平岡倭文重
平岡 倭文重(ひらおか しずえ、1905年(明治38年)2月18日 - 1987年(昭和62年)10月21日)は、作家・三島由紀夫(本名:平岡公威)の母。漢学者・橋健三の次女。加賀藩の漢学者・橋健堂の孫。少年時代の三島由紀夫の文学的才能を発見し、その成長を励ました。
生涯[編集]
1905年(明治38年)2月18日、倭文重は東京の小石川で、父・橋健三と母・トミの間に次女として生まれた。橋家は、代々金沢藩主・前田家に仕えていた儒者の家系であった。父・橋健三は漢学者で、東京開成中学校の5代目校長を務めた。倭文重の上には、健行、雪子、正男、健男、行蔵、の兄と姉、下には、妹・重子がいる。倭文重は文学少女として、詩歌や小説に親しむ青春期を過ごした。1922年(大正11年)に三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)を卒業した。
1924年(大正13年)4月19日、倭文重は平岡梓と結婚。平岡梓は開成中学校から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した農商務省勤務の官僚であった。翌年の1925年(大正14年)1月14日に長男・公威を儲ける。
ところが生まれたばかりの公威は、「赤ん坊に2階は危い」という理由で、姑である夏子が坐骨神経痛を病む病室内で養育されることとなり、倭文重が公威と接することが出来るのは授乳の時や、許された僅かな散歩の時間だけとなってしまった。こうした、父母と引き離された生活は公威が学習院中等科に入るまで続いた。この期間の不自然な母子関係は公威の人格形成と、その後の母子関係に大きな影響を与えたのみならず、こうした状態を放置し傍観していた夫・梓に対する倭文重の内攻した敵意も育まれていった。この頃のことについて三島は、「若いころの母は大へん美人であつた。(中略)母親は、私にとつて、こつそり逢引きする相手のやうなもの、ひそかな、人知れぬ恋人のやうなものであつた。母には、姑との間の苦労や、子供を姑に独占された悲しみや、いろいろな悩みはあつたらしいが、子供の私には、さういふ悩みは見えなかつた。そして、たまにこつそりと母に連れられて出る日が、私の幼時の記憶の中で、まるで逢引きの日のやうに美しく美しく残つてゐた」[1]と述べている。
祖母の監督下にあって男の子らしい遊びを禁じられていた公威は、小学生時代から祖母の好きな歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、高学年になると学習院の同学友誌「輔仁会雑誌」に詩や俳句を発表するようになっていた。13歳の時には幼児期に母と散歩に出かけた時の記憶をモチーフにした短篇小説『酸模(すかんぽう) ― 秋彦の幼き思ひ出』を執筆、ようやく同居が叶った長男の目覚ましい文学的才能に倭文重は驚くと同時に、何としてもこの子の才能を開花させたいと決心した。この頃のことについて三島は、「母は私に天才を期待した。そして、自分の抒情詩人の夢が息子に実現されることを期待した」[1]と述べている。
1940年(昭和15年)1月、倭文重は、詩人・川路柳虹に公威を師事させた。息子の才能を認めず、自分同様官吏の道を歩ませたがっていた夫・梓が公威の書きかけの原稿を破り捨てた後には、買っておいた新しい原稿用紙を揃えたりと、太平洋戦争に向かう暗い環境の中、倭文重は公威が文学の道に邁進出来るよう、献身的な努力を傾けた。
1941年(昭和16年)からペンネームが三島由紀夫となってからの公威も、母の愛情に感謝を忘れず、原稿を書き上げるとすぐに母に読んでもらう習慣を晩年まで続けていた。初期の作品『仮面の告白』(1949年)、『愛の渇き』(1950年)の著作権が、遺言によって他の著作とは別に、倭文重に贈られたことも三島の母への深い愛情の表現であった[2]。その親子の仲良しぶりは三島が1958年(昭和33年)6月、杉山瑤子と結婚した際に、その理由を周囲に、「癌と診断された母・倭文重を安心させるため」と説明したほどであった[3]。しかし、三島は、「私は、この母の大病のために結婚したわけでは毛頭ない」[1]と述べている。また、実際にも、母・倭文重の病気発覚の前年1957年(昭和32年)から三島は、聖心女子大学在学の独身時代の皇后美智子ともお見合いをしている[4]。杉山瑤子の見合い写真を渡されたのも、母の病気発覚前である。さらに1954年(昭和29年)8月から約3年半、交際していた後藤貞子(旧姓・豊田貞子)という結婚寸前の女性もいた[5]。なお癌との診断は誤診であったことが挙式前に判明している。
三島が『憂国』(1961年)、『英霊の聲』(1966年)などを発表し、楯の会の活動に熱中し、死への関心を隠さなくなるようになると、倭文重はこれを敏感に察知し、息子の背中に、「あなた死んでしまっては駄目ですよ」と呼びかけたくなる衝動に駆られたこともあったが、その予感が確信に変わる前の1970年(昭和45年)11月25日、三島事件によって最愛の息子は世を去ってしまう。外出先から帰宅した倭文重は何も言わず、自宅玄関[6]の三和土にペタリと座り込んでしまったと言う。
三島の死後も、遺作となった『豊饒の海』の底流に流れる仏教哲学を理解しようと大学の聴講生になるなど、息子の死の秘密を理解しようと努めていた。夫・梓が文藝春秋から刊行した著書『倅・三島由紀夫』(1972年)、『倅・三島由紀夫(没後)』(1974年)には、「あなた(梓)みたいな水牛のような行動一点張りの人に公威の心が分かるはずがありません」、「公威の心が分かるのは、わたくしたった一人だけです」[7]という断定と共に、倭文重の独白が豊富に盛り込まれており、事実上の共著となっている。また自分の名前でも、『暴流のごとく ― 三島由紀夫七回忌に』(新潮 1976年12月号に掲載)を発表している。
1976年(昭和51年)12月18日に夫・梓が死去。その後、倭文重は晩年には脳梗塞に倒れ、虎ノ門病院分院に入院した。幻覚症状も伴っており、「死んだ息子の姿だけ残し、夫の姿は消して欲しい」と医師に要求したという話が伝わっている。退院後は邸内の離れには戻らず[8]、1981年(昭和56年)1月に東京都世田谷区用賀の老人ホーム「フランシスコ・ビラ」に入居し、そこで余生を送った。1987年(昭和62年)10月21日、心不全のため、虎ノ門病院で死去。享年82。告別式は10月24日、東京都港区愛宕の青松寺で営まれた。
三島の他、長女・美津子(1928年-1945年・敗戦直後に腸チフスで17歳で夭折)、弟・千之(1930年-1996年・ 外交官・元迎賓館館長)の二男一女を育てた。
家族 親族[編集]
- 母・トミ(漢学者・橋健堂の五女)
- 橋健三の妻であった姉・こうの死去に伴い、16歳の時に健三の後妻となった。
- 1938年(昭和13年)、公威は中等科2年の時、トミに連れられて初めて能を観た。初めて目にした能が『三輪』であった。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった大神神社である。 『三輪』では、杉の木陰から声がして、玄賓僧都の前に女人の姿の三輪明神が現れる。三輪明神は、神も衆生を救う方便としてしばらく迷いの深い人の心を持つことがあるので、罪業を助けて欲しいと訴える。三輪の妻問いの神話を語り、天照大神の天の岩戸隠れを物語って、夜明けとともに消えてゆく。謡曲『三輪』は、「夢の告、覚むるや名残なるらん、覚むるや名残なるらん」(現代訳:夢のお告げが、覚めてしまうのは、実に名残惜しい、まことに名残惜しいことだ)という美しい詞章で終わる。この詞章は、三島の遺作『豊饒の海』の大団円に通じる[9]。
系譜[編集]
橋家系図
橋一巴┳━往来━━船次郎 ┃ ┃ ┗━健堂┳━つね ┣━ふさ ┃ ┣━こう━━┓ ┃ ┣━━橋健行 ┃ 瀬川健三┛ ┃ ┣━より ┃ ┣━トミ━━┓ ┃ ┣┳━雪子 ┃ 瀬川健三┛┣━橋正男 ┃ ┣━橋健雄 ┗━ひな ┣━橋行蔵 ┃ ┣━倭文重┓ ┃ ┣┳━平岡公威(三島由紀夫)┓ ┃ 平岡梓┛┃ ┣┳━紀子 ┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━━┛┃ ┗━重子 ┃ ┗━平岡威一郎 ┣━美津子 ┃ ┗━平岡千之
参考文献[編集]
- 「とらのもん」第65号・「三島由紀夫と馬込」栗原 雅直
- 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
- 『決定版 三島由紀夫全集題42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 三島由紀夫『母を語る』(婦人生活 1958年10月号に掲載)
- ↑ 倭文重、瑤子没後の現在は、他の三島作品と同様の扱いとなっている。
- ↑ ジョン・ネイスン『三島由紀夫 ― ある評伝』訳・野口武彦による。この発言の背景には三島の同性愛があるとネイスンは推測した。
- ↑ 徳岡孝夫『五衰の人 ─ 三島由紀夫私記』(文藝春秋、1997年、のち文庫化)、および、「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」(週刊新潮 2009年4月2日号に掲載)
- ↑ 岩下尚史『見出された恋 「金閣寺」への船出』(雄山閣 、2008年)および、岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)
- ↑ 東京都大田区南馬込に現存するロココ風の三島邸の、地続きにあった木造家屋(現存せず)に住んでいた。
- ↑ 平岡梓『倅・三島由紀夫(没後)』(文藝春秋、1974年)
- ↑ 平岡瑤子の項に、この間の事情が記載されている。
- ↑ 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)