海部昂蔵
海部 昂蔵(かいふ こうぞう、1851年 - 1927年)は、幕末・明治初期の尾張藩士、尾張徳川家の家職。戊辰戦争では官軍の参謀附属として越後長岡城攻略戦に参加。維新後、平戸へ遊学するも、廃藩置県により帰郷。名古屋市東郊の和合村へ帰田し、1876年頃、家塾・和合書院を開設した。1883年までに子弟を北海道・八雲村の開拓地へ移住させ、1882年-1883年頃から尾張家に出仕して、同地の開拓を指導した。1884年に徳川義礼の英国留学に随行し、帰国後、1885年から尾張家家令を務めた。1900年から1904年まで明倫中学校校長。1914年から尾張家御相談人。雅号・一電[1]。海部俊樹の曽祖父(ないし祖父)にあたるとしている文献が複数あるが、入谷 (2000 92,196-197)によると、海部俊樹の曾祖父「久蔵」は昂蔵とは別人。
目次
経歴[編集]
生い立ち[編集]
- 海部久蔵は天保11年(1840)生まれ[2]。
文久2年(1862)、明倫堂に進学。同年生まれで、同年に明倫堂に進学した片桐助作とは後年まで親交があった。[1]
片桐 (1994 44)は、明治2年(1869)の『尾府全図』の鏑(橦)木町に「海部左近右衛門」とあることから、同所に海部の邸宅があったと推測しているが、入谷 (2000 92)によると、海部の先祖は「久右衛門」を名乗っていたといい、海部左近右衛門家・海部久蔵家とは別家系(従って、旧宅も左近右衛門宅とは別の場所にあったと考えられる)。
15歳のとき(1866・慶応2年頃)、塚田某の家塾に入り、左氏伝を学ぶ[4]。
戊辰戦争[編集]
同年4-5月、戊辰戦争の越後長岡城攻略戦では、官軍を統括していた千賀信立の参謀附属として信濃川岸の榎峠で幕府軍と交戦した[6]。この頃の通名は辰次郎[7]。
同年12月、藩命により、酒井明、片桐らとともに、2年間、平戸の儒学者・楠本南山に師事して遊学[8]。
明治3年(1870)10月、期間満了となったが、学業の継続を希望して書信を藩の執政へ送り、返信を待つ間に九州を歴遊。平戸へ戻ったが返信が未達だったため長崎から米国船に乗船して大阪から名古屋ヘ戻り、藩が再遊を許可したことを知って、越前の吉田東篁の塾を訪問した後、平戸の楠本塾へ戻り、間もなく退塾して平戸の藩学に入学した。[8]
明治4年(1871)、廃藩置県を受けて帰郷[8]。帰郷後、名古屋市東郊の和合村(現・愛知郡東郷町)で帰田した[7]。
剣書此地両年を停む
壮志之を慚ず一経に老ゆるを
是より扶揺九万里
鵬背に騎して南溟を極めん– 海部昂蔵 明治4年(1871)、廃藩置県のため平戸の藩学を辞すにあたって賦した詩[10]
和合書院[編集]
1876年(明治9)頃、徳川家や同志の支援を受けて、家塾・和合書院を開設し、子弟を教育[11]。同年の晩夏、前原一誠から挙兵の勧誘を受けるが(萩の乱)、大義名分を説いて応じなかった[12]。
1877年(明治10)の西南戦争の後、ロシアと国境を接する北海道に着目し、吉田知行と共に開拓移住を打診して、徳川慶勝の賛同を得た[13]。
八雲町開拓[編集]
1878年(明治11)、吉田らによる北海道の開墾地への移住者の募集に対し、海部自身は「種々の事情」のため名古屋に残ったが[14]、和合書院の子弟が応募した[15]。海部から積極的な働きかけがあったものとみられている[15]。
その後、1883年(明治16)頃までに、北海道・八雲村の開墾地へ移住し[16][17][18]、1882年(明治15)または1883年(明治16)から、中村修、種野弘道らと共に尾張徳川家に出仕[12]。
- 海部久蔵は、1880年(明治13)に、父・久兵衛の死去に伴い、池之内村から中区小林町に転居したとみられている[2]。
- 豊田 (1991 4)は、養鶏業は兄弟に任せて、(尾張)徳川家の開拓事業に参画した、としている。
1883年(明治16)3月(または1881年・明治14)に、吉田の後を受けて徳川家開墾試験場の開拓代表委員となり、開拓を指導[19][20][21]。余暇には移住者に漢籍の講義をするなどした[22]。
偶成
風烟新ニ闢レ地ヲ 托スレ跡ヲ興偏多シ
柳葉飛テ二秋圃ニ一 蓼花合シ二暮橋ニ一
良期有リ二雞乗一 間話尽ク漁樵
軟塵吹テ不レ到ラ 此裏絶ツ二紛囂ヲ一
– 海部昂蔵 都築省三『村の創業』より[23]
海部は、この頃、八雲村で行なわれていた、馬鈴薯を原料とする澱粉製造を産業化する計画を立て、八雲町の開拓民はその後、試行錯誤を経て産業化を実現した(徳川農場#開墾試験を参照)[24][25]。
1884年(明治17)9月、尾張徳川家の当主・徳川義礼の英国留学に随行することになり、八雲村の開拓委員を片桐助作に引き継いだ[26]。
- ロンドンに滞在中、岩崎の社員だった加藤高明から英語を習った[27]。
- また滞在先でベーコンを食べて、八雲村へ送った信書の中で養豚を試みるように勧め、その後20余年間、八雲村では豚の飼育が続けられ、ハムやベーコンも製造された[28]。
謹呈 時下酷寒吾兄山中氷雪之中に在り、僕独煤煙汽響の間にABCの稽古に苦しみ申し候。却説此地に到り毎朝朝食前に必ず卵二つと塩豚肉乾三四片を供え、大いにその慈味を覚え候。頻りにその実試あらんことを希望に堪えず、唯だ先ず三四を試みに飼養し、自製する事を得ば、我等の熱望する飲食改良の一端とも相成、愈々豚児の増殖し製法の熟達に従ひ遂に販売外輸の盛大さも可計事柄に候(…)
1885年(明治18)春、帰国し、尾張徳川家の家令となる[26]。
明倫中学校長[編集]
1900年から1904年まで私立明倫中学校初代校長[31]。
尾張家家令[編集]
1903年(明治36)12月19日から1914年(大正3年)5月1日まで、尾張徳川家の家令、同年から同家の御相談人を務めた[32]。
1927年(昭和2)春に死去[26]。
- 海部久蔵は1928年(昭和3)に死去(享年88)[2]。
人物[編集]
- 中村修は明倫堂時代の教授、種野弘道は和合塾の生徒で、3人は1882年(明治15)-1883年(明治16)頃、ともに尾張徳川家の家職についたが、性格の不一致からあまり折り合いがよくなかったという[12]。
- 片桐 (1994 56-57)によると、吉田知行や楠本端山は、海部は、自分が優秀だという自負心が強かったことから、周囲との折り合いが悪くなりがちだったことを指摘しており、また心配していたという。片桐 (1994 56-57)は、このことは著書『一電詩稿』からも窺われるといい、海部は総理大臣となることを夢見ていたが、尾張家の家令で終わったことを遺憾に思っていただろう、と推測している。
海部俊樹との関係[編集]
大石 (1994 62)および小田部 (1988 42)は、海部が、海部俊樹の祖父、藤田 (2010 80)および豊田 (1991 3-6)は、海部が海部俊樹の曾祖父にあたる、とし、豊田 (1991 4)は、海部が(時期不定で)弟・荘蔵らと養鶏業を始め、「尾張の海部種」と呼ばれる新種を開発し、名古屋コーチンは海部種から作られた、としているが、入谷 (2000 92,196-197)は、海部俊樹の曾祖父・久蔵は海部壮平の姉・すまの夫(義兄)にあたり、久蔵は代々「海部久兵衛」を称した家系、海部昂蔵の家系は「海部久右衛門」を称した家系で(詳細は海部氏を参照)、生没年も異なり、昂蔵と久蔵は別人、としている。
著作物[編集]
- 海部 (1933) 海部昂蔵(著) 鈴木信吉(編)『一電詩稿』鈴木信吉[7]
- ― (1917) ―「甲州」雅文会『大正詩文』vol.3 no.4、1917年2月、pp.7-8、NDLJP 1512283/7
- 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971 - 「越勃調」(コマ57-58)など海部の詩文を多く収載。
付録[編集]
関連文献[編集]
- 八雲町 (1984) 八雲町史編さん委員会(編)『改訂 八雲町史 上』八雲町、NDLJP 9571213
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 片桐 安藤 1994 44
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 入谷 2000 92
- ↑ 香山 2015 1は、生没年を1850年 - 1927年としている。
- ↑ 片桐 安藤 1994 46
- ↑ 片桐 安藤 1994 46-47
- ↑ 片桐 安藤 1994 47
- ↑ 7.0 7.1 7.2 片桐 安藤 1994 49
- ↑ 8.0 8.1 8.2 片桐 安藤 1994 49。『一電詩稿』稿跋による。
- ↑ 入谷 2000 57,75
- ↑ 片桐 安藤 1994 50
- ↑ 片桐 安藤 1994 54-56,58
- ↑ 12.0 12.1 12.2 片桐 安藤 1994 56
- ↑ 都築 1917 40-41
- ↑ 都築 1917 85
- ↑ 15.0 15.1 藤田 2010 68
- ↑ 大石 1994 37は、明治15年(1882)以降、開拓を指導した、としている。
- ↑ 片桐 安藤 1994 58は、明治13年(1880)に子弟と共に移住した、としている。
- ↑ 都築 1917 82-87,176は、明治14年(1881)1月3日に内地で「越勃調」を賦した後、同年中に北海道へ移住し、吉田に代わって開拓委員になった、としている。
- ↑ 藤田 2010 80 注49は、高木任之『北海道八雲村の開墾』私家版、2005年、p.379により、明治16年(1883)に委員に就任した、としている。
- ↑ 大石 1994 126は、「八雲村徳川家農場沿革略」『八雲史料』からの引用として、明治16年(1883)3月に吉田は家令となって上京し、海部と交代した、としている。
- ↑ 都築 1917 82-87,176は、海部が明治14年(1881)に開拓委員になった、としている。
- ↑ 片桐 安藤 1994 58
- ↑ 都築 1917 54
- ↑ 都築 1917 176-181,223-228
- ↑ 徳川 1973 89は、明治18年(1885)のこととしている。
- ↑ 26.0 26.1 26.2 片桐 安藤 1994 59
- ↑ 都築 1917 109-111
- ↑ 都築 1917 120-124
- ↑ 豊田 1991 5-6
- ↑ 豊田 1991 6
- ↑ 歴史 - 愛知県立明和高等学校 2016年12月12日閲覧。
- ↑ 香山 2015 1
参考文献[編集]
- 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
- 長沼 (2015) 長沼秀明「徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年3月、pp.83-93
- 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
- 入谷 (2000) 入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語』ブックショップ「マイタウン」、ISBN 4938341972
- 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生 ‐ 北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563
- 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23
- 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192
- 豊田 (1983) 豊田行二『海部俊樹・全人像』行政問題研究所、ISBN 978-4905786276
- - (1991) 改訂版 行研出版局、ISBN 4905786843
- 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、JPNO 73011083
- 藩士名寄 (NA) 『藩士名寄 第15冊』(徳川林政史研究所蔵本)