「ドイツ国 (1933年-1945年)」の版間の差分
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− | + | '''ドイツ国'''(-国)は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が支配した[[1933年]]から[[1945年]]の元首制的共和国としての[[ドイツ]]を指す。 | |
+ | 威光では分かり易くする為全て「ナチス・ドイツ」と表記する。 | ||
+ | == 国名 == | ||
+ | 正式な国名は[[帝政ドイツ]]、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]を通じて'''Deutsches Reich'''([[ドイツ国]])である。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、[[神聖ローマ帝国]]([[962年]]–[[1806年]])、[[帝政ドイツ]]([[1871年]]–[[1918年]])に次ぐという意味で、「第三帝国」 ({{lang-de-short|[[:de:Drittes Reich|Drittes Reich]]}}、{{lang-en-short|[[:en:Third Reich|Third Reich]]}}) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として[[第三帝国]]がより広く知られるようになった。 | ||
+ | また1943年以降は大ドイツ国(大ドイツ帝国)と称する事もあった。しかし正式国名は「ドイツ国」であった。 | ||
+ | |||
+ | == 年表 == | ||
+ | {{ドイツの歴史}} | ||
+ | *[[1923年]] [[ミュンヘン一揆]]。ナチス党は禁止されたが、後継組織が国会議席を獲得。 | ||
+ | *[[1928年]] ナチス党として初の国政選挙。12議席を獲得。 | ||
+ | *[[1930年]] この年の選挙でナチス党は第2党の地位を獲得。 | ||
+ | ;[[1932年]] | ||
+ | *[[5月]] 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。 | ||
+ | *[[7月31日]] 国会議員選挙。230議席を獲得し第一党となる。 | ||
+ | *[[11月6日]] 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。 | ||
+ | ;[[1933年]] | ||
+ | *1月30日[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領|大統領]]は、周囲に説得されて[[クルト・フォン・シュライヒャー]]に代わって[[アドルフ・ヒトラー]]を[[ドイツ国首相|首相]]に任命。 | ||
+ | ** [[ヘルマン・ゲーリング]]が無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチス党が掌握。 | ||
+ | * 2月27日 [[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]発生。ヒトラーは緊急大統領令を布告させ非常事態を宣言、[[ヴァイマル憲法|ワイマール共和国憲法]]によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止され、地方行政を支配した。 | ||
+ | * 3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチスは43.9%の票を獲得、288議席を得た。 | ||
+ | *[[3月12日]] 新[[ドイツの国旗|国旗]]を制定するまで黒・白・赤の旧[[ドイツ帝国]][[ドイツの国旗|国旗]]とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。 | ||
+ | * [[3月23日]] 議会において[[全権委任法|授権法(全権委任法)]]が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立された。 | ||
+ | * [[4月26日]] プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局([[ゲシュタポ]])と改名。 | ||
+ | ;[[1934年]] | ||
+ | *1月30日 「[[ドイツ国再建に関する法]]」成立。地方自治が許されていたドイツは一元的な中央集権国家に変貌した。各州の主権はドイツ国に移譲され、州議会が解散され、地方長官(または国家代理官、[[:de:Reichsstatthalter|Reichsstatthalter]])としてナチ党幹部が送り込まれた。 | ||
+ | *[[6月30日]] 「[[長いナイフの夜]]」事件。[[突撃隊]]幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。 | ||
+ | *[[8月2日]] [[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領が死去。 | ||
+ | *[[8月19日]] 国民投票により、ヒトラーの大統領就任が決定される。ヒトラーは大統領の肩書きは名乗らず、国家元首を兼務し「[[総統]]」と呼ばれ、独裁者として全権を担う。 | ||
+ | ;[[1935年]] | ||
+ | *[[1月13日]] [[ザール (国際連盟管理地域)|ザール地方]]が住民投票によりドイツ領に復帰。 | ||
+ | *[[5月16日]] [[ドイツ再軍備宣言]]。 | ||
+ | *[[10月21日]] [[ジュネーブ軍縮会議]]、[[国際連盟]]脱退。 | ||
+ | ;[[1936年]] | ||
+ | *[[3月7日]] [[ラインラント進駐]]。 | ||
+ | ;[[1938年]] | ||
+ | *[[1月26日]] [[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク|ブロンベルク]]国防相を罷免。28日には[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ|フリッチュ]]陸軍総司令官も罷免され、ナチス党による国防軍支配が強固になる([[ブロンベルク罷免事件]]) | ||
+ | *[[3月13日]] オーストリアを併合([[アンシュルス]])。 | ||
+ | *[[9月29日]] [[ミュンヘン会談]]で[[チェコスロバキア]]の[[ズデーテン]]地方を獲得。 | ||
+ | ;[[1939年]] | ||
+ | *[[3月14日]] チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、[[独立スロバキア]]をチェコスロバキアから独立させる。 | ||
+ | *[[3月15日]] チェコスロバキアの[[ボヘミア]]・[[モラビア]]を[[ベーメン・メーレン保護領]]として[[保護領]]とする([[チェコスロバキア併合]])。 | ||
+ | *[[3月22日]] [[リトアニア]]の[[クライペダ|メーメル]]を住民投票で併合。 | ||
+ | *[[8月23日]] [[独ソ不可侵条約]]締結。 | ||
+ | *[[9月1日]] スロバキアと共同して[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し[[第二次世界大戦]]勃発。 | ||
+ | **10月1日までにポーランド全土を制圧。[[ポーランド総督府]]を設置。 | ||
+ | ;[[1940年]] | ||
+ | *[[4月9日]] [[ノルウェー]]、[[デンマーク]]に侵攻([[北欧侵攻]])。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。 | ||
+ | **5月にはほぼノルウェー全土を占領。[[ヴィドクン・クヴィスリング]]による傀儡政権が設置される。 | ||
+ | *[[5月10日]] [[フランス]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルグ]]に侵攻を開始([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]、[[オランダにおける戦い (1940年)]])。ルクセンブルグは占領、併合される。 | ||
+ | * [[5月17日]] ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。 | ||
+ | * [[5月28日]] ベルギー降伏。 | ||
+ | * [[6月21日]] フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ。北部をドイツの占領下に置き、南部は[[ヴィシー政権]]として存続。 | ||
+ | * [[9月20日]] [[日独伊三国軍事同盟]]締結。 | ||
+ | ;[[1941年]] | ||
+ | * [[4月6日]] [[ユーゴスラビア侵攻]]開始。 | ||
+ | **[[4月17日]] ユーゴスラビア制圧。[[セルビア]]を占領下に置き、[[クロアチア]]には[[クロアチア独立国]]を建国し、[[保護国]]とする。 | ||
+ | * [[4月10日]] [[ギリシャ・イタリア戦争]]にイタリア側として介入([[バルカン半島の戦い]])。 | ||
+ | * [[6月22日]] [[バルバロッサ作戦]]を発動し、[[ソビエト連邦]]に侵攻([[独ソ戦]])。 | ||
+ | * [[12月7日]] [[日本]]、[[真珠湾攻撃]]を行い[[アメリカ]]・イギリス・オランダに宣戦布告。 | ||
+ | ** [[12月11日]] ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。 | ||
+ | ;[[1943年]] | ||
+ | * [[2月2日]] [[スターリングラード]]で、[[フリードリヒ・パウルス|パウルス]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる第6軍がソ連軍に降伏([[スターリングラードの戦い]]) | ||
+ | * [[7月25日]] [[イタリア王国]]において[[ベニト・ムッソリーニ]]が首相を解任、逮捕される。 | ||
+ | **[[9月8日]] イタリア王国が連合国に降伏。 | ||
+ | **[[9月15日]] 救出したムッソリーニを首班として[[イタリア社会共和国]]をイタリア北部に成立させる。 | ||
+ | **[[10月13日]] イタリア王国がドイツに宣戦布告。 | ||
+ | ;[[1944年]] | ||
+ | * [[6月6日]] [[ノルマンディー上陸作戦]]。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。 | ||
+ | * [[7月20日]] 反ヒトラー派グループ([[黒いオーケストラ]])により、[[ヒトラー暗殺計画]]とクーデターが行われるが失敗に終わる。 | ||
+ | * [[8月25日]] [[パリの解放]]。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告([[ルーマニア革命 (1944年)]])。 | ||
+ | * [[9月9日]] [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]がドイツに宣戦布告。 | ||
+ | * [[10月15日]] [[パンツァーファウスト作戦]]により、[[ハンガリー王国]]を保護国化する。 | ||
+ | ;[[1945年]] | ||
+ | * [[4月30日]] ヒトラーが[[総統官邸]][[総統地下壕|地下壕]]において自殺。後継大統領に[[カール・デーニッツ]]、首相に[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]を指名。 | ||
+ | * [[5月1日]] ゲッベルスが地下壕において自殺。 | ||
+ | * [[5月2日]] [[ベルリン]]がソ連軍に占領される。 | ||
+ | * [[5月8日]] デーニッツの[[フレンスブルク政府]]、[[連合国]]に降伏。 | ||
+ | * [[5月23日]] デーニッツをはじめとするフレンスブルク政府閣僚が逮捕され、占領行政がスタート([[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]])。 | ||
+ | |||
+ | == 歴史 == | ||
+ | {{ナチズム}} | ||
+ | === 政権掌握 === | ||
+ | ナチスは[[ヒトラー内閣]]成立直前の[[1932年]]の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第一党の地位は保持した。一方[[ドイツ共産党]]は11議席を増やし、首都[[ベルリン]]では共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。 | ||
+ | |||
+ | [[1933年]]1月、ヒトラーは首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部である[[ヘルマン・ゲーリング]]が無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、[[突撃隊]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党および[[ドイツ社会民主党]]員が政治犯として収容所に収容された。 | ||
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+ | ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月に[[ドイツ国会議事堂放火事件]]が発生した。ヒトラーはこれを口実として「[[民族と国家防衛のための緊急令]]」と「[[民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令]]」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、[[ドイツ共産党]]に対する弾圧を行った。選挙後の議会では共産党議員を排除した上で[[全権委任法]]を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。 | ||
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+ | 1934年6月には[[突撃隊]]幕僚長[[エルンスト・レーム]]をはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した([[長いナイフの夜]])。1934年8月に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領が死去すると、ヒトラーは首相と国家元首を兼務し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相(''Der Führer und Reichskanzler'')、日本語では[[総統]]と呼ばれる。 | ||
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+ | [[1935年]]にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーは[[アウトバーン]]などの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]のような少数民族の迫害など[[独裁]]政治を推し進めた。[[1936年]]にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって[[非武装地帯]]となっていた[[ラインラント]]に侵攻した([[ラインラント進駐]])。同年には国家を威信を賭けた[[ベルリン・オリンピック]]が行われた。また、[[1938年]]には最後の党外大勢力である[[ドイツ国防軍]]の首脳をスキャンダルで失脚させ([[ブロンベルク罷免事件]])、軍の支配権も確立した。 | ||
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+ | 外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家の[[ソビエト連邦|ソ連]]を[[反共]]イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を希望していたと言われる。アジアにおいては[[リッベントロップ]]外相の影響もあり、伝統的に協力関係([[中独合作]])であった[[中華民国]](中国)から国益の似通う[[日本]]へと友好国を切り替えた。1936年には[[日独防共協定]]を締結。[[1938年]]には[[満州国]]を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。[[1940年]]9月には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を仮想敵国として[[日独伊三国軍事同盟]]を締結した。 | ||
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+ | [[1938年]]には[[オーストリア]]を併合([[アンシュルス]])。9月には[[チェコスロバキア]]に対し、ドイツ系住民が多く存在する[[ズデーテン地方]]の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、[[イタリア王国|イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]の提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳による[[ミュンヘン会談]]が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。この時ヒトラーが英国の[[ネヴィル・チェンバレン]]首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌[[1939年]]にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させた[[独立スロバキア|スロバキア]]を除いて事実上併合した([[チェコスロバキア併合]])。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、[[ポーランド回廊|ダンチヒ回廊]]であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされた[[ヨシフ・スターリン]]率いる[[ソビエト連邦]]との間で[[独ソ不可侵条約]]を締結。世界中を驚愕させた。 | ||
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+ | === 第二次世界大戦 === | ||
+ | {{main|西部戦線 (第二次世界大戦)}} | ||
+ | {{main|ポーランド侵攻}} | ||
+ | ヒトラーはダンチヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の[[1939年]][[9月1日]]に[[ドイツ軍]]は[[ポーランド]]へ侵攻した。ヒトラーは、[[イギリス]]と[[フランス]]は参戦しないだろうと鷹を括っていたが、その思惑に反して[[イギリス]]および[[フランス]]はドイツに宣戦を布告し、[[第二次世界大戦]]が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いて全く生じなかった。 | ||
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+ | {{main|ナチス・ドイツのフランス侵攻}} | ||
+ | 西部戦線におけるこの状態は翌[[1940年]][[5月]]のドイツ軍による[[ベネルクス]]3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の[[電撃戦]]により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。翌年の春には、ドイツ軍は[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]を立て続けに占領し、5月には[[ベネルクス]]三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固な[[マジノ線]]が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領の[[アルデンヌ]]の森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は[[電撃戦]]によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。 | ||
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+ | イギリスをのぞく西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦([[アシカ作戦]])の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けて[[バトル・オブ・ブリテン]]を開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国である[[イタリア]]の救援として[[北アフリカ戦線]]、[[バルカン半島の戦い|バルカン半島戦線]]に部隊を派遣。バルカン半島から[[ギリシャ]]にかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。 | ||
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+ | {{main|独ソ戦}} | ||
+ | そして、[[1941年]][[6月22日]]、突如不可侵条約を破棄し[[ソビエト連邦|ソ連]]に侵攻する([[バルバロッサ作戦]])。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、[[大粛清]]によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末には[[モスクワ]]近郊まで進出した。しかし、[[冬将軍]]の訪れと補給難により撤退。[[独ソ戦]]は膠着状態となりヒトラーが当初目論んだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「[[大祖国戦争]]」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。ソ連への攻撃はドイツの「[[生存圏]]」''Lebensraum'' を東方に拡張する目的であったが、「[[ボルシェヴィズム]]からヨーロッパを防衛する」ことにつながるとして、この侵攻をイギリスは容認すると考えていた。 | ||
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+ | [[日本]]軍による[[真珠湾攻撃]]の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。[[1942年]]夏、ドイツ軍は[[ブラウ作戦]]を発動しソ連南部に進攻。ドイツ軍は得意の電撃戦で[[スターリングラード]]まで進出した。しかし[[スターリングラード攻防戦]]は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。翌[[1943年]]2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。一旦は戦線を持ち直したものの、7月の[[クルスクの戦い]]を最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアの[[シチリア島]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]が開始された。 | ||
+ | |||
+ | [[1944年]]6月、連合軍がフランス北部の[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディーに上陸]]し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍による[[バグラチオン作戦]]が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。7月には[[ヒトラー暗殺計画]]とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、[[ルーマニア]]・[[ブルガリア]]・[[フィンランド]]といった同盟国が次々に枢軸側から離反した。 | ||
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+ | 各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た([[バルジの戦い]])が失敗。[[1945年]]に入ると連合軍の[[ライン川]]渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、[[オーデル・ナイセ線]]を越えた。4月、ソ連軍による[[ベルリン]]総攻撃が開始され、30日にヒトラーは[[総統官邸]]の[[総統地下壕|地下壕]]で自殺した。ヒトラーの遺言により、[[カール・デーニッツ]]海軍総司令官が第三代大統領となった([[フレンスブルク政府]])。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、[[ベルリンの戦い]]は終結した。[[5月8日]]、ドイツは正式に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対し[[無条件降伏]]した。ナチス党は事実上崩壊しており、ここにナチス政権下のドイツは終わりを告げることとなった。 | ||
+ | |||
+ | == 政治 == | ||
+ | === 政治機構 === | ||
+ | {{節スタブ}} | ||
+ | ドイツには帝政時代からの伝統を持つ官僚機構が存在したが、ナチス党は政権獲得後、党の幹部を官僚機構の中枢に入れることで官僚機構を掌握した。また、党の組織である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]や各部局が公式な政治機関に昇格し、党と国家は一体化した。 | ||
+ | |||
+ | === 対外政策 === | ||
+ | {{節スタブ}} | ||
+ | |||
+ | === 経済政策 === | ||
+ | [[アドルフ・ヒトラー#経済政策|ヒトラーの経済政策]]を参照。 | ||
+ | |||
+ | === 軍事 === | ||
+ | {{節スタブ}} | ||
+ | |||
+ | === プロパガンダ === | ||
+ | {{節スタブ}} | ||
+ | |||
+ | === ナチス刑法=== | ||
+ | 初期ソビエト刑法に極めて類似した、罪刑法定主義を排除した刑法。ナチス刑法は、意思刑法、行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する、意思と人格に対して、国家社会主義的(全体主義的)立場から、応報と殖財を犯罪者に対して要求する。犯罪者は「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を持つという理由で、反抗的人格形成を行った事について国家により報復される。後に、西ドイツ基本法に於いて、罪刑法定主義が明記された理由の一つ<ref>山中敬一 /刑法I /32P</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === 社会政策 === | ||
+ | ナチス政権は[[人種主義]]を強く打ち出し、[[アーリア人種]]の優秀さを強調。人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。また抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「[[退廃芸術]]」として嘲られた。 | ||
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+ | === ホロコースト === | ||
+ | {{main|ホロコースト}} | ||
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+ | ナチスは[[ユダヤ人]]、[[ロマ|ジプシー]]のような少数民族、[[エホバの証人]]および[[同性愛者]]や[[障害者]]など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。 | ||
+ | |||
+ | [[1933年]]に成立した「断種法」の下、ナチスは[[精神病]]や[[アルコール依存症]]患者を含む[[遺伝]]的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。[[1940年]]になると[[T4作戦|T4 安楽死プログラム]]によって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」''Herrenvolk'' とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには[[1941年]]に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。 | ||
+ | |||
+ | [[1935年]]に[[ニュルンベルク法]]が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどの[[ユダヤ人]]はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。[[1938年]]11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「[[水晶の夜]]」''Kristallnacht''(クリスタルナハト)と呼ばれた。[[1939年]]9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。 | ||
+ | |||
+ | 大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。[[1941年]]からはユダヤ人は「[[ダビデの星]]」の着用を義務づけられ、[[ゲットー]]に移住させられた。[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の監督下、[[1942年]]1月に開催された[[ヴァンゼー会議]]では「ユダヤ人問題の最終解決策」''Endlösung der Judenfrage'' が策定されたとされる。何千人もの人が毎日[[強制収容所]]に送られ、この期間中には多くの[[ユダヤ人]]、ほぼ全ての[[同性愛者]]、[[身体障害者]]、[[スラブ人]]、[[政治犯]]、[[エホバの証人とホロコースト|エホバの証人]]を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー (Shoah) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」''Endlösung'' という用語を使用した。 | ||
+ | |||
+ | === ナチスとバチカン === | ||
+ | ドイツ・[[カトリック教会]]に対するナチスの暴力的行為が問題となり、これを終止させることを条件として[[1933年]]7月20日当時[[バチカン]]の国務長官を務めたパチェッリ枢機卿(後の教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]])と[[フランツ・フォン・パーペン]]との署名により、ナチス・ドイツは[[ローマ教皇庁]]との[[コンコルダート]](政教条約 ''Reichskonkordat 1933'')を締結することとなった。ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて[[教会法]]専門の研究で学位取得し、教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「[[オッセルヴァトーレ・ロマーノ]]」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会[[ヒエラルキー]]の完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。 | ||
+ | |||
+ | しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。こういった状況が続く中で、後に即位した教皇ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害に沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし歴史的調査によると、大戦中に教皇ピウス12世から[[アメリカ合衆国]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことが明らかにされている。 | ||
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+ | == 戦後 == | ||
+ | [[Image:Nuremberg-1-.jpg|thumb|ニュルンベルク裁判]] | ||
+ | [[ポツダム会議]]によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、[[オストプロイセン]]については半分はソ連に併合された。[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア]]、[[ルーマニア]]および[[ハンガリー]]といった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後([[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]])、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域は[[ドイツ連邦共和国]]となり、東側のソ連占領地域は[[共産主義]]の[[ドイツ民主共和国]]になった。 | ||
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+ | 残された[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]、[[ヴィルヘルム・カイテル]]などのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・[[ニュルンベルク裁判]]や[[ニュルンベルク継続裁判]]で裁かれることになった。また、独立回復後の[[西ドイツ]]政府により[[非ナチ化]]裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの[[映画]][[監督]]と言われた[[レニ・リーフェンシュタール]]などが裁かれた。 | ||
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+ | また、ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていた[[ココ・シャネル]]など、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらは[[サイモン・ヴィーゼンタール]]などの[[ナチ・ハンター]]によって追求が行われ続けている。 | ||
+ | |||
+ | すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党および[[ファシスト党]]の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:[[ナチの子供]])。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。 | ||
+ | |||
+ | == ナチス・ドイツの武力組織 == | ||
+ | [[Image:War_Ensign_of_Germany_1938-1945.svg|180px|thumb|ナチス・ドイツ時代のドイツの軍旗 (Reichskriegsflagge)]] | ||
+ | === 正規軍 === | ||
+ | {{main|ドイツ国防軍}} | ||
+ | * [[国防軍最高司令部]] (Oberkommando der Wehrmacht, OKW) | ||
+ | ** [[陸軍総司令部]] (Oberkommando des Heeres, OKH) | ||
+ | ** [[海軍総司令部]] (Oberkommando der Marine, OKM) | ||
+ | ** [[空軍総司令部]] (Oberkommando der Luftwaffe, OKL) | ||
+ | *** [[ドイツ陸軍]] (Heer) | ||
+ | *** [[ドイツ空軍]] (Luftwaffe) | ||
+ | *** [[ドイツ海軍]] (Kriegsmarine) | ||
+ | |||
+ | === ナチ党軍事組織 === | ||
+ | * [[武装親衛隊]] (Waffen-SS) | ||
+ | |||
+ | === 準軍事組織 === | ||
+ | * [[突撃隊]] (SA ,Sturmabteilung) | ||
+ | * [[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]] (SS ,Schutzstaffel) | ||
+ | |||
+ | === 警察組織 === | ||
+ | * 政治警察部門 ([[国家保安本部]], RSHA, Reichssicherheitshauptamt) | ||
+ | ** 治安警察 (Sipo, Sicherheitspolizei) | ||
+ | *** [[ゲシュタポ|秘密警察]] (Gestapo, Geheime Staatspolizei) | ||
+ | *** [[刑事警察_(ドイツ)|刑事警察]](Kripo, Kriminalpolizei) | ||
+ | ** 親衛隊保安部 (SD, Sicherheitsdienst des Reichsführer der SS) | ||
+ | * 一般警察部門 | ||
+ | ** [[秩序警察]] (Orpo, Ordnungspolizei) | ||
+ | *** [[大都市警察]] (Schutzpolizei) | ||
+ | *** [[地方警察_(ドイツ)|地方警察]] (Gendarmerie) | ||
+ | *** 市町村警察 (Gemeindepolizei) | ||
+ | |||
+ | === 政治結社 === | ||
+ | * 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei) | ||
+ | |||
+ | == ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品 == | ||
+ | * 『[[オリンピア (映画)|オリンピア]]』''Olympia''(第1部:『[[民族の祭典]]』 - ''Fest der Völker (Olympia Teil I)'' /第2部:『[[美の祭典]]』- ''Fest der Schönheit (Olympia Teil II)''(1938年、ドイツ映画):1936年の[[ベルリン]]オリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。[[レニ・リーフェンシュタール]]監督作品。 | ||
+ | * 『[[我輩はカモである]]』 - ''Duck Soup''(1933年、アメリカ映画):[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]・[[バスター・キートン|キートン]]と共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、[[マルクス兄弟]]による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。 | ||
+ | * 『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』 - ''The Great Dictator''(1940年、アメリカ映画):仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「[[赤狩り]]」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。 | ||
+ | * 『[[サウンド・オブ・ミュージック]]』 - ''The Sound of Music''(1965年、アメリカ映画):ナチス・ドイツ併合下の[[オーストリア]]を舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。[[マリア・フォン・トラップ|修道女マリア]]が音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『[[ドレミのうた]]』は、この映画が発祥。 | ||
+ | * 『[[地獄に堕ちた勇者ども]]』 - ''La caduta degli dei''(1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画):ナチス突撃隊粛清([[長いナイフの夜]]事件)とナチスによる[[ルール地方]]の鉄鋼王一族の退嬰を描いた[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の代表作。ヴィスコンティに重用された[[ヘルムート・バーガー]]主演。 | ||
+ | * 『[[特別な一日]]』 - ''Una Giornata Particolare''(1977年、イタリア・カナダ合作映画) | ||
+ | * 『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』 - ''Indiana Jones and the Last Crusade''(1989年、アメリカ映画)・『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』(1981年、アメリカ映画):いずれも[[スティーヴン・スピルバーグ]]の作品で、大いなる力を宿す[[聖杯]]・[[契約の箱|聖櫃]]を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。<!--オカルトじみているが、持つものに世界の支配権を与えるとされる[[ロンギヌスの槍]]にヒトラーが触れていた・もしくは保有していたとされる説が元になっているかもしれない。また、スピルバーグはユダヤ系アメリカ人であり、反ナチス感情が強いのかもしれない。--> | ||
+ | * 『[[戦場のピアニスト]]』 - ''The Pianist''(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画) | ||
+ | * 『[[ブリキの太鼓]]』-(1979年、西ドイツ・フランス合作):[[ギュンター・グラス]]原作。[[第一次世界大戦]]後の国際自由都市[[ダンツィヒ]]を舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。 | ||
+ | * 『[[ライフ・イズ・ビューティフル]]』-(1998年、イタリア):[[ロベルト・ベニーニ]]主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。 | ||
+ | * 『さよなら子供たち』-(1987年、フランス・西ドイツ合作):[[ルイ・マル]]監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。 | ||
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+ | [[ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧]]も参照のこと。 | ||
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+ | == 脚注 == | ||
+ | {{Reflist}} | ||
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+ | == 文献 == | ||
+ | {{参照方法}} | ||
+ | * [[アドルフ・ヒトラー]]『''Mein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung''』、1925年、ドイツ(邦訳:[[わが闘争]](上)I[[民族主義]]的世界観) | ||
+ | * アドルフ・ヒトラー『''Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung''』、1927年、ドイツ(邦訳:[[わが闘争]](下)II[[国家社会主義]]運動) | ||
+ | * 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年 | ||
+ | * 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年 | ||
+ | * 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年 | ||
+ | * [[トラウデル・ユンゲ]]『私はヒトラーの秘書だった(原題:''Bis zur letzten Stunde'')』、 (2002年、ドイツ) | ||
+ | * [[ヨアヒム・フェスト]]『ヒトラー最後の12日間(原題:''Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches'')』、(2002年、ドイツ) | ||
+ | * [[ウワディスワフ・シュピルマン]]『[[戦場のピアニスト]](原題:''THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45'')』、(1999年、イギリス) | ||
+ | |||
+ | == 関連項目 == | ||
+ | *[[第二次世界大戦]] | ||
+ | |||
+ | == 外部リンク == | ||
+ | * [http://www.axishistory.com/index.php?id=31 Axis History Factbook — Third Reich] | ||
+ | * [http://hitlernews.cloudworth.com/ Hitler's Third Reich in the News - daily edited review of Third Reich related news and articles.] | ||
+ | * [http://www.ns-archiv.de/index.php NS-Archiv] - Large collection of original scanned Nazi documents | ||
+ | * [http://www.videolexikon.com/view_310-33-505-0704-001.htm The German Resistance and the USA] | ||
+ | * [http://www.geocities.jp/torikai007/bio/anne-ref.html 反ナチス抵抗運動:人種民族差別撤廃] | ||
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+ | [[Category:ドイツ]] |
2009年5月29日 (金) 19:19時点における版
ドイツ国(-国)は、国家社会主義ドイツ労働者党が支配した1933年から1945年の元首制的共和国としてのドイツを指す。 威光では分かり易くする為全て「ナチス・ドイツ」と表記する。
目次
国名
正式な国名は帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じてDeutsches Reich(ドイツ国)である。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国(962年–1806年)、帝政ドイツ(1871年–1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国」 (独:Drittes Reich、英:Third Reich) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として第三帝国がより広く知られるようになった。 また1943年以降は大ドイツ国(大ドイツ帝国)と称する事もあった。しかし正式国名は「ドイツ国」であった。
年表
- 5月 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。
- 7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第一党となる。
- 11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。
- 1月30日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は、周囲に説得されてクルト・フォン・シュライヒャーに代わってアドルフ・ヒトラーを首相に任命。
- ヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチス党が掌握。
- 2月27日 国会議事堂放火事件発生。ヒトラーは緊急大統領令を布告させ非常事態を宣言、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止され、地方行政を支配した。
- 3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチスは43.9%の票を獲得、288議席を得た。
- 3月12日 新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
- 3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立された。
- 4月26日 プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局(ゲシュタポ)と改名。
- 1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。地方自治が許されていたドイツは一元的な中央集権国家に変貌した。各州の主権はドイツ国に移譲され、州議会が解散され、地方長官(または国家代理官、Reichsstatthalter)としてナチ党幹部が送り込まれた。
- 6月30日 「長いナイフの夜」事件。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。
- 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。
- 8月19日 国民投票により、ヒトラーの大統領就任が決定される。ヒトラーは大統領の肩書きは名乗らず、国家元首を兼務し「総統」と呼ばれ、独裁者として全権を担う。
- 1月26日 ブロンベルク国防相を罷免。28日にはフリッチュ陸軍総司令官も罷免され、ナチス党による国防軍支配が強固になる(ブロンベルク罷免事件)
- 3月13日 オーストリアを併合(アンシュルス)。
- 9月29日 ミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得。
- 3月14日 チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、独立スロバキアをチェコスロバキアから独立させる。
- 3月15日 チェコスロバキアのボヘミア・モラビアをベーメン・メーレン保護領として保護領とする(チェコスロバキア併合)。
- 3月22日 リトアニアのメーメルを住民投票で併合。
- 8月23日 独ソ不可侵条約締結。
- 9月1日 スロバキアと共同してポーランドに侵攻。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦勃発。
- 10月1日までにポーランド全土を制圧。ポーランド総督府を設置。
- 4月9日 ノルウェー、デンマークに侵攻(北欧侵攻)。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。
- 5月にはほぼノルウェー全土を占領。ヴィドクン・クヴィスリングによる傀儡政権が設置される。
- 5月10日 フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵攻を開始(ナチス・ドイツのフランス侵攻、オランダにおける戦い (1940年))。ルクセンブルグは占領、併合される。
- 5月17日 ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。
- 5月28日 ベルギー降伏。
- 6月21日 フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ。北部をドイツの占領下に置き、南部はヴィシー政権として存続。
- 9月20日 日独伊三国軍事同盟締結。
- 4月6日 ユーゴスラビア侵攻開始。
- 4月10日 ギリシャ・イタリア戦争にイタリア側として介入(バルカン半島の戦い)。
- 6月22日 バルバロッサ作戦を発動し、ソビエト連邦に侵攻(独ソ戦)。
- 12月7日 日本、真珠湾攻撃を行いアメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告。
- 12月11日 ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。
- 2月2日 スターリングラードで、パウルス元帥率いる第6軍がソ連軍に降伏(スターリングラードの戦い)
- 7月25日 イタリア王国においてベニト・ムッソリーニが首相を解任、逮捕される。
- 6月6日 ノルマンディー上陸作戦。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。
- 7月20日 反ヒトラー派グループ(黒いオーケストラ)により、ヒトラー暗殺計画とクーデターが行われるが失敗に終わる。
- 8月25日 パリの解放。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告(ルーマニア革命 (1944年))。
- 9月9日 ブルガリア王国がドイツに宣戦布告。
- 10月15日 パンツァーファウスト作戦により、ハンガリー王国を保護国化する。
- 4月30日 ヒトラーが総統官邸地下壕において自殺。後継大統領にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルスを指名。
- 5月1日 ゲッベルスが地下壕において自殺。
- 5月2日 ベルリンがソ連軍に占領される。
- 5月8日 デーニッツのフレンスブルク政府、連合国に降伏。
- 5月23日 デーニッツをはじめとするフレンスブルク政府閣僚が逮捕され、占領行政がスタート(連合軍軍政期)。
歴史
政権掌握
ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第一党の地位は保持した。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。
1933年1月、ヒトラーは首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊や親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として収容所に収容された。
ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。選挙後の議会では共産党議員を排除した上で全権委任法を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。
1934年6月には突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した(長いナイフの夜)。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と国家元首を兼務し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相(Der Führer und Reichskanzler)、日本語では総統と呼ばれる。
1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、ユダヤ人、ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに侵攻した(ラインラント進駐)。同年には国家を威信を賭けたベルリン・オリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。
外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家のソ連を反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を希望していたと言われる。アジアにおいてはリッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から国益の似通う日本へと友好国を切り替えた。1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカを仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。
1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアのベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ダンチヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。
第二次世界大戦
ヒトラーはダンチヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ侵攻した。ヒトラーは、イギリスとフランスは参戦しないだろうと鷹を括っていたが、その思惑に反してイギリスおよびフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いて全く生じなかった。
西部戦線におけるこの状態は翌1940年5月のドイツ軍によるベネルクス3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の電撃戦により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。翌年の春には、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。
イギリスをのぞく西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国であるイタリアの救援として北アフリカ戦線、バルカン半島戦線に部隊を派遣。バルカン半島からギリシャにかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。
そして、1941年6月22日、突如不可侵条約を破棄しソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、大粛清によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。しかし、冬将軍の訪れと補給難により撤退。独ソ戦は膠着状態となりヒトラーが当初目論んだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。ソ連への攻撃はドイツの「生存圏」Lebensraum を東方に拡張する目的であったが、「ボルシェヴィズムからヨーロッパを防衛する」ことにつながるとして、この侵攻をイギリスは容認すると考えていた。
日本軍による真珠湾攻撃の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。1942年夏、ドイツ軍はブラウ作戦を発動しソ連南部に進攻。ドイツ軍は得意の電撃戦でスターリングラードまで進出した。しかしスターリングラード攻防戦は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。翌1943年2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。一旦は戦線を持ち直したものの、7月のクルスクの戦いを最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアのシチリア島に連合軍が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、イタリア戦線が開始された。
1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。7月にはヒトラー暗殺計画とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニア・ブルガリア・フィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。
各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗。1945年に入ると連合軍のライン川渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。4月、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、30日にヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺した。ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が第三代大統領となった(フレンスブルク政府)。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終結した。5月8日、ドイツは正式に連合国に対し無条件降伏した。ナチス党は事実上崩壊しており、ここにナチス政権下のドイツは終わりを告げることとなった。
政治
政治機構
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
ドイツには帝政時代からの伝統を持つ官僚機構が存在したが、ナチス党は政権獲得後、党の幹部を官僚機構の中枢に入れることで官僚機構を掌握した。また、党の組織である親衛隊や各部局が公式な政治機関に昇格し、党と国家は一体化した。
対外政策
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
経済政策
ヒトラーの経済政策を参照。
軍事
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
プロパガンダ
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
ナチス刑法
初期ソビエト刑法に極めて類似した、罪刑法定主義を排除した刑法。ナチス刑法は、意思刑法、行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する、意思と人格に対して、国家社会主義的(全体主義的)立場から、応報と殖財を犯罪者に対して要求する。犯罪者は「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を持つという理由で、反抗的人格形成を行った事について国家により報復される。後に、西ドイツ基本法に於いて、罪刑法定主義が明記された理由の一つ[1]。
社会政策
ナチス政権は人種主義を強く打ち出し、アーリア人種の優秀さを強調。人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。また抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「退廃芸術」として嘲られた。
ホロコースト
ナチスはユダヤ人、ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者や障害者など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。
1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病やアルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4 安楽死プログラムによって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」Herrenvolk とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。
1935年にニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどのユダヤ人はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。1938年11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「水晶の夜」Kristallnacht(クリスタルナハト)と呼ばれた。1939年9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。
大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。ラインハルト・ハイドリヒの監督下、1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終解決策」Endlösung der Judenfrage が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者、身体障害者、スラブ人、政治犯、エホバの証人を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー (Shoah) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」Endlösung という用語を使用した。
ナチスとバチカン
ドイツ・カトリック教会に対するナチスの暴力的行為が問題となり、これを終止させることを条件として1933年7月20日当時バチカンの国務長官を務めたパチェッリ枢機卿(後の教皇ピウス12世)とフランツ・フォン・パーペンとの署名により、ナチス・ドイツはローマ教皇庁とのコンコルダート(政教条約 Reichskonkordat 1933)を締結することとなった。ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて教会法専門の研究で学位取得し、教皇ピウス10世による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会ヒエラルキーの完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。
しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。こういった状況が続く中で、後に即位した教皇ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害に沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。教皇ヨハネ・パウロ2世は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし歴史的調査によると、大戦中に教皇ピウス12世からアメリカ合衆国のルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことが明らかにされている。
戦後
ポツダム会議によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、オストプロイセンについては半分はソ連に併合された。チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニアおよびハンガリーといった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後(連合軍軍政期)、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域はドイツ連邦共和国となり、東側のソ連占領地域は共産主義のドイツ民主共和国になった。
残されたヘルマン・ゲーリングやヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判やニュルンベルク継続裁判で裁かれることになった。また、独立回復後の西ドイツ政府により非ナチ化裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールなどが裁かれた。
また、ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていたココ・シャネルなど、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらはサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターによって追求が行われ続けている。
すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党およびファシスト党の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:ナチの子供)。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。
ナチス・ドイツの武力組織
正規軍
- 国防軍最高司令部 (Oberkommando der Wehrmacht, OKW)
ナチ党軍事組織
- 武装親衛隊 (Waffen-SS)
準軍事組織
警察組織
- 政治警察部門 (国家保安本部, RSHA, Reichssicherheitshauptamt)
- 一般警察部門
政治結社
- 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)
ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品
- 『オリンピア』Olympia(第1部:『民族の祭典』 - Fest der Völker (Olympia Teil I) /第2部:『美の祭典』- Fest der Schönheit (Olympia Teil II)(1938年、ドイツ映画):1936年のベルリンオリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。レニ・リーフェンシュタール監督作品。
- 『我輩はカモである』 - Duck Soup(1933年、アメリカ映画):チャップリン・キートンと共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、マルクス兄弟による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。
- 『独裁者』 - The Great Dictator(1940年、アメリカ映画):仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「赤狩り」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。
- 『サウンド・オブ・ミュージック』 - The Sound of Music(1965年、アメリカ映画):ナチス・ドイツ併合下のオーストリアを舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。修道女マリアが音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『ドレミのうた』は、この映画が発祥。
- 『地獄に堕ちた勇者ども』 - La caduta degli dei(1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画):ナチス突撃隊粛清(長いナイフの夜事件)とナチスによるルール地方の鉄鋼王一族の退嬰を描いたルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作。ヴィスコンティに重用されたヘルムート・バーガー主演。
- 『特別な一日』 - Una Giornata Particolare(1977年、イタリア・カナダ合作映画)
- 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 - Indiana Jones and the Last Crusade(1989年、アメリカ映画)・『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年、アメリカ映画):いずれもスティーヴン・スピルバーグの作品で、大いなる力を宿す聖杯・聖櫃を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。
- 『戦場のピアニスト』 - The Pianist(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画)
- 『ブリキの太鼓』-(1979年、西ドイツ・フランス合作):ギュンター・グラス原作。第一次世界大戦後の国際自由都市ダンツィヒを舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。
- 『ライフ・イズ・ビューティフル』-(1998年、イタリア):ロベルト・ベニーニ主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。
- 『さよなら子供たち』-(1987年、フランス・西ドイツ合作):ルイ・マル監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。
ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧も参照のこと。
脚注
- ↑ 山中敬一 /刑法I /32P
文献
- アドルフ・ヒトラー『Mein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung』、1925年、ドイツ(邦訳:わが闘争(上)I民族主義的世界観)
- アドルフ・ヒトラー『Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung』、1927年、ドイツ(邦訳:わが闘争(下)II国家社会主義運動)
- 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年
- 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年
- 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年
- トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった(原題:Bis zur letzten Stunde)』、 (2002年、ドイツ)
- ヨアヒム・フェスト『ヒトラー最後の12日間(原題:Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches)』、(2002年、ドイツ)
- ウワディスワフ・シュピルマン『戦場のピアニスト(原題:THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45)』、(1999年、イギリス)
関連項目
外部リンク
- Axis History Factbook — Third Reich
- Hitler's Third Reich in the News - daily edited review of Third Reich related news and articles.
- NS-Archiv - Large collection of original scanned Nazi documents
- The German Resistance and the USA
- 反ナチス抵抗運動:人種民族差別撤廃