小佐野賢治
小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年2月15日 - 1986年10月27日)は、昭和期の実業家。国際興業バスで知られる国際興業の創業者である。
来歴・人物[編集]
1917年(大正6年)、山梨県東山梨郡山村(現甲州市勝沼町山地区)の農家小佐野伊作・ひらの夫妻の長男として生まれる。生家は非常に貧しく、幼いころは自宅さえもなく村の寺の軒先を借りる生活であったといわれる。小学校へ入学すると家計を助ける為に、毎朝午前3時に起床して新聞配達を行っていた。
1931年(昭和6年)尋常小学校高等科を卒業。1933年(昭和8年)に上京し、自動車部品販売店へ就職。勤務態度は非常に真面目であったといい、三年後には店を取り仕切るようになる。その後別の店に引き抜かれ業績を上げるが翌年に倒産。
1937年(昭和12年)、身体は当時としては大きい170cmのがっしりした体躯であり徴兵検査に甲種合格。 1938年(昭和13年)に陸軍に入隊し中国へ配属。右足に銃弾を受け負傷する。同年年末には院内でマラリアと思われる急性気管支炎のため内地送還となる。
1940年(昭和15年)に再上京、東京トヨタ自動車に入社して商売を勉強。翌年1941年(昭和16年)東京芝区(現東京都港区)で自動車部品業「第一商会」を設立。軍需省からの受注を受けることに成功し、1943年(昭和18年)には軍需省の民間無給委託(高等官二等で佐官待遇)となる。
1945年(昭和20年)からホテル業務を開始。終戦直後の経済活動が停止し現金のない最中に、根津嘉一郎と五島慶太が、小佐野にそれぞれ熱海ホテル、山中湖ホテル、強羅ホテルの売買を持ちかけた。小佐野はこれに応じて、先行きの見えないこれらの観光資産を買収。この強羅ホテル売買交渉を機会に売主であった五島慶太の知遇を得る。 1946年(昭和21年)、東京観光自動車と東都乗合自動車を東京急行電鉄から譲り受けてバス事業に進出。翌1947年(昭和22年)、社名を国際興業とする。この年旧伯爵家の令嬢堀田英子(旧下総佐倉藩堀田家出身)と結婚した。
1948年(昭和23年)、ガソリンの不正使用の疑いでGHQにより逮捕される。同年9月重労働1年、罰金74,250円の判決を受け服役。1949年(昭和24年)3月に仮釈放。
刑期後も精力的に事業を拡大。1950年(昭和25年)田中角栄が社長を務める長岡鉄道(現越後交通)のバス部門拡充に協力したのを切っ掛けに親交を深めた。
1976年(昭和51年)ロッキード事件に絡み衆議院予算委員会に第1回証人として全日空社長の若狭得治、丸紅の伊藤博とともに出頭。その際の証言が議院証言法違反にとわれ1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決(判決言い渡し翌日には控訴)。その後被告死亡により公訴棄却。
係争中の1985年(昭和60年)に帝国ホテル会長職に就任。犬丸一郎を、帝国ホテルのメインバンクである第一勧業銀行の反対を押し切り社長昇格させる一方、第一勧業銀行出身の藤居寛を副社長に就任させた[1]。
1986年(昭和61年)10月27日、入院先の虎の門病院で死去。享年69。すい臓ガンの手術を受けていたが、直接の死因はストレス性潰瘍だったという。戒名は大乗院殿興栄経国宗賢日治大居士。
遺産のうち美術品は美術館に寄贈され、また山梨県の発展を目的とした小佐野記念財団が設立されている。
逸話[編集]
- がっしりしていたために相当大柄にみえたといわれる。また若くして前頭髪が殆ど抜け落ちていたこともあり、20歳代で50歳代に間違われるほど老けて見えたという。
- 徴兵検査の際、検査場に小佐野は車で乗りつけ周囲を驚愕させたといわれる(当時は車に乗れるのはごく限られた金持ちだけだったため)。
- 雇われていた頃には経営者との反りが合わず、業務遅延が頻発しまるでストライキのようだったという。
- 政財界と暴力団の橋渡しを行っていたと噂され、当時のマスコミからは裏世界の首領、黒幕、政商とあだ名された。
- 「昭和の政商」「政財界の黒幕」とマスコミの中傷や誤ったイメージを植付けられたために、小佐野はマスメディアへの露出を極端に嫌っていた。
- 実際の小佐野は物静かで物腰の軟らかい温厚な紳士であり、学歴がないことを卑下もせずまたコンプレックスに感ずることもない滅多に感情を表さない人間だった。言葉尻も穏やかで商取引の場面では相手に押し切られることもよく見受けられた。
- 人間関係を重視することから、採算の取れない会社の株の買取りおよび経営を移譲されることがしばしばあった。移譲された会社はほぼ全て経営が改善することから、小佐野のところには移譲の依頼ばかり入ってきて困ったという。
- 山梨交通を始め数多くの倒産寸前の会社を立て直し、かつ「人切り」をしない事業家としての評価は高い。その手法として主なものは徹底した現場主義と、不採算部門の大胆な整理といわれている。しかしそれの使い分けに彼の経営者としての直感が生かされており研究する価値が高い。
- 戦後間もない頃からハワイの観光資産価値を見出し、ワイキキの「モアナ・ホテル」や「ロイヤル・ハワイアン」等の、ハワイの名門ホテルのオーナーとなった。国内有名ホテルも買収していたこともあり「ホテル王」などと揶揄された時期もある。このハワイのホテル買収は、小佐野自身の資産を売却せずさらに外為法により国外への円の持ち出しが制限されていた時期にどう行ったのか今もって不明である。
- 日本航空および全日空の大株主となり航空業界への進出を狙っていたといわれるが、全日空への新型機導入に絡んだ「ロッキード事件」の発覚により頓挫したといわれる。
- 1976年に「ロッキード事件」により衆議院予算委員会にて証人喚問されたとき、ここで小佐野が何度も口にした「記憶にございません」は、この年の流行語となった。
- 田中角栄とは「刎頸の友」と呼ばれた。(これについては確かに角栄と小佐野は親しい間柄で仕事上では懇意にしていたものの「刎頚の友」とまで言える間柄ではなかったと早坂茂三や佐藤昭子の著書には著されている)
- ラスベガスなどでは小額しか使わず、ギャンブルにはのめりこむことがなかったといわれる。一方で浜田幸一など同行の友人には小佐野自身の金を与えて遊ばせたという。ちなみに浜田幸一は一度当時の金額で4.5億円負けた。
- 絶頂期に箱根のゴルフ場でゴルフをしている時に「あのバンカー潰せ」、と即断指示があったといわれ、ゴルフ場側はその日のうちにバンカーを整地したといわれる。バンカーの配置が一般客に取っては難しく、観光地のゴルフ場にはふさわしくないと判断してのことといわれ、鋭い直感による経営手法の一端をにおわせる。
- 最晩年、昭和の再建王と称される坪内寿夫に、自らが保有する造船会社(三重造船)の再建を依頼し、具体的なことまで決まり、あとは契約だけのところまできていたが、咄嗟の判断で坪内が手を引いた。そのときのストレスが原因で死去したといわれる。
家族[編集]
- 妻 英子(堀田伯爵家の娘)
- 子供はない
外部リンク[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1986/06/02,日本経済新聞、1987/05/25, 日本経済新聞