藤原魚名
藤原魚名(ふじわらのうおな、721年(養老5年) - 783年8月31日(延暦2年7月25日))は奈良時代の貴族。藤原北家に属し、藤原房前の五男。正二位、左大臣。川辺大臣と号す。
生涯[編集]
748年従五位下。757年従五位上。761年従四位下、宮内卿。766年従三位。768年参議、大蔵卿。770年正三位。771年大納言。778年に内臣。779年内大臣。781年正二位、左大臣兼太宰帥。782年6月に氷上川継の乱に連座、左大臣罷免。783年7月25日死去。
称徳天皇の死亡時参議であった魚名は藤原永手・藤原良継・藤原百川らと光仁天皇を擁立、道鏡を排除し、急速に頭角を現した。魚名は光仁天皇の信任が非常に厚く「忠臣」という官位が与えられるほどであった。しかし光仁天皇の死後まもなく、左大臣を罷免された上、大宰府へ左遷された。氷上川継の乱に連座したものと考えられており、息子たちも同時に左遷されている。大宰府に向かう途中、摂津国豊嶋郡で発病し、やがて入京を赦されたがまもなく死去した。桓武天皇は魚名の死後、彼の名誉を回復した。
大阪府豊中市に鎮座する服部天神宮の前身の一つが魚名の墓と言われ、境内には今も川辺左大臣藤原魚名公の墓が残る。同社には、魚名の死から約100年後に同じく大宰府へ左遷された菅原道真の伝説が伝わっている。
系譜[編集]
平安時代に入ると魚名の後裔は地方官などを歴任する中級貴族となり、長らく公卿に列せられる者はなかったが、末茂の末裔である藤原顕季やその息子たちが院政期に院近臣となって急速に勢力を伸ばし、再び公卿の地位を占めるようになった。顕季の子孫は善勝寺流とも称され、嫡流の四条家を始めとして多数の堂上家を輩出した。
鷲取の子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した安達氏や戦国大名として有名な伊達氏等、多数の有力武家を輩出した。また、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は藤成の子孫を称した。