大坂城
大坂城(大阪城、古くはおおざかじょう・一般にはおおさかじょうと読む)は、摂津国東成郡大坂の地にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったために、現在は大阪城と書くことも多い。豊臣政権の本城であったが、大坂夏の陣で焼失し豊臣氏が滅亡した後再建され徳川幕府の西日本支配の拠点となった。
城址は現在の大阪市中央区の大阪城公園。名古屋城、熊本城と共に日本三名城の一つ。
目次
立地[編集]
大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつてこの地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。
台地北端に立地する大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。
構造[編集]
大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。
縄張は輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。
台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城「真田丸」が構築された。果たして冬の陣はこの方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。
復興天守[編集]
現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣(右写真)である。1928年に当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、1931年に竣工した。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。
建物は、徳川大坂城の天守の石垣基礎上に、鉄骨とコンクリートで建てられた。天守閣の中は大阪城天守閣という博物館になっている。
外観は、絵図を基に新たに設計されたものである。大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所も外観もまったく異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描いている。この折衷に対しては諸々議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。
1995年から1997年にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが西側に取り付けられた。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になった。1997年、国の登録有形文化財に登録された。
遺構[編集]
現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形、桜門などの遺構が残っており、国の重要文化財に指定されている。
また、現存する石垣も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって建設されたため、石垣には瀬戸内海の島々などから採石された巨石が用いられており、近づくとその石を寄進した大名を示す刻印がされているのが目を引く。
徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた外堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。
ただ、村川行弘(現・大阪経済法科大学名誉教授・考古学)らによる昭和中期の大坂城総合調査により徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されている。また、2003年には大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかった。また、この発掘によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されている。
歴史[編集]
豊臣大坂城[編集]
1583年、戦国時代には石山本願寺とその寺内町であった地に、豊臣秀吉が築城を開始した。
完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。天守は絵画史料によると外観5層で、瓦などに金箔をふんだんに用いた華美なものであった。秀吉の死去までにさらに二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河に囲まれた堅固な豊臣大坂城が完成する。大坂城が築城されていた途中、秀吉を訪問して大坂城を案内された大友宗麟は、城のあまりの見事さに感嘆し、大坂城を三国無双と称えた。
築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもむしろそちらに居住した。秀吉死後の1599年、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。
1603年に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津を支配していたが、1614年の大坂冬の陣で家康の率いる大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸の破却が取り決められるが、さらに二の丸の外堀が埋め立てられてしまい、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後(1615年)の大坂夏の陣で大坂城は落城焼失、豊臣氏は滅亡した。
徳川大坂城[編集]
落城に際して灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年に幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年から徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年に完成した。
徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に数メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大阪城の遺構は地中に埋もれてしまった。
天守の構造も全く作り変えられた。徳川氏の大坂城は、城郭の広さは豊臣時代の4分の1の規模になり小さくなったが、天守は豊臣氏の天守とは位置も違い、建物の外観は同じ5層であったが、大きさも高さも豊臣氏の天守を越えるものであった。大坂城をより豪壮な城郭として豊臣氏の物を圧殺するかごとく全く新しく築く事で、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を全国に示そうとしたものといわれている。
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、大身の譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、小身の譜代大名から選ばれる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当した。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返すが、特に1665年には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。
1868年、鳥羽・伏見の戦いの後、幕府軍は大坂城に敗走。将軍徳川慶喜は船で江戸に逃走し、大坂城は新政府軍に開城した。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物はほとんど焼失してしまった。
明治以後の復興大阪城[編集]
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用し、城内への民間人の立ち入りは禁じられた。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大なエリアには兵器工場(大阪砲兵工廠)が設けられ、これがため後の太平洋戦争時米軍の爆撃目標となる。
1885年、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、紀州御殿と称される。1888年には、本丸桜門が復元された。
1928年、当時の大阪市長關一は、天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられた。そして1931年、鉄骨とコンクリートによる復興天守閣が竣工する。
太平洋戦争では、明治維新時に焼失を免れていた施設に損傷を受け、二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門が焼失。青屋門が大破した。特に本土終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下されるほど猛烈で、近隣の京橋駅は巻き添えを食らって、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどだったが、このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」とも呼称される壮絶なものであった。しかし、復興天守閣自体は焼失を免れた。
終戦後には、城内の陸軍用地が進駐軍に接収され、1947年に米軍の失火により紀州御殿が焼失した。
1948年の接収解除後は建物の修理が進められ、外堀を含む広域が大阪城公園に整備された。しかし、1950年のジェーン台風によりまたもや損傷を受けたことから、本格的な補修事業が開始された。あわせて学術調査も行われ、1959年には地下から豊臣時代の遺構が発見された。本丸内の陸軍師団司令部の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎(後に市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた一角では拳銃の射撃訓練も行われた(大阪府警の射撃場は公園内玉造口付近に現存)。工廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し小松左京や開高健の小説の舞台ともなった。
1983年には「大阪築城400年まつり」に合わせ、JR大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪城ホールも開館された。残されていた工廠跡にも次々と大企業のビルが建ち並び、城の北東側に「大阪ビジネスパーク」が出現した。
復興天守閣は現在も健在であり、大阪市の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。
文化財[編集]
重要文化財[編集]
- 大手門
- 塀 3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)
- 多聞櫓
- 千貫櫓
- 乾櫓
- 一番櫓
- 六番櫓
- 焔硝蔵
- 金蔵
- 金明水井戸屋形
- 桜門
登録有形文化財[編集]
- 天守
特別史跡[編集]
- 大阪城跡(1953年8月31日指定)
交通機関[編集]
友好城郭[編集]
その他[編集]
1970年に開催された日本万国博覧会での松下電器と毎日新聞の企画によるタイムカプセルが天守閣前に5,000年後に開封されることを託して埋設されている。
大阪城を舞台とする作品[編集]
参考文献[編集]
- 岡本良一『大坂城』岩波書店、1970年
- 『大坂城』学習研究社、1994年
- 『復元大系日本の城5 近畿』ぎょうせい、1992年