角田弘業
角田 弘業(つのだ こうぎょう[1]、1834年12月23日 - 没年不詳)、旧通称:久次郎[2]は、幕末・明治期の尾張藩士。1853年に家督を相続。万延・文久年間に前尾張藩主・徳川慶勝の復権のため京都で活動し、近衛家に出仕。1863年に慶勝が復権した後、1864年に町方吟味役となり京都の市政に参与、1865年に藩学・明倫堂主事に転じ、1866年に尾張藩の留書頭、京都の市中取締掛・田宮如雲の参与となった。1868年の鳥羽・伏見の戦いの後、大坂の治安維持を担当。藩の留書奉行となり勘定奉行を兼職、京都の参与助役を辞職。東方総管となった間宮六郎の参謀として農兵の組織・訓練を行った。1869年に藩の作事奉行に任命されたが、1870年に辞職。1874年頃、尾張徳川家の家令の人事に介入、同年の台湾出兵の頃、名古屋近郊で士族を集めて集会を開き、新政府から不穏分子として警戒された。1877年に徳川慶勝の命で北海道で開墾・移住の適地を探し、翌年遊楽部の開墾場へ移住。同地で八雲商会の頭取となり、1880年代に澱粉生産工場の経営を試みたが失敗した。
経歴[編集]
天保5年11月23日(1834年12月23日)生まれ[3]。
嘉永6年(1853)4月、家督を相続し、名古屋藩の馬廻りとなった[3]。
京都での活動[編集]
安政5年(1858)、藩主・徳川慶勝が幕府によって隠居・謹慎を命じられた[3]。
万延元年(1860)、間島冬通、植松茂岳、その子の有関・有径らとはかって、斯波正近と自身の弟・角田弟彦(「篠原主税」と変名)を京都へ潜入させた[3]。
文久2年(1862)5月と8月に、自ら京都に潜入して、情勢を視察[3]。
この頃、尾張藩の重臣・竹腰兵部少輔らが、徳川慶勝を隠居させ、田宮如雲らを幽閉するなどしたため、勤王派の人士は朝廷と連絡して活動することができなかった。角田らは、近松矩弘らと謀って、佐幕派を排除して、勤王派を復権させ、徳川慶勝が国政に参与できるようにしようと考え、熱田文庫に同志を集めて成瀬正肥の邸宅へ行き、このことを面述して了解を得た。[4]
慶勝の復権[編集]
同年11月、在京役となり上京[5]。
同年12月、近衛関白(忠煕)の指示により、名古屋・江戸へ行く。藩主(徳川茂徳)と前藩主(慶勝)へ命を伝え、月末に帰京した。[5]
文久3年(1863)3月、天皇が賀茂へ行ったときに、近衛左大将(忠房)の護衛をした[5]。
同年4月、天皇が石清水へ行ったときに、近衛左大将の護衛をした[5]。
同年5月、藩命により、横浜周辺の情勢の視察のため、江戸へ行き、水戸中納言に謁見した[5]。
同年7月、名古屋へ帰った[5]。
同月、尾崎八衛を同伴して上京し、伝奏衆から前藩主・慶勝を出京させるように指示が建白されたため、名古屋へ往復して連絡した[5]。
同年9月、名古屋へ帰った[5]。
文久4年(1864)正月、町方吟味役頭取となり、市政を参掌した[5]。
慶応元年(1865)7月、明倫堂主事に転じ、藩学校の庶務を掌った[5]。
慶応2年(1866)5月、留書頭となり、藩政の枢機に預った[5]。
慶応2年(1866)9月、上京。同年12月、尾張藩の使節として大坂城へ行き、板倉閣老に謁見。慶勝の書を呈し、口上を述べた。[5]
同月18日、田宮如雲が参与・市中取締掛に任命されたとき、御所で、その助役に任命された[6]。
同月21日、頭取の内命を受けた[7]。
同月29日、如雲が上京したとき、伏見に居残り、取締の御用を引受けた[7]。
戊辰戦争[編集]
慶応4年(1868)正月元日、丹波篠山藩の市野内匠の取締御用を命ぜられ、派出することになったため、伏見の取締の御用を引き継ぎした[7]。
翌2日、帰京[7]。
同月5日、将軍宮(有栖川宮)をはじめ、薩・長の諸陣への使節として、附属の者と大砲隊1組を率いて、東寺の将軍宮の陣営を経て、鳥羽街道から淀に至った。淀橋は既に焼け落ちていた。途中、長州藩・林平七に面会し、同行した。薩摩の本営に至って、吉井幸輔に面会し、使節の役目を果たすと、同月6日に淀川を越え、枚方で大坂城の焼失を聞いて、そのまま大坂に至った。監軍から市中の巡邏を命ぜられた。[7]
同月29日、将軍宮が凱陣したため、これに従って帰京[7]。
同年2月、征東大総督(有栖川宮)の進軍について、徳川家親連合本家へ建言し、官軍の組織編制を慶勝に稟議するため、名古屋へ帰った[7]。
同月18日、普請奉行の格を以って留書奉行となった。この時、参与助役は、藩主からの申立により辞職した。[7]
同年閏4月、慶勝が太田に置かれた本営に出張したときに、従軍。勘定奉行を兼ねた[7]。
同年5月に名古屋ヘ帰った[7]。
同年7月、京都・有栖川宮へ、使節として往復[7]。
同年8月、尾張藩が東方総管を設置し、家老・間宮外記を任命して方面の全権を授け、治安と軍制を担当させたとき、その参謀に任命され、民政全般や、屯田兵の編成、文武の指導にあたるなど、諸務に携わった[8]。
明治2年(1869)2月・3月の2回、藩庁の人撰の用事で、京都へ往復した[9]。
下野[編集]
明治3年(1870)8月、依願により、職務を免ぜられた[9]。
明治5年(1872)2月、国事に尽力した賞典として、高40石を終身分与された[9]。
1874年(明治7)7-8月頃、田中不二麿、丹波賢、松本暢、間島冬道らが徳川慶勝に進言して家令・白井逸造を退職させ、宮内省で在官していた中村修を家令とした際に、長谷川惣蔵とともに中村を退職させ、白井を復職させた[10]。
同年、台湾出兵のとき、名古屋近郊の浜沼で「鯉漁」と称して士族約2,000人で集会を開いた。会議内容は明らかでなかったが、出兵を要望しようとしていたのではないかと噂された。[10]
こうしたことから、明治維新政府からは、長谷川や吉田知行、丹羽清五郎らとともに、旧藩地の士族で、在官者と対立し、鹿児島の士族とも連携して動乱を起す可能性のある不穏分子として警戒されていた[11]。
同10年(1877)、西南の役のとき、徳川慶勝からの召喚を受け、大津直行と共に慶勝の命令を伝えた[9]。
北海道開拓[編集]
1877年(明治10)7月または8月、徳川慶勝によって吉田、佐治為泰、片桐助作らと共に北海道へ派遣され、開拓使管内で移住・開墾の適地を探して、約3ヶ月間、踏査を行った[12][13][14][15]。
この調査報告を受けて、尾張徳川家は翌1878年5月に開拓使長・黒田清隆に遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の土地の下げ渡しを嘆願し、同年6月に許可を受けた[16][17]。
1878年(明治11)、家族や弟・角田弟彦夫妻らと共に、北海道へ移住[18][9]。
1881年(明治14)に2代目開拓委員となった海部昂蔵が馬鈴薯を原材料とした澱粉の大規模生産を提案してから数年後に、角田は自身が経営する水車場に酒餡の加工に使用していた乾燥機を援用し、砂糖大根用の野菜洗い機を模した機械を設置して工場を作り、澱粉を生産したが、当時は市価が安く採算が合わず、数年後には工場は廃止された[19]。
(時期不定で)八雲村の物産を扱う八雲商会の頭取を務めた[20]。
晩年、盲目となり、水車小屋からそれほど遠くない場所で暮らし、(1917年以前に同地で)死去した[21]。
評価[編集]
- 中村 (1910 44-45)は、角田は性格は方直沈恬で、早くから尊王攘夷の意見を持ち、安政年間以来、前藩主・慶勝を復権させ、勤王派の勢力を挽回しようとして、世上の動静を探り、思慮をめぐらせて、文久年間に同志を糾合し、その志が実現するに至るまで周旋を怠らなかった。尊王攘夷の動きが始まった当初から、明治維新の初期に至るまで、参与助役となって田宮如雲を助け、京都・伏見の市政を整理し、また退任した後も尾張藩の藩政の中枢に参与した。廃藩置県の後、栄華や出世を求めず、県庁から権正長に任命されたが直ちに辞職し、北海道の未開墾地の寒い土地に移住して開墾に携わった。国家に忠義を尽す志は終始変わらなかった。その功労は明らかだ、と評している。
- 「土龍(もぐらもち)」というあだ名だった[22]。
付録[編集]
関連文献[編集]
- 「角田久次郎」徳川林政史研究所 > 史料の公開 > PDFファイル公開史料一覧(公開史料一覧へ進む) > 藩士名寄 旧蓬左文庫所蔵史料140-4 > 第19冊 PDFコマ213-215(MFコマ218-220)
脚注[編集]
- ↑ 都築 1917 35
- ↑ 中村 1910
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 中村 1910 41
- ↑ 中村 1910 41-42
- ↑ 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 5.12 中村 1910 42
- ↑ 中村 1910 42-43
- ↑ 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 7.11 中村 1910 43
- ↑ 中村 1910 43-44
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 中村 1910 44
- ↑ 10.0 10.1 藤田 2010 63 - 1875年(明治8)1月付の政府密偵探索書から引用。
- ↑ 藤田 2010 63
- ↑ 藤田 2010 64-65。7月から。
- ↑ 大石 1994 98-99。7月から3ヵ月間。
- ↑ 中村 1910 44。8月から11月まで。
- ↑ 都築 1917 18
- ↑ 藤田 2010 64-65
- ↑ 大石 1994 98-99
- ↑ 藤田 2010 68-69
- ↑ 都築 1917 179-180
- ↑ 都築 1917 189-191
- ↑ 都築 1917 180-181
- ↑ 都築 1917 58
参考文献[編集]
- 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
- 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生 ‐ 北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563
- 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971
- 中村 (1910) 「角田弘業」中村修(編)『勤王家履歴』〈名古屋市史編纂資料 和装本 市11-37〉pp.41-45