革命的共産主義者同盟全国委員会

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革命的共産主義者同盟全国委員会(かくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめいぜんこくいいんかい)は、マルクス・レーニン主義を掲げる日本新左翼政治団体である。通称中核派(ちゅうかくは)、関西派離脱以降は中核派中央派(ちゅうかくはちゅうおうは)と呼ばれることもある。公然拠点は前進社(関西支社を除く)。

Youtube前進チャンネル放送中。出演者は洞口朋子ほか。

概要[編集]

内ゲバ等、多くの暴力事件を起こしており、警察庁及び公安調査庁から極左暴力集団過激派と呼称されている。また、後述のゲリラ闘争(千葉県収用委員会長襲撃事件や脅迫など)から、かつては国際的にテロリストとして認知されていた時期もある(現在組織はほぼ公然化しており、オウム真理教事件以降のテロに対する厳罰化など時代の流れからテロは行っていない)。

「反帝国主義反スターリン主義の旗のもと万国の労働者団結せよ!」をメインスローガンに、日本革命・世界革命の達成と共産主義社会の実現を目指している。暴力革命によるプロレタリア独裁の樹立を掲げ、1960年代、権力に対する街頭武装闘争、大学闘争などで新左翼最大の規模・勢力を持つに至った。1970年代、1980年代は物理的な党派闘争(いわゆる「内ゲバ戦争」)、ゲリラ闘争を行った。1990年代以降は内ゲバやゲリラよりも「大衆運動」を重視する路線に転換した。2006年頃から「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンに表現される旧来の路線を否定して、動労千葉を軸とした「労働運動重視路線」にさらに転換した。それへの反発などから2007年頃に関西の組織などいくつかの分裂と離脱を引き起こし、「動労千葉派」を自称するいわゆる「中央派」は現在「労働運動の力で革命やろう」をスローガンにしている。

中核派は革命的共産主義者同盟全国委員会における黒田寛一派とのいわゆる「第三次革共同分裂」によって、1962年に形成された(黒田派は革マル派を形成)。黒田寛一が提唱した政治理論である反スターリン主義を中核派も引き継ぎ、分裂後1967年頃までは「我々こそが黒田哲学の真の継承者」と自称していた。「真の共産主義の実現のため資本主義国家の転覆(反帝国主義)」とともに、かつてのソビエト連邦や、中華人民共和国北朝鮮キューバなどの「現存社会主義国家」を「帝国主義と同等の打倒の対象」を目指すとしている。また、日本共産党などの既存政党も「スターリン主義」だとして「国家権力と同等の打倒対象」としている。

結成から現在まで一貫した中核派の特徴として情勢認識を40年以上にわたって「革命情勢は成熟している」と規定し続け、その情勢認識からラディカルな路線を打ち出している。その路線から、その時々で大学闘争、街頭闘争、三里塚や部落解放などの諸闘争、革マル派への「内ゲバ戦争」、テロゲリラ闘争を行ってきた。とくに1980年代から1990年代初頭にかけて、全党挙げての非公然活動重視、武装闘争中心の運動方針を実践し、死者、負傷者などを多数出すことになった。1990年代以降は、武装闘争路線によって疲弊した党組織の立て直しを図り、その方針を労働運動重視路線へと転換し、同派系と友好的な労組以外の労組および労働運動は、押し並べて「体制内労働運動」と規定して敵対している。

理論[編集]

「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと万国の労働者団結せよ!」、中核派の基本スローガン。日本・アメリカ・欧州などの資本主義の最終段階である帝国主義の打倒とともに、中国・北朝鮮・キューバなどの「現存社会主義国」を「帝国主義と同等の打倒対象であるスターリニスト官僚国家」としている。また、日本共産党に対しても「革命を裏切ったスターリン主義政党であり国家権力と並ぶ打倒対象」と規定している。

「労働者の団結による世界革命」を目指すが、「唯一反スターリン主義の党が存在する日本の革命運動こそ世界で最も先進的である」という認識から、「まず日本革命を起こしてから、その権威で世界党を形成して世界革命へと広げる」という方針を掲げる。

「闘うアジア人民と連帯し侵略戦争を内乱に転化せよ!」を1970年代以降のスローガンにして、「日本人民にはアジアを侵略した血の債務がある。日本の労働者は排外主義・差別主義にまみれており、 そのままでは革命の主体にはなれない」(いわゆる「血債の思想」)を唱えて被差別部落、女性、在日外国人などに対する反差別闘争や、天皇制闘争に取り組んだ。また、組織内外の「差別発言」を問題化し、言わば吊るし上げる「代理糾弾闘争」(被差別当事者の「代理人」として「差別者」を糾弾する、の意)に熱心に取り組んだ。

「労働運動の力で革命しよう!」2007年頃からの「中央派」のスローガン。「労働者階級に徹底的に依拠し、労働組合の闘い、及び世界的な労働者の団結によって革命を目指す」としている。同時に、それまでの「血債の思想」は、一転して「労働者と被差別者を分断する階級性のない『被差別主義』」として否定されるようになり、現在では「革命によって労働者が解放されれば被差別者も解放される」としている。

呼称[編集]

中核派」という呼称は本来、革共同の分裂後、学生組織であるマルクス主義学生同盟の本多支持派が名乗った分派名であるが、上部団体である全国委員会も中核派を公称している。なお、機関紙名から当初は「前進派」と呼ばれることもあった。2007年の分裂以降、革共同再建協議会は「安田一派」、第三者は「中央派」と呼称している。

組織[編集]

  • 創始者:本多延嘉
  • 現在の主な執行部:議長/清水丈夫、副議長/中野洋の死去により空席、書記長/天田三紀夫
  • 機関紙:週刊『前進』(1974年、革マル派による印刷所襲撃によって『前進』は発行不能に陥り、代わりに『革共同通信』を発行していた)、『三里塚』など
  • 機関誌:『共産主義者』(理論誌)、『国際労働運動』(旧『コミューン』および『武装』)など
  • 学生組織:マルクス主義学生同盟・中核派(マル学同中核派
  • 青年労働者組織:マルクス主義青年労働者同盟(マル青労同)
  • 非公然軍事組織:人民革命軍(革命軍・武装遊撃隊)、糺察隊(各大学の防衛部隊。革マル派は求殺隊と蔑称)
  • 公然拠点:前進社 かつては豊島区千早にあった際、現代に千早城が蘇ったかのように要塞化されていたことから千早城と呼ぶこともあった。現在は、江戸川区松江にある。
  • ヘルメット:白。前面に黒字で「中核」。ヘルメットによっては、「カクマル(革マル派のこと)せん滅」などのスローガンが書かれているものもある。

歴史[編集]

前史[編集]

1955年日本共産党第6回全国協議会(六全協)や、1956年スターリン批判ハンガリー動乱などの事件によって、日本共産党の権威は大きく揺らぎ、共産主義者の新組織を結成する動きが始まった。1957年1月、黒田寛一太田竜らを中心に結成された日本トロツキスト連盟はその一つである。同組織は日本共産党への加入戦術で組織拡大に成功。同年12月に革命的共産主義者同盟(革共同)に改称した。

間もなく革共同では、太田竜や西京司を中心としたトロツキスト派と黒田や本多延嘉を中心とした「革命的マルクス主義者グループ」(RMG)がトロツキーへの評価や第四インターナショナルへの合流などを巡り対立を開始。1958年、太田派が革共同から離脱し日本トロツキスト同志会を結成した(「革共同第一次分裂」)。

続いて1959年初頭に黒田が日本民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとして未遂に終わっていたことが発覚し(「黒田・大川スパイ問題」)、同年8月の革共同第一回大会で黒田は「スパイ行為という階級的裏切り」を理由に除名された。同時に、残された本多延嘉(後の中核派の指導者)らRMGも黒田の後を追って革共同を離党。黒田とともに「反帝・反スターリン主義」をテーゼとする革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)を結成した(「革共同第二次分裂」)。黒田は議長、本多は書記長に就任した。さらに革共同全国委は共産主義者同盟(ブント)とその学生組織である社会主義学生同盟(社学同)に対抗する形で独自の学生組織としてマルクス主義学生同盟(マル学同)を組織し、60年安保闘争を追い風にして勢力を伸張させた。

安保闘争後はブントが闘争の総括を巡り分解していったのとは対照的に組織を維持した。その結果、崩壊していったブントから多数の活動家を革共同全国委に吸収し、組織拡大に成功。ブントから流入した活動家の中には清水丈夫北小路敏陶山健一など後の中核派幹部の姿もあった。

1962年6月、第6回参議院議員通常選挙全国区に黒田寛一を革共同全国委公認(マルクス主義青年労働者同盟、全学連推選)の候補として擁立する。選挙スローガンに「米ソ核実験反対」「憲法改悪阻止」「大学管理制度改悪粉砕」「闘う労働者党を創ろう」「帝国主義打倒、ソ連官僚主義打倒」を掲げて組織の総力を挙げて選挙戦を戦ったが、得票数約2万3千票余りで落選した。大日本愛国党総裁の赤尾敏が、同選挙において12万票余りを獲得したのと比べれば、惨敗であった。これが、「中核派」と「革マル派」に分裂する以前の革共同全国委の最大の闘争となった。

誕生[編集]

1962年9月、第三回革共同全国委総会(いわゆる「三全総」)が開かれ、党建設方式や労働運動戦術を巡り、本多派と黒田派が対立した。対立は組織を二分する大論争に発展。三全総から半年後の1963年4月、ついに革共同全国委の議長黒田寛一や副議長松崎明らが脱党し、革共同全国委から分離する形で日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成した。中核派と革マル派の誕生である(革共同第三次分裂)。なお中核派の名称であるが、本多派が全国委政治局の多数を握ったことから、引き続き正式名称は「革共同全国委」のままとなった。しかし、学生組織マルクス主義学生同盟の多数は黒田についたために、学生組織は新設されることになり、マルクス主義学生同盟中核派と名づけられたことから、上部組織の革共同全国委も「中核派」と通称されるようになる。

70年安保・沖縄闘争[編集]

1960年代後半から激しさを増していったベトナム戦争に対して世界的な反戦運動が高まる中で、一貫してアメリカの政策を支持していた当時の内閣総理大臣佐藤栄作1967年10月8日に、南ベトナムを訪問するために羽田空港に向かったとき、これを阻止しようとして集まった三派全学連(中核派、ブント、社青同解放派系自治会で構成する全学連)や反戦青年委員会が初めてヘルメットと角材で「武装」して、警察機動隊を突破しようとした。この事件以降、急進的な学生や青年労働者は1968年1月の佐世保基地における原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争や同年の10.21国際反戦デー闘争など、「ベトナム反戦-日本の参戦国化阻止」を掲げて激しい街頭闘争を繰り広げることになる。中核派はこれらの闘争を70年安保の前哨戦とし「激動の7ヶ月」と呼称して全力突入、その動員力、戦闘性において群を抜く存在だった。

また同時期、学生運動では当時世界的に広がったステューデント・パワーが、東大日大をはじめ日本全国の大学にも波及し、全学ストライキとバリケード封鎖の嵐が巻き起こった。それは既成自治会を飛び越えて作られた全学共闘会議が主導することが多く、この時期の学生運動は「全共闘運動」とも呼称される。中核派も含む新左翼諸党派は、この「学生反乱」を「70年安保闘争」と一体のものとして参画していく。

警察の取り締まりによって組織が消耗した結果、70年6月の安保条約自動延長に際してはゲバルト=街頭実力闘争を手控えた中核派だが、戦闘力の回復した71年にはふたたび激しい街頭闘争を展開することになる。三里塚闘争における3月、7月、9月の行政代執行(強制代執行)において、他の新左翼党派同様に中核派も組織を挙げて現地闘争に参加した。

また、同時期に沖縄返還闘争(中核派のスローガンは「沖縄奪還」)にも熱心に取り組み10.21国際反戦デー、大坂正明が中村常雄巡査を残忍極まりない手口で殺害した渋谷暴動事件松本楼を放火し、警備員を殺害した日比谷暴動闘争を取り組んだ。これらの闘争は、「日本帝国主義はすでに政治的には崩壊状態であり、機動隊によってかろうじて維持されている'機動隊国家'である」という情勢認識から「機動隊せん滅」という警察官の殺傷そのものを目的としたスローガンが公然と掲げられた。この一連の「沖縄決戦」において中核派は大量の逮捕者を出したが、68年の時期と比べると大衆的な広がりをもったとは言えず政治的な成果は乏しいものだった。また、革マル派の武装襲撃とそれに対する報復もこの時期に激しさを増し、70年安保・沖縄闘争における敗北感と路線喪失が次の時期の「内ゲバの季節」につながっていく。

内ゲバの激化[編集]

70年安保闘争期、中核派を始めとする多くの新左翼党派は街頭実力闘争に熱心に取り組んだ。それに対して、組織の維持拡大を重視する革マル派は大学自治会の支配権獲得に力を注ぎ、街頭実力闘争を「権力に対する挑発行為」と批判。さらに東大闘争において1969年1月の機動隊導入の直前に「敵前逃亡」し、革マル派は完全に孤立した。そこで革マル派は「暴力的党派闘争による他党派解体と勢力拡大」を目指す路線を取り、民主青年同盟ならびにすべての新左翼、さらにはノンセクトに対してまで暴力的襲撃をはじめた。とりわけ、新左翼党派で同じく最大級の規模を持つ中核派と解放派に対しては激しく行われた。中核派は街頭実力闘争による大量逮捕で組織を弱体化させていたので、この攻撃で一時大きなダメージを受ける。これに対して中核派と解放派は組織を「軍隊化」させ、暴力的報復を開始。この中核派・解放派と革マル派の「内ゲバ」は、互いの組織壊滅を目的とした、凄惨な「殺し合い」へとエスカレートしていくことになる。血で血を洗うこれらの内ゲバは学生運動を弱体化させ、大衆が新左翼から離れてゆく大きな原因の一つとなった。

1975年3月14日、中核派の最高指導者だった本多延嘉が革マル派のメンバーによって殺害された。この「最高指導者の暗殺」という事態に中核派は革マル派幹部である「黒田寛一松崎明土門肇の革命的処刑」を宣言し、凄まじい報復を行った。しかし、現在に至るまで3氏の「革命的処刑」は実現していない(黒田は2006年に78歳で病死。中核派は「恥多き死を強制した」と称している)。

中核派の「軍事部門」を指揮してきた清水丈夫がまとめた統計によると「73年9.21以来の中核派の対革マル派『赤色テロ』は件数で436戦闘、『完全殲滅』(死亡)43人、そのうち、75年3.14(革マル派による本多殺害)以後の革マル派の死亡は31人」。革マル派と解放派の抗争の死者を併せて「内ゲバ戦争」は百名近くの死者を出した。

被害は両派とは関係のない一般人にまで及んでいる。1974年2月6日に琉球大学構内で中核派が革マル派と誤認して無関係な一般学生を殺害するなど、中核派は一般人を革マル派と間違って襲撃する「誤爆」事件を複数起こしている。このような一般人の巻き添えについては、中核派はそもそも誤爆であると認めておらず、したがってこれまでのところ被害者に対する謝罪などはほとんど行われていない(例外として、在日朝鮮人の女性を負傷させた際に、民団朝鮮総連による組織的な抗議を受けて謝罪を表明した事がある)。

80年代に入ると、三里塚闘争で、「一坪再共有化運動」の是非をめぐって反対同盟内部での対立が激化し反対・賛成両派が分裂した。共有化運動を推進したのは「熱田派」と呼ばれ、第四インター統一書記局派らが支持。共有化運動を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対したのは「北原派」で、中核派・革労協狭間派らが支持した。反対同盟内部の対立はそれぞれの支援党派の対立に発展してゆく。中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定した。

そして1984年1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、7月にふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃した。これらのテロによって8人が重傷を負い、その内一人は頭蓋骨陥没、一人が片足切断の重傷となった。『前進』紙上でこのテロの「戦果」を発表した際には(1月23日付1169号と7月23日付1195号)、襲撃した第四インター派メンバーの本名と職場、そして地番までの住所を掲載した。さらに中核派は、第四インター派のメンバーや「熱田派」所属の空港反対派農家、あるいは「一坪共有者」の自宅や勤務先に押しかけたり、脅迫電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を展開した。また、成田現地闘争の際に、熱田派所属の農家や1987年に北原派から離脱した小川派の農家の軒先で、名指しで「脱落派○○を粉砕するぞ」とシュプレヒコールをあげるなどした。ところが1998年に中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国千二百人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく180度転換した。ただし、第四インター派へのテロや非北原派の反対派農家への恫喝について謝罪はしていない。ただし「中央派」と決別した革命的共産主義者同盟再建協議会(いわゆる「関西派」、「中央派」は「塩川一派」と呼称)が2009年に第四インターへのテロについて、「革命軍戦闘という方法での軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであった」と「階級全体」に自己批判するとしているが、第四インターや被害者への謝罪はしていない。

第四インターへのこうした内ゲバに対しては、被害を受けた第四インターからはもちろんのこと、外部からも批判が集中した。のちに中核派を離脱した小西誠によると中核派組織内においてすら批判的な声は少なくなかったが、指導部の「批判するものは組織を去れ」という統制によって中核派内部の批判が公然化することはなかったという。この第四インターへの内ゲバは、それまで新左翼各党派や各種の大衆運動界隈の一部に存在していた中核派への好意的空気、同情的空気を決定的に失わせた。また、三里塚闘争の分裂は各種の大衆運動の分裂へと波及し、中核派はいくつかの大衆運動から革マル派とともに排除される傾向が強まることになった。当時の中核派は統一戦線より独自路線による運動展開を優先した側面もある。

ゲリラ闘争の激発[編集]

全共闘運動当時のような大衆的な拡大・勢いを失った中核派は、その後、80年代に入ってゲリラ闘争にその活路を見出し、数々のテロに明け暮れていくようになった。同派の非公然組織「革命軍」はこれまでに、建設省(現・国土交通省)幹部宅や新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)幹部職員宅などに対する放火・放火未遂ゲリラ事件、同派を批判した人々の言論を封殺するための脅迫事件、自由民主党本部や空港施設などを狙った火炎瓶火炎放射器を用いた放火ゲリラ事件、警察署襲撃事件、警察官の自宅への放火ゲリラ事件、国電同時多発ゲリラ事件など、150件を超える事件を引き起こしている。

1985年頃からは圧力釜爆弾・時限発火装置の製造や、飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾ロケット砲も使用するようになった。85年10月20日には革労協などと共に10.20成田現地闘争で機動隊との大規模な衝突事件を引き起こし、翌86年の東京サミットでは、成田空港と迎賓館に向けて迫撃弾と飛翔弾(ロケット弾)を発射する事件、放火事件、皇居の爆破未遂事件を引き起こした。

1988年9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰を襲撃している(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。小川弁護士は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った(小川弁護士は2003年7月にこのテロの後遺症を苦に自殺する)。このテロに中核派は犯行声明を出し、「収用委員会解体闘争」と称して「電話と手紙を集中せよ」として、他の収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載した。中核派は収用委員に組織的に「家族ごと殺す」などと脅迫を行い、その結果翌月ついには収用委員全員が辞任する事態となる(千葉県収用委員会は2004年に再建された)。

また、昭和天皇崩御と明仁の即位に関連して、1989年から約2年間にかけては「天皇決戦」「大嘗祭粉砕」と称して、大山祇神社や三千院・仁和寺・青蓮院など皇室とゆかりの深い神社仏閣に対する器物損壊・放火事件を起こしたのを皮切りに、往来妨害、新幹線爆破未遂事件、造船所放火事件、成田空港行きの京成電鉄列車への放火事件など、100件を超える多くのテロ・ゲリラ事件を引き起こした。

これらの中核派による「ゲリラ闘争」に関連して、複数のゲリラ事件で一般人の巻き添えと犠牲者を出している。1975年9月4日、中核派活動家が横須賀緑荘アジトで爆弾を製造しているところ、誤って爆発させ、同アパート住人2名が死亡(中核派活動家も3名死亡)した(横須賀緑荘誤爆事件)。1983年6月7日には千葉県四街道市の成田空港関連の航空燃料用パイプライン敷設工事現場の飯場に放火して労働者2名を焼死させている。1984年10月1日には、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火。社長宅のほかに成田空港問題とは無関係の近接した住宅2棟も全焼させた。これらの「ゲリラ闘争」における一般人の巻き添えについて、中核派は未だ一つとして被害者遺族らに謝罪も賠償もしていない。

対立党派で宿敵である革マル派との内ゲバも、1980年代に入ると両派ともに組織が「内ゲバ戦争」によって疲弊化したことで徐々に小康化していったが、国鉄分割民営化をめぐる過程で、革マル派同盟員と目されていた国鉄動力車労働組合や真国鉄労働組合(真国労)、JR総連の活動家を襲撃するなどした。また、かつて革マル派が行ってきたような、大学構内から他党派やノンセクトの活動家を暴力的に排除する「党派による恐怖支配」を中核派も法政大学京都大学をはじめ、各地の大学で強めることになる。

「5月テーゼ」と近年の動向[編集]

テロ・ゲリラ闘争は、一般からまったく支持されなかったばかりか、逆に返って警察の厳しい取り締まりを招き、運動の孤立化を強める結果となった。さらにこの間の無謀な非公然活動重視、武装闘争路線によって組織が著しく疲弊し、活動もままならなくなる事態となった。そのために以後テロ・ゲリラなどの武装闘争を控えて組織拡大に重点を置き、市民運動労働組合への浸透を図る戦術を採っている。これは1991年に中核派が「将来の武装闘争に備えてテロ・ゲリラ戦術を堅持しつつも、当面は武装闘争を控え、大衆闘争を基軸に党建設を重視する」との方針を決めた「五月テーゼ」(03年以降は「新指導路線」と呼んでいる)に基づいた戦術である。ここで注意しなければいけないのは組織拡大とは単に同派の同盟員を増やすことだけではなく、同派と関連がある労組・団体(影響の程度は団体によってかなり異なる)の拡大や設立、かつてはほとんど関係がなかった団体との交流による影響力拡大も含まれることである。労働運動の分野では自治体、郵政、教育、JRを「四大産別」として、労組への影響力拡大を図っている。また、毎年11月頃に「全国労働者総決起集会」を東京で開催しており、2009年に行なわれた「11.1全国労働者総決起集会」では2300人(警察発表)を動員した。歴史教科書問題では、2005年、新しい歴史教科書をつくる会が執筆した扶桑社発行の 教科書採択反対運動に積極的に介入し、東京都杉並区などで激しい反対運動を起こしている。東京都杉並区、神奈川県相模原市大阪府泉佐野市高槻市八尾市の議会には中核派系の議員がおり、議会への進出度は日本労働党と並び、日本の新左翼の中では屈指。東京都知事選青島幸男、国政選挙で社会民主党(個人では大田昌秀ら)、中核派系政治団体「都政を革新する会」の長谷川英憲を支援した。長谷川は、1989年東京都議選で当選しており、これは新左翼では史上初の都道府県議員であった。

第六回全国大会[編集]

2001年前半に「第六回全国大会」を開催したが、その内実は、政治局が代議員を指名するという非民主的なものであった。このような非民主的な運営に嫌気がさして離党したものもいる。

「第六回全国大会」では、黒田寛一の主張する哲学(いわゆる「黒田哲学」)の徹底批判がおこなわれ、革マル派に対する「勝利宣言」が出された。また、中核派批判を行なっていた白井朗元政治局員への「粉砕」宣言がなされた(白井朗は翌年の2002年12月、何者かによって襲撃される)。

「党の革命」と内部の分裂・確執[編集]

1997年以降、中核派の指導体制は議長:清水丈夫、副議長:中野洋(安田)、書記長:天田三紀夫として確立された。しかし、清水丈夫による党内の独裁体制、中野洋による労働運動重視(実際は動労千葉至上主義)の指導方針について党内で次第に対立が生じた。

2006年「関西委員会指導部の腐敗、堕落」を訴えて関西を中心とする党員の一部が決起(3・14決起)、関西地方委員会の議長であった与田を追放し、指導部に対して自己批判、路線の転換を求めた。これら内部の動きについて指導部は、クーデターである、と判断し、統制を行おうとしたものの逆に内部の強い反発を招いた。これをきっかけに、党組織は「動労千葉派」を自称し労組内での主導権を重視する清水議長、中野(安田)副議長を中心とした「労働戦線派」(または「中央派」もしくは「安田・中野派」)と、これまでの路線を踏襲し各方面での大衆運動に関わることを重視する関西地方委員会中心の「諸戦線派」(いわゆる「関西派」、「中央派」は「塩川派(塩川一派)」と呼称)へと分裂していく。その過程で、九州を中心とした平田派(その中心は元政治局員の永瀬か)も離脱した。さらに、全国各地で「反中央派」とされた党員に除名などの処分が行なわれた。これらの一連の動きを、中央派は「党の革命」と呼称している。

これら両派の対立の背景には急激な路線転換の際に切り捨てられた「革命軍」の兵士たちの処遇をめぐる確執があるものとの推測もある。2006年に現役杉並区議2名も、議会闘争方針の対立から中核派の政治団体「都政を革新する会」から離脱(のちに中核派から除名処分)し、「無所属区民派」を結成した。さらには運動の進め方を労働戦線に集中して、部落解放闘争を労働戦線の付随とするような運動方針をめぐって、これまで共闘関係にあった部落解放同盟全国連合会(全国連)とも関係が悪化し、2008年2月には全国連から「広島差別事件」として糾弾を受ける立場になった。中核派はこの問題において、糾弾を受けた2月時点では沈黙していたが、4月になって全国連を「塩川一派」と規定して、「広島差別事件はデッチ上げだ」などと機関紙で公然と批判し始め、公式サイトから全国連サイトへのリンクを削除した。対する全国連側も中核派との「関係断絶」を宣言したほか、2009年11月には中核派と共闘関係を維持している「西群支部」(大阪)、「杉並支部」(東京)、「品川支部」(同)の3支部に対し、「支部承認の取り消し」などといった「統制処分」を通告するなど、その対立の溝は拡大している。更に杉並では都革新と無所属区民派の間で裁判沙汰となっており、対立が広がっている。

関西前進社を拠点として、中央派に対抗して革共同関西地方委員会は機関紙『革共同通信』、理論誌『展望』を発行し執行部批判などを行っていたが、2008年5月に反中央派が結集し革命的共産主義者同盟再建協議会を結成、その後2009年以降機関紙名を『未来』へ改題した。従来はその主張について中央派批判を中心としていたが、現在では独自の運動方針を積極的に進めるようになっており、関西で活動している他の新左翼グループ、特にブント系の組織などに接近して共闘関係を組むよう模索している。その過程で1984年の第四インターに対するテロルについての「自己批判文書」が発表された。ただし、この自己批判は「内ゲバ」そのものを否定したものではないうえ、政治的思惑の産物とも見られており、旧第四インター各派は反発する姿勢を見せている。

山本太郎氏への与野党とマスコミの攻撃粉砕しよう!日帝・自民党がすがる天皇制、山本氏非難の大合唱は福島圧殺そのもの(2013年10月)[編集]

10月31日に行われた園遊会で、福島原発事故が引き起こしている深刻極まる現実を訴えて、山本太郎参院議員天皇に手紙を直接渡した。

このことに対し、自民党を始めとする国会の与野党およびマスコミが、山本氏に許すことのできない卑劣な攻撃を集中している。山本氏に「議員辞職」を迫ったり、参議院としての処分を検討したりと、天皇制イデオロギーと白色テロルの恫喝による、山本氏の闘いの圧殺がたくらまれている。

山本氏が国会内で記者団に語った手紙の核心は、福島原発事故により「子どもたちの未来が危ないです。健康被害というものも出てきております。福島の原発収束作業員も、本当にひどい労働環境の中で働かされている現実があります」ということだ。これはあまりにまっとうな、差し迫った思いと危機感の表明であり、同時に福島原発事故に対して、自民党・安倍政権東京電力が自らの責任を放棄し、福島の現実と怒りの圧殺に躍起となっていることへの正当極まる弾劾である。

安倍や自民、公明、民主を始めとする与野党とマスコミは、この山本氏が身をもって訴えていることに、なんと答えるのか。汚染水流出や甲状腺がんの多発や被曝労働の深刻さをどうするのだ。それにまともに答えず、天皇に直接手紙を渡したことが問題だと山本氏を攻撃することは、天皇制と白色テロルを振りかざした、さらなる福島圧殺攻撃そのものであり、断じて許しがたい。

今まさに、福島圧殺攻撃とともに、改憲を「歴史的使命」と宣言する安倍政権のもとで、戦争・改憲の動きが本格化している。一方で国鉄決戦が圧倒的な階級攻防の焦点にせり上がると同時に、他方で改憲阻止をめぐる攻防が日本階級闘争の正面課題となっている。

原発再稼働と特定秘密保護法の絶対反対を訴え、福島の子どもたちや原発労働者の現実を何とかしたいと必死に訴える山本氏を、卑劣な手段で葬り去ろうとする策動を労働者人民の怒りと決起で絶対に粉砕しよう!

体制危機の時代に日帝・自民党がすがる天皇制

山本氏の今回の行動に対して、官房長官の菅がまず憎悪に満ちた「不快感」を示した。これに続き、「天皇の政治利用そのもので、議員辞職ものだ」(下村文科相)、「常軌を逸した行動だ」(古屋国家公安委員長)、「見過ごしてはならない」(石破自民党幹事長)、「議員辞職すべきだとの意見には非常に共感する」(松原民主党国対委員長)、「憲法の規定にそぐわない行動だ」「常識を欠いて不適切」(志位日本共産党委員長)などなど、閣僚や与野党幹部が一斉に非難し、処分や議員辞職の大合唱を行っている。

いったい何が「常軌を逸した行動」だ。「常識を欠いている」だ。ふざけるな!

今回の件で天皇制の問題が前面に登場してきている。

「資本家的政治支配、階級支配が解体的動揺に陥る中で、天皇制は帝国主義ブルジョアジーの反革命的結集のシンボルとなる。労働者階級はプロレタリア革命の一環として、天皇制の一切の形態を粉砕し、根こそぎに一掃する」(革共同綱領草案)。

このような立場だけが、労働者階級が天皇制に対してとるべき原則的で路線的な立場であり回答である。もともと天皇の園遊会など、労働者人民は徹底的に拒否し、粉砕し、怒りで蹂躙し尽くすべきものである。

ところが日本共産党を含め、すべての与野党やマスコミがまたしても天皇制のもとにひれ伏し、山本氏への非難と攻撃を行っている。

大恐慌下に最末期の脱落日帝・新自由主義の危機の中で、天皇制が「帝国主義ブルジョアジーの反革命的結集のシンボル」として登場してくることに対しては、労働者階級人民の「生きさせろ!」の怒りと決起がさらに激しく巻き起こっていく。われわれはどこまでも山本氏とともに、国鉄決戦と反原発決戦を軸に闘いぬくであろう。

階級的労働運動と国際連帯で闘い勝利しよう

そもそも「天皇の政治利用」を一貫して行ってきた常習犯は、日帝・政治委員会と自民党だ。最近でも沖縄圧殺の「主権回復の日」式典(4月)、福島視察(7月)、東京五輪誘致活動(9月)、水俣訪問(10月)と、天皇・皇后や皇族を頻繁に登場させてきた。自民党改憲案で天皇を「元首化」しようとしていることこそ最大の政治利用ではないか。

このような天皇・皇族の再登場=政治利用の恒常化は、日帝の政治支配が危機に陥っていることの表れだ。

激化する大恐慌下で新自由主義は崩壊を開始した。階級対立が非和解的に激化し、支配階級は今や統治能力を失い絶望的な危機に陥っている。日帝ブルジョアジーとその共犯者となっている連合に対し、労働者階級人民の怒りは地に満ちている。この間、小泉の地元・横須賀市菅官房長官の地元・川崎市で、自公あるいは自公民(連合)の相乗り候補が敗北(勝った神戸市長選も辛勝)していることはその象徴である。

危機の中で日帝ブルジョアジーと自民党が最後にすがりつこうとしているのが、超階級的な装いをとる天皇制とその反革命イデオロギー、国家主義的な「虚偽の共同性」「国民融合」のイデオロギーであり、それをテコとして労働者人民を動員することだ。日本共産党スターリン主義はこれに完全に屈服し、山本氏への攻撃で反動的役割を果たしている。共産党は今や「憲法にある制度として、天皇制と共存するのが道理ある態度」だと言い、象徴天皇制の擁護者と成り果てている。

だがすでに天皇制・天皇制イデオロギーは、昭和天皇ヒロヒトの死と現天皇アキヒトへの「代替わり儀式」の大反革命に対し、革共同と労働者人民が実力で闘った90年天皇決戦の爆発によって、根底から粉砕されたものとしてある。

この危機の天皇制・天皇制イデオロギーを立て直そうと、日帝と安倍政権は改憲による天皇の「元首化」などで必死になっている。しかし階級的労働運動と労働者国際連帯の力強い発展の前には、天皇制などまったく無力だ。

11・3集会が高らかに宣言した階級的労働運動と国際連帯で、崩壊する新自由主義と闘おう。国鉄新10万筆署名と100万人の大運動で最高裁決戦に攻め上ろう。14年3・11郡山に向け反原発決戦の壮大な爆発をかちとろう。山本氏への卑劣な非難・攻撃を粉砕し、勝利へ団結して闘おう。

大坂容疑者逮捕で浮上「中核派」驚きの実態(2017年6月)[編集]

あの過激派は今――。1971年渋谷暴動事件で殺人など5つの容疑で警視庁指名手配されていた左翼過激派「中核派」の活動家・大坂正明(67)とみられる別件逮捕の男が大阪府警DNA検査で本人と特定され、7日に警視庁に殺人などで再逮捕された。

人生の大半を逃げることに費やしてきた大坂と、同容疑者をかくまってきた中核派の実態は…。

大坂とみられる男は5月18日、潜伏先の広島市内で大阪府警に公務執行妨害で逮捕された。6月6日、DNA鑑定の結果を受けて府警は男を大坂本人と特定。警視庁公安部は7日に殺人などで再逮捕し、身柄を東京に移送した。

渋谷暴動事件1971年11月14日に発生。東京渋谷沖縄返還協定に反対するデモに参加していた大坂は、現場で警備に当たっていた新潟県警の中村恒雄巡査(21=当時)を仲間と一緒に火炎瓶などで襲い、殺害するなどした。

46年に及ぶ逃亡生活の末に捕まった大坂は、待ち構える報道陣の前に白髪で老いた姿をさらした。手配写真と並べても、本人と判断するのは困難だ。そんな“過激派のスター”を守ってきた中核派の根幹はテロ集団であり、スパイ集団でもある。

かくまわれていた都内のアジトから、警視総監や警察庁長官の経験者ら100人前後の私用携帯電話の番号リストなどが見つかった。警察トップの個人情報まで手に入れる情報収集力は注目に値する。

元警視庁刑事で犯罪心理学者の北芝健氏は「中核派は下火になっているとはいえ、資金力があり、殺し屋部隊『糾殺隊』もまだ存在している。情報収集も得意」と説明する。情報収集活動としては「警察のデジタル無線を傍受していた」「溶ける紙や暗号を使っていた」などの報道もある。

北芝氏は「デジタル無線の傍受なんてお茶の子さいさい。メンバーの中には京大クラスの理系出身者がゴロゴロいて、IITどのスキルも十分に有している。溶ける特殊紙は英国のMI6など世界中のスパイ機関で使用されている。中核派は欲しい物はなんでも入手できる」と解説する。

また、「かつて革マル派(左翼過激派)の拠点から公安警察官の家の鍵が200本見つかったこともあった。尾行されて自宅住所を割られるのは、警察官にとって非常に不名誉なことです。『自宅がバレた』と分かっても、上層部に報告しない者もいたでしょう。それにしてもキャリア警察官の情報が入手されていたのは警察組織にとってもショックでしょうね」とも。

漏れていた連絡先は、一体どのように入手したのか。「公安内部に中核派のシンパはいないはず。公安関係者の知人や家族から情報を入手していたと思われます」(同)

そのやり口の一つがサークル活動だという。

「料理同好会や自己啓発セミナーに見せかけて人を集めます。入会させた相手の中から脈のありそうな人をセクトに引きずり込み、情報を引き出すのです」(同)

活動家の魔の手は一般人の生活圏内に間違いなく届く。メンバーは“人たらし”の極意も身につけている。

「大学の講師や准教授らが『合宿する』と称して、実はセクトの訓練に参加していることがあります。ここでは戦闘技術のほか、諜報活動の知識も伝授されるのです」と北芝氏。

大坂の逮捕は、中核派にとって大打撃を与えるだろう。

北芝氏は「特に資金提供者や支援者は戦々恐々としているはず。大坂は組織のすべてを知っています。警察に口を割れば、芋づる式の逮捕もあり得ますからね。中核派は高齢化が進んでおり、いかにすごい闘士といわれた者でも、病気を持って弱っているはず。相手の弱点を知り尽くした“落としのプロ”が語らせるはずです」と指摘した。

中核派の労働運動[編集]

中核派は創世期は学生中心であったが、1960年代末に中核派系の反戦青年委員会の労働者が続々と街頭武装闘争に参加するようになった。以降、沖縄闘争や三里塚闘争、狭山闘争などの闘いに労働者が決起した。また1970年代の対革マル戦、1980年代のゲリラ闘争においても労働者が革命軍の武闘を支えた。1990年代のゲリラ戦から労働運動への転換によって「4大産別」での闘いが重要視されるようになり、2000年代の「階級的労働運動路線」からは4大産別だけではなく、あらゆる業種の職場での闘いも重要視されるようになっている。2000年代後半からは、「4大産別」に医療・福祉と非正規などを軸とする産別闘争が加わり、「6大産別」と呼ばれるようになった。

公安調査庁からは、中核派が傘下大衆団体を隠れ蓑として労働組合などへの浸透を強化させており、武装闘争路線を堅持しながら組織拡大に向けた取組を継続・強化させていると指摘されている。

4大産別(6大産別)[編集]

支持・共闘関係の労働組織[編集]

学生運動[編集]

中核派の学生政治組織として、「マルクス主義学生同盟・中核派(マル学同中核派)」がある。学生大衆組織には全日本学生自治会総連合(全学連)がある(いわゆる中核派全学連)。過去から現在、中核派の学籍者がいるとされている大学は以下の通り。

2006年3月14日、法政大学「当局」の立て看板撤去に抗議していた中核派活動家など29人(内法大生など大学関係者は5人)が建造物侵入威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員された。中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」と称し強く反発した。25日には29人全員が釈放され、そのうち法大生であった5人には停学や退学処分が下された。その後、処分生5人や法政大学無関係者も含む逮捕者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」という団体をつくり、学内外で抗議活動を現在も行っている。大学側は警備員を常駐させるなどして対処している。06、07年中に停学学生に対して無期限停学や退学など追加処分が下され、(大学無関係者含めて)逮捕者は40名を超えている。

2007年4月27日、退学処分に対する中核派などのデモ中、中核派全学連活動家の学生ら2名が大学職員への暴行容疑で逮捕された。しかし、デモに参加した外山恒一によると、逮捕は「転び公妨」の変形で、職員が事前の打ち合わせ通り首を絞められたと騒ぎ立て、逮捕の口実にしたという。

2009年4月24日、東京地裁による「情宣活動禁止等仮処分命令」、大学側による処分発令などに対する中核派らによる抗議集会とデモにおいて、中核派全学連活動家の学生ら6人が公務執行妨害などの容疑で逮捕(集会中に5人、デモ後に警察署前で行われた抗議行動で1人)された。

諸戦線[編集]

支持・共闘関係の大衆組織[編集]

中核派用語集[編集]

10・8(じっぱち)=中核派が初めて武装闘争を行った1967年の羽田闘争のこと。その闘いは「10・8精神」として称揚されている。
MWL=マルクス主義青年労働者同盟(マル青労同)
MSL=マルクス主義学生同盟(マル学同)
NC=革命的共産主義者同盟全国委員会
SOB=学生組織委員会
WOB=労働者中央組織委員会

年表[編集]

10月 ハンガリー革命がソ連によって弾圧。反乱したハンガリー労働者を支持する反スターリン主義運動が始まる。
1月 黒田寛一や太田竜らを中心として、日本トロツキスト連盟が結成される。
12月 名称を、日本トロツキスト連盟から、革命的共産主義者同盟(革共同)に改称。
太田らが中心のトロツキー派と、反スターリン派の黒田寛一・本多延嘉ら「革命的マルクス主義者グループ」(RMG)が対立していく。
7月 太田派が革共同から離脱し、日本トロツキスト同志会を結成(革共同第一次分裂)。
8月 日本民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとしていたことを理由に、黒田が革共同から除名される。その後を追うように、本多延嘉らRMGのメンバーも革共同から離脱。反帝国主義反スターリン主義の基本戦略を掲げて、革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)が結成される(革共同第二次分裂)。
4月 マル学同(革共同の学生組織)結成。
6月 安保闘争

 

3月 分裂したブント(共産主義者同盟)の半数が革共同へ移行する。中核派これをもって新左翼は革命的に統一されたとする。
4月 全学連第17回大会。ヘゲモニーをめぐりマル学同と「つるや連合」(ブント・社青同解放派)などが衝突。マル学同は角材で武装して突撃。
6月 第6回参議院議員通常選挙に黒田寛一が出馬するも、落選。
9月 議長・黒田寛一派と書記長・本多延嘉派の対立が表面化する。
9月 革共同第3回全国委員会総会(3全総)。社会党・共産党をのりこえて階級闘争を戦闘的に推進していくことを確認。議長・黒田寛一派と書記長・本多延嘉派の対立が表面化する。
10月末 政治局内の本多延嘉が「本多フラクション(本多、野島、陶山、北川、白井)」を発足。
4月 黒田派が脱党して革マル派を結成。執行部を抑えた本多派は中核派を形成する(革共同第三次分裂)。

中核派はブント、解放派、構造改革派(構改派)と連合4派を組み、全学連を独占する革マル派と対抗していく。

9月13日 「清水谷公園乱闘事件」―中核派ら連合4派250名が集会しているところへ、革マル派150名が押しかけ、角材で乱闘。
7月2日 「早大殴り込み事件」―革マル派の拠点である早大に、中核派、解放派、構改派の3派が殴り込み。投石、角材で渡り合う。
7月 全学連第20回大会。会場を占拠する革マル派に対し、中核派130名がスクラムを組んで突入し激突。
連合4派から構改派が抜け落ちた中核派、社学同、解放派が三派都学連を結成。
日韓闘争日韓条約締結反対闘争)。学生運動の復活が始まる。
革共同第3回全国大会―安保粉砕・日本帝国主義打倒の基本路線をうちだす。そのもとで70年安保沖縄闘争に突入していく。
10月20日 10・8羽田闘争佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問阻止闘争。三派全学連を構成する中核派はヘルメットと角材で武装して弁天橋で機動隊と激突。この闘いで中核派学生・山崎博昭が死亡。
11月第二次羽田闘争
1月 米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争。佐世保市民の支持を得る。
2月~ 王子闘争。市民が闘いに加勢する。3月28日のデモで49人が基地内に突入。
10月21日 10・21国際反戦デー。都内各地で諸セクトが決起する中、中核派部隊は米軍タンク車の輸送を阻止するため新宿駅で闘争。新宿は2万人の群衆が暴動に加わり、騒乱罪が適用された。
11月21日 東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会。

日大東大を先頭に全国で大学闘争が高揚。

1月18日~19日 東大安田砦攻防戦。中核派は法研棟を死守。
4月27日 本多延嘉が破壊活動防止法違反(予備・陰謀)で逮捕される。
4月28日 4・28沖縄闘争。銀座で市街戦。
6月 都議会選挙。北小路敏が出馬するも落選。
8日 アスパック粉砕闘争。中核派学生の乗っていた電車車両が切り離され全員逮捕。
8月17日~18日 広島大学闘争。
9月20日~22日 京大時計台闘争。
10月~11月 「第1の11月決戦」――「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」「日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」のスローガンのもとに学生とともに労働者が武装闘争に決起した。
10月21日 国際反戦デー。新宿で市街戦。1600人逮捕(半数は労働者)。
11月16日~17日 佐藤訪米阻止闘争。蒲田で市街戦。2500人逮捕(半数は労働者)。
16日 中核派主力は午後3時30分、東京駅に約200名の部隊を結集、途中品川駅で200の部隊と合流して400の部隊で午後4時20分に京浜東北線蒲田駅東口に到着。機動隊との戦闘状態に入り、火炎瓶と催涙弾が応酬するが、20分で壊滅した。あとは電車が到着するたび200、100の小部隊が投入されるが次々に粉砕されてしまう。
4月28日 全国全共闘と全国反戦、6月行動委が共催の4・28闘争。デモ解散地に革マル派1000名が突入しようとするが入場を阻止。
6月 安保闘争―武装をひかえた肉弾デモで闘う。
7月7日 中国人青年からの糾弾を受けて自己批判を行い、「連帯戦略」を形成・深化させる(プロレタリア国際主義の7・7路線)。以降、中核派はありとあらゆる反権力的な大衆闘争にコミットしていく。
8月4日 東京教育大学(現筑波大学)の革マル派・海老原俊夫を法政大学構内で殺害する(東京教育大学生リンチ殺人事件)。夕刻から革共同大政治集会。
69年のダメージのため70年は武装実力を控えていたが71年に入り戦闘力が復活。現段階は69年11月決戦で質的に一歩高めた階級闘争を、さらにもう一歩すすめるための「死闘的調整期」であるとした。
2月 三里塚第一次土地強制収用阻止闘争。3週間、激しい闘争が繰り広げられた。
3月 破壊活動防止法違反で逮捕され、2年近く拘留されていた本多延嘉が解放。
6月15日~17日 沖縄返還協定阻止闘争。
17日 69年並の武闘が復活。明治公園に中核派を中心とする2万人のデモ隊が結集、公園周辺にバリケードを築き1時間にわたって解放区を現出。デモ隊に紛れ込んだ赤軍派により爆弾が投じられ大混乱に。逮捕者732名。
7月 三里塚農民放送塔死守闘争。ダイナマイトが使用される。
8月4日 革共同大政治集会ー秋期大決戦突入の号令。大衆によるコザ暴動、三里塚での農民の闘い、ノンセクトの爆弾闘争の頻発。これらの事件に中核派は影響を受け、「全人民的規模での「10・8」を!」と呼びかける。
9月 「三里塚決戦」第二次土地強制収用阻止闘争。中核派は数千人を投入。
10月20日 横国大で革マル派の美術学校生・水山を殺害。
21日 10・21闘争。ゲリラ戦の号令。新橋、有楽町で解放区型闘争。210名逮捕。
23日 首都圏の中核派拠点大学に革マル派がテロ攻撃。
11月14日 沖縄返還批准阻止を掲げて渋谷で機動隊と衝突。大坂正明が中村常雄巡査を残忍極まりない手口で殺害(渋谷暴動事件)。
19日 日比谷の松本楼が放火され、警備員が殺害。
12月4日 関西大学で、中核派の学生2人が革マル派の襲撃を受け死亡。
3月 対革マル戦争の路線対立で政治局員・田川和夫が除名。
9月 部落問題をめぐる意見の対立から沢山保太郎が除名。
2月6日 琉球大学構内で、活動と無関係の一般学生を「革マル派メンバー」として殺害する(琉球大学内ゲバ誤認殺人事件)。
3月6日 革マル派の機関紙「解放」発行責任者・堀内利昭(難波力)が、東京都渋谷区日通航空新宿営業所内で鉄パイプで襲撃され殺害。
3月14日午前3時頃 中核派の最高指導者本多延嘉が川口市戸塚のアパートで革マル派に殺害される(中核派書記長内ゲバ殺人事件)。
3月16日 中核派が記者会見。革マル派幹部である黒田寛一松崎明土門肇の「革命的処刑」を宣言するなど、革マル派への全面復讐を宣言。
3月20日午前0時過ぎ 革マル派の岡本良治及び中島章ら3人が潜伏していた荒川区東日暮里今村のマンションに、中核派が鉄製の三段式のはしごで侵入。3人をバールで殴打し殺害。
3月27日午後4時40分 革マル派の川崎市職員・西田はるみが神奈川県川崎市役所裏で鉄パイプで襲撃され死亡。初の女性死者。
4月1日午後10時過ぎ 革マル派千葉県委員長・船崎新が東京都墨田区内の喫茶店で殺害される。
車両基地に停車していた京成電鉄スカイライナーAE型に時限発火装置を仕掛けて全焼させるテロ事件を起こす(京成スカイライナー放火事件)。
対革マル戦争を担いロンドンに亡命していた上口孝夫が帰国し、正統本多派と称して「『勝利に向っての試練』編集委員会」(試練派)を立ち上げ、中核派から分裂した。(後に試練派は1983年、第四インターに近づくが失敗し、86年に「第四インターナショナル・ボルシェヴィキ派(準備委員会)」(ボル派)を結成し、機関誌『ボルシェヴィキ』を創刊した)
10月30日 大田区南千束の路上で革マル派活動家を襲撃。一度に5人を殺害。
3月8日 主に「一坪再共有化運動」の是非をめぐって三里塚・芝山連合空港反対同盟が分裂。「再共有化運動」に反対した中核派は、「北原派」を支持する。
1月 全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃。一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせる。
7月 全国一斉にふたたび三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃。一人に片足切断の重傷を負わせる。
9月19日 中核派の地下軍事組織である「人民革命軍」が、火炎放射器で自由民主党の本部を襲撃。本部ビルの一部を焼失させる(自由民主党本部放火襲撃事件)。実行犯として中核派活動家1人が逮捕されたが、後の裁判で無罪が確定している。
10月20日 三里塚第一公園での集会後、三里塚交差点付近で丸太、鉄パイプ、火炎瓶などを武器に機動隊と大規模衝突。機動隊員に重傷者9名を含む59名に重軽傷を負わせたほか、活動家らが多数逮捕される(10.20成田現地闘争)。
11月29日 首都圏大阪地区の国電運転線区で同時多発的に通信ケーブルを切断。さらに、浅草橋駅に突入・占拠し、放火(国電同時多発ゲリラ事件)。

以降、街頭実力闘争は行っていない。

1月20日 中核派全学連の副委員長代行を務めていた京都大学学生福島慎一郎が、一般学生に扮した数人の革マル派武闘派の鉄パイプによる襲撃で白昼の京大教養部構内にて殺害される。
4月15日 在日米軍横田飛行場を狙って、車の荷台から「迫撃弾」と称した金属の塊5個を射ち込む。
5月4日 東京サミットの式典会場となっていた迎賓館などを狙って、近くのマンションから「迫撃弾」「飛翔弾」と称した発射物5発を射ち込む(迎賓館ロケット弾事件)。その後、実行犯として中核派活動家4人が逮捕・起訴される。
7月1日 京都大学で、中核派活動家6人が革マル派の襲撃を受け負傷。
9月21日 千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏を鉄パイプで襲撃し、両足と左腕を骨折させる重傷を負わせる(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。それとともに「収用委員会解体闘争」として収用委員全員に組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け、翌月、収用委員全員が辞任し千葉県収用委員会の機能が完全に停止する。
7月3日 東京都議会選挙で中核派系とされる長谷川英憲(杉並選挙区)が当選(「杉並革新連盟」として出馬、のちに「都政を革新する会(都革新)」と改称)。
4月 日本飛行機専務宅放火殺人事件について、中核派革命軍による犯行声明が出される。
5月 「五月テーゼ」(03年以降は「新指導路線」と呼称)を決定
9月 外務省審議官実父宅放火殺人事件
年末 第20回拡大全国委員会総会(20全総)。議長に清水丈夫を、書記長に天田三紀夫をそれぞれ選出。
2月25日 午前二時三十分、革命軍が東京都世田谷区桜丘の運輸省(現・国土交通省)元航空局長の新築中の住宅に時限式発火装置を仕掛け、放火。「「成田空港二〇〇〇年平行滑走路完成」攻撃を絶対に粉砕することを明らかにする戦闘宣言」と発表。
11月 新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)次長の自宅に時限式発火装置を仕掛け、放火。
6月5日 公式サイトを開設
8月26日 運輸省(現・国土交通省)幹部の車両に時限式発火装置を仕掛け、放火。革命軍が「農民の営農破壊、生活破壊のためだけに暫定滑走路工事を強行してきた張本人」「強烈無比の爆破戦闘は、乗用車を大破し、家屋をも徹底的に破壊した」と軍報。
前半頃 「革共同第6回全国大会」を開催。「黒田哲学」に対する批判と、革マル派に対する「勝利宣言」が出される。
4月 千葉県職員宅に時限式発火装置を仕掛け、放火。
5月27日 中核派幹部や活動家、国労組合員が、同じ国労組合員に殴る、蹴る、首を絞めるなどの暴行をしたとして、10月7日、警視庁公安部は、国労闘争団員2人を含む国労組合員5人と中核派3人を逮捕した。検察は勾留満期の10月28日、8人のうち6人すなわち国労組合員5人全員と中核派1人が起訴され、中核派2人が釈放された。その翌日の29日、警視庁公安部は国労組合員2人をさらに逮捕した。11月18日、2人とも起訴された。
12月18日 中核派元幹部で中核派を批判する本を書いていた白井朗が何者かに襲われ、負傷。
8月 千葉県警幹部と同姓同名の男性が住む民家に爆発物を仕掛け、放火(県警幹部と誤認した可能性が指摘されている)。
8月4日 杉並区役所での「新しい歴史教科書をつくる会」教科書採択反対デモの中で、参加者の中核派活動家北島邦彦(現杉並区議会議員)が、ビデオ撮影をしていた男性に暴行を加えたとして逮捕される(後に釈放)。
11月6日 同派及び関係労組らが主催する「全国労働者総決起集会」で過去最高の2700人(警察発表)を動員。
12月 警察庁の「治安の回顧と展望」と公安調査庁の「内外情勢の回顧と展望」は中核派について、同派と関係のある市民団体と共闘して、「つくる会」の教科書の採択反対運動に関与していることを強く示唆。
3月 関西地方委員会の一部党員が「指導部の腐敗、堕落」を訴えて「決起」。同地方委員会の議長を務めていた与田らを追放したほか、指導部に対して自己批判を求める。

これ以降、「動労千葉派」を自称する「中央派」と、関西を中心とする「関西派」(「中央派」は「塩川一派」と呼称)との対立が表面化し、各地で「反中央派」の党員に対する処分が相次ぐ。

3月3日 迎賓館や在日米軍の横田飛行場などを狙って迫撃弾を発射し、爆発物取締罰則違反の罪に問われた中核派活動家に対し、東京地方裁判所懲役12年の実刑判決を言い渡す。被告人側は即日控訴
3月14日 中核派系全学連委員長ら29人が、法政大学で、大学敷地内で立て看板の撤去作業に抗議し、建造物侵入と威力業務妨害の容疑で現行犯逮捕される。
秋頃 第22回拡大全国委員会総会(22全総)を開催。関西地方委員会の議長だった与田ら5名に対する除名処分が決議される。
7月 政治局によって「7月テーゼ」が発表される。
夏頃 第23回拡大全国委員会総会(23全総)開催。政治局から発表されていた「7月テーゼ」が全国委員会として正式決定される。党指導部から求められていた自己批判を拒否したとして、政治局員2人を除名。あわせて、「都政を革新する会」のメンバーだった現役杉並区議と前杉並区議の2名に対する除名処分も決議される。
秋頃 第24回拡大全国委員会総会(24全総)。「関西派」の中心人物とされる塩川らを除名。
12月 「関西党員総会」を開催。中央派と関西派の一連の対立で機能停止状態だった「関西地方委員会」(中央派)の再建が宣言される。
5月28日 中核派系全学連委員長ら5人が、傷害と公務執行妨害の容疑で逮捕される。
5月29日 法政大学でデモが起こり、中核派学生活動家33人が逮捕される。
6月29日 渋谷で洞爺湖サミット反対デモが起こり、中核派活動家ら8人が、公務執行妨害の容疑で逮捕される。後日、前進社へ家宅捜索
7月3日 中核派活動家3人が、法政大学の敷地内に無断で侵入したとして、建造物侵入容疑で逮捕される。容疑者は、仲間の退学処分に抗議するためキャンパス内に侵入した。
4月24日 法政大学でデモが起こり、中核派活動家6名が公務執行妨害等の現行犯で逮捕される。
5月12日 千代田区一番町でデモ行進中、警備に当たっていた警察官に体当たりなどをした中核派全学連委員長織田陽介(28)が公務執行妨害で逮捕される。
秋頃 第25回拡大全国委員会総会(25全総)において、「綱領草案」が採択される。
2月5日 法政大学で、大学側による処分の撤回などを訴えていた中核派学生活動家6人が、威力業務妨害などの容疑で現行犯逮捕される(2月26日に全員釈放)。
3月4日 副議長の中野洋が胆管ガンのため病死(享年70)。
3月16日 中核派系全学連副委員長、京大法学部学生原田幸一郎(26)が京阪電鉄上り特急電車の中で、女子大学生の太ももを触った疑いで逮捕される。
11月13日 北小路敏が敗血症のため病死(享年74)。

現在、指名手配されている中核派のメンバー[編集]

()内は現在、生存していると仮定した時の年齢。

  • 大坂正明 - 1949年9月29日生まれ、北海道出身。殺人(渋谷暴動事件で中村常雄巡査を残忍極まりない手口で殺害)、放火など。

脚注[編集]


参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]