阿部定

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事件前の阿部定

阿部 定(あべ さだ、1905年(明治38年)5月28日 - ?)は、日本芸妓阿部定事件の犯人として知られる。

生涯[編集]

出生・少女期[編集]

定は江戸時代から続く裕福な畳店「相模屋」の阿部重吉・カツ夫妻の末娘として東京市神田区新銀町(現東京都千代田区神田多町)に生まれる。生まれた時は仮死状態であった。カツの乳の出が悪かったため、1歳になるまで近所の家で育てられた。定は4歳になるまで家族とも会話ができなかった。後に癇癪持ちになり、裁判時にヒステリーと診断されているが、幼児期のこうした体験が関連があるのではとも言われている。

8人兄弟だが長女、次男、三男は幼くして亡くなり、四男は養子に出され、定が神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に通う頃には20歳以上年が離れた長男・新太郎、17歳年上の次女・とく、6歳年上の三女・千代の4人兄弟であった。定は母親の勧めで進学する前から三味線常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。孫のように年が離れた末娘に母は稽古事の際には毎回新しい着物を着せ、大人のように髪を結わせて通わせた。また定もこれが似合う美少女であったので定を猫かわいがりしていた父母は鼻が高かった。定の見栄っ張りで少々高慢な性格はこの頃から見受けられるようになる。父母は日常の学校生活よりも歌や踊りや三味線の稽古を優先して育て、尋常小学校の教師からも注意を受けている。そのような環境のためか、10歳になる頃には男女の性交の意味を知っていた。

高等小学校に進学するも15歳の時に自主退学している。当時は親分肌の性格だったと隣人が証言している。15歳(数えのため満14歳)の頃、大学生と二人でふざけているうちに強姦されてしまった。これが彼女の初体験である。定は出血が2日も止まらず恐ろしくなり、定の母親がその学生と話をしようと自宅まで行くが、本人とは会えず、泣き寝入りする形になる。定は16歳の終わり頃に初潮をむかえた。初潮前に強姦された定はその後不良少女になっていくが、本人の弁によれば「もう自分は処女でないと思うと、このようなことを隠してお嫁に行くのはいやだし、これを話してお嫁に行くにはなおいやだし、もうお嫁にいけないのだ、どうしようかしらと思いつめ、ヤケクソになってしまいました」。母は定をなだめようと優しい言葉をかけたり、物を買い与えたが、逆にそれが癪に障った。

丁度その頃、阿部家は長男と次女の男女問題や家業継承問題でもめており、母は家庭内の揉め事を年頃の定に見せないように小遣いを渡して外に出すようになり、やがて定は現代の金額に換算すると10万円から60万円もの大金を家からを持ち出して、浅草界隈を仲間を引き連れて遊びまわる不良娘となっていた。父・重吉は時折厳しく定を叱り付け、家から閉め出したり折檻をしている。後に浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うようになり地元神田にまで定の名は轟く。

この頃の定の暮らしは、昼近くに目を覚まし朝昼兼用の食事を女中に運ばせ、風呂を済ますと外出し、10人以上の不良少年に取り巻かれ、凌雲閣で映画を見て、映画が終わると居酒屋へ繰り出し、夜遅く帰宅する。他の男性と交際していたが、不良仲間とは肉体関係は持っていなかった。このような生活は1年ほど続いたが、定が16歳の時に、三女・千代の縁談が決まると、体面を保つのと家を追い出される形で女中奉公に出たが、屋敷の娘の着物や指輪を盗んだため警察の世話になり、1か月後に家に送り返された。父・重吉は非常に怒り、それから約1年間、定を自宅で監禁同様に過ごさせている。長男・新太郎が両親の金をありったけ持って蒸発すると、畳屋を店じまいすることになり、阿部家はその頃埼玉県入間郡坂戸町(現:坂戸市)に転居した。しかし、阿部家は都内に貸家を何件か持っていたため、生活に困ることはなかった。

芸妓から娼妓へ[編集]

その後の定は男と交際を繰り返し続け、見かねた父と兄は定が17歳の時に「そんなに男が好きなら芸妓になってしまえ」と長男・新太郎の前妻・ムメの妹の夫・秋葉正義という女衒に売ってしまう。定は秋葉に夜這いをかけられ、秋葉は4年ほど定のヒモとなっている。神奈川県横浜市住吉町(現:横浜市中区住吉町)の芸妓屋「春新美濃(はじみの)」に前借金300円で契約。源氏名「みやこ」として芸者の世界に脚を入れる。1年ほど春新美濃に在籍し、その後も横浜や長野で芸者として働いていたが、三味線が弾けるとはいえ特筆した座敷芸がない定は、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが嫌であったという。身売りの金は定の小遣いとなった。関東大震災(1923年(大正12年))の時、定はちょうど秋葉の家に遊びに来ていたが、秋葉の家は全焼。定は秋葉の家を助けるため、富山県富山市清水町の「平安楼」という芸妓屋に1000円以上の前借金をして店変えをし、前の店に返済した残りの金から300円ほどを秋葉に渡し、秋葉一家の生活の面倒を見るようになった。当時1000円という金額は、立派な家が一軒建つほどの金額である。

20歳になると定は秋葉に騙されていたことを知り縁を切ろうとするが、「平安楼」の契約書が秋葉との連判であったため、その借金を返すべく1925年(大正14年)7月、長野県飯田市の「三河屋」に移転するが、自分で売り込むわけにもいかず、ここでも仕方なく秋葉との連判で契約をしている。静香という売れっ子芸者になったが、定は性病にかかってしまう。父・重吉はどうせ男に懲りて家に戻ってくるだろうと追い出したのだが、「検黴[1]を受けてまで不見転[2]芸者をするなら、いっそのこと」と自ら進んで遊女に身を落とした。この時、母・カツに秋葉との一部始終を暴露し、別の仲介業者を得て移籍手続きをし、秋葉から連判の契約書を返してもらっている。

阿部定が最後に勤めた遊郭、大正楼(篠山市

1927年(昭和2年)、大阪府大阪市西成区にある飛田新地の高級遊郭「御園楼」に前借金2800円で契約、連判者は父・重吉であった。ここでは園丸と名乗り、売れっ子娼妓となる。1年ほどすると常連客の会社員から身請けの話が出たが、その男性の部下も定の常連であり、身請け話は立ち消えになる。その後は逃走と失敗、トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫・名古屋の娼館を転々とし、どんどん客層の悪い店に落ちていった。1932年(昭和7年)、6カ月ほど在籍した丹波篠山の下等遊郭「大正楼」から逃げ出し、娼妓生活を終了させる。

神戸で2カ月ほどカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。この頃、男性と毎日肉体関係を持たないと気がおかしくなりそうだと病院に相談しているが、医者は「難しい精神鍛錬の本や思想の本を読んだり、結婚をすればいいだろう」と答えた記録がある。一度は坂戸の実家に戻るが、大正楼からの追っ手が来たため大阪に逃亡。1933年(昭和8年)、大阪で母・カツが死亡したという電報を受け取る。翌1934年(昭和9年)正月、日本橋の袋物商の妾をしていた定の元に、父が重病だという知らせが届く。10日間つきっきりで看護するが、父・重吉は病死。重吉の最期の言葉は「まさかお前の世話になるとは思わなかった…」だそうである。その後も妾を続けていたが、知人から秋葉の娘が死んだと聞き、横浜へ墓参に行くと秋葉は金に困っており、定は指輪を質入し150円を秋葉に用立てる。この頃から定と秋葉の関係が復活する。定は愛人を何度か変えると、ある愛人から婚約不履行で訴えられ、名古屋に逃れる。

1935年(昭和10年)4月に名古屋市東区千種町(現:名古屋市千種区)の料亭「寿」で、名古屋市議会議員にして有名商業学校校長の大宮五郎と知り合い交際していた。紳士的な大宮は定にとっては今まで会ったことがない男性だった。大宮は娼婦や妾をしていた定を人間の道に外れたことだと叱り、更生するように定を諭した。この頃、本籍を名古屋市東区千種町に変更している。大宮から、まじめな職業に就くようにと諭され、新宿の口入屋を介して紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であった。後々は定に店を持たせようと考えていた。

田中加代の偽名を使い吉田屋で働き始めた定と石田は知り合ってまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると二人は出奔。定は嘘をつき大宮五郎に逃亡資金を何度か無心している。大宮は後に重要参考人として身柄を拘束され、取調べを受け不問となるが、学校の卒業生に合わせる顔がないとその後は隠居生活を送っている。

裁判・服役[編集]

逮捕直後に撮影された新聞写真(1936年(昭和11年)5月20日、高輪警察署にて)

1936年(昭和11年)5月18日に阿部定事件において愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された。当時横浜で畳店を経営していた兄・新太郎は「自殺でもしてくれればいい」と新聞にコメントしている(新太郎は定が受刑中に病死)。姉・トクは秋葉と共に何度も面会に来ている。定は事件後、吉蔵が事件当時に身につけていたを腰に巻き、シャツにステテコと吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけて逃亡していた[3]。吉蔵の下着類はいくら探しても見つからないので警察も不思議に思っていたのだが、それらは拘置所(市ヶ谷刑務所)に入った定が身につけていた。拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをしている。留置から裁判でのやり取りは、定を担当した弁護士によってマスコミに話が流れ、当時の社会に衝撃を与える。その後当時の弁護士を解任し、新たに竹内金太郎弁護士がついている(私選か公選かは不明)。

精神鑑定の結果では残忍性淫乱症(サディズム)と節片淫乱症(フェチズム)と結果が出た。裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年(未決勾留120日を含む)の判決を受ける。通常は汽車で刑務所に移送されるが、有名人になっていた定は車で栃木刑務所に送られている。受刑生活ではラジオ体操の存在も知らず、最初は精神的に苦痛を受けるが、刑務所での作業は人の2倍はこなす模範囚となった。しかし、石田の一周忌を迎えると癇癪を起こすようになり、泣き喚いたり呼ばれても横になったまま、看守の頭にバケツの水をひっくりかえすなどの奇行を繰り返した。教誨師の説得により定に平常な心が戻る。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依。

1941年(昭和16年)に「皇紀紀元2600年」を理由に恩赦を受け出所。阿部定事件の猟奇性により世間の好奇心を呼び注目を引くこととなり、定は「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。出所後数日は姉・トクの家に世話になり、その後は元愛人で女衒であった秋葉正義夫妻の家に下宿(その頃秋葉は保険業に転職)、秋葉夫妻は実質的な定の保護者となっており、定は秋葉夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになる。

偽名・名誉毀損裁判[編集]

その後7年ほどは刑事から与えられた吉井昌子という偽名を使い生活、勤務先の赤坂の料亭で知り合ったサラリーマン男性と結婚(入籍はしていない事実婚)し谷中のアパートで暮らしていたが、東京大空襲で被災すると茨城県結城郡宗道村(現:下妻市)に疎開する。ここでは農業の手伝いをし、吉井昌子の名で配給を受けている。終戦後は埼玉県川口市に居住。しかし、戦後のエログロナンセンスブームで1947年(昭和22年)は『お定本』と呼ばれるカストリ本が続々と出版されている。3月に『愛欲に泣きぬれる女』、6月に『お定色ざんげ』、8月に『阿部定行状記』が出版。中でも『お定色ざんげ』(石神書店発行)の作者・木村一郎と石神出版の社長を石田と定の名誉毀損に当たるとし、9月4日に定は秋葉と連名で東京地裁に訴訟を起こす[4]。訴訟から数週間後に『お定色ざんげ』は発禁本となっている。夫はその頃、自分の妻があの阿部定であったことを知り失踪している。その後彼女は本名の阿部定として、阿部定事件を背負いながら生きることとなる。この年には織田作之助が阿部定事件を基にした小説『妖婦』を出版。作家の坂口安吾は文藝春秋社発行の雑誌『座談』12月号で定と対談している。安吾や織田作之助ら、無頼派の作家にとって、定はファム・ファタール的存在だった。1948年(昭和23年)3月には手記『阿部定手記』(新橋書房)を出版。これにより名誉毀損訴訟も収まっている。

定は秋葉夫妻の元に下宿し、1949年(昭和24年)、秋葉の援助を受け、劇作家の長田幹彦が主催する劇団を旗揚げし、自らが主人公となり阿部定事件劇『昭和一代女』を演じた。6カ月ほど地方を巡業し、東京でも浅草の観音寺裏にあった百万弗劇場で上演されている。その後は京都で芸者をし、大阪の「バー・ヒノデ」のホステスや伊豆の旅館の仲居として働いていたが、1954年(昭和29年)夏、実業家の島田国一の紹介で、星菊水社長・丸山忠男は定を客寄せパンダにしようと10万円の前金を出しスカウトする(現在の金額で300万円ほどである)。月給も他の仲居は3000円だったのを、定は1万5000円をもらっていた。当時の都電にはこんなチラシが登場する。

お定さんの夢の大広間で、お定さんのお酌で一パイ 庭に面したテレビのある小室十六室完備 夢の酒場・夢の割烹『星菊水』

星菊水では料理の他に、宴会の終盤に「お定でございます」と定が宴席に登場し、客をもてなすサービスがセットになっていた。働きぶりは真面目で、1958年(昭和33年)には東京料飲食同志組合から優良従業員として表彰されている。この頃は店のマネージャー兼女中頭であった。その後、上野の国際通りに小さなバー「クィーン」を開店。しかし従業員に店の金を持ち逃げされて半年で店じまいする。

晩年[編集]

1967年(昭和42年)、定が62歳の頃、秋葉の家を離れ、台東区竜泉に清水社長から出資してもらい「若竹」というおにぎり屋を経営した。店の裏の6畳間は定の住居であった。おにぎりを買いに来る客はほとんどおらず、店には定と三味線を弾き料理をする女性がおり、カウンターで酒を飲ませる店であった。若竹には浅香光代や有名力士や相撲部屋親方、国会議員、阿部定事件を担当した法曹界の人間もたびたび訪れており、事件当初より定に心酔した舞踏家の土方巽は常連客であった。1956年(昭和31年)、親代わりであった秋葉が既に死亡しているが、1968年(昭和43年)2月には秋葉の妻・ハナが死去。この頃から定は死に憧れるようになり、客にぽつりと「あのバス事故[5]のように誰だか身元がわからないまま死にたいわ」などと話すようになる。1969年(昭和44年)、常連客であった土方巽は「僕に定さんの清らかな魂を写してくれ!」と懇願し、二人で写真を撮影している(外部リンク参照)。1969年(昭和44年)に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということを約束した上での出演であったという。

また、「星菊水」「若竹」共に店の客からの評判は「江戸っ子らしく気風のいい優しい人」と評判が良かったが、事件には一切触れることはせず、仕事仲間にも当時のことを語ることはほとんどなかった。一方で、事件の当時を知っている警察関係者や司法関係者が店にやってきて、金をせびったり、身体を要求することもあり、定は用心深くなっていった。1970年(昭和45年)3月、若竹から忽然と姿を消す。若竹を手伝っていた女性が病気になり、定が一人で店を切り盛りしていたが体を壊し、世話をしてくれた年下のバイセクシャルの恋人に店の金を持ち逃げされ、店を閉じて借金をある程度清算したが、どうしても残りの金を工面できず、関西に行き自殺を考えていたが、様子がおかしいと気づいた芸者から諭され、東京に戻ってきたとされている。

失踪[編集]

1971年(昭和46年)1月頃、星菊水にスカウトした島田国一と偶然浅草の仲見世で出会い、千葉県市原市の「勝山ホテル(現在は廃業)」で働くことになる。「あたし、新派の芝居『日本橋』に出てくる、こう役が好きだから『こう』と呼んで頂戴」と島田の妻に話している。ここでは65歳という高齢にも関わらず若い男に金品を貢いでは気を引いていたそうであるが(島田の妻は男性関係は一切なかったと証言している)、6月頃に「リウマチを治療し、7月8月が過ぎたら戻る」という置手紙を残し、浴衣一枚だけを持って失踪した。その後、1974年(昭和49年)前後の3か月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明となった。「とある老人ホームに入っている」、「京都尼寺で亡くなった」、「琵琶湖畔で老衰のため亡くなった」など諸説流れているが生死は不明のままである。

吉蔵の命日には久遠寺(山梨県身延町)に必ず定からと思われる花束が届いていた(1955年(昭和30年)に定は寺へ吉蔵の永代供養の手続きをしている)が、1987年(昭和62年)頃を境に供えられることがなくなったため、その頃に死亡したのではないかとする説もある。だが、現在も「若竹」の未納税金があるために、「以下余白」とされる戸籍が残っている。これは生存が分かれば復活でき、死亡が分かれば死亡と書き換えられる行方不明者の戸籍記載である。

定ゆかりの場は現在ではほとんどが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした丹波篠山の遊郭「大正楼」の建物は現存している。大正楼では「おかる」「育代」と名乗った。定の証言によると玉の井の淫売以下のひどく悪い客層で、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったという。

阿部定を演じた女優[編集]

その他[編集]

  • 1936年(昭和11年)11月24日に行われた定の初公判は傍聴希望者が深夜から殺到し、傍聴券抽選時間は繰り上げられた。抽選に外れた者は同日行われていた帝人事件の公判を傍聴したが、面白くないと中座するものがほとんどであった。
  • 栃木刑務所に服役していた際、定宛のファンレターや結婚の申し込みの手紙がおよそ1万通寄せられた。
  • 浅香光代の父母は神田新銀町に住んでおり、定は夫妻を「兄さん」「姉さん」と呼ぶほど仲が良かったが、不良少女時代に金を盗みに入っている。一部始終を近所の人に見られており定は謝罪するが、当時裕福であった夫妻は「出世払いでいい」と不問にし、詫び状を一筆書かせたエピソードがある。
  • 定と終始かかわりがあった秋葉正義は、女衒時代には彫り物家の肩書きもあり、かつては彫刻家の高村光雲の弟子であった。
  • 予備調書は門外不出であったが、何者かの手によって外に出され、戻ってきた時は手垢まみれであった。
  • 石田の死後、料亭・吉田屋は石田の妻が切り盛りしていたが、戦中に酒を扱う商売の営業時間を短縮する辞令が出た影響で廃業。板前見習いであった石田の長男もその後すぐに戦死してしまう。石田の墓は、港区南麻布・仙台坂下の専光寺にあり、無縁塔に無縁仏として祀られている。
  • 出所後の定を知る多くの人物が「読書好き」だったと語っている。本が好きだったわけではなく、外出先で後ろ指を差されることを嫌ったためである。雑誌は婦人公論を好んだ。
  • 「星菊水」にスカウトした島田国一社長は、阿部定事件の日、偶然にも待合茶屋「満佐喜」の隣の部屋に宿泊していた。島田の妻もまた偶然にも、戦争で家族を亡くし姉の嫁ぎ先の川口市にいた頃、定によく遊んでもらっていた。
  • 事件以後は吉蔵が好んでいた、卵とタバコは一切口にしなかった。

関連項目[編集]

参考書籍[編集]

  • 阿部定正伝 情報センター出版局 1998年 堀ノ内雅一・著 ISBN 4795826722
  • 阿部定事件 -愛と性の果てに- 新風社文庫 2005年 伊佐千尋・著 ISBN 4797495316
  • なつかしく思います―阿部定に愛された男 1996年 現代書館 森珪・著 ISBN10: 4768466796

注釈[編集]

  1. けんばい 性病検査 当時、娼妓には毎月一回の性病検査が義務付けられていたが、芸者は任意であった。
  2. みずてん 客に体を売る芸者の意
  3. これらの証拠物は1947年(昭和22年)、警察の犯罪防止キャンペーンの防犯博覧会で、ホルマリン漬けの吉蔵のペニスと共に一般展示されたことがある
  4. 名誉毀損問題に当たる箇所は39箇所であった
  5. 1968年(昭和43年)8月18日に起きた飛騨川バス転落事故

外部リンク[編集]