徳川農場

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徳川農場(とくがわのうじょう)は、1878年(明治10年)以来、尾張徳川家北海道のユーラップ(のちの八雲町)で経営した農場の呼称。当初、旧尾張藩士族から移住者を募り、徳川家開墾地試験場と称して移住者の生活を支援しながら開墾・入植を進めた。1884年に移住者への直接的な補助を打ち切ってから徳川開墾地と称し、1912年に開墾に成功した土地を移住者に譲渡して、尾張家は残余の土地と山林を合わせて徳川農場として経営した。第2次世界大戦後、徳川農場は農地法の適用を受け、尾張家の土地は一部の山林を除き没収された。2018年現在、尾張家が経営する八雲産業が八雲町の土地や宅地、山林を管理し、植林事業を営んでいる。

背景[編集]

明治2年(1869)の版籍奉還の後、名古屋藩では、禄制改革が行われ、士族の家禄が削減されたため、困窮した士族の子弟が親元を離れて浮浪化するなどした。このため名古屋藩庁は、16-40歳の旧士族を兵隊に編入し月給を支給するなど、窮乏の緩和策を講じることになった[1]

明治3年(1870)には帰田法および均禄法を実施し、帰田士族への手当金支給による授産をはかったが、藩庁が十分な土地や手当金を確保・支給できないという問題があり、明治4年(1871)の廃藩置県で旧藩領が数県に分割されたことにより制度継続が困難となり、旧藩の家禄制度を引き継いだ政府は明治5年(1872)に帰田法を廃止した[2]

1873年(明治6)以降、政府は秩禄処分を進め、華士族の禄制は廃止され、金禄公債が発行されたが、多くの士族にとって公債の利子のみで生計を立てることは困難で、明治政府に仕官せず旧藩領に留まっていた士族たち(越勃組)の政府への不満の高まりが警戒された[3]

1877年(明治10)、尾張徳川家徳川慶勝第11国立銀行に5万円を投資して利子を士族授産金に転用し、1878年に愛知県に対して織工場に対する伝習費の継続的な拠出と引き換えに士族の家族の女性を就業させることを要請し、1880年に設立した同工場の分工場のために建物を貸与するなど授産事業を進めていた[4]

北海道開拓も、士族授産政策の一環として実施された[5][6][7]西南戦争の後、越勃組の中でも吉田知行海部昂蔵ロシアと国境を接する北海道に着目し、徳川慶勝に開拓移住を打診して賛同を得た[8]

徳川家開墾試験場[編集]

1877年(明治10)7月、徳川慶勝は、吉田・角田弘業佐治為泰・片桐助作らを北海道に派遣して開拓使管内で移住・開墾地として適当な土地を探索させ、調査報告を受けて翌1878年5月に開拓使長官・黒田清隆に遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の土地150万坪の無代価下げ渡しを嘆願、同年6月に払下げの許可を得た[5][9][10]

1878年(明治11)6月に尾張家は、移住開墾の目的、移住民の管理体制、移住の方法、開墾の手順、食料その他の保護体制、開墾費の経費などについて規定した「徳川家開墾試験場条例」を制定した[4]

  • 目的は、困窮した士族の救済とされた[4]
  • 第11国立銀行に投資した5万円からの利息3,000円を開墾定額費として10年間支出、3年目から別途1.6万円を徳川家の歳入から支出することとした[4]
初期投資にあたる旅費・家屋の建築費・農具の購入費・食費などは3年間貸与し、貸与金を返済した移住民は土地を取得して経済的に自立することとされた[4]
  • 開墾業務や移住民の管理・統制を担当する委員を選任。吉田が委員となり、のち角田と片桐が委員補助に任ぜられた。委員は徳川家への連絡を義務付けられた。[4]
委員の下部組織として伍長がもうけられた[4]
  • 営業は農業と養蚕に限定され、委員の許可なく商工業を行うことは禁止された[4]
貸与金を返済しないうちに別地へ移住することは禁止された[4]
怠惰・放逸・名誉毀損者には罰則規定が設けられた[4]

同年、最初の開拓団となった旧尾張藩士が同地へ移住し、開墾にあたった[11][12][7]

1879年(明治12)7-8月に第2回の移住者12家族が移住した[13]

開墾試験[編集]

初代の開拓委員・吉田知行は、冬の農閑期の授産事業として紡毛織物業(フランネル)に取り組む計画を立てたが、結局、愛知の織工場から製品を回送して函館で販売することになった[14]

吉田が開拓委員の頃、ユーラップ川の対岸・鷲の巣に大農舎を建て、サルキープラオ(牛2-3頭に曳かせる農具)やリーバ(刈取り機)、シラスミシン(脱穀機)、カルチベーター(耕作機)などの農業用機械を輸入して導入し、吉田の弟・小寺彀ら独身舎の青年が共同で大規模農場を運営したが、当初は、牛が作物を食べて死ぬ、倒木により2人の青年が死亡する、農舎が焼損するなどの事故が重なり、経営が軌道に乗ったのは小寺の子の代になってからだった[15]

1883年(明治16)3月(または1881年・明治14[16])に2代目開拓委員となった海部昂蔵は、馬鈴薯を原材料とした澱粉の製造を大規模に行うことを提案し、1917年頃には八雲村全体で数十万円の利益が上がり、住民の多くが澱粉の生産に関わるまでの主な産業になったが、当初は事業化に失敗する例が多かった[17]

  • 数年後に製造機械を導入して最初に製造を開始した辻村寛治や、その1,2年後に角田弘業が自身が経営する水車場を利用して設置した澱粉工場の事業は採算が合わず、数年で閉鎖に追い込まれた。辻村はのちに自殺した。[17]
  • 八雲商会の小川助次郎や吉田知行の子・吉田知一が水車を使った澱粉の製造を試みたが、成功しなかった[18]
  • 吉田逸建彦と、辻村寛治の子・寛助、小泉寛之助らが共同経営で澱粉製造所を経営したが、のち吉田は澱粉事業を中止して十勝へ移住し、小泉は大阪で自殺した。[19]
  • 吉田の下で働いていた「庄八」は後に相当の財産ができ、自身の経営で澱粉を製造するようになった[19]
  • この頃、澱粉事業を始めた川口良昌は、粗製乱造の不正の問題や、価格の暴落の問題などに対処し、製造方法の改良を進めて事業に成功し、のち八雲澱粉生産組合の組長となった[18]
  • 後に澱粉事業で成金になった人が妾のために黒板塀の家を建て、本妻がその家に放火する事件が起きた[18]

1884年(明治17)、尾張徳川家当主・徳川義礼英国留学に同行した海部は、ロンドン滞在中にベーコンを食べて、八雲村へ送った信書の中で養豚を試みるように勧め、その後20余年間、豚の飼育が続けられ、ハムやベーコンが製造されたが、当時の日本の食生活になじまず、(1917年頃には)畜産事業は失敗したと評価されていた[20]

徳川開墾地[編集]

1884年(明治17)に海部にかわって開墾試験場の3代目委員となった片桐助作は、尾張家からの支援金額が当初計画を超過する一方で、移住者の独立達成が進まないという問題に対処することになった[21][22][23]

1885年3月に片桐は開墾場の制度改革を行って補助を制限し、移住者のうち成功の見込みがないと判断した8戸を退場・帰県させ、残った在住者に対しては、その年の穀物の播種に補助金を支給したのを最後に、以後直接的な保護を一切行わないことにして移住者の自立を促した[24][23]

開墾地事務所は1888年(明治21)に廃止となり[21]。1890年(明治23)に片桐は八雲での任務を解かれた[22]

その後、第2次、第3次の移民団が入植し、1889年-1890年頃に旧藩士の家族ら約100戸が移住した[12][25]。開拓村は「八雲村」(のち八雲町)と命名され、開墾場は徳川開墾地と呼ばれた[25]

開拓は尾張家からの生活物資の補助(総額約20万円)を受けながら行われたが、寒冷地である上、もとは荒地だったことから、落伍者も多く出た[25][12]

1910年、尾張徳川家の当主が第19代・義親のとき、八雲村の土地を開拓に成功した農民に譲渡することを宣言[26][12][25]

1912年に、開墾に成功して定着した60戸について、抵当権を解除し、土地の所有権移転の手続きを終えて、1戸あたり37,500坪、総計225万坪を無償配分して独立させ、徳川開墾地は解散した[25]

徳川農場[編集]

尾張徳川家は、独立に到らなかった農地を買い取り、残りの土地・山林とあわせて、徳川農場として経営した[27][12][25]

1912年当時の農場長は、移住者の1人だった大島鍛[28]

八雲町では1923年以前から、トラクターの導入による機械化や有畜農業(畜産の兼営)の奨励などが推進されて成果を挙げた[29]

戦後の展開[編集]

第2次世界大戦後、徳川農場は農地法の適用を受け、尾張徳川家の所有地は一部の山林を除いて没収された[30]。また財産税の適用により尾張徳川家と徳川黎明会が財務危機に陥ったため、同家家令の鈴木信吉は、資産を管理・運営する八雲産業株式会社を設立[31]

八雲産業は、2018年現在、八雲町の尾張家所有の山林・原野・宅地を運営・管理し、八雲事業所で植林事業を営んでいる[32]

評価[編集]

旧尾張藩士族による入植・開拓は、戦前、開拓の参考にされた[33]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 八雲町 (1984) 八雲町史編さん委員会(編)『改訂 八雲町史 上』八雲町、1984、NDLJP 9571213 (閉)
  • 林善茂「徳川農場発達史(三)」北海道大学『経済学研究』v.13, 1957年、pp.81-123
  • ―「徳川農場発達史(二)」北海道大学『経済学研究』v.6, 1954年、pp.57-103
  • 武田良三「開拓地農村共同体の展開と特質(一)」早稲田大学社会科学研究所『社会科学討究』ISSN 0582-9291、v.1 n.1、1956年1月
  • 林善茂「徳川農場発達史(一)」北海道大学『経済学研究』v.5, 1953年、pp.73-106

脚注[編集]

  1. 藤田 2010 60-61
  2. 藤田 2010 61-62
  3. 藤田 2010 62-64
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 4.9 藤田 2010 64
  5. 5.0 5.1 藤田 2010 64-65
  6. 小田部 1988 p.31
  7. 7.0 7.1 徳川 1963 104-105
  8. 都築 1917 40-41
  9. 徳川 1963 104-105。同書は、土地850万坪の下付を申請、としている。
  10. 都築 1917 18
  11. 小田部 1988 31
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 中野 1977 71
  13. 都築 1917 29-34
  14. 藤田 2010 66
  15. 都築 1917 111-115
  16. 都築 (1917 82-87,176)は、明治14年(1881)としているが、藤田 (2010 80 注49)は、高木任之『北海道八雲村の開墾』私家版、2005年、p.379により明治16年(1883)、また大石 (1994 126)は、「八雲村徳川家農場沿革略」『八雲史料』からの引用として、明治16年(1883)3月に吉田は家令となって上京し、海部と交代した、としている。
  17. 17.0 17.1 都築 1917 176-181
  18. 18.0 18.1 18.2 都築 1917 228
  19. 19.0 19.1 都築 1917 223-228
  20. 都築 1917 119-124
  21. 21.0 21.1 香山 2014 24-25
  22. 22.0 22.1 片桐 安藤 1994 59
  23. 23.0 23.1 都築 1917 124-127
  24. 大石 1994 127
  25. 25.0 25.1 25.2 25.3 25.4 25.5 徳川 1963 105-106
  26. 大石 1994 91-93
  27. 大石 1994a 91-93
  28. 徳川 1963 106
  29. 大石 1994 21-22
  30. 徳川 1963 110
  31. 香山 2016 121
  32. 八雲産業 2018
  33. 藤田 2010 59 - 農村更生協会『北海道調査報告』農村更生協会、1937年、NDLJP 1687761 (閉)、p.18による。

参考文献[編集]

  • 八雲産業 (2018) The Tokugawa Dormitory トップページ> 運営会社のご案内 YAKUMO SANGYO CO.,LTD., 2018年1月29日最終更新、2020年5月16日閲覧
  • 香山 (2016) 香山里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」徳川美術館『金鯱叢書』v.43、2016年3月、pp.103-131
  • 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
  • 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
  • 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563
  • 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23 (閉)
  • 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192
  • 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、JPNO 78013751
  • 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、JPNO 73011083
  • 徳川 (1963) 徳川義親(述)「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年(初出は1963年12月)、pp.85-151、ISBN 4532030862
  • 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971