吉田知行

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

吉田 知行(よしだ ともゆき[1]1844年2月9日 - 1913年5月22日)、吉田猿松は、幕末・明治期の尾張藩士、尾張徳川家の家職。同家の当主・徳川慶勝の命により、同家の北海道の開墾地に遊楽部(のちの八雲町)を選定し、1878年から開拓委員として現地で開墾指導に携わった。1883年に尾張家の家令となり、当主・徳川義礼とともに欧州へ留学。帰国後、八雲に西欧酪農を導入した。晩年は愛知郡長久手村で暮らした。先編集者由亜辺出夫


経歴[編集]

幕末[編集]

天保14年12月21日(1844年2月9日)、名古屋で、尾張藩士の父・知紀と母・林氏の間に生まれる[2]

文久2年(1862)、御馬廻組となる。以後、御小納戸御小性・御小性頭・御目付などを歴任。[3]

慶応4年(1868)、軍事懸御用人並・御側御用人[3]

明治2年(1869)、参政[3]

帰田[編集]

明治4年(1871)、隠居し、愛知郡岩作村帰田[3]

廃藩置県の後、政府が明治5年(1872)に帰田法を廃止した後も、帰田を続けた[4]

1875年(明治8)頃、明治維新政府からは、長谷川惣蔵角田弘業丹羽清五郎らとともに、旧藩地の士族で、在官者と対立し、鹿児島の士族とも連携して動乱を起す可能性のある不穏分子として警戒されていた[5]

北海道開拓[編集]

1875年(明治8)12月、尾張徳川家第16代当主・徳川義宜の死去、徳川慶勝の再家督に伴い、同家の家扶を命ぜられた[6]

1877年(明治10)7月または8月、徳川慶勝によって、角田、片桐助作と共に北海道へ派遣され、開拓使管内で移住・開墾の適地を探して、約3ヶ月間、踏査を行った[7][8][9]

この調査報告を受けて、尾張徳川家は翌1878年5月に開拓使長・黒田清隆に遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の土地の下げ渡しを嘆願し、同年6月に許可を受けた[10][11]

1878年(明治11)7月、開拓委員として現地に派遣され、道路の開削や家屋の建築等を担当。同年11月に開墾地への移住が開始された。[11]

1883年(明治16)、尾張徳川家の家令となり、上京。開拓委員は海部昂蔵と交代した。[12]

1884年(明治17)頃、徳川義礼野呂景義堀鉞之丞らと英国ロンドンへ留学[13]。3年間遊学した後、帰国[2]

英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した[14]

1900年(明治33)、退職し、吉田氏の旧領があった愛知郡長久手村岩作で暮らす[2]

晩年、胃癌を患い、死去の前に本人の希望により北海道・八雲村に移る[15]

1913年(大正2)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。[15]

著書[編集]

  • 高木任之(編)『八雲日記』高木任之、2008、JPNO 21382352 - 吉田の著と推定されている[16]

評価[編集]

  • 若い頃から白髪だったため、海部の戯作『越勃調』の中で「白猿公」と呼ばれている[17]

付録[編集]

関連文献[編集]

脚注[編集]

  1. 都築 1917 35
  2. 2.0 2.1 2.2 都築 1917 351
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 藤田 2010 80 注47
  4. 藤田 2010 62
  5. 藤田 2010 63
  6. 片桐 安藤 1994 52-54
  7. 藤田 2010 64-65。7月から。
  8. 大石 1994 98-99。7月から3ヵ月間。
  9. 中村 1910 44。角田について、8月から11月まで。
  10. 藤田 2010 64-65
  11. 11.0 11.1 大石 1994 98-99
  12. 大石 1994 126 - 「八雲村徳川家農場沿革略」徳川林政史研究所所蔵『北海道八雲史料』による。
  13. 長沼 2015 84-85
  14. 長沼 2015 84 - 藤田 (2010 )による。
  15. 15.0 15.1 都築 1917 349-351
  16. 藤田 2010 78 注8
  17. 都築 1917 84,86-87
  18. 藤田 2010 79,80 注25,47

参考文献[編集]