佐藤信二
日本の政治家 佐藤 信二 (さとう しんじ) [[画像:|0200px|佐藤 信二]]
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生年月日 | 1932年2月8日 |
出生地 | 山口県熊毛郡田布施町 |
没年月日 | 2016年5月3日 |
死没地 | |
出身校 | 慶應義塾大学 |
前職 | 会社員 |
現職 | |
所属政党 | 自由民主党 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | 比例区中国ブロック 全国区
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当選回数 | 1回 7回 1回
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元首 | |
称号・勲章 | 勲一等旭日大綬章 大綬景星勲章 |
世襲の有無 | 2世 |
親族 | 佐藤栄作(父) 岸信介(伯父) |
配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
第60代運輸大臣 | |
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内閣 | 竹下改造内閣 |
就任期間 | 1988年12月27日 |
第61代通商産業大臣 | |
内閣 | 第2次橋本内閣 |
就任期間 | 1996年11月7日 |
衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 2003年11月9日 |
衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1979年10月7日 |
参議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1974年7月8日 |
その他の職歴 | |
佐藤 信二(さとう しんじ、1932年2月8日 - 2016年5月3日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。勲等は勲一等。衆議院議員永年在職表彰受彰。
第61、62、63代内閣総理大臣佐藤栄作の次男。
経歴[編集]
山口県熊毛郡田布施町出身。東京都立大学附属高等学校を経て慶應義塾大学法学部卒業後、日本鋼管株式会社に入社。
1974年の第10回参議院議員通常選挙全国区で初当選。沖縄開発庁政務次官を務める。1979年の第35回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に初当選。
田中派→竹下派→小渕派に属し、運輸大臣・通商産業大臣を歴任したが、1998年の自由民主党総裁選挙では領袖・小渕恵三を推す派の意向に反して出馬した梶山静六を支持し派を離脱した。
1994年の公職選挙法改正(小選挙区比例代表並立制施行)以降の選挙では、1996年の第41回衆議院議員総選挙に際し、小選挙区(山口県第2区)に出馬し当選。しかし、2000年と2003年の衆院選では民主党の平岡秀夫に連敗。2003年総選挙では比例区中国ブロックで復活当選した。比例名簿では当選最下位であったため、引退した宮沢喜一が終身比例名簿1位のままであれば落選になっていた。
2005年7月5日の郵政国会の衆議院本会議の郵政民営化法案の採決では欠席して造反。2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退した。通算当選8回(参1回)。なお、急な引退表明をする一方で後継者指名をしなかったため、自民党山口県連は早急に山口2区での候補者選定を迫られることになった。自民党の後任候補は公示9日前に福田良彦を擁立することになった。
2008年2月18日、台湾の陳水扁総統から、日華議員懇談会の前会長として長年・日台友好に寄与した功績から、「大綬景星勲章」を平沼赳夫とともに授与された。
台湾高速鉄道の日本連合受注に大きく貢献した。
2009年12月、東京都世田谷区代沢の私邸に保管していた、沖縄返還にあたり有事の際にはアメリカ軍が沖縄に核兵器を非核三原則に違反して持ち込む事を容認する、父・栄作と大統領リチャード・ニクソンの秘密合意書(詳細は日米核持ち込み密約問題を参照のこと)を公開した(なお、機密文書を持ち帰ったのは栄作である)。「外交資料館での保管を要請したが断られた」との報道が行われた。
栄典[編集]
家族・親族[編集]
系譜[編集]
- 佐藤家(佐藤氏系譜(武家家伝))
- 佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信であるという口伝がある。確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文2年(1662年)頃から萩藩の士となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士であり、この待遇はその後もあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず4代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。7代目の佐藤嘉津馬は安永8年(1779年)12歳で病死する。佐藤家はこの7代まで現在の山口市南部にあたる大内町御堀の周辺に住んだ。7代目の嘉津馬夭折の後、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の3男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝であり、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。寛作信寛は長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家吉田松陰に兵要録を授けた。明治になると、島根県県令、浜田県権知事等の要職に就いた。信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。秀助は山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を始めた[1]。佐藤家の家紋は“源氏車”である[2]。[3]
┏昭和天皇━━━━━━━━━今上天皇 明治天皇━━━大正天皇━━━━━┫ ┗三笠宮崇仁親王━━━━━━寬仁親王 ┃ ┏彬子女王 ┣━━━━━┫ 麻生太賀吉 ┃ ┗瑶子女王 ┃ ┏信子 ┣━━┫ ┃ ┗麻生太郎 ┏和子 吉田茂━━━━┫ ┗桜子 吉田祥朔 ┃ ┣━━━━━吉田寛 ┏さわ ┃ ┏寛子(栄作夫人) ┣佐藤松介━━┫ ┃ ┗正子 佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━━佐藤信彦━╋佐藤寛造 ┃ ┃(池上) ┣佐藤作造 ┃ ┗茂世 安倍晋太郎 ┃ ┃ ┣━┳佐藤市郎 ┣━━━━━安倍晋三 ┃ ┃ ┃ (佐藤)┃ ┃(佐藤) ┃ ┏岸秀助 ┣岸信介━━洋子 ┃ ┃ ┃ ┃ 岸要蔵━━┫ ┗佐藤栄作━┳佐藤龍太郎━━佐藤栄治 ┃ ┃ ┃ ┗佐藤信二 ┗岸信政━━良子 ┃ (信介夫人) ┃ ┃ 安西浩━━━━和子
関連[編集]
脚注・出典[編集]
官職 | ||
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先代: | 通商産業大臣 第61代:1996年 - 1997年
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次代: |
先代: | 運輸大臣 第60代:1988年 - 1989年
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次代: |