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主要国首脳会議(en:Group of Seven and Russia, de:Sieben führende Industrieländer und Russland)とは、アメリカ、イギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、日本、フランス、ロシアの各国首脳(および国際機関の代表)が年一回集まり、国際的な経済的、政治的課題について討議する会議。合わせて、数多くの下部会議や政策検討もある。ロシア参加前は先進国首脳会議と呼ばれていた。G8(ジーエイト)とも言う。
目次
概説[編集]
G8は1973年のオイルショックとそれに続く世界不況に起源を持つ。これらのトラブルによって米国でライブラリーグループが生まれた。これは、米国、ヨーロッパ、および日本の財務を預かる政府高官が集まり、経済的課題を討議する会議である。
1975年、フランス大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンは、主な工業化された民主国家6ヶ国の国家首脳をフランス・ランブイエに招待しはじめての首脳会議を開催し、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国を交代しつつ年1回会議を持つことに合意した。こうして、フランス、西ドイツ、イタリア、日本、英国および米国で構成されるいわゆるG6が生まれた。翌年のプエルトリコでのサミットで、米大統領ジェラルド・フォードの要請によりカナダが参加したことにより、G7となる。
冷戦の終結に続く1991年に、ソ連(現ロシア)がサミット本会議の後にG7に参加し始めた。このグループは1994年のナポリサミット以降、P8(Political 8) または俗にG7プラス1として知られた。ロシアは、1998年のバーミンガムサミットからは完全参加が許されたので、このときからG8となった。しかし、ロシアは経済力が大きくなかったため蔵相会議からは除外された。このため、現在ではG7と言えばこの大臣級会議のことを指す。
米大統領ビル・クリントンの示唆により、ロシアがほとんどのセッションに参加することでG7はG8になった。これは当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに経済改革を進めさせ、またNATOの東への拡大に関して中立を保つようにさせるための、クリントン大統領のジェスチャーだった。
ロシアは比較的経済的に(民主的にも)不安定だったため、経済問題についてのG7セッションにはロシアが参加しないものもあった。2005年2月18日、米上院議員ジョー・リーバーマンとジョン・マケインは、ロシア大統領ウラジミール・プーチンによって民主的、政治的自由が確保されるまではG8への参加を見合わせるようにロシアに呼びかけた。
当初においては、様々な国際的な課題への強い影響力を有していたが、近年では影響力の低下とともに形骸化や単なるセレモニー化が指摘されている。
もっとも、1.国連総会という外交官レベルの会議に比べ、各国の首脳会議であるサミットは決断力・実行力に格段の優位性があるほか、2.拒否権など制度的問題点がなく、国連を補完する意味でも一定の役割を果たしているという評価もなされている。
一方近年は、反グローバリズムを主張する人々が毎年のように開催地に集結し、デモ行動などを繰り広げるといった動きもある。
グループの編成と活動[編集]
G8は国連や世界銀行のような機関とは異なり、国際横断的な管理部門を持たない。メンバー国の間で毎年順番にグループの議長国が回る。新しい議長国は1月1日から担当が始まると考えられている。議長国は一連の大臣級会議を主催し、続いて年の中頃に3日間の、首脳によるサミットを行う。また、出席者の安全を確保するのも議長国の役割である。
大臣級会議は、健康、法務、労働を担当する大臣が集まり、相互の、または全地球的な問題について議論する。これらのうち最もよく知られたものはG7である。すなわち、G8からロシアを除いた(およびヨーロッパ連合の事務局も除く)年1回の蔵相会議を指す。一方で、G8全員と中国、メキシコ、インド、ブラジルおよび南アフリカの蔵相による、より短い「G8+5」会議というのもある。
1994年には、G7の後援の下で、情報社会の実現に関する特別プログラムが設立された。
2005年6月には、G8は幼児性愛者に関する国際的データベースを立ち上げることに同意した。これは今年の年末までに設置される予定である。G8以外の国も後に参加することができる。また、G8は、各国のプライバシーと保安にかかる法律の範囲内で、テロリズムに関するデータを集積することにも同意した。 2005年6月には、G8構成国、およびブラジル、中国、インド(発展途上国で最大の地球温暖化ガスの排出国)の国際科学アカデミーが、気候変動に関する共同声明に署名した。この声明は、気候変動についての科学的理解はいまや、各国が即座に対策を執るには十分に明らかになっており、IPCCの統一見解を明示的に支持するということを強調している。
G8への批判[編集]
G8で扱われる課題は、議論のある国際的問題であるため、G8は非公式な「世界政府」であるという批判がしばしばなされる。また年1回のサミットは、しばしば反グローバリゼーション活動の反対活動の的になる。特に2001年ジェノバの第27回サミットが顕著だった。
G8参加国は、二酸化炭素放出による地球温暖化や、財政危機や貿易不均衡政策に起因するアフリカや発展途上国の貧困、厳しすぎる特許政策に起因するエイズ問題、その他グローバリゼーションに関連する諸問題のような全地球的課題の原因になっているという批判もある。
こうしたディベートは、財産所有の法的権利、グローバル経済、倫理やその他の観点からの議論を促している。例えば、一部の擁護者は、薬学上の発見を促すため特許は不可欠な法的権利であると信じている。一方で、一部の批判者は、並行輸入が解決策だと想定する。またある者はアフリカの貧困について、アフリカ大陸各地で政府の腐敗がはびこっているためだと言い、別の者は国際的な貿易不均衡のためであるという。ほとんどのディベートはグローバル化についての議論である。
G8諸国が作り出していると批判されている問題について責任を取って闘うよう、G8指導者へさまざまな団体から圧力がかかっている。例えば、ボブ・ゲルドフは2005年7月2日と7日にグローバル・アウェアネス・コンサートであるLive 8を組織し、G8指導者に「Make Poverty History(貧困を過去のものに)」を奨励した。また組織関係者は、G8メンバー国に1992年のリオデジャネイロ地球サミットの「アジェンダ21」で概説されたとおり国家予算の0.7%を海外援助に回すよう提案した。このコンサートは第31回G8サミットと同時になるように計画された。
G8とテロリズム[編集]
2005年7月7日スコットランドでのサミットの初日に、50人以上が命を落とし数百人が負傷したと言われるロンドン地下鉄およびロンドン二階建てバス同時多発爆破事件が起こった。この攻撃は、直ちに「ヨーロッパ在住のアルカーイダ秘密グループによるジハード」によるものとされた。この攻撃は、西側国家に対し、アフガニスタンおよびイラクでの軍事活動をした場合攻撃を行うとイスラム原理主義者によって犯行の予告が先立ってされていた中で、英国が軍事行動に参加したことと関係があるものとされた。G8サミットへ集まった国際的な注目は、おそらく最大限の象徴的な効果のためにテロリストによって増幅された。この打撃は、IOCがロンドンを2012年オリンピック大会の開催地に決定した告知をした直後でもあった。
出席者[編集]
G8リーダー[編集]
回 | 開催年 | 仏大統領 | 米大統領 | 英首相 | 露大統領 | 独首相 | 日首相 | 伊首相 | 加首相 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1975年 | ジスカール・ デスタン |
フォード | ウィルソン | シュミット | 三木武夫 | モーロ | ||
2 | 1976年 | ジスカール・ デスタン |
フォード | キャラハン | シュミット | 福田赳夫 | モーロ | トルドー | |
3 | 1977年 | ジスカール・ デスタン |
カーター | キャラハン | シュミット | 福田赳夫 | アンドレオッティ | トルドー | |
4 | 1978年 | ジスカール・ デスタン |
カーター | キャラハン | シュミット | 福田赳夫 | アンドレオッティ | トルドー | |
5 | 1979年 | ジスカール・ デスタン |
カーター | サッチャー | シュミット | 大平正芳 | アンドレオッティ | クラーク | |
6 | 1980年 | ジスカール・ デスタン |
カーター | サッチャー | シュミット | 不在 | コッシガ | トルドー | |
7 | 1981年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | シュミット | 鈴木善幸 | スパドリーニ | トルドー | |
8 | 1982年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | シュミット | 鈴木善幸 | スパドリーニ | トルドー | |
9 | 1983年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | コール | 中曽根康弘 | ファンファーニ | トルドー | |
10 | 1984年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | コール | 中曽根康弘 | クラクシ | トルドー | |
11 | 1985年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | コール | 中曽根康弘 | クラクシ | ムルルーニー | |
12 | 1986年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | コール | 中曽根康弘 | クラクシ | ムルルーニー | |
13 | 1987年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | コール | 中曽根康弘 | ファンファーニ | ムルルーニー | |
14 | 1988年 | ミッテラン | レーガン | サッチャー | コール | 竹下登 | デミータ | ムルルーニー | |
15 | 1989年 | ミッテラン | ブッシュ(41代) | サッチャー | コール | 宇野宗佑 | デミータ | ムルルーニー | |
16 | 1990年 | ミッテラン | ブッシュ(41代) | サッチャー | コール | 海部俊樹 | アンドレオッティ | ムルルーニー | |
17 | 1991年 | ミッテラン | ブッシュ(41代) | メージャー | コール | 海部俊樹 | アンドレオッティ | ムルルーニー | |
18 | 1992年 | ミッテラン | ブッシュ(41代) | メージャー | コール | 宮澤喜一 | アマート | ムルルーニー | |
19 | 1993年 | ミッテラン | クリントン | メージャー | コール | 宮澤喜一 | チャンピ | キャンベル | |
20 | 1994年 | ミッテラン | クリントン | メージャー | コール | 村山富市 | ベルルスコーニ | クレティエン | |
21 | 1995年 | シラク | クリントン | メージャー | コール | 村山富市 | アマート | クレティエン | |
22 | 1996年 | シラク | クリントン | メージャー | コール | 橋本龍太郎 | プローディ | クレティエン | |
23 | 1997年 | シラク | クリントン | ブレア | コール | 橋本龍太郎 | プローディ | クレティエン | |
24 | 1998年 | シラク | クリントン | ブレア | エリツィン | コール | 橋本龍太郎 | プローディ | クレティエン |
25 | 1999年 | シラク | クリントン | ブレア | エリツィン | シュレーダー | 小渕恵三 | ダレマ | クレティエン |
26 | 2000年 | シラク | クリントン | ブレア | プーチン | シュレーダー | 森喜朗 | アマート | クレティエン |
27 | 2001年 | シラク | ブッシュ(43代) | ブレア | プーチン | シュレーダー | 小泉純一郎 | ベルルスコーニ | クレティエン |
28 | 2002年 | シラク | ブッシュ(43代) | ブレア | プーチン | シュレーダー | 小泉純一郎 | ベルルスコーニ | クレティエン |
29 | 2003年 | シラク | ブッシュ(43代) | ブレア | プーチン | シュレーダー | 小泉純一郎 | ベルルスコーニ | クレティエン |
30 | 2004年 | シラク | ブッシュ(43代) | ブレア | プーチン | シュレーダー | 小泉純一郎 | ベルルスコーニ | マーティン |
31 | 2005年 | シラク | ブッシュ(43代) | ブレア | プーチン | シュレーダー | 小泉純一郎 | ベルルスコーニ | マーティン |
32 | 2006年 | シラク | ブッシュ(43代) | ブレア | プーチン | メルケル | 小泉純一郎 | プローディ | ハーパー |
33 | 2007年 | ブッシュ(43代) | プーチン | メルケル | 安部晋三 | プローディ | ハーパー |
太字は議長。 G8は以下の8名で構成される。
- フランス大統領
- アメリカ合衆国大統領
- イギリス首相
- ロシア大統領
- ドイツ首相
- 日本首相
- イタリア首相
- カナダ首相
- 第1回は、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカ6ヶ国首脳によるG6
- 第2回から第23回までは、上記6ヶ国にカナダを加えたG7
- 第24回からは上記7ヶ国にロシアを加えたG8になっている。
- 第6回は、サミット直前に日本国内閣総理大臣大平正芳が急死。大平の後継総理は第36回衆議院議員総選挙、第12回参議院議員通常選挙の衆参同日選挙が終了するまで決定されなかったため総理ポストに空白が出来た。サミットには代わって外務大臣の大来佐武郎が出席した。
その他[編集]
G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが、会合に参加している。
先ず国家としては
以上の5名である。上記5ヵ国はロシアに続くサミットの新規参加国候補でもある。
次に国際機関としては
の3名が参加する。この内欧州委員会委員長はEUを代表しオブザーバーとしてG8の本会合にも参加する。
これ以外に経済分野では国際通貨基金総裁が参加する。
サミット開催地の一覧[編集]
以前は、サミット参加7ヶ国の間で、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ(統一前は西ドイツ)、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回り開催されてきた。ロシアが参加するようになってからは、イギリスの次にロシアが入り、8ヶ国持ち回りになった。ロシアを含め、前半4ヶ国が国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、後半4ヶ国はそうではない。
1990年代までは大都市(特に開催国の(当時の)首都など)での開催が多かったが、1990年代末になると反グローバリズム団体の抵抗運動によるデモが頻発。特に2001年のジェノヴァでは大規模なデモに見舞われたことから、以降警備のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。
次のG8サミット開催地[編集]
回 | 年月日 | 国 | 開催地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
33 | 2007年 | 独 | ハイリゲンダム | |
34 | 2008年 | 日 | 北海道洞爺湖町 | |
35 | 2009年 | 伊 | ||
36 | 2010年 | 加 | ||
37 | 2011年 | 仏 | ||
38 | 2012年 | 米 |
首脳の写真撮影の立ち位置[編集]
サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、実はこの立ち位置にはきちんとルールがある。中央に開催国(議長国)を配し、左右に在任期間の長い順に並ぶ。(日本は首相の交代が多いため端に位置することが多いが、比較的在任期間の長かった小泉純一郎首相は中央付近に並ぶこともあった。
研究者[編集]
- 高瀬淳一(たかせ・じゅんいち)
転語[編集]
主要国首脳会議がサミットと呼ばれていることから、トップ同士の集まりのことを「サミット」と形容することがある。(例、市町村サミット)
関連書籍[編集]
- 『サミット』(芦書房 2000年 高瀬淳一著)
関連項目[編集]
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