお笑いタレントがネタを披露したり出場歌手や司会者等とトークをする演出も恒例である。NHKの番組で活躍する人物がゲスト出演することも多い。
出場歌手でない歌手がゲスト扱いで出演して、歌唱(歌唱時間は比較的短めの場合あり)するケース[107]や応援演出を行うこともある。V6とKinKi Kidsは先述の出場枠の関係などから正規出場歌手としての出演経験がないものの、1999年・第50回に第1部(KinKi kids)・第2部(V6)のコーナーのプレゼンターとしてそれぞれゲスト出演し、コーナー内で持ち歌[108]の一部を歌唱したという事例がある(また、両組ともそれより以前にバックダンサー・コーラスでの出演経験はある)。
2008年・第59回にはフジテレビアナウンサーの中村仁美(羞恥心 With Pabo)、2009年・第60回には当時日本テレビアナウンサーの羽鳥慎一(FUNKY MONKEY BABYS)と民放の現役アナウンサーがそれぞれ出場歌手との縁でゲスト出演した。
主要ゲストについては、本番前に逐一出演が発表されていく(一方、サプライズゲストも存在する)。
話題性[編集]
毎回、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年・第13回の調査開始以降での最高視聴率は1963年・第14回の81.4%(関東地区、以下同じ)[109]。1980年代前半までは「お化け番組」「怪物番組」とも称された。最低視聴率は2004年・第55回の39.3%である[109]。なお、地方でも視聴率は低下傾向が続いている。それでもほぼ毎回、年間視聴率では民放の人気番組を抑え、上位にランクインしており、ほとんどの回で1位となっている(ビデオリサーチ社調べ)[110]。
ちなみに、紅白の視聴率は翌年1月2日に公表される。
毎分視聴率も公表(1月3日前後)され、どの歌手の部分の視聴率が高かったかも話題となる。2000年代以降、SMAPが歌手別最高視聴率を獲得することが多い。
紅白出演がアーティストの翌年初頭のCD売り上げに少なからず影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている[111]。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得したケースとしては1975年・第26回出場の都はるみの「北の宿から」、1986年・第37回出場の吉幾三の「雪國」(1987年2月9日付)、2002年・第53回出場の中島みゆきの「地上の星」(2003年1月20日付)、2006年・第57回出場の秋川雅史の「千の風になって」(2007年1月22日付)2008年・第59回出場の秋元順子の「愛のままで…」(2009年1月26日付)、2010年・第61回出場の植村花菜の「トイレの神様」(2011年1月10日付)がある。2003年・第54回に白組トリおよび大トリを務めたSMAPの「世界に一つだけの花 (シングル・ヴァージョン)」はそれまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌2004年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。また紅白歌唱を機に注目され大ヒット・再ヒットした楽曲を翌年の紅白で連続して歌唱するというケースも見られる(その際、再度の「紅白効果」が生まれたというケースもある)。「紅白効果」はヒット曲のみならず、歌い継がれる「名曲」をも生み出すとの向きもある[112]。
出場歌手、司会者、ゲスト審査員、ゲストの人選や曲目、曲順(トップバッターやトリ)演出の予想・リークが各メディア(新聞(スポーツ新聞)、週刊誌、音楽雑誌、テレビ情報誌、民放各局の情報番組やワイドショー、オリコン[113]など)で行われている。ただし、各メディアの予想・リーク(決定・内定とされることも)が外れるケースも多くある。また出場歌手に関しては、正式発表前に特定の者について不出場(辞退・落選)が濃厚であるとの報道がされることもある。
出演者、曲目、曲順、演出などが決定すると、その都度大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様は『NHKニュース』だけでなく、各メディアでも大きく報じられる。芸能リポーターの梨元勝によれば民放に紅白の取材が開放されたのは1981年・第32回以降のことであり、そのきっかけとなったのはテレビ朝日系列『アフタヌーンショー』の突撃取材だったという[114]。これ以後、民放各局の情報番組やワイドショーは紅白の存在を無視することができなくなっている。民放番組で紅白の紹介をする際、締めには自局による紅白裏番組の紹介・宣伝を行うことが恒例。
1960年前後に週刊誌の創刊ラッシュがあり、新聞も含めたマスコミの取材合戦が激しさを増していたが、紅白もその格好の標的となった。紅白スタッフが帰宅すると、家族と親しくなった週刊誌記者が「お帰りなさい。お風呂が沸いてますよ」と出迎えたという逸話が残っている[115]。
出場歌手の決定後には一部メディアがネット上で「この歌手の選出・非選出に納得できるか?」などと選考についての調査を行うことがある。また、海外でも紅白の出場歌手選考が話題になることがある。
大晦日当日の各スポーツ紙には、出場歌手の登場時間の目安が掲載される。出場歌手からの読者抽選プレゼント企画を行うところもある。
2003年・第54回と2004年・第55回ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。なお両年とも後日、BS2とBShiでも再放送が実施されている。
紅白放送中、番組に関してNHKに電話やFAX、電子メールを送ってくる視聴者もまた多い。NHK関係者が著書『はい、NHKです』で明らかにしたものによると、放送開始からしばらくは、「応援メッセージ」が多いが、そのうちに出場歌手の人選や選曲、曲順などへのクレームが多くなってくるという。若年層ではなく、「懐メロ」や演歌しか聞かない高齢層からのクレームが多い。
放送後、各メディアは勝敗の結果についても取り上げる。優勝チームの勝因分析を行うところも存在する。
放送直前と放送直後の時期では、NHKに紅白に関する反響が多く寄せられる。NHKは公式サイトの「視聴者対応報告」にてこれを公表している。また、出場歌手発表後にはNHKのお客様窓口に連日「出場歌手はどうやって決めているんですか?」との問い合わせが多く寄せられることもあり、担当者は回答に困惑するという。紅白に不信感を抱く多くの視聴者が存在しており、このような疑念の積み重ねも視聴率低下の一因との指摘もある[116]。
歌唱時のパフォーマンス[編集]
- 歌唱中に視聴者や観客を驚かせる演出やパフォーマンスがしばしば行われ、中には結果として世間を騒がせる原因となるものもある。小林幸子や美川憲一の、ステージと一体化した豪華な衣装は特に有名であり、衣装対決の通称で広く知られる(「歴史」の「1970年代 - 1990年代」の節を参照)。
- 1974年・第25回に初出場で白組トップバッターおよび先行トップバッターを務めた西城秀樹のステージにおいて、西城自身の考案によりドライアイスの白煙噴出による演出が紅白史上初めて行われた[117]。
- 歌唱場面で天井から大量の紙吹雪が降ることがある。特に1981年・第32回の白組トリおよび大トリを務めた北島三郎の「風雪ながれ旅」では猛吹雪を思わせる大量の紙吹雪が降り、観客席まで入り込む演出があった(北島に関しては、これ以後も歌唱時に紙吹雪演出が多く行われた)。紙吹雪を使用したステージの後はスタッフが大急ぎで掃除を行い、次のステージに繋げる。
- 客席に降りて歌唱する歌手もいる。
- 歌手の歌唱中に舞台転換が行われることもある。
- ステージ上のスクリーンを使用し、映像を用いた演出も行われる。
- 生放送であるため、歌手が歌唱中に歌詞間違いや歌詞を飛ばしてしまうという失態を犯すこともある。また番組や所属チームなどを盛り上げることなどを目的にあえて歌詞を変えて歌う歌手もいる。他に涙ながらの熱唱(中には歌えなくなる者も)となる歌手も存在する。
- 1998年・第49回で紅組トリおよび大トリを務めた和田アキ子が「今あなたにうたいたい」歌唱中、曲のサビ部分はハンドマイクを外して歌うという離れ技を見せ、観客席からは大拍手が起こった。
- 番組が生放送であることを利用し、アーティストが番組側に事前に知らせない不意打ちパフォーマンスを行うこともある。その典型例は2006年・第57回のDJ OZMAのパフォーマンスであり、以後NHKは打ち合わせと著しく異なるパフォーマンスを行わないよう音楽番組に出演するアーティストに対し誓約書を書かせることとなった。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下が挙げられる(詳しくは当該の回やアーティストの項目を参照)。
- 1982年・第33回 - サザンオールスターズの桑田佳祐が三波春夫をパロディ化した衣装と歌い方をした。「とにかく、受信料は払いましょう!」「裏番組(を見たい場合)はビデオで見ましょう!」という発言で、賛否両論が巻き起こった。桑田本人は後にNHKに詫び状を書かされ、「詫び状なんか書くくらいなら2度と出ない!」と、後の紅白(ひいてはNHK)との確執に繋がったことを明かしている(ただし、翌1983年・第34回には出場。これが現時点でのグループでの最後の出場となっている[118])。
- 1985年・第36回 - 吉川晃司が歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。
- 1991年・第42回 - とんねるずがパンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。
- 1992年・第43回 - 本木雅弘が首に白い液体を入れたコンドームの形をした風船をいくつも巻き付けて登場した。さらに、演奏途中では尻を露出した。
- 2006年・第57回 - DJ OZMAが全身肌色のボディスーツを着て股間の部分にキノコの模型をつけた姿で舞台に登場。女性バックダンサーも同様の格好で全裸に見えたため、「公共放送で、しかもゴールデンタイムであることの配慮がない」としてNHKに苦情が殺到した。総合司会の三宅民夫が番組中に「全裸ではない」と説明した。その後、放送倫理・番組向上機構(BPO)から回答要請を受けた。この影響によりDJ OZMAは活動を一時休止を余儀なくされ、その後も活動に大きな制約が掛かるなど尾を引き続け、これが最終的には2008年の「引退」宣言にまで繋がっていく。
- 同じく2006年・第57回 - 川内康範作詞の「おふくろさん」を歌唱した森進一が川内に無断でセリフを入れた同曲を披露(1994年・第45回、2005年・第56回でも森は台詞付の同曲を披露している)。これに川内が激怒し騒動となった(「おふくろさん騒動」を参照)。
観覧方法[編集]
- 初期では先着入場順制であり、当日は会場を取り囲むように長蛇の列ができていたという[119]。後に観覧募集制に移行した。
- NHKホールでの観覧(3,000人)は官製往復はがきのみで応募が受け付けられる。毎回多数の応募が集まるため、抽選となる。
- 毎年10月中旬頃に応募要項が告知され、11月初旬頃に応募が締め切られる。その後、12月上旬頃に返信発送される。
- 当選通知がそのまま入場整理券となる。整理券(当選はがき)1枚に付き2人分(1歳以上から入場券が必要)まで、当日にNHKホールの座席券と交換できる。座席は無作為に選ばれ、交換するまで分からない。
- ※最多の応募総数は2013年・第64回の1,427,153通(当選倍率:約1,073倍)。2009年・第60回は約591,274通(倍率:約437倍)であり、2010年代に入ってから、爆発的な増加傾向が見られる。ただし、1人何通応募しても当選は1通のみ、複数口の応募者が多数いるので実際の倍率はもっと低い。
- NHKは入場券の転売を禁止としているが、入場券がネットオークションで出品されることが増えている(高額料金になるものも)。ただし、入場の際には整理券に加え、本人確認が実施されるので他人名義で当選したものでは入場できない。また、2014年1月には偽造した入場券を販売していた男性が逮捕される事態も発生している。
なお、2006年・第57回の募集から、応募資格が次のいずれかに制限されることになった。
- 上記はいずれも銀行口座からの引き落としでも可能。
これにより、NHKの受信料を滞納、もしくは不払いの者は応募できなくなる。そのため、往信側のはがきには受信料負担者名の記入が必要となる。これは他の公開放送番組の応募(例:『NHK歌謡コンサート』)で実施されていたものと同様である。ただし、規則で禁止されている当選はがきの転売行為については全く対策がなされていない。
歴史[編集]
開始当初 - 1960年代[編集]
- 第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組が放送された(『紅白音楽試合』は非公開番組だった)。番組は「新時代に相応しい音楽番組を作ろう」と考えたディレクターの近藤積の発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を制作しようとした。当初は『紅白音楽合戦』の番組名で放送する予定だった[120]が、GHQが「敗戦国がバトルとは何事だ」との判断を下し、仕方がなく、バトルから試合という意味のマッチに変えたというものである。勝敗の判定はなく、審査員もなかったという。また、応援団に相当する者も存在しなかったとのこと。当時は大晦日に終夜電車はなく、終電に間に合わない歌手はNHK東京放送会館の音楽部の部屋の椅子でざこ寝をしてもらっていた[121]。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した(ただし先述の通り、この『NHK紅白歌合戦』でも楽器演奏者・グループの出場は可能である)。川田正子が歌った「汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤が作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」で同年の新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の『NHK紅白歌合戦』には生涯出場していない)。
- あまりの好評となったが、当時は大晦日に同じ番組を続けるという発想はなく(当時同じ内容のものを翌年も放送するのは能なしと見做されていたという)、1946年以降の大みそか番組として『紅白音楽試合』が編成されることはなかった。しかし、スタッフは『紅白音楽試合』の反響の凄さを忘れられず、放送の約5年後の1951年、「大みそかの番組でなければいいだろう」と正月番組として『第1回NHK紅白歌合戦』(ちなみに、第1回の正式タイトルは「第1回NHK紅白歌合戦」ではなく、「第1回NHK紅白音楽合戦」である[122])を放送した[123]。なお、第1回の出場歌手は全員1950年12月31日放送のNHK『明星祭』に出演しなかった者である。
- 1953年1月2日・第3回までは正月番組として放送されていたが、同じ1953年の12月31日には第4回が放送され、この第4回を機に『紅白音楽試合』同様となる大みそかの放送が定着した。またこれにより1953年は放送が2回あった。なお、大みそかの開催を行った理由は当時年末年始には大みそかしか大規模な会場が開いていなかったことが一因という(番組側としても大みそかの方がトップ歌手を確保しやすいと踏んでいた)。ただ番組側は大みそかに観客が集まるか不安がったという。これはそれまで大みそか夜の催し物は絶対に当たらないというジンクスがあったためで、それを打破すべく第4回では出場歌手数を前回より5組増やす処置を採った。
- 正月開催時代、ステージ上方には「謹賀新年」のプレートが飾られていた。また正月開催時代では、岡晴夫、田端義夫、小畑実といった当時の人気歌手は正月公演のため、出場しなかった[124]。
- 1953年1月・第3回から実況アナウンサーが登場するようになる。初期ではこのポジションは「スポーツ」がコンセプトの一つであることから、一線級のスポーツアナウンサーが務めていた[125]。
- 1953年12月・第4回におけるテレビでの本放送開始と同時に視覚的な演出も行われるようになり、選手宣誓や優勝旗の返還や授与が開始された。同回より番組名に回数がカウントされるようになる。また初期3回は全て白組優勝となったが、同回で紅組が初めて優勝を果たした。初めて敗北を喫した白組の出場歌手は口を揃えて「テレビは怖い。今回は(紅組女性軍の)衣装に負けた」と悔しがったという。
- 紅組歌手の衣装重視傾向は後のカラー放送開始後はさらに拍車がかかった[126]。
- 1953年にNHKはテレビ本放送を開始したが、一般家庭へのテレビ普及には程遠く、テレビ番組として独自に制作をするには予算的にも厳しく、NHKラジオの人気番組を中継するということがしばしば行われており、紅白もその一つだった。またしばらくはラジオが主でテレビが従という考え方で制作されていた[127]。
- 会場は初期3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。1953年12月・第4回のラジオ・テレビ同時中継開始以降は東京宝塚劇場や日本劇場(日劇)・日比谷公会堂・産経ホール・新宿コマ劇場[128]などを転々としたが、1973年・第24回以降はNHKホールに固定されている。
- 黎明期の紅白は映像はおろか音声すら現存しないとされてきた(1951年・第1回に至っては写真も現存しない)が、愛知県名古屋市在住の一般男性が1954年・第5回からラジオ中継の音声を録音していたオープンリールテープが1999年末に発見され、NHKに提供された。同回以降、ラジオ中継の音声は、全て上記の男性から提供された物かどうかは詳細不明だが、1962年・第13回までの全ての回の音声が現存する。一方、現存する写真は1952年・第2回が最古で、以後、全ての回の写真が現存する。これは放送局用ビデオテープ(2インチVTR)は非常に高価で大型であり、収録された映像は放送終了後に消去されて他番組に使い回されていたためである。そして、現存する映像は全編だと1963年・第14回が最古で、1962年・第13回もラジオ中継の音声とともに当時のニュースで極一部が紹介された映像が残っている。なお、1964年・第15回からカラー放送となったが、同回の映像はカラー・白黒とも現存せず、ラジオ中継の音声が現存する。1964年・第15回を除いた1963年・第14回以降の1960年代は全ての回の映像が現存するが、ほぼ白黒のみ(そのうち、1965年・第16回は欠落部分があるがカラーVTRも、1968年・第19回は保存状態は良くないがカラーフィルムも現存する)である。1970年・第21回はカラーで現存するがフィルム映像で保存状態が良くなく、一部が欠落している。1971年・第22回はカラーのビデオ映像で現存するが保存状態の良くない部分がある。1972年・第23回からNHKがVTRで保存するようになり、同回以降の映像は全て安定したカラーのビデオ映像で現存する。
- 初期回の音声をNHKラジオ(ラジオ第1、NHK-FM)の特集番組[129]で紹介することがある。
- 1951年・第1回 - 1957年・第8回まで出場歌手はソロ歌手に限られていた。しかし、1958年・第9回に水谷良重・東郷たまみ・沢たまき、ダークダックスがグループとして初めて選出され、以後グループも多く出場するようになった。1962年・第13回までグループは必ずグループと対戦する格好となっていた。
- 1963年・第14回で中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりがスパーク3人娘として「キューティパイ・メドレー」が披露し、初めてメドレーの歌唱が行われた。以後メドレー歌唱がしばしば行われている。また同回より、全国のファンからの関心が高まってきたことから当時の芸能局内に「紅白歌合戦実施委員会」を設置。毎年秋になると同時に実施の準備が始まることになる。
- 1950年代の紅白では、外国曲の選曲が多く行われた[130]。
- 黎明期(1956年・第7回頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、1957年・第8回を以って戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以後、回を重ねる毎に戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、1959年・第10回では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)、翌1960年・第11回では御三家の筆頭として1960年代の歌謡界を牽引するスター歌手となる橋幸夫や、ロカビリーブームの第一人者である平尾昌章(現:平尾昌晃)が、1961年・第12回では当時NHKで放送中であった『夢であいましょう』内「今月の歌」コーナーから誕生した「上を向いて歩こう」のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場するなど、出場者の顔ぶれにも「世代交代」の色が年々強く反映されるようになってゆく。そして1962年・第13回では前年まで連続出場していた淡谷のり子、林伊佐緒、伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。
- 1960年・第11回前後まで同じレコード会社の歌手同士を対戦させるの極力控えていたという(大相撲において、同じ部屋同士の力士は優勝決定戦でもしない限り、対戦しないのと同じ意味)。その後は同じレコード会社の歌手同士の対決も行われるようになったが、トリ対決についてはこの後もしばらくこの慣例が続いた。
- ビデオリサーチ社によるテレビ視聴率調査が1962年・第13回から開始される(そして、いきなり80.4%を記録)。翌1963年・第14回において、81.4%の視聴率を記録する[109]。これは、紅白史上およびビデオリサーチ社の全統計史上最高のテレビ視聴率である[133][134]。
- 美空ひばりは1963年・第14回 - 1972年・第23回まで、一貫して紅組トリ(ほとんどの回で大トリ)を務めていた。だが先述の通り、翌1973年に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕されたことが発端となり全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の第24回も落選となった(その後、1979年・第30回に藤山一郎とともに「30回記念特別ゲスト」扱いで出演、「ひばりのマドロスさん」、「リンゴ追分」、「人生一路」のメドレーを熱唱した。結局、同回がひばりにとって最後の紅白出演となった)。
- 1960年代のグループサウンズ全盛時代、長髪のグループは“不良”という意見が根強く加えて当時のNHK会長の意向もあって一切出場できなかった。1967年・第18回のザ・タイガースはその一例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルー・コメッツのみであった。時が経ち、演歌歌手やアイドルが長髪にするケースも出たため当然ながら長髪は解禁になった。1989年・第40回にはザ・タイガースが再結成されて出場、1999年・第50回にはザ・スパイダースの元メンバー3人によって結成されたソン・フィルトルが出場した。
- 沖縄県はアメリカ合衆国の施政権下にあったため、1964年・第15回まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌1965年・第16回からテレビは沖縄テレビ、ラジオはラジオ沖縄がそれぞれスポンサーを付けるという形で放送を開始した。テレビは1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始すると同年の第19回から同局での放送となり、1972年の本土復帰でNHK沖縄放送局としての放送となった。ラジオは1972年にNHK沖縄放送局がラジオ放送再開すると同年の第23回から同局での放送となった。
- 1962年・第20回よりオープニングの入場行進時に出場歌手名がテロップで流れるようになった。また1969年からTBS系列『日本レコード大賞』も同日の19時00分から21時00分に開催&テレビ生中継されるようになり、歌手の『レコード大賞』から紅白への移動が始まった(この大移動は『日本レコード大賞』の開催日変更により2005年で終了した)。この時期では、『レコード大賞』と同じ衣装で出演する歌手も存在した。
- 1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。
- 詳細は以下を参照。
- 1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年
1970年代 - 1990年代[編集]
- 1970年代になると新三人娘、新御三家、花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。
- 公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているが、かつてはその規制も特に厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。1973年・第24回にかぐや姫の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。1978年・第29回でも山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤なクルマ」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(ちなみに、別音楽番組『レッツゴーヤング』、『NHKヤング歌の祭典』では「真っ赤なクルマ」として歌った)。
- 視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。1974年・第25回から9年間白組司会を務めた山川静夫が交代となった理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の担当回である1982年・第33回の視聴率は69.9%(関東地区・ビデオリサーチ社調べ)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった1984年・第35回の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後は視聴率が大幅に落ち込むようになった。
- 1981年・第32回からこれまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場歌手は舞台の後ろから入場行進をするようになった。セットが見直され、大幅な舞台装置の交換が本番中にも可能となった。また応援合戦が少なくなり、歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった(応援合戦の内容も従来の対抗色が強いものから紅白歌手入り乱れての内容が中心となった)。1980年代半ば頃から応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった[135]。1991年・第42回から入場行進、優勝旗返還、(両軍司会や出場歌手の代表が行う)選手宣誓[136]が省略され、さらにそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった。2002年・第53回ではオーケストラが小規模ではあるが、久々に表舞台で演奏した。その後、2012年・第63回で生演奏は廃止、バンド等を除き事前に録音した伴奏を用いたものに変更された。同回よりエンディングの演出が華やかで明るいものとなる。1980年・第31回までは、厳かで徐々に照明が暗くなっていく演出があった回もあった。
- 1981年・第31回 - 1984年・第35回まで「歌手による歌の祭典」という原点に立ち返るために原則応援ゲストを起用しなかった(全く応援ゲストが登場しなかった回もある)。
- 1982年・第33回より原則ほぼ全ての歌唱曲の歌詞テロップがテレビ画面上に登場するようになった。また同回では通常、出場歌手発表後に決める曲目選定を出場歌手選考中の同年9月21日から行った。各レコード会社に「今年紅白に出場させたい人たちのリストを作り、歌唱希望曲を3つ書いて提出を求めるという試みを行った(歌唱希望曲については、自身の過去のヒット曲でも他人の持ち歌でも構わない」とのものであった)。ヒット曲不足の1年を振り返り、曲目によっては出演危機の歌手にもチャンスが与えられるような印象が業界に広まり、また出場させたいリストをレコード会社が提出した時点で出演意思の判断ができるということにもなった。
- 1983年・第34回 - 1985年・第36回まで金杯・銀杯の授与が採用され、優勝チームから金杯の受賞者が、敗退チームから銀杯の受賞者が選出されることとなった。
- 1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期に最も注目されたものの1つが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、1985年・第36回の「夫婦しぐれ」で十二単を、翌1986年・第37回の「別離」ではクレオパトラの衣装を披露した。1991年・第42回の「冬化粧」では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林と美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる(2人が直接対決となった回もある)[137]。ちなみに、小林と美川が紅白で着用する豪華衣装は高額な予算(数億単位の場合も)をかけて本番・出場歌手発表のはるか前である時期から制作開始される[138][139]ほか、2人の着用衣装は大みそか当日のスポーツ新聞や民放の情報番組やワイドショーで本番前ながら紹介されていた。またこの2人以外にも紅白で豪華衣装を披露する歌手が登場することがある[140]。
- テレビでの実況は1987年・第38回が最後となり、翌1988年・第39回からはラジオでの実況のみとなった。
- 1989年・第40回から紅白は2部構成になった。同年昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。
- 以後、放送時間も回を追う毎に増加傾向にある(同様に出場歌手の数も増えている)。これに出場歌手から批判が出ることもある。
- 1989年、紅白の平均視聴率が低下したことなどを理由に、紅白の廃止が検討されたことがあったが、結果的に紅白廃止の話は消滅した(ただし、その後も打ち切り話が幾度か出たことはある)。詳細は 第40回NHK紅白歌合戦#幻の「紅白廃止」と「アジア音楽祭」 を参照
- 1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも現れた。例えば、1996年・第47回の出場歌手のうちTRF、安室奈美恵、華原朋美、globeらが「小室系」の歌手であった。
- 1990年・第41回において、初めてNHKホール以外から中継で歌唱するという演出が行われた(先述の通り、番組内で中継を挿入する企画はこれより以前からあったが、「ステージ上からパフォーマンスを届けることが紅白」との制作者側の共通認識から中継歌唱は行われてこなかった)。しかし、中継先で歌う演出はNHKホールの観客や他の紅白出場歌手達にも不評を買い、その後、中継先で歌う演出は12年後の2002年・第53回まで行わなかった(一方、中継演出が復活してからはその演出が定着している)。また、前年は採点の対象は第2部だけだったが、同回からは第1部も採点の対象となった。その影響で、同回から放送時間の前半が『日本レコード大賞』とバッティングするようになり、歌手の奪い合いや掛け持ちによる大移動などの問題がさらに大きくなった(2005年まで)。TBSは紅白が『レコード大賞』の裏番組となることに大慌てとなったという。TBS側はNHKに苦言を呈したほか、長時間紅白の定着により毎回視聴率30%を誇っていた『レコード大賞』は視聴率を低下させていくこととなり、後の2006年での大みそか撤退(12月30日開催へ移行)に繋がった(『レコード大賞』は紅白対策でこの年より「歌謡曲・演歌部門」「ポップス・ロック部門」の2部門、即ち2組のグランプリを輩出させる形に変更するなど、工夫を凝らすようになる)。
- 1991年・第42回以降、オープニングに趣向を凝らした大掛かりな構成・演出が行われるようになった。開会宣言を大物著名人が行うこともある。同会では、21時前のニュースによる中断までを第1部、21:00 - 22:30(森山良子・アンディ・ウィリアムスの対戦カードまで)までを第2部、22:30 - 終了までを第3部とする計3部構成が採られた。ただし、第2部から第3部への移行時には中断が挿入されなかったため、ビデオリサーチ社による視聴率調査では第2部・第3部を併せて”第2部”として取り扱う形が採られており、後の紅白関連資料(NHKによる公式資料を含む)もこのビデオリサーチ社による区割りに則って今回の出場歌手・曲順が紹介されている。
- 1990年代以降、オリジナルソング・テーマソングを制作し、番組内で出場歌手らによって大合唱されるという演出が行われることがある(この時は参加者が楽譜を持って歌唱となる場合もあり)。これらの曲が後にCD発売されたり、『みんなのうた』で放送される、NHK全国学校音楽コンクール課題曲に起用されるということもある。また翌年の紅白で出場歌手の歌唱曲として歌唱されるケースもある。
- 1990年代以降、ディズニーとのコラボレーション演出が行われることが多々ある。
- 1990年代中期以降、SMAPのメンバーが随所で登場することが多い。また同リーダーの中居正広の組司会・コーナー進行役起用も多く行われている。
- 1994年・第45回 - 1997年・第48回までその年のNHK新人歌謡コンテストの優勝者に紅白の出場権が与えられた(1998年にNHK新人歌謡コンテストは廃止)。
- 紅白におけるNHKの旧ロゴマークの使用は1994年・第45回が最後となり、1995年・第46回からは新ロゴが使われている。
- 1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPAN・LUNA SEA・GLAY・L'Arc〜en〜Cielらが出場した。また、ポップス歌手も比較的に出演へ積極的であったこともあり視聴率は50%台をキープする安定期に入った。
- 1999年・第50回については、番組終了後、後座番組『ゆく年くる年』放送中の23:58(30秒)頃より画面が紅白終了直後のNHKホール内の映像に切り替わり、紅白出演者および観客による2000年に向けてのミレニアムカウントダウンの模様が放送された。その後、同回のオリジナルソングとして制作された「21世紀の君たちへ〜A song for children〜」の出演者による大合唱も行われた。通常、総合テレビの年越しの瞬間は『ゆく年くる年』内でシンプルに進行しており、様々な形式(大勢が賑やかに迎えることが通例)で新年のカウントダウンが行われる民放テレビ各局の年越し番組とは確実な差異があるが、この際は例外であった。
- 詳細は、以下を参照。
- 1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年
2000年代 -[編集]
- 国民の生活様態の多様化などに加えて当時行われていたBSでのサイマル放送も一因となり(先述の通り、BSサイマル放送は2010年・第61回を最後に廃止)、地上波テレビ放送の視聴率が低下傾向にある。また、紅白の出場依頼を断る者も依然として多い。
- 全盛期を過ぎていたり、音楽セールスや絶対的な知名度があるとは言えないような者が多く出場するようになり、視聴率は再び40%前後へと低下している。特に2003年・第54回では裏番組『K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!』(TBS系列)でのボブ・サップVS曙太郎戦時の視聴率が、紅白開始時1分間の例外を除けば調査開始以来初めて瞬間視聴率を4分間逆転されるという事態が発生した(この時、紅白で出ていたのは長渕剛)。
- 紅白を辞退するポップス歌手も見られる一方、モーニング娘。などハロー!プロジェクトのメンバー、浜崎あゆみ、大塚愛、倖田來未らエイベックス勢、嵐などジャニーズ事務所所属のアーティスト、aiko、中島美嘉、絢香、コブクロ、AKB48など紅白出場に積極的な歌手や芸能事務所も少なからず存在している。演歌歌手は紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、「紅白に出たい」という人はなお多い[141]。さらに中島みゆき、松任谷由実、Mr.Childrenなどの大物歌手が初出場するなど、大みそかの一大イベントとしての紅白の意味はなお失われていない。番組側が数年に渡る出演交渉をして、大物歌手の出場にこぎつけるというケースもある[142]。
- 2000年以降の先行トップバッターでは、2000年・第51回の藤井隆と2005年・第56回の細川たかしを除き紅組歌手が務めており、特に2008年・第59回から2013年・第64回までの浜崎あゆみが6年連続で務めている。
- 2000年以降の大トリでは、2004年・第55回の小林幸子と2014年・第65回の松田聖子を除き白組歌手が務めており、2年以上連続で務めているのは2010年・第61回から2012年・第63回まで3年連続のSMAPしかいない。
- 2002年・第53回において、番組側は「日本音楽界の総決算」をテーマを掲げ、出場歌手・曲目の多ジャンル化を決行[143]。一方で、2001年・第52回まで常連だった演歌歌手が次々に落選となり、同回以降、演歌歌手の出演数が従来の半分以下になった[144]。NHK関係者は「出場歌手別に視聴率を調査すると演歌の時が目立って下がる。止むを得ない」と語っている[145]。
- その2002年・第53回では、「サポーター代表」というポジションが設けられ、同年上期の連続テレビ小説『さくら』の出演者であった高野志穂(ヒロイン。紅組サポーター)・小澤征悦(白組サポーター)が務めた。
- 同じく2002年・第53回において、安室奈美恵が同年に彫った刺青をノースリーブ姿で露出させて歌ったところ、視聴者から抗議が殺到した。これを受けて、翌2003年・第54回以降、刺青のある出演者は刺青が露出しない服装にするか、化粧などで刺青箇所を塗り隠さなくてはならなくなった。安室は翌年の第54回も出場したが、この時はノースリーブ姿で刺青をファンデーションで塗り隠して歌った。
- 個人のスケジュールの都合やイメージ戦略によりNHKホールのステージ以外の場所(NHK放送センター内の101スタジオの場合も)から中継出演する歌手も多くなっている。これに和田アキ子や北島三郎が苦言を述べたことがある(中継で出演することで自身の歌のステージ以外のリハーサル(オープニング・エンディング・ショーコーナーなど)への参加の必要がなくなるため)。一方で、中継出演を希望した歌手に番組側がその打診を拒むというケースもある[146]。連続並びに複数回中継出演する者も現れている。海外で大みそかに生放送されている音楽番組と中継を繋いだこともある。その他、中継のために莫大な費用を使う場合もある[147]。
- SMAPは2003年・第54回の白組トリおよび大トリを務めた。グループがトリを担当するのは史上初だった[148]。しかし翌2004年・第55回には出場を辞退し、その年の紅白の平均視聴率は過去最低を記録した。そして2005年・第56回には返り咲き出場し、2回目の大トリを務め、視聴率上昇に大きく貢献した。その後、2010年・第61回以降の大トリも務めている。
- 2004年には、紅白も担当したNHKプロデューサーが5000万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、NHKは激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、同年の第55回では出場歌手選考の透明感を出すことを目的に「紅白に出場してほしい歌手」と題された世論調査(7歳以上の3600人を対象に「出場してほしい男女それぞれ2組の歌手」を記入してもらう)が実施された。ただ、歌手からの反発もあり、翌2005年・第56回には視聴者から紅白で聞きたい歌を募ったアンケート『スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜』が実施された。しかし、こちらも組織票が多く寄せられるなど、トラブルがあり、1年限りで廃止となった。
- 2004年・第55回で審査方法に対する苦情が多く寄せられた(後述)ことから、翌2005年・第56回以降は2006年・第57回を除き、全審査員の投票数全てをそのまま反映する方式を採用。
- 2006年以降の1月1日(元日)、総合テレビでは紅白終了の40分後にさだまさし(2007年・第58回まで紅白に出場していた)司会の『年の初めはさだまさし』(さだが紅白出場をしなくなった2008年・第59回以降も継続)生放送されている。
- 2000年代後半以降、和田アキ子や天童よしみなどがコスプレをして登場する演出が恒例。
- 2006年・第57回では、視聴者から出場歌手や司会者への応援メッセージをはがき・FAX・電子メールおよび携帯電話のメールサービスで受け付けるという企画を行った。寄せられたメッセージの一部は放送内におき該当歌手の歌唱前において、総合司会(三宅民夫・黒崎めぐみ)によって読み上げられた。また同回以降、歌手紹介のテロップに「出場回数」および「出身地」の項目が復活している。
- 2006年・第57回以降、組司会にジャニーズ事務所所属タレントが起用される体制となっている。
- 2007年・第58回以降の内容の傾向としては、出場歌手一同で行うアトラクションが廃止され、歌重視のシンプルな構成になっている。また、紅組・白組いずれにも属さない「特別枠」(「○組(歌手の性別に合わせる)応援歌手」「特別歌手」と呼称されることもある)や「紅白応援隊」(2012年・第63回まで)が新たに登場するようになった。「特別枠」での出演者については、誰が登場するのかをシークレットにすることもある[149]。
- 2007年・第58回 - 2009年・第60回記念までの3年計画「歌力(うたぢから)」の一環で2007年は『クイズ紅白検定』が放送された。
- 2008年・第59回以降、エンディングにて、得点集計の間、全出場歌手登場シーンのハイライトを放送している(「特別枠」での出演者も含まれる)。
- 2009年・第60回以降、NHKオンデマンドの「見逃し番組サービス」で翌元日から10日間前後に渡り、有料配信を行っている(番組側によると、有料配信について全出演者の所属事務所の許諾が得られたという)。ジャニーズ事務所所属タレントが出演する番組のインターネット配信はこのケースが史上初となる[150]。
- 詳細は、以下を参照。
2010年代 -[編集]
- 2010年・第61回以降は紅白オリジナル・キャラクター・ウタ♪ウッキーが制定されているほか、『紅白ウラトーク』という副音声放送やTwitterの紅白歌合戦公式アカウントの運用がそれぞれ開始[151]。また、同回 - 2012年・第63回では、紅組司会をその年上期の『連続テレビ小説』のヒロイン、白組司会を嵐が務める体制となった。
- 2010年代以降、AKB48(系列グループも)の出演シーンが多い。紅白の報道陣や関係者の中には、演出におけるこのような過度の「AKB頼み」を疑問視する声もある[152]。
- 2011年・第62回以降、東日本大震災の復興支援を後押しする演出が多く行われている。
- 2013年・第64回では、「紅白PR大使」が設けられた。また横浜赤レンガ倉庫、グランフロント大阪、イオンシネマ幕張新都心で8K/スーパーハイビジョンの映像でライブパブリックビューイングが実施。
- 2013年・第64回を以って、「若手歌手やグループが中心の第1部、演歌・歌謡曲やサプライズ出演者中心の第2部という構成も最後になるのでは?」との向きがある[153]。
- NHKは将来的に演歌・歌謡歌手の出場をほぼなくし、ポップス歌手中心の内容にする計画を持っているとされる[154]。
- 紅白およびNHK離れが進む若年層視聴者向けの番組構成へのシフトが進んでいる。放送評論家の松尾羊一は「若者シフトをする一番の狙いは受信料です。今の高齢者は払ってくれているが、年齢的な問題で何年続くか分からない。経営を考えれば、支持率の低い若い世代に払ってもらう必要がある。若者を意識した人選は、その布石でしょう。でも、その発想自体がすでに古い。ネットの世界では好きな歌手の映像がいつでも見られます。ニコニコ動画やYouTubeでも生の映像が入ってくる。テレビが家にない子や新聞を取らない子が増えているように、テレビで歌を聴けなくても困らない時代。だから、無理に若者の関心を引っ張ろうとしているNHKの考え方や演出は、若者からすればダサいんです。テレビ局がいくら若作りをしても、作っている人の感覚が古ければ、若者は追っかけてくれません」と分析・指摘している[155]。
- 音楽評論家の富澤一誠は「もはや時代が紅白を必要としていない。昔の紅白は視聴率が80%を超えることもありました。もちろん、当時と今ではテレビを見る環境なども変わってきていますが、当時はその年を代表する歌手が出場し、その年の代表曲で1年の締めくくりとなってきました。だからそれだけ注目を集め、国民的番組と言われたわけです。今では、その年の代表曲がない歌手も出場し、過去のヒット曲を歌う歌手も珍しくなくなった。本来の紅白の主旨とは変わってきています。紅白というブランドの中でやっているだけで、もはや紅白とはいえないのです。賞味期限の切れた紅白はとっくの昔に死んでいるということです」と評している[156]。
- 小倉智昭氏は紅白の選考基準に疑問を持ち「ヒット曲出してないのに選ばれてる人、毎年何人もいる」という不満を漏らしている[157]。
- 詳細は、以下を参照。
- 2015年にテレビ東京のキャラクターであるピカチュウと妖怪ウォッチ軍団が共演した。
審査方法の歴史[編集]
- 初期は特別審査員のみの投票で勝敗を決めていた。
- ? - 1962年・第13回 審査員が紅白に塗り分けた団扇の優勢だと思う方をステージ上に向けた数の多かったチームが優勝。
- 1963年・第14回、1964年・第15回 各地方放送局のアナウンサーが地方審査員のポイントを公表。加えて、審査委員長のNHK芸能局長がステージ上で特別審査員のポイントを追加、公表し優勝チームを発表。会場の電光掲示板にも表示される。
- 1965年・第16回 - 1968年・第19回 特別審査員が宝箱にボールを入れ、両軍司会がステージ袖に向かってボールを投げ、ボールの数の多いチームが優勝。
- 箱の中にはかごが2つ入っており、ラジオ第1『ふるさと自慢歌自慢』では、この方式で勝敗を決めている(審査員は3名。3回戦まで行なうためボールは合計9個)。
- 1969年・第20回 - 1980年・第31回 得点集計センターのオペレーターが電話で地域代表が優勢と判断したチームを聞き、両組の得点を集計する。その後、特別審査員がスイッチで1ポイントずつ点数を入れ、地域代表の審査結果と合計した点数を電光掲示板に表示し、点数の多かったチームが優勝。
- 1981年・第32回から客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色の団扇やカード(1981年・第32回はカード。団扇には組司会の似顔絵が描かれている)で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった(1986年・第37回 - 1991年・第42回は行われず。1986年・第37回では、中央の巨大CRTモニターに得票数を帯グラフで表示する方式だった。1991年・第42回における観客審査の方式は、UFO型の風船につけたマイクを使い、歓声の大きさで決めるというものだった)。団扇による得票数は、その年のそろ盤日本一が暗算にて計算。1995年・第46回までは階毎に分けて発表していたが、翌1996年・第47回以降は全階一緒に発表するかたちに変更している。団扇の得票数が多かったチームにボールが加算され、ゲスト審査員のボールの数と合わせて、紅白それぞれの箱に加えられたボールを両軍の代表者(当初は両軍の歌手キャプテンが行っていたが、後に両軍司会に変更)が客席に向かって投げる。ボールの個数の多かったチームが優勝。
- 2002年・第53回、2003年・第54回には客席審査員(前者は観客の一部、後者は観客全員)がボールを使う投票方式となった。これは、『爆笑オンエアバトル』の方式によるものである(詳細は爆笑オンエアバトル#審査方法を参照)。2003年・第53回の集計方法変更により、双眼鏡を使っての計測が一時姿を消すことになった[158]。その後、2013年・第64回でこの計測が復活。
- また2002年・第53回からはデジタル放送(同回からはBSデジタル放送、2003年・第54回からは地上デジタル放送でも)の双方向機能を利用したお茶の間審査員による投票が行われるようになった(リモコンで紅組の場合は赤ボタン。白組の場合は青ボタンを押して投票)。客席審査同様、お茶の間審査で優勢だったチームにボールが2個加算される。
- 申し込みの際、デジタル総合テレビとデジタル衛星ハイビジョンが両方受信できる場合はどちらか一方のチャンネルのデータ放送で申し込みすればデジタル総合テレビ・デジタル衛星ハイビジョンのどちらでも双方向通信による投票が可能である(受信機1台に付き、1回の申し込みで可)。地上デジタル放送が受信できない地域ではデジタル衛星ハイビジョンのデータ放送からの申し込みとなる。
- 2004年・第55回は客席は審査に参加せず、特別審査員(11票)とお茶の間デジタル審査員(2票)の13個のボールで勝敗を争うかたちとなった。お茶の間審査では白組の圧勝だったが、ゲスト審査員の8人が紅組に投票したため紅組の優勝という結果となった。
- 2005年・第56回には審査員の投票総数で勝敗を競う方式に変更された。ゲスト審査員10名と「デジタルTV審査員」と新設された「ケータイ審査員」(抽選で選ばれた10,000名)に加え、2年ぶりに復活する会場審査(3,000名程度)を加えた人数で勝敗を競う。これは前年の件や不祥事に伴う信頼回復策の一環として視聴者の意見を重視してイメージアップを図ることが目的だったという。また、「デジタルTV審査員」と「ケータイ審査員」への応募者の中から抽選で各10名、計20名が「ふるさと審査員」としてNHKホールに招待された(「ふるさと審査員」がNHKホールに赴く際にかかる費用はNHK持ちとなっていた)。会場審査はゲスト審査員・ふるさと審査員も含め、専用の紅白の団扇をステージ上のレーダーに向ける『ポップジャム』のブレイクレーダー方式が用いられた。
- 2006年・第57回からワンセグ放送の双方向機能による「ワンセグ審査員」がスタート。「ケータイ審査員」と同様抽選で選ばれ、同回はそれぞれ15,000名に増員、「ふるさと審査員」も30名に増員されるが、ボールを使う投票方式に戻され、特別審査員は1人1個、それ以外は得票数を数個のボールに置き換えるかたちとなった。
- 中間審査では「ケータイ審査員」と「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各1個ずつ。
- 最終審査では「会場審査員」、「ケータイ審査員」、「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各2個ずつとゲスト審査員10名(1名につき1個)を加え、中間審査の分を合わせるとボールの数は合計18個となった。この関係で状況によっては(従来ではこのボールが奇数になるためにありえなかった)引き分けによる両軍優勝の可能性もあった。
- 「ケータイ審査員」は抽選となったが、「ワンセグ審査員」は対応機種が少数派のためか締め切りを過ぎても定員に達せず、放送当日まで募集を行った。
- 2007年・第58回は「ケータイ審査員」が50,000名に増員、「ワンセグ審査員」は無制限となり、審査方法は再び審査員の投票総数で勝敗を競う方式になった。これには中間審査の票数も加算される。
- 2008年・第59回 - 2012年・第63回もほぼ同様の審査方式であるが中間審査は1回のみとなり、結果発表はステージ上のLEDパネルに映し出す形を採用。
- 2011年・第62回、2012年・第63回も基本の審査方法はこれまでと同じだが、最終審査のみの得票数で競うかたちを採用。この2回ではゲスト審査員はウタ♪ウッキーのパペットを出して審査に参加した(紅組の場合はウー♪、白組の場合はター♪)。
- 2012年・第63回からはスマートフォンからの参加も可能となった(定員あり)。
- 2013年・第64回では、2006年・第57回以来7年ぶりにボール審査が復活した。
- 2014年•第65回では、団扇での投票と似ているが、ゲスト・客席ともに、ペンライトを赤か白かどちらかに点灯させて審査を行った。(計測は麻布大学野鳥研究部が担当)。
視聴者投票で白組出場歌手のファンによる白組への組織的な投票が行われているとの指摘がある[159]。
審査中にはBGMが使用される。
各回の概要[編集]
放送時間、先行トップバッターおよび大トリを務めた組、組司会の出場歌手兼任については書きかけです。 |
これまでの通算成績は紅組29勝・白組36勝で白組がリードしている。2005年・第56回から2010年・第61回まで白組が6連勝しており、これが最多連勝記録である。
回数 | 放送日 | 紅組司会 | 白組司会 | 総合司会 | 優勝 | 平均視聴率 |
---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1951年1月3日 | 加藤道子 | 藤倉修一 | 田辺正晴 | 白 | 記録なし |
第2回 | 1952年1月3日 | 丹下キヨ子 | 白 | |||
第3回 | 1953年1月2日 | 本田寿賀 | 宮田輝 | 志村正順 | 白 | |
第4回 | 1953年12月31日 | 水の江瀧子 | 高橋圭三 | 北出清五郎 | 紅 | |
第5回 | 1954年12月31日 | 福士夏江 | 石井鐘三郎 | 紅 | ||
第6回 | 1955年12月31日 | 宮田輝 | 紅 (5-4) | |||
第7回 | 1956年12月31日 | 白 | ||||
第8回 | 1957年12月31日 | 水の江瀧子 | 紅 (7-4) | |||
第9回 | 1958年12月31日 | 黒柳徹子 | 紅 (7-4) | |||
第10回 | 1959年12月31日 | 中村メイコ | 紅 (7-4) | |||
第11回 | 1960年12月31日 | 白 | ||||
第12回 | 1961年12月31日 | 穂坂俊明 | 白 | |||
第13回 | 1962年12月31日 | 森光子 | 宮田輝 | 石井鐘三郎 | 白 | 80.4% |
第14回 | 1963年12月31日 | 江利チエミ | 紅 (19-8) | 81.4% | ||
第15回 | 1964年12月31日 | 白 | 72.0% | |||
第16回 | 1965年12月31日 | 林美智子 | 白 (14-11) | 78.1% | ||
第17回 | 1966年12月31日 | ペギー葉山 | 紅 (22-3) | 74.0% | ||
第18回 | 1967年12月31日 | 九重佑三子 | 紅 | 76.7% | ||
第19回 | 1968年12月31日 | 水前寺清子 | 坂本九 | 宮田輝 | 白 (10-7) | 76.9% |
第20回 | 1969年12月31日 | 伊東ゆかり | 紅 (10-7) | 69.7% | ||
第21回 | 1970年12月31日 | 美空ひばり | 宮田輝 | 北出清五郎 | 紅 (81-79) | 77.0% |
第22回 | 1971年12月31日 | 水前寺清子 | 鈴木文彌 | 白 (102-98) | 78.1% | |
第23回 | 1972年12月31日 | 佐良直美 | 山川静夫 | 紅 (59-42) | 80.6% | |
第24回 | 1973年12月31日 | 水前寺清子 | 紅 | 75.8% | ||
第25回 | 1974年12月31日 | 佐良直美 | 山川静夫 | 土門正夫 中江陽三 |
紅 | 74.8% |
第26回 | 1975年12月31日 | 相川浩 | 白 | 72.0% | ||
第27回 | 1976年12月31日 | 紅 | 74.6% | |||
第28回 | 1977年12月31日 | 白 | 77.0% | |||
第29回 | 1978年12月31日 | 森光子 | 白 | 72.2% | ||
第30回 | 1979年12月31日 | 水前寺清子 | 中江陽三 | 紅 | 77.0% | |
第31回 | 1980年12月31日 | 黒柳徹子 | 紅 | 71.1% | ||
第32回 | 1981年12月31日 | 生方惠一 | 白 (22-11) | 74.9% | ||
第33回 | 1982年12月31日 | 紅 (19-16) | 69.9% | |||
第34回 | 1983年12月31日 | 鈴木健二 | タモリ | 白 (19-10) | 74.2% | |
第35回 | 1984年12月31日 | 森光子 | 生方惠一 | 紅 (31-2) | 78.1% | |
第36回 | 1985年12月31日 | 森昌子 | 千田正穂 | 紅 (22-11) | 66.0% | |
第37回 | 1986年12月31日 | 目加田賴子 斉藤由貴 |
千田正穂 加山雄三 |
吉川精一 | 白 | 59.4% |
第38回 | 1987年12月31日 | 和田アキ子 | 加山雄三 | 紅 (18-9) | 55.2% | |
第39回 | 1988年12月31日 | 杉浦圭子 | 白 (19-8) | 53.9% | ||
第40回 | 1989年12月31日 | 三田佳子 | 武田鉄矢 | 松平定知 | 紅 (20-7) | 1部 38.5% 2部 47.0% |
第41回 | 1990年12月31日 | 西田敏行 | 白 (13-4) | 1部 30.6% 2部 51.5% | ||
第42回 | 1991年12月31日 | 浅野ゆう子 | 堺正章 | 山川静夫 | 紅 (8-7) | 1部 34.9% 2部 51.5% |
第43回 | 1992年12月31日 | 石田ひかり | 白 (15-2) | 1部 40.2% 2部 55.2% | ||
第44回 | 1993年12月31日 | 森田美由紀 | 白 (18-9) | 1部 42.4% 2部 50.1% | ||
第45回 | 1994年12月31日 | 上沼恵美子 | 古舘伊知郎 | 宮川泰夫 | 紅 (9-8) | 1部 40.1% 2部 51.5% |
第46回 | 1995年12月31日 | 宮本隆治 草野満代 |
白 (13-4) | 1部 44.9% 2部 50.4% | ||
第47回 | 1996年12月31日 | 松たか子 | 白 (9-4) | 1部 41.6% 2部 53.9% | ||
第48回 | 1997年12月31日 | 和田アキ子 | 中居正広 (SMAP) |
宮本隆治 | 白 (9-4) | 1部 40.2% 2部 50.7% |
第49回 | 1998年12月31日 | 久保純子 | 紅 (9-4) | 1部 45.4% 2部 57.2% | ||
第50回 | 1999年12月31日 | 中村勘九郎(後の中村勘三郎) | 白 (7-6) | 1部 45.8% 2部 50.8% | ||
第51回 | 2000年12月31日 | 和泉元彌 | 紅 (9-4) | 1部 39.2% 2部 48.4% | ||
第52回 | 2001年12月31日 | 有働由美子 | 阿部渉 | 三宅民夫 | 白 (9-4) | 1部 38.1% 2部 48.5% |
第53回 | 2002年12月31日 | 紅 (9-6) | 1部 37.1% 2部 47.3% | |||
第54回 | 2003年12月31日 | 有働由美子 膳場貴子 |
阿部渉 高山哲哉 |
武内陶子 | 白 (15-0) | 1部 35.5% 2部 45.9% |
第55回 | 2004年12月31日 | 小野文惠 | 阿部渉 | 堀尾正明 | 紅 (8-5) | 1部 30.8% 2部 39.3% |
第56回 | 2005年12月31日 | 仲間由紀恵 | 山本耕史 | みのもんた 山根基世 |
白 | 1部 35.4% 2部 42.9% |
第57回 | 2006年12月31日 | 中居正広 (SMAP) |
三宅民夫 黒崎めぐみ |
白 (13-5) | 前半 30.6% 後半 39.8% | |
第58回 | 2007年12月31日 | 中居正広 (SMAP) |
笑福亭鶴瓶 | 松本和也 住吉美紀 |
白 | 前半 32.8% 後半 39.5% |
第59回 | 2008年12月31日 | 仲間由紀恵 | 中居正広 (SMAP) |
松本和也 小野文惠 |
白 | 前半 35.7% 後半 42.1% |
第60回 | 2009年12月31日 | 阿部渉 | 白 | 前半 37.1% 後半 40.8% | ||
第61回 | 2010年12月31日 | 松下奈緒 | 嵐 | 白 | 前半 35.7% 後半 41.7% | |
第62回 | 2011年12月31日 | 井上真央 | 紅 | 前半 35.2% 後半 41.6% | ||
第63回 | 2012年12月31日 | 堀北真希 | 有働由美子 | 白 | 前半 33.2% 後半 42.5% | |
第64回 | 2013年12月31日 | 綾瀬はるか | 白(9-4) | 前半 36.9% 後半 44.5% | ||
第65回 | 2014年12月31日 | 吉高由里子 | 白 |
前半 35.1% |
- 一部の回の優勝チームに付記された括弧内の数字は、最終審査結果の票数。
- 藤倉、田辺、本田、宮田、志村、北出、福士、高橋、石井、穂坂、鈴木(文)、山川、土門、中江、相川、生方、鈴木(健)、千田、目加田、吉川、杉浦、松平、森田、宮川、宮本、草野、久保、有働、阿部、三宅、膳場、高山、武内、小野、堀尾、山根、黒崎、松本、住吉はいずれも司会回時点は東京アナウンス室在籍者である。
- 総合司会のうち、1967年・第18回までと1974年・第25回の土門・中江、1983年・第34回のタモリ、1994年・第45回の宮川の名義は「進行役」。また、総合司会が正式であるものは1968年・第19回から1969年・第20回、1983年・第34回から2004年・第55回、2006年・第57回からである。
- 2005年・第56回については当初は紅白別の司会者は設定せず、上記の4人によるグループ司会で進行すると発表されたが、実際の放送では仲間が主に紅組歌手、山本が主に白組歌手の曲を中心に司会(エンディング時の優勝旗授与も山本が優勝旗を受け取った)、みのは実質上生放送の全ての進行を統括する総合司会的な役割、山根は進行役的役割という形式で役割分担がなされた。上記の表では実質的な役割に従って氏名を記載した。
- 嵐は大野智、櫻井翔、相葉雅紀、二宮和也、松本潤から構成されるグループである。
回数 | アナウンサー |
---|---|
2000年・第51回 | 阿部渉 |
2001年・第52回 | 小野文惠、高市佳明 |
2002年・第53回 | 小野文惠、高市佳明 |
2003年・第54回 | 小野文惠、藤崎弘士 |
2004年・第55回 | 藤崎弘士、住吉美紀 |
2005年・第56回 | 藤崎弘士、黒崎めぐみ |
2006年・第57回 | 小田切千、島津有理子 |
2007年・第58回 | 小田切千、塚原愛 |
2008年・第59回 | 山田康弘、神田愛花 |
2009年・第60回 | 山田康弘、神田愛花 |
2010年・第61回 | 小松宏司、黒崎めぐみ |
2011年・第62回 | 小松宏司、橋本奈穂子 |
2012年・第63回 | 青井実、橋本奈穂子 |
2013年・第64回 | 吉田一貴、久保田祐佳 |
2014年・第65回 | 青井実、首藤奈知子 |
歴代トップバッター歌手とその曲目[編集]
先行トップバッターを務めたチームで色付きがないのである不明のケースが分かったら色を加えるようよろしくお願い致します。 |
色付きの枠が先行トップバッター(不明のケースもある)。( )は通算出場回数、[ ]は通算トップバッター回数を示す。
歴代トリ歌手とその曲目[編集]
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
大トリを務めたチームで色付きがないのである不明のケースが分かったら色を加えるよう宜しくお願い致します。 |
色付きの枠が大トリ(不明のケースもある。)。( )は通算出場回数、[ ]は通算トリ回数を示す。
回数 | 年 | 紅組トリ | 白組トリ | ||
---|---|---|---|---|---|
歌手 | 曲目 | 歌手 | 曲目 | ||
第1回 | 1951年 | 渡辺はま子(初) [初] | 桑港のチャイナ街 | 藤山一郎(初) [初] | 長崎の鐘 |
第2回 | 1952年 | 渡辺はま子(2) [2] | 火の鳥[169] | 藤山一郎(2) [2] | オリンピックの歌 |
第3回 | 1953年 1月 |
笠置シヅ子(2) [初] | ホームラン・ブギ | 灰田勝彦(2) [初] | 野球小僧 |
第4回 | 1953年 12月 |
淡谷のり子[170](初) [初] | アデュー | 藤山一郎(4) [3] | 丘は花ざかり |
第5回 | 1954年 | 渡辺はま子(4) [3] | 東京の薔薇 | 霧島昇(3) [初] | 石狩エレジー |
第6回 | 1955年 | 二葉あき子(6) [初] | バラのルンバ | 藤山一郎(6) [4] | ニコライの鐘 |
第7回 | 1956年 | 笠置シヅ子(4) [2] | ヘイ・ヘイ・ブギ | 灰田勝彦(4) [2] | 白銀の山小舎で |
第8回 | 1957年 | 美空ひばり(2) [初] | 長崎の蝶々さん | 三橋美智也(2) [初] | リンゴ花咲く故郷へ |
第9回 | 1958年 | 美空ひばり(3) [2] | 白いランチで十四ノット | 三橋美智也(3) [2] | おさらば東京 |
第10回 | 1959年 | 美空ひばり(4) [3] | 御存知弁天小僧 | 春日八郎(5) [初] | 東京の蟻 |
第11回 | 1960年 | 島倉千代子(4) [初] | 他国の雨 | 三橋美智也(5) [3] | 達者でナ |
第12回 | 1961年 | 島倉千代子(5) [2] | 襟裳岬 | 三波春夫(4) [初] | 文左たから船 |
第13回 | 1962年 | 島倉千代子(6) [3] | さよならとさよなら | 三橋美智也(7) [4] | 星屑の街 |
第14回 | 1963年 | 美空ひばり(8) [4] | 哀愁出船 | 三波春夫(6) [2] | 佐渡の恋唄 |
第15回 | 1964年 | 美空ひばり(9) [5] | 柔 | 三波春夫(7) [3] | 俵星玄蕃 |
第16回 | 1965年 | 美空ひばり(10) [6] | 柔 | 橋幸夫(6) [初] | あの娘と僕〜スイム・スイム・スイム〜 |
第17回 | 1966年 | 美空ひばり(11) [7] | 悲しい酒 | 三波春夫(8) [4] | 紀伊國屋分左衛門 |
第18回 | 1967年 | 美空ひばり(12) [8] | 芸道一代 | 三波春夫(9) [5] | 赤垣源蔵 |
第19回 | 1968年 | 美空ひばり(13) [9] | 熱祷 | 橋幸夫(9) [2] | 赤い夕陽の三度笠 |
第20回 | 1969年 | 美空ひばり(14) [10] | 別れてもありがとう | 森進一(2) [初] | 港町ブルース |
第21回 | 1970年 | 美空ひばり(15) [11] | 人生将棋 | 森進一(3) [2] | 銀座の女 |
第22回 | 1971年 | 美空ひばり(16) [12] | この道をゆく | 森進一(4) [3] | おふくろさん |
第23回 | 1972年 | 美空ひばり(17) [13] | ある女の詩 | 北島三郎(10) [初] | 冬の宿 |
第24回 | 1973年 | 島倉千代子(17) [4」 | からたち日記 | 北島三郎(11) [2] | 帰ろかな |
第25回 | 1974年 | 島倉千代子(18) [5] | 襟裳岬 | 森進一(7) [4] | 襟裳岬 |
第26回 | 1975年 | 島倉千代子(19) [6] | 悲しみの宿 | 五木ひろし(5) [初] | 千曲川 |
第27回 | 1976年 | 都はるみ(12) [初] | 北の宿から | 五木ひろし(6) [2] | 愛の始発 |
第28回 | 1977年 | 八代亜紀(5) [初] | おんな港町 | 五木ひろし(7) [3] | 灯りが欲しい |
第29回 | 1978年 | 山口百恵(5)[初] | プレイバックPart2 | 沢田研二(6) [初] | LOVE (抱きしめたい) |
第30回 | 1979年 | 八代亜紀(7) [2] | 舟唄 | 五木ひろし(9) [4] | おまえとふたり |
第31回 | 1980年 | 八代亜紀(8) [3] | 雨の慕情 | 五木ひろし(10) [5] | ふたりの夜明け |
第32回 | 1981年 | 森昌子(9) [初] | 哀しみ本線日本海 | 北島三郎(19) [3] | 風雪ながれ旅 |
第33回 | 1982年 | 都はるみ(18) [2] | 涙の連絡船 | 森進一(15) [5] | 影を慕いて |
第34回 | 1983年 | 水前寺清子(19) [初] | あさくさ物語 | 細川たかし(9) [初] | 矢切の渡し |
第35回 | 1984年 | 都はるみ(20) [3] | 夫婦坂 | 森進一(17) [6] | 北の螢 |
第36回 | 1985年 | 森昌子(13) [2] | 愛傷歌 | 森進一(18) [7] | 女もよう |
第37回 | 1986年 | 石川さゆり(9) [初] | 天城越え | 森進一(19) [8] | ゆうすげの恋 |
第38回 | 1987年 | 和田アキ子(11) [初] | 抱擁 | 五木ひろし(17) [6] | 追憶 |
第39回 | 1988年 | 小林幸子(10) [初] | 雪椿 | 北島三郎(25) [4] | 年輪 |
第40回 | 1989年 | 石川さゆり(12) [2] | 風の盆恋歌 | 北島三郎(26) [5] | 夜汽車 |
第41回 | 1990年 | 都はるみ(22) [4] | 千年の古都 | 森進一(23) [9] | おふくろさん |
第42回 | 1991年 | 和田アキ子(15) [2] | あの鐘を鳴らすのはあなた | 谷村新司(5) [初] | 昴-すばる- |
第43回 | 1992年 | 由紀さおり(13) [初] | 赤とんぼ〜どこかへ帰ろう | 北島三郎(29) [6] | 帰ろかな |
第44回 | 1993年 | 石川さゆり(16) [3] | 津軽海峡・冬景色 | 北島三郎(30) [7] | まつり |
第45回 | 1994年 | 都はるみ(26) [5] | 古都逍遥 | 五木ひろし(24) [7] | 気笛 |
第46回 | 1995年 | 和田アキ子(19) [3] | もう一度ふたりで歌いたい | 細川たかし(21) [2] | 望郷じょんから |
第47回 | 1996年 | 坂本冬美(9) [初] | 夜桜お七 | 北島三郎(33) [8] | 風雪ながれ旅 |
第48回 | 1997年 | 安室奈美恵(3) [初] | CAN YOU CELEBRATE? | 五木ひろし(27) [8] | 千曲川 |
第49回 | 1998年 | 和田アキ子(22) [4] | 今あなたにうたいたい | 五木ひろし(28) [9] | 酒ひとり |
第50回 | 1999年 | 和田アキ子(23) [5] | あの鐘を鳴らすのはあなた | 北島三郎(36) [9] | まつり |
第51回 | 2000年 | 天童よしみ(5) [初] | 道頓堀人情 | 五木ひろし(30) [10] | 山河 |
第52回 | 2001年 | 和田アキ子(25) [6] | 夢 | 北島三郎(38) [10] | 山 |
第53回 | 2002年 | 石川さゆり(25) [4] | 天城越え | 五木ひろし(32) [11] | おふくろの子守唄 |
第54回 | 2003年 | 天童よしみ(8) [2] | 美しい昔 | SMAP(12) [初] | 世界に一つだけの花 |
第55回 | 2004年 | 小林幸子(26) [2] | 雪椿 | 五木ひろし(34) [12] | 雪燃えて |
第56回 | 2005年 | 天童よしみ(10) [3] | 川の流れのように | SMAP(13) [2] | Triangle |
第57回 | 2006年 | 川中美幸(19) [初] | ふたり酒 | 北島三郎(43) [11] | まつり |
第58回[171] | 2007年 | 石川さゆり(30) [5] | 津軽海峡・冬景色 | 五木ひろし(37) [13] | 契り |
第59回 | 2008年 | 和田アキ子(32) [7] | 夢 | 氷川きよし(9) [初] | きよしのズンドコ節 |
第60回 | 2009年 | DREAMS COME TRUE(13) [初] | その先へ 〜紅白スペシャルバージョン〜[172] | 北島三郎(46) [12] | まつり |
第61回 | 2010年 | DREAMS COME TRUE(14) [2] | 生きてゆくのです♡ feat. ザ紅白スペシャルブラスバンド |
SMAP(18) [3] | This is love '10 SPメドレー[173] |
第62回 | 2011年 | 石川さゆり(34) [6] | 津軽海峡・冬景色 | SMAP(19) [4] | SMAP AID 紅白SP[174] |
第63回 | 2012年 | いきものがかり(5) [初] | 風が吹いている | SMAP(20) [5] | SMAP2012'スペシャル[175] |
第64回[176] | 2013年 | 髙橋真梨子(2) [初] | for you… | SMAP(21) [6] | Joymap!![177] |
北島三郎(50) [13] | まつり | ||||
第65回 | 2014年 | 松田聖子(18) [初] | あなたに会いたくて〜Missing You〜 | 嵐(6) [初] | 2014 Thanks Medley |
NHK紅白歌合戦の主な記録[編集]
その他[編集]
国内で自粛ムードが高まった年では、紅白が中止になるかと懸念されたこともある[178][179]が、しかしながら中止となったケースはない。
1960年代、1970年代では、出場歌手と司会者を同時発表としていた回が存在する。
出演者の選考・交渉が発表の直前(当日・前日の場合も)というギリギリのタイミングまで行われることもある。逆に春先の時点で出演が決まるという事例もある。
和田アキ子、堺正章はTBS系列『日本レコード大賞』(2006年以降は12月30日開催のため直接の競合はしていない)が生裏番組だった時代に、そちらの司会を兼任しながら紅白に出場した回がある(前者は1990年、後者は1999年)。他にも生裏番組や前後時間帯の生番組と掛け持ちしながら紅白に出演する者が存在している[180][181]。
急な出場者変更(先述)や出場歌手が本来の出番に遅刻(別の仕事と掛け持ちにより)した場合、予定していた歌唱順を入れ替えたという事例もある。
『日本レコード大賞』受賞歌手が紅白に出場していた場合、(受賞後に出番となった場合のみだが)紅白の放送内で司会者からそれを祝福されることもある。
客席に出場歌手の身内が招かれ、該当歌手歌唱前に身内にインタビューがされたり、歌唱中に観覧する姿が映されることがある[182]。
紅白初出場がテレビ・ラジオといったメディアへの初出演となったり[183]、テレビ生放送への初出演となった歌手[184]もいる。また出演歌手による紅白での歌唱がテレビ初披露もしくはNHKでの初披露となった楽曲もある。
グループでの出場において、その中の人物が紅白での出演を最後にグループを脱退・卒業となった事例もある[185]。逆にグループを脱退・卒業した人物が紅白限定でグループ復帰したということもある[186]。その他、紅白での歌唱時にグループからの卒業を表明した者もいる[187]。
女性歌手の場合、紅白と前後する時期に自身の妊娠・出産が重なったために出場見送り(辞退・落選)となるケースもある。一方、出産前ギリギリのタイミングで出場する者もいる(その場合、紅白のステージを最後に産休に入るという場合もあり)。また、常連である石川さゆりは1983年・第34回について、この直前に産休に入り臨月間近だったことから同回は早々に出場を辞退したものの、プロデューサーの「応援だけでも出演してほしい」との熱意に押されて、紅組の応援ゲストとして出演した。
身内同士で同時出場・出演(コラボ演奏・歌唱が実現したこともある)するケースがあるほか、元夫婦が同時出場したという事例もある。また、交際者同士あるいは元交際者同士を直接対決にすることがある。このようにワイドショー好みの演出を意図的に行うこともある[188]。
民放が紅白の裏番組として放送するバラエティ特番(生放送)が紅白とコラボレーションを行うことがある(紅白に乱入したり、紅白裏で生放送を行っている民放局内のスタジオにテレビを持ってきて、総合テレビを映し(そちらからの放送でもカメラ越しに本紅白が一部放映)スタジオ出演者が出場歌手を応援するという姿を放映するなど)。
韓国メディアは紅白、読売テレビ制作・日本テレビ系列『ベストヒット歌謡祭』、フジテレビ系列『FNS歌謡祭』の3番組を「日本三大歌謡祭」と紹介している[189]。
同じコンセプトを持つ企画・パロディなど[編集]
- NTV紅白歌のベストテン(日本テレビ系列)
- 青白歌合戦 - SPACE SHOWER TVが主催し、2004年12月15日に東京体育館で開催したイベント。
- オールスター感謝祭 - TBSテレビが自社に関係の深い芸能人を出演させる。
- 「○○紅白歌合戦」というタイトルのパロディについては、紅白歌合戦 (曖昧さ回避)を参照。
- ブラジルでは日系人移民が多いということもあり、毎年年末に日系人市民による「日系移民紅白歌合戦」が開催されている。NHKも開催に協力している。
脚注[編集]
- ↑ ただし後述の通り、前身『紅白音楽試合』は大みそかでの放送だった。
- ↑ デジタルハイビジョンに取って替わるかたちで2009年9月30日をもって終了。
- ↑ 全編に渡るハイビジョン制作・放送は翌1990年・第41回から。
- ↑ その他、初期は異性のコーラスも禁止されており、曲目そのものの変更や女性コーラスを少年コーラスに差し替えるなどの処置も取られていた(1957年・第8回の浜村美智子、1959年・第10回の三橋美智也と三浦洸一)。
- ↑ また、初期はグループの出場そのものが禁止だった(http://www.j-cast.com/tv/2012/12/31159536.html J-CASTニュース(2012年12月31日))。
- ↑ ピンキーとキラーズを初出場させる際、どちらの組とするかで番組側がもめたという。最終的に今陽子(ピンキー)が主役と判断し紅組での選出となった。ただし、初出場時のみ男性メンバーは歌手席に座れなかった。
- ↑ 『日刊スポーツ』2006年11月26日付
- ↑ 【NHK紅白歌合戦60年史(2)】正月の会場見つからず「大晦日」に GHQに怒られながら誕生した「第1回紅白」、MSN産経west(2012年12月30日)
- ↑ 『毎日新聞』1951年1月1日付朝刊、8版、8頁。
- ↑ 太田省一『紅白歌合戦と日本人』筑摩書房、2013年、26頁。
- ↑ 1996年・第47回のようにメドレーを一切入れなかった回もある。
- ↑ 紅白曲目にメドレー多いと指摘多数,web R25,2013年12月20日
- ↑ 2013年・第64回における関ジャニ∞のメドレータイトル「紅白2度目! 呼ばれて飛び出てじぇじぇじぇじぇ!!」(「へそ曲がり」「T.W.L」を順に披露)について、同メンバーの丸山隆平の考案であることが曲前に丸山本人により明かされた。
- ↑ http://www.oricon.co.jp/news/music/2005336/full/ ORICON STYLE(2011年12月31日)
- ↑ http://news.livedoor.com/article/detail/6106905/ アサ芸プラス(2011年12月10日)
- ↑ 桜田はそれ以前に、1982年8月24日放送の『NHK歌謡ホール』で同曲を歌唱している。これらは当時薬師丸が休業中だったため採用された処置である。
- ↑ 同回における出場歌手数は白組の方が紅組より1組多かった。北島を「究極の大トリ」、SMAPを正規白組トリおよび大トリとの形を採った理由については、SMAPが所属するジャニーズ事務所の意向が大きいとされる(『週刊文春』2014年1月16日号)。
- ↑ 1984年・第35回において、水前寺清子・細川たかしが揃って「浪花節だよ人生は」を歌唱。
- ↑ 1974年・第25回における島倉千代子・森進一(トリ対決)。
- ↑ 『スポーツニッポン』2010年11月23日付
- ↑ 2004年・第55回における「紅あげ白あげ紅白ハタ合戦」(出場歌手が旗揚げ対決をする企画)のように視聴者から多くの批判が集まったものもある(同コーナーの進行役を務めた和田アキ子も批判を行った)。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』、172頁。
- ↑ 紅白歌合戦「Wトリ」? 実は演歌系とポップス系それぞれに配分 : J-CASTテレビウォッチ
- ↑ 2010年・第61回のみ紅白テーマソング「歌の力」のインストゥルメンタルが使用された。
- ↑ 「歌手リーダー制」は1981年・第32回 - 1985年・第36回まで敷かれた。
- ↑ 『スポーツニッポン』2010年1月1日付
- ↑ 紅白の出場者発表、ネットで生中継 Twitterで速報も,ITmedia,2012年10月20日
- ↑ 後述のゆずの事例以前では、同テーマソング担当者が同年の紅白への出場を辞退したとされる事例がある。
- ↑ 同回にて同年のアテネオリンピックの同テーマソング「栄光の架橋」を歌唱。その後2013年・第64回では、同年下期の連続テレビ小説『ごちそうさん』の主題歌「雨のち晴レルヤ」を歌唱。
- ↑ 2013年・第64回では、コブクロが2014年開催のソチオリンピック・ソチパラリンピックの同テーマソング「今、咲き誇る花たちよ」を歌唱した。
- ↑ 「Moment」も歌唱。
- ↑ 『朝日新聞』1987年11月11日付朝刊、26頁。
- ↑ 『朝日新聞』1987年12月6日付朝刊、6頁。
- ↑ 小畑実、都はるみ、チェッカーズ、安室奈美恵、X JAPAN、絢香など。
- ↑ 都、安室。
- ↑ ソロ歌手では都はるみ、南沙織、森昌子。グループではピンク・レディー、ザ・タイガース、アリス。なお都、南、森はこれを機に歌手業を本格的に再開させた(南は限定的ではあるが)。また2006年・第57回では、名目上ソロ歌手として出場した前川清のバックコーラスとして解散していた内山田洋とクール・ファイブの旧メンバーが参加(この年亡くなった内山田洋の追悼企画)し、クール・ファイブがこのステージで再結成を果たした(その後、前川清&クール・ファイブ名義でグループ活動を事実上再開)。
- ↑ ラッツ&スター、かぐや姫、ゴダイゴ、アリス、プリンセス プリンセス。プリンセス プリンセスは紅白出演を最後に期間限定再結成にピリオドを打った。
- ↑ (1999-12-01) 聖子、3年ぶり紅白復帰!郷と対決も SANSPO.COM arch. 2001-03-16
- ↑ 『スポーツニッポン』2008年11月25日付
- ↑ 『毎日jp』2008年11月25日付
- ↑ オリコン調べで450万枚以上を売り上げ、日本におけるシングル盤の売上最高記録となっている。
- ↑ 同回における子門の落選については、出場歌手発表会見にて記者団から「フジテレビから生まれた歌だから落としたのか?」との質問が番組側に出されたが、番組側は「好きな歌のアンケートだけだったら、当然入っていただろうが、好きな歌手のアンケート支持が下位だった。歌と歌手とが結びつかなかった」と回答した。事実、アンケートでの支持の低さ(アンケートは歌手名での投票となるため、楽曲先行でブレイクした歌手の場合はアンケート支持が落ちる場合がある)が落選理由とされている(『朝日新聞』1976年11月26日付東京朝刊、24頁)(『読売新聞』1976年12月12日付朝刊、27頁)。
- ↑ お二ャン子クラブに関しては、当時フジテレビ系列で紅白と同日に生放送していた『世界紅白歌合戦』には出演していた(1985年・1986年双方)。
- ↑ なお、この2010年・第61回においてはK-POP勢は選考段階では挙げられていたものの、最終的にはNHKがオファーそのものを見送ったと説明している。( (2010-11-24) 【紅白歌合戦】今年人気の「K-PОP」勢ゼロ なぜ? MSN産経ニュース arch. 2011-01-19 2011年8月18日 )
- ↑ (2013年1月16日) 高視聴率で「今年の紅白も韓流は不要」の声 東スポweb 2013年1月16日 [ arch. ] 2013-11-26
- ↑ (2009-11-24) 嵐10周年で初出場「最高のステージに」 デイリースポーツオンライン デイリースポーツ社 arch. 2009-11-25 2009年11月24日
- ↑ (2010-1-1) NHKと相思相愛!ジャニーズ“枠固定”撤廃へ スポニチ Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社 [ arch. ] 2013-09-16
- ↑ 『東奥日報』2005年12月1日付
- ↑ (2009-11-23) 嵐が初紅白「ジャニーズ2枠」の慣例突破 日刊スポーツ [ arch. ] 2009年11月24日
- ↑ (2010-11-11) 変わる紅白歌合戦 リアルライブ [ arch. ] 2010年11月25日
- ↑ 第64回ではメンバーの岡田准一が翌年の大河ドラマに主演する縁で審査員として参加したことはあった。
- ↑ 「いったい誰なの!?」知名度ゼロのNYCが『紅白』4年連続出場の深いワケ - 日刊サイゾー
- ↑ 新曲出した小林幸子紅白“逆転出場”に見えた一筋の光明 | THIS WEEK - 週刊文春WEB
- ↑ 『日刊ゲンダイ』2013年11月11日付
- ↑ 美空ひばりの事例。
- ↑ ZAKZAK(2005年11月17日)
- ↑ 『日刊スポーツ』2005年11月17日付
- ↑ 2005年・第56回でのDef Tech。
- ↑ 2005年・第56回のWaT(11月3日デビュー。デビューから1ヶ月29日での出場は最速出場記録となっている)。なお、1980年代頃までは秋初頭の時点で大方の選考は決まっていたとされる。
- ↑ 紅白どうなる…DAIGO微妙に組長ゴルフの演歌人 夕刊フジ(2008年10月23日)
- ↑ 「タダ働きしてきたのに……」矢口真里の再密会報道で、現役モー娘。の紅白出場も消滅!? 日刊サイゾー(2013年11月13日)
- ↑ NHKはスーザン・ボイルにいくら払ったのか? - リアルライブ
- ↑ Techinsight Japan 編集部 真紀和泉(2012年12月30日)
- ↑ (1996-11-29) 紅白にソッポ組の言い分 ZAKZAK arch. 1997-02-09
- ↑ 『読売新聞』1973年11月22日付朝刊、22頁。
- ↑ これに関連し、同回で審査員を務めることが決定していた蜷川幸雄が「一芸能番組で道徳を振りかざすNHKの姿勢には納得できない」として出演を辞退する出来事が発生(代役は加藤芳郎)。
- ↑ シブがき隊にとって、これが現役時代最後の紅白出場となった(1988年に解散)。
- ↑ 1986年・第37回の事例では、鳥羽が「自分もこの様な暴力団との仕事上の付き合いはある。歌手ならこのような付き合いは避けられない」と述べており、この様な問題点があることを暗に指摘している。なお、鳥羽は代役出場を辞退するという異例のケースとなった。
- ↑ 島倉千代子、三波春夫、都はるみ、布施明、北島三郎など。
- ↑ ただし、中には勇退表明後に再出場する者もいる。
- ↑ (2009-12-30) ポップス軽視の紅白に疑問!布施明が突然の卒業宣言 スポニチ Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社 arch. 2009-12-31 2009年12月30日
- ↑ (2009-12-30) 紅白常連組の辞退…耐えられなかった落選への恐怖 スポニチ Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社 arch. 2009-12-31 2009年12月30日
- ↑ 73.0 73.1 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』 全音楽譜出版社、2012年。
- ↑ 実際の滞在先は当時国交と直行便がなかった韓国のソウルとも言われている。
- ↑ 前川以外のメンバーは紅組の藤圭子のバックコーラスとして出場したものの、正式な出場者のエントリーからは外された。
- ↑ 当然白組司会も男性(前者は両年とも高橋圭三、後者は笑福亭鶴瓶)であったため、両軍とも男性の司会となった。
- ↑ グループによる組司会担当は2010年・第61回での嵐(白組司会)が史上初。嵐の初白組司会担当以前では海原千里・万里、爆笑問題、SMAPといったグループが組司会の候補に挙がった回があるとされる。
- ↑ 『サンケイスポーツ』2007年11月13日付
- ↑ ただし、翌2008年・第59回では当時NHK会長の福地茂雄による「男女による組司会が望ましい」との意向で男女の組司会に戻された(『スポーツ報知』2008年10月3日付)。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』、58頁。
- ↑ 『スポーツ報知』2005年11月18日付
- ↑ 一方、『ゲンダイネット』2006年11月20日付は、2006年・第57回の白組司会に中居正広の起用が決まったことに関連して「紅白の視聴率低下に頭を抱えていたNHKは昨年、手当たり次第に大物にオファーを出したそうです。その結果、みのと中居の双方からOKが来てしまった。慌てたNHKは、紅組司会、白組司会、総合司会という枠を取っ払い、中居のために“司会グループ”なるポストを用意した。でも、中居は過去に白組の正司会者を経験している。(中居が所属する)ジャニーズは彼をサブ扱いしようとしたNHKに不快感を示し、司会を辞退したと言われています」とのマスコミ関係者の話を掲載した。なお、事実中居は2005年・第56回の司会発表前に各メディアで起用が有力視されていた。
- ↑ http://www5a.biglobe.ne.jp/~y-kinsan/.../1999.10.15.ZAKZAK.html ZAKZAK(1999年10月15日)
- ↑ みのの同回以前のNHK出演は1999年7月放送のBS2『いまさら聞けないあなたのためのNHK流行講座』のみで、同回での司会がNHK地上波への初出演だった(『サンケイスポーツ』2005年11月18日付)。
- ↑ 古舘が初白組司会となる前年の1993年・第44回でも彼がこの役の候補に挙がっていた。実際に前年の時点で番組側は起用を検討していたが、見送る格好となっていた(「民放のアナウンサー出身ということでNHK内に一部慎重な声があったため起用が見送られた」と週刊誌で報じられた)。
- ↑ 2006年・第57回の司会発表後に番組側が明かしたところによると、司会発表前、新庄剛志が番組側に自身を同回の司会に起用するようアプローチをかけていたという(『スポーツ報知』2006年11月18日付)。
- ↑ 2009年・第60回では記者会見は行われず。詳細は同回の項目を参照。
- ↑ 2011年・第62回以降、10月中旬での司会発表が恒例となっている(早すぎる“紅白司会発表”のウラ事情…「梅ちゃん」登場の狙いは? 夕刊フジ 2012年10月20日閲覧)。
- ↑ 司会者4人を2人ずつ第1陣・第2陣と分けて発表した2005年・第56回では、第2陣の発表が出場歌手発表の後となった(なお司会者を分けて発表したことについて、第1陣の発表時に茂手木秀樹が「本当は今日1回で発表したかったが、交渉の関係で発表が間に合わなかった」と話した)。2009年・第60回では出場歌手発表の後に総合司会の発表が行われた(組司会は出場歌手発表の前に発表)。
- ↑ 紅白歌合戦 :白組司会に3年連続「嵐」 紅組は「梅ちゃん先生」の堀北 毎日新聞デジタル(2012年10月16日)
- ↑ 『日刊スポーツ』2006年11月18日付
- ↑ 『ZAKZAK』2013年10月19日付
- ↑ 初期ではこの概念は認められておらず、1958年・第9回では当初番組側が楠トシエ(当時出場歌手の常連)を起用する予定だったが、歌手としての出場を希望した楠がその打診を断ったという事例がある。この概念の第1号は1963年・第14回における江利チエミである。同回では当初前年の第13回に引き続き紅組司会を担当することが内定していた森光子が発表直前に緊急辞退したため、この年あらゆる面で活躍した江利の起用を決定、森の緊急辞退が史上初の歌手兼司会を生む結果にもなった。なお、前身『紅白音楽試合』では当日急遽欠場したベティ稲田とディック・ミネの穴埋めで両軍司会の水の江瀧子・古川ロッパが急遽両軍トリ歌手同士として歌唱したという事例があった。
- ↑ ひばりが同回の紅組司会に決まった際、この時点で歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、当初番組側は紅組トリに青江三奈(当時女性歌手のヒットNo.1)を起用する構想を固めていたが、ひばりが司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは・・・と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定したという経緯がある。
- ↑ 中居正広は男性では唯一の組司会とトリ(大トリ)の双方経験者(組司会はソロ、トリはSMAPとして)であるが、同一回で双方を担当した事例はない。『スポーツ報知』2010年12月25日付には「2006年・第57回 - 2009年・第60回は中居が(組)司会だったためSMAPのトリ(大トリ)がなかった」と書かれている。並びに中居が組司会兼任の回ではSMAPがトリを務めることができないとも取れる内容の見解も示されている。
- ↑ この2回は「例え歌手であっても組司会に専念してもらう」というNHKの方針があったため。
- ↑ 1996年の紅組司会。翌1997年に歌手デビュー。
- ↑ 斉藤にとっては歌手としても組司会としても同回が最初で最後の出演である。
- ↑ 海老沢が2005年1月にNHK会長を辞任したことで、同年の第56回からはNHKアナウンサー以外も務める体制に戻った。
- ↑ 2012年・第63回時点ではNHKホール内の客席中央の電光掲示板に台本を映し出した(『週刊新潮』2013年1月17日号)。
- ↑ 『日刊スポーツ』2006年1月1日付
- ↑ 紅組司会・短期養成講座 宮本隆治
- ↑ 『サンケイスポーツ』2007年12月30日付
- ↑ 2008年・第59回での司会者と出場歌手の面談の際、和田アキ子は同回の紅組司会の仲間由紀恵に対し、「仲間ちゃんは司会進行の時、カンペばかり見ているので、せめて私の時だけはしっかり覚えてほしい」と注文する場面があった(http://www.oricon.co.jp/news/movie/61659/full/ ORICON STYLE(2008年12月29日))。
- ↑ 『女性自身』2013年1月22日号
- ↑ (2012-12-25) 勘九郎 紅白審査員「すごく幸せ」 デイリースポーツ [ arch. ] 2013-03-26
- ↑ 初めてのケースは1969年・第20回のザ・ドリフターズ。
- ↑ V6は「Believe Your Smile」、KinKi Kidsは「フラワー」。
- ↑ 109.0 109.1 109.2 NHK総合「紅白歌合戦」の視聴率、ビデオリサーチ社、2008年1月17日
- ↑ 年間視聴率1位の座は1997年・第48回まで譲ったことがなかった。翌1998年・第49回以降は年によっては別番組にその座を奪われることもある(2002年・第53回以降は民放番組にその座を奪われることもある。1998年・第49回では、同紅白を上回ったものが総合テレビの『1998 FIFAワールドカップ』の日本代表戦中継であった。なお紅白の視聴率を上回る民放番組は主に国際スポーツ中継の日本戦である)。
- ↑ 『日経エンタテインメント!』2004年3月号、122頁。
- ↑ http://www.oricon.co.jp/news/2032863/full/ ORICON STYLE(2013年1月11日)
- ↑ 「今年紅白の司会をしてほしい有名人」ランキング(大衆に行うアンケート)を発表することがある。
- ↑ 『週刊朝日』2006年12月29日号
- ↑ 『NHK紅白歌合戦スタッフ編、前掲書』、78頁。
- ↑ http://www.cyzo.com/2013/11/post_15271.html 日刊サイゾー(2013年11月28日)
- ↑ 『日めくりタイムトラベル』の昭和49年の特集(2008年10月11日放送分)にて紹介。
- ↑ 1991年・第42回には原由子がソロで紅組から出場し、2010年・第61回には桑田がソロで特別出演した。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』、29頁。
- ↑ 『明星』1966年2月号第1付録『新春歌合戦 100大歌手 明星紅白歌まつり』74頁
- ↑ 丸山鐵雄『ラジオの昭和』 幻戯書房、2012年。
- ↑ 1994年・第45回で白組司会を務めた古舘伊知郎が放送内において、その旨を述べている。
- ↑ 単発番組の予定だったが、あまりの好評により、翌年の開催が決定した。なおこの時、紅白が長寿番組化することを予想していたスタッフはいなかったという。
- ↑ 『日刊ゲンダイ』2011年12月29日付に掲載された菅原都々子のインタビュー内での菅原の発言より。なお、これらの歌手も大みそか開催移行後に出場するようになった。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』、25頁。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』、62頁。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』、27頁。
- ↑ 1958年・第9回のみ。当時はまだテレビの音響設備が不完全であり、それに加え、コマ劇場が円形のステージであったこと、また、観客からの声援が終始凄まじかったことも手伝い、紅組トリおよび大トリを務めた美空ひばりを始めとして、後ろの楽団の演奏が全く聞き取れず、歌っている最中に音を思い切り外してしまうケースが多発。歌手側や局関係者からも「コマ劇場の使いにくさ」を指摘する声が上がり、結局、コマ劇場を会場とした紅白はこの1回のみに留まってしまった。
- ↑ NHK-FM『今日は一日○○三昧』など。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』、71頁。
- ↑ 第4回は淡谷のり子がトリを取ったとされているが、渡辺はま子がトリを取ったという異説もあり、渡辺説を採用すれば、全回でコロムビア所属の歌手が紅組トリを務めたことになる。
- ↑ 合田道人『紅白歌合戦の真実』、132~133頁。
- ↑ 同回の瞬間最高視聴率は、五月みどりによる「一週間に十日来い」歌唱時の85.3%。
- ↑ 1961年 - 2000年に行われていたニールセンによる調査では、同じ第14回で記録した89.8%が最高記録である。なお、ビデオリサーチ社以前も含めた最高視聴率では、1955年5月30日、日本テレビのボクシング中継・パスカル・ペレス対白井義男戦で記録した96.1%がある(電通調べ 出典:日本放送協会編『放送五十年史 資料編』、日本放送出版協会、1977年、590-591頁)。
- ↑ 歌手席は2001年・第52回の第1部内の企画で復活。
- ↑ 選手宣誓は2007年・第58回のみ復活。
- ↑ 衣装の大きさについては、NHKホールのステージエレベーターに乗せられるものまでと制限がかけられる。2人は紅白後に衣装を保管しており、自身のコンサートや他番組、イベント等で再度披露したりしている。また、小林が本番の衣装披露時に衣装コンピュータの故障や電気トラブルで完全成功といかなかった事例(1992年・第43回、2003年・第54回。この時は翌年にそれぞれ30周年記念リサイタル、『NHK歌謡コンサート』で再度衣装を披露しリベンジしている)があるほか、2004年・第55回では同年10月23日に小林の出身地・新潟県で発生した新潟県中越地震の被災者に配慮して豪華衣装披露を自粛した(この衣装は翌年の『NHK歌謡コンサート』で改めて披露した。その後の大震災発生年では自粛していない)。
- ↑ 小林の個人事務所・幸子プロモーション関係者は一部週刊誌の取材時に、小林が豪華衣装を準備した状態で紅白落選した場合について「こちらが勝手に用意したものなので文句は言えない」とコメントしていた。なお、2012年・第63回で小林は落選となり以後も出場していないが、小林は紅白出場に向け豪華衣装を制作している(用意した衣装は自身の公演で披露する)。
- ↑ 和田アキ子は紅白の出場歌手が発表される以前から衣装を制作している小林に否定的な考えを持っており、この件がきっかけで2人の間に確執が生じた(アッコ テレビで幸子挑発!、スポニチアネックス、2001年12月17日。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)。なお、小林は和田の意見に対し、「(紅白の衣装は)見ている人に楽しんでもらおうと思ってやっている」「(紅白に)もし出場できなかったらコンサートで着ます」「アッコちゃんは私よりも年上だけど、芸能界では私が先輩なんですから、陰でコソコソ言わないで何か意見を言いたいのならばじかにはっきりと私に言いに来たらいいのに」などと反論している。
- ↑ 特に小林の落選後、水森かおりが豪華衣装で出演するようになった。番組側は水森について、小林の代役ではないとしている。
- ↑ アサ芸プラス(2011年12月9日)
- ↑ 東スポweb(2012年12月29日)
- ↑ (2002-11-27) 初出場は14組 紅白出場歌手発表 スポニチ Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社 arch. 2002-12-01
- ↑ (2002-12-30) 北島三郎 中継チクリ スポニチ Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社 arch. 2003-02-07
- ↑ 『ZAKZAK』2013年12月6日付
- ↑ 2002年・第53回では、「ワダツミの木」が約80万枚の大ヒットを記録し、同年下期の連続テレビ小説『まんてん』の主題歌「この街」を担当していた元ちとせに、番組側が早くから出演の打診をしており、一部メディアに「出場確実」と報じられていた。しかし、元の所属事務所・オフィスオーガスタ側より「その時期は、本人がレコーディングのためパリに行くため、そこから中継にしてほしい」と要望した。番組側から「本人と関連のある場所(出身地や楽曲に関係する場所)でなければ、中継はできない」とその要望を断ったため、最終的に元は出場を辞退した。
- ↑ 『日刊ゲンダイ』2013年1月7日付
- ↑ その際、歌唱前にSMAPはステージ上からメッセージを贈るという異例の演出を行った。後にSMAPは2006年・第57回でも同様の演出を行った。
- ↑ 2009年・第60回の矢沢永吉。ただし、複数のメディアで矢沢の出演が事前に報じられていた。
- ↑ (2009-12-24) ジャニーズ所属タレントの「紅白」出演動画、NHKネット配信 NIKKEI NET IT-PLUS 日本経済新聞社 arch. 2010-07-22
- ↑ NHK「紅白歌合戦」専用Twitter始動,ITmedia,2010年11月18日
- ↑ (2011-01-01) 【紅白】徹底検証…白組勝利はインパクトのおかげ? 桑田復活、福山断髪など印象強く(2/2ページ) MSN産経ニュース 産経デジタル arch. 2011-01-04 2011年1月2日
- ↑ http://www.j-cast.com/tv/2013/12/19192156.html J-CASTテレビウォッチ(2013年12月19日)
- ↑ 『週刊新潮』2013年12月26日号
- ↑ 『日刊ゲンダイ』2012年11月28日付
- ↑ 『NEWSポストセブン』2013年12月23日付
- ↑ http://news.livedoor.com/article/detail/9514831/ livedoornews(2014年11月29日)
- ↑ (2003-12-26) “野鳥の会”紅白落選! スポニチ Sponichi Annex スポーツニッポン新聞社 arch. 2004-12-09
- ↑ 『週刊新潮』2011年1月13日号
- ↑ NHK総合「紅白歌合戦」|ビデオリサーチ
- ↑ ただし、歌唱曲は「東京シューシャイン・ボーイ」とする説もある。
- ↑ ただし、歌唱曲は「ダゴタの黄昏」とする説もある。
- ↑ 「ガラスの十代」「パラダイス銀河」「Diamondハリケーン」「剣の舞」を順に披露。
- ↑ 「LOVEマシーン」「ザ☆ピ〜ス!」「恋愛レボリューション21」(モーニング娘。)「付き合ってるのに片思い」(Berryz工房)「都会っ子 純情」(℃-ute)「LALALA 幸せの歌」(ハロプロワンダフルオールスターズ)を順に披露。
- ↑ 「ユメタマゴ」「勇気100%」を順に披露。冒頭と2曲の間に「NYC」(NYCの3人をメンバーに含むグループであるNYCboysの楽曲)の1フレーズを挟んでいた。
- ↑ 「Dearest」「evolution」「SURREAL」を順に披露。出典:nhk_kouhakuのツイート (285692543499386880)
- ↑ 「ハイナ!」「ユメタマゴ」「勇気100%」を順に披露。出典:nhk_kouhakuのツイート (285693537855619073)
- ↑ 「Sexy Zone」「Lady ダイヤモンド」「Sexy Summerに雪が降る」など計5曲披露。
- ↑ ただし、歌唱曲は「桑港のチャイナ街」とする説もある。
- ↑ ただし先述の通り、渡辺はま子が紅組トリを取ったとする説もあり、合田道人の著書では、渡辺を紅組トリとする説が採用されている。なお、同回での渡辺の歌唱曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」。
- ↑ 大トリの後、審査結果を待つ間にSMAPと槇原敬之のメインボーカルの下、出演者(出場歌手、司会者、ゲスト審査員、合唱団)で「世界に一つだけの花」の大合唱が行われた。
- ↑ 「MIDDLE OF NOWHERE」「その先へ」を順に披露。
- ↑ 「This is love」「Triangle」を順に披露。
- ↑ 「not alone〜幸せになろうよ〜」「オリジナル スマイル」を順に披露。
- ↑ 「Moment」「さかさまの空」を順に披露。
- ↑ 髙橋→SMAPの歌唱後に「紅白両軍の枠を超えた演出」として北島が歌唱。メディアによって北島を大トリとするかSMAPが大トリとするか扱いの差がある。
- ↑ 「Mistake!」「Joy!!」を順に披露。
- ↑ 1988年9月に昭和天皇の病状が悪化し、日本全国で華美な放送やCMを控える自粛ムードが高まっており、同年の紅白(第39回)は中止になるかと懸念されていたが、遠藤利男(同回時点でのNHK放送総局長)が11月17日の会見で「(今年の紅白を)実施したい」と発言(『朝日新聞』1988年11月18日付朝刊、30頁)。その発言通りに開催された。
- ↑ (2011-12-21) 噂の深層 紅白歌合戦の裏舞台! リアルライブ [ arch. ] 2011-12-31
- ↑ 多くの出場者は本番組の後にTBS系で放送されるCDTVスペシャル!年越しプレミアライブにも出場している。
- ↑ 一方1981年・第32回では、民放版『ゆく年くる年』のメインパーソナリティーに決まっていたさだまさしが、前後時間帯の民放生番組に出演することを理由に落選したという事例がある(合田『紅白歌合戦の真実』)。
- ↑ 2008年・第59回での木山裕策、ジェロ。2013年・第64回での福田こうへい。
- ↑ 1995年・第46回での岡本真夜。
- ↑ 2003年・第54回での倉木麻衣。
- ↑ 2003年・第54回に出場したZONEのメンバーであるTAKAYO、2013年・第64回に出場したEXILEのリーダー兼パフォーマーであるHIRO。
- ↑ 2005年・第56回におけるモーニング娘。。
- ↑ 2014年・第64回に出場したAKB48のメンバーである大島優子。
- ↑ 太田『紅白歌合戦と日本人』
- ↑ http://news.livedoor.com/article/detail/7174889/ サーチナ(2012年11月26日)
出典・参考文献[編集]
- NHKウイークリーステラ臨時増刊『紅白50回〜栄光と感動の全記録〜』(NHKサービスセンター 2000年1月)
- 50回を記念して出版されたカラー版のムック。紅白の公式記録的な性格を持つ。
- 合田道人『怪物番組紅白歌合戦の真実』幻冬舎、2004年11月 ISBN 4-344-00702-6 『紅白歌合戦の舞台裏』全音楽譜出版社、2012年12月
関連項目[編集]
- 日本放送協会(NHK)
- 紅白音楽試合
- NHKホール
- 思い出のメロディー(「夏の紅白」と呼ばれている)
- ゆく年くる年
- 今夜も生でさだまさし(『新春生放送 年の初めはさだまさし』)
- 日本レコード大賞(TBS系列で生中継)
- 年忘れにっぽんの歌(テレビ東京系列で生放送される裏番組)