木曜クラブ

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木曜クラブもくようくらぶ)は、かつての自由民主党派閥。会長は西村英一二階堂進だが、実質的なオーナーは田中角栄であり、自民党を離党した後も、常にこの木曜クラブを通じて自民党、果ては日本の政界に影響力を持ち続けた。通称田中派二階堂グループ

自由党吉田派を起源に持ち、佐藤派の流れを汲む保守本流派閥。1972年5月に佐藤派の派内派として、田中派が発足した。佐藤派から独立し、同年7月7日、田中が総理大臣に就任したことから、「七日会」として正式に田中派が旗揚げされ、西村が会長に就任した。旗揚げ時の参加者は、衆議院から40名、参議院から41名が参加し、合計81名の大派閥であった。

経歴[編集]

田中派の旗揚げ[編集]

派閥の特色としては、田中が首相在任中に日中国交正常化を成し遂げたこともあり、台湾とは距離を置く親中派が多かった。また、道路郵政などの公共事業による集金、集票力のある利権と深い関係を持つ族議員が圧倒的に多かった。また、議員数の増加によって自民党内の全ての政策部会に族議員化した田中派所属議員を抱えるようになると、地方自治体の首長などから「田中派に所属すれば地元からのあらゆる陳情を派内で処理して貰える」という暗黙の了解が形成されるようになり、田中内閣崩壊後も求心力を維持し続ける効果を齎した。田中は自らの派閥を総合病院と評した。

1976年、派閥のオーナーである田中と、派閥幹部の橋本登美三郎が、ロッキード事件に関与したとして逮捕されるが、世間から厳しい目を向けられたこの時も派閥からの脱落者は一名も出さず、田中派の結束の強さを示す。しかし、これは裏を返せば、田中に楯突いたり、反目すれば、政治生命を脅かす報復が待っていることの表れとも見られた。

七日会[編集]

最高顧問
顧問
会長
副会長
理事
幹事

1977年、党内の派閥解消の流れで一時「七日会」の看板を降ろすが、翌年の福田赳夫大平正芳による総裁選を境に派閥活動を復活させ「政治同友会」(会長・西村英一)を発足させた。1980年、政治同友会から「木曜クラブ」に派閥名を改め、選挙で落選した西村に代わり、二階堂が木曜クラブ会長に就任。かつて佐藤派が「木曜研究会」という派閥名だったことが由来している。

木曜クラブへの衣替えと同時に、田中は積極的な派閥拡大を進め始める。刑事裁判の被告人となっていた田中は、自民党籍を持たない、いわゆる「自民党周辺居住者」ながら、田中派を掌握し、旧中間派・無派閥議員を次々と田中派に入会させた。1980年には99名、その後も入会者を増やし、ロッキード事件第一審判決の年の1983年総選挙でも自民党が大敗する中で田中派は2人の議員を減らしたにとどまり(ただし、各選挙区に田中派の候補を大量擁立していたため田中派の落選者も多かった)、1984年には118名と、田中派は年月を経るごとにさらに膨張していった。このため、同派は「田中軍団」と呼ばれて政界の内外で恐れられるようになる。

木曜クラブ[編集]

会長
副会長
代表幹事
事務総長
運営局長
広報担当

大平、鈴木善幸中曽根康弘政権樹立の大きな原動力となり、総理・総裁を目指すには、田中派の協力なしでは不可能と言われていた。しかし、この頃から派内で「他派の候補ばかりを担いで自派から総理・総裁を出さないのは士気が下がる」との声が漏れるようになった。田中は、自身の影響力低下を恐れ、また将来の復権を考えていたため、田中派内から自分に取って代わる人間、つまりは竹下登の登板を許さないと考えていたと言われる。

1985年に竹下、金丸信らによって派内の勉強会「創政会」が結成された。田中はこれに憤慨するが、直後に脳梗塞で倒れた。

田中が一線から退いたことで、派内抗争が激化する。二階堂は、江崎真澄田村元小坂徳三郎らを擁し、木曜クラブ会長であることを盾に、自身が田中派の総裁候補であると発言、総裁選出馬を臭わせると、創政会グループの橋本龍太郎小沢一郎梶山静六らがこれに猛反対し、創政会結成を痛烈に批判し、派内の一本化を目指す奥田敬和らの中立グループが形成されるなど、木曜クラブは完全に分裂した。

1987年7月、木曜クラブから120名が参加して、竹下派(経世会)結成大会が行われた。二階堂系だった田村グループや、奥田ら中立組も竹下派に参加し、木曜クラブは完全に衰退。大派閥としての地盤は竹下-金丸ラインの経世会に引き継がれていった。

竹下派の脱退により、二階堂が江崎、小坂、山下元利らを率いて二階堂グループとして派閥を牽引するが、少人数で閣僚ポストの獲得もままならず、政界への影響力は低下した。1990年の総選挙で田中角栄、小坂、久野忠治が政界を引退し、保岡興治、角栄の女婿である田中直紀が落選。大量に所属メンバーを減らしたことで、同年2月、木曜クラブは解散を表明し、田中政治の終焉を告げた。

関連項目[編集]