三浦義一
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三浦 義一(みうら ぎいち、1898年2月27日 - 1971年4月10日)は、日本の右翼。
略歴[編集]
旧制大分中学から早大予科に進む。文学を志し、北原白秋の門下生として住み込むようになる。帰郷して父が法律顧問をする九州水力(後の九州電力)に入社。仕事よりも酒とドストエフスキーに浸る日々をすごす。
再上京すると同郷の後輩の波津久剣が経営する「やまと新聞」の編集長矢部周と知り合い、国家主義運動に参加するようになる。1932年2月、「資本家階級独壇の社会組織、経済機構および諸制度の合理的改革」を綱領にした大亜義盟を創立した。同年3月、虎屋事件を引き起こし逮捕され、義盟はつぶれた。
1935年4月、理論誌「国策」を引き受け、津久井龍雄らを同人に国策社を設立。同年7月の益田男爵事件、1937年7月の不穏文書事件、1939年10月の政友会革新派総裁中島知久平狙撃事件を引き起こしたびたび監房に入ることになる。
父のコネもあって政財界や軍部とも交流があり、東條英機と親密になる。1945年12月、戦犯容疑で収監されるが、病気のため釈放される。
1948年秋、公職追放中の三浦は昭電事件で日本の軍国主義解体を推進する米軍総司令部GSのチャールズ・ケーディスをスキャンダルで追い落とすのに貢献する。GSと反対に反共の為ならファシストを利用する方針の米軍総司令部G2に評価された三浦は米軍との強力なコネを持つようになる。
財閥解体のさなか三井十三家を混乱から救い、三井に恩を売ると日本橋室町の三井ビルに事務所を構えたことから室町将軍と呼ばれるようになる。後に西山広喜らを育てる。
1971年に動脈硬化症で死去。