金光庸夫

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
日本の旗 日本の政治家
金光庸夫
かねみつ つねお
[[画像:|0200px|金光庸夫]]
生年月日 1877年3月13日
出生地 大分県
没年月日 1955年3月5日
死没地
出身校
前職
現職
所属政党
所属委員会
議員会館
選挙区
当選回数
元首
称号・勲章
世襲の有無
親族 金光義邦(長男)、佐藤一郎(娘婿)、佐藤謙一郎(孫)
配偶者
サイン [[画像:|128px|サイン]]
公式サイト [ ]
日本の旗 日本 第16代拓務大臣
内閣
就任期間 1939年8月30日
日本の旗 日本 第7代厚生大臣
内閣
就任期間 1940年9月28日
{{|textstyle=display:none}}
内閣
就任期間
 - 
{{|textstyle=display:none}}
内閣
就任期間
 - 
{{|textstyle=display:none}}
内閣
就任期間
 - 
その他の職歴
テンプレート

金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年3月13日 - 1955年3月5日)は日本政治家実業家。元拓務大臣厚生大臣。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。

経済企画庁長官佐藤一郎は娘婿、前民主党衆議院議員佐藤謙一郎は孫(佐藤一郎の長男)にあたる。

来歴・人物[編集]

大分県生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年鈴木商店に入社する。1913年には大正生命保険(現・大和生命保険)を創設、社長となる。その他日本火災海上保険(現・日本興亜損害保険)役員、王子電気軌道社長など多数の企業の社長・役員を兼任し、東京商業会議所副会頭や、国際労働会議(1931年)資本家代表も務めた。

また、1920年立憲政友会公認で旧大分2区から衆議院議員総選挙に立候補し当選、以後当選10回を数える。一時期政友本党に籍を置いたのち政友会に復帰し、1937年衆議院副議長1939年阿部内閣拓務大臣として初入閣する。同年の政友会分裂に際しては太田正孝犬養健とともに中立派(金光派)を形成する。近衛文麿新体制運動に協力し、1940年6月10日には陸軍省軍務局長の武藤章と会談し軍部の諒解を取り付ける。新体制準備委員会委員を経て、第2次近衛内閣厚生大臣となる。以後、大日本産業報国会初代総裁、大政翼賛会顧問、同調査会長、翼賛政治会政務調査会長、大日本政治会総務会長などを務める。

戦後は日本進歩党の結成に関わるが、間もなく公職追放となる。1953年第26回衆議院議員総選挙自由党公認で当選、同党顧問を務める。

外部リンク[編集]

先代:
小磯國昭
拓務大臣
第16代:1939 - 1940
次代:
小磯國昭
先代:
安井英二
厚生大臣
第7代:1940 - 1941
次代:
小泉親彦