日本人
日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは、一般に日本国の国籍を持つ者、もしくは日本国内に古来より居住してきた、日本列島にルーツ(起源・祖先・由来等)を持つ人々の総称である。
目次
概要[編集]
日本では、国籍、文化・習俗・民族、遺伝的形質のそれぞれを基準とした分類による「日本人」の対象が重なることが多いため、概念的にもどの基準によるものかは日常的には明確にされず、しばしば混同される。
定義と分類[編集]
日本人は、次のような幾つかの考え方により定義・分類が可能である。
- 国家による分類 - 日本国民。ただし、「日本」を国号としたのは701年(大宝元年)頃とされており、それ以前は「倭国」と自称していた。なお「倭人」と言う名称は中国からの呼び方であり、蔑称とする説もある(倭人を参照)。
- 地理的分類 - 日本列島に居住する者。
- 人類学的分類 - モンゴロイドの一つ。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から琉球諸島までの地域に住んだ集団を祖先に持つ。シベリア、樺太、朝鮮半島などを経由する北方ルート、南西諸島などを経由する南方ルートなど複数の渡来経路が考えられる。
民族としての形成[編集]
大和民族参照
以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでおり、先史時代の日本人の形成については流動的な状況にあることに留意されたい。
石器時代の日本人[編集]
石器時代の日本列島には下記の人が活動した記録がある。
- 種子島の横峯遺跡からは、約3万年以上前の地層からは、日本国内最古の調理場跡が発見されている。なお、南九州の地層は火山灰による時代の確認が容易である。
- 愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨が発掘されている。
縄文人と弥生人[編集]
先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文土器を使用していたことに因み縄文人と呼んでいる。水稲農耕が始まった弥生時代の日本列島に居住する日本人を弥生人と呼んでいる。佐原真は弥生人について、渡来系の人々とその子孫、渡来系と縄文人が混血した人々とその子孫などの弥生人(渡来系)と、縄文人が弥生文化を受け入れて変化した弥生人(縄文系)に区別できるとした。ただし弥生時代において縄文文化のみを保持するものや渡来した後縄文文化を受け入れたものについては言及すらしていない。渡来系の人々の移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。
倭人の住居地は『山海経』および『後漢書』の時代から日本列島を指している。日本人の旧対外的な名称である倭人は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』『論衡』にて登場する。この頃には既に他民族から見て日本人とその他周辺諸民族との区分けがなされていたことになる。
大和盆地の王を中心とした連合政権であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州・四国・九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や南九州の熊襲と呼ばれた諸部族・諸王権は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族・諸王権は隼人の反乱の失敗や坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は朝鮮半島の支配から手を引いたが、代わりに東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。
「日本民族」の形成[編集]
古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。
「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。
ネーションステート下の認識[編集]
大日本帝国参照
日本が近代ネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島や台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された植民地の先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は「内地人」と呼ばれた。ただし、当該の先住民族の間では「日本人」が内地人と同義として使われることが多かった。
南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。
ゲノムワイドな解析[編集]
ヒトゲノムが解析されて以来、人類集団間の遺伝的関係を推定するために大量のSNPを解析する研究が進展している。日本列島の人類集団においても、このようなアプローチによる集団の歴史の解明、医療方面への応用が期待される。
遺伝子マーカーとしてのミトコンドリアDNA、Y染色体DNAとの違いは、①注目するDNA領域長、②遺伝的組み換えの有無、③遺伝様式などが挙げられる。
遺伝情報に基づいて系統関係を議論する場合、ハプロタイプ単位、あるいはマイクロサテライト、SNP単位での遺伝的多型に注目しているわけだが、遺伝的多型が必ずしも真の系統関係を示すとは限らない。なぜならば、遺伝的多型の実体である対立遺伝子頻度は、そのゲノム領域に依存した突然変異率、組換え率、さらに、遺伝的浮動、自然選択、集団間での個体の移住、個体群動態などの影響を受けるためである。この問題を避けるためには、互いに独立な関係にある座位を多数解析することが必要である。この点で、注目する領域が相対的に小さく、組換えのないミトコンドリア、Y染色体の遺伝子マーカーは得られる情報量が制限される。しかしながら、遺伝様式が常染色体とは異なることから、母系、父系の遺伝子系図を比較する議論ができるという長所もある。
ゲノム解析は中立進化をしている領域の他、転写されるコード領域も解析に含むため、適応進化の研究、個別化医療への応用も期待される。
上記詳細は太田(2007)、斉藤(2009)などを参照。
以下、日本列島人類集団を含む研究例をあげる。
International HapMap Consortiumの研究では、東京由来の44名を含む人類集団サンプルを解析している。
Tian et al.(2008)では、東アジア地域をカバーした集団サンプルを用いて、その遺伝的構造を議論している。主成分分析の結果からは日本列島人が単独のクラスターを形成することが見て取れる。同様のクラスターとさらに詳細な遺伝的多様性に関する研究は、HUGO Pan-Asian SNP Consortiumによってなされている。
日本列島内部集団の遺伝的構造を解析した例として、7001人のサンプルを解析したYamaguchi-Kabata et al.(2008)では、日本列島の人類集団が琉球クラスターと本土クラスターに分かれることをゲノムレベルで示した。これはミトコンドリアやY染色体の解析からも予想されていた、日本列島人類集団の二重構造モデルを支持する結果であった。しかし本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかであった。
しかし、Yamaguchi-Kabata et al.(2008)ではアイヌ人の集団サンプルを解析してはいなかった。最新の成果としては、斎藤成也ら総合研究大学院大学による大規模調査がある。これは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った。
その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった。
また、この調査により、主成分分析およびfrappe分析から、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。
アイヌ人と琉球人は、東ユーラシア人の系統樹においてクラスターを形成しており、ブートストラップ確率(推定系統樹の信頼度)は100%であった。さらにこのクラスターは、系統樹上で、本土日本人とのクラスターを形成していた。
形質人類学からの接近方法[編集]
日本人の形成過程を分析する形質人類学からの接近方法には原人や古人骨などの形態解析、石器の分布分析などが古典的な方法としてある。形質人類学的な手法は、「ヒト集団の系統関係の把握」という用途に用いるにはかなり限界があるとの指摘が聞かれてきたところであり、この用途に限って言えば、完全に主役の座を分子人類学に譲り渡した感が強い。もっとも、遺跡発掘骨の年代推定は、発掘物のAMS放射性炭素年代測定法によりかなり正確に推定できる利点がある。 港川人 を参照
東大人類学教室の長谷部言人、鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でも分かるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人と弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。
それに対して、現代日本人は日本の先住民族に置き換わって成立したという「置換説」も、幕末、明治のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースの考察に早くから見られ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。エルヴィン・フォン・ベルツは日本人でも長州藩出身と薩摩藩出身では顔に形質的な違いがあるとして「混血説」を提唱した。京都大学の清野謙次の論などが「混血説」の代表である。第二次世界大戦後、長谷部=鈴木ラインの説が唱えられると、一時期、表立って主張されにくい傾向があったが、同じ東大系の鈴木尚の弟子である埴原和郎が、1980年代半ばに日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする「二重構造説」を唱えるに至って、一躍重層構造説が息を吹き返した。ただし埴原の「縄文人(アイヌ含む)を南方系、弥生人を北方系」とする仮説は近年の分子人類学の発展により否定されるようになり、縄文系も北方から来たことが有力視されるに至っている。
日本人の『絆』に全米が大絶賛!88800超のいいね!を獲得(2013年7月)[編集]
日本でも話題になったこちらのニュースが世界中で話題を呼んでいる。プラットフォームに誤って滑り落ちてしまった女性を助けるべく 32トンもある車体を駅員の指示の元乗客一丸となって傾け救助したものだ。今日暗く、思わず耳を疑ってしまうようなニュースばかりが溢れているがこのニュースを聞いて心が温かくなった人も多いのではないだろうか。
この記事はなんと5000以上シェアされFacebookでは88800ものイイネ、約40000のシェア 5600ものコメントが寄せられています。日本もこのような良い面ばかりではないかも知れませんが 彼らが絶賛しているような 他ナショナリティーにはない「助け合い」「結束力」「譲り合い」「気遣い」の文化が今尚強く根付いているのも確かなようです。
日本人のマスメディア<鵜呑み度>は世界一(2012年9月)[編集]
「情報民度」が最も低い国
国民が、テレビ・新聞・雑誌などの報道をどのくらい信頼する(ダマされる)か、を国際比較したデータがある。日本リサーチセンターやギャラップなど、内外の4機関の調査結果によるものだ。驚いたことに、日本人はマスコミ報道の「鵜呑度」が最も高く70%、最も低い英国は14%、その他の主要先進国(ロシアを含め)は20~35%だという。
国際調査による主な国の%は、次のようになる。
- イギリス・・・・・・14%
- アメリカ・・・・・・26%
- ロシア・・・・・・・29%
- イタリア・・・・・・34%
- フランス・・・・・・35%
- ドイツ・・・・・・・・36%
- インド・・・・・・・・60%
- ナイジェリア・・・63%
- 中国・・・・・・・・・64%
- 韓国・・・・・・・・・65%
- フィリピン・・・・・69.5%
- 日本・・・・・・・・70.2%
自ら情報取得して真偽確認をする習慣の乏しい日本人は、世界で最もマスコミ報道に弱い、「情報民度が低い」国民と言える。今日、原発報道や政治報道を見るまでもなく、この国の大メディアの隠蔽体質・偏向報道・世論誘導は目を覆うばかりだ。
いざ戦争になれば、「大本営発表」一色になり、可決したネット規制法(コンピュータ監視・ダウンロード刑事罰・ACTA)が猛威を奮い、国民の目と耳と判断力が奪われ、破局へと向かうだろう。