ロッキード事件
ロッキード事件(ロッキードじけん)とは、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件。
この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では、「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。なお、肩書きはいずれも当時のものとする。
目次
事件概要
この事件は、国内航空大手の全日本空輸(全日空)の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自由民主党衆議院議員で前内閣総理大臣の田中角栄が、1976年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された事件である。
また、田中以外に運輸政務次官佐藤孝行や元運輸大臣橋本登美三郎2名の政治家が逮捕されたほか、全日空社長の若狭得治、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ暴力団やCIAと深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出し、また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。
この事件は1976年2月にアメリカ合衆国上院で行われた上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。
なお事件の発覚に先立ち、月刊誌「文藝春秋」1974年11月号掲載の立花隆による「田中角栄研究~その金脈と人脈」や児玉隆也による「淋しき越山会の女王―もう一つの田中角栄論」にて金権体質が指摘されたことが反響を呼び、田中は1974年11月26日の自民党総裁辞任表明へ追い込まれた。同年12月9日には首相を辞職しており、田中の辞職を受けて行われた党内実力者の話し合いにより、自民党副総裁椎名悦三郎の椎名裁定で、「クリーン三木」と呼ばれる三木武夫が首相に就任した。
椎名は田中の将来の復活を鑑みて、本格政権になると思われた有力候補の福田赳夫や大平正芳を回避し、「暫定政権」の含みを持たせて少数派閥の三木を選んだとされており、実際に田中はその後も自民党内で大きな影響力を持ち続けていた。
経緯
トライスターの販売不振
1970年11月に初飛行し、1972年4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社初のジェット旅客機として同社の威信をかけて開発されたもので、中二階の客室、貨物室構造にエレベーターが設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。ロッキード社は、レシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの民間機市場での地位は低下してしまっていた。そこで、ロッキードはこのトライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。
しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスのDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争にさらされており、またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジン「RB211」の開発が難航[1]、これによるロールス・ロイス社の破産や国有化などの混乱によって遅れをとり、日本においても既に全日空のライバルで、フラッグ・キャリアである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めたほか、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。
全日空のDC-10の仮発注
全日空は、1966年に起きた連続墜落事故の後に整備や安全運航面における不備を指摘された上に[2]、事故を受けた営業面での打撃や遺族への慰謝料支払いによる出費[3]を受けて経営不振に陥り、政府と大株主となった日本航空の支援の元で、整備や運行安全面の拡充と経営再建を進めていた。
しかし1970年代に入ると、政府と日本航空の支援を受けて経営状況が好転した上に「45/47体制」により国内線における安定的な地位を得られたことに併せ、高度経済成長に伴う旅客数増加に対応すべく、札幌で冬季オリンピックが行われる1972年を目途に「次期大型旅客機」として大型ワイドボディ機の導入を考慮し始め、1967年に日本航空から副社長として派遣された(1969年に社長へ就任)大庭哲夫[4]を中心に選定作業が進められていた。
候補となった3機のうち、先進性を理由に全日空の技術部門が推していた[5]L-1011 トライスターは上記のようにエンジンの開発が遅れたために納入が1974年頃になってしまうことから選択肢から外れた。また、ボーイング747SRは全日空の当時の企業規模からすると大きすぎると判断され[6]、最終的に大庭社長が推していたマクドネル・ダグラスDC-10が候補に残り、1970年5月に三井物産(日本における販売代理店)を通じ、3機を仮発注した。
大庭社長の追い落とし
しかし、大庭社長を代表する日本航空から派遣された幹部と全日空生え抜きの幹部の対立が深まる中で[7]、同月に、発注を推進していた大庭が「M資金関連の詐欺事件に巻き込まれた」という趣旨の怪文書を流された挙句、株主総会の直前に不可解な形で社長の座を追われることとなり、元運輸次官で全日空生え抜きの幹部との関係が深いと言われた[8]若狭得治が大庭の後釜に就いた。
その後の1971年2月に、運輸大臣橋本登美三郎が「日本の航空会社によるエアバス(大型ワイドボディ機を指す)の導入は1974年以降にすることが望ましい」と発言したことを受け、同年3月31日に運輸省から同様の趣旨の行政指導が行われたため、導入自体が延期された。しかし1972年初頭には、全日空がの大庭の決定通りにマクドネル・ダグラスDC-10を正式発注することが確実になり、実際に引き渡し予定のマクドネル・ダグラスDC-10がロングビーチの工場で完成している状態であった[9]。
不可解なトライスター発注
しかしその後、若狭によって急遽L-1011 トライスターを再度「次期大型旅客機」の選択肢に乗せることが提案され、大庭亡き後に実権を握った若狭を中心に全日空社内で検討が進められた結果、仮発注を行っていたマクドネル・ダグラスDC-10の正式発注が土壇場で覆され、10月30日に若狭は、同社がL-1011トライスターを発注したことを発表した。
なお、この発注に先立つ1972年9月1日にハワイのホノルルで行なわれた日米首脳会談において、カリフォルニア州選出で地元のバーバンクにロッキード社の本拠地を抱えるニクソンより、田中に対して全日空へのL-1011 トライスター機の購入を働きかけたという噂が上がった。なおこの際に田中は当時小佐野が所有していたサーフライダー・ホテルに宿泊している。
その上、同月に東京で行われた日英首脳会談でも、イギリス首相のエドワード・ヒースが田中に対して、イギリスのロールス・ロイス社製ジェットエンジンを搭載したL-1011 トライスター機の購入を強力に働きかけていたことが、2006年に公開されたイギリス政府の機密文書で明らかになった(なお、ライバルのマクドネル・ダグラスDC-10にはロールス・ロイス社製のジェットエンジンは搭載できない)。
その後の1974年1月には、橋本の発言に合わせたかのようなタイミングで初号機が全日空に納入され、同年2月には東京国際空港に到着し間もなく全日空はL-1011 トライスターの運航を開始したが、この様な不可解な形での全日空によるL-1011 トライスターの再検討及び発注はスキャンダル視されることはなかった。なお田中は月刊誌「文藝春秋」同年11月号掲載の立花隆による「田中角栄研究~その金脈と人脈」や児玉隆也による「淋しき越山会の女王―もう一つの田中角栄論」にて金権体質が指摘されたことが反響を呼んだ上に、同月に行われた日本外国特派員協会における会見で多くの外国人記者からの追及に返答ができなくなるなど追い込まれ、同年12月9日には首相を辞職することとなる。
チャーチ委員会
田中が首相を辞任した約1年3カ月後、そして全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年2月4日に、アメリカ合衆国上院で行われた多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行なわれていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。
なお、この公聴会上では、1950年代後半に行なわれていた同社の航空自衛隊への売り込みに際して、1958年の時点で航空自衛隊がグラマン社のG-98J-11を採用することがいったん決まっていたにも拘らず、土壇場でロッキード社のF-104を正式採用することになった件につき、ロッキード社が日本政界への賄賂として多額の資金を児玉に渡していたことが併せて明らかにされている。また、トライスター機導入とほぼ同時に進められていた航空自衛隊次期対潜哨戒機の選定に関しても、「国産機を採用する」という当初の方針が、田中の「判断」によりロッキード・P–3Cの導入へと急転換されたことが分かっている。
明らかになっていく「工作」
さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・カール・コーチャンと元東京駐在事務所代表ジョン・ウイリアム・クラッターが、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として21億円あまりを渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。
また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳の福田太郎が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。
さらに1970年には、全日空でマクドネル・ダグラスDC-10の導入を進めていた大庭を追い落とし若狭を後釜に据えるために、児玉が傘下の総会屋を使って「大庭社長がM資金関連の詐欺事件に巻き込まれた」という内容の怪文書を流したことや、1972年には、当時社会的問題となっていた大阪国際空港の騒音問題に絡み、児玉の関連会社の手によって空港周辺の住人に対してL-1011 トライスター機の騒音の低さを訴えたパンフレットが数万部単位で配布されるなど、ロッキードからの資金を受けた児玉による様々な方面からの活動がマスコミの調査によって明らかになっている。
全日空疑獄
さらに若狭の意を受けた全日空の生え抜き組の幹部が、ロッキードから受け取った資金の一部を裏金として処理し、国際チャーター枠の拡大や全日空が就航する地方空港の整備、全日空がトライスターを導入するまでの間に日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の運航を開始しないようにするために、運輸大臣がワイドボディ機の導入を遅らせる旨の勧告を出すように仕向けるなど、全日空に有利な政策を勝ち取るため、「航空族」の政治家や運輸官僚への賄賂をねん出していたことが明らかになり、この件は「全日空疑獄」や「全日空ルート」と呼ばれるようになった[10]。
全日空はこの事件によって、元運輸官僚の若狭社長のもとで政治家や運輸官僚に贈賄を行うことで事業の拡大を図ったことが明らかになり、若狭以下の幹部が逮捕され多くのマスコミからの批判を浴びた。しかし「ロッキード事件」という大きな枠の中で、平常時なら大きな事件となるはずの全日空による贈賄と、政治家や運輸官僚の収賄に対する追及は尻すぼみになり、数十人程度いたと言われる収賄側への追及はなされないままとなってしまった[11]。
衆議院予算委員会
チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、大庭、丸紅会長の檜山廣や専務・大久保利春、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良などが証人喚問され(なお「病床」にあった児玉誉士夫は病院で臨床尋問を受けた)、この模様は全国にテレビ中継された。
捜査
捜査開始
その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領のジェラルド・フォードに対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。
また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。
三木は、外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日キッシンジャーと会談させて米側の資料提供を求めた。米政府は同月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意した[12]。
「ロッキード隠し」
捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大したものの、明らかにライバルの田中をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。
また、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が、事件捜査の進展を急ぐ三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中前首相と椎名が会談し三木退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。国民やマスコミはこのような動きに対して「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、このような声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。
一方、吉永祐介を捜査主任とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し起訴に持ち込んだが、三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、三木の政敵である田中の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。
「三木おろし」
この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として「三木おろし」が再燃、田中の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。三木は9月に内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にする。
三木は党内分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎える。1976年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就くことになった。なお、この選挙において田中は新潟3区から出馬、16万8522票を獲得しトップ当選を果たした。
怪死
このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、複数の事件関係者が立て続けに急死(ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄が1976年2月14日、上記の福田太郎が同年6月9日、さらに田中角栄の運転手・笠原正則が同年8月2日)するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって暗殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。
しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において、社会党参議院議員の秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。
その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、なぜか警察はその後も政治家以外の民間人(「自ら(関係の深い暴力団)の手」で身辺保護が可能な小佐野や児玉は除く)に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。
裁判
田中角栄他、政治家
衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。
田中は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。
田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。
なお、田中は下級審有罪判決後も衆議院議員を辞任せず、その後の選挙でも地元新潟の有権者が田中を国会に送り続けたことや、いわゆる田中派が長らく自由民主党内での最大派閥の座を維持したことから、「闇将軍」などと呼ばれ、逮捕後の総理総裁擁立及び政権人事に影響力を与えた他、1987年に発生したいわゆる「皇民党事件」(田中の有罪判決後に袂を分かった竹下登に対する嫌がらせを止めるために暴力団が関与した事件)にその名が取りざたされるなど、その後も政界に大きな影響力を維持した。
田中の秘書官の榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中首相の5億円収受を認定した。
受託収賄に問われた橋本登美三郎と佐藤孝行も、1976年8月に相次いで東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕された。逮捕後に橋本と佐藤は自由民主党を離党した。橋本は逮捕されたこともあり1980年に行われた衆議院選挙に落選して政界から引退。その後1審、2審で有罪判決を受けるも、上告中の1990年に死亡したために公訴棄却となった。佐藤は1審、2審で有罪判決となり執行猶予付きの有罪が確定した。しかし執行猶予期間終了後に自民党に復党し、宮沢喜一政権下で自民党総務会長などの要職を歴任。1997年に総務庁長官で初入閣するも、ロッキード事件で有罪が確定した政治家の閣僚入りに世間の反発を招き、わずか12日で辞任した。
児玉誉士夫
児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称し自宅にこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や検察に対する批判も集中した。その後児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に児玉の豪邸へ小型軽飛行機による自爆テロ(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)を行なったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。
その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年1月に死亡した。
小佐野賢治
小佐野は、1976年2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が議院証言法違反にとわれ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年10月に小佐野が死亡したために被告死亡により公訴棄却となった。
全日空幹部
若狭の意を受けた全日空の幹部が、ロッキードから受け取った資金の一部を裏金として処理し、国際チャーター枠の拡大や全日空が就航する地方空港の整備など、全日空に有利な政策を勝ち取るための「航空族」の政治家や運輸官僚への賄賂をねん出していた、いわゆる「全日空疑獄」[13]、「全日空ルート」の贈賄側とみなされた若狭が1976年7月に外為法違反容疑および議院証言法違反により逮捕、起訴された他、その前後にも副社長の渡辺以下多数の社員が芋づる式に逮捕、起訴された。
この様に部下の多くが逮捕された上に、自身も刑事被告人の立場であるにもかかわらず若狭は同年に全日空会長に就任し、社内だけでなく株主やマスコミからも大きく批判された。しかし全日空及び若狭はこれを無視し続け、その後1991年(平成3年)には名誉会長に就任した。
翌1992年(平成4年)9月に最高裁判所は若狭に対し懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下したものの、続けて会長の座に居座り続けた挙句、1996年(平成8年)に日本航空協会会長に就任し、その後も「航空業界のドン」として君臨しつづける土台を作った。その上、翌1997年(平成9年)には当時の全日空の社長である普勝清治の後継をめぐり社内抗争を展開するが、社内外から多くの批判を浴びたことを受けて相談役に退き、2005年に死亡した。
「丸紅ルート」
「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山広は1976年7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年に田中元首相の秘書の榎本とともに最高裁判所で実刑が確定されたものの、高齢のため執行停止となり、収監されないまま2000年に死去した。この間も1985年から1999年まで丸紅名誉顧問を務めた。
なお、2000年代に入り他の被告も次々と病死し、2010年1月現在、生存するロッキード事件の元被告は榎本、佐藤孝行、太刀川恒夫の3人のみとなった。
その後
全日空が発注したDC-10
全日空が発注キャンセルしたものの、既に製造中であったマクドネル・ダグラスDC-10は3機あったが、マクドネル・ダグラス社はトライスター導入によりキャンセルとなったDC-10を売れ残った他の機体と共に各国の航空会社にダンピング販売(通称ホワイトテールと呼ばれる)した。
そのうちの2機は、格安航空会社のレイカー航空に三井物産経由で販売された。また、1機がトルコ航空に販売され、のちに1974年にトルコ航空DC-10パリ墜落事故を引き起こした(この事故の原因はマクドネル・ダグラスDC-10の設計上の欠陥により後方の貨物室ドアが完全に閉まらない問題により与圧と外気圧の気圧差によりドアと共に油圧装置ごと吹き飛んだ事による物であった。しかもダグラス社は、この問題を認知しながら小規模な改良のみを施し欠陥を放置していた。さらには事故機の製造書類では改修工事が行っているとされていたにもかかわらず、実際には改修工事をしておらず欠陥が放置されていた)。
全日空に納入されたトライスター
全日空はL-1011 トライスターを事件発覚前の1974年2月から随時導入し、事件が明らかになった後も導入を続けて最盛期には21機保有した。
全日空は同機を国内線の主要機種として、また1986年に初就航した国際線の主要機種として使用したものの、1979年から始まったより大型なボーイング747SRの導入や、1985年から始まったより燃費効率に優れるボーイング767やボーイング777の導入を受けて、1995年を最後に全機退役させた。
全日空での運航中に人身事故や全損事故を起こしていない全日空にとって稀有な機種のひとつでもある。先述のトルコ航空の事故の欠陥放置と合わせて見れば、怪我の功名とも言える皮肉な結果であると言えよう。
多論
諸説
中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている[14]。
その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表・クラッターが、無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が誤って上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソビエト連邦やアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中華人民共和国と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が田原総一郎の書いた記事などで当時から有力だが、田中による中華人民共和国との国交成立に反発していた右翼や自民党福田派、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。
誤配説について
ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判るとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。また、当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。
コーチャンとクラッター
また、コーチャン、クラッター両名が起訴されていない点については、
両名に対する嘱託尋問がアメリカで行なわれるのに際して、アメリカに在住する両名は当初証言を拒否し、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察が刑事訴訟法第248条に基づき事実上の免責を与えたのが直接的な理由である(日米犯罪人引渡し条約の発効は1980年、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて1997年)。その点を考慮すれば両名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。
なお、両名の嘱託証人尋問調書は一審・二審で証拠として採用されたが、最高裁は共犯者に免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる制度を日本の法律は想定していないとして嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。もっとも、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。
ロッキード事件にかかわる問題点
不自然な金銭の受け渡し場所
調書によれば、トライスター機を日本が購入するにあたって、田中角栄側はロッキード社から丸紅を通じて、4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、伊藤宏丸紅専務と田中の秘書である榎本敏夫とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は、1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路にとめた車の中にて、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前にて、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラの駐車場にて、4回目が同年3月1日8時ごろに伊藤の自宅にてとなっている。
1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。
なお、3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りにあいかねない場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡は、当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は、「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。
田原が、榎本にインタビューしたところ、榎本は4回に授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が、事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の堀田力は、「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている[15][16]。
金額の不一致(政治主義裁判)
ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは「政治主義裁判」である可能性がある。
他方で、問題にすべきは事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。
公訴権の乱用の可能性
三木武夫総理大臣と稲葉修法務大臣による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に三権分立制を危うくさせ、司法の行政権力への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。宮沢喜一外務大臣が日本政府がアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「If any(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを三木に進言したのに対し、三木は「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けており、最初から見込み捜査に加担した。また、三木が渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わせていたことが判明している。また、検事総長への指揮権を持つ稲葉法相は田中首相逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。
他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。例えば田中逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。
不当逮捕の可能性
「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれを為すという政治主義性という問題があるとする主張もある。しかしながら、田中の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。
“作文”調書の可能性
各被告の供述証書(検事調書)が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明している、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。しかし検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また、一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。
流行語
事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。
- (ぜんぜん)記憶にございません
- 衆議院予算委員会にて最重要参考人と目される小佐野賢治が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ質問に対する本質的解答をしない意味をもつこの発言を連発。なお、これ以降は他の証人も同等の言葉を多用するようになった。
- ピーナツ(ピーシズ)
- 賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの。100万円を「1ピーナツ」と数えていた。なお「ピーシズ」はpieces、つまりピースの複数形。
- ハチの一刺し
- 田中の元秘書で、事件で有罪となった榎本敏夫前夫人の三恵子が、榎本に不利な法廷証言を行なった心境について述べた言葉。
- よっしゃよっしゃ
- 田中が全日空への工作を頼まれたときに発したとされる言葉。
他国における「ロッキード事件」
オランダでは、空軍における戦闘機(F-104を売り込んでいていた)の採用をめぐって、女王ユリアナの王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかにされた。これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。
イタリアでは、C-130の採用を巡り、大統領ジョヴァンニ・レオーネが首相在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出、レオーネは任期を半年残して辞任に追い込まれた。
テレビドラマ
2003年、日本テレビにより、よど号ハイジャック事件をドラマ化した「よど号乗っ取り事件 史上最悪の122時間」(2002年9月23日放送)に続く実録ドラマ第2弾として、当時取材に当たった毎日新聞記者の目線からこの事件を描いたストーリーの2時間半ドキュメンタリードラマ「戦後最大の疑獄事件 ロッキード事件〜その真実とは〜」が制作され、同年12月29日に放送される予定だったが、「編成戦略上の理由」[17]として放送延期となり、それ以後現在に至るまで未放送となっている。
スタッフ
キャスト(発表分)
- 板垣雅夫:阿部寛
- 澁澤重和:長嶋一茂
- 才木三郎:大鶴義丹
- 山本祐司:今井雅之
- 中島健一郎:榊英雄
- 田中角栄:津川雅彦
- 牧内節男:本田博太郎
- 小佐野賢治:長門裕之
- 高瀬禮二:須永慶
- 水野:菊池隆志
- 小木曽国隆:酒井康行
- 寺田健一:拳武秀旭
注釈
- ↑ RB211には軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材のファンブレードではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、金属製のファンブレードを新たに開発中だった。
- ↑ 「1機当たりの整備員が、日航の51.7人に対して全日空は14.4人しかいず」『田中角栄研究~その金脈と人脈』P.119 立花隆著 1982年 講談社文庫
- ↑ [http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/058/1388/05804121388003a.html 第058回国会予算委員会第三分科会 第3号 1968年4月12日]
- ↑ nifty辞書
- ↑ 『ANA SKY STORY』(2009年 イカロス出版 P113)
- ↑ 後に乗客数と需要の増加に対応するため1979年に導入した
- ↑ 『田中角栄研究』P.121 立花隆著 1982年 講談社文庫
- ↑ 『田中角栄研究~その金脈と人脈』立花隆著 1982年 講談社文庫
- ↑ 後に納入予定のうちの1機が欠陥による事故で全損する。詳細は後述
- ↑ 『田中角栄研究 全記録(下)』P.336 立花隆著 1982年 講談社文庫
- ↑ 『田中角栄研究 全記録(下)』P.320 立花隆著 1982年 講談社文庫
- ↑ 奥山俊宏 (2010-03-07) 奥山俊宏 [ 「自民離脱、信問う」示唆:三木元首相が米政府に密使:ロッキード事件 ] 13版、38面 [ arch. ]
- ↑ 『田中角栄研究 全記録(下)』P.336 立花隆著 1982年 講談社文庫
- ↑ 中曽根康弘『大地有情』1996年 271, 472頁
- ↑ 『検察を支配する「悪魔」』(田原総一朗・田中森一の共著 講談社、 2007年12月)ISBN 9784062144537
- ↑ vol.32 昭和51年 ロッキード事件(1-3) - 振り返る昭和 - 地球発 - [どらく 「田中角栄」という宿題 文:田原総一朗(ジャーナリスト)]
- ↑ 朝日新聞 2003年12月9日記事
参考文献
- 立花隆 『田中角栄研究-全記録』上下 (講談社)
- 立花隆 『ロッキード裁判批判を斬る』全3巻 (朝日新聞社)
- 堀田力 『壁を破って進め-私記ロッキード事件』上下 (講談社)
- 徳本栄一郎 『角栄失脚 歪められた真実』 (光文社 著者は訴訟資料を再調査した元ロイター記者 )
- 木村喜助 『田中角栄の真実』 『田中角栄 消された真実』(弘文堂 著者は一審から上告審まで担当した弁護士)
- 田原総一朗 『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』 (講談社プラスアルファ文庫)
- 小室直樹 『田中角栄の遺言』 (ザ・マサダ)『田中角栄の呪い』 (光文社)
- 井上正治 『田中角栄は無罪である。』 (講談社)
- 秦野章 『何が権力か』 (講談社)
- 小山健一 『私だけが知っている「田中角栄無罪論」』 (講談社出版サービスセンター)
- 田中角栄を愛する政治記者グループ 『田中角栄再評価 ― ロッキード事件も無罪だった!?』 (蒼洋社)
- 早坂茂三 『怨念の系譜』 (東洋経済新報社)
- ロッキード裁判とその時代(1),(2) 朝日新聞
- ロッキード事件疑獄と人間 朝日新聞社
- ロッキード事件「葬られた真実」講談社
- 権力者たちの狂宴 ―戦後政治とロッキード・スキャンダル 人間の科学社
- 「ロッキード」とは何か すずさわ書店
- ロッキード売り込み作戦―東京の70日間 朝日新聞社
- スポーティーゲーム―国際ビジネス戦争の内幕 學生社
- 「田中裁判」もう一つの視点―ロッキード捜査と一審判決への疑問 時評社