ファン・マヌエル・マルケス

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フアン・マヌエル・マルケス・メンデスJuan Manuel Márquez Mendez、男性、1973年8月23日 - )は、メキシコプロボクサー。現WBO世界スーパーライト級王者。

概要[編集]

世界4階級制覇チャンピオンであり、主要4団体世界王座を制覇した数少ないボクサー。イグナシオ・ベリスタイン門下では2人目の快挙。その攻撃力の高さから「Dinamita(ディナミータ)」(スペイン語ダイナマイトを意味する)の異名を持つ。ボクシング一家に育ち、弟のラファエル・マルケスは元2階級制覇王者である。弟ラファエルと共に史上初の兄弟同時2階級制覇を成し遂げた。弟ラファエルが強打とスピードを兼ね備えた天才肌のKOパンチャーであるのに対して、ファン・マヌエルは回転の早い連打で相手を圧倒してKOする攻防兼備のファイタータイプのボクサーに近い。兄弟揃ってカウンター、左右のアッパー・ストレートの名手である。

人気と実力を兼ね備えたボクサーでありながら、数々の不遇な目に遭わされていることでも知られている。2004年9月来日。マルケスのチームには世界戴冠以前より日本人(ロマンサジャパンボクシングジム中島利光代表)が名を連ねる。

来歴[編集]

治安の悪いイスタパラパ地区で育ち、8歳で元プロボクサーの父親からボクシングを習い始め、12歳の時から名匠イグナシオ・ベリスタインに師事するようになる。アマチュアボクシング戦績は35勝1敗。

1991年にプロデビュー予定だったが、デビュー直前のある日、オレンジを取ろうと木に登った際に落下して背骨に重傷を負った。その後、奇跡的に回復したがプロデビューは2年遅れることとなる。

1993年5月29日に19歳でプロデビュー。プロデビュー戦では初回に3度のダウンを奪うが、2回開始時に反則負け。この時の対戦相手がコミッション・ドクターのお抱え選手であったため、露骨な贔屓判定によって黒星を付けられた。

その後は順調に勝ちを重ね1997年2月23日にNABO北米フェザー級王座を獲得した。マルケスは22ヶ月連続でWBO世界フェザー級王者ナジーム・ハメドの指名挑戦者として君臨していたが、WBOはハメドがマルケス以外の相手と戦うことを許可し続けたため、挑戦することができず、「無冠の帝王」と呼ばれた。

同王座を7度防衛した後、1999年9月11日にフレディ・ノーウッドの持つWBA世界フェザー級王座に挑戦。実質2度のダウンを奪ったにも関わらず、レフェリーはダウンをとらず、結果は判定負けで王座獲得ならず。

その後は、2002年3月9日にロビー・ピーデンを10回TKOで破り、NABF北米王座とUSBA全米王座を獲得するなど、KO勝ちを続けて、フェザー級最強の呼び声も高い実績を作った。

2003年2月1日にはマヌエル・メディナを7回TKOで下し空位のIBF世界フェザー級王座を獲得、遂に無冠の帝王を返上した。この試合で、メディナから最初のダウンを奪ったカウンター3連打は評価が高い(カウンターとは普通、一発につき一発を返すのに対し、この時マルケスは相手の体の勢いが残っているうちに3発打ち込んだ)。

2003年11月1日にはデリック・ゲイナーを7回ドクターストップ判定(実質戦意喪失のTKO勝ち)で破りWBA世界フェザー級王座とIBF世界フェザー級王座の統一に成功、WBAよりスーパー王座に認定された。

2004年5月8日、マニー・パッキャオと対戦し、1Rに3度のダウンを奪われるが、その後に反撃して、判定三者三様の引き分けドローでWBA王座の初防衛とIBF王座の2度目の防衛に成功した。

WBA・IBF世界フェザー級王座を3度防衛した後、(後述する不運な理由により)指名戦が成立しなかったためIBF世界フェザー級王座を剥奪されてしまい、自動的にWBA世界フェザー級スーパー王座も剥奪された。その後2006年3月4日にWBA世界フェザー級王座を賭けてインドネシアクリス・ジョンと対戦し0-3判定で敗れて王座獲得に失敗した。

しかし、2006年8月5日にネバダ州ステートラインのモントブルーリゾートカジノ&スパで行われたWBO世界フェザー級暫定王座決定戦でターサク・ゴーキャットジムに7回1分13秒TKO勝ちを収め、暫定王者となった。2006年12月に正規王者スコット・ハリソンが防衛戦をキャンセルして返上、正規王者に昇格した。

2007年3月17日にマルコ・アントニオ・バレラが持つWBC世界スーパーフェザー級王座に挑戦し3-0の判定勝ちで王座奪取に成功。同時期に史上初の兄弟同時2階級制覇を達成。11月3日にはオリンピック銀メダリストのリカルド・ファレスとの初防衛戦に12回判定勝利し、初防衛に成功した。

2008年3月15日、ラスベガスで行われた2度目の防衛戦でマニー・パッキャオと再戦。3Rにダウンを奪われるがその後に反撃、初対戦時以上の激闘を繰り広げ、1-2の判定負け。王座から陥落。パッキャオを支持した二人のジャッジのうちの一人の採点は113-114とわずか1ポイント差だった。

判定に不満を抱くマルケスは試合直後から即座にパッキャオとのラバーマッチを要求し続けたが、パッキャオは再戦を拒否してライト級に転級。これを受けてマルケスもパッキャオを追いかけてライト級へと転級した。

2008年9月13日、ラスベガスでホエール・カサマヨールの持つリングマガジン世界ライト級王座に挑戦し、11回KO勝ちで王座獲得。なお、カサマヨールはこれが生涯初のKO負け。

2009年2月28日、ヒューストンのトヨタセンターでファン・ディアスと対戦。この試合は元々はマルケスの持つリングマガジン世界ライト級王座とディアスの持つマイナー王座のIBO世界ライト級王座を賭けた、ダブルタイトルマッチとなる予定だった(興行のキャッチコピーも「Champion vs Champion」だった)。しかし、WBA・IBF・WBO世界ライト級スーパー王者のネート・キャンベルが2月14日の防衛戦の前日計量にて体重超過で王座を剥奪され、翌日の試合でキャンベルが勝ったため、WBA世界ライト級スーパー王座、IBF世界ライト級王座そしてWBO世界ライト級王座が空位となり、マルケスvsディアス戦はIBF世界ライト級王座決定戦とはならないことが決定し、WBO世界ライト級王座決定戦となることが決定し、WBA世界ライト級スーパー王座決定戦となることも決定した。

試合は序盤から壮絶な激闘となり、ダウンもKO負けも一度も無いディアスに対して9ラウンドに2度のダウンを奪って逆転KO勝ちを収め、WBA世界ライト級スーパー王座とWBO世界ライト級王座を獲得し、3階級制覇を達成した。この試合は2009年のリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

2009年5月2日、ラスベガスMGMグランドで行われた記者会見で、7月18日に現役復帰するフロイド・メイウェザー・ジュニアとの144ポンド契約ノンタイトル戦が発表された。その後、メイウェザーがトレーニング中に負傷したことにより、試合は2009年9月19日に同じ場所での開催へと延期されて行われた。計量時にメイウェザーが契約体重を2ポンドオーバーしたものの、144ポンドという契約が両者間のプライベート契約だったため、メイウェザーが1ポンドにつき30万ドル(計60万ドル)の違約金を払うだけで失格にはならず、ウェルター級契約ノンタイトルマッチとして試合は成立した。試合ではスーパーライト級以上の階級への挑戦はこの試合が初であるマルケスの動きが鈍く、さらに階級が上のメイウェザーに予想以上のスピード差を見せつけられ、2ラウンドに左フック一発でダウンを喫するなど、0-3の大差判定負けを喫した。

2010年7月31日、ファン・ディアスと再戦し、3-0の判定勝ちでWBA世界ライト級スーパー王座とWBO世界ライト級王座の初防衛に成功した。

2010年11月27日、WBO世界ライト級暫定王者マイケル・カティディスと対戦し、ダウンを奪われるものの、9回TKO勝ちでWBA世界ライト級スーパー王座とWBO世界ライト級王座の2度目の防衛に成功した。

2011年7月16日、メキシコカンクンにて、元WBA世界スーパーフェザー級暫定王者のリカル・ラモスコロンビア)とノンタイトルマッチを行い、初回TKO勝ち。

2011年11月12日、ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナにて、WBO世界ウエルター級王者マニー・パッキャオと144ポンド契約のキャッチウェイトで通算3度目の対戦。マルケスが巧みなカウンターを駆使してパッキャオを追い詰め、5回と9回には激しく打ち合うなど接戦の末に全12ラウンドが終了。試合終了直後、勝利を確信して右手を突き上げたマルケスに対して、パッキャオはガックリとうなだれるなど対照的な表情であったが、結果は0-2の僅差判定負け。

2012年1月4日、WBAからWBA世界ライト級スーパー王座を剥奪され、その2日後の1月6日にWBO世界ライト級王座も返上。

2012年4月14日、メキシコシティのニューメキシコシティ・アリーナで、"教授"の異名をとるセルゲイ・フェドチェンコ(ウクライナ)とWBO世界スーパーライト級暫定王座決定戦で対戦し、3-0(119-109、118-110、118-110)の判定勝ちを収めメキシコ人としてホルヘ・アルセエリック・モラレスに続いての4階級制覇を達成した。なお、この興行での対戦相手との交渉では、プロモーターがオーソドックススタイルの有力選手との対戦をマルケスにオファーするも、パッキャオとの再戦に闘志を燃やすマルケスは「パッキャオと同じサウスポーの選手が相手でなければ駄目だ」と、頑なにパッキャオ戦を見据えた試合にこだわったため、交渉が難航した。

2012年6月、ティモシー・ブラッドリーWBO世界ウェルター級王座の獲得に伴いWBO世界スーパーライト級王座を返上した為、空位となった正規王座に認定され、スーパー王座にも認定された。

2012年12月8日、MGMグランド・ガーデン・アリーナにて、前WBO世界ウェルター級王者マニー・パッキャオとウェルター級契約で通算4度目の対戦。なお、パッキャオが前戦のブラッドリー戦で不可解な判定(詳細はマニー・パッキャオの項を参照)によってWBO世界ウェルター級王座を奪われたせいで、ウェルター級契約で行われるこの試合がノンタイトル戦になってしまったことを考慮して、WBOはこの試合の勝者に「Champion of the Decade(過去10年間で最高の世界王者)」と認定するチャンピオンベルトを授与することを発表した。試合は3回に右のロングフックでダウンを奪い、5回に逆にパッキャオにダウンを奪われるが、6回終了間際、パッキャオが左ストレートを打つべく踏み込んだところを強烈な右カウンターで迎え撃ち、ダウンを奪い6回2分59秒KO勝利を収めた。

衝撃のKO負け…近づく「パッキャオ時代」の終焉[編集]

誰もが息をのむドラマチックな結末だった。ラスベガスで2012年12月8日に行われたボクシングのウエルター級ノンタイトル12回戦で、元世界6階級王者のマニー・パッキャオ(フィリピン)が世界4階級王者のファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)に6ラウンド2分59秒KO負け。これが4度目の対戦となった宿敵に、33歳となったパッキャオは痛恨の敗北を味わうことになった。2000年代最高のボクサーといわれたフィリピンの英雄は、これからどこに向かうのだろうか。

約23億円のファイトマネーが飛び交った一戦[編集]

ノンタイトル戦ながら、2人合わせて2800万ドル(約23億円)のファイトマネーが飛び交ったビッグファイト。ラスベガスのMGMグランドガーデンを埋め尽くした1万6000人余りの大観衆を熱狂させる壮絶な一戦だった。

滑り出しはパッキャオが好調に思えた。軽快なフットワークでマルケスを追い、ジャブを見舞う。だが、第3ラウンドにマルケスの強引とも思えるような右フックを浴びてダウンを喫した。

パッキャオにとってこれは、スーパーバンタム級時代の2003年3月にエリクザーン・イシュマンベトフ(カザフスタン)に奪われて以来のダウンだった。

5回にダウンを奪い返したが…[編集]

それでもパッキャオは第5ラウンドにすかさず反撃。鮮やかな左ストレートでダウンを奪い返した。5回までのジャッジの採点は、3者そろって47―46でパッキャオがリード。パッキャオがペースをつかんだかのように見えた。

だが、第6ラウンドに落とし穴が待っていた。

「マニー(パッキャオ)は最初のノックダウンの後は盛り返し、KO劇の直前までマルケスにダメージを与えていた。しかし、最後の最後に不注意になってしまった」

パッキャオと名コンビを組むトレーナーのフレディ・ローチ氏がそう振り返ったように、第3ラウンドにダウンを喫したショックと焦りから、パッキャオがやや軽率になっていたのは確かだろう。

マルケスのショートカウンターが炸裂[編集]

第6ラウンドの終了間際に軽いステップでマルケスとの距離を詰めていった瞬間、マルケスの狙い澄ました右ショートがカウンターとなって炸裂した。

フィリピンの英雄パッキャオは前のめりに倒れて失神し、アリーナは悲鳴とマルケスファンの大歓声に包まれた。

「パッキャオがアグレッシブに出て来るのは分かっていた。だから技術を生かしたファイトプランを考え、それを遂行することができた。これは私だけの勝利ではない。メキシコのすべての人々のための勝利だ」。試合後、完勝に興奮気味のマルケスはそうコメントした。

パッキャオとマルケス――。今のボクシング界で、これほど因縁の対決と呼ばれるものはそうないだろう。これまで2004年フェザー級)、2008年ジュニアライト級=現スーパーフェザー級)、2011年ウエルター級)と3度対戦。結果はすべて判定でパッキャオの2勝1分けだが、「3試合ともマルケスが勝っていたのではないか」と語る人もいるほど大接戦ばかりだった。

39歳となったマルケスは“4度目の正直”でライバルに強烈な一矢を報いたことになる。

「予想していないパンチだった」[編集]

「最後の一撃は見えなかった。決着までの数ラウンドは相手をとらえられたと思ったところで、強いパンチを受けてしまった。予想していないパンチだった」。敗れたパッキャオはそう言って唇をかんだ。

もっとも、今回のパッキャオの敗北はまったく予想できなかったことではなかったのも事実である。

過去にフライ級、スーパーバンタム級、スーパーフェザー級、ライト級、ウエルター級、スーパーウエルター級で世界王座を獲得したパッキャオは、史上2人目の6階級制覇を達成。さらにフェザー級、スーパーライト級でも階級最強と目された選手を倒していて、「事実上の8階級制覇」という人もいる。

その過程で多くの強豪と好試合を繰り広げ、母国フィリピンのみならず、世界の歴史に残る名ボクサーとたたえられてきた

しかしそんな怪物ボクサーも徐々に衰えを見せ始め、10年以降はKO勝ちは一度もなし。2012年6月には“疑惑の判定”とはいわれているもののティム・ブラッドリー(米国)に屈して7年ぶりの敗北を喫し、WBO世界ウエルター級王座を失っていた。

賭け率はパッキャオ有利だったが…[編集]

そんなタイミングで迎えた今回のマルケスとの対決。メキシコ出身の難敵とはパッキャオが全盛期にいるころから相性の悪さが指摘され、なおかつマルケスはこの決戦に向けて強靱な身体を作ってきた。

1年前と比べてはるかに大きくなったマルケスの上半身、両腕を見て、地元メディアの間では禁止薬物の使用疑惑がまことしやかに噂されたほど。そういった両者の近況もあって賭け率こそパッキャオが優位だったものの、「マルケスがやや有利なのではないか」と語る関係者も多かった。

ただそれでも、これほどまで激しい打撃戦の末に衝撃の結末が待ち受けていると事前に予想していた人はほとんどいなかったはずだ。

メイウェザー戦の可能性はほぼ消滅[編集]

完敗といわざるをえないKO負けで試合後には、当然のことながらパッキャオの今後についての推測が飛び交い始めている。少なくとも現時点でまだパッキャオが戦っていなかった“最大のライバル”と目されてきたフロイド・メイウェザー(米国)との対戦の可能性はほぼ消えうせた。

これまで43戦無敗(26KO)のまま5階級制覇を達成したメイウェザーとパッキャオの決戦が実現すれば、過去のあらゆるボクシング記録を破る史上最大の興行になったはずだ。

しかし、パッキャオがこれほど痛烈な敗北を喫した後では、超ビッグイベントの主役を務めることはもう現実的ではないだろう

それでもパッキャオは試合直後に「もしもチャンスがあるなら(マルケスと)もう一度戦ってみたい。しばらく休んで、また戦うよ」と語り、現役続行、そしてマルケスとの第5戦に意欲を見せている。

マルケスとの「第5戦」に意欲を見せるが…[編集]

プロモーターのボブ・アラム氏も、「第5戦? 良いじゃないか? ここ数年でこれほどエキサイティングな試合が他にあったか?」と述べ、自身の契約下にある2選手の再度の対戦に色気を隠していない。

実際にパッキャオ絡みで手っ取り早く成立させられる大興行があるとすれば、マルケスとの“因縁シリーズ”の最新作となるのだろう。

しかし、パッキャオは1995年に16歳でデビューして以来、ライトフライ級からスーパーウエルター級まで、61戦(54勝=38KO=5敗2分)に及ぶ長いボクシングキャリアを積み重ねてきた。

リング上で多くの栄光を手に入れ、母国では絶対的な人気を誇る国民的英雄となり、2010年にはフィリピンの下院選で当選している。それほど濃密な人生を過ごしてきた男が、33歳にしてこれまでで最も手痛いKO負けを味わった。

モチベーションが残っているか[編集]

この衝撃から立ち上がり、もう一度リングで頂点を目指すモチベーションが残っているかどうか。夫人をはじめとする家族は、フィジカル面で明らかに下り坂のパッキャオが再びリングに立つことを許すかどうか。

いずれにしても、現代のボクシング界をけん引してきた「パッキャオ時代」が終焉に近づいていることは間違いないだろう。

これから先、フィナーレに向けてどんな道を歩んでいくのか。パッキャオの現役ボクサーとしての残り時間はそれほど多くはないと思われるだけに、その行方にこれまで以上の注目が注がれることになりそうである

戦績[編集]

  • アマチュアボクシング:36戦35勝1敗
  • プロボクシング:62戦55勝(40KO)6敗1分
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1993年5月29日 1R 反則 ハビエル・デュラン プロデビュー戦 {{{8}}}
2 1993年6月26日 3R KO ハビエル・キロス メキシコ
3 1993年9月18日 2R KO イスラエル・フローレス
4 1993年10月1日 5R KO イザック・コルテス
5 1994年5月7日 6R 判定 ロマン・ポブラノ
6 1994年8月27日 2R KO グレゴリオ・シルバ
7 1994年10月1日 4R 判定 イスラエル・フローレス
8 1994年11月12日 2R KO ホセ・ルイス・モンテス
9 1994年12月3日 4R KO イスラエル・ゴンザレス
10 1995年1月30日 1R KO マーティン・オチョア
11 1995年4月24日 10R 判定 フリオ・セサール・ サンチェス・レオン
12 1995年7月10日 6R KO フリオ・セサール・ポルティロ
13 1995年9月25日 1R KO ミゲール・ロドリゲス
14 1995年11月6日 10R TKO ジュリアン・ウィーラー
15 1996年3月4日 4R KO ヘクター・ウリセス・チョン
16 1996年4月29日 8R KO フリオ・ヘルバシオ
17 1996年7月8日 10R 判定 フレディ・クルス
18 1996年10月19日 10R 判定 ダリル・ピンクニー
19 1996年12月9日 8R KO ロドリゴ・バレンズエラ
20 1997年2月3日 10R TKO セドリック・ミンゴ NABO北米フェザー級王座決定戦 {{{8}}}
21 1997年4月21日 12R 判定 アガピト・サンチェス NABO北米フェザー級王座防衛1 {{{8}}}
22 1997年7月14日 7R TKO カタリーノ・ベセラ NABO北米フェザー級王座防衛2 {{{8}}}
23 1997年9月27日 12R KO ビンス・ハワード NABO北米フェザー級王座防衛3 {{{8}}}
24 1997年11月22日 12R 判定 アルフレド・コティ NABO北米フェザー級王座防衛4 {{{8}}}
25 1998年3月16日 9R TKO ルイス・サムディオ
26 1998年6月20日 4R TKO ファン・ヘラルド・カブレラ NABO北米フェザー級王座防衛5 {{{8}}}
27 1998年8月22日 8R TKO エンリケ・フピテル NABO北米フェザー級王座防衛6 {{{8}}}
28 1998年10月24日 3R KO フランシスコ・アレオラ NABO北米フェザー級王座防衛7 {{{8}}}
29 1999年2月20日 1R KO ホセ・ヘスス・ガルシア・アギーレ
30 1999年5月10日 2R KO ウィルフレッド・バルガス
31 1999年9月11日 12R 判定 フレディ・ノーウッド WBA世界フェザー級タイトルマッチ {{{8}}}
32 1999年11月20日 8R TKO レミヒオ・モリナ
33 2000年5月20日 12R 判定 ロケ・カシアニ NABO北米フェザー級王座決定戦 {{{8}}}
34 2000年8月27日 7R TKO ダニエル・ヒメネス
35 2000年10月22日 3R TKO レイナンテ・ハミリ
36 2001年2月11日 7R TKO ショーン・フレッシャー
37 2001年4月1日 2R TKO ベビー・ロロナ
38 2001年8月19日 7R TKO フリオ・ガンボア
39 2001年10月19日 1R TKO ジョニー・ウォーカー
40 2002年3月9日 10R TKO ロビー・ピーデン NABF北米フェザー級タイトルマッチ/USBA全米フェザー級王座決定戦 {{{8}}}
41 2002年6月21日 10R TKO ヘクター・マルケス
42 2003年2月1日 7R TKO マヌエル・メディナ IBF世界フェザー級王座決定戦 {{{8}}}
43 2003年8月16日 9R TKO マルコス・リコナ
44 2003年11月1日 7R 負傷判定 デリック・ゲイナー WBA・IBF世界フェザー級王座統一戦/IBF防衛1 {{{8}}}
45 2004年5月8日 12R 引分 マニー・パッキャオ WBA防衛1・IBF防衛2 {{{8}}}
46 2004年9月18日 12R 判定 オルランド・サリド WBA防衛2・IBF防衛3 {{{8}}}
47 2005年5月7日 12R 判定 ビクトル・ポロ WBA防衛3・IBF防衛4 {{{8}}}
48 2006年3月4日 12R 判定 クリス・ジョン WBA世界フェザー級タイトルマッチ {{{8}}}
49 2006年8月5日 7R TKO ターサク・ゴーキャットジム WBO世界フェザー級暫定王座決定戦 {{{8}}}
50 2006年11月25日 9R TKO ジムレックス・ハカ 暫定王座防衛1→正規王座昇格 {{{8}}}
51 2007年3月17日 12R 判定 マルコ・アントニオ・バレラ WBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチ {{{8}}}
52 2007年11月3日 12R 判定 ロッキー・ファレス WBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチ防衛1 {{{8}}}
53 2008年3月15日 12R 判定 マニー・パッキャオ WBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチ {{{8}}}
54 2008年9月13日 11R TKO ホエル・カサマヨール リングマガジン認定・世界ライト級タイトルマッチ {{{8}}}
55 2009年2月28日 9R KO ファン・ディアス WBA・WBO世界ライト級王座決定戦 {{{8}}}
56 2009年9月19日 12R 判定 フロイド・メイウェザー・ジュニア
57 2010年7月31日 12R 判定 ファン・ディアス WBA防衛1・WBO防衛1 {{{8}}}
58 2010年11月27日 9R TKO マイケル・カティディス WBA防衛2・WBO防衛2 {{{8}}}
59 2011年7月16日 1R TKO リカル・ラモス
60 2011年11月12日 12R 判定 マニー・パッキャオ WBO世界ウェルター級タイトルマッチ {{{8}}}
61 2012年4月14日 12R 判定 セルゲイ・フェドチェンコ WBO世界スーパーライト級暫定王座決定戦→正規王座昇格 {{{8}}}
62 2012年12月8日 6R KO マニー・パッキャオ

数々の不運と不遇・エピソード[編集]

攻防兼備のスタイルでありながら真正面からの壮絶な打ち合いをした上でのKO勝利を連発するなど、数々の名勝負を繰り広げ、ボクシングの歴史に残る名ボクサーとして人気・実力を兼ね備えたスター選手でありながら、プロデビュー前から続く多くの不運や不遇な扱いを受けていることでも知られている。

前述の通り、プロデビュー直前にオレンジを取ろうと木に登った際に落下して背骨に重傷を負ってプロデビューは2年遅れたのを筆頭に、プロデビュー戦では初回に3度のダウンを奪うが、2回開始時に反則負け。この時の対戦相手がコミッション・ドクターのお抱え選手であったため、露骨な贔屓判定によって黒星を付けられてしまった。トレーナー兼マネージャーのイグナシオ・ベリスタインは「事前にそのことを調査していなかった我々のミスだ」と後に反省している。

この1件によってメキシコ国内では目をつけられてしまい、プロ2戦目で8回戦経験者、4戦目で14戦全勝全KOが相手という過酷な試合を戦うはめになったが、それぞれ対戦相手の顎を割って逆に引退させるなど逆境をモノともしない強さを発揮。世界王座初挑戦を実現させるべく、アメリカ・フォーラム社とプロモート契約を結ぶが、世界ランク1位となった頃に同社が閉幕するという憂き目に遭った。こういった経緯もあり、マルケスがWBO世界フェザー級1位として22ヶ月連続でWBO世界フェザー級王者ナジーム・ハメドの指名挑戦者として君臨していたが、WBOはハメドがマルケス以外の相手と戦うことを許可し続けたため、挑戦することができなかった。

ようやく実現した世界王座初挑戦においても、WBA世界フェザー級王者フレディー・ノーウッドから実質2度のダウンを奪ったにも関わらず、レフェリーはダウンをとらないという不運に遭い、王座獲得ならず。

2000年2002年の間はKO勝ちを連発して破竹の快進撃を続けて主要4団体のうち3団体で世界ランク1位の指名挑戦者になるなどフェザー級最強の呼び声も高い実績を作ったが、長い間世界王座に挑戦できなかった。そのためマルケスは「The best fighter without a world title無冠の帝王)」と呼ばれるようになった。

さらに、王者となって以降の2004年5月8日、マニー・パッキャオと対戦し、1ラウンドに3度のダウンを奪われるが、その後の猛反撃して壮絶な激闘の末に三者三様の引き分けでの防衛に成功。なお、1ラウンド目に3度目のダウンを奪われた際にパッキャオが追撃を浴びせる反則行為を行った。この反則について、両陣営が共にテレビ出演した際にパッキャオは「マルケスの右手はロープを掴んでいたので、サウスポー構えの私の角度からはマルケスの左手がキャンバスに着いているのが見えなかったため、まだダウンしていないと思って追撃してしまった。それに戦っている最中なので本能的に追撃してしまった面もある」と語った。なお、マルケスは「たしかに反則だが、あれは卑怯だとは思わない。一連の流れの中でパッキャオのパッションが爆発してしまったので仕方ない」と言って非難せずに潔く認めている。この反則打を受けたマルケスが立ち上がってファイティング・ポーズを取って試合続行の意思表示をした後、レフェリーがマルケスに「反則のダメージが回復するまで休んでいい」と指示したが、中島利光を除くマルケスのセコンド陣とマルケス本人が英語の指示を理解できず、ダメージが回復しないうちに即続行となってしまう不運にも起きた。

この試合は名勝負であったが故に当然、再戦が期待された。しかし、再戦のための交渉で挑戦者パッキャオには100万ドル以上のファイトマネーが提示されたのに対して、王者マルケスには75万ドルのファイトマネーが提示された。マルケスのトレーナー兼マネージャーを務めるイグナシオ・ベリスタインが「安すぎる!苦労して手に入れた世界王座を安売りできない!あくまでこちらが王者なのだから敬意を払うべきだ!」とオファーを拒否。

その後、パッキャオはエリック・モラレスとの対戦での100万ドルを獲得、モラレスとの再戦では200万ドル以上と巨額のファイトマネーを稼いだのに対して、その後行われたマルケスの2度の防衛戦でのファイトマネーは2試合合わせてもパッキャオとの再戦の提示額の半分にも満たなかった。

さらにマルケス兄弟は有力プロモータートップランクの傘下に加わったにもかかわらず、パッキャオとの再戦を拒否した制裁を受けるかのように、ビッグマッチの実現に非協力な姿勢を取られたり、マルケス兄弟の防衛戦の大々的な宣伝を拒否されるなど不遇な扱いを受け続けた。

さらにIBFの指名戦を成立させるプロモーターが現れなかったため、プロモーターであるはずのトップランクに見殺しにされた形でIBF王座を剥奪され、同時にWBAスーパー王座のタイトルも剥奪される憂き目に遭った。

なおも不運は続き、世界タイトル奪回を目指したクリス・ジョンとのWBA世界フェザー級王座戦は、プロモート権利が入札によって決められることになったが、この入札にトップランクは参加しようともしなかった。そのため、本来なら75万ドル以上を稼いでいるはずのスーパースターのマルケスが、インドネシアのボルネオ島のジャングルでわずか3万ドルのファイトマネーで戦わされることになった。しかも、この試合ではマルケスの普通のボディブローをレフェリーローブローと判定するなど地元のジョンを露骨に贔屓し、結果、地元判定と言うべき不可解な判定によってマルケスは敗れてしまった。

また、2008年に実現したパッキャオとの再戦では1戦目を上回る僅差の名勝負となり、1-2の判定負けで王座から陥落。パッキャオを支持した二人のジャッジのうちの一人の採点は113-114とわずか1ポイント差だった。マルケスは試合直後から即座にパッキャオとのラバーマッチを要求し、マルケスのプロモーターであるゴールデン・ボーイ・プロモーションズのCEOリチャード・シェファーがパッキャオに600万ドルのファイトマネーを保証して交渉したがパッキャオに拒否されるなど、ここでも不運に泣かされている。

ジョン戦後は、世界タイトルを奪回し、3階級制覇も達成するなど、人気・実力ともに上昇の一途をたどるマルケスだが、マルケスと引き分けたパッキャオ、マルケスに敗北したマルコ・アントニオ・バレラらが数億円という巨額のファイトマネーを稼いでいるのに対して、マルケスのファイトマネーはあいかわらず5千万円前後に留まっていた。

2009年9月19日に現役復帰するフロイド・メイウェザー・ジュニアと144ポンド契約で対戦することとなるが、144ポンドという契約は両者間のプライベート契約であるため、メイウェザーは144ポンドを超過してもウェルター級以下までの体重であれば1ポンドにつき30万ドルの違約金を払うだけで失格にはならずに試合は成立した。そのため、144ポンドに減量したメイウェザーを想定して練習してきたマルケスに対し、「違約金を支払っても減量せずに万全の体調を整えることを優先してメイウェザーは最初から減量の努力をしようとしなかったので、同階級の試合として成立していない」という批判の声がある。また、マルケスはスーパーライト級以上の階級への挑戦はこの試合が初であったため動きが鈍く、減量疲れの無いメイウェザーに圧倒される場面もあった。

これらの事実があるため、マルケスのマネージャーのイグナシオ・ベリスタインは「トレーナーとしては超優秀、でもマネージャーとしては無能」と多くのメディアから言われており、「他の多くのボクサーたちがマルケス兄弟よりも金を稼いでいる。実力が彼らの半分にも満たないというのに」と暗にベリスタインを批判する記事も見られる(事実、2008年にオスカー・デ・ラ・ホーヤがベリスタインとトレーナー契約を結んだ際には「マネージメントに関しては一切口出しをしない事」を契約条項に入れたほどである)。

しかし、こうした逆風にさらされてもマルケス兄弟は「ベリスタインは私達のファミリーの一人だ」と言ってはばからず、ベリスタインとの契約も続けており、彼らの絆の深さと人柄の良さが現れている。(ただし、ラファエルはイスラエル・バスケスとの第3戦を最後にベリスタインと袂を分かっている)

2011年11月のマニー・パッキャオとの3度目の対戦では、上述のように結果は0-2の僅差判定負けであったものの、またしても「マルケスが勝っていた」との声も非常に多い。マルケスは「パッキャオとの3度の対戦は私の全勝だと思うが、なかでも第3戦は完璧に私の勝ちだ。自分のパフォーマンスには満足しているが、ジャッジの考えを変えるためにこれ以上どうすれば良いのかわからない。たとえパッキャオをダウンさせたって、彼らは立たせてまた戦わせるんじゃないだろうか」と判定への不満を露わにし、パッキャオとの第4戦はマルケスの母国メキシコでの開催を希望していたが、結局第4戦もラスベガスで行われることとなった。

なお、マルケスは自身のこれまでのプロ戦績について、「私は公式記録上では6敗1分があるが、私が本当に負けたと認めるのはメイウェザー戦の1敗のみで、他は全て不当な判定によって私の勝利が盗まれた」と語っている。

兄弟の試合を見ることに関して、弟のラファエルは「兄の試合はエキサイティングだから見ていて楽しいし、いつでも勝ってほしいと願っている」と答えているのに対して、兄ファン・マヌエルは「大事な弟の身体が打たれていて怪我だってするかもしれないと考えたら、怖くて心臓に悪いから出来るだけ見たくない」と答えている(兄に比べ、弟ラファエルは無理な体勢からでも打ちに行く攻撃的なスタイルのため、逆に打たれるということも多い)。

獲得タイトル[編集]

<メジャー団体世界王座>

<地域王座>

<マイナー団体世界王座>

<備考>

  • WBOChampion of the Decade王座

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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前王者
マルコ・アントニオ・バレラ
第27代WBC世界スーパーフェザー級王者

2007年3月17日 - 2008年3月15日

次王者
マニー・パッキャオ

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