千葉工業大学
千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: CIT(Chiba Institute of Technology))は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本の私立大学である。1942年に設置された。大学の略称は「千葉工大(ちばこうだい)」または「工大(こうだい)」,英称では「CITまたはChibaTech」。
目次
概観[編集]
大学全体[編集]
千葉工業大学は1942年(昭和17年)5月15日に興亞工業大学(興亜工業大学と表記される場合もある)の名称で玉川学園内に設立された。日本の私立理工系大学としては現存最古の大学[1](国内の理工系大学としては東京工業大学に続き、2番目[2])で、70年以上の歴史と伝統を有する。設置科は3学部11学科、大学院3研究科修士課程7専攻・博士後期課程3専攻で、約1万名の学生を擁し、日本の工業大学でも最大の規模を誇る。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと幕張新都心に隣接する新習志野キャンパス(旧・芝園キャンパス)は、ともに東京都心から電車で30分圏内に位置し、首都圏の中でも利便性に優れた大学として知られる。
建学の精神(校訓・理念・学是)[編集]
千葉工業大學教育8訓[編集]
設立認可申請書に添えて提出された設立趣意書では建学の精神及び教育方針は以下の通り(概略)。建学の精神及び教育方針は玉川学園長の小原國芳、東北帝国大学総長で金属工学者の本多光太郎博士のほか、政治評論家の徳富蘇峰、作家の武者小路実篤、キリスト教伝道者の本間俊平、京都帝国大学前総長の小西重直博士、同大教授で哲学者の西田幾多郎博士らが、約一年間に渡って討議したものを成文化したもので、草稿を西田が、校閲を徳富が担当した。ここでは、単に高い技術を持った技術者・専門家を養成することのみを目指すのではなく、国家枢要を担う人材(政治家、官僚、軍人、科学者、技術者、実業家、教育者等)の養成を目指し、工学者としての高い教養を兼ね備えた人材を育成するための教育理念が合わせて盛り込まれているなど、理工系学校としては一風変わったものとなっている[3]。
また、建学の精神では明治維新来の単なる欧米模倣の欧米文明の価値観や文化を根源とする人材を育てる為の場ではなく、多様な世界を目指し、西田哲学を基礎に日本やアジア諸国に合った価値観や文化(哲学、制度、技術、教育など)を創造し、国家の形を改めていく為の創造教育の場として、アジア人として世界文化に貢献し得る創造教育の拠点となる大学として位置づけられている。
- (2)全人教育
- 単なる知識人、技術家ではなく、「自ら学び自ら体験し自ら思索し創造する」人間、「如何なる困苦に遭遇するとも正しきを実現せんとする活動力ある」人物の養成[5]
- (3)労作教育
- 教育は、知育のみにあらず、「真の知育は労しみ、作り、体験し、試み、為し、行ふ所の自学自律、自啓自発の教育」でなければならないとする精神[6]。
- (5)相互扶助の精神
- 偉人は陋より生る。貧しき家に生まれし優秀児の救済、その境遇を理解し、同情し合って、完全なる人格を成し行く姿を大学の理想とする。
- (7)天才教育
- 自由闊達な頭脳を作り、機智縦横の人を作る。
- (8)アジアの学生と教育
- 隣国アジアの友と親しくし、共に手を携え、国際社会の善隣と協力をつくり上げていく。
現在の建学の精神は、創立当初からの建学の精神である『師弟同行』『自学自律』を基調とし、工学的な基礎学力や教養力、コミュニケーション力を広く身につけるための実践型カリキュラムによる技術者の輩出に努めている。また大学では刻々と変化する社会、科学技術に対応するため、教育の精神に立ち返りながら、時局に即した教育目標や教育方針を定め社会に役立つ人材を育成するため努めている。
教育目標[編集]
- 科学技術の厳しい変化に対応できるしっかりとした基礎学力を持つ学生(人物)の育成
- 変化する科学技術に柔軟に対応するための専門基礎教育
- 創造性豊かな人材を育成するための実践・体験教育
- 工学・技術に夢を持ち続け、自分の将来像が描けるキャリア教育
- 学生に対して面倒見のいい大学
- 学生同士のコミュニケーションを育む大学
- 社会と密接な関係を築いていく大学
教育方針[編集]
- 豊かな教養と人格を備えた人材を育成するための教養教育
教育および研究[編集]
今日に通じる大学教育の理念の根本は教養教育においては小原國芳、小西重直博士、工学教育においては本多光太郎博士、八木秀次博士らによって築かれた。また玉川学園関係者、東京大学及び京都大学、東北大学、東京工業大学関係者らによる支援は大きい。
- 1942年(昭和17年)創立以来、東京大学や東京工業大学などと共同研究などが行われてきた。また創立経緯の関係から東京大学、東京工業大学出身の教員が多い。
- 一部の教員がNHKニュースからTBS系列のネプ理科、フジテレビ系列のトリビアの泉まで多彩なテレビ番組に出演する姿も見られた。
- 千葉工業大学では「地域貢献を通しながら体験して学ぶ」というコンセプトを謳っている。また「実践教育プログラムが導入されており、JABEEの導入によって国際的にも通用する技術者の育成を目指している。これらは先進的な大学を目指した改革であり、この改革は急ピッチで行われている」と関係者は考えている。
- 新制大学に移行後、大学経営は伝統的に卒業生をはじめとする学校関係者の寄付と財団法人による資産運用によって維持されており、多くの私立大学のように系列学校の経営や有力スポンサー、他の法人と経営的な結びつきがないため、常に中立的で大学としての独立性が高く、大学運営や研究を行う上での外的支障は少ない。
- 2001年(平成13年)まで存在した金属工学科(現・機械サイエンス)は東大工学部、東北大工学部、東工大工学部以外には設置されていなかった。
- 日本で唯一プロジェクトマネジメントを学問として学ぶことができる学科として、社会システム科学部にプロジェクトマネジメント学科が設置されている。
- 大学の研究水準の高さを示す政府科学研究費補助金の採択額は、私立理工系大学30校中2~3番目(東京理科大学に続き2番目、東京農業大学を加えると3番目)に多い大学としても知られる。
学風および特色[編集]
- 津田沼工作センターでは、旋盤、フライス盤、ボール盤などの一般的工作機械のほか、ウォータージェットカッターやNC旋盤なども設置され、主には機械サイエンス学科の実習が中心であるが、全学生が自由に工作を行える。
- コンピュータ演習室は、Microsoft Windows XP ProfessionalとFedora Coreの複数OS環境のコンピュータとSuSE Linux Professional 9.3搭載のコンピュータがある。また、津田沼キャンパスには高性能グラフィック処理機能と高速演算機能を持つワークステーションと仮想計算機環境により1台の端末で複数のOSを実行できるシステムが導入され、学生は自由に使うことが出来る。
- 全ての研究室をはじめとする大学内約1000カ所を千葉工業大学内にあるセンターと直接光ファイバーで結んでいる。完全な直収型光ファイバー(FTTD; Fiber to the desktop)によるLANの構築は日本では千葉工業大学が初めてである。
- 2005年(平成17年)4月より多機能ICカード型学生証を大学として世界で初めて導入している。情報キオスク端末「KISS(Kyoumu Interactive Support System)」に学生証を挿入し、手のひらをかざすことで、学生情報や成績情報が取得できる。
- 2007年(平成19年)9月よりNTTドコモの端末が芝園校舎(当時)の全教室に設置され、全授業にICカードによる出欠確認システムが運用開始された。これは授業の前後に学生証をかざすことで遅刻、早退まで管理できるシステムである。同大学津田沼校舎では2008年(平成20年)4月から運用が開始された。
沿革[編集]
略歴[編集]
千葉工業大学は、国家教育の最高機関(大学)として1929年(昭和4年)から計画・準備され、1942年(昭和17年)に東久邇宮稔彦王、永野修身海軍元帥らの発意、助力のもと、教育者で玉川学園園長の小原國芳、京都帝国大学元総長の小西重直博士、森コンツェルン総帥で実業家の森矗昶・森曉親子、政治家の東郷実、東北帝国大学前総長の本多光太郎博士、東京帝国大学総長の平賀譲博士、内閣技術院総裁で東京工業大学学長の八木秀次博士、哲学者で京都帝国大学元教授の西田幾多郎博士、社会事業家でキリスト教伝道者の本間俊平、作家の武者小路実篤、政治評論家の徳富蘇峰らの尽力により、東京町田の玉川学園内に興亞工業大学の名称で発足した。
当初は、全寮制の民間大学(私立大学)として構想されたが、設立申請時に文部省(現在の文部科学省)主導のもと全寮制の官民大学として設立された。その後、大学機能を東京町田から東京都千代田区と神奈川県川崎市に移転。太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)には千葉県君津市へと移転し、校名を千葉工業大学と改称。1950年(昭和25年)に同県習志野市の津田沼校地へ移転し現在に至る。
年表[編集]
年 | 月日 | 沿革 |
---|---|---|
1929年 | 4月 | 小原國芳が成城学園から分離し、町田に財団法人玉川学園を設立。幼稚部・初等部・中等部を設置する |
6月 | 永野修身海軍兵学校長が学園視察に来訪 | |
1939年 | 9月 | 大学設置に向けて中等部の上に専門部(玉川塾)を設置し、森矗昶の協力を得て産学連携による実践教育を開始 |
1940年 | 6月 | 米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が科学者動員令を発令する[9] |
9月 | 東久邇宮が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化する | |
1941年 | 6月 | 玉川塾工業大学設置許可申請を文部省(現・文部科学省)に行うが受理されず |
12月8日 | 昭和天皇によって太平洋戦争(大東亜戦争)開戦の大命が発せられる 興亞工業大學設置許可申請文部省(橋田邦彦文部相)受理[10] | |
1942年 | 5月15日 | 東京府町田町(現東京都町田市)の玉川学園内に「興亞工業大学」の名称で創立(予科3年・本科3年) 小原國芳が理事、東郷実が理事長、小西重直が学長、本多光太郎等が顧問に就任 |
5月24日 | 成城中学、早稲田中学で第1回入学試験を実施 | |
6月5日 -7日 | 山本五十六指揮下の連合艦隊とレイモンド・スプルーアンス指揮下の米艦隊の間でミッドウェー海戦が起こる | |
6月8日 | 開校式を実施。航空工学科(50名)・冶金学科(50名)・機械学科(60名)の160名が入学[11] | |
1943年 | 7月 | 小原國芳が理事・学監を辞任。森曉が2代目理事長に就任 |
11月 | 東京で、有色人種初の国際サミット・大東亜会議が開催される[12] | |
1944年 | 4月 | 玉川学園内から予科・財団本部が、皇居近くの東京市麹町区紀尾井町上智学院(上智大学)内に移転する |
9月 | 神奈川県川崎市大師河原の日本冶金川崎製造所構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得する | |
10月 | 東京工業大学学長の八木秀次が正式に相談役に就任 | |
1945年 | 4月13日 | 東京空襲によって麹町本部・予科校舎が全焼する |
5月25日 | 東京空襲の余波で川崎学部校舎も罹災する | |
9月 | 東久邇宮内閣によって太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結する 君津の旧海軍施設の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学に委託 戦災による実験設備の損失から学生を東大、東工大、東北大などに預け、卒業研究を開始 | |
11月11日 | 君津の旧海軍第2航空廠八重原工員養成所設等の施設(君津校舎)の設営管理を開始 | |
1946年 | 3月30日 | 東京から千葉県君津町に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改称 |
12月4日 | 玉川学園側との会談の結果、小原國芳から寄贈された土地・建物を清算し不動産を所有しない大学となる | |
1947年 | 2月7日 | 君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電による火災で延焼する |
3月 | 公職追放の影響を受けて2代目理事長の森曉、学長の小西重直などが大学を去る | |
9月30 | 第1回卒業式が行われる | |
1948年 | 4月 | 田中航空機器製作所津田沼工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請 予科寮を旧君津海軍病院施設に移転する |
12月 | 千葉大学(当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される | |
1949年 | 4月 | 新制大学となる |
11月26日 | PPA創立 | |
1950年 | 旧鐵道第2聯隊跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転する | |
1953年 | 11月 | 校歌制定。電気工学科を増設。 |
1954年 | 10月7日 | 大久保の旧軍施設(旧陸軍習志野学校)を取得 |
1955年 | 電気工学科第2部を増設。 | |
1961年 | 3月10日 | 電子工学科、工業化学科を増設 |
1962年 | 8月 | 千種校地を取得 |
12月20日 | 土木工学科、建築学科を増設 | |
1964年 | 4月1日 | 日本私立大学協会常務理事校となる |
1965年 | 8月11日 | 大学院修士課程(工業化学科、金属工学科)を設置 |
8月11日 | 飯岡研修センターを開設 | |
1967年 | 3月31日 | 千種寮が完成 |
1968年 | 千葉市千種校地に電子計算センター完成 | |
1972年 | 千種校地に硬式野球場・武道館完成 | |
1980年 | 11月 | 中国・哈爾濱工業大学と大学間交流協定締結 |
1983年 | 3月 | 中国・吉林大学と大学間交流協定締結 |
1986年 | 芝園校舎が完成 | |
1987年 | 茜浜運動施設(茜浜校地)完成 | |
1988年 | 工学部第一部情報工学科、工業デザイン学科を新設 | |
スウェーデン・スウェーデン王立工科大学と大学間交流協定締結 | ||
1989年 | カナダ・トロント大学理工学部と大学間交流協定締結 | |
1989年 | 大学院工学研究科博士課程(金属工学専攻・工業化学専攻) 修士課程(機械工学専攻・電気工学専攻・電子工学専攻・建築学専攻)を増設 | |
1989年 | 8月 | 中国・北京理工大学と大学間交流協定締結 |
1989年 | 9月 | アメリカ・テネシー工科大学と大学間交流協定締結 |
1991年 | 第1部既設学科(金属工学科を除く)の定員を増加 大学院工学研究科博士課程(機械工学専攻・電気・電子工学専攻)を増設。 | |
1992年 | 大学院工学研究科博士課程(建築学専攻・精密機械工学専攻) 修士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。 | |
1993年 | アメリカ・コロラド大学ボルダー校と大学間交流協定締結 | |
1994年 | 大学院工学研究科博士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設 | |
1995年 | 大学院工学研究科修士課程(経営工学専攻)を増設。 | |
1997年 | 第1部情報ネットワーク学科・プロジェクトマネジメント学科を増設。 | |
1999年 | 工学部に社会人対象教育を充実するために昼夜開講制を導入 ハイテクリサーチセンター開設。 | |
2001年 | 工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に移行 3学部全学科に昼夜開講制を導入。 | |
2002年 | 鯨生態観測衛星「観太くん」の打ち上げに成功 | |
2003年 | 工学部9学科を5学科に改変しフレックス制を導入 (機械サイエンス学科・電気電子情報工学科・生命環境科学科・建築都市環境学科・デザイン科学科の5学科) 未来ロボットセンターを開設 日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー(FTTD)LANを構築 大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能ICカード」を大学内諸施設へ導入 | |
3月 | ポーランド・ワルシャワ工科大学と大学間交流協定締結 | |
2004年 | 大学院工学研究科11専攻を3研究科(工学研究科・情報科学研究科・社会システム科学研究科)7専攻に改組。 | |
2005年 | 文部科学省の特色ある大学教育支援プログラムに採択、現代的教育ニーズ取組支援プログラムに選定される | |
2006年 | 工学部に未来ロボディクス学科を新設 | |
4月 | 御宿研修センター開設 R&Iによる格付けフォローアップ調査の結果「AA-(ダブルA・マイナス)」を維持 | |
2007年 | フランス・コンピエーニュ工科大学と交換留学協定を締結 | |
11月 | アメリカ・ペンシルベニア州立大学工学部と大学間交流協定締結 | |
2008年 | フレックス制を廃止し、全学部学科とも昼間部に移行。 | |
2009年 | 4月 | 社会システム科学部に金融・経営リスク科学科を、また、大学院工学研究科に未来ロボティクス専攻を設置。 惑星探査研究センターを開設。 |
2012年 | 5月22日 | 東京スカイツリーイーストタワーに東京スカイツリータウンキャンパスを開設 |
2013年 | 台湾・国立台北科技大学と教育研究交流協定を締結 | |
ベトナム・ハノイ工科大学、ベトナム国家大学ハノイ校工科大学と教育研究交流協定を締結 | ||
アメリカ・グアム大学と教育研究交流協定を締結 | ||
2014年 | 2月23日 | 東京スカイツリータウン(R)キャンパスAreaⅡ開設 |
4月 | 新学生寮(桑蓬寮・椿寮)完成 |
基盤情報[編集]
大学本部[編集]
〒275-0016
- 千葉県習志野市津田沼2-17-1(津田沼キャンパス本号館)
所在地[編集]
象徴[編集]
校章[編集]
大学の校章は「工業大学」の「工」と「大」の字を図案化したシンプルなデザインで、1942年(昭和17年)秋に第1期の学生たちによって作成された。この校章は私立大学としての衿持と、工業大学としての自負を、力強く、単純・率直に表現したものでものだと言われ、以降に設立された私立工業大学の多くが、この校章からヒントを得てそれぞれの校章を制定したといわれている。また、この校章には開学当初を物語るエピソードが残されている。入学当初は大学に決まった校章も無く、玉川学園のバッジをつけている者や帝大コースに憧れ浪人を繰り返してきて、それではとても満足できない者など、学内は帝大派、工大派、玉川学園派の3つの派閥に分裂していたという。1942年(昭和17年)9月、期せずして校章を作ろうという気運が高まり15-20位の図案が集まったが、なかなかこれを絞ることができず、討論が殴りあいの喧嘩に発展することもあった。ある日、学生達が築地川沿いにあった門という名の喫茶店において、いつものように討論をしていた時に陶芸家と称する人物が、学生が手にしていた図案[13]を見て、述べた意見[14]をヒントに原案化したものだとされ、最終的に学生大会で決定された。
校歌[編集]
現在の校歌は1953年(昭和28年)に学生、教職員から公募した歌詞の中から、歌人・国学者の佐佐木信綱博士が優秀作を選び出し手を加え、これに佐佐木博士の娘婿で、千葉工業大学教授だった朝永研一郎博士(機械工学科教授)が曲をつけたものである。この歌は、これまで大学が戦争や終戦直後の混乱の中で苦難に遭遇しながら、各地を転々と渡り歩いてきた末に、得た安住の地(習志野の地)において高まる感激の中で作られたもので、大学の発展と日本の戦後復興に対する希望と決意などが込められたものだとされる。
その他[編集]
- たれ邯鄲の夢に酔ひ
- 1946年(昭和21年)松藤淳 作詞、山口猛 作曲。
- あゝ狂瀾の
- ?年(昭和?年)作詞、? 作曲。
- 饗宴の賦
- ?年(昭和?年)逍遙歌。? 作詞、? 作曲。
- 工大グッズ
- 同窓会事務局、CITサービスなどでは「同窓会グッズ」と呼ばれる限定グッズが売られている。「工大グッズ」とも呼ばれる。
- スクールカラー
- 紫紺色でDICカラーガイドのDIC256が指定されている。
教育および研究[編集]
組織[編集]
学部[編集]
- 工学部
- 情報科学部
- 情報工学科
- 情報技術コース
- 情報科学コース
- 情報ネットワーク学科
- ネットワークコース
- メディア情報コース
- 情報工学科
- 社会システム科学部
- 経営情報科学科
- 経営システムコース
- 経営情報マネジメントコース
- プロジェクトマネジメント学科
- 経営システムコース
- プロジェクトマネジメントコース
- 金融・経営リスク科学科
- 経営情報科学科
旧設置科[編集]
- 旧制大学時
- 工学部
- 航空工学科(1942-46・機械学科に編入)
- 工業経営学科[15](1942-46・機械学科に変更)
- 機械学科(1946-50・機械工学科に学科名変更)
- 冶金学科(1942-1950・金属工学科に学科名変更)
- 新制大学以降後
- 工学部
- 機械工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
- 金属工学科(1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
- 工業経営学科(1950-2001・社会システム科学部に改組)
- 電気工学科(1953-2003・電気電子情報学科に改組)
- 電子工学科(1961-2003・電気電子情報学科に改組)
- 工業化学科(1961-2003・生命環境科学科に改組)
- 土木工学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
- 建築学科(1963-2003・建築都市環境学科に改組)
- 精密機械工学科(1966-2003・機械サイエンス学科に改組)
- 工業デザイン学科(1988-2003・デザイン科学科に改組)
- 情報工学科(1988-2001・工学部から情報科学部に改組)
- 情報ネットワーク学科(1997-2001・工学部から情報科学部に改組)
- プロジェクトマネジメント学科(1988-2001・工学部から社会システム科学部に改組)
大学院[編集]
- 工学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
- 機械サイエンス専攻
- 電気電子情報工学専攻
- 生命環境科学専攻
- 建築都市環境学専攻
- デザイン科学専攻
- 未来ロボディクス専攻
- 情報科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
- 情報科学専攻
- 社会システム科学研究科(博士前期課程・博士後期課程)
- マネジメント工学専攻
附属機関[編集]
未来ロボット技術研究センター[編集]
- 未来ロボット技術研究センター
- 2003年(平成15年)6月1日から、morph3の研究開発チームは科学技術振興機構の北野共生システムプロジェクトから千葉工業大学・未来ロボット技術研究センター(fuRo)に移籍、「人とロボットの共生」をテーマに未来のロボット技術に関する研究を行っている。
惑星探査研究センター[編集]
- 2009年(平成21年)4月から、松井孝典前東京大学新領域創成科学研究科教授を所長に惑星探査研究センターを学内に開設した。センターではロボットによる宇宙探査を視野に入れ、研究を実施している。
研究[編集]
研究室及びプロジェクト[編集]
千葉工業大学に設置されている研究室及びプロジェクトに関する情報ついて、以下サイトで一括して閲覧することが出来る
鯨生態観測衛星(観太くん)[編集]
- 【概要】
- この取り組みは謎が多い鯨の生態を、衛星を使って宇宙から解明することを目的に立ち上げられた世界初の試みである。このプロジェクトは学生達が人工衛星の設計、制作に携わる日本で初めてのケースとなったほか、日本で初めて民生用部品を使って衛星が作られたケースとなった。また、衛星は学内の学科の域を超えて電気・電子分野、土木分野、機械工学分野、工業デザイン分野、建築等の分野の学生が参加して開発されたほか、これまで培ってきた産学連携の経験を活かし、学外の技術や知識とも協力してつくられた。鯨生態観測衛星(観太くん)は2002年(平成14年)12月14日に種子島宇宙センターからH-IIAロケット4号機で打ち上げられ、予定の軌道上に乗せることに成功した。観太くんから送られてきた観測情報は学内外で研究に役立てられている[16]。
教育[編集]
採択されているプログラム[編集]
- 特色ある大学教育支援プログラム(通称:特色GP)
- 文部科学省・2005年(平成17年)
- マルチメディア教材による教育・学習支援
- シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning
- 現代的教育ニーズ取組支援プログラム(通称:現代GP)
- 文部科学省・2005年(平成17年)
- 地域との連携による工科系キャリア学習支援
- PMOによる地域共生型職業訓練教育システムの開発と実践
特色ある大学教育支援プログラム[編集]
- 【概要】
- 2005年(平成17年)、文部科学省が選定する「特色ある大学教育支援プログラム」に、『マルチメディア教材による教育・学習支援(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)』が採択された。このプログラムは、大学教育の改善に関する取組のうち、特色ある優れたものを選定し、教育の改善・改革を推進して高等教育の活性化を促進させることを目的としたもので、採択された取組には重点的に補助金が配分される。採択された理由として、情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価等を行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が高く評価されたことにある[17]。
現代的教育ニーズ取組支援プログラム[編集]
- 【概要】
- 2005年(平成17年)に「地域との連携による工科系キャリア学習支援-PMOによる地域共生型職業訓練教育システムの開発と実践-」が文部科学省が選定する「現代的教育ニーズ取組支援プログラム」に選定された。このプログラムは、社会的要請の強い政策課題に対応した、21世紀型の優れた教育を行っている大学を公募・選定し、予算を重点的に配分するというもので、2004年度より開始されている。学内だけでなく地域と連携することにより、地域の小中高生からリタイア人材まで幅広い層が求められている「ものづくり・まちづくり」等の工学系キャリア教育や地域の活性化に対して大きな貢献に期待されることが選定の理由である。地域を実践のフィールドとして活用するこのプログラムは、他大学・他地域においても展開可能であり、現代GPの目的にあったものとして成果が期待される。現代GPでは学内で行われている研究と地域を結びつけた[17]。
学生生活[編集]
学生食堂[編集]
学生食堂は学校法人が出資する「シー・アイ・ティー・サービス」によって運営されている。 安くてボリュームがあり、メニューが豊富であることから学内のみならず、オープンキャンパスで来学する人々にも人気がある。
発行物[編集]
- 学校側
- 毎月「NEWS CIT」と呼ばれる学内向けの新聞が発行されている。
- 学生側
- 毎月、学友会執行委員会により「Mamma Mia」と呼ばれる学生向けの冊子が発行されている。
サークル活動[編集]
以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画等が行われている。
- 体育会
- 33サークル(29部、2同好会、2愛好会)が所属する。
- 例年「体育会誌」が発行されている。
- 文化会
- 35サークル(30部、4同好会、1愛好会)が所属する。
- 2012年(平成24年度)より「文化会誌」が発行されるようになった。
2013年(平成25年)12月現在。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
イベント[編集]
成田山行脚[編集]
毎年5月になると体育会主催の成田山行脚と呼ばれる健康促進のための伝統イベントが開催されている。津田沼校舎から成田山までの約40㎞の距離を踏破するというもので、体育会、学友会、文化会、寮友会、一部のサークル関係者を除き、自由参加。毎年多くの教員生徒が参加する。
文化の祭典[編集]
毎年6月になると文化系サークルを中心に学生の企画・運営で開催される文化祭。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
スポーツフェスティバル[編集]
毎年10月に体育会を中心に学生の企画・運営で開催されるスポーツイベント。自由参加で体育会(部活)に所属していない学生も参加できる。卓球やサッカーなど球技が主体。
津田沼祭[編集]
毎年11月に津田沼祭実行委員会・学友会執行委員会を中心に学生の企画・運営で開催される学園祭。1970年代頃からキャンパスが立地する地域との交流促進のため、地名を取って「津田沼祭」と呼ばれるようになった。
同窓会[編集]
- 【概要】
- 同窓会は旧制および新制千葉工業大学を卒業した卒業生を正会員、在学生を準会員、教職員を賛助会員とする組織で、同窓会会員数は2008年(平成20年)4月現在で6,7145人。同窓会は第1回生が卒業した1947年(昭和22年)に創設された。同窓会の活動目的は会員相互の親睦、知識の交換、母校の発展に寄与することである。
- 【行事】
- 通常総会
- 評議委員会
- 卒業式
- OBOG懇談会
- 寮歌祭
- 【支部一覧】
- 同窓会本部は津田沼校舎に置かれ、全国に58支部のネットワークが存在する。
- 地方支部
- 職域支部
- 千葉県庁支部
- 千葉県教員支部
- 千葉市役所支部
- 茨城日立支部
- 千葉日立支部
- 茂原日立支部
- 東京日立支部
- 神奈川日立支部
- 湘南日立支部
- 日野グループ支部
- ISUZU支部
- 東急建設ならしの会支部
大学関係者一覧[編集]
学校施設[編集]
キャンパス[編集]
津田沼キャンパス[編集]
- 所在地:千葉県習志野市津田沼
- 使用学年:1・2年(一部学科)及び3・4年、大学院
- 使用学部:全学部
- 使用研究科:stub
- 使用附属施設:工作センター
- 交通アクセス
津田沼キャンパスの通用門は鉄道第2連隊の門を残したもので、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録された。習志野市民からは「工大の煉瓦(れんが)門」と呼ばれている。2003年(平成15年)に、文部科学省特殊法人・科学技術振興機構ロボット開発グループの移籍によりできた、未来ロボット技術研究センター(fuRo)の研究施設は、このキャンパスにある。また、2006年からのキャンパス再開発5か年計画によって、2008年(平成20年)9月にまず20階建て(高さ93m)の新1号棟が完成した。また、2010年(平成22年)3月に学生ホールが、2011年(平成23年)3月に20階建て(高さ96m)の新2号棟が完成した。2013年(平成25年)4月、新1号棟を2号館、新二号棟を1号館、学生ホールを3号館と名称変更した。
新習志野キャンパス[編集]
- 所在地:千葉県習志野市芝園
- 使用学年:1・2年
- 使用学部:全学部
- 使用研究科:stub
- 使用附属施設:クラフトハウス
- 交通アクセス
幕張メッセ のある幕張新都心に隣接している。千葉工業大学では「環境と人にやさしいキャンパス」を謳う。 2013年4月より芝園キャンパスから新習志野キャンパスに名称変更した。ただし教務課や学生センターなどの名称は「芝園」のままであり、略称としても現在でも使われていることがある。
東京スカイツリータウンキャンパス[編集]
- 所在地:東京都墨田区押上
- 鉄道:東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅下車すぐ
東京スカイツリーソラマチ8Fに設けられたサテライトキャンパス。レスキューロボットや超巨大ロボティックスクリーンなどが展示されている。
運動施設[編集]
茜浜校地(運動場)[編集]
- 所在地:千葉県習志野市茜浜
- 交通アクセス
- 鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩10分ほど
- バス:京成バス(習志野市ハッピーバス)「海浜公園」停留所下車すぐ
新習志野(芝園)キャンパスの南方にあり、そこから徒歩10分ほどで行ける。 野球場、サッカー場、陸上競技・ラグビー場、武道場などの他、部室棟も併設されている。
学生寮[編集]
千種校地(千種寮)[編集]
- 千種寮も参照
- 所在地:千葉県千葉市花見川区千種町
千種寮と呼ばれる学生寮が2013年3月まで存在していた。4階建ての建物4棟と、平屋建ての事務・管理棟からなり、周辺には、野球場、広大な運動場が併設されている。
いずれの本校舎とも離れているため、在寮生や職員は大学所有のバスで移動していた。
対外関係[編集]
他大学との協定(国内)[編集]
- 千葉大学(包括連携)
- 神田外語大学(包括連携)
- 私工大懇話会 (図書館相互利用)
- 習志野3大学図書館協力会(千葉工業大学・東邦大学・生産工学部)
単位互換協定校[編集]
- 四年制大学
- 短期大学
連携大学院[編集]
海外学術交流(大学/機関)[18][編集]
- ハルビン工業大学(中国・姉妹校)
- 吉林大学(中国・姉妹校)
- 北京理工大学(中国・姉妹校)
- スウェーデン王立工科大学(スウェーデン)
- ワルシャワ工科大学(ポーランド)
- コンピエーニュ工科大学(フランス)
- キングス・カレッジ・ロンドン(イギリス)
- トロント大学工学部(カナダ)
- ブリティッシュコロンビア大学(カナダ)
- テネシー工科大学(アメリカ)
- ペンシルベニア州立大学(アメリカ)
- アラバマ大学ハンツビル校(アメリカ)
- コロラド大学ボルダー校(アメリカ)
- パシフィック大学(アメリカ)
- ミズーリー大学ローラー校(アメリカ)
- グアム大学(アメリカ)
- シンガポール生産技術研究所(シンガポール)
- 泰日工業大学(タイ)
- 国立台北科技大学(台湾)
- ベトナム国家大学ハノイ校工科大学(ベトナム)
- ハノイ工科大学(ベトナム)
- バンドン工科大学(インドネシア)
留学プログラム[編集]
語学研修
- グアム大学(英語)
- コンピエーニュ工科大学(フランス語)
- ハルビン工業大学(中国語)
短期留学
- ハルビン工業大学(中国)
- パシフィック大学(アメリカ)
- コロラド大学ボルダー校(アメリカ)
長期留学
- ハルビン工業大学(中国)
- スウェーデン王立工科大学(スウェーデン)
- コンピエーニュ工科大学(フランス)
- ペンシルベニア州立大学(アメリカ)
高校との協定[編集]
- 千葉県立幕張総合高等学校との高大連携に関する協定
- 全学年の高校生を対象として大学講義の聴講、高校生の特別講座の受講などを実施。学校設定科目の「学校外の学修」として単位認定される。
- 千葉県工業系高大連携協定
- 高大連携開放科目の聴講、開放科目の科目等履修、大学教員による出前授業、大学の実験施設見学、大学生との共同研究、高大連携プログラムへの教員参加、高校での公開授業(教育実習予定者参加)教育実習生受け入れ、公開実験などに関する連携などを行っている。
産官学間での連携[編集]
千葉工業大学では、多数の企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている
- 主な連携団体を以下に書き記す(判明分のみ)
- 大和ハウス・筑波大学(高齢者在宅健康管理・支援システムを共同開発)[19][20]
- ツクバリカセイキ・筑波大学・富士ソフト(布ベルト用自動走行計測ロボットの開発)[21]
- 習志野市産学官連携プラットホーム事業[22]
- 千葉銀行(中小企業向け助成制度「ちばぎん・研究開発助成制度」。千葉銀行、千葉大学と連携した中小企業向け助成制度)
自治体との連携(協定)[編集]
研究機関との連携(協定)[編集]
社会との関わり[編集]
参加学会一覧[編集]
千葉工業大学に属する各学部学科では様々な学会・研究会に参加しながら学術交流を行っている
- 各学部学科に属する研究室で参加している学会を判明している分のみ以下に書き記す
- 機械サイエンス学科
- 電気電子情報工学科
- 生命環境科学科
- 建築都市環境学科
- デザイン科学科
- 未来ロボティクス学科
情報科学部
- 情報工学科
- 情報ネットワーク学科
社会システム科学部
- 経営情報学科
- 経営情報科学科
- プロジェクトマネジメント学科
- 金融・経営リスク科学科
工大の煉瓦門(文化財)[編集]
- 鉄道連隊の記事も参考
現在千葉工業大学が使用している通用門は、かつて同敷地内にあった鐵道聯隊が使用していた営門を残したもので、銀杏並木がならぶ通用門は“国土の歴史的景観に寄与している”として、1998年(平成10年)に登録有形文化財に登録された。門は聯隊使用当時に復元されており、市民からも「工大の煉瓦(れんが)門」と呼ばれ親しまれている。
社会での各種格付け[編集]
長期優先債務格付け取得[編集]
2003年(平成15年)11月6日、千葉工業大学は国内最大手格付機関である株式会社格付投資情報センター(R&I)から長期優先債務格付け「AA-」を取得した。この格付け取得は大学で6例目、理工系大学では初めての取得である。「AA-」は21段階ある格付けの上から4番目で、これは旭化成、三井物産、三菱重工、東京三菱銀行などの企業と同じ評価に当たる。
メディア[編集]
撮影協力・製作協力[編集]
- ボーイハント-撮影協力
- 古畑任三郎-撮影協力
- ふたつのスピカ-ロボット協力
- ヤマトナデシコ七変化-撮影協力
- 医龍-Team Medical Dragon-#テレビドラマ#医龍 -Team Medical Dragon- 3-撮影協力
- Paradise Kiss-撮影協力
- 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望-撮影協力
千葉工業大学が登場する主な作品[編集]
大学の逸話[編集]
- 同大は玉川学園内に文部省主導のもと準官立大学の別法人として官民一体で設立されたが、元は小原國芳によって玉川学園の中核大学として構想されたものだった。小原は設置の際には玉川学園の敷地の一部を興亜工業大学に寄付するなど貢献したが、官僚に過ぎた接待をした責任を問われ学長にはなれず、初代学長は元京都大学総長の小西重直が務めた。その後、小原は終戦直後の混乱の中で、経営権を完全に失ってしまい、戦後に新たに設立された玉川大学と本学は直接の系譜的なつながりはないが、小原の全人教育の精神は継がれている。1991年(平成3年)には玉川学園の小原哲郎理事長の好意で、興亜工業大学時代に使われていた校旗が寄贈された。
- 明治以来、日本の社会は、どの分野においても欧米列強に追いつくことを第一の目標とし、江戸時代までの日本が培ってきた文化や精神は廃され、明治新政府による無作為な西洋化政策が推し進められていった。教育現場でも江戸時代までの日本精神を核とする指導者教育(人を造る為の天分教育)は廃され、官僚(帝大)や参謀(陸士・海兵)などを育てるための知識偏重の画一的な西洋模倣の偏知教育が広く日本人に浸透。日本社会の日本精神の消失と明治以来の教育によって生み出されたセクショナリズム化などに伴い、国家の舵取りをする人物の人間形成にも深刻な影響を与え、調和性の損失とそれに伴う人間間、組織間の派閥闘争が激化するなど歪となって表れていった。国家を造るのは人であり、国家の存亡にとって人間教育が一番大切だと考えていた澤柳政太郎や小原國芳らはこの状況に危機感を抱き、成城学園を創立し、日本における新教育の総本山を築こうと模索した。しかし、成城学園の運営は予想に反した方向へと進み、段々と他の学校と同じように、帝大などへ進学するための予備校へと変貌してしまった。ある時、小原は京大時代の恩師の小西重直や波多野精一、西田幾多郎を招き、この経験談に基づき「夢の学校論」を唱えた。そして1929年(昭和4年)、澤柳の遺志を踏み、新たな創造教育の総本山を作ることを目指し、玉川学園を創立すると共に、最高学府である玉川塾工業大学(創立時に興亜工業大学に名称変更)設置のための準備を開始する。小原は陸軍には参謀本部、海軍には軍令部、司法には大審院などの最高機関があるように国家を形成する人を造るための最高機関として「教育本部」の設置が望ましいと考え、真の「教育立国」建設の為、皇族の東久邇宮稔彦王をはじめ、永野修身や山梨勝之進、野村吉三郎などの賛同を得て、玉川学園・興亜工業大学(後の千葉工業大学)を創立し、国家枢要の人材を養成することで、社会の在り方を教育を通じて改革していくと共に、日本人を含むアジア人が世界文化に貢献するための拠点を創成しようとした[23]。また、千葉工業大学については半官立の工業大学として創立されて以来、日本政府の要請に応えるべく「科学技術創造立国」実現のための拠点としての役割も担っている。
- 玉川学園時代に行われていた塾生活は建学精神の理想の境地とされ、戦時下にもかかわらず、芝生の上で生徒が教師を囲みながら英語や音楽、道徳などの教養教育が行われるなど、世俗と切り離された自由な環境だったという(詳細は青空教室の記述も参照)。小原國芳指導の下、大正自由教育の方針が重視され、理系にも関わらず、予科教育では、哲学や宗教学などの広い教養学や語学、人格などの教育が重要視された。その変わった雰囲気に馴染めず、学校を去る者もいたという。ちなみに、その教育方針はどれも海軍反省会などで指摘されている戦前のエリート階層の人材教育の問題点・反省点を克服したような内容となっている。また毎朝教員生徒は午前5時30分に起床し、午前6時から太鼓の合図に聖山(礼拝堂のある丘)での朝礼と玉川体操(海軍体操の原型といわれるスウェーデン体操)が行われ、玉川食堂での教職員、生徒一緒になっての三度の食事と愛吟集の合唱が日課となっていた。ちなみに制服は帝大のような学生服に黒マント、白線帽ではなく、背広にネクタイだった(玉川大学#学生生活の記述も参照)。
- 学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったドイツ人神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。
- 戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍・海軍関係の研究所や工場などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫教授のもとで航空機の研究開発を手伝った。また中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。
- 応援団の部員は創立以来の伝統として先輩達から受け継いだバンカラを継承し日々着用している。1977年(昭和52年)の第17回大会から日本寮歌祭に参加している。
- 戦前までは日本政府が帝国大学以外に大学レベルの工学教育を認めなかったため、工学部を設置できた私立大学はごく僅かであり、しかも大学予科3年・本科3年の教育課程を認められたのは、大正9年に設立された早稲田大学理工学部、昭和14年に設立された慶應義塾大学理工学部の前身である藤原工業大学、そして昭和17年に創立された千葉工業大学の3校だけだった。
- 寮生は千種寮に入寮すると、まず日常寮で使う基本的な礼儀作法、マナーについて上級生から指導を受ける(「一年!集合!」との号令で始まる夜間点呼終礼が日常化していた時代もある)ほか、喋り方や学内で出会った上級寮生への挨拶儀礼や寮生の掟と呼ばれる各棟伝統の決まりごとなどを身につけなければならない。寮生活では寮長・室長・風紀役員などが定められ、時に厳しく管理される。最近は緩和され和やかな雰囲気となっているが、かつてはその厳しさから脱走者(夜逃げ)が続出したとされる。その好例に舘ひろしの脱走劇が残されている(ただし、舘は新入寮後、数か月しかフル在寮していなかったとの逸話もあり、大脱走劇は舘がメジャーデビューしてから脚本誇張化され広まった英雄譚とのOB談も存在する)[24]。
脚注[編集]
- ↑ 日本で最初に設立された私立理工系大学は藤原工業大学だが、1944年(昭和19年)に慶應義塾大学に吸収合併され現存しておらず、また日本に存在している私立の理工系大学は、1949年(昭和24年)以降の新設大学だからである。
- ↑ 旧三工大のうち、東京工業大学以外は現存していない。また、存在する国立の理工系大学は1949年(昭和24年)以降に新制大学を新設するまでは旧制専門学校だったためである。
- ↑ 特に予科教育の過程で、小西、小原らは、長く教育の現場を見てきた経験則から日本紳士を養成する上で必要と考えられる教養科目を基礎に学校生活を通じて生徒たちを「小さい紳士」に育て上げることを念頭としていた
- ↑ 専門家であるだけでなく、国家を思い、社会の成り立ちを広く理解する国際知識に富んだ人物の養成
- ↑ 澤柳政太郎博士の意思を継ぎ、真全美聖の4絶対価値と、健富の2手段価値を持った完全人格の育成を目指す。これがためには「体育」、「音楽その他の芸術教育」「宗教、道徳教育」などの教養教育に重要な意味がある(詳細は全人教育を参照)
- ↑ ペスタロッチが身をもって強調した教育の根本であり、「百聞は一見に如かず、百聞は一策労作にしかず」という「自学自律、自啓自発の教育」
- ↑ 真の教育は午前8時前と午後4時以降の人間生活にある
- ↑ 「研究室に於ける忠実なる真理探究の学徒たると同時に、学校の工場移駐を図り、長期の一定期間中実習体験をなさしめ、以って国家産業戦士の指導者たらしめんとす」
- ↑ 400の大学や研究機関から3万人の科学者がカーネギー研究所(ワシントン)に集められ、レーダーやVT信管などの軍事技術の開発が始まる
- ↑ 日本人(東洋人)を代表してクリスチャンで、教育家の小原國芳が大学設立趣意書を提出(アジア解放を望んだ日本国民の自発性を尊重すると共に、再起と誡めの契約を結ぶ)
- ↑ 急な開校指令だったこともあり全ての建物が完成してなく、講義を外で行う
- ↑ ザ・ワールド・ウォーズ解説(1941年~1943年)
- ↑ 偶然にも現在の大阪工業大学が使用している校章と同じデザインの図案
- ↑ 「大の字がダラリと広がっているのは良くない。大学にふさわしい安定性がない。工と大で天地をなしているのだから、大は4本足にして工を支えるようにすれば良い。また大の頭を少し工に組み合わせるようにすれば、もっと安定性がでるだろう」
- ↑ 設置が計画されたが戦時のため、機械学科に変更された。戦後に生産工学、経営工学分野を扱った学科として早稲田大学に次き2番目に設置された
- ↑ 鯨生態観測衛星(観太くん)オフィシャルページ
- ↑ 17.0 17.1 特色ある大学教育支援プログラム-特色GP&現代GP-教育・研究活動
- ↑ 大学等間交流協定締結状況 日本側機関別一覧(千葉工業大学) - 文部科学省
- ↑ 住宅床下点検ロボット開発
- ↑ 高齢者在宅健康管理・支援システムを共同開発(2009.09.08)
- ↑ (2009.02.09)
- ↑ 習志野市産学官連携プラットホーム
- ↑ 玉川大学出版部「教育と我が生涯 小原國芳」1977
- ↑ 千種寮は4棟の建物があるが、そのうちの四棟に入った新入寮生がその指導の厳しさから夜逃げする事件が続出したエピソードがあり、現在も『夜逃げの四棟』と呼ばれ語り継がれている。(特に四棟一階のスパルタ主義は寮内でも際立っており「夜逃げの四棟」の伝説を築きあげた。また、四棟の中でも二階が当時から若干ソフトな指導方針だった事から四棟の寮生内では『鬼の四棟一階、仏の四棟二階。(別称:硬派の四棟一階、軟派の四棟二階)』と言われていた)
関連項目[編集]
- (フランス革命)
外部リンク[編集]
大学公式ページ
付属施設の公式ページ
同窓会の公式ページ
参考文献[編集]
- 小原國芳編『全人』No.113 玉川学園出版部、1942
- 千葉工業大学二十五年史刊行委員会『千葉工業大学二十五年史』千葉工業大学、1967
- 千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992
- 玉川学園五十年史編纂委員会『玉川学園50年史』玉川学園、1980
- 日本冶金工業『日本冶金工業六十年史』日本冶金工業、1985
- 戸高一成 『[証言録]海軍反省会』 PHP研究所、2009