連合国軍最高司令官総司令部
連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、聯合国軍最高司令官総司令部、連合国最高司令官総司令部)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)の終結に際してポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の機関にして日本国の寄生虫である。
極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官)。日本では、総司令部(General Headquarters)の略称であるGHQや進駐軍という通称が用いられた。支配ではなくポツダム宣言の執行が本来の役目である。
目次
名称[編集]
1945年(昭和20年)8月14日に日本政府が受諾通告したポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies (「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。続いて、同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers (「聯合国最高司令官」)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も、「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。この後も、日本の法令の中では、「聯合国最高司令官」(連合国最高司令官)と表記されることが多い。また、連合国最高司令官の下に属する組織は、英語表記によればGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP)である。これは、「連合国最高司令官総司令部」あるいは「連合国総司令部」と日本語訳され、日本ではGHQ(ジー・エイチ・キュー)という略称で呼ばれることも多い[1]。
もっとも、Supreme Commander for the Allied Powers は直訳すれば「連合国軍最高司令官」であり、General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers は「総司令部、連合国軍最高司令官」または「連合国軍最高司令官総司令部」となる。このため、連合国最高司令官は「連合国軍最高司令官」、連合国最高司令官総司令部は「連合国軍最高司令官総司令部」、「連合国軍総司令部」と呼ばれることも多い[2]。
同年9月には、占領下に置かれた日本を管理する為の最高政策機関として、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦、カナダ、イギリス領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、アメリカ領フィリピンの11カ国(後にビルマとパキスタンが加わる)で構成された「極東委員会」が設けられ、連合国軍最高司令官総司令部は、極東委員会で決定された政策を遂行する機関という位置づけになった。
概要[編集]
連合国軍最高司令官総司令部は、ポツダム宣言の執行のために日本に設置された連合国の機関である。1945年(昭和20年)8月14日に、連合国軍の1国であるアメリカ太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官(SCAP)に就任し、同年10月2日、総司令部が東京に設置された。
1951年(昭和26年)4月11日、マッカーサーがトルーマンアメリカ大統領に解任された後、マシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将に昇進)が最高司令官に就いた。翌1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効とともに、連合国軍最高司令官総司令部は活動を停止した。
連合国軍最高司令官総司令部は、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦そしてカナダやオーストラリア、ニュージーランドをはじめとするイギリス連邦諸国など連合国各国の軍隊から、日本を軍事占領すべく派遣された最大43万人を統括した。その中でも多数を占めた、アメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍(USOF)と、イギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍(BCOF)が連合国軍最高司令官の直下に置かれ、実質的な軍事占領を行うこととなった。イギリス連邦占領軍は山口県、広島県、島根県、鳥取県、岡山県と四国4県の占領を担当、残りの都道府県はアメリカ占領軍が担当することとなった[4]。
日本の占領方式は、連合国軍最高司令官総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治の形式が採られた(ただし、日本政府に外交権はない。またGHQの要望の全てを日本政府がのんだわけではない。またGHQは天皇ではなく政府に介入することで政策を実行していた)。また信託統治が行われていたのは現在の沖縄である。
具体的には、連合国軍最高司令官総司令部の指示・命令を受けて、日本政府が、日本の政治機構をそのまま利用して占領政策を実施するものである。連合国軍最高司令官総司令部の命令の多くは、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令(ポツダム勅令。日本国憲法施行後はポツダム政令)の形で公布・施行された。
1946年(昭和21年)2月には政策決定の最高機関として各国代表による極東委員会(FEC)が、同年4月には最高司令官の諮問機関として対日理事会(ACJ)が設置された。しかし、実質は最大の人員を派遣し、また最高司令官を出していたアメリカが最も強い影響力を持ち続けた。
連合国軍最高司令官総司令部は、まず軍隊を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放など、いわゆる「自由の指令」を出した。さらに、政治の民主化、政教分離などを徹底するため大日本帝国憲法の改正を指示し、財閥解体、農地解放などを指示した。
機構[編集]
皇居と東京駅に挟まれた丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。
皇居を見下ろす形で堀沿いに建てられた第一生命館に本部を置くことは、連合国軍が天皇のさらに上に君臨するという政治的意図が込められている(実際にはその立地上、連合国軍による本社ビル接収を免れないことを承知していた第一生命が、総司令部に利用されれば丁寧に使われ、将来の接収解除後にも建物をそのまま利用できるという目論見から、積極的に総司令部として利用して欲しいと差し出したという記録がある)。実は東京大学(本郷キャンパス)が司令部として接収されかけたが、時の内田祥三総長が抵抗してやめさせた(「文藝春秋」より)。
なお、当時の日本政府及び日本の報道機関は連合国軍を「進駐軍(しんちゅうぐん)」と呼ばせられ、占領に対する否定的なイメージの払拭に努めさせられた [5]。
「連合国軍」とはいっても、その多くの職員は比較的国力へのダメージが少ないアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人で構成されていた。連合国軍最高司令官総司令部は、軍事部門である参謀部と専門部局である幕僚部から組織された。
- 参謀部
- ※特に諜報・保安・検閲を任務とする第2部(G2)が大きな発言権をもっていた。占領中に起きた数々の怪事件は、G2とその下にあったいくつもの特務機関(キャノン機関など)が関与したとも囁かれている。
- 幕僚部
- 民政局(GS:Government Section 政治行政)
- 経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
- 民間情報教育局(CIE:Civil Information & Educational Section 教育改革など)
- 天然資源局(NRS:Natural Resources Section 農地改革など)
- ※特に民政局(GS)が「非軍事化・民主化」政策の主導権をもっていたが、GSにはルーズベルト政権下でニューディール政策に携わっていた者が多数配属されており、日本の機構改造のために活動した。上記は中枢部分で、1946年1月段階では11部局、最終的には14部局まで拡大している。また、GSとG2が日本の運営を巡って対立。GSが片山・芦田両内閣を、G2が吉田内閣を支えており、政権交代や昭和電工事件の要因にはGSとG2の闘争があったとも言われる。逆コース以後は国務省の後押しもありG2の力が増した。
政策[編集]
総司令部の最大の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃した民主的な国家を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称した。また、マッカーサーは後に、「当初は日本を工業国から農業小国に転換し、アメリカの市場とするつもりだった」と述べている要出典。 俳優の小泉博は大卒後NHKのアナウンサーに応募したきっかけとして、このGHQによる「農業国化方針」で将来に不安を感じたことがあったと述べていて、当時の日本人のよく知るものではあったようである。
民主化や農地改革、財閥解体などは、戦前に北一輝が発表していた「日本改造法案大綱」との類似点・共通点が多く見られる。当初GHQの主導権を握っていた幕僚部民政局により策定・実施が進められた。冷戦の兆しが現れ始めてからは、参謀部第2部(G2)に主導権が移り、いわゆるレッドパージなどが行われる。
戦争犯罪人の逮捕[編集]
連合国軍は占領直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛かかり、東條英機元首相を含む数十名を逮捕した。彼等はいわゆるA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により判決を言い渡され、東條以下7名を絞首刑による処刑、多数を禁固刑などに処した。平和条約により日本は、裁判自体は受諾しないもののその判決は受諾した。
公職追放[編集]
軍人ほか、戦時中に軍に協力的であったと認定された政治家、思想家など個人20万人がこれを理由に職を解かれて公職追放され、思想面での統制が行われた。また、戦争犯罪人や大政翼賛会に関与していたと見なされた者は、政府機関の職に就くことを禁止された。戦意高揚映画を製作した東宝など、映画界にもこれは及んだ。
情報統制[編集]
総司令部が政策として最初に行ったことは検閲である。1945年(昭和20年)9月に発した「プレスコード」によって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、連合国軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害について知らせるものなどについて、ラジオ・新聞・雑誌他、一般市民発行の本に至るまで厳しく取り締まり[6]、情報を統制した。プレスコード通達直前には「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16) を発し、言論の自由の制限は最小限度に止める、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされたが、これに違反したとして朝日新聞社は二日間の業務停止命令を受けた。
また、新聞やニュース番組などを通じて日本軍の戦時中の非道を繰り返し報道させ、国民の戦意を全く喪失させると共に、国民の贖罪意識を増幅させる厭戦工作を行った。江藤淳はこれをウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(「戦争への罪悪感に関するプログラム」)として著書に著している。
日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、ハリウッド映画の統括配給窓口会社『CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)』を東京に設立した。このCMPEに一時在籍した淀川長治によれば、「忘れもしないメイヤーという名の支配人は映画より国策に心を砕く、あたかもマッカーサー気取りの中年男だった」そうで、ヨーロッパ映画びいきの記者を試写から締め出したりの傲岸不遜振りに、1952年(和暦??年)にこの会社が解体された際は映画関係者たちは喝采を挙げたという。
一方で国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。
子供達の文化媒体であった紙芝居では、「黄金バット」の「髑髏怪人」というキャラクターを、「スーパーマン」のような「たくましい金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。しかしこれは全く支持されることなく無視された。
非軍事化[編集]
連合国軍による最初の仕事は、日本全国の軍施設に進駐し日本軍の武装解除を進めることであった。使用可能な武器類は全てスクラップにし、その一方で施設としての軍用地はその多くを駐留軍が引き継ぎ、占領政策の礎とした。
物理的な軍事力剥奪の次に進めたのが法的な整備であり、『国民主権』、『基本的人権の尊重』という民主主義の基本をそなえると共に、『戦争放棄』をうたった憲法(日本国憲法)を作成し、日本政府に与えた(日本の戦争放棄は幣原喜重郎首相も考えていたと、マッカーサーは記録している。また、幣原は自らの著である『幣原喜重郎―外交五十年』のなかで、戦争放棄や軍事力の解体を考えていた事を明らかにしている)。また、天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止、軍国主義教育の廃止を行い、明治からの社会思想を解体した。
その矛先は、映画界にまで及び、戦闘心を煽るとして、見当はずれなチャンバラ映画の禁止が行われ、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵ら日本を代表する時代劇スターが時代劇での仕事を失うという珍事をもたらした。
民主化[編集]
民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。労働組合はすぐに解禁され、男女同権論に基づく婦人参政権は直後の衆議院選挙から実行された。圧政的といわれた治安維持法と特別高等警察は廃止され、戦時中にこれら罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放した。
経済界においては、経済民主化のため、三井・三菱・住友・安田の四大財閥を解体した(財閥解体)。さらに、地方自治法が制定され、都道府県知事は選挙によって選出されるようにしたことで、中央集権から緩い地方分権へと移行させた。警察も、それまでの国家警察から、地方自治体の影響下に置かれた地方警察へ組み替えられた。一方で民主主義に不可欠とされる、言論の自由は(GHQ自身が検閲という形で踏みにじっていたため)抑えられていた。
農政[編集]
農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した一方、自作農となった農民を保守化させる結果となり、農村は保守勢力の牙城となった要出典。また、北海道を除いて大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し要出典、以後の食料自給率低下に拍車をかけ現在に至っている。なお、全ての小作地が農地改革の対象になったわけではなく、実態には地域によりばらつきがあった。
教育改革[編集]
教育方針は連合国側で矯正させ、教育基本法を制定させて、6・3・3・4の学校制度を新設し、複線教育と全体主義の根本とされた教育勅語は廃止させた。教育使節団が2次に亘って来日し、これらの事業を完成させた(アメリカ教育使節団報告書)。新制中学校による義務教育の延長など、教育の民主化に寄与する反面、旧制高等学校の廃止などが国力の漸減を意図したものだと指摘されてもいる[誰?]。
非共産化と再軍備[編集]
国内経済の疲弊から社会主義が流行し、労働運動は非常に盛り上がったが、アメリカやイギリスなどの民主主義国とソビエト連邦との対立、いわゆる冷戦が激しさを増すと、共産党の勢力拡大が恐れられた為、対日政策の方針転換が行われて、日本列島を『反共の防波堤』にする計画が進み、共産主義者の追放(レッドパージ)を極秘裏に行った。同時に軍国主義・超国家主義者などの公職追放を解除することで、ある程度の右派勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。いわゆる「逆コース」である。
また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。朝鮮戦争勃発によって連合国軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋める為、警察予備隊の創設と海上保安庁の強化を実施して、日本の再軍備を行った。これらによって、日本との早期講和を行い、主権回復させて自力で防衛させることとなり、日本国との平和条約および日米安全保障条約の発効に至った。
GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。
「慰安所」の設置[編集]
終戦直後の8月18日に、内務省は全国の警察に対して連合国軍の将兵向けの慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。「(連合国軍の将兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分を基に、日本各地に慰安所が設置された。
対日講和[編集]
日本政府は終戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らは健全な戦後復興のために、高額賠償金の支払いや領土分割を回避する「寛大な講和」を勝ち取ることを考え、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。また、イタリアなどの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されたことから、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。
一方、冷戦の激化により、日本との講和もアメリカやイギリスなど自由主義陣営とソ連などの社会主義陣営の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では、国防省は日本への軍の継続駐留を企図して、国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の信託統治(後の分離独立を企図)下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。
1951年(昭和26年)の講和会議には英仏蘭の要求によって、各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国)と「朝鮮」(大韓民国或いは朝鮮民主主義人民共和国)は招かれず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ、国際社会に謙虚さをアピールした。
これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島のアメリカによる信託統治の承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、台湾島に拠点を移した中華民国の中国国民党政府を承認する日華条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。
主権回復した日本は、国際連合に加盟する為、ソ連との国交回復を1956年(昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国際連合に加盟、国際社会へ復帰した。その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、1970年代には主要先進国の一つとなった。同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、また講和会議は行われていない。
日本語のローマ字化(断念)[編集]
ローマ字論 も参照
1948年(和暦??年)春、日本の教育状況と日本語に対する無知と偏見から、「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」とする、ジョン・ペルゼルという若い将校の発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。
当時東大助手だった言語学者の柴田武は、GHQ傘下の「CIE(民間情報教育局)」の指示によって、この読み書き全国調査のスタッフに選ばれ、漢字テストの出題を任された。これは日本初の「無作為抽出法(ランダムサンプリング)」の実施でもあり、統計学者林知己夫が被験者のサンプリングを行った。
こうして1948年(和暦??年)8月に、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)によって実施された、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした全国試験調査「日本人の読み書き能力調査」であったが、その結果、漢字の読み書きができない人は2.1%にとどまり、「日本人の識字率が100パーセントに近い」という結果が出た。世界的に見ても、これは例を見ないレベル(NHKスペシャルでの当該特集での表現)であり、日本語のローマ字化は撤回された。
柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、遠回しに「字が読めない人が非常に多いというふうにしてくれないと困る」と言われたが、柴田は「調査結果は捻じ曲げられない」と突っぱね、ペルゼルもそれ以上の無理押しはしなかったという(朝日新聞2008年12月5日夕刊より)。
年表[編集]
- 1945年(昭和20年)
- 7月26日 アメリカ合衆国、イギリス、中華民国がポツダム宣言を発表。
- 8月14日 日本政府がポツダム宣言の受諾を通告。昭和天皇が終戦の詔書を出す。
- 8月15日 終戦。昭和天皇が国民に向けて終戦を発表する(玉音放送)。鈴木貫太郎内閣総辞職。
- 8月17日 東久邇宮稔彦王内閣成立。
- 8月28日 テンチアメリカ陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、連合国軍本部を設置。
- 9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。
- 9月8日 連合国軍、東京を占領する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
- 9月10日 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令。連合国軍が検閲を始める。
- 9月15日 東京・日比谷の第一生命館を接収。
- 9月16日 連合国軍本部が横浜から第一生命館に移転。
- 9月17日 マッカーサー、東京の本部に入る。
- 9月18日 朝日新聞への二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)。
- 9月19日 言論統制のためのプレスコードが出される。
- 9月22日 放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。
- 9月27日 昭和天皇、マッカーサーを訪問。
- 10月2日 連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置。一般命令第4号により「民間情報教育局」が米太平洋陸軍総司令部(GHQ/USAFPAC)より移行[7]、日本人に敗北と戦争に関する罪、責任などを周知徹底せしめることを勧告(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)[8]。
- 10月4日 自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。
- 10月8日 事前検閲を朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京五紙に対して開始。
- 10月9日 東久邇宮内閣総辞職し、幣原内閣が成立。
- 10月11日 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
- 10月15日 治安維持法の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
- 11月18日 皇族資産凍結の指令。
- 12月6日 近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令。
- 12月7日 いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。
- 12月8日 太平洋戰爭史を全国の新聞へ掲載させる。
- 12月9日 農地改革を指示。眞相はかうだの放送を開始。
- 12月15日 神道指令を指示(政教分離等)。
- 12月31日 「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令。修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される。
- 1946年(昭和21年)
- 1月4日 軍人・戦犯・軍国主義者及び同傾向政治家などの公職追放を指示。
- 2月3日 マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
- 2月13日 ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる。
- 3月6日 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。
- 5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
- 11月3日 日本国憲法公布。
- 12月18日 ワシントンの極東委員会、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。
- 1947年(昭和22年)
- 1月31日 マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。
- 5月 総司令部内に賠償局を設置。
- 5月 GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる。
- 5月3日 日本国憲法施行。
- 7月11日 マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
- 7月22日 ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
- 1948年(昭和23年)
- 11月12日 東京裁判がA級戦犯25人に有罪判決。うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根に死刑判決。
- 11月30日 政令201を受け国家公務員法改正。公務員の団体行動権を否定(労働基本権#日本の公務員の労働基本権)。
- 12月8日 民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。
- 12月18日 GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)。
- 12月23日 東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。
- 1949年(昭和24年)
- 3月1日 GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)。
- 5月3日 帰国中のチャールズ・ケーディス大佐が民政局次長を辞任。
- 9月15日 シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表。(詳細はシャウプ勧告を参照)
- 11月1日 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
- 1950年(昭和25年)
- 6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。
- 6月25日 朝鮮戦争勃発(- 1953年)。在日占領軍が大韓民国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
- 7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。
- 7月24日 GHQ/SCAP、日本共産党幹部逮捕と日本新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。
- 8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。
- 8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。
- 9月14日 米トルーマン大統領、対日講和と日米安全保障条約締結交渉の開始を指令。
- 11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
- 1951年(昭和26年)
- 1月 マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。
- 4月11日 マッカーサー、朝鮮戦争で中国東北部空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。
- 4月16日 マッカーサーとホイットニーら、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。
- 9月8日 サンフランシスコ講和会議で日本国との平和条約を調印(ソ連は未署名)。続いて日米安全保障条約に調印。
- 1952年(昭和27年)
脚注[編集]
- ↑ GHQは単に総司令部(General Headquarters)を意味するので、日本以外でGHQと言った場合、必ずしも「連合国軍最高司令官総司令部」を意味するわけではない。
- ↑ 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)等で使用されている。
- ↑ 同日撮影された3枚のうち、同年9月29日に公開された1枚
- ↑ 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.10 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年
- ↑ プレスコードによるダブルスピーク。連合国軍将兵の犯罪についても「大男」などと報じざるを得なかった。
- ↑ これら検閲物は、GHQで文官として任に当たっていたプランゲ博士によってその後米国メリーランド大学へ移管され、プランゲ文庫として公開されている。
- ↑ GHQ/SCAP Records, Civil Information and Education Section (CIE)、国立国会図書館
- ↑ 江藤淳著、閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本 文藝春秋 平成6年1月(文春文庫)
参考文献[編集]
- 天川晃 監修、荒敬 編集・解説『GHQトップ・シ-クレット文書集成』(柏書房、1993年〜1996年)
- 第1期 ISBN 4-7601-1028-3、第1期インデックス ISBN 4-7601-1125-5
- 第2期 ISBN 4-7601-1197-2、第2期インデックス ISBN 4-7601-1370-3
- 荒敬・内海愛子・林博史編『国立国会図書館所蔵 GHQ/SCAP文書目録』(蒼天社出版、2005年) ISBN 4-901916-12-2
- 竹前栄治・中村隆英 監修、天川晃ほか 編『GHQ日本占領史』全55巻・別巻1(日本図書センター、1996〜2000年)
- 竹前栄治『戦後労働改革 GHQ労働政策史』(東京大学出版会、1982年) ISBN 4-13-051020-7
- 週刊新潮編集部『マッカーサーの日本』 (新潮社 1970年、新潮文庫 上下巻1983年) ISBN 4101310017、ISBN 4101310025
- 住本利男 『占領秘録』(毎日新聞社 1952年、中公文庫 1988年) ISBN 4122015448
- セオドア・コーエン、大前正臣訳『日本占領革命 GHQからの証言』(阪急コミュニケーションズ上下、1983年) ISBN 4484001837、ISBN 4484001845
- マーク・ゲイン/Mark Gayn著、井本威夫訳『ニッポン日記』(筑摩書房上下 1952年、筑摩叢書 1963年、ちくま学芸文庫 1998年 ISBN 4480084282)
- 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書 「眞相箱」の呪縛を解く』(小学館文庫、2002年) ISBN 4-09-402886-2
- 甲斐 弦『GHQ検閲官』(葦書房、1995年) ISBN 4-7512-0604-4
- 占領史研究会 編著『GHQに没収された本 総目録』(サワズ出版、2005年) ISBN 4-87902-023-0
- 西尾幹二『GHQ焚書図書開封』1,2(徳間書店、2008年-)全4巻予定 ISBN 978-4198625160、ISBN 978-4198626365
関連項目[編集]
- 連合国軍占領下の日本
- 極東国際軍事裁判
- 占領行政
- 憲法改正
- 日本国憲法
- 労働組合
- 連合軍専用列車
- アメリカ教育使節団報告書
- 冷戦
- 白洲次郎
- マッカーサー・ライン
- 天皇制廃止論
- プレスコード
- ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
- (イラク戦争における)連合国暫定当局
- 極東委員会
- 赤線
- 日本における検閲
- 民間検閲支隊
- 連合軍軍政期 (ドイツ)
外部リンク[編集]
- 国立国会図書館・テーマ別調べ方案内:連合国最高司令官総司令部