恋の都
『恋の都』(こいのみやこ)は、三島由紀夫の9作目の長編小説。全20章から成る。1953年(昭和28年)、雑誌「主婦之友」8月号から翌年1954年(昭和29年)7月号に連載され、単行本は同年9月20日に新潮社より刊行された。現行版はちくま文庫で刊行されている。
敗戦と共に切腹した右翼塾生の恋人のことを思いつづける才色兼備のジャズ・バンドのマネージャーが、彼女の元へ届けられた一本の白檀の扇をめぐって新たな運命にぶつかる恋愛物語。復興著しい東京の風俗や芸能界の活気を取り入れた娯楽的な趣の中にも、敗戦から冷戦時代を背景に、戦争に翻弄された男女の複雑な運命が日本とアメリカとの関係を軸にして描かれている。
作品背景[編集]
『恋の都』の執筆された前年に、GHQの占領は一応終るが、まだ当時の東京は占領下の延長線上にあり、作中でも米国人を前にした日本人の肩身の狭さが所々に読みとれる[1]。また、「MSA」という言葉が何の説明もなく表れるが、本作が刊行される翌年1954年(昭和29年)に日本はMSA協定(安全保障協定)に調印することとなる。さらに、「国際賭博容疑」(銀座で国際賭博を開き、手入れを受けた米国人のクラブオーナーがいた)、「北九州大水害」などの話題も出てきたり、精神病院の代名詞として「松沢病院」という言葉も使われ、当時の時事ネタや事件や世相が随所に含まれている[1]。
あらすじ[編集]
26歳独身の朝日奈まゆみは、六人編成の日本人ジャズ・バンド「シルバア・ビーチ」の敏腕マネージャーである。まゆみの父は一代たたき上げの芸能社の社長だったが、終戦直後に脳溢血で倒れ半身不随の身となったため、一人娘のまゆみが家計を支えていた。英語が堪能で有能な仕事ぶりだった美しいまゆみには言い寄ってくるアメリカ人も多かったが、大のアメリカ人嫌いのまゆみは彼らをいつもスレスレのところでうまくかわしていた。そんなまゆみをメンバー達は「聖処女」と密かに名づけ一目置いていた。何から何までアメリカナイズされた環境の中で、まゆみの心は国粋思想で、移動の車中で皇居の前を通る時は、そっと誰にも気づかれないように目礼し、ハンドバッグにはいつも一枚の大事な写真が忍ばせてあった。それは、口をきりっと結び、目は烈しい情熱を放っている丸刈りの、凛々しい紺絣姿の青年の写真だった。彼は右翼団体の塾生で、敗戦と共に代々木原頭で切腹して死んだ20歳の青年だった。まゆみは毎日、誰もいないところでその初恋の人の写真をそっと取り出し、「大丈夫よ。私、アメリカ人なんかに、決して、してやられないから」と誓うのだった。
9年前、その青年・丸山五郎(宮原大東亜塾生)は、開塾十周年記念会の余興の講釈師と落語家を依頼しに、中野にあった芸能社の朝日奈家を訪ねた。その時に19歳の五郎と17歳のまゆみは出会ったのだった。まゆみは五郎から九州男児らしい熱血文字で書かれた古風な恋文をもらい、中野駅のベンチや代々木練兵場(現・代々木公園)でデートをした。五郎は堅苦しい右翼思想や尊敬する師匠や軍人の話ばかりしていたが、やがて二人は樫の樹かげで初々しい接吻を交わした。そして、まゆみの一家が疎開をする別れ際には、「戦争で日本が大勝利する日に結婚しよう」と誓い合った。しかし敗戦となり、塾を訪ねたまゆみが見たものは、代々木原頭で切腹したという五郎の位牌だった。悲しみから何とか立ち直り、今の多忙な生活に注がれているまゆみの情熱は、この時の空虚と戦っているようなものだった。まゆみは五郎の肉体を抱きしめるように、彼の思想を抱きしめて生きていた。
10月31日、クラブ歌手で友人の梶マリ子に誘われ、まゆみは帝国ホテルで開かれたハロウィーン仮装舞踏会へ行き、その時、マリ子の連れで人気二枚目俳優・千葉光と知り合った。まゆみは光に求愛され少し惹かれたけれども、マリ子との友情の方を選んだ。まゆみには、光と踊っていても五郎の面影がちらつくのだった。その後、「シルバア・ビーチ」は、水道橋の野球場(後楽園球場)で行なわれた大ジャズ・コンサートに参加したが、主催者・昭和芸能社のイカサマが原因で、工藤のドラム・ソロ中に暴徒が雪崩れ込むという一騒動があった。しかし工藤の恋人・安子がそれを収め、これをきっかけに工藤と安子は結婚した。まゆみは今まで安子に抱いていた印象が変り、人や恋愛というものを型にはめすぎていた自分の見方を反省した。
ある晩、まゆみは築地のナイトクラブ「ジプシイ」で、店の米国人マネージャーから、X通信社のドナルド・ハンティントンという政治記者を紹介された。ドナルドは香港駐在中に知り合った日本人・近藤ゴロウから、「朝比奈まゆみという人に渡してくれ」と白檀の扇を託され、やっとまゆみを探し当てたのだった。まゆみは扇のいちばん端の木片の裏に何か書いてあるのに目をとめた。そこには「まゆみよ、僕は生きている。丸山五郎」とあった。ドナルドによると、近藤ゴロウは30歳前くらいだが、「僕は20歳さ。…僕の年齢はもう存在しないんだ。20歳の時に、僕は死んだのさ。それ以来、僕の年はなくなったんだ」と謎のようなことを言っていたという。そして、詳しい事情は言えないが英語が堪能なゴロウは半分アメリカ人のようになっているのだとドナルドは言った。扇が「白い檀(まゆみ)」を意味することに気づいたまゆみは涙を流した。まゆみは五郎が生きていたことに歓喜し、すぐにでも会いたかったが、やや冷静になると、五郎が別人のようになっていることを考え、昔の幻を大事にしお互い別々の道を行く方がいいのではないかとも思った。五郎がアメリカ人のようになっているという話を聞き、まゆみは自分がこの8年間、婚期を遅らせてまで張りをもって暮してきた意味が消滅し魂を失ったようになった。だがその一方、どんなに変化した五郎でも会いたいという気持もあった。
年が明けた1月下旬に突然、五郎がまゆみに会いに東京にやって来た。高輪の泉岳寺近くの料亭で待っていた29歳の五郎は、日に焼けアメリカ製の派手なネクタイをし2世のような面持ちになっていた。20歳の頃の朴訥さはなく、大人の落ち着きでこれまでの秘密の経緯を語り出した。五郎は昭和20年の4月に宮原塾長の命を受け上海へ密使として行き、特務機関で働いていたが、敗戦と同時に連合軍の収容所に入れられたのだった。日本に残った塾長や先輩達は皆、代々木練兵場で切腹した。五郎は、自分が上海に派遣されたのは、もう敗戦がわかっていた塾長が、恋人がいる自分を自決させないよう配慮したのだと、今は解ったと言った。そして、終戦時のごたごたで五郎もそこで死んだものと処理され、戸籍も死亡扱いとなり日本国籍がなくなっていたのが後に判明したのだという。
五郎は収容所の生活で徐々に国粋思想が氷解し、米軍中尉ホークスの下でボーイのようなことをし、中国共産党革命による上海危機の際に米軍中尉らと共に香港へ逃れた。ホークスは五郎を支那語ができる東洋人として、アメリカの某機関のエージェントに使う目的だった。五郎はスパイとして中共に侵入しアメリカのために働き、いつのまにかアメリカ人のような気持になっていった。しかしその間も、まゆみへの思いはずっと変りなかった。「理想もなく、定見もなく、矜りもなく…」と、自分の9年間の軌跡を苦笑する五郎に、まゆみは彼の通ってきた道の苦労と言葉にできない暗さを慮った。彼はもう昔の五郎と違っていたが、その目には昔の目のかがやきが潜み、気高さは変っていなかった。五郎は、「あなたがきっと元気で生きていて、僕のことを忘れないでいて下さると思うことが、暗い生活の唯一の光りでした」と言い、まゆみにプロポーズをした。五郎は今アメリカ国籍となっていて、近々本国で重大なポストと仕事を与えられ安定した生活になるので、まゆみを迎えに来たのだった。五郎に抱擁され接吻されたまゆみの気持はぐらついたが、今は「フランク・近藤」となっている五郎に戸惑い、その場から逃げ出してしまった。
五郎との結婚に迷ったまゆみは、バンドマスターの坂口に、五郎の仕事は暗示にとどめながら相談をもちかけた。坂口は、「右翼少年の五郎も、アメリカ人の五郎も、五郎は同じ五郎じゃねえか、社会が変化しただけだ、その変化を五郎一人の罪に押しつけようとするのは酷だよ」と言い、自分が昔、結婚するはずだった恋人と結婚せずに今の妻との生活を後悔していることを打ち明け、なまじ大人になってひねくりかえした考えよりも、まゆみが少女だったときの最初の判断、最初の願事であった五郎との結婚を選ぶ方が正しいのではないか、というアドバイスをした。「ジプシイ」の事務所にまゆみの返事を待つ五郎の電話が鳴った。まゆみは五郎のプロポーズの返事に、「イエスですわ」と感情をまじえないはっきりした声で答えた。
登場人物[編集]
- 朝日奈まゆみ
- 26歳。ジャズ・バンド「シルバア・ビーチ」の敏腕マネージャー。潤んだ美しい目と、誘うような少ししどけない唇をしている美人。戦前に浅田英学塾(津田英学塾)を出ていて語学が堪能。両親と荻窪に住んでいる。父親が半身不随のため一家の家計を支えている。敗戦と共に切腹して死んだ初恋の青年を思いつづけている。あだ名は「聖処女」。
- 丸山五郎
- まゆみが17歳の時の初恋の青年。右翼団体・宮原大東亜塾の塾生。敗戦の20歳の時に、代々木原頭で切腹して死んだ。丸刈りの頭で目ははげしい情熱を放ち、いつも紺絣を着ていた朴訥な青年。九州出身で中学時代から剣道部に入り、学校きっての硬派で八紘一宇の信念の持主。
- 坂口
- シルバア・ビーチのバンドマスター。テナーサックス担当。40代の肥った肺活量の大きそうな男。甘いテナーサックスの音と反対のガラガラ声。浅黒い丸顔にコールマン髭をたくわえている。妻と3人の子供がいる。頼りになる相談相手だが、実はまゆみに気がある。
- 本多
- シルバア・ビーチのバイブラフォン担当。30歳になったばかりなのに禿げている。無類のお人よし。
- 松原
- シルバア・ビーチのピアノ担当。四国出身の24歳。白い繊細な手をしている。すんなりして蒼白く大人しい美男子。40歳近い豪奢な和服の人妻と不倫し心中未遂をする。郷里の両親は尾道市に近い町で宿屋を営んでいる。
- 石川
- シルバア・ビーチのギター担当。20代前半。ニキビだらけの呑気な若者。この世に面白くないことは何一つないという顔つき。
- 織田
- シルバア・ビーチのベース担当。20代前半。大きなベースを、しじゅう眠そうな目つきで所在なげに抱いて弦を弾く。話し方も眠そうな口調。
- 工藤
- シルバア・ビーチのドラム担当。下町出身の20代前半。鋭い引き締まった顔。汗ばむ額に髪がはりつき、目を血走らせ人を殺しかねない表情でドラムを連打する。躍動的なドラム・ブギのソロのパートが聴衆を熱狂させる。
- 安子
- 工藤の恋人。有名な怪物政治家の令嬢。表情をあまり変えず、いつもつまらなそうな口調で話す。工藤のことが一番好きだが普段は態度に出さず半分ふざけて不誠実そうにしている。いざという時には革命を指導する女の英雄のように立派になって工藤を守る。工藤と結婚後は世話女房となる。
- スティーヴ・オコーナー
- 築地のナイトクラブ「ジプシイ」の新任マネージャー。金髪のアメリカ人。こすっからいところのある男だが童顔で得をしている。日本語をちっともおぼえない。53年型ナッシュに乗っている。まゆみに惚れているが振られる。振られた後はさっぱりとした友達となる。
- 梶マリ子
- まゆみの友人。人気歌手。大柄で、額がひろく口の大きい個性的な美人。額をかくす髪形で、肩までの長さのふさふさしたオカッパ頭。楽天的で無類のお人よし。何度男にだまされても懲りない。精神分裂症のように会話の話題がコロコロ変わる。
- ヘンリー・マクガイア
- ロング・プレイのムーンライト蓄音機のセールスマン。中年の肥ったアメリカ人。マリ子をくどこうとするしつこい男。真紅のポンティヤックに乗っている。
- ギルバアト・スターン
- スティーヴ・オコーナーの知人のアメリカ人。金持の息子だが道楽がすぎて、父親の会社の日本代理店へ平社員で派遣されている男。長めの顔で髪は黒に近い。荘重な顔だが、ちょっと笑うと急に造作がほどけてだらしない笑い方になる。麹町の緑色の洋館に住んでいる。
- ハニー・紙
- 人気司会者。シルバア・ビーチも参加した日比谷公会堂の「夏のジャズ祭」の司会担当。「はんかみ」をもじった名前だが、はにかみなど逆さに振っても出て来ない男。
- 大槻久左衛門
- 五尺十二寸のでっぷり肥った禿げ頭の男。大槻商事社長。大阪人。
- 大槻夫人
- 大槻久左衛門の妻。ピアノの松原と不倫をしている。熱海で二人は心中未遂をする。
- マシュウズ
- 中年の恰幅のよいアメリカ人紳士。整った顔立ちに口髭をたくわえ、いかにも正義派で自分の威容を意識しているタイプ。パイプをくわえている。帝国ホテルで、大槻久左衛門に監禁されたピアノの松原を、まゆみに頼まれ救い出す。
- るり屋の店員
- まゆみとマリ子がいきつけの、有楽町のN国際会館ビルにあるアクセサリー店の店員。
- 朝日奈義介
- まゆみの父。無学だが一代たたき上げの朝比奈芸能社の社長となった。持ち前の近江商人の腰の低さと抜け目のなさと堅実さで、戦前は多くの漫才師・講釈師・落語家や、流行歌手・楽団を持っていた。戦後、脳溢血で倒れ半身不随となると、冷淡なこの社会の人たちは忽ち義介を置き去りにして四散した。戦時中は各地の陸軍病院や軍需工場を、慰問芸能団を率いて廻わっていた。自宅と事務所を兼ねた朝比奈芸能社は中野区にあったが空襲で焼け、その後一家は荻窪に住んでいる。7年間寝たきり生活をしている。
- まゆみの母
- 妙な「科学的」理屈を考え出すのが、むかしから上手。鳶頭の娘で、男をアゴで使うことは平気で、戦前に夫と力を合わせて芸能社を築きあげた。
- 宮原天祐
- 右翼団体・宮原塾長。まゆみが通っていた浅田英学塾に来て、「神ながらの道と婦道」という演題で講演会をする。意外と気さくで如才ない。まゆみとの仲を打明ける五郎をからかうこともなく、うんうんと聞き見守る。日本の敗戦の近いことを悟り、若い五郎の命を救うため彼を上海にいる友人・川田ところへ密使として派遣する。
- N先生
- 浅田英学塾の作法の先生。いつもセカセカしていて、小さなことでも一大事の調子で話す癖がある。
- 千葉光
- 人気二枚目映画俳優。梶マリ子の恋人。日本人にしては大きな目で黒く澄んでいる。私大の文科を出ている。ミーハーファンを心の中で軽蔑しながらも愛している。俳優としての自分に誇りを持ち、役柄の幻影も手つだって、いつのまにか自分を「男の中の男だ」と信じている。まゆみとハロウィーン仮装舞踏会で知り合い親しくなり、アプローチする。舞踏会でまゆみは明治の女学生の仮装で、光は白い外国海軍士官の仮装。
- 榊原監督
- 千葉光が主演する映画「夢よはるかに」の監督。ジャンパーに鳥打帽の風采の上らない男。銀座のロケで、光にサインをねだる見物人を無愛想に怒鳴る憎まれ役。
- 藤原千鶴
- 千葉光の相手役の女優。ファンにニコニコと愛嬌をふりまく。
- 昭和芸能社の社長
- 与太者上りで、愚連隊をかかえているという噂がある社長。親分肌で愉快な人物だが、本物のヤクザ。イカサマ興行を平気でする。
- 昭和芸能社の専務
- 40代の男。まわりに4、5人の柄の悪い連中のとりまきがいる。気味が悪いほど愛想がいい。
- リズム・アップルス
- 二流バンド。そろいの紺のブレザー・コートの胸に赤い大きな林檎の徽章をつけている。
- アロハ・ハワイアン
- 一流ハワイアン・バンド。アロハシャツをみな着ている。シルバア・ビーチと共に水道橋の野球場(後楽園球場)の「青空ジャズ大会」に出るが、昭和芸能社のイカサマ興行に騙される。しかし2番手の出演で、無事に引揚げられた。
- ステイジ・ブリリアンツ
- 一流バンド。4番手で出演。
- 新制大学の女子学生10名
- 青空ジャズ大会を見に来ていたシルバア・ビーチのファン。励ましのファンレターを出す。
- 清川
- 青空ジャズ大会の司会者。躍るような恰好で登場し駄洒落を言う司会のスタイル。イカサマなコンサートに怒った観客にチューインガムを投げつけられる。
- 土屋
- アロハ・ハワイアンのマネージャー。肥った男。昭和芸能社のイカサマをまゆみに教える。
- 工藤の両親
- 下町の手がたい小工場主。下町の人らしく、ペコペコとすぐ頭を下げる。
- 安子の父親
- 怪物政治家。立志伝中の人で苦労人。多忙な中も月に一ぺん、娘と一緒に出かける習慣がある。
- 安子の母親
- 毎晩遊びに出かけ、ポーカーをして夜を明かす有閑マダムで娘のことなど考えていない。ドラムの工藤と娘の結婚披露宴でも派手なドレスで自分のパーティーのようにふるまい、ピアノの松原に色目を使う。その後追っかけになり、松原に積極的にアプローチする。
- ドナルド・ハンティントン
- アメリカX通信社の政治記者。アメリカ人にはごくありふれた丸顔で、少し上向きかげんの愛嬌のある鼻をしている。毛むくじゃらの手。香港で五郎からまゆめへの白檀の扇を託される。
- フランク・近藤
- 生きていた丸山五郎。よく日に焼けた快活そうな青年。敗戦後に上海で連合軍の収容所に入れられた後、中国共産党革命の際に米軍中尉ホークスに連れられ、香港でアメリカの某機関の諜報部員となる。支那語も英語も流暢に話せる。国籍はアメリカ。
作品評価・解説[編集]
『恋の都』は娯楽的な恋愛小説でありながら、その背景には、国粋主義者だった青年が敗戦によりCIA要員となっていたという展開にも表われているように、戦後の日本とアメリカの関係性が色濃く随所に描かれ、ヒロイン・まゆみが、ホテルに監禁された楽団員・松原を救うために、「口髭をたくはへ、いかにも正義派的」な「恰幅のよい」米国人・マシュウズの威を借りて、事を解決した自分のことを「日本政府みたいな遣口」だと思い、その見返りをまゆみに求めたマシュウズの出方を、「アメリカ人一般の例に洩れず、MSA式なやり方」と思うなど、寓意が所々にちりばめられている[2]。
こういった作中の寓意について武内佳代は、「帝国(西洋)と植民地(東洋)の関係がジェンダーの非対称性として表象されている」とし、こういった『恋の都』の挿話には、GHQ撤退後の戦後日本がいまだ米国の植民地であることが前景化されていると述べている[2]。よって、「まゆみの貞操の死守」は個人的な復讐劇を超え、「戦後日本における米国支配への抵抗そのものの寓意」と読解でき、それは、『潮騒』の新治が沖縄の荒波で船の危機を救った挿話に見られる寓意と同じであると武内は説明し[2]、まゆみが下心のある米国人たちから処女を守りながら、見事に賃上げ交渉をまとめた時の楽団員たちのまゆみに対する尊敬や信頼にも、それは端的に示されているとしている[2]。そして、「貞操の死守という占領国への抵抗」こそ、彼ら敗戦国の男性を喜ばせ、元気づけられ、胸に五郎の「弔合戦」を続けるまゆみにとって、いまだ戦争は終わらないと解説し、『恋の都』は『潮騒』よりも、より明瞭に、「純愛と天皇の<法>との連繋や、そうしたものと米国支配の影と対立関係」が描かれていると述べている[2]。
そして武内は、五郎の肉体を抱きしめるように、その思想を抱きしめてきたまゆみが、今や米国のスパイとなり、米国籍を取得して「フランク・近藤」となった五郎と再会し、葛藤の末、五郎のプロポーズを承諾したのは、まゆみの内心において、日本の敗北を意味しているとし、「イエスですわ」と返事をする場面には、米国を受け入れて敗北を抱きしめた当時の戦後日本の趨勢をそのまま透視することができると解説している[2]。また、その、「愛の裏切りでもあり愛の成就でもある」結婚は、「天皇陛下への絶対の愛、日本人としての絶対の矜り」という「生きる糧」を喪失し、本当の「敗戦」を迎えたことを意味しているとし[2]、プロポーズを英語混じりで受け入れたまゆみは、「米国の救済によって存続した、矛盾に満ちた戦後天皇それ自体の表象であるとも言い換えられる」[2]と武内は述べている。そしてその承諾を作者・三島が、「感情をまじへないはつきりした声」と記述し、あたかも交渉に臨むような身振りをまゆみにさせているのは、まゆみの諦念だけでなく、「作者の諷刺的眼差しをも滲ませている」[2]と解説している。
『恋の都』で語られる「国家」と「処女」の帯びる意味は現在の日本では変わってしまったけれども、本作は今でも十分純粋に恋愛小説としても楽しめると解説している千野帽子は、この作品が当時の時事ネタや、ハニー・紙というトニー谷風のコンサート司会者などの風俗をふんだんに取り入れている点に触れ、「“古くなった”と思われがちな『恋の都』が、いまとなってはなんと愛おしく見えることか」[1]と述べている。また、帝国ホテルで行なわれるハロウィーン仮装舞踏会の場面で、まゆみが束髪と袴の明治の女学生に扮して優勝するという皮肉な場面に触れ、民主化なんて、しょせん敗戦を忘れるために、「日本の“世間”に米国文化を植えつけているだけではないか」という文脈を無視しての「三島の哄笑」が聞えてきそうだと述べ[1]、「発表時期が近いだけで一見接点のなさそうな娯楽小説『恋の都』と戯曲『鹿鳴館』を並べてみると、明治の近代化と戦後の民主化との共通するトホホ感が、浮かび上がってくるではありませんか」[1]と解説している。
おもな刊行本[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 文庫版『恋の都』(付録・解説 千野帽子)(ちくま文庫、2008年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第4巻・長編4』(新潮社、2001年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第28巻・評論3』(新潮社、2003年)
- 武内佳代『三島由紀夫「潮騒」と「恋の都」――(純愛)小説に映じる反(アンチ)ヘテロセクシズムと戦後日本』(お茶の水女子大学ジェンダー研究、2009年3月)