金日成
金 日成(キム・イルソン、1912年4月15日 - 1994年7月8日)は、朝鮮半島の抗日運動家・革命家で、朝鮮民主主義人民共和国の政治家、軍人。1948年から1972年までは同国の首相であり、1972年から1994年に死去するまで国家主席であった。また、1949年の結党以来、同国を一党独裁によって支配し続けている朝鮮労働党の最高指導者の地位にあった。
称号はソ連軍大尉・朝鮮民主主義人民共和国大元帥・朝鮮民主主義人民共和国共和国英雄(三回受章しており「三重英雄」と称される)。
北朝鮮においては「偉大なる領導者」「首領様」などの賛辞とともに崇拝され、彼の死後1998年に改定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。現在、遺体は平壌近郊の錦繍山記念宮殿に安置・保存されている。
目次
姓名と呼称[編集]
テンプレート:北朝鮮の事物 少年時代まで「金 成柱」(キム・ソンジュ〔김성주〕)(「金 聖柱」という説も)という名であったが、活動家となって以後は「金 一星」(キム・イルソン〔김일성〕)と名乗り、さらに「金日成」(発音は「金一星」と同じ)と改名した。
同国の公式伝記では、当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「星では足りない、太陽とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。
日本では1980年代以降、漢字表記のまま「キム・イルソン」と朝鮮語読みされるようになり、現在では「キム・イルソン」とカタカナ表記することも多くなっている。ただし、朝鮮語の発音規則に則ると「キミルソン」(Kim Il Sung)がより原音の発音に近い。この発音は朝鮮の声放送の日本語放送でも用いられており、「キム・イルソン」という発音は一切使われなくなっている。
経歴[編集]
出生[編集]
諱は金 成柱(キム・ソンジュ)。「ソンジュ」という音に従って「聖柱」または「誠柱」と表記した資料もある。「日成」は、本格的に抗日パルチザン活動に参加した1932年ころから使い始めた号である[1]。
金亨稷の嫡男として、1912年4月15日、平壌西方にある万景台(マンギョンデ)に生れた(平安北道宣川 との説もある要出典)。母康盤石はキリスト教徒であり、外祖父康敦煜はキリスト教長老会の牧師であった[2]。彼の家族は抗日派もしくはそのシンパであったためか、1919年3月1日の独立運動(三・一独立運動)直後1920年に、金日成を連れて朝鮮を出て南満洲(中国東北部)に移住した。
金日成は満州、平城の小学校で学んだ後、1926年、満州の民族派朝鮮人独立運動団体正義府が運営する軍事学校、華成義塾に入学した。正義府の幹部には池青天がいて、数年前に現役日本軍将校だった青天や金擎天が教官を務めた新興武官学校の流れをくむ学校である。しかし、ここを短期間で退学した。この前後に父の亨稷が没していて、亨稷は正義府に関係していたとされる[3]。
父親が没した後、金日成は吉林の吉林毓文中学(中国人中学校)に通いながら、共産主義に関係していた小さな組織に参加した。彼はこの非合法組織の運動で逮捕されたため、中学校を退学になった。
中国共産党入党[編集]
金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満州の朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団だった。1930年、中国共産党から派遣された朝鮮人運動家・呉成崙(全光)が、コミンテルンの一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では、入党しなかったものと推測されている[4]。金日成の中国共産党入党は、1932年とするものと1933年とするものと、二つの記録が中国共産党側の史料に残っている[5]。したがって、これ以降に、金日成は、中国共産党の指導する抗日パルチザン組織東北人民革命軍に参加し、さらには1936年から再編された東北抗日聯軍の隊員となるに至った、ということになる[6]。
東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件)[7]。
当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。にもかかわらず、金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては、第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている[8]。
抗日パルチザン活動[編集]
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は抗日パルチザンとして有名になった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと[9]、何より、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にした。
その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムフン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ[10][11]、1940年3月には、満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させている[12][13]。
このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
ソ連への退却[編集]
しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともにソ連領沿海州へと逃れた[14]。
ソ連に越境した金日成は、スパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後周保中が彼の身元を保障して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊はソ連極東戦線傘下の第88特別旅団(旅団長は周保中)に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる[15]。
帰国[編集]
1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。金日成は9月19日にウラジオストクから元山港に帰国した。
10月14日、平壌でソ連軍の歓迎集会が開かれた。参集した朝鮮民衆の前に金日成が姿を現した時、「彼は『金日成将軍』とは別人ではないか」という噂がたった。「金日成将軍」は既に1920年代から抗日英雄として、朝鮮半島北部の住民達の間で伝説的な存在になっていた(一部には義兵闘争以来の英雄であるとの噂も広がっていた)ため、「金日成将軍」が白髪の老将軍だと思い込んでいた人々も多かった。しかし、実際に現れた「金日成将軍」は、長い活動歴の持ち主にしては余りに年齢が若過ぎ、出迎えた民衆は驚いたのである。
金日成は帰国直前にモスクワに呼ばれてソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンと会談しており、ソ連が朝鮮半島北部地域で樹立を計画していた共産党政権の指導者として認定されていた。ソ連は金日成を凱旋者として華々しく演出し盛り立てようとしていたと思われる。しかし、ソ連軍歓迎集会で金日成を偽者ではないかと疑う声が多く挙がったため、あわてたソ連軍は平壌郊外の万景台に“金日成将軍の親類”なる人物が存在すると宣伝し民衆をツアーに招待して面会させ、疑いを晴らそうとしたという。
指導者へ[編集]
1945年12月17日、金日成は朝鮮共産党北朝鮮分局(1946年6月に北朝鮮労働党に改組)の責任書記に就任した。
ソ連占領下の朝鮮半島北部では、1946年11月3日に南北朝鮮全域を選挙区とする総選挙が行われ、北朝鮮臨時人民委員会が半島北部の臨時政府として成立した。金日成は、ソ連の後押しでその委員長となった。
しかし、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は、1970年代に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入に怯えなければならない要因となった。
1948年9月9日、ソ連の支援を受けた朝鮮半島北部は朝鮮民主主義人民共和国として独立し、金日成は首相に就任した。さらに翌年6月30日に北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(のち総書記)に選出された。
朝鮮戦争[編集]
1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については諸説あり、スターリンの指示によるものであったという説、朝鮮人民軍の一部が暴走して始まったとする説、金日成自身の指示があったとする説がある。一説には「戦争がおこれば南朝鮮の国民が雪崩をうって立ち上がり、祖国統一が達成される」と南朝鮮労働党から聞かされていたとされる。
当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。9月15日、アメリカ軍が仁川上陸を開始すると、一転して敗走を重ねるようになった。金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹)[16])を疎開させた後、10月1日には部下に戦争の指揮を任せ、自らも逃亡した。
その後、中華人民共和国が中国人民志願軍を派兵してきたことによって戦局は膠着状態に陥る。その頃南側では、金日成が行方不明になったので「平壌で戦死してしまった」とか「事故死して影武者が立てられた」とする噂が立った。しかし、1953年6月の休戦後、何食わぬ顔で平壌に帰還した。
粛清[編集]
反満州派の粛清[編集]
金日成派は満州派とも呼ばれる満州抗日パルチザン出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。当時、満州派は、外部からはソ連派との区別がついていなかった。ソ連派は、金日成を中心とする親ソ共産主義政権を作らせるために送り込まれたソ連国籍の朝鮮人(高麗人)たちによって構成されていた。
満州派はまず、ソ連派と共同して警察と軍を押さえることに専念した。当時、植民地時代から朝鮮で活動していた共産主義者たち(国内派)が最大の勢力を誇っていた。金日成と満州派はまず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には朴憲永をリーダーとする南労派(国内派の主流と目された一派。ソウルを中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。
中華人民共和国の建国後に同国から朝鮮に戻った延安派(中国共産党の援助で抗日闘争を展開していた)は、南労派の粛清を黙視していたが、その後、ニキータ・フルシチョフのスターリン批判を受け、ソ連派とともに金日成の批判を試みた。これは失敗に終わり、自らも粛清されるに至った(8月宗派事件)。
さらに満州派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。1967年5月には国内北部で活動していた朴金喆ら甲山派なども粛清し、満州派が主導権を握るに至った。この頃までに満州派の中からも金策の変死事件が起こるなどしている。
参考として朝鮮労働党初代政治委員の名簿を以下に掲げる。金日成以外の政治委員が排除されていったことが見てとれるだろう。
- 金日成(政治委員 満州派)
- 朴憲永(政治委員 南労派) - 処刑
- 許哥而(政治委員 ソ連派) - 変死
- 金枓奉(政治委員 延安派) - 獄死
- 李承燁(政治委員 南労派) - 処刑
- 金三龍(政治委員 南労派) - 処刑
- 朴一禹(政治委員 延安派) - 追放
- 金策(政治委員 満州派) - 変死したとも、朝鮮戦争で戦死したとも言われる
- 許憲(政治委員 南労派) - 事故死
- 崔昌益(組織委員 延安派) - 獄死
満州派内部の粛清[編集]
1969年以降、満州派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光(1977年に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が展開され、金日成の後妻の金聖愛(1993年に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の金英柱(1975年に失脚、1993年に復帰)、叔父の娘婿の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には政治犯収容所へと送られた。
金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。全体主義体制の生理であるとする立場、満州派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、金正日後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。
独裁体制の確立[編集]
金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。1950年代のうちに社会主義体制(ソ連型社会主義体制)を築き、1960年代末までに満州派=金日成派独裁体制を完成させた。
1972年4月15日、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、個人崇拝が強まると国外の懸念を生んだ。12月28日には新憲法を公布し、新設された国家主席の地位に就いた。新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。さらに1977年、金日成は国家の公式理念をマルクス・レーニン主義から「主体(チュチェ)思想」に変更した。
国家主席として[編集]
国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。
1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。
1980年10月に第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。
1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。
1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。
1991年12月6日咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可無しに電撃訪朝した統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるが故に世界を驚かせた[17]。会談では離散家族再開に取り組むこと、核査察を受けること自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的窮地を救われる。
1992年1月30日に金日成は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し、1994年3月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、ジミー・カーター元大統領を北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた。
後継者問題[編集]
経過は不明ながらも、結果として金正日が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。
金日成及び北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。
北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。
後継者選定については
- 継続革命が必要であるように首領には後継者が必要だ
- 後継者には最も優秀な人物が就かなければならない
- 後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない
と言うプロパガンダを徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。
このプロパガンダのあり方は、世襲そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。
金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。
死去[編集]
金日成は、1994年7月8日に死去した。この年、息子の金正日が病気治療中であった為、死亡までの間、様々な課題の解決に向けて、自ら精力的な陣頭指揮に当ることになる。内政では、低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では、一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、ビル・クリントン大統領の密命を帯びたカーター元大統領の招朝実現と、直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるとの彼特有の「円環の理論」に基づく賭でもあったが、交渉の結果、米朝枠組み合意を実現した。その次には当時の韓国大統領金泳三との南北首脳会談の話が持ち上がっていた。そのために、彼の死は世界に衝撃を与えた。
北朝鮮政府の公式発表では、執務中の心臓発作が死因とされている。長く心臓病を患っており、82歳と高齢であったことからも、一般には病死は事実と考えられている。死去前日にも、経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。セメント生産が成否を握ると叱咤した上で(この映像と音声は記録映画『偉大な生涯の1994年』に収録)党官僚の「形式主義」を声を荒らげて非難しながら「やめていた」はずの煙草を吸った後に寝室に入ったとの情報がある。このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や暗殺を疑う声が上がった。しかし、米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。
また、韓国の中央日報が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し、北朝鮮は激しく抗議した。同日、金正日は金日成に会っていないことが記録上明らかである。
死後、遺体はエンバーミング処理によって保存され、主席宮殿を改造して錦繍山記念宮殿が設けられた。
死後の評価[編集]
訪朝経験のあるジミー・カーター元米大統領はタイの新聞との会見で金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評している。
日本人女性が見た金日成[編集]
金日成が帰国した当時の朝鮮半島には、まだ多くの日本人が残留しており、避難民はソ連軍や朝鮮人から使役と称して強制労働を強いられていた。このころ金日成宅では2人の日本人女性が女中として働いていた。日本人の元女中の回想[18]によると、金日成は、接収した日本人の邸宅に住んでおり、夫人とユーラ(長男。後の正日)・シューラ(次男。万一ともいう)という名の息子と一緒に住んでいた。食事方式はロシア式を採用し、朝食10時、昼食3時、夜食が9時~10時だった。金正淑夫人も日本人女中2人に、当時の日本人避難民の平均的な食事からすれば豪華な白米や鶏肉等を食べさせていた。ただし食事以外では金家の生活程度は高くは無く、トイレはチリ紙ではなく新聞紙で用を足し、時にはボール紙で用を足してトイレを故障させてしまうこともあったという。
ある日、金日成は2人に『アカハタ』を見せ、野坂参三を立派な男だという手つきをしてみせた。2人は「ついに日本も共産党の国になってしまったのか」と悲しい表情をしてみせた。金日成は「共産党は嫌いですか?」と問うと2人がうなずいたため、驚いた表情をしたあと笑って黙っていた。それから数日後に金日成は2人にマルクスやクロポトキンの本を渡したという。このような金日成であったが、身辺は不安だったらしく自宅へ至る道の要所に警備兵がおり、門前には番兵が立っていた。また枕の下には常に護身用のピストルを潜ませていた。
このころ、金日成の弟である金英柱が自宅に出入りするようになった。ある時、2人のうちの1人の姉が朝鮮人の集団にリンチされ重傷を負った。以前、仲間が姉の訴えで共産党本部によって厳罰に処せられたとことの報復だった。このことを知った英柱は共産党本部から兵を連れ、リンチを行った朝鮮人を捕まえて痛めつけ、牢に入れた。そして、被害者に「朝鮮人民が迷惑をかけた」と謝ったという。翌日、英柱は2人に「共産党は日本の帝国主義、軍国主義に排撃するのであって日本人を憎むのではない」と語った。その場にいた金日成は2人に共産党が好きになったかと問うと、2人は少しうなずくと「でも、天皇陛下の方が好き」と答えた。すると金兄弟は笑い出し、それ以後は2人の日本人に再教育するとは言わなくなった。その後、2人が南から日本へと帰国したいと申し出たため、金日成は南への通行証を渡し、今までの礼を述べた。最後は一家で2人を見送ったという。
系譜[編集]
- 金氏 本貫は全州金氏。自伝『世紀とともに』によると、「金膺禹の10代前の先祖金継祥が、全羅道から平安道へ移住して来た」という。金膺禹は、「朝鮮平壌中城里の出身で、生活苦から平壌の地主李平澤家の墓守をする為に万景台に遷って来た」という。金日成はその曾孫にあたる。
∴ 膺禹 ┃ ┃ ┃ 輔鉉 ┃ ┣━━━━━━━━━━━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 亨稷(順川) 亨禄 亨権 女 ┃ ┃ ┣━━━━━━┳━━┓ ┣━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 成柱(日成) 哲柱 英柱 永柱 元柱 昌柱 女 ┃ ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━┳━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 正一(正日) 萬一 成一 平一 英一 清一 女 女 女 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 正男 正哲 正銀 仁剛 成剛
家族[編集]
- 曾祖父:金膺禹(1848年旧暦6月17日 - 1878年旧暦10月4日)
- 曾祖母:不詳
- 祖父:金輔鉉(1871年旧暦8月19日 - 1955年新暦9月2日)
- 祖母:李寶益(1876年旧暦5月31日 - 1959年新暦10月18日)
- 父:金亨稷(1894年旧暦7月10日 - 1926年新暦6月5日)
- 母:康盤石(1892年旧暦4月11日 - 1932年新暦7月31日)
別人説[編集]
日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身するキム・イルソン将軍伝説があったことには、多くの証言がある。伝説の将軍は、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などといわれていた[20]。
金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」という声があがった[21]。金成柱が伝説を利用して「金日成」と名乗っただろうことについては、『金日成と満州抗日戦争』において、別人説を否定した和田春樹も認めている。別人説は、金日成が伝説を剽窃したことによって出てきたものであり、伝説のモデルが実在する可能性は高い。伝説のモデルについての探索と、金日成のパルチザン活動の実体については、別個に考える必要がある。
伝説のキム・イルソン将軍については、李命英が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという金一成(キム・イルソン)と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金擎天が、生まれた年がともに1888年、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないか、と佐々木春隆は推測している[22]。
普天堡(ポチョンポ)の事件によって、東北抗日聯軍第六師長である金日成の正体について多くの伝聞が飛び交った。
彼を27歳で平壌近郊出身とするもの、36歳の人物だとするもの、陸士卒業生だとするものなどである。また、普天堡襲撃に関与した者が逮捕されたときの供述が事前の情報と矛盾することから、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長・金日成と、後にソ連軍政下で有力指導者として登場した金日成とは別人ではないかと疑われている[23]。これに対する和田春樹などによる反論もある[24]。
諱は初め聖柱のち成柱と改める。父亨稷は順川と号し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、1926年6月5日共産主義者の朝鮮人に暗殺されたという。その後母は中国人の警察隊隊長の妾になる。のちに中国共産党系の馬賊の一員となり、一星(イルソン)を名乗る。ソ連軍に担がれて北朝鮮入りする際に、伝説の英雄金日成の名をそのまま借用した。本物の金日成は、1937年9月に日満の警察隊と交戦し射殺される[25] 。
元抗日パルチザンの多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである[26] 。
また、金日成が朝鮮戦争中に連合軍側に狙撃されて、戦死した。若しくは事故死したという説が朝鮮戦争中の韓国で広まった。しかし、この時期は金日成が一族を伴って、中国領の吉林に逃げ込んだという話がある。そのため、息子で後に朝鮮労働党の総書記となる金正日は吉林の小学校に通っていたとされている。
脚注[編集]
- ↑ 許東粲 『金日成評伝 新装版―虚構と実像』亜紀書房、1992年、7-19頁。335-342頁には、朝鮮占領ソ連軍所属の高麗人・鄭律の証言が載っているが、それによれば、解放後の北朝鮮に帰国当初には、金日成は金成柱と名乗っていたという。
- ↑ 北朝鮮の公式文献では両親の信仰については特に触れられていないが、康敦煜が使徒「ペテロ」の名に因み女性の名としては珍しい「盤石」という名を娘に付けた逸話は良く知られている。
- ↑ 許東粲 『金日成評伝 新装版―虚構と実像』亜紀書房、1992年、63-81頁。和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年、30-32頁。
- ↑ 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年、70-71頁
- ↑ 水野直樹・和田春樹『朝鮮近現代史における金日成』神戸学生青年センター出版部、1996年、24-26頁
- ↑ 長らく北朝鮮の公式プロパガンダでは金日成が指揮した部隊は「朝鮮人民革命軍」であったとされ、東北人民革命軍、東北抗日聯軍という名称や中国共産党の指導には言及されていなかった。但し1958年に書かれた李羅英「朝鮮民族解放闘争史」では金日成が中国共産党に入党したことを仄めかしている。金日成は死去の直前に自身によって記した自伝『世紀とともに』(未完)において、中国共産党指導下の東北抗日聯軍に在籍していたことを率直に吐露している。またそこでは、李立三の下で極左路線に流れた中国指導部との間に、路線上、民族上の葛藤があったことも記している。
- ↑ 1933年から「反民生団闘争」が始まったことによって400名余の朝鮮人が粛清され、抗日闘争の継続に大きな障害をもたらしたとされている。
- ↑ 水野直樹・和田春樹『朝鮮近現代史における金日成』神戸学生青年センター出版部、1996年、24-26頁
- ↑ 徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、42-48頁。金日成部隊に関する朝鮮半島内の報道は、おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに同情を寄せたものが多かった。
- ↑ 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、800-802頁。金日成部隊は、1940年3月11日には安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。苦力およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満州人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満州警察・前田隊の追うところとなった。
- ↑ 徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、47-53頁。金日成部隊の兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に訓練を施しては兵士に仕立てた。また食料の調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求めに応じない場合には、人質の耳を切り落とすと脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々を恐怖に陥れた。
- ↑ 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』、平凡社、1992年、272-273頁。金賛汀『パルチザン挽歌』、御茶の水書房、1992年、189-190頁。佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、800-802頁。前田隊140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。
- ↑ 和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、41頁。前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人であり、死亡者も多くがそうだった。
- ↑ 和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、43-46頁。
- ↑ 但し、北朝鮮の公式文献では40年代に金日成らがソ連領内に退却していたことについて触れておらず、金日成の息子である金正日も、ハバロフスク近郊のヴャツコエやウラジオストク近郊のオケアンスカヤではなく白頭山で生まれたことになっている。
- ↑ 次男シューラは1947年に事故死している。
- ↑ 文鮮明は1980年代後半頃から「神主義」、「頭翼思想」といって、サタンの側にある共産主義の国家や人も最終的には神の愛で救うと言う思想を強調しているので、その思想に矛盾はないと教会側では説明している。
- ↑ 小林和子(旧姓:萩尾)著『私は金日成首相の小間使いだった』(奥村芳太郎編『在外邦人引揚の記録』1970年 毎日新聞社)
- ↑ (2009-11-06) 【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典 中央日報 [ arch. ] 2010-02-24
- ↑ 李命英著『金日成は四人いた』より
- ↑ 萩原遼著『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』に詳しい。
- ↑ 佐々木春隆著『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』より
- ↑ 李命英著『金日成は四人いた』など
- ↑ 後に朴金喆、朴達らが恵山事件により逮捕され、彼らから金日成は普天堡襲撃当時36歳の人物だと言う供述が引き出された。しかし、満州国の朝鮮人治安関係者は金日成は事件当時27歳平壌近郊の平安南道大同郡古平面南里出身の人物で、既に日満側に帰順していた金英柱の実兄であるといった情報を集め、金日成の祖母や金英柱を連れて来て投降を呼びかけている。その後の朝鮮総督府の記録でも、「金日成の身許に付ては種々の説があるが本名金成柱当二十九年平安南道大同郡古坪面(原文ママ)南里の出身」(思想彙報20号(1939年9月))と記されている。こうした事情から、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長と、後に北朝鮮政府首班として登場した金日成とは別人ではないかと疑う意見が出た。李命英は聴き取り調査などに基づいて金日成複数説を提起した。しかし、抗日運動家に関する記述に齟齬があるのは珍しいことではなく、結局は朝鮮総督府がその他の情報・供述を排して「本名金成柱当二十九年」としていることなど、李命英の日本に保存されていた資料の読み落としが指摘され、両者は同一人物で間違いないという反論(和田春樹など)がなされている。
- ↑ 『続 日本人が知ってはならない歴史』 p48, 若狭和朋 朱鳥社 (2007年) ISBN 978-4-434-11358-1
- ↑ 『朝鮮半島最後の陰謀」』 p85, 李鍾植 幻冬舎 (2007年) ISBN 978-4-344-01323-0 その「本物」とされる金日成はスターリンに粛清されたと各国諜報機関で通説となっており、ソビエトが朝鮮人を糾合のために金日成を作り上げたとしている。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 金日成回顧録「世紀とともに」(中国語)
- My China News Digest(中国語) - 粛清された初期要人達の死因なども紹介。
- 朝鮮族近現代史-朝鮮族ネット(日本語)
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