肉体の学校
『肉体の学校』(にくたいのがっこう)は、三島由紀夫の長編小説。1963年(昭和38年)、雑誌「マドモアゼル」1月号から12月号に連載され、翌年1964年(昭和39年)2月15日に集英社より単行本刊行。現行版はちくま文庫で重版されている。1965年(昭和40年)2月14日に岸田今日子主演で映画も封切られた。フランスでは1998年(平成10年)11月18日にイザベル・ユペール主演で映画化された。
戦後を機に不幸な結婚生活と決別し、貪欲に恋愛を謳歌する元華族の女性が、野性的で純粋な日本の男性を追い求める恋愛物語。同じ境遇の三人のゴージャスな39歳の独身女性たちが、お互いの情事や男の品定めの話題に盛り上がるという娯楽的な趣の中にも、恋愛における微妙な心理や、移り変わる時代の社会階級を背景にヒロインの気高さが爽快に描かれている。
目次
あらすじ[編集]
39歳の浅野妙子は戦前は華族で男爵夫人であったが、戦後は変態的な夫と別れ、麻布の龍土町に洋裁店を開き成功していた。妙子の友人には彼女同様、上流階級の体裁だけの暗い結婚生活と決別した川本鈴子と松井信子がいた。三人は令嬢時代からの友達同士で、若かりし頃から密かに遊び人であった。離婚後、川本鈴子はレストランを経営し、松井信子は映画批評や服飾批評の仕事をしていた。三人は月に一回、例会の夕食会を持ち、お互いの恋愛や情事についてあけすけに報告しあった。三人の行きつけの店の一つのピアノ・バアの主人・貝塚は、彼女たちと20年ごしの友達で、この例会を「年増」とかけて「豊島園」と呼んでからかっていた。美しい妙子は西洋人からも声をかけられることも多かったが、彼らの誘惑には決して乗らなかった。妙子は日本の若い男の無表情に動物的な美しさを感じていた。
1月の例会で鈴子が、池袋のゲイ・バア「ヒアンシンス」に素敵なバーテンダーがいると報告し、三人はタクシーでそこへ行ってみた。カウンターには彫像のような横顔と凛々しい首の、ちょっとどこにも見られないような男らしい美男がいた。みんなに千ちゃんと呼ばれているそのバーテンダー・千吉に妙子は一目ぼれをし、店に一人で通うようになった。ゲイボーイ・照子は、「千ちゃんは誰とでもお金を出せば寝るから、もしお姉様があとくされが心配ならアタシにまかせて」と、親切とも嫉妬ともとれる千吉への陰口のような言葉を囁いたが、妙子は特に気にならなかった。妙子は、無口で機敏に働く孤独な影のある千吉に惹かれていた。照子によると、21歳の千吉はR(立教)大学の学生だが、父親の経営していた町工場が倒産し、母と妹二人を連れ父が千葉の田舎へ引っ込んだのを機に、自活し学費のため実入りのいいバイトをしているのだという。高校時代はボクシングをしていたらしい。
妙子は千吉を食事に誘い、2月25日、彼の指定した新宿の喫茶店で待ち合わせた。エレガントな服装で待つ妙子に対し、千吉は素足に下駄をつっかけた汚ないGパン姿で遅れてやって来た。バーテンダーのときと違い、口のきき方も急にぞんざいで下品になり、あやうく朝鮮料理店に入りそうになったりして妙子を失望させた。しかし酔った勢いで男娼としての自分のみじめな身の上を憤慨して話す千吉は、捕らわれた獣のような風情で、妙子に深甚な同情を呼びおこし、「友情」を感じさせた。そして孤独な涙顔で突然のキスをされた妙子は、食後に一人パチンコに興じる失礼な態度の千吉にもかかわらず、次の約束を誘ってしまった。
次のデートには、貧乏な千吉に合わせて女詩人のような地味な格好で妙子は出向いたが、千吉は一分の隙もない素敵なスーツで待っていた。妙子が連れていった店でもフランス料理のメニューを見てちゃんと料理を選った。それはゲイ・バアの客から自然に教わっていたのだった。ジゴロの威厳を持ち、肉体そのものから発する不遜な動物のような千吉に惹かれ、妙子は彼と結ばれた。いままでの男にはない肉の優雅に妙子は酔いしれた。この新しい恋を、3月の「年増園」で妙子は鈴子と信子に報告した。
妙子は、千吉にゲイ・バア「ヒアンシンス」のバーテンダー稼業を辞めさせた。千吉が店をスムーズに辞められるように、妙子は照子の仲介で、裏で男ママに手切れ金を渡しておいた。そして千吉を真面目な大学生に戻してやり、堅気の職につかせるために経営学の勉強の手助けをした。妙子は洋裁店の顧客のL大使夫妻のパーティーで知り合った繊維会社社長夫人・室町秀子を新たな得意客としていたが、その繊維会社に千吉の就職口を世話しようとしていたのだった。戦後成金で肥満体の室町夫人は以前は金ばかりかけたみっとみない装いだったが、妙子の洗練された服飾センスで着こなしがよくなり、妙子ファンとなっていた。4月10日、来日したイヴ・サンローランの慈善ファッション・ショーが帝国ホテル新館で開かれ、妙子は千吉を自分の甥として、室町夫人と、その令嬢・聰子に紹介した。
5月から千吉は妙子のアパートに同棲するようになった。それは恋多き妙子でも例外的なことだった。千吉は、俺の自由を縛らないでほしいという条件をつけたが、徐々に妙子は内心、千吉の行動に嫉妬心にさいなまれだした。千吉が外泊した時は一晩眠れず、朝帰りした千吉に泣いて抱きついた。二人で熱海へ旅行へ行った際、千吉から別れを切り出されるような予感に苦しんだ妙子は、これからも二人で一緒に暮らしてゆく代りに、お互い浮気をしても干渉せず、浮気相手を紹介し公認しあう自由な関係にしようと提案した。6月の「年増園」で妙子は友人二人に、誰か都合のいい浮気相手がいないが相談し、50歳の政治家・平敏信と2、3度浮気をした。夏の間、千吉は友達の別荘に誘われていると称して出かけることが多かった。
夏も終わり、妙子が千吉に対して提案した、浮気の「第三者」を紹介しあうことになった。高級割烹店で政治家の敏信と妙子が待っているところへ、千吉が室町聰子を連れてやって来た。聰子は妙子のデザインした葡萄紫のワンピースを着ていた。妙子の店で作った避暑地用の散歩服や海浜着もみな、千吉と会うためのものだった。イヴ・サンローランのファッション・ショーの後、千吉は聰子の誘いを受け、二人の交際が始まっていたのだった。小馬鹿にし満足の微笑をたたえる千吉に妙子は怒りにふるえたが、その場はなんとか冷静にふるまった。千吉は聰子の腕をボクシングの勝利者のようにもちあげながら、平敏信に、僕たちの仲人をして下さらないかな、と言った。アパートに帰った妙子は一人になると、心おきなく泣いた。
千吉は、妙子は叔母ではなく同棲し養われていることを正直に言うことにより、逆に真面目な苦学生を装い、うまく室町家を丸め込み取り入っていたのだった。そして室町夫人は、千吉を妙子の養子という形で名だたる旧華族の浅野家へ入籍させてから、自分の家に婿に迎えたいというずうずうしい申し出をしてきた。妙子はその厚かましさに呆れた。妙子がとっくに捨てた朽ち果てた古い草履を、ありがたく押し頂こうとする人たち、が滑稽にも思えた。千吉が聰子を愛しているわけではなく、功利主義で出世しようとしていることがわかった妙子は、恋を奪われたという感懐はなかったが、このままでは虫がおさまらず、ゲイボーイの友達・照子に救いを求め、全部打ち明けた。
照子は、「ひどい奴ね、こんなに愛してくれたお姉様に背くなんて」と千吉をなじり、千吉が男娼をしていた時の、醜い男との性行為の最中の写真とネガを切札として渡してくれた。千吉に裏切られたことがある照子は写真を渡す時、これを千吉の不幸のために使うなら只であげるが、もし仏心を出し焼き捨てるなら50万円いだだくわと言った。妙子はもちろん悪用するつもりだったが、照子の厚意に甘えて只でもらうのも気が引け、今の朽ち果てた自分の自尊心を救うための虚栄で50万円払おうとした。しかし照子は素直に解釈し、「わかったわ、お姉様の気持。本当にきれいな気持なのね、50万円なんて嘘よ。只でいいのよ」と感動の涙を流した。妙子はその純粋な涙に搏たれ、このときほど自分の中にも残るブルジョア風の虚栄の心の動きを醜く感じたことはなかった。
アパートにいる千吉に、妙子は切札の写真をチラつかせて、これを室町家へ送ればどうなるかと脅してみた。千吉は急に狼狽し、「俺の人生をめちゃくちゃにしないでくれ、俺は金持ちのきちんとした暮らしにあこがれてきたんだ」と土下座し、「俺はクールな気持で決して情熱を持たず、どんな汚いことをやっても出世してやるんだと誓いを立てていたんだ」といろいろ御託を並べ、妙子に懇願した。その青くさい甘ったれた人生観は、そこらにいる怠け者の青二才の哲学と同じで、千吉の値打ちをむざんにも引き下げていた。それは努力もせず安易な逆玉の輿のチャンスにしがみつこうとするただの俗物で何の獣性もなかった。妙子の恋の幻はすっかり消えた。妙子は写真を一枚一枚、燃やしてやった。感謝し抱きつこうとする千吉を振り払い、妙子は養子縁組をする約束もしてやったが、もうここへは来ないでと別れを告げた。
11月の「年増園」は趣向を変えて、妙子の提案で小春日和のその日、向ヶ丘遊園地へピクニックに行った。妙子はすっかり朗らかになり、三人はウォーターシュートに乗った。加速度で落ちるボートの水しぶきを浴び、「今私たち何かをとおりぬけたでしょう。ちょうどあんな気持よ」と言う妙子に、意味がよくわからず信子が、「あなたって勇敢ね。一番怖がらないのね」と感心すると、「そりゃそうだわ。私はもう学校を卒業したんだもの」と答えた。
作品評価・解説[編集]
奥野健男は、「終章の、遊園地でウォーターシューターに乗った妙子の『今私たち何かをとおりぬけたでしょう』という言葉は、全編を見事に象徴している。さわやかな決然たるこの終末は、このエンターテイメントと芸術作品に昇華している。ため息のでるような美と倦怠と、恋愛の小気味よい心理描写に魅せられた多くの三島ファンを裏切らない。『美徳のよろめき』に匹敵するはなやかに美しい小説である」[1]と述べている。
映画化[編集]
国内版[編集]
『肉体の学校』(東宝) 1965年(昭和40年)2月14日封切。モノクロ 1時間35分。
スタッフ[編集]
キャスト[編集]
- 浅野妙子:岸田今日子
- 佐藤千吉:山崎努
- 室町聰子:中川ゆき
- 室町秀子:市川翠扇
- 室町:有馬昌彦
- 川本鈴子:木村俊恵
- 松井信子:東恵美子
- 貝塚:田中明夫
- 音羽:神山繁
- 平敏信:山村聡
- テル:佐藤晴彦
- 若い父:岡部正
- 若い母:伊藤幸子
- 親戚A:日塔智子
- 親戚B:江崎和子
- 大使:アーネスト・A・リクター
- 大使夫人:マージョリー・M・リクター
- 元侯爵:松本染升
- 夫人:佐野タダ枝
- 元子爵:生方壮児
- 夫人:三條利喜江
- 元男爵:山田圭介
- 元皇族:吉頂寺晃
- 女給仕:近藤征矢
- 中年の客A:鈴木治夫
- 中年の客B:伊原徳
- 三十恰好の男:中島春雄
- 家政婦風の女:出雲八重子
- 料亭女中:記平佳枝
- バーテンダー:荒木保夫
- ナレーター:久米明
海外版[編集]
『L'École de la chair』(ORSANS プロダクション、Pyramide) 日本劇場未公開。カラー 1時間45分。
- 1998年(平成10年)11月18日 フランス国内封切。
- ※ '98カンヌ映画祭出品作品。英題は、『The School of Flesh』。
- ※ 日本では、1998年(平成10年)6月11日、第6回フランス映画祭横浜'98(パシフィコ横浜 会議センターメインホール)にて1回上演された後、2006年1月27日に公開された。
スタッフ[編集]
- 監督:ブノワ・ジャコ
- 脚本:ジャック・フィエスキ
- 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
- 美術:カティア・ヴィズコップ
- 制作:ファビエンヌ・ヴォニエ
キャスト[編集]
【】は原作に該当する人物。
- Dominique【浅野妙子】:イザベル・ユペール
- Quentin【佐藤千吉】:ヴァンサン・マルチネス
- Chris:ヴァンサン・ランドン
- Mme Thorpe:マルト・ケラー
- Soukaz:フランソワ・ベルレアン
- Mr Thorpe:Jean-Louis Richard
- L'amie de Dominique:Danièle Dubroux
- Cordier:Bernard Le Coq
- Marine:ロキサーヌ・メスキダ
- Louis-Guy:Jean-Claude Dauphin
- La mère de Quentin:Michelle Goddet
- Marcus:Jean-Michel
- Le jeune plombier:Laurent Jumeaucourt
- Robert:Pierre Laroche
- Le photographe:Richard Schroeder
ラジオドラマ化[編集]
- 朝のラジオ小説『肉体の学校』(TBSラジオ)
おもな刊行本[編集]
- 『肉体の学校』(集英社、1964年2月15日)
- 装幀:秋山正。紙装。ビニールカバー。灰色帯、赤色帯の2種。
- 『肉体の学校』(集英社 コンパクト・ブックス、1966年1月25日)
- カバー絵:フランソワ・ルモアーヌ「エウロベ」。紙装。
- カバー(裏)に著書肖像写真、略歴。
- 帯(裏)に作品評:奥野健男「はなやかに美しい小説」、および古波蔵保好「外国映画を見る楽しさ」。
- 文庫版 『肉体の学校』(集英社文庫、1979年3月30日)
- 文庫版 『肉体の学校』(ちくま文庫、1992年6月22日)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 文庫版『肉体の学校』(付録・解説 群ようこ)(ちくま文庫、1992年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第9巻・長編9』(新潮社、2001年)