大日本政治会

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大日本政治会(だいにほんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院院内会派政治団体1945年3月30日 - 同年9月14日)。総裁は元陸軍大臣南次郎。略称は日政または日政会

概説[編集]

第21回衆議院議員総選挙以後、全ての国会議員が所属する事になっていた翼賛政治会であったが、1945年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。

1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎[1]を総裁とする大日本政治会が結成された。幹事長には反主流派の岸信介を予定していたが、松岡洋右の総裁擁立を希望していた岸はこれを拒否して護国同志会(後述)に参加してしまう。このため、幹事長には松村謙三総務会長には金光庸夫政調会長には勝田永吉(勝田の衆議院副議長就任に伴い東郷実に交代)が就任した。だが、衆議院議員353名の参加を得たものの、翼賛政治会に参加していた貴族院議員は参加見送りを決定し児玉秀雄ら数名が個人参加する留まり、また先の内紛中に大日本翼賛壮年団出身議員は3月10日翼壮議員同志会(翼同・21名)を結成、旧翼賛政治会反主流派も3月11日に護国同志会(30名)を結成して合流を拒否、無所属25名・欠員37名を計算に含めると、日政会は衆議院全体では75.7%、欠員者を除くと82.3%を占めるに過ぎず、翼賛体制が本来目指した「一国一党」とはかけ離れたものとなった。

南は結成時に「一億国民の総力を迅速に結集して、これを決戦の戦場に直結する」と挨拶をしたが、実際に事績として残されたのは鈴木内閣組閣の際の政務次官参与官人事を巡って内紛を起こした事と第87帝国議会(6月2日から12日まで)への出席した事のみであった[2]

日本敗戦後に南総裁が辞意を表明すると解散論が高まり、9月7日に代議士会で解散が決議され、7日後に正式に解散されることになった。

解散後所属議員の多くは日本進歩党の結党に参加した。

脚注[編集]

  1. 南は当時枢密顧問官(総裁就任時に辞任)。陸軍大臣・関東軍司令官朝鮮総督を務め、当時総辞職が時間の問題と見られていた小磯首相の後継候補としても名前が挙がっていた事から、金光庸夫が陸軍と協調出来てかつ首相候補にもなり得る人物として推挙したとされている。
  2. 唯一の功績と言えるものに本土決戦に備えて、戦時中に限定して国会議員の勅任官への自由任官を復活を政府に認めさせたというものがあるが、施行日が終戦の当日(8月15日)であったために結果的には意味を成さなかった。

関連項目[編集]