三熊野詣
『三熊野詣』(みくまのもうで)は、三島由紀夫の短編小説。民俗学者の折口信夫をモデルにした物語である[1][2]。1965年(昭和40年)、雑誌「新潮」1月号に掲載された。単行本は同年7月30日に新潮社より刊行された。同書には他に3編の短編が収録されている。現行版は新潮文庫の『殉教』で刊行されている。
歌人で国文学博士の老教授と、先生を崇拝する弟子の寡婦が熊野へ旅する物語。亡き初恋の人の名前を象る三つの櫛を熊野三山の内庭に埋める先生に同道しながら、様々な想いが錯綜する静かな女の心理と、自らの物語を創造しようとする孤独な人間の姿が、荘厳な熊野の風景を背景に描かれている。
あらすじ[編集]
身寄りのない寡婦の常子は、名高い歌人で大学の国文学教授の藤宮先生にかしずいて、もう10年も身の回りの世話をし同居しているが、二人の間には色事は全くない。藤宮先生の研究は有名で崇拝者も多いが、先生の風采は上らず、目は眇で異常な潔癖症であった。それでも常子は巫女のように藤宮先生を尊敬し、月一回の恒例の歌会で、自分の歌を先生に批評していただけるのを楽しみに生きている。
ある日、常子は先生から、熊野への夏の旅のお供を仰せつかった。先生は熊野の出身だったが故郷の村には立寄ることはない。先生の旅をいつも見送る立場だった常子は晴れがましさでいっぱいだったが、なぜ自分を旅へ同行させるのか不思議だった。那智滝を見た後、藤宮先生は熊野那智大社の内庭で、「香」「代」「子」の文字のある三つの櫛を紫の袱紗から取り出し、「香」の櫛を土に埋めた。常子は生れてはじめて嫉妬を感じたが、それを手伝った。それまで楽しかった旅中での陽気な新しい常子は消え、元の地味な常子に戻った。先生から拝借した永福門院集を読み、常子は自分には歌を作る才も資格もないのを感じ、先生の前で涙を流した。
翌日も藤宮先生は、熊野速玉大社で「代」の櫛を埋め、熊野本宮大社で「子」の櫛を土に埋めた。「香代子」という人はきっとすでにこの世を去った美しい女人だろうと常子は想像し、もう嫉妬もなく寛容な気持だった。藤宮先生は櫛の由来を常子に打ち明けた。先生は郷里に香代子という恋人があったが、親に仲を割かれたまま香代子は病で死んだというものだった。香代子は三熊野詣に行くことを望んでいて、少年の先生は「僕が60歳になったら、きっと連れたる」と言っていたのだという。あまりに美しすぎる話に常子は女の直感で、それが先生が自分の伝説を作ろうとしているのだと解り、今自分が先生の伝説の証人にされていることを悟った。その美しい物語は全く先生に似合わなかったのだ。しかし常子はその物語を信じるふりをすることを固く決心した。同時に、常子には云わん方ない安堵が生れ、昨日の絶望が残る隈なく癒された。熊野の神霊によって解き放たれたように常子は晴れやかな気持になった。
登場人物[編集]
- 藤宮先生
- 60歳。独身。歌人。清明大学の国文科主任教授。文学博士。古今伝授の研究で有名。弟子や崇拝者の学生が沢山いる。風采は上らず、子供のときの怪我からなった眇の負い目で暗い陰湿な人柄。奇異な高いソプラノの声。ひどい撫で肩。髪は真黒に染めている。アメリカン・フットボールを、「汚れ蹴鞠」と呼んで諷刺的に歌に詠じる。学生への礼儀作法にやかましい。その業績に敬意を払わない他学部の学生には「化け先」と陰で嘲られる。好物は牛肉、イサキ、柿など。消毒用アルコールを染ませた脱脂綿を常に携帯するほどの潔癖症。家にテレビは置いてない。
- 常子
- 45歳。身寄りのない寡婦。藤宮先生の歌のお弟子。美しい女でも色気のある女でもなく、地味な性格で控え目。夫は結婚2年目で急死。もう10年も藤宮先生にかしずいて、本郷の先生の家に同居し食事や身辺の世話をしているが、男女関係はない。
- 野添助教授
- 30歳すぎ。藤宮先生の一番の高弟子。
- 藤宮先生の弟子や学生たち
- 時代ばなれした地味な服装。先生の真似をして扇子を持っている。
- 宿の番頭
- 藤宮先生と常子の借り切った小さな遊覧船に同乗。
- 熊野那智大社の宮司
- 藤宮先生とは懇意。
作品評価・解説[編集]
短編集『三熊野詣』について三島由紀夫は、「この集は、私の今までの全作品のうちで、もつとも退廃的なものであらう。私は自分の疲労を、無力感と、酸え腐れた心情のデカダンスと、そのすべてをこの四篇(三熊野詣、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛)にこめた。四篇とも、いづれも過去と現在が先鋭に対立せしめられてをり、過去は輝き、現在は死灰に化してゐる」と述べ[3]、さらに、「しかし自分の哲学を裏切つて、妙な作品群が生れてしまふのも、作家といふ仕事のふしぎである。自作ながら、私はこれらの作品に、いひしれぬ不吉なものを感じる。ずいぶん自分のことを棚に上げた言ひ方であるが、私にかういふ作品群を書かせたのは、時代精神のどんな微妙な部分であるのか? ミーディアムはしばしば自分に憑いた神の顔を知らないのである」[3]と自作解説している。
松本徹はこの時期の三島の状態について、「ライフワークと自ら呼ぶ大作(『豊饒の海』)に取り掛かる直前の屈折した気持と、『鏡子の家』以降、強まる根深い倦怠感」のなかにあったと解説している[4]。また松本は、この頃の三島が、少年期を自分の黄金期で、「二十歳で死ねばよかつた」と語っていることを挙げ、「その思いを、『酸え腐れた心情』とともに、小説に仕組んでいるのです」[5]と述べ、この三島の思いはライフワーク『豊饒の海』全四巻の基本的構想の一角を成すことになり、主人公がいずれも満20歳を前に命を終える設定となると解説している[5]。
佐藤秀明は、三島が民俗学者の折口信夫をモデルにした『三熊野詣』を書いた同時期に、精神分析医を描いた『音楽』を書き、そこに精神分析学への嫌悪と拒否が伴う屈折があったことに注目し[2]、三島が1969年(昭和44年)に発表した『日本文学小史』の第一回で解説していた文化史論の中で、「私がここで民俗学的方法や精神分析学的方法を非難しようとしてゐることを人は直ちに察するであらう。私はかつて民俗学を愛したが、徐々に遠ざかつた。そこにいひしれぬ不気味な不健全なものを嗅ぎ取つたからである。しかしもともと不気味で不健全なものとは、芸術の原質であり又素材である。それは実は作品によつて癒されてゐるのだ。それをわざわざ、民俗学や精神分析学は、病気のところまでわれわれを連れ戻し、ぶり返らせて見せてくれるのである。近代の世の中には、かういふ種明しを喜ぶ観客が多い。(中略)そこまで行けば、人は『すべてがわかつた』気になるのである」[6]と述べ、民俗学や精神分析学の知の普遍主義によって個別の文化が排除されてしまい、「文化意志」を否定することになるのを三島が憂慮していた文脈を引用し、「『音楽』と『三熊野詣』を書くことで、三島は精神分析学と民俗学に接近しながら、そこから離れようとしている」[2]と述べ、それら作品を書いたことで、文化意志を否定する文化論である精神分析学と民俗学に決着をつけ決別した三島は、映画『憂国』製作に向っていったと解説している[2]。
おもな刊行本・音声資料[編集]
- 『三熊野詣』(新潮社、1965年7月30日)
- 文庫版『獅子・孔雀』(新潮文庫、1971年1月25日)
- 文庫版『殉教』(新潮文庫、1982年4月25日。改版2004年)
- 英文版『Acts of Worship: Seven Stories』(訳:ジョン・ベスター)(Kodansha International、1989年。HarperCollins Publishers Ltd、1991年6月)
- 朗読CD『三熊野詣』(新潮社、2003年2月25日)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 文庫版『殉教』(付録・解説 高橋睦郎)(新潮文庫、1982年。改版2004年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第33巻・評論8』(新潮社、2003年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論10』(新潮社、2003年)
- 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
- 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)