牧野伸顕
日本の政治家 牧野伸顕 まきの のぶあき 牧野 伸顕
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生年月日 | 1861年11月24日(文久元年10月22日) |
出生地 | 薩摩国鹿児島城下加治屋町 |
没年月日 | 1949年1月25日((1949-1861)+((1-11)*100+(25-24)>=0)-1歳没) |
死没地 | |
出身校 | 大学校(中途退学) |
前職 | |
現職 | |
所属政党 | |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | |
当選回数 | |
元首 | |
称号・勲章 | 従一位 勲一等旭日桐花大綬章 伯爵 |
世襲の有無 | |
親族 | |
配偶者 | 牧野峰子 |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
第27代外務大臣 | |
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内閣 | 第1次山本内閣 |
就任期間 | 1913年2月20日 |
第24代農商務大臣 | |
内閣 | 第2次西園寺内閣 |
就任期間 | 1911年8月30日 |
第30代文部大臣 | |
内閣 | 第2次西園寺内閣 |
就任期間 | 1912年11月9日 - 1912年12月21日
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第27代文部大臣 | |
内閣 | 第1次西園寺内閣 |
就任期間 | 1906年3月27日 |
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内閣 | |
就任期間 | -
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その他の職歴 | |
内大臣 1925年 1921年 | |
牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日(文久元年10月22日) - 1949年(昭和24年)1月25日)は明治から戦中にかけての政治家。
大久保利通の次男であり、吉田茂の義父でもある。麻生太郎と武見敬三、牧野力は曾孫である。
位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。名はシンケンと通称されることもある(有職読み)。以前の諱は是利。
人物像・経歴[編集]
1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬小路に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の二男として生れた(幼名は伸熊)。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
1871年(明治4年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、大学校(後の東京帝国大学)に入学する。1880年(明治13年)、大学校を中退して外務省入省。ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。
その後、福井県知事、茨城県知事、文部次官、オーストリア大使、イタリア大使等を経て、第1次西園寺内閣で文部大臣、第2次西園寺内閣で農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣で外務大臣となる。この時期の牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。1919年(大正8年)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。一行の首席は西園寺公望であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿吉田茂などがいた。パリ講和会議では日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っている。
1921年(大正10年)、宮内大臣に就任し、大久保侯爵家に連なることから特に子爵を授爵。穏健な英米協調派で自由主義的傾向がつよい牧野を宮内大臣に推したのは、天皇および宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った元老の西園寺公望の意向であるという。これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。
1925年(大正14年)、内大臣に転じ、1935年(昭和10年)まで在任。退任とともに伯爵に陞爵する。牧野に対する天皇の信頼は厚く、この多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。後任の内大臣に湯浅倉平を推薦し、牧野はその後も宮中、外交への影響力を保持し続けようとした。
1936年(昭和11年)、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、近親者の機転によって窮地を脱した。
第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼はおとろえず、数度宮中に招されて意見具申をしたこともある。
戦後はオールド・リベラリストの一人として評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に押す声さえあったが、老齢のため二度と政治の世界に復帰することはなかった。
1949年(昭和24年)1月25日死去、享年87。死後ほとんど財産らしきものは残っていなかったという。
著書に『松濤閑談』創元社、『牧野伸顕回顧録』(孫の吉田健一・中村光夫等が筆記、新版が中公文庫上・下、1977年)がある。また、『牧野伸顕日記』(中央公論社、伊藤隆・広瀬順皓編)が1990年に刊行。
日本棋院初代総裁。また、シャーロッキアンの草分け的存在としても有名。
栄典[編集]
- 大正9年9月7日: 勲一等旭日桐花大綬章
家族 親族[編集]
外部リンク[編集]
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歴代の外務大臣 |
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外務大臣(太政官達第69号) |
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎 |
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号)) |
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吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号)) |
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