中山正暉
中山 正暉(なかやま まさあき、1932年6月14日 - )は日本の政治家、自由民主党所属の元衆議院議員。大阪府出身。学位は法学士。勲等は勲一等旭日大綬章。 財団法人異文化コミュニケーション財団理事。
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プロフィール[編集]
生い立ち[編集]
父は元参議院議員で弁護士の中山福蔵、母は元衆議院議員で初の女性閣僚(厚生大臣)となった中山マサで、兄も衆議院議員の中山太郎。1955年に中央大学法学部を卒業した。
政界[編集]
母マサが厚生大臣時代に秘書官を務めたのをきっかけに、政界入り。大阪市議会議員を経て、1969年に母の地盤を受け継いで衆議院議員に初当選。以来、連続11期当選を果たし、国会議員生活は30年以上に及んだ。冷戦中の1970年代に中川一郎や渡辺美智雄、石原慎太郎らとともに「青嵐会」に参加するなど、タカ派の論客として鳴らした。
竹下登内閣で郵政大臣として初入閣し、自社連立の村山富市改造内閣では問題発言で引責辞任した江藤隆美の後任として総務庁長官、小渕恵三内閣では建設大臣・国土庁長官として入閣、第1次森喜朗内閣でも留任した。1996年は新進党元職前田正に大阪4区で破れ比例復活、2000年自身最後の立候補で雪辱、初の小選挙区勝利を果たした。
拉致議連[編集]
1997年に設立された北朝鮮による日本人拉致問題の解決を目指す「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」(拉致議連、現「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」)の設立メンバーとなり、さらに同議連の会長を務めた。当初は、拉致被害者の横田めぐみの両親と衆議院議員会館で共同会見を行い「拉致問題が解決するまでは北朝鮮に対して食糧支援を行わない」と発言するなど強硬な姿勢を見せていた。
しかし、1997年11月に北朝鮮の平壌を訪れ帰国した後には、急遽各方面に日本人拉致事件そのものを否定する説を発表したり、翌年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任し、「拉致問題は幽霊のように実体のないもの[1]」「まず北朝鮮との国交正常化を行った後に拉致問題の解決を行うべき」と発言するなど、拉致議連の会長自らが問題解決を妨害する消極的な言動を行ったことは強い批判を浴び、その後中山は「日朝友好議員連盟会長」と「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」の両会長を辞した。
政界引退[編集]
2003年に、母から譲り受けた地盤を長男の泰秀に譲り、政界から引退したが、上記の北朝鮮による日本人拉致問題に絡んだ疑惑の責任を取った引退ではないかという意見もある。2002年には、勲一等旭日大綬章を野中広務らと共に叙勲されたが、過去の言動などから批判の声が上がっている。
拉致問題解決への妨害[編集]
元拉致議連会長[編集]
かつては「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟(旧拉致議連)」の会長であり、北朝鮮に対して「拉致問題が解決するまでは食糧支援を行わない」と発言するなど強硬な姿勢を見せていたものの、1997年11月の平壌訪問以降は、急遽各方面に拉致事件否定説を発表し、その翌年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任するなど矛盾する言動を取りはじめ、救う会はもとよりマスコミや当時の中大生を救う会などから大きな非難を受けた。
この言動についてかつての盟友の石原慎太郎から問い質された際には、「(拉致問題は)あんたが考えているほど簡単なものではないんだよ」とにべもなく答えている(この発言は後述のコラムに取り上げられた)。
有本恵子拉致事件解決への妨害[編集]
2002年3月には、拉致被害者の有本恵子の母・嘉代子に電話をかけ、救う会の佐藤勝巳らを「共産党北京派で、拉致問題解決を妨害している」と事実無根の誹謗[1]をした上で「救う会の運動から手を引けば平壌に連れて行って恵子さんと会わせてやる」と語った(それに対し嘉代子は、「救う会を取ります」と回答した)。また、有本の拉致によど号ハイジャック犯の妻が関与したことを受けて「これは日本人が日本人を拉致したのであって北朝鮮政府とは関わりないことだ」とも語った。
その後の5月7日の昼に、中山は赤坂プリンスホテルの中華料理店で「救う会」の役員に、「有本恵子さんは生きている」と語る。9月21日の12時頃には、「救う会」の西岡力が秘書を通じて中山にこの発言の根拠を確認したが無回答。
石原慎太郎は、同年4月8日に産経新聞の連載コラム『日本よ』[2]で「この政治家たちの体たらく」と題してこの中山発言を取り上げ、「被害者の家族への恫喝か、加害者たるテロ国家への気配りなのか、何ゆえのへつらいなのか」と批判。それに対し中山は激怒、石原を提訴したが敗訴した(下記の「騒動」を参照)。
同年4月26日のラジオ番組(ラジオ日本「ミッキー安川のズバリ勝負」)に出演した際、中山は、多くの拉致被害者の拉致と有本の件を「一緒くたにすると、(北朝鮮当局に)日本人が日本人を誘拐したという口実を与えると言ったんだ・・・国交の無い国にいくら遠吠えしてもどうしようもない」と発言し、被害者家族や石原を誹謗するなどした[2]。一方、同年9月に週刊文春が直撃インタビューした際、よど号ハイジャック犯の妻を「北朝鮮でよど号のメンバーと結婚し、子供まで生んでおいて自分一人だけ日本に帰り・・・そんな女の言うこと、どこまで信じられるのかなあ」と誹謗し、嘉代子への発言の根拠としていたはずの彼女の拉致関与の告白を否定した。
説明責任[編集]
このような行動を会長自らが行った結果、北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟は解散に追い込まれ、その後石破茂を会長とした「新拉致議連」を改めて立ち上げざるを得なくなるなど、明らかに拉致事件の解決を妨害した中山の行為に、真摯な説明と謝罪を求める声が議員辞職後の現在も多く挙がっている。
なお中山は一連の行動の理由として、上記のよど号ハイジャック犯の妻が逮捕されないこと、拉致問題が1995年になってようやく『警察白書』に取り上げられたことなどに疑問を持ち、拉致問題を政治的に利用する勢力がいると考えるようになったため、と主張している[3]。
騒動[編集]
- 2002年、かつて青嵐会、中川派で同志だった石原慎太郎東京都知事に、北朝鮮拉致問題に関する自らの発言を曲解し、新聞紙上(上記参照)で名誉を傷つけられたとして訴訟を起こした。提訴した理由として中山は、石原の記事が原因で右翼団体による抗議を受け、結果妻が倒れる事態にまでなったにもかかわらず、石原に抗議したのに彼が逃げ続けたため、と主張している。訴訟を起こす前の同年5月15日、参議院の国会等移転問題特別委員会に参考人として出席していた石原を待ち伏せし、マスコミの面前で口論となり、「安物ヒトラー」「もう絶交や」と絶叫。以降、石原とは完全に袂を分かち、長年の親友・浜田幸一と共に石原批判の急先鋒となる。2004年、東京地裁は『「北朝鮮政府の立場に同調しているのではないか」と誤解を招く』として中山の訴えを棄却した。
- 中川派離脱後の所属派閥は中曽根派-渡辺派から村上・亀井派-江藤・亀井派だったが、2003年に中曽根康弘以下幹部の居並ぶ派閥会合の席で亀井らを痛烈に批判し派閥を脱会した。ちなみに後継者の泰秀は森派入りしている。
- 2004年10月、政界を引退し自宅にいたところ、子息の泰秀衆議院議員の名を騙って賠償金を請求する電話を受けた。典型的な「オレオレ詐欺」のパターンで、本人に連絡して詐欺であることを確認し、被害を未然に防いだ。
家族[編集]
父は元参議院議員の中山福蔵、母は厚生大臣を務めた中山マサ。兄は元外務大臣で前衆議院議員の中山太郎、長男は前衆議院議員の中山泰秀。
出演番組[編集]
脚注[編集]
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