タイタニック (客船)
船歴 | |
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船籍 | イギリス |
所有 | ホワイト・スター・ライン |
母港 | リヴァプール |
発注 | |
起工 | 1909年3月31日 |
進水 | 1911年5月31日 |
命名 | |
処女航海 | 1912年4月10日 |
その後 | 1912年4月15日に沈没 |
性能諸元 | |
総トン数 | 46,328トン |
排水量 | |
全長 | 269.1 m |
全幅 | 28.2 m |
全高 | 53 m |
吃水 | 10.5 m |
機関 | スコッチ式ボイラー24基/補助5基 レシプロ4気筒エンジン2基 蒸気タービン1基、50,000hp (37 MW) |
推進器 | 混成3軸、3枚羽スクリュー推進 |
速力 | 23ノット (42.6km/h) |
定員 | 船客数: テンプレート:spaces1等329人 テンプレート:spaces2等285人 テンプレート:spaces3等710人 乗組員数: テンプレート:spaces899人 |
タイタニック(RMS Titanic)は、20世紀初頭に建造された豪華客船である。
1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(他に1,490人、1,517人、1,522~23人など様々な説がある)であり、当時世界最悪の海難事故であった。その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。
目次
概要[編集]
タイタニックはイギリスのホワイト・スター・ラインが北大西洋航路用に計画した3隻のオリンピック級客船のうちの2番船であった。姉妹船にオリンピック、のちに病院船として運航されたブリタニックがある。主任設計技師はアレキサンダー・カーライルで、沈没時に運命を共にしたことで有名なトーマス・アンドリューズはホワイト・スター・ラインと折り合いの悪かったカーライルが辞任したのちに主任設計技師として計画に参加し、タイタニックの設計図面を完成させた。北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフ造船所で建造された、当時世界最大の豪華客船である。タイタニックの正式名称は「R.M.S.Titanic」R.M.S.は郵便物の輸送に用いられる船という意味であり、船上でステーショナリーを買ったり、手紙を投函することもできた。
建造[編集]
造船計画[編集]
タイタニック号の造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長・ウィリアム・ピリーが、1907年、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインのジェームス・ブルース・イズメイ社長に大型客船3隻の造船計画を発案したことに始まる。
不沈船[編集]
ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。また、当時としては安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられていた。特等~1等船室は贅沢な造りであったが、船体下層の客室にはレシプロ蒸気機関の振動が響くなど、快適とは言いがたい環境であった。
船底は二重底になっており、船体も喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分されていた。そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、Gデッキより上の隔壁こそ手動であったが、下層デッキの隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。各区画にも手動スイッチが設置されていた他、15㎝以上の浸水時には自動的に閉鎖される機能も備わっていた。そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝された。煙突は4本あるが、ボイラーと接続されているのは3本で、4本目は厨房の換気や蒸気タービンの換気のみに使用された。したがって4本目の煙突からは航行中黒煙は排出されずダミー的なものであった。これは船の外観を重視したためである。また、実際に「4本目の煙突はダミー、伊達であり、この4本目の煙突は、乗客が持ち込んだペットを預かるスペースとして使用されていた」という調査・証言もある[1]。
ボイラー室は6つあり、合計29基の石炭ボイラーが設置されていた。その後方には巨大な複式機関(3段膨張4気筒レシプロ蒸気機関)が2基あり、左右2軸のスクリューを駆動した。レシプロ蒸気機関の更に後方には蒸気タービンが1基設置されていた。これはレシプロ蒸気機関を通過したものの、まだ十分な圧力と温度を保った蒸気を再利用するもので、中央のスクリューを回転させ燃費を改善する目的があった。しかし減速ギアを持たない直結タービンだったので、タービン回転数が低く、十分な出力は得られなかった。そのため中央のスクリューは、左右のレシプロ蒸気機関で駆動されるスクリューより若干直径が小さめに造られていた。
オリンピッククラス[編集]
先述の通り、タイタニックには1年先立って竣工した姉船・オリンピックと、妹船・ブリタニックが存在した。これはドル箱航路であり、他社との競争も激しい北大西洋を航海する際に1隻では賄いきれないため、最低2隻を常に交代させる必要があったためである。予備船を入れての3隻体制は実に合理的な運行体制であった。客船3隻の先駆けとしてオリンピックの造船が開始され、ほぼ同時期に2番船タイタニックが、少し遅れて3番船ブリタニックの造船が開始された。
ブリタニックはタイタニック沈没により大幅に造船が遅れ、安全面も大きく見直され再設計されるものの、第一次世界大戦勃発により病院船として徴用、商船として一度も使われないまま触雷により沈没した。一方オリンピックは輸送船として徴用されたが、無事戦火を潜り抜け客船として復帰、1935年まで現役を勤め引退する。
タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に造船が開始されたこともあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つであった。1997年の映画『タイタニック』では、まるでタイタニックのみが最も巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックがその代表であり、タイタニック、ブリタニックという2隻の姉妹船を含め「オリンピッククラス」と呼ばれていた。そのため、タイタニックの写真としてオリンピックが使われることが度々行われていた。これらの事例からわかるように、当時タイタニックはオリンピックの陰に隠れた存在であった。
オリンピックとの差違点[編集]
先立って運航されていた一番船オリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックとは多少異なってきた。その代表としてAデッキの一等専用プロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは全体が海に対しベランダ状の吹さらしとなっていたのに対し、タイタニックは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付けサンルーム状の半室内にした。これは北大西洋の強風から乗客を守るためであり、結果タイタニック号はオリンピック号よりもすっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となった。
他にも、オリンピックはBデッキの窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックからはBデッキのプロムナードデッキが廃止され、代わりに窓際全体に1等船室を新たに設けるように変更された。その結果、1等船室の数がオリンピックに比べ大幅に増加し、専用のプロムナードデッキが設けられたスイートルーム(1997年の映画『タイタニック』のヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設計されることになった。
世界最大の客船[編集]
当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずであったが、1等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピック(45,324総トン)よりも1,004総トン大きい46,328総トンになった。厳密な意味で言えばタイタニックはオリンピックを越し、またオリンピックには存在しないスイートルームの増設など、当時世界最大で豪華な設備を有した客船であった。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉なことに沈没事故の後であった。
沈没[編集]
航行[編集]
1912年4月10日に、タイタニックはイギリスのサウサンプトン港にある専用の埠頭であるオーシャンドックからニューヨークへとむけた処女航海に出航した。エドワード・J・スミス船長の指揮下のもと乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せており、一等特別室は、6日の航海の費用4,350ドルと伝えられている。
サウサンプトン港出航の直前、ワイルド航海長の着任に伴った上級船員の異動により、降格となったブレア前二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことをライトラー二等航海士に引き継がないまま下船してしまい、双眼鏡はそのまま行方不明となった。このため、周辺の監視を双眼鏡を使わずに肉眼で行うしかなくなった。さらにサウサンプトン港出航の際には、タイタニックのスクリューから発生した水流によって、客船ニューヨークと衝突しそうになったが、この時は間一髪で回避できた。そのままフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン(現コーヴ) に寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。
14日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは同日に6通の警告通信を受け取っている。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、航海士間での情報共有も徹底されなかった。さらに混信があり、衝突の40分前に近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン」から受けた流氷群の警告も雑音として見過ごされてしまった。タイタニックの通信士たちは前日の無線機の故障もあり、蓄積していた旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。スミス船長は氷山の危険性を認識しており、航路を通常より少なくとも18㎞南寄りに変更していた。
4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。この海域は暖流と寒流がぶつかりちょうど境界面に位置するため、世界的にも海霧が発生しやすい海域として有名であり、タイタニック号が氷山に遭遇したころも直前まで海面には靄が漂っていた(当直見張員フレデリック・フリートの証言による)。また双眼鏡がなく(但し、双眼鏡自体は『遠くにある物を見る』機能しかもっていない為、タイタニック号が置かれた状況下では、あっても役に立たなかった可能性が高い)、月のない星月夜の海は波もなく静まり返っていたため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。
回避行動[編集]
見張り員のフレデリック・フリートただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのはジェームズ・ポール・ムーディ6等航海士だった。
- フリート「Is anyone there!(訳:だれかいるのか!)」
- ムーディ「Yes、what do you see? (ああ、どうした?)」
- フリート「Iceberg rightahead! (真正面に氷山!)」
- ムーディ「Thank you. (ありがとう)」
ムーディはただちに指揮を執る一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。マードックは即座に「Hard starboard!(取り舵一杯!)」と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それからテレグラフ(機関伝令器)に走ると、「Full Astern(全速後進)」の指令を送り、喫水線下の防水扉を閉めるボタンを押した。だが、回避するにはあまりにも時間と距離が足りなかった。氷山まではおよそ400~450mであったが、22.5ノット(およそ秒速11.6m)から停止するまでに、実に1200mもの距離が必要だったからである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。
このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ、衝突の数秒前に船舶の操船特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切った。舵は速力が高い方が効きやすいので、「速力を落としたために、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」と主張する説もあるが、あくまで結果から見た推論に過ぎない。そもそも、衝突時にはかなりのスピードが出ていたと推測される上に、氷山発見から衝突までの時間はせいぜい30秒程度しかなかった(説によっては氷山を前方100~200mほどまで発見できなかったため10秒しかなかったとも言われる)ため、速度はほとんど変化せず、舵効きにも影響しなかったようである。
映画等の影響で、防水扉の閉鎖は衝突後だった、ボイラー部員はすぐに逃げ出したとの誤解もあるが、ボイラー部・機関部員で実際に持ち場を離れた者は非常に少なかった。ベル機関長は浸水状況が悪化した後に彼らにも職務からの解放を命じたが、ほぼ全員が最下甲板に留まりボイラー稼働・排水・電力供給を続けた。
衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず、船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m²程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。
だが、右舷船首のおよそ90mにわたって断続的に生じた損傷が船首の6区画にもたらした浸水は防水隔壁の限界を超えていて、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾に向かって浸水が拡大していった。また、第六区画であった第五ボイラー室の損傷は軽微で、ポンプによる排水も成功したように見えたが、第五・第六区画間の防水隔壁の崩壊により完全に浸水した。これは事故前に発生していた船内火災の影響と言われているが、前部5区画が浸水している時点で沈没は確定しており、いずれ上部から浸水することは免れなかったことから、損傷そのものが無視されることが多い。かつてはボイラーに冷水が触れたことで起こった水蒸気爆発で船体の側面に巨大な穴から開き、ここからの大規模浸水が致命的だったという説が有力であったが、船体調査の結果ではボイラー付近にそのような破孔は確認されなかった。これは海水の流入に備えて、衝突後も稼働していたボイラーの蒸気圧をあらかじめ下げておいた火夫達の決死の尽力の結果である。
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。現在最も有力視されているのはリベットが抜け落ちたという説である。
タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、効果は薄かった。日付が変わった4月15日0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか10~17海里(約18~30km)ほどの距離に、先立って流氷群の注意電報を送っていたカリフォルニアンが停泊していたが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。また、カナディアン・パシフィックの「マウント・テンプル」も受信し救助に向かったが、タイタニックから20km未満まで来てから、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れて明かりを消して停船し、周辺海域に存在しないよう装った(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88km)と記録されている)。複数の乗客が、タイタニックの折れる音を聞いたと証言している。
その他にも、「バーマ」(距離70海里)、「フランクフルト」(距離153海里)、「バージニア」(距離170海里)、「バルチック」(距離243海里)など様々な船が遭難信号を傍受しているが、どれもタイタニックから遠くを航行しており、すぐには救助にいけない状態であった。姉妹船オリンピックに至ってはタイタニックから500海里(約930km)も離れていた。
結局、58海里(約107km)離れた地点にいた客船「カルパチア」が応答しボイラー破損のリスクを負いながら全速(従来14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、「SOSを世界で初めて発信した」とする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。
脱出・救命[編集]
沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。
しかし、当時のイギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく(規定では978人分。規定が改訂されたのは、タイタニックの沈没後)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。規定が1万トン級船舶が主流だった頃に作成されたものだったからである。またタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故も影響していたといわれる。リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。
また、定員数一杯に乗せないまま船を離れた救命ボートも多い。これはライトラー2等航海士を含め、多くの士官がボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊り下げたまま船が沈没することを最大の恥辱と感じていたため、できるだけ早く海面にボートを下し、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、タイタニックの乗組員の多くが未熟で、ボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに慣れていなかったことや、ダビットが乗員の重さで曲がってしまうことを恐れたためともいわれる(実際にはボート設備の施工時に、定員65人乗りのボートに70人乗せてテストを行い良好な結果を得ていたが、その結果を船員に周知しきれていなかった)。最初に下ろされた中には、定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。
結局、1500名近い乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きくちぎれ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かうため、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、ロウ5等航海士が準備を整えて救助に向かった時、沈没から既に30分は経過しており、既に手遅れであった。4月の大西洋は気温が低く、人々が投げ出された海は海水温度が零下2度。乗客の大半は低体温症などでほとんどが短時間で死亡(凍死)か、低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したと考えられている。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
影響[編集]
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると、この事故での犠牲者数は1,513人にも達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)として採択された。また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
沈没後のタイタニック[編集]
1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラード率いるウッズホール海洋研究所およびフランス海洋探査協会の調査団は海底3,650mに沈没したタイタニックを発見した。2004年6月、バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としている。
海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第3煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて確実に立証された。深海では通常バクテリアの活動が弱い為に船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為にバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。
当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っていた。また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いていた。
客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップは沈没時の衝撃や90年以上の腐食に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけられたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。
なお、現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、2100年頃までに自重に耐え切れず崩壊する見込みである。それらのバクテリアのうち、好塩性細菌の一つであるハロモナス属に属する新種の細菌が2010年になって発見され、タイタニックにちなんでHalomonas titanicaeと命名された。
海底のタイタニックには度々潜水探査船による調査が行われた。特にタイタニック (1997年の映画)では、2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録された。一方で、無断で海底の遺品を収拾する行為も広く行われ、一部の遺品は利益目的に販売されるなどされ、非難を集めている。
事故原因[編集]
事故原因をめぐっては様々な説がある。
操船ミス説[編集]
2010年9月に、2等航海士のチャールズ・ハーバート・ライトラー の孫、ルイーズ・パッテンは、イギリスのデーリー・テレグラフに対し、「ミスがなければ、氷山への衝突を避けることは簡単だった。氷山が近くにあるのを見てパニックに陥った操舵手が、間違った方向に舵を切った」と語り、基本的な操舵ミスが原因だったとしている。
記事によるとマードックが氷山を発見したのは衝突の4分前、衝突時に減速がほとんど効いていなかったとされることから氷山との距離は約2700mであったと算出される。これは十分に停止可能な距離であるが、マードックは操舵のみで回避できると判断しロバート・ヒッチェンズ操舵手に「Hard Starboard!」の号令をかけた。この号令は帆船時代からの名残で「舵輪を左に回して”舵柄を右に動かし”左へ急速回頭する」の意味で使用されており(Tiller Orders・間接法)、タイタニックでも採用されていた。しかし蒸気船式の号令(Rudder Orders・直接法)では「舵輪を右に回して舵柄を左へ動かし”右へ急速回頭する”」を意味するため直接法で訓練されていたヒッチェンズ操舵手はパニックに陥り舵輪を右に回してしまう。操舵手のミスに気付いたマードックは左回頭に修正したが手遅れであった。「全速後進」が発せられたのはこの修正時と思われる。
同記事には「ブルース・イズメイ社長が船長に微速前進での航行を命令したことにより、船首に水圧がかかり浸水が早まった。前進していなければカルパチア号到着まで沈むことはなかった」との証言も記載されている。実際に、衝突直後に計測された現在位置と沈没現場には数海里の誤差がある。
事故後、ライトラーは海運会社の倒産を恐れ、調査でもミスを隠したと説明している。また、事故当時に見張りについていたフレデリック・フリートは後に自殺、事故後南アフリカのケープ・タウンの港湾長に任じられたヒッチェンズ操舵手は知人のヘンリー・ブラム等に「タイタニック号の事故に関して秘密を守るためにケープ・タウンまで送られた」と告白しているが、関連は不明である。
陰謀説[編集]
「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」とする、つまり陰謀だったとする「陰謀説」がある。
説の「根拠」として、タイタニック号を管理していたのはホワイト・スター・ライン社であったが、その事実上の所有者はホワイト・スター・ライン社に出資していた国際海運商事の社長であるジョン・モルガンであった。そのモルガンはタイタニック号のスイートルームに乗船予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったが、この夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイがこの部屋に収まった。しかし、病気のはずのモルガンは、同時期に北アフリカからフランスにかけて旅行をしていたことが後になって判明しており、イタリアでは愛人にも会っている。しかも、キャンセルした客の中にモルガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モルガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。
また、モルガンはタイタニック号で運ぶはずだった私的な貨物も、直前に運ぶことをキャンセルしている(「タイタニック号は沈められた」より)。しかし本人が乗船をキャンセルしたこともあり、それに伴い私的な貨物を同時にキャンセルするのは当然であるという意見もある。また、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的自体が何であったかは明らかになっていない上、この事故は不注意な運航による予知しようのないものであったし、仮に航海士たちが巨額の資金で買収され、わざと氷山に衝突させたのなら航海士に死人は出ないはずであり、やはりこの「陰謀説」は「説」の域を出ないものである。
なお、「タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越す」とされているが、これを証明するものはない上、これが事実だったとしても、数パーセントの直前の乗船キャンセルが出ることは客船にとって通常の範囲のことである。
船体すり替え説[編集]
タイタニックには、姉妹船として「オリンピック」がタイタニックより1年程早く、北米航路に投入されていた。オリンピックは、タイタニックが就航する前に、2回事故を起こしている。
- 1911年9月30日、サウサンプトン沖合いでイギリス海軍防護巡洋艦「ホーク」と接触、船尾大破。この事故はイギリス海軍査問会にて審理され、オリンピック側のミスと認定され、海難保険は一切降りなかった。
- 1912年2月24日、大西洋を航海中に海中の障害物に乗り上げてしまい、スクリューブレード一枚を欠損する事故を起こす。この欠損以外にも、船体のキールに歪みが出る程の被害を負ってしまい、長期修理を余儀なくされる。
この2つの事故を鑑みて、「オリンピックが近い将来に破棄される船だったのではないか」と言うのが、船すり替え説の論拠となっている。つまり、廃棄寸前だったオリンピックを、内装や若干の仕様を変更させて「タイタニック」に仕立て上げて、故意に氷山にぶつかったというのである。
これら一連の陰謀説が唱えられる状況証拠として、
疑問 (1) | 同船船長が航海直前になってエドワード・スミスに変更になった(彼はオリンピックでの事故時に同船の船長を拝命していた)。 |
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回答 (1) | 通例、ある船会社で首席の船長は、その会社で最高の客船であるフラッグシップ(いわば新造船)を指揮する特権があった。オリンピックはタイタニックが完成するまでホワイト・スター・ラインのフラッグシップであり、その船長だったスミスはホワイト・スター・ラインの最も誉ある立場におり、船乗りとしての最後の海上生活の華を飾る航海に、当時建造されたばかりのタイタニックが付与されたのは全くもって普通のことだった。 |
疑問 (2) | 石炭庫の火災が氷山との接触事故前日まで鎮火しなかった(わざと延焼させて船体を弱体化させていた)。 |
回答 (2) | 石炭の自然発火は汽船の歴史の中でよくあることで、とくに気密性の高い船は石炭の粉塵に引火したことが原因で火災になることがあった。一方でこれらの火災は石炭庫の酸素がなくなれば自然と鎮火するもので、大事に至るようなことはまずなかったとみられる。高い気密性のゆえに引火(小規模な粉じん爆発)するのだが、その気密性のゆえに自然に鎮火するので、船体に延焼が起きるという事はほぼ否定できる。また、ボイラー室でも消火作業は行われていたが、下手に火災箇所に近づくことは逆にクルーの命を奪う可能性もあり危険(当時は酸素ボンベやマスクはまだ開発途中で、存在しない)。炎もくすぶるというほうが表現は正しく、実際ボヤだった。 |
疑問 (3) | 大西洋を航海中の船から7回「氷山警報」が送られており、その中には航路上に存在する可能性もある氷山もあったが、ことごとく無視された(カルフォルニアンに至っては「氷に囲まれて身動きが取れない」と意味深いメッセージが送られている)。 |
回答 (3) | しかしタイタニックの通信士はレース岬と通信を取るのに必死で他からの通信を邪魔だと思っていた。また、カルフォルニアンからの通信は当時の通信規則を破っていたために単なるノイズとしてしか聞こえず、軽視されたという事情がある(衝撃の瞬間より)。 |
疑問 (4) | サウサンプトン出港後に、見張り用双眼鏡が一切使用不可になっていた(引継ぎ不備にしてもロッカーをこじ開ける等の方法はあった)。 |
回答 (4) | 双眼鏡はベルファストからサウサンプトンまで随伴した航海士が自室のロッカーにしまいこみ、そのまま下船してしまったことが、紛失の原因である。つまり、他の乗組員はロッカー内に双眼鏡が存在するということを全く知らなかった、または見落としていた可能性が大きい。ここからはどのような捜索が行われたかという問題になるが、新造船のロッカーを壊すか、こじ開けて、あちこち探すような方法を、いくら航海士官といえどしたかどうかは疑問である。また処女航海のあわただしさの中で、双眼鏡の重要性が見落とされていたという可能性も否定できない。そもそも、双眼鏡というのは遠くを見る道具であって、暗闇を見るための道具ではない。遠くにあるものを細かく確認するのが双眼鏡の使い方であり、仮に双眼鏡を使っていたとしてもあの状況では氷山を発見することができなかっただろうと思われる(衝撃の瞬間より)。 |
疑問 (5) | 航海中の巡航速度は、常に22ノット以上であった(見張りが不備な状況では非常識な速度であるという意見もある)。 |
回答 (5) | これは当時の航海に関する人々の見識と深くかかわっている問題である。港湾や入江、暗礁などの点在する岸辺を運航する船舶を除き、大西洋の広大な海原を進む客船は、一定の運航スケジュールにのっとって航海しており、ほぼ船の巡航速力(タイタニックの場合22ノット~23ノット、ちなみに最高速力は24ノットである)を維持するのが普通であった。また現代のクルーズ客船と異なり、当時の船は飛行機や鉄道と等しい一つの旅客手段であり、ブルーリボン賞とは関係なく、それなりの速力と正確な運航が求められていたことは言うまでもない。そしてタイタニック遭難時の気象状況も事故を深刻にした大きな理由の一つであった。波一つなく月も出ない大西洋は、氷山が発見しにくいという点を除き、非常にまれながら安定した航海のできる状態にあった。 |
疑問 (6) | 氷山激突当日、近海に貨物船カルフォルニアンがいた(同船は、普段は別海域を航海していた)。 |
回答 (6) | カリフォルニアンが普段は別海域のみを航海していたという証拠は存在しない上、船舶会社に所属する貨物船である以上、世界中の海域を航海することに何の不思議もない。さらに、カリフォルニアンが近海にいたこととタイタニックの沈没の因果関係は全くない。しかも、上記のようにカリフォルニアンは氷山を含む流氷の警告をタイタニックに行っていた。 |
疑問 (7) | 沈没時に、氷山と激突した箇所とは別に船体が自重で折れてしまった(船体が自重で折れるという事は、設計上普通に有得ない)。 |
回答 (7) | 通常の航行状態であればその通りと言える。しかし、タイタニックの船体が第三煙突付近で折れたのは、船体前部の浸水で後部が大きく水上に持ち上げられた沈没直前のことであり、通常このような異常な状態において船体を保証する設計は行われていない。 |
疑問 (8) | タイタニックが沈没した際、100万ポンドの保険金が降りた(当時としては異例の金額であり、建造費用50万ポンドを大きく上回る)。 |
回答 (8) | 遺族への慰安費、賠償金も含まれている。 |
などが挙げられている。
同型船とは言えオリンピックとタイタニックには構造上の相違点がいくつかあり、その最も大きなものはボート甲板直下のAデッキ(プロムナードデッキ)の差で、またBデッキの1等船室の配置と数も異なり、オリンピックに比べてタイタニックでは1等定員が大幅に増加している。
オリンピックとタイタニックをすり替える為には、オリンピックが座礁した2月24日から4月10日のタイタニックの処女航海までにこれらの工事を終える必要があり、両船の船員全員を配置転換しなければならないこと、改修に関与する造船所の工員の数などを考えると、すり替えが成立する根拠はほぼなきに等しい。
ミイラの呪い説[編集]
他にも「運んでいたミイラによる呪い説」も書籍も出版されており、この中でミイラの呪いかという点に言及されている。
しかし、このミイラ(実際にはミイラの上に載せる人型の蓋(ミイラボード))は、1990年と2007年に海外に貸し出された以外に大英博物館を出たことはなく、1912年にタイタニック号に積まれた事実は無い。なぜタイタニック号に載せられたという伝説が生まれたのかについては定かではないが、乗船客の中にこのミイラを知る者がいて長旅の暇つぶしに他の客たちに話したのが、話を聞いた者が生き残って尾ひれを付けて広めたのではないかとされる。
購入者はイギリス人の旅行者で、購入後に様々な不幸を体験したとされる。その結果、人手を渡り大英博物館に収められることになったのだが、大英博物館の公式記録では最終的な寄贈者しか記録されておらず、それ以前の経緯はツタンカーメンの呪いと同じく噂の域を出ない。「不幸のミイラ」は現在も大英博物館に収蔵されており、その詳細なデータについては大英博物館のサイトで確認することが出来る。
また、生存した船員が『船長はいつもと違い氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった』と、スミス船長に異常があったことを証言しているが、これについては「ミイラの呪い」との関連性を証明するものは何もない。また、スミス船長の態度がいつもとは違ったのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録(ブルーリボン賞)を出すためであった」という説がある(後述)。
ブルーリボン賞説[編集]
タイタニックが氷山に衝突したのは、大西洋最速横断記録(ブルーリボン賞)を獲得しようと無理な航行を強行したことが事故の遠因になったという説があり、根強く支持されている。しかし、1912年当時のブルーリボン賞を保持していたのは西回り/東回り共にモーリタニアであり、その平均速度は26ノット近いものであった。両船の要目を比較すると、
- モーリタニア:総トン数31,938トン,機関 蒸気タービン4基/4軸,機関出力68,000馬力,巡航速力26ノット(最高速力28ノット)
- タイタニック:総トン数46,328トン,機関 蒸気レシプロ2基,蒸気タービン1基/3軸,機関出力46,000馬力,巡航速力22ノット(最高速力24ノット)
であり、機関の性能から見て、タイタニックはブルーリボン賞を獲得できるような能力を持っていない。
当時、ブルーリボン賞の獲得を目指したモーリタニアのような高速船は、その莫大な運航費用(燃料費)を輸送する人員や貨物だけでは賄えず、政府からの補助金によって運航が維持されていた。しかし、タイタニックを含めたオリンピッククラス客船は、豪華さを売りにし、また総トン数を上げ輸送力増大や機関出力を抑えての燃料費の低減など、補助金無しで採算が取れる運航ができるように設計された船であった。このことから、ブルーリボン賞を獲得しようとして事故を起こしたという説の根拠は薄い。
その他[編集]
事故年の地球・太陽・月の異常接近によって、その航路には本来ありえない程の氷山が呼び寄せられた、という説が新しく説えられた。
その他[編集]
- 不沈艦伝説(大内建二/光人社)より
- オリンピックが建造された時、造船界の権威である技術雑誌のShipbuilderが特別号を出したが、オリンピックの数々の充実した設備から「事実上不沈」と書いてしまった。権威が太鼓判を押してしまった事から、いつしか「事実上」の文句は忘れ去れてしまい、不沈だけが一歩きするようになってしまった。
- 当時、無線は旅行客が船上から地上にいる家族知人に連絡を送るサービスとしてだけ受け取られており、事実、タイタニックでも運航部門の直轄ではなく、サービス部門の下に置かれていた。こういった事が沈没に影響した可能性もある。
- 生存者と死者の割合のうち、三等船室を利用していた客の死者が多い。三等船室が下部の前方と後方に分断されて配置されており、沈没の際、前方の客室にいた客が脱出するためにはそのまま真上に上がるか、もしくはそのまま船体を突っ切って後方に移動してから真上に上がる二つの方法があった。ところが前者はその真上に一等船室があったためドアが施錠されており、後者の方法だけしかなかった、これが死者が増えた原因だという説もある。
- 2012年3月に建造地であるアイルランドのベルファストに博物館タイタニック・ベルファストが開館した。
事故の「予言」[編集]
タイタニック沈没事故の14年前の1898年に発表されていた、アメリカ人の元船員モーガン・ロバートソン、1861年–1915年 )の短編小説"The wreck of the Titan"の内容が、タイタニック沈没事故に酷似していたため、事故後「事故を予言した小説」として話題になった。小説中の「タイタン号」とタイタニック号は、船名、大きさ、構造、航路、沈没原因などが類似・一致しており、同書は事件後に欧米で大きな売り上げを記録したという。
ただし、前述の類似点は事故後の改訂時に加えられたことが明らかとなっており、初版当初は大型船の沈没を扱ってこそいたものの、タイタニックの事故に酷似した内容ではなかった。
乗員[編集]
タイタニックの主な乗員は、次のとおりである。
- この事故により没(自らの意思により船と運命を共にする)。
- 航海長(副船長):ヘンリー・ティングル・ワイルド
- この事故により没。当初、航海長はマードックが務めていたが、スミス船長がワイルドを呼び寄せたために、出港直前に人事異動が起きた。これによりマードックは一等航海士に、一等航海士に選ばれていたライトラーは二等航海士にそれぞれ降格され、二等航海士だったデイビッド・ブレアーは下船することになった。このことが前述の双眼鏡紛失を招いた。衝突後は左舷側のボートによる避難誘導を担当した。高級船員の拳銃携帯を指示したのは彼とされる。
- 1等航海士:ウィリアム・マクマスター・マードック
- この事故により没。オリンピック号1等航海士からの異動であったが、大型船での経験不足を懸念され航海士長から降格となった。衝突時の上級当直士官であり、氷山からの回避運動を指揮した。衝突後は右舷側のボートによる避難誘導を指揮した。彼は比較的男性の避難にも寛容で、左舷より多くの男性をボートに乗せて送り出した。1997年の映画『タイタニック』等においては乗客を撃ち殺して自殺するという不名誉な人物として描かれたが、実際は最期まで職務を遂行して亡くなった。長らく彼の判断ミスから事故が起きたと考えられてきたが、前述のように操舵手の操船ミス説も浮上している。
- 2等航海士:チャールズ・ハーバート・ライトラー
- 転覆したB号ボート→12号ボートにより生還。生還した乗員の中では最高位。衝突後は左舷側のボートによる避難誘導を指揮した。彼はスミス船長の「婦女子優先」という命令を「婦女子のみ」と解釈し、男性をほとんどボートに乗せなかった。沈没後は転覆していたB号ボート上で乗員乗客を指揮し、同ボートの沈没を防いだ。
- 3等航海士:ハーバート・ジョン・ピットマン
- 5号ボートにより生還。右舷側のボートによる避難誘導を担当した。
- 4等航海士:ジョセフ・グローヴス・ボックスホール
- 2号ボートにより生還。衝突後、タイタニックの推定位置を算出した。その後はロケット弾の打ち上げを指揮、合計8発を打ち上げた。彼は2号ボートにもロケット弾を持ち込んでおり、それを打ち上げることで乗客を励ました。このロケット弾にカルパチア号が気づき、ボートの船団を発見することになった。
- 5等航海士:ハロルド・ゴッドフリー・ロウ
- 14号ボートにより生還。避難開始当初は右舷側、後に左舷側の誘導を担当した。14号ボートが下ろされる時、飛び乗ろうとした乗客を威嚇する為に本船とは反対側の外に向けて発砲している。 本船沈没後、自分のボートの乗客を他のボートに移して救助に戻った。
- 6等航海士:ジェームズ・ポール・ムーディー
- この事故により没。衝突時の下級当直士官であり、見張り台からの電話を受けた。一度はボートを受け持つよう命じられたが、自らの意思で船上に残り殉職。
- 機関士長:ジョセフ・ベル
- この事故により没。彼を含む機関部員34名は脱出せず、沈没まで電力を供給し続けた。
- 無線通信士:ジャック・フィリップス
- この事故により没。衝突後は、電力供給が絶えるまで遭難信号を送信し続けた。ブライドと共にB号ボートに辿り着いたが、ボート上で力尽きた。他船舶からの氷山の警告のいくつかを乗客の私信処理で忙しいことを理由に無視したが、当時はこのような警告の処理手順が定められておらず、船員への報告義務もなかった。
- 無線通信士:ハロルド・ブライド
- 転覆したB号ボート→12号ボートにより生還。フィリップスと共に脱出、漂流中はボート上に立って過ごした。
- バンドマスター:ウォレス・ハートリー
- この事故により没。バンドメンバーは全員が外部企業の所属であり、乗客扱いであった。しかし船会社とは他の船員と同じような契約を交わしており、正規の乗組員ではないにも関わらず、高級船員から指示を受けなければならないというあいまいな立場にあった。衝突後はバンドメンバーと共に甲板上で音楽を奏で、最後の瞬間まで乗客の不安を和らげようと尽力した。
乗客[編集]
タイタニックの著名な乗客は、次のとおりである。
- ジェームス・ブルース・イズメイ(生存者の一人、ホワイト・スター・ライン社長)
- トーマス・アンドリューズ(犠牲者の一人、タイタニックの設計者)
- ウィリアム・トーマス・ステッド(犠牲者の一人、イギリスのジャーナリスト。スピリチュアリズムの開拓者であり、沈没を予言していたといわれる)
- イジドー・ストラウス(犠牲者の一人、アメリカの実業家)
- ジャック・フットレル(犠牲者の一人、アメリカの小説家)
- ベンジャミン・グッゲンハイム(犠牲者の一人、アメリカの実業家)
- ハリー・エルキンズ・ワイドナー(犠牲者の一人、アメリカの図書収集家)
- シドニー・レスリー・グッドウィン(犠牲者の一人、遭難当時生後19ヶ月、2007年に身元が確認された)
- フレデリック・キンバー・スワード(生存者の一人、アメリカの弁護士)
- ワシントン・オーガストス・ローブリング二世(犠牲者の一人、ワシントン・ローブリングの甥)
- ミルヴィナ・ディーン(生存者の一人、最後の生存者。2009年没。最年少の乗船者。遭難当時生後9週間)
- バーバラ・ウェスト・ダニントン(2007年没。最後から2番目の生存者。遭難当時11ヶ月)
- リリアン・アスプランド(生存者の一人、事故の記憶のある最後の生存者で、最後のアメリカ人生存者。2006年没。遭難当時5歳)
- ミシェル・ナヴラティル(生存者の一人、遭難当時3歳。彼と弟のエドモンは「タイタニックの孤児」と呼ばれて広く知られた。2001年没。最後の男性生存者)
- エヴァ・ハート(1905年~1996年 生存者の一人。遭難当時7歳)
- ルース・ベッカー・ブランチャード (1899年~1990年 生存者の一人。遭難当時13歳)
- ジャック・セイヤー(1896年~1979年 生存者の一人。遭難当時16歳)
- ロレーヌ・アリソン(犠牲者の一人、一等級客の子供で唯一犠牲になった)
- ドロシー・ギブソン(1889年~1946年 生存者の一人。アメリカの映画女優。事故から一ヶ月後に公開された「Saved from the Titanic」に、自ら脚本を執筆して主演した)
- モリー・ブラウン(1867年7月18日~1932年10月26日 生存者の一人。コロラド州の実業家の妻。1997年の映画『タイタニック』ではキャシー・ベイツが演じた。第37回アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたデビー・レイノルズが 「不沈のモリー・ブラウン」で同夫人を演じた)
- 細野正文(1870年11月8日~1939年3月14日 生存者の一人。タイタニックで唯一の日本人乗客。鉄道院副参事。鉄道院副参事はおおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。音楽家・細野晴臣の祖父である。長い間、「他人を押しのけて乗船した卑怯な日本人」と言われたとされていたが、本人の手記や調査などから誤解、誤報であったとされる)
- カール・ベア(1885年5月30日~1949年10月15日 生存者の一人。テニスプレーヤー。この事件後は、弁護士や銀行員をした)
- トーマス・バイルズ(犠牲者の一人、神父であり、沈没の寸前まで乗客に聖書を読み上げた)
タイタニックを題材にした作品[編集]
タイタニックをめぐって、多くの作品が発表されている。主な作品は、次の通りである。
ドキュメンタリー[編集]
- 衝撃の瞬間4 第2回 『タイタニック沈没事故 "TITANIC" (タイタニック)』(ナショナル・ジオグラフィック) - 結論に至るまでの過程の中で、陰謀論に関して反証を行っている。
- 失われた世界の謎 第11回 『タイタニック建造の謎』(ヒストリーチャンネル)
タイタニック沈没事故が主題の作品[編集]
- タイタニック (映画) - タイタニック号をモチーフにした複数の映画
- タイタニック (ミュージカル)
- レイズ・ザ・タイタニック -クライブ・カッスラーのダーク・ピットシリーズの小説。邦題は「タイタニックを引き揚げろ」で、沈んだタイタニックに積まれた希少金属を巡って暗闘するという話。ただし、海底調査以前の作品のため、同作中におけるタイタニックの描写は実際の状態とは異なる。後に映画化された。
- 吹奏楽曲マードックからの最後の手紙(作曲:樽屋雅徳) - タイタニック号の出港から沈没までをマードック一等航海士からの手紙という設定で作曲。
- サイレントメビウス - タイタニック号を舞台にした、パソコン用アドベンチャーゲームが製作された。
- タイタニック沈没 - ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーの長編詩
- タイタニック号の殺人 - マックス・アラン・コリンズによる推理小説。タイタニック号に乗船していた実在の推理作家ジャック・フットレルを主人公に、タイタニック号で発生した密室殺人と、タイタニック沈没に纏わる謎が、並行して描かれている。
タイタニック沈没事故を伏線・モデルとして扱った作品[編集]
- ゴーストバスターズ2 - 幽霊船として1シーンだけ登場。港で乗客の幽霊が下船してくる。
- タイムトンネル - アメリカのSFテレビドラマシリーズ。第1話で主人公が過去に移動したところ沈没寸前のタイタニック号の甲板であった。
- 銀河鉄道の夜 - 宮沢賢治の童話。作品中にこの海難事故をモチーフにしたと思われる客船の事故が出てくる。
- マジック・ツリーハウス - アメリカの児童向け小説。日本語版第9巻で、上記同様過去に移動し沈没に遭遇。
- ルパン三世 燃えよ斬鉄剣 - ルパン三世の映画の一作品。作中ではルパン3世の祖父、ルパン1世がタイタニック号に積まれた龍の置物を盗もうとしていたが、沈没事故で置物がタイタニック号と共に海底に沈んでおり、作中中盤でルパンと次元が潜水艇で沈没したタイタニック号に向かう。また、この作品の歴史では龍の置物をアメリカに売り込もうとした黒幕の曽祖父が犠牲者の一人に含まれている設定となっている。
- ドクター・フー - イギリスのBBCの人気SFドラマドクター・フーのseries4のクリスマススペシャルで放送された。作中では、実際のタイタニック号の事件を題材として宇宙船タイタニック号(名称の由来は「地球で一番有名な豪華客船」だから)が舞台となっている。陰謀説やブルーリボン説をほのめかす描写や、衝突当時船長は休息をとっていたことなどが再現されている。しかしあくまでパロディである。
- ドラキュラ城の血闘 - J・H・ブレナンのゲームブック。吸血鬼ドラキュラを倒した主人公が、エンディングで乗船の招待状を受け取る。招待主は「Dr.Acura」(つまりドラキュラ)となっており、また、その後の主人公の運命は定かではない。
- 曲った蝶番 - ディクスン・カーの推理小説。作品中、この沈没事故の際に入れ替わったとされる人物に対し、自分こそが本物と名乗る人物が現れ、その真偽を争う中、偽者と糾弾された人物が何者かに殺害される。
トリックハンター。2015年12月23日に特集放送された
音楽[編集]
- タイタニック (ファルコの曲) - ファルコ
脚注[編集]
- ↑ NHK BS世界のドキュメンタリー『タイタニック事故100年「タイタニックの呪い」』 BS1にて、2012年4月4日(正確には4月5日深夜24時~24時50分)に放送。
参考文献[編集]
- 『タイタニック号の最期』 ウォルター・ロード著 佐藤亮一訳 タイタニックに関する決定的なノンフィクションであるとされる。
- 『不沈 タイタニック—悲劇までの全記録』ダニエル・アレン バトラー著 悲劇の詳細を膨大な資料をもとに再現したノンフィクション
- 『タイタニックは沈められた』(ロビン・ガーディナー、ダン・ヴァンダー・ヴァット) タイタニックが遭難したのは保険金詐欺を狙いにした陰謀だという説(本当に事故? なんか怪しいぞ タイタニック号の悲劇)。
- 『なぜタイタニックは沈められたのか』(ロビン・ガーディナー)
- 『タイタニック発見(The Discovery of The Titanic)』(ロバート・バラード)
- 『海の奇談』(庄司浅水) この中の巨船「タイタニック」号の遭難の項で、細野正文のことにも言及しさらに船の乗組員が助かったことに関し、ロビン・ガーディナーと似通ったするどい指摘と考察を述べている。
関連項目[編集]
- カルパチア (客船)
- オリンピック級客船(オリンピック (客船)・ブリタニック (客船・2代))
- エンサイクロペディア・タイタニカ
- 海難事故
- ルノー - 積み荷として1台だけ乗っていた自動車。
- 洞爺丸
- コスタ・コンコルディア
外部リンク[編集]
タイタニック号沈没事故 タイタニック (客船)
- 失敗知識データベース