梶原一騎
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梶原 一騎 | |
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名前 | 梶原 一騎 |
本名 | 高森 朝樹 |
国籍 | 日本 |
生年 | 1936年9月4日 |
生地 | 東京市浅草区石浜 |
没年 | 1987年1月21日((1987-1936)+((1-9)*100+(21-4)>=0)-1歳没) |
活動期間 | 1960年頃 - |
職業 | 漫画原作者、小説家、映画プロデューサー |
ジャンル | スポーツ漫画、劇画 |
代表作 | 『愛と誠』『あしたのジョー』 ※いずれも原作担当 |
受賞 | 第8回講談社児童まんが賞 (『巨人の星』) |
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梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)は、日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は、高森朝樹(たかもり あさき)。高森朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の破天荒な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。
1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、いわゆるスポ根ものと言われる分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。
弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。妻は高森篤子。離婚期間があり、その間台湾のトップスター、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。
目次
来歴[編集]
東京市浅草区石浜(現在の台東区橋場)に生まれる。しかし生前の梶原は、九州男児や熊本県出身を自称[1]。そのため、梶原が九州出身、熊本出身とされることも多い[2][3][4]。実際には、祖父の代が熊本の出身ということであり、梶原自身は九州との関わりは宮崎県への1年の疎開と福岡県小倉市(現在の北九州市小倉)の親戚の家へ預けられたという程度である[5][6]。
東京都立芝商業高等学校中退(本人は長らく早稲田大学卒と詐称していた。例えば、ごま書房刊の「息子の鍛え方」の裏表紙には、早稲田大学卒業と記述されていた)。父の高森龍夫は、梶原の出生当時、中央公論社で校正の仕事に従事していたが、のちに改造社へ移り、編集者として活躍する。また弟の真樹日佐夫によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原にはいくら頑張っても認めようとはしなかったという要出典。
もともとは文学青年で小説家を志していたが[7]、生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていた。『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ『巨人の星』の原作を始めたところ、これがヒットとなったため、以降は漫画・劇画の原作に本腰を入れて取り組むようになった。
1971年に『空手バカ一代』を発表、大山倍達率いる極真空手を世に紹介した。『地上最強のカラテ』など、極真空手のプロモート映画も多数制作している。『チャンピオン太』など、実在する格闘家をモデルにした作品も多い。
1976年からは映画の制作に乗り出した。梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と、「三協映画」を設立した。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、1977年に自身の原案をもとに、鈴木清順監督に10年ぶりの作品『悲愁物語』をとらせている。
自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。
1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長への傷害事件で逮捕された。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ている。その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版処分となり、名声は地に落ちた。
2か月に及ぶ勾留後に保釈され、8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻を一緒に食べた直後、倒れた。病院での診断名は壊死性劇症膵臓炎。死亡率が100%に近い、死に至る病気であり、長年のアルコール依存や暴飲暴食が祟って胆石を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。
1985年(昭和60年)、かねてからの念願だった小説家への転身を決意して、弟の真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始[8]。漫画原作者からの引退を宣言して、「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『男の星座』(作画:原田久仁信)連載開始。掲載誌は事件後も唯一連載を打ち切らなかった『漫画ゴラク』だった[9]。力道山、大山倍達などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、ライフワーク的な作品となるはずであったが、1987年(昭和62年)年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、東京女子医大病棟一室にてこの世を去り、『男の星座』は未完に終わった(浅草キッドの著書『お笑い男の星座』の題名は、この作品へのリスペクトである)。
死後数年間は、梶原一騎に対しタブー視される風潮が見られたが梶原一騎の再評価の機運が高まるのは、1990年代半ばになってからである[10]。
作品の特色[編集]
梶原の世界は、戦前の『少年倶楽部』等で人気を読んだ佐藤紅緑らの熱血小説と教養小説の世界の系譜と戦後の福井英一『イガグリくん』などの流れを受け継いだものと指摘されている[11][12][13]。これは、マンガの神様と謳われたモダンな作風の手塚治虫には欠けた要素であり、事実、手塚は生涯、梶原が得意としたスポーツ漫画と格闘漫画を手がけず[14][15]、梶原原作のスポ根漫画の良さが理解できずにアシスタントにどこがいいのかと詰問したという[16]。
梶原作品の特色としては、最後に主人公が散り去っていく場合が多く、ハッピーエンドで完結する作品はほとんど無いといわれている[17]。時に自己破滅的であり直情型で己の道に突き進む主人公像が見られるが、真白になるまで燃え尽きる結末を好むのは、彼の作品の特徴ともいえる。
ストーリーの展開としては破天荒で奇想天外、なおかつ劇的な内容で読者を飽きさせない巧みな作風が特徴である。『巨人の星』の大リーグボール養成ギプスや消える魔球に代表される奇抜なアイディア、『空手バカ一代』の劇的なストーリー展開、『愛と誠』にみられる奥深い心理描写などは、彼の特異な才能の一面を発揮したものと評価されている。
若手時代、五味康祐の成人向け小説『スポーツマン一刀斎』を少年向け雑誌に掲載するためのリライトの仕事をして、その作品に登場する「架空のキャラクターと実在のスポーツ選手との共演」という手法を学んだという。馬場、猪木、王、長嶋といった実在の選手と架空の選手をうまく融和させる手法を結実させ、最終的にタイガーマスクを現実化させるところまで行っている。
主人公とライバルは片親を亡くしたか、両親ともいない、または捨てられた場合が多く、孤児の場合、師匠が親代わりという設定になる。「男を成長させるのは、味方との融和でなく、強敵との死闘だ」という人生哲学により、主人公がある程度強くなると、それまで師匠だった人物が敵にまわる展開が繰り返される(具体的には「巨人の星」、「あしたのジョー」、「タイガーマスク」、「柔道一直線」、「柔道讃歌」の項目を参照)。
1980年代に入ると真面目に読まれていた梶原作品の生真面目さに、とりわけ『巨人の星』には逆説的にギャグの要素を感じ取る視点が生まれ、数多くの漫画などでパロディーの対象とされた[18][19]。『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめはギャグとして読んでいたと語り[20]、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などが典型例である。
評価と影響力[編集]
昭和40年代(1965年から1974年)に入るとテレビが一家に1台は普及するようになり、テレビ文化は大衆化された。梶原作品の多くは、アニメ化または実写化されテレビ放映し人気を博した。またテレビによる宣伝効果で原作の売り上げも伸びた。
漫画界においては、手塚治虫が手がけずに傍流になっていた熱血とスポーツと格闘技の世界を復権させて、多くの模倣作を生み出したことで主流の地位まで引き上げた。少女漫画の世界にも梶原の影響は及び、『サインはV』『アタックNo.1』といったスポ根ものが人気を博した[21][22]。
一方では映画作りにも注力しいくつかのヒット作を世に送り出した。格闘界ではアントニオ猪木の異種格闘技シリーズに代表される試合にも、仕掛け人的な役割を演じ強い影響力をもたらした。
だがその一方で「カポエイラはずっと逆立ちしたまま闘う格闘技」「ブルース・リーは極真空手を習っていた」等の、誤った説を自著で発表したこともあり、今でもそれが定説となってしまっているものもある。梶原的ファンタジーの頂点とも言える『プロレススーパースター列伝』が、前記のような誤った説(というより意図的な創作)の集合体であるのは、多くのプロレスファンの知るところとなっている。
また、梶原一騎は戦後民主主義の男女平等、平和主義、暴力否定、家父長否定、子どもの人権尊重、優しい家族などの風潮に激しい怒りを感じてそれらを拒絶し、それらと正反対の世界を描き、「古い日本」を死守していた模様である。それが学園紛争の時代に団塊世代の学生たちに支持され、大ヒットしていったことは「戦後日本の文化における矛盾」であるという(小林よしのり『挑戦的平和論』・漫画論の下欄外、『巨人の星』文庫巻末の呉智英による評[23])。
1983年の逮捕事件により、梶原個人は一時的にはマスコミ界から抹殺に近い状況まで追い込まれ、作品の評価も失墜した。梶原の暴力癖は傲岸不遜というより、収入が跳ね上がっても一向に上昇しない自らの社会的地位(銀座に繰り出しても小説家を迎える態度では無いと本人は感じていた)、小説家志望の自分に、常にヒットを要求する漫画編集者などへの怒りや苛立ちが引き金になった物が多く、ひどい時には女性を巡るトラブルから、鉄拳を実弟の真樹、幼なじみ、ホステスに向けたこともあった。
また、梶原がコワモテだった理由について、ライターの竹熊健太郎は、漫画制作において、原作は叩き台と思われており、そうでもしないと個性がなくなるからではないかと推測している[24]
小林よしのりは自分の漫画(格闘お遊戯)で梶原一騎をもじった登場人物を出して茶化したことに対し、梶原は「自分にはギャグは書けない」としてギャグ漫画家に敬意を持っており、事なきを得たという。そのためか、ギャグ漫画の巨匠・赤塚不二夫とも飲み仲間であり、赤塚に対し、一目おくことがあった(『人生これでいいのだ!!』1999年・集英社刊)。小林よしのりは『新ゴーマニズム宣言』で「白鳥が美しく見えるのは水の中で必死に足で水を掻いているから」という花形満の台詞を引用し、「梶原一騎からはいっぱい学んだ」というコメントを書いている。
後年の映画制作への進出により、制作費に多額の資金捻出することから今まで以上に多くの連載を引き受けるようになったが、『巨人の星』『空手バカ一代』など過去の名作の焼き直しが多くなった。1970年代後半以降は少年向けの明るい作品ではなく、成人向け(成人限定に近い)のエロ・グロ・バイオレンスに満ちた作品が多くなっており、これも評価を下げた一因という意見がある。
1983年の事件による逮捕と、これによってようやく白日の下になったそれまでの不問にされていた数々の出来事のために晩年や死後数年間は、出版界・マスコミでも梶原についてはタブーとされていた時期があった[25]。しかし、1990年代半ばに再評価の兆しが伺えた。その発端となったのは、1994年、劇作家・高取英・著『梶原一騎を読む』(1994年・ファラオ出版刊)である。夏目房之介、いしかわじゅん、呉智英といった論客たちが、死後初めて梶原一騎と梶原作品について取り上げられた最初の書物となった。その後、1994年8月15日付の朝日新聞の連載コラム『新戦後がやってきた』の中で梶原一騎の不遇と当時「好感度調査」で4年連続一位の座を独走するビートたけしを対比させた論評が掲載された。そして再評価の決定打となったのは、ジャーナリスト・斎藤貴男が関係者への徹底した入念な取材を元に発表された労作『夕やけを見ていた男 -評伝・梶原一騎-』(1995年・新潮社刊)により、今日の梶原一騎再評価が高まった[26]。本書は1995年3月26日付の朝日新聞書評欄で作家・沢木耕太郎による書評や数々のサブカル誌がとりあげられたことにより、それまでタブーとされていたマスメディアでも『驚きももの木20世紀』(1997年4月25日オンエア)を皮切りに『BSマンガ夜話』『ブロードキャスター』(1999年4月3日オンエア)などでも梶原作品が取り上げられ、梶原一騎の名が再び世に出るようになった。また当時、数々の歴史上人物を取り上げていた関口宏司会による人気番組『知ってるつもり?!』(1999年7月11日オンエア)でも梶原一騎の生涯が紹介された。今日でも『あしたのジョー』絡みなどで『NHK教育』(2007年3月24日オンエア)や『報道ステーション』(2008年3月25日オンエア)などで取り上げられ、2007年3月2日には、紛失されていた『あしたのジョー』の直筆原稿の一部発見が『NHKニュース7』で第一報として取り上げられ、話題を呼んだ。
大山倍達と『空手バカ一代』[編集]
米国でかつて敵国であった大男どもをなぎ倒し、凱旋帰国して国内でもかなりの有名人であった大山倍達の元に1954年頃、梶原が訪ねた時、石を抱えて大山に近づき、「この石を割ってみせてくれませんか?」とお願いしたことが二人の初めての出会いとなった。その時、大山の数々の武勇伝の挿話に若き日の梶原は大いに心を打たれた。最初はそれほど密接な関係ではなかったが、二人の親交は徐々に深まりつつあった。当時の梶原の大山に対する気持ちとして「大山倍達は巨大な不遇の碑に見えた。12歳も年が違う大山倍達に対して何というか父性本能のようなものを感じたのだ」と述懐している(『反逆世代への遺言』1984年・ワニブックス刊)。
1969年6月『冒険王』にて『虹をよぶ拳』(画・つのだじろう)の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『柔道一直線』(画・永島慎二)にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。
1970年11月『空手バカ一代』プロジェクトが発進する。武道の世界では反体制の立場にある一介の空手家を大講談社の少年雑誌が大きく取り上げていいものか社内でも議論はあったが、当時『少年マガジン』がノンフィクション作品を発表していたこと等により実現が可能となり、1971年6月『少年マガジン』誌上で梶原にとって長年の念願であった『空手バカ一代』(画・つのだじろう)の連載を開始。連載当初から反響の大きさにより、極真会館には連日50人、100人の入門志願者が押しよせ、大山自身も劇画によって知名度が上がり、極真会館館長の立場から一定の社会的地位を占めることとなった。
しかし、1973年、作画担当のつのだじろうが「連載を降りたい」と言い出した。理由として「原作が来るのがひどく遅く、締切りに追われて満足な仕事ができない」。「待つ時間ばかりで、他に自分のやりたい仕事の時間が確保できない」というもの。連載から二年が過ぎ、当初予定していた大山倍達一代記は描きあげていたが、まだまだ人気の高かったことや当時『あしたのジョー』などの人気漫画の連載が終了していたことにより、『少年マガジン』の部数の影響も考慮して、連載終了の気配を示さなかったこと、またつのだ自身、以前から独学でオカルトの世界を研究しており、この年『少年チャンピオン』の夏休み企画で描いた短編シリーズ『亡霊学級』がヒットしたことにより、『恐怖新聞』の連載が決定したことから上記2点の理由により降板することとなった。
その後、つのだの後を引き継ぐ形となった影丸譲也であるが、先程にもあるように大山倍達個人の挿話は描ききってしまったため、物語の展開の苦難を余儀なくされたが、弟子の芦原英幸の挿話を描いたことで急に人気があがり、再び盛り返すこととなったが、そのことが極真会館やさらには大山との間で大きな亀裂を生むこととなった。芦原英幸を中心に新生『空手バカ一代』は極真会館内部での派閥抗争を招く結果となった。やがては空手家でもない梶原の勢力が極真内部で拡大していくことに対する反発は同時に彼を重用する大山への批判にも及んだ。極真内部は次第に大きく大山派と梶原派の二大勢力に分裂していった。
そんな状況の中で制作された『地上最強のカラテ』(1976年)は興行として大ヒットを記録したが、さらにこの成功が梶原と大山の仲に決定的な亀裂をもたらした。当初、梶原サイドと大山サイドで半分ずつ出資していたが、配給収入の分配として梶原サイドから大山サイドに対して支払われることは一切なく続篇の『地上最強のカラテ・パート2』(1977年)でも同様のことが行なわれ、大山サイドの不信感を募らせることとなった(もっとも梶原サイドにしてみれば、利益を独り占めにした覚えはなく、大きな収益をもたらしても、大きな制作資金を投入しているので厳密には利益は微々たるものであることを主張している)。
当時『空手バカ一代』の作画担当であった、つのだじろうはオカルト物の連載を終了させ、オカルトとは別の分野の作品を描こうとしていた時期に旧知の大山から梶原抜きの大山倍達伝の企画を諮ってみたが、当初つのだは梶原の報復を恐れて断った。すると大山は当時親しくしていた評論家・平岡正明を原作につけることでつのだが矢面に立たないよう配慮したが、原作者をつけることに懲りていたつのだは、大山の熱心な申し出もあいまって一人で引き受けることとなった。しかし、1978年4月『少年チャンピオン』から連載された『ゴッドハンド』のタイトルが、元々大山の代名詞のように使われていた言葉であるが、それは必ずしも事実でなく、そのことを含めて梶原の大きな不興を買うこととなった。この頃からつのだ本人及び編集サイドにより梶原サイドからのクレイムがつき、結果、作品自体にも読者人気が及ばず、わずか9週で打ち切りとなった。しかしそれ以後も梶原サイドからのつのだ本人に対する脅迫まがいの行為は途絶えることがなく、つのだは、『増刊ビッグコミックス』で連載していたオカルト漫画『魔子』の最終回に梶原一騎を中傷する内容のセリフなどを書いてしまい、それを知った梶原は激怒し、つのだは新宿の京王プラザホテルに軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされる(業界では有名な「つのだじろう詫び状事件」である)。
その後も梶原と大山との“義兄弟”関係は公の場では維持され続けたが、1979年蔵前国技館で開催されたウィリー・ウィリアムス VS アントニオ猪木との世紀のイベントで梶原と大山との確執は頂点に達した。ウィリー VS 猪木戦における極真サイドから梶原襲撃“指令”などの怪情報が、試合前から関係者の間でまことしやかに流れており、結局は起こることはなかったもののそのことを信じた梶原サイドは大山に対して“誠意ある謝罪”を要求した。身に覚えのない大山としても謝罪する謂れはなく、大山との長年に及ぶ“義兄弟”の関係は途絶えた。
その後の梶原の逮捕やスキャンダル、闘病にも静観していた大山ではあるが、1983年に大病から奇跡的な生還を果たした療養中の梶原に対し、匿名で励ましの手紙を送った。それを読んだ梶原は「これは館長からだよ。俺にはわかるんだ」と話したという。大山はこの挿話を梶原の妻・篤子から後に知らされ、晩年にジャーナリスト・斎藤貴男の取材に応じた時もこの挿話を嬉しそうに話したという。
1985年5月、『漫画ゴラク』にて梶原一騎引退記念作品と銘打たれた自伝劇画『男の星座』(作画原田久仁信)を発表。力道山、木村政彦、ルー・テーズなど実在の人物が登場するなか、大山倍達との話題が多く描かれており、その他にも極真会館のさまざまな挿話がちりばめられ、若き日の梶原の大山に対する熱い思いが込められていた。作画担当の原田久仁信によれば、『男の星座』を描いて(極真との)関係が修復に向かっているところがあったという(木村修・編『格闘漫画で強くなる!』1997年・アスペクト刊)。しかし梶原の死により、『男の星座』は絶筆となり、『漫画ゴラク』追悼号にも「もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。(中略)。約20年間のつきあいでしたが仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。」と大山の一文が寄せられている。
創価学会との関係[編集]
斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』pp.205 - 207(新潮社、1995年 ISBN 4104030015)によると、梶原は1970年初春、自民党と公明党から、1971年の第9回参議院議員通常選挙に立候補しないかと誘われたことがある(結局立候補はしなかった)。梶原の根性論は当時、創価学会会長の池田大作から大変気に入られていた。池田は演説に際して梶原作品を取り上げて根性の大切さを説き、その根性を「広宣流布」(広く仏法を流布すること)のために役立てよと述べた。このような縁から、梶原は荘司としおと組んで『公明新聞』に『熱血モーレツ記者』という作品を発表したこともあった。このことから創価学会員であるとの誤解をさせることがあるが、これは誤りである。
主な作品[編集]
- チャンピオン太(絵:吉田竜夫)
- 空手バカ一代(絵:つのだじろう・影丸穣也)
- タイガーマスク(絵:辻なおき)
- タイガーマスク二世(絵:宮田淳一)
- 悪役ブルース(絵:峰岸とおる)
- 新戦艦大和(絵:団鉄也)
- 巨人の星(絵:川崎のぼる)
- 赤き血のイレブン(絵:園田光慶)
- 朝日の恋人(絵:かざま鋭二)
- 愛と誠(絵:ながやす巧)
- おとこ道(絵:矢口高雄)
- 侍ジャイアンツ(絵:井上コオ)
- あしたのジョー(高森名義・絵:ちばてつや)
- 夕やけ番長(絵:荘司としお)
- 四角いジャングル(絵:中城健)
- ジャイアント台風(高森名義・絵:辻なおき)
- 紅の挑戦者(高森名義・絵:中城健)
- プロレススーパースター列伝(絵:原田久仁信)
- カラテ地獄変(絵:中城健)
- 新カラテ地獄変(絵:中城健)
- キックの鬼(絵:中城健)
- 柔道一直線(絵:永島慎二)
- 男の星座(絵:原田久仁信)
- 人間兇器(絵:中野喜雄)
- 恋人岬(絵:牧美也子)
- 柔道讃歌(絵:貝塚ひろし)
- 甲子園の土(絵:一峰大二)
著作[編集]
- 『地獄からの生還』(自伝的エッセイ)ISBN 4877285075
- 男たちの星
など
映画制作(三協映画)[編集]
- 愛のなぎさ(1976年)
- 地上最強のカラテ(1976年) ドキュメンタリー
- 地上最強の空手PART2(1976) ドキュメンタリー
- 雨のめぐり逢い(三協映画=松竹、1977年)
- 悲愁物語(三協映画=松竹、1977年) 監督:鈴木清順、脚本:大和屋竺
- 世紀の真剣勝負 史上最強の空手 結集編(1977年) ドキュメンタリー
- マッハ'78(松竹=三協映画、1978年)
- カラテ大戦争(松竹=三協映画、1978年)
- 格闘技世界一 四角いジャングル (1978年) ドキュメンタリー
- 激突!格闘技 四角いジャングル(1979年) ドキュメンタリー
- 最強最後のカラテ(1980年) ドキュメンタリー
- あしたのジョー(三協映画=富士映画=ヘラルドエンタープライズ、1980年)
- 格闘技オリンピック(1980年) ドキュメンタリー
- リトルチャンピオン(松竹=三協映画、1981年)
- あしたのジョー2 (三協映画=ヘラルドエンタープライズ=富士映画=ちば企画、1981年)
- 巨人の星(1982年)
- もどり川(1983年) 監督:神代辰巳、脚本:荒井晴彦、原作:連城三紀彦「戻り川心中」
原作の実写映画化[編集]
- ボディガード牙(東映東京、1973年)
- ボディガード牙 必殺三角飛び(東映東京、1973年)
- 愛と誠(松竹=芸映プロ、1974年)
- 若い貴族たち 13階段のマキ(東映東京、1975年)
- 続愛と誠(松竹大船、1975年)
- けんか空手 極真拳(東映東京、1975年)
- けんか空手 極真無頼拳(東映東京、1975年)
- 愛と誠 完結篇(三協映画、1976年)
- 恋人岬(松竹、1977年)
- 空手バカ一代(東映東京、1977年)
- カラテ大戦争(松竹=三協映画、1978年)
梶原一騎の人生を描いた映画[編集]
- すてごろ 梶原三兄弟激動昭和史(2003年) 原作、脚本:真樹日佐夫
備考[編集]
- アニメ『ルパン三世』劇場版第1作『ルパン三世 ルパンVS複製人間』で、赤塚不二夫と共に声優を務めた。
- 赤塚不二夫・著『人生これでいいのだ!!』(1999年・集英社刊)の中で梶原一騎とのゴールデン街で飲み歩いた思い出を披露している。
- 『グラップラー刃牙』の著者・板垣恵介は、川原正敏、猿渡哲也との三大人気格闘漫画家の座談会で『柔道一直線』の地獄車や『あしたのジョー』の金竜飛の挿話を例に上げて「梶原一騎さんは、思い込みの天才」と評している。(『格闘技マンガ最強伝説』1996年・福昌堂刊より)
- 『週刊少年マガジン』2008年9月17日号の『青春少年マガジン』の作品の中で若き日の著者・小林まことが講談社のパーティーにて梶原一騎との初対面のシーンが描かれている。
- 『週刊プレイボーイ』2008年10月13日号のTAJIRIとキン肉マンの原作者・嶋田隆司(ゆでたまご)との対談の中で嶋田は、子供の頃、梶原作品に影響を受けていたことを披露。またTAJIRIも「梶原一騎は自分にとって神のような存在」であることを明かしていた。
- 『笑っていいとも!』の「ご先祖様は有名人」のコーナーで梶原一騎が取り上げられ、司会のタモリが「俺はこの人に3回会ったことがある。」と述懐していた。またこのコーナーでは、毎回ご先祖に縁のあるゲストが登場し、今回は復縁後に誕生した末っ子(三男)・誠樹が出演し、昔から梶原一騎によく似ていると云われていた水曜レギュラーの柴田理恵から父親の印象について尋ねられると「いや、怖いです。」と答えていた。
- 晩年の夫人、白冰冰は台湾のトップスターで、現在でもファンの自動車に肖像画が描かれるほど敬愛されている。2人の間に生まれた娘・白暁燕は、梶原の没後の1997年に身代金目的で誘拐され、惨殺された(17歳没)。
脚注[編集]
- ↑ 梶原一騎『劇画一代』毎日新聞社、1979年、p.116
- ↑ 河崎実『巨人の星の謎』(宝島社刊)では「梶原一騎は熊本県高森市の出身である」と書かれてあり(ただし、熊本県に実在するのは高森町である)
- ↑ NHKで日本のアニメを特集した番組でも、加藤精三が「星一徹」の声で「梶原一騎先生は熊本県に生まれた」と解説。
- ↑ 山崎敬之『テレビアニメ魂』講談社現代新書、2005年、p.82。
- ↑ 斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』新潮社、1995年、p.71
- ↑ 植地毅、勝畑聰「スーパー劇画王烈伝〜梶原一騎らぷそでぃ」『マンガ地獄変』水声社、1996年、p.17。
- ↑ 梶原の漫画原作は小説形式だった(梶原一騎『劇画一代』毎日新聞社、1979年、p.163。清水京武「川崎のぼるインタビュー 描かれなかった後編はどんな物語だったのか!?」『こんなマンガがあったのか! 名作マンガの知られざる続編・外伝』メディアファクトリー、1999年、p.48)。
- ↑ 『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』p.381。
- ↑ 『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』p.341。
- ↑ 竹内オサム『戦後マンガ50年史』筑摩書房、1995年、p.172
- ↑ 米沢嘉博『戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景』平凡社新書、2002年、p.35。
- ↑ 西村繁男『まんが編集術』白夜書房、1999年、p.329。
- ↑ 串間努『少年ブーム 昭和レトロの流行もの』晶文社、2003年、p.101。
- ↑ 米沢嘉博「現代マンガは手塚の呪縛を逃れ得るか」『手塚治虫マンガ論』河出書房新社、2007年、p.165。
- ↑ 夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』筑摩書房、1995年、pp.100-101。
- ↑ 「トークイン手塚体験」『一億人の手塚治虫』一億人の手塚治虫編集委員会編、JICC出版局、1989年、p.476。元手塚治虫のアシスタントの石坂啓の発言。
- ↑ 大塚英志「梶原一騎 未完のビルドゥングスロマン」『教養としての<まんが・アニメ>』講談社現代新書、2001年、pp.43-44。
- ↑ いしかわじゅん『漫画の時間』晶文社、1995年、p.95。
- ↑ 夏目房之介「おおげさマンガは面白い」『毎日新聞』1994年2月2日号(『マンガの力 成熟する戦後マンガ』晶文社、1999年に所収)
- ↑ 大泉実成『消えたマンガ家』大田出版、1996年、pp.150-151
- ↑ 石子順造『戦後マンガ史ノート』紀伊國屋書店、1980年、p.147。
- ↑ 加納則章「熱血マンガ 馬鹿の時代!!」『別冊宝島288 70年代マンガ大百科』宝島社、1996年
- ↑ なお、小熊英二はその著書『1968 若者たちの叛乱とその背景』において「全共闘運動は、日本が後進国であった時代に幼少期をおくった団塊世代が、高度成長期をへて出現した『豊かな社会』に大きな違和感を感じたことから、発生した」と分析。そして、全共闘の学生らは、他にも「ヤクザ映画」など旧弊ながら倫理的な価値観を持ったものを愛好したことから、彼らが梶原作品を支持したのは不思議ではないとしている。(同書・上巻・p.108)
- ↑ 安藤健二『封印作品の謎2』太田出版、2006年、p.60。
- ↑ 夏目房之介は「日本的大衆娯楽性の正統派 梶原一騎をもういちど」で「そろそろまとまった梶原一騎の再評価がでてきていいと思う」と記している(『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』双葉社、1991年に所収)
- ↑ 加納則章「「馬鹿」の美しさを広めた梶原一騎」『別冊宝島288 70年代マンガ大百科』宝島社、1996年、p.38。
参考文献[編集]
- 蕪木和夫『劇画王梶原一騎評伝』、風塵社、1994年1月。ISBN 4-938733-07-2
- 斎藤貴男『梶原一騎伝』(『新潮文庫』)、新潮社、2001年3月。ISBN 4-10-148731-6 ※原著は、斎藤貴男『夕やけを見ていた男-評伝梶原一騎』(新潮社、1995年1月。ISBN 4-10-403001-5)。
- 高取英編『「梶原一騎」をよむ』、ファラオ企画、1994年4月。ISBN 4-89409-050-3
- 高森篤子『妻の道-梶原一騎と私の二十五年』、JICC出版局、1991年11月。ISBN 4-7966-0219-4
- 真樹日佐夫『兄貴-梶原一騎の夢の残骸』(『ちくま文庫』)、筑摩書房、2000年4月。ISBN 4-480-03553-2 ※原著は、真樹日佐夫『荒野に一騎咆ゆ-風靡し壮烈に散った劇画界巨星の慟哭の鎮魂譜』(日本文芸社、1987年10月。ISBN 4-537-02077-6)を改題改訂した『兄貴-梶原一騎の夢の残骸』(飯倉書房、1997年1月。ISBN 4-8422-0307-2)。
- 山本鎭雄『劇画『巨人の星』を読む(第2部・第3部補遺)」 『社会学的世界 増補改訂版』(恒星社厚生閣、2001)
関連項目[編集]
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