SF
SF(エスエフ)、サイエンス・フィクション(Science Fiction)は、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称。またSF漫画、SFアニメ、SF映画などを総称する名前でもある。特に小説を指す場合にはSF小説とも呼ばれる。
英語では通常 Sci-Fiと表記してサイファイと言う(SFと表記してもサイファイと読む)。以前の日本には、「科学小説」、「空想科学小説」、「幻想科学小説」という言い方もあったが、現在では一般的でない。中国語表記では「科学幻想小説」または「科幻」である。
目次
SFという名称に関して[編集]
「サイエンス・フィクション」という名前を生み出したのは、世界初のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ』の初代編集長ヒューゴー・ガーンズバックである。ただし、正確には「サイエンス・フィクション」ではなく、「サイエンティフィクション」〔Scientifiction, Scientific+Fiction〕と呼んだ。
SFにおけるニュー・ウェーブ運動の参加者は、「SFは科学小説ばかりではない」という見解から「SFはサイエンス・フィクションの略ではなく、スペキュレーティブ・フィクション(思索的小説)の略だ」と主張した。
またSFにファンタジー的要素を取り込んだ時期があったので、広義ではファンタジーもSFに分類されることがあるが狭義では通常含まない。拡大解釈では、「サイエンス・ファンタジー」「スペース・ファンタジー」というような取り方もしばしば見られる。
『ドラえもん』などの作者藤子・F・不二雄は、自身がSF漫画家と呼ばれることに触れ、科学について全くの無知であるからと「すこしふしぎ(Sukoshi Fushigi) な」の略としてのSF漫画家であると述べた。
SFの歴史[編集]
創世以前のSF[編集]
最初のSF作家として普通認知されているのは、ジュール・ヴェルヌもしくはH・G・ウェルズである。しかしそれ以前にもSF的な文学は存在した。おそらく最古のSF的小説は、古代ギリシアの作家ルキアノスの書いた『イカロ・メニッパス』であろう。この小説では、主人公のメニッパスが両手に翼をつけてオリュンポス山の上からイカロスのように(イカロ)飛び立って月の世界に行き、そこで月の哲学者と会う。そしてかれに、目を千里眼にしてもらって地上を見て、世界の小ささを実感する。日本の竹取物語(平安時代)では月から人が来るし、浦島太郎(室町時代)では時間の流れの歪みが描かれている。14世紀にダンテ・アリギエーリによって書かれた『神曲』も、当時の科学的知見が盛り込まれ、天国篇では、主人公ダンテが天動説宇宙に基づいて構想された天界を遍歴し、恒星天の上にまで昇っていく。
17世紀には天文学者ヨハネス・ケプラーが天動説が主流であった当時、地動説の考えに基づいて書いた小説『夢』がある。この小説は、天文学者ティコ・ブラーエからアイスランド人ドゥラコトゥスが地球(ヴォルヴァ)と月(レヴァニア)を自由に往復する精霊に連れられて月世界へと旅行する物語である。
さらに、1816年に当時19才のメアリー・シェリーが書いた『フランケンシュタイン-あるいは現代のプロメテウス』がある。科学者ヴィクター・フランケンシュタインが死体を集めて人造人間を作ることに成功する。こうした人造人間は、こころを持ち、フランケンシュタインに対して、自分の伴侶となり得る異性を一人造るように要求する。しかし人造人間は、自己の存在に悩み人間への絶望から、殺人を重ね最後は北極の海へと消えて行く。
この小説は、メアリー・シェリーが夫(パーシー・シェリー)とともにバイロン卿の別荘に行った時に書かれたものである。ある日バイロン卿は3人が怪奇小説を書いて互いに見せ合うことを提案した。パーシーとバイロンは途中で小説を投げ出してしまった(バイロンがこの時書いた構想を借りて、ポリドリが『ヴァンパイア』を書いた)が、メアリーはこれを仕上げた。ここで注目したいのは、本作がSF的テーマを扱いながら「怪奇小説」として書かれたことである。メアリーの先駆的な業績は、科学小説を書こうというモチベーションによって書かれたわけではない。しかし現代では、多くの作家や評論家たちが、メアリー・シェリーが「SF」の先駆者あるいは、創始者であると捉えている。
19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーも、余り知られていないがSFの開祖の一人である。彼の作品は人間心理の異常性に踏み込んだ怪奇・恐怖小説が多いが、『鋸山奇譚』・『大渦に呑まれて』・『ハンス・プファールの無類の冒険』など、科学知識を応用した作品も見られる。特に『ハンス・プファールの無類の冒険』は、気球による月世界旅行を描いたもので、当時の最新の科学知識を用いた、まさに正統派のSFであった。後述のヴェルヌやウェルズもポーの影響を受けており、現代SFの発展に功績があったと断定してよいであろう。
創世期のSF[編集]
ジュール・ヴェルヌ[編集]
ジュール・ヴェルヌは若い頃は大デュマに師事してロマン劇を書いていたが、愛読書のエドガー・アラン・ポーの小説にある科学技術を織りまぜて現実性をより高めるという手法に注目し、1863年に冒険小説『気球に乗って五週間』を発表して好評を博した。この作品は純粋なSFではないが、ヴェルヌの作風に多大な影響を与えた。本格的な科学小説としては1865年に書かれた『月世界旅行』(邦題では『月世界探検』とも)が最初といえる。月世界旅行では砲弾に乗って月へ行くという科学的な宇宙旅行が初めて描かれておりSFの嚆矢としての意義は大きい。その後も『海底二万リーグ』や『インド王妃の遺産』など多くの科学小説が書かれた。ヴェルヌの作風は正しい科学知識を活用したものがほとんどでかなり現実味があり、その点では現在のSFとかなり異なる。科学を賞賛した一方で人間が科学に支配されることについて『国旗に向かって』(別題:『悪魔の発明』)や『二十世紀のパリ』などの作品で強い警鐘を鳴らした。
ハーバート・ジョージ・ウェルズ[編集]
それに遅れる事30年、イギリスでH・G・ウェルズが『タイム・マシン』を書いた。
『タイム・マシン』は、主人公のタイムトラベラー(名前は明かされない)が時間を移動する機械を発明し、西暦80万2701年の世界へ行く物語。人類が二種に分岐した未来の世界では、美しい体つきをしたエロイという人類が、理想郷的な世界で無為に暮らしている。地下にはモーロックというもう一種の不気味な人類がいて、エロイ達を喰って生きている。タイムマシンをモーロック達に持ち去られた主人公は、恋人となったエロイのひとりとともにタイムマシンを探し出し、地下世界から奪い返す。そしてさらに未来へと旅立ち、人類の終焉、生物と地球の終焉を見た後に現代に帰還する。
注目したいのは、ヴェルヌが冒険小説的な科学小説を書いたのに対し、ウェルズはファンタジーをベースにしたSF小説を書いている点である。ヴェルヌは、『海底二万リーグ』などで(当時の)現代世界を描き、ともすれば単なる科学礼賛になりがちであったのに対し、ウェルズは未来世界を描き、ファンタジーの要素を取り入れる事で「現実から外挿される世界を書きながらも現実という束縛を離れる」という現代SFの特徴を最初に取り入れている。しかもユートピアにおけるファンタジーを描きながらも、アンチ・ユートピア的な側面をも描き、文明批判を描いて思想小説的な要素をも取り入れるという離れ業に成功している。ウェルズは、優生学の信奉者だったが、『タイム・マシン』でエロイが有閑階級の、モーロックが労働者階級の成れの果てであるのは、この思想と無関係ではないだろう。また、この小説が、生物の終焉を扱っている事も見逃してはならない。世界、地球、人類等の終焉は、後にウェルズ自身の『最終戦争の夢』、ネビル・シュートの『渚にて』、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』等数多くの小説で描かれるテーマであるが、SFの最初期に書かれたこの小説が、すでに生物の終焉を扱っている事は注目に値する。
ウェルズのもう一つの業績は、SF的ギミック(ガジェット)を数多く「発明」した事にある。たとえばウェルズ以前に書かれた時間小説として知られる、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』では、「妖精の力」で時を越えるのに過ぎなかったが、ウェルズは「タイムマシン」という時を超える道具を主人公に「発明」させる事で時間を越えている。ウェルズの「発明」はタイムマシン以外にも、蛸型火星人、透明人間、冷凍睡眠装置、最終戦争等、SFの基本的なギミックのほとんどは、かれが考え出したものである。このためウェルズを評して時に「SF作家はウェルズを読まないほうがいい。自分のやろうとしてる事をすでにウェルズがやっている事を知って愕然とするから」といわれる事がある。
ロボットの「発明」とアンドロイド[編集]
「ロボット」という言葉は1921年にチェコ・スロバキアの作家カレル・チャペックが書いた戯曲『R.U.R ロッサムの万能ロボット会社』(「R.U.R」はチェコ語なので「エル・ウー・エル」と読む)で初めて使われた(この戯曲に出てくるロボットは、機械人間ではなく人造人間に近い)。この戯曲では、ロボットは人間に代わる労働力として扱われている。
科学が発展の限りを尽くしたが、子供が何故か生まれなくなり人間が減少し、労働力としてロボットが大量に生産される世界が舞台となる。ある時一人の人道主義者の女性が、ロボット達のこの境遇に同情してロボットに心を持たせるよう、ロボット会社R.U.Rに掛け合う。彼女の申し出は、ロボット会社の技術者達が彼女に惚れていたため、即刻叶う事になる。心を持ったロボットらは、自分たちの境遇に憤怒し、反乱を起こして人類を滅ぼしてしまう。この小説は、ただ1人生き残った人類が、男女のロボットが互いに相手をかばい合うのを見て、ロボットたちに「愛」が目覚めたのを知ったところで終わる。解釈はいくつかあるが、非人間的になった人類と人間的なロボットとの対比を用いて、科学批判を行っているという解釈が主流である。
ロボットと並ぶ人造人間の名称、「アンドロイド」は、ヴィリエ・ド・リラダンの長編小説『未来のイヴ』(1886年)によってはじめて世に出された。この作品では、エワルド卿が、完璧な肢体と美貌を持ちながら内面はどうしようもない俗物であった美女アリシャ・クラリーに恋焦がれながら、その内面に失望して、友人のエジソン博士に相談を持ちかけた。エジソンはアリシャそっくりのアンドロイド、アダリーを作るが、アダリーもまたどうしようもない俗物であった。
両作品とも、急速な科学技術の発展や普及を危惧し、警告するという意図で書かれていると言われる。
コナン・ドイル[編集]
ウェルズやヴェルヌに影響を受けた作家として、コナン・ドイルがいる。彼は、シャーロック・ホームズシリーズなどの推理小説以外にも、チャレンジャー教授を主人公とした『失われた世界』や『毒ガス帯』などのサイエンス・フィクションも書いた。死去する前年の1929年に発表された海洋SF小説『マラコット深海』は科学的予見に満ちたドイルの傑作である。
黎明期のSF[編集]
科学小説としてのSF:ラルフ124C41+[編集]
ウェルズによって最初の完成を見たSF小説であったが、SFがアメリカに輸入されたところで、再び、未来予測的で科学礼賛的な科学小説の時代になる。このような傾向を持ったSFの頂点に立つのが、1911年にガーンズバックによって書かれた『ラルフ124C41+』だろう。この小説は、文章もプロットも今から見れば単純だが、未来予測という点では画期的であった。本作は近未来の生活を扱ったロマンス小説で、執筆当時にはまだ発明されていなかった未来の道具が100以上も描かれている。例えば、蛍光照明、飛行機による文字広告、テレビ、ラジオ、プラスチック、野球のナイター、立体映像機、ジュークボックス、液体肥料、自動販売機、睡眠学習、電波を利用した電力送信、ガラス繊維、ナイロンなどである。
ヒロイック・ファンタジーの流行[編集]
この頃のアメリカSFのもう一つの潮流としては、エドガー・ライス・バローズの火星シリーズを代表とするヒロイック・ファンタジーの流行がある。バローズは1912年、火星シリーズの第一作『火星の月の下で』(後の『火星のプリンセス』)を書く。
火星シリーズのストーリーは単純にして荒唐無稽である。最初の3冊のストーリーを簡単に説明する。主人公のジョン・カーターは、ある時肉体から魂が飛び出てしまい、魂だけが火星に飛ばされてしまう。火星は地球よりも科学力が何千年も進んでいるが、文化的には中世を想像させる。火星は地球よりも重力が小さいため、元々体力のあるカーターは、火星ではスーパーマンも同然である。火星の悪人どもを剣でなぎ倒し、ヘリウム大帝国の王女にして絶世の美女でもあるデジャーソリスを救い、彼女と結婚して「火星の大元帥」の地位に収まる。
御都合主義的で設定に矛盾が多く、B級の魅力がたっぷりなこの作品は、容易に量産できる為、近代商業主義にとてもマッチしていた。それ故「バロウズ風の」作品は一大ブームを巻き起こし、後のSFとファンタジーに絶大な影響を与える。バロウズが生きている頃には数百人の模倣者がいて、その模倣者の中でも有力な者にはさらに数百人の模倣者がいたという伝説(リチャード・ルポフ『バルスーム』)がある。
スペース・オペラ[編集]
バロウズの小説のファンタスティックな側面(中世、剣、傾国の美女)からはヒロイック・ファンタジーという剣と魔法で戦うロマンチックな冒険談が生まれ、SF的な側面(火星、人造人間、異星の不気味な怪物)からは、スペースオペラ(西部劇(ホースオペラ)のもじり)と呼ばれる宇宙活劇が産まれた。 当時の代表的なスペースオペラ作家には、エドモンド・ハミルトン、E・E・スミス、マレイ・ラインスター等がいる。宇宙戦争やロボットなど、現在でもしばしばSF小説やSF映画に登場する数々のモチーフのほとんどが、この頃までに現れている。
アンチ・ユートピアSF[編集]
だが、すでに1920~30年代からSF作家たちは、そのような架空の世界に楽天的な空想をはせるだけではなく、科学技術の急速な進歩とその悪用に対して倫理的な歯止めが必要であるとの認識も示していた。 死んだ人間の首から上だけを人工的に復活させるグロテスクな技術を描くアレクサンドル・ベリャーエフの『ドウエル教授の首』などがそうであり、さらに第二次世界大戦後には、科学技術による全体主義的管理社会を描いた「アンチ・ユートピア(ディストピア)」ものの代表作であるジョージ・オーウェルの『1984年』も書かれた。
1950年代のSF[編集]
1950年代はSFの全盛期なので、1950年代SFを「黄金時代」(ゴールデンエイジ)のSFと呼ぶ。
ハードSFの誕生[編集]
1950年代はSFの一大転換期である。それまで荒唐無稽なB級小説に過ぎなかったSFにリアリズムの概念が初めて導入された。 リアリスティックなSFの出現は、SF雑誌『アスタウンディング』(後の『アナログ』誌)の3代目編集長ジョン・W・キャンベルの影響が強い。 50年代以前のSFにありがちな荒唐無稽なSFが編集長である彼の元に送られてくると、キャンベルはそれらをこてんぱんに批判した。たとえば、宇宙人が地球人を食用の家畜として飼う話を「食用にするなら地球人を育てるより牛を育てたほうがずっと効率的だ」と批判したり、宇宙人が地球人女性を性の奴隷として連れ去る話を「ちょっと美の感覚が違えば、人間の女でなくとも豚でもよかったはずだ」と批判した。このため、「準光速で走っている宇宙船が突然直角に曲がる」ような小説は無くなった。
しかし「科学的」(に見える事)にこだわったキャンベルは、ダイアネティックスを始めとする疑似科学に次々とはまっていった。 ハリー・ハリスンの暴露本によれば、ダイアネティクスにはまったキャンベルは、彼のかかえる作家達に「ダイアネティクス的な」SF小説を書かせる事を強制したという。
一方、最新の物理学的、あるいは天文学的な知識に基づいた遠大かつ科学的な宇宙叙事詩も書かれた(映画『2001年宇宙の旅』の原型となった『前哨』など)。このように厳密な科学的知識に基づいたSFをハードSFと呼ぶ。アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフ、より新しい作家ではジェイムズ・P・ホーガン、堀晃などがこの傾向の作品を書いている。
心地よい破滅テーマ[編集]
1950年代以降、冷戦や核戦争による人類の滅亡が現実的な問題となってくると、そのような状況を反映した「終末もの」SFが書かれた。この時期の「終末もの」の代表作としてネビル・シュートの『渚にて』がある。この作品では、核戦争が起こって北半球が死の灰に覆われてしまっている。人類は南半球で、次第に南下してくる死の灰におびえながら生活している。
しかしこの時期に書かれた破滅もののSFが真にリアリスティックなものであったかどうかに関して疑問の声もある。この頃書かれたSF小説は、世界が破滅するという絶望的な状況でありながら、主人公はなぜか幸福な生活をして哲学者のように破滅を達観している。ブライアン・オールディスはこうした特徴を皮肉ってこれらの小説群を「心地よい破滅テーマ」と呼んだ(『十億年の宴』)。
1960年代のSF[編集]
SFの模索期であった1960年代には、1950年代ほどの人気が無かったので、黄金期(ゴールデンエイジ)のSFと呼ばれる1950年代SFと比べて1960年代SFをシルバーエイジのSFと呼ぶ事がある。
ニュー・ウェーブSF[編集]
1960年代には、イギリスを中心にニュー・ウェーブSFの流れが起きた。これは、対象を外宇宙から内宇宙へ、内省的・思弁的な方向に向けたもので、マイケル・ムアコックの主宰する『ニューワールズ』誌を中心に、J・G・バラード、ブライアン・オールディスなどが前衛的な作品を発表した。この流れはアメリカにも波及し、SFと他のジャンルとの中間的な作品や、SFの中で文学的実験を行おうとする作品も現れ、ニュー・ウェーブSFの登場を印象づけた。このムーブメントはフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』やハーラン・エリスン、ロバート・シルヴァーバーグなどに代表される。かれらに共通するのは、人間の社会や歴史、文明、文化に対する巨視的で批判的な視点であり、また、単なる科学の礼賛やその批判ではなく、SFを人間にかかわるあらゆる問題に対する文学的思索(スペキュレーション)の手段として利用していることである。寓話性や哲学性を持った文学的価値も高いSFが増えてきたのも、この頃からである。
その極北的な作品として、トマス・M・ディッシュの『リスの檻』がある。この作品ではSF的ギミックも疑似科学もいっさいでてこない。主人公(実はディッシュ自身)は、ドアも窓もない部屋に閉じ込められている。(理由は説明されない)。あるのはタイプライター一台だけ。毎日新聞が届けられるが、なぜか次の日には消えてしまう(これも理由は説明されない)。この小説はその一台だけあるタイプライターに、主人公が暇潰しに書いた文章というスタイルを取っている。その為「暇だからちょっと物語を書いてみよう」といって、話を書き始めたかと思うと、「やっぱり飽きたのでやめる」といって突然話を中断したりする。
ディッシュはこの物語で、現代人の孤独を浮き彫りにしようとしたのだと言われているが、それを読みとれた読者は多くなかったであろう。この物語は、文学性を意識し過ぎるあまり、難しくなり過ぎていた。既存のSFの枠を打ち壊して文学的であろうとしたニューウェーブはその目的ゆえついには娯楽の小説であるはずの大衆小説ですらなくなってしまい、最終的に読者を失って急速にしぼんでしまう。
ファンタジーとの融合[編集]
この時期はまたファンタジーとの融合が試みられた時期でもある。
(以下、作成中)
1970年代のSF[編集]
(以下、作成中)
1980年代のSF[編集]
サイバー・パンク[編集]
1980年代になるとウィリアム・ギブスンが『ニューロマンサー』を書き、サイバーパンクの時代になる。サイバーパンクではコンピュータネットワーク内のサイバースペースが主な舞台となる。既にデビューしていたブルース・スターリングがこの分野の旗を振るようになった。この分野の作家には『重力が衰えるとき』のジョージ・アレック・エフィンジャーやルーディ・ラッカーが挙げられる。サイバーパンクの雰囲気を日本語に訳すために黒丸尚はルビを多用した独自の訳文を使った。「サイバースペース」という用語は、1990年代に実社会においてインターネットが普及すると、それを表現するキーワードとして注目された。
その後、主体となる技術をコンピュータから蒸気機関に移し替えたスチームパンクと呼ばれる派生作品も書かれるようになる。そこでは19世紀の蒸気機関車時代あるいはそれに似た世界を舞台に、極端に発達した蒸気機関による文明が描かれた。
ポスト・サイバー・パンク[編集]
やがてサイバーパンクは収束していき、ポストサイバーパンクの時代となる。ポスト・サイバーパンクではニール・スティーヴンスンの『スノウ・クラッシュ』などが有名である。
日本SFの歴史[編集]
戦前[編集]
第二次世界大戦以前にも、押川春浪や海野十三などがSFとみなされる作品が書いてきた。また、1878年には日本初の翻訳SF小説となる新未来記(原著の作者はジオスコリデス)を近藤真琴が書いた。彼ら以外にも、江戸時代から昭和前期にかけて古典SF作家が存在し、多数の先駆的SF作品を発表してきた。こうした作品群は、横田順彌の『日本SFこてん古典』シリーズにまとめられおり、現在も日本古典SF研究会等で研究が続けられている。
戦後[編集]
現在の日本SFに連なる流れは、戦後、進駐軍の兵士の読んでいたペーパー・バックが古書店に並び、その影響の下に再開された。1954年に日本初のSF雑誌「星雲」が刊行されて創刊一号のみで頓挫した後、様々なSF叢書・シリーズが出されたがいずれもヒットにはいたらず、出版界では「SFと西部劇に手を出すとつぶれる」ジンクスが通念となった。1960年の前後に、SF同人誌「宇宙塵」の創刊、早川書房の発行する『SFマガジン』の創刊、第1回日本SF大会の開催が続き、本格的に日本SFが始まる。戦後初の長編が、今日泊亜蘭の『刈得ざる種』(1962年、『光の塔』と改題)である。
『SFマガジン』で募集された早川SFコンテストから、小松左京、筒井康隆、半村良、光瀬龍、平井和正、豊田有恒などが次々とデビュー。早川書房が発行する雑誌・書籍以外でも、眉村卓、星新一、今日泊亜蘭などがSF作品を発表した。これらの作家は、海外SFの影響を受けながらも、それぞれに特徴ある作風で日本独自のSFを展開していった。また平井和正、豊田有恒、柴野拓美などは、SF漫画の原作やSFアニメの脚本やSF考証などを手がけ、小説に留まらない活躍をした。
さらに、日本SFの特徴として、矢野徹、野田昌宏、浅倉久志、伊藤典夫などの優れた翻訳家の存在が挙げられる。彼らは優れた海外SFを紹介するだけでなく、どういうSFが面白いのかという点でSFファンのオピニオン・リーダーとしての役割を果たしていた。また、『SFマガジン』初代編集長の福島正実は、雑誌編集だけでなく、海外SFの翻訳や創作も手がけ、確固たる信念に基づいて日本SFの普及に努めた。そしてSFブームが始まる。
SFの浸透と拡散[編集]
1970年代には日本万国博覧会が大阪で開かれたこともあって、SFに対する世間の関心も一挙に高まった。更に、小松左京の『日本沈没』がベストセラーになり、それまでのSFアニメに比べて本格的な『宇宙戦艦ヤマト』がTV放映され、1970年代後半には、映画『スター・ウォーズ』の公開が日本SFにも強い影響を与え、SFの浸透と拡散が起る。これは日本SFの変質の始まりでもあった。
半村良の伝奇SFや平井和正の「ウルフガイ・シリーズ」は、菊地秀行や夢枕獏や高千穂遙の諸作品を経て、ライトノベルへと連なる流れの源流となった。SF雑誌も、『奇想天外』、『SFアドベンチャー』、『SF宝石』などが相次いで創刊され、それぞれ新人賞を設けるなどして新人の発掘にあたったため、『SFマガジン』とあわせて、堀晃、横田順彌、田中光二、山田正紀、かんべむさし、野阿梓、神林長平、大原まり子、火浦功、草上仁、新井素子、夢枕獏、田中芳樹、菅浩江などが続々とデビューした。
1980年代になると、引き続きビジュアル面でのSFは繁栄を示し、『風の谷のナウシカ』や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が公開され、サンライズが『機動戦士ガンダム』を経て『装甲騎兵ボトムズ』というハードSFを打ち立てる一方、SFイラスト集団のスタジオぬえも『超時空要塞マクロス』でSFアニメに参加する。日本SF大会DAICON III、DAICON IVでの優れたオープニングアニメでファンの注目を集めた集団がGAINAXを設立し、商業アニメに進出する。日本SF作家クラブはメディアにとらわれない日本SF大賞を設けた。
SFの転換期[編集]
このように小説以外のSFが栄える一方で、1980年代後半になると増えすぎたSF雑誌が次々と廃刊に追い込まれる。生き残ったSFマガジンも「早川SFコンテスト」を中断し、新人SF作家の行き場は失われる。しかし、小説では新井素子、神林長平、夢枕獏などが活躍するとともに、田中芳樹の『銀河英雄伝説』正伝が完結する。そして文庫や新書を中心としてライトノベルと呼ばれるようになる作品群が大量に出版され始める。ライトノベル系の文庫では、野尻抱介、山本弘、嵩峰龍二、笹本祐一らがSF、スペースオペラを発表していた。
SF潮流の脱構築[編集]
1990年代後半にはSFとライトノベルの境界はますます不確かになる。森岡浩之の『星界の紋章』が日本SFの牙城、早川書房のハヤカワ文庫から出版される。その一方で笹本祐一や野尻抱介など、ライトノベル系のSFを書いていた作家が、同時に本格的なハードSFも書きはじめる。さらに上遠野浩平が出現してライトノベル系文庫、一般文庫を問わずに活躍する。こうしてそれまでの日本におけるSF受容の流れに代わって、ライトノベル系と一般出版が一体となった領域にSF文学は広がりつつある。
『奇想天外』などの休刊後、SF雑誌は再び『SFマガジン』一誌のみとなったが、SFを志す者は日本ファンタジーノベル大賞や日本ホラー小説大賞からデビューし続けた。またライトノベル系の新人賞からも次々とSF作家がデビューしていた。1990年代後半には日本SF作家クラブによって日本SF新人賞が設けられ、本格的に新人の発掘が再開された。2001年には徳間書店がビジュアル先行型の新SF雑誌「SF JAPAN」を創刊した。
SFアニメはますます盛んで、1990年代半ばにガイナックスの『新世紀エヴァンゲリオン』が、『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』以来の大ヒットとなり、一般の若者に衝撃を与えるとともに共感を呼んだ。また、漫画『攻殻機動隊』を原作とするProduction I.Gの『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は映画作品として高い評価を受けた。
エヴァンゲリオンの影響は高橋しんの漫画『最終兵器彼女』、先述の上遠野の『ブギーポップシリーズ』等とともにセカイ系と呼ばれるプロットを生み出す。そこには従来のSF要素に加えて心理学や哲学が自在に導入される物語領域が生まれ、さらには小説、漫画、アニメ、ゲームといった既存のメディアの違いを越えて展開される。タイムトラベルの科学考証等を活用した『涼宮ハルヒシリーズ』をはじめとする谷川流の作品群はその展開として顕著なものである。
道具立ての変遷[編集]
SFの道具立て(ガジェット)は、科学技術の進歩に伴って変遷する。
かつて現実味を持ちえた「火星に知的生命体がいたら」といった仮定は、天体観測技術の発展・さらには火星探査機での調査により科学的には否定され、ファンタジーやパロディ的作品の設定として利用するか、その仮定を成立させるためのバックグラウンドの構築をともなうことでしか成立しなくなった。
逆に、手塚治虫らがSF的設定として描いた「人間の接近を感知して自動的に開閉する扉」は、現代では自動ドアとして日常的なっており、未来技術を演出するSFの小道具ではなくなった。 また、コンピュータの進歩によってサイバースペースやAIを小道具に使ったり、バイオテクノロジーやナノテクノロジーなどの最新の研究やその発想を押し進めたSFも書かれている。
その一方で、タイムマシンや超光速航法、超光速通信、反重力などの架空の技術は、考案された当初は様々な架空理論による理論づけがされたが、現在では特別な架空理論を伴わずに、あらかじめそういう技術が存在するものとして作品中で使用されることも多い。
SFと科学技術[編集]
SFと現実の科学技術の関係については、科学的知見がSFのネタとなることが多いのは当然だが、逆にSFが科学の発展を方向付けることもある。その典型的な例がロボットである。手塚治虫の『鉄腕アトム』や横山光輝の『鉄人28号』、あるいは機動戦士ガンダムなどにあこがれてロボット工学の道を進んだ技術者は大勢おり、日本がロボット工学で世界の最先端にいるのはこれが原因だ、と分析する人もいる。アメリカでも、「『2001年宇宙の旅』のHAL 9000を実際に作ってみたい」という動機で人工知能の研究を行っている研究者が多い。
ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』も、コンスタンチン・E・ツィオルコフスキーやロバート・H・ゴダード、ヴェルナー・フォン・ブラウンらのように少年期にこれを読んでロケット工学の研究に着手した研究者がおり、彼らの手によってついには実際に月まで人間を運ぶに至った。
携帯電話、テレビ、潜水艦なども、まずSFの世界に現われて、実現した。このように、ある意味ではSFが科学技術に影響を与えているとも考えられる。
SFとは何か?[編集]
SFは時代によって大きく変遷したジャンルなので、 「SF」という名称で呼ばれている小説群全てに対して当てはまる共通の特徴を見出すのは不可能に近い。
「SF」という単語が生まれて間もない頃は、小説中に科学が扱われていさえすればSFなのだと単純にとらえられており、例えばアシモフは「SFとは未来の科学と科学者を扱った小説」であると述べているし、スタージョンは「科学的な部分を取り除いてしまった場合にストーリーがまったく無意味なものになってしまう作品にのみ、SFという言葉を適応できる」と述べている。しかしSFに対する認識は時代とともに大きく変わっていく。
ジョージ・ターナーは上のような認識を批判し、SFを「リアリスティックな小説と非リアリスティックな小説の間に位置する」ものとして規定している。
黄金期のSF関係者達の中には、未来の外挿というキーワードを重視しているものも多く、 例えばブライアン・オールディスは『十億年の宴』で、SFを現実から未来を外挿する小説として規定している。
しかしこの定義は、黄金期のSFにはよく当てはまる面もあるが、ニューウェーブSFにはあまり当てはまらない。また、こうした発言にも関わらずオールディス自身はニューウェーブの作家であった。
実際「未来の外挿」というキーワードは、多少なりともSFと現実社会や科学文明との繋がりを示唆するものであるが、一方でニューウェーブSFの存在はこうした繋がりそのものを否定する。
ニューウェーブの創始者の一人であるJ・G・バラードは、これからのSFは外宇宙より内宇宙が重要で、現実社会や科学といったものを重視する従来型のSFよりも人間の内面世界を描写する事が重要なのだと説く。
このようにニューウェーブの作家達は従来「SF的である」ととらえられてきた事を否定し、実はそれらがSFの必要条件では無い事を示したが、一方で彼らは「ではSFとは何か?」という問いには答えなかった。
またSFの重要な要素として病んでいる事を挙げるものもおり、畑中佳樹のように病んでない人間にはSFを読む資格は無いと極言するものさえいる。(『読書の快楽ブックガイド・ベスト1000』、ぼくらはカルチャー探偵団編、角川文庫、1985年発行)
実際50年代、60年代にはフィリップ・K・ディックをはじめ病んだSFを書く作家も多かったので、「病んでいる」事はSFとは何かという問題に対してある種の答えを与えている。しかしスペースオペラのようにこの定義から大きく外れるジャンルも存在する。
以下の文章は、主に石川喬司の「SFででくたぁ」、『SFの時代』を参考にした。この為石川喬司や彼と同時代のSF関係者の主張に偏っている可能性があるので注意を要する。
SFに科学は必要か?[編集]
SFが「科学小説」(=科学のプロパガンダ小説)と見なされる事を嫌がるSF関係者も多い。SFの創世紀には「科学小説」が数多く発表されたがそれらは今のSFと比べればストーリー性も深みもなかった。こうした事情が彼らに「科学小説」と同一視される事を嫌悪させるのだと考えられる。
石川喬司のようにSFが科学と関連づけられる事すら嫌うものもおり、彼は「SFと科学を関連づけるのはいい加減やめて欲しい」と言う趣旨の発言を再三している(「SFででくたぁ」、『SFの時代』)。彼は矢野健太郎が「SFによって科学に興味を持つ子供が多くて嬉しい」という趣旨のSFに肯定的な発言をした時にもこのような発言をしているので、科学と関連づけられるのを彼がいかに嫌っていたかが分かる。
ロバート・アンソン・ハインラインは「SF」は「サイエンス・フィクション(=科学小説)」ではなく「スペキュレーティブ・フィクション(=思索の小説)」の略であると主張し、SFと「科学小説」との差別化を計ろうとした。当時はニュー・ウェーブSFの全盛期で、実際に科学がほとんどもしくは一切出てこないSF小説が多数書かれており、SF性が科学とは無関係な概念である事がはじめて証明された時代であったので、ハインラインの意見は当時のSF関係者の主流な意見であったと思われるし、今もそう考えているSF関係者も多い。
一方、SF考証(=SFを科学的に見えるようにする議論・手法)を重要視し、ハインラインと違いライトノベル側のSF関係者である山本弘はこの意見に異を唱えている。彼によれば「SFはスペキュレーティブ・フィクション」なのだというハインラインの発言は「意味の分からない」ものであり、SF考証に基づいたSFこそが真のSFである(『トンデモ本?違う、SFだ!』より)。
UFO研究はSFか?[編集]
UFO研究とSFを同一視される事を嫌うSF関係者も多い。
彼らの主張によれば、UFO研究は単なる疑似科学ないしオカルトであって、文学であるSFはUFO研究とは一線を画するのだという。
「SF関係者はSF小説の内容を(まるでUFO研究家のように)現実のものだと信じている」という見識を「SFに対する誤解」として捕らえているSF関係者も多く、例えばアイザック・アシモフはこうした人物の一人であった。
この手の「誤解」に常々辟易していた彼は、SFを現実のものとして捕らえているかというインタビュアーの質問に対して、以下の趣旨の発言をしている。
「ではあなたは、童話作家は妖精が存在したり、動物達が口をきけると信じてると思いこんでるんですね?」
インタビュアーがそんな事はないと発言すると、アシモフはこう答えた。
「ならなぜSF作家がSFの内容を現実のものだと信じていると思うのですか?」
(注:正確な引用ではない。正確なセリフを覚えている方フォローをお願いします)
またSFとUFO研究者と同一視されるのを嫌がる背景には、一般にはあまりいい目で見られないUFO研究者と同一視される事を嫌がるのだという事情もあるのかもしれない。
しかし一方でSFと疑似科学との関係は深いという事実もある。
例えば日本最初のSF同人誌「宇宙塵」の創設メンバーの多くが「空飛ぶ円盤研究会」の元会員であったり、キャンベルやヴォクトのような黄金期のSFの立役者が何度と無く疑似科学やカルトに騙されている上、ダイアネティックスの創始者L・ロン・ハバードは元SF作家であるし、ハインラインの『異星の客』の作中に出てくる宗教を実際に現実世界で創始した人物もいる。
SFアニメはSFか?[編集]
巨大ロボットアニメをはじめとしたSFアニメは日本で育ったものであり、海外SFないしその後継である伝統的な日本SFとは内容的文化的に大きく異なる。
機動戦士ガンダムは、放送当時「ホワイトベースが大気圏中を低速飛行している」などの理由でSFではないという議論がされたこともあった。
しかし永井豪のように海外SFの土場を理解しつつ同時にSFアニメに大きな足跡を残した人も多い。また、今日のSFアニメの隆盛は科学考証においてもいくつもの新機軸を生み出し、伝統SFの運動とは別の意味でのサイエンス・フィクションとして国内外に影響を与えている。
SFパンチラ論[編集]
とり・みきはSFパンチラ論を(諧謔的に)提唱した。
この説によれば、SF作家やSFファンは恥ずかしがり屋であり、感動する内容が直接作品に書かれる事を嫌悪している為、彼らは感動が作中に「完全に見えるのは恥ずかしいが、さりとて全く見えなくては意味がない」と考える。
これは丁度パンチラの考え方に相似し、とり・みきにとっては、すでにSFとパンチラは完全に同一視されたものなのだという。
SFの分類[編集]
形式による分類[編集]
SFには表現のスタイルによって以下のような分類がある。しかし、それぞれのジャンルに特化することのない「ふつうのSF」が最も多いと思われる。
- ハードSF - アイデアの科学性に重きを置いた作品群。ハードコアSFとも。
- スペースオペラ - 波瀾万丈の宇宙活劇。西部劇を換骨奪胎したもの。
- ワイドスクリーン・バロック - 宇宙的スケールの豪華絢爛な展開。
- ニュー・ウェーブ - 従来の外宇宙志向SFに背を向けて、内宇宙を目指す作品群。
- サイバーパンク - 電脳世界と濃密にリンクした世界を描く。しばしば退廃的で混沌とした世界観をテーマにする。
- スチームパンク - 蒸気機関が高度に発達した「ありえたかもしれない未来」を描く。
テーマによる分類[編集]
SFでは以下のようなテーマによる分類がなされるが、必ずしも小説の主題となっているとは限らない。
- 時間SFは、タイムマシンなどによる時間旅行や、タイムパラドックスを扱ったSF。
- 破滅SFは、壊滅的な大惨事、極端な場合は人類の滅亡を描くSF。
- 侵略SFは、異星人などによって地球が侵略される状況を描くSF。
- ファースト・コンタクトSFは、異星人との初めての出会いの状況を描くSF。
- 超能力SFは、超能力を持った(持ってしまった)人間を描くSF。
- ミュータントSFは、新人類または突然変異体を描くSF。
- ロボットSFは、ロボットまたは人工知能に関する様々な状況を描くSF。
- 方程式ものは、「酸素や燃料に余裕のない宇宙船に密航した人間の扱い」をめぐる局限された状況などを描くSF。
舞台による分類[編集]
小説の舞台によって次のような分類がなされる。
- 宇宙SF - 宇宙空間に進出した人類文明とその中で活動する人の姿を描く。スペースオペラが多い。
- 海洋SF - 宇宙に匹敵する多くの謎を秘めた海洋を舞台とする。深海に住む謎の生命など。
- 歴史SF - タイムマシンを扱った歴史改変ものや、過去の歴史時代を舞台としたSF。
- 未来SF - 未来世界を描くSF。タイムマシンや冷凍睡眠などで過去人が未来世界に紛れ込むというテーマもある。
- 学園SF - 学校を舞台としたSF作品。ジュヴナイル、ライトノベル系に多い。
その他の分類[編集]
これ以外にも「猫SF」、「犬SF」などといった上記にあてはまらない分類がある。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- ブライアン・アッシュ、『SF百科図鑑』、サンリオSF文庫
- 石川喬司、「SFででくたぁ」。(SFマガジンの連載記事。筒井康隆の日本ベストSF集成シリーズに再録あり。)
- 石川喬司、『SFの時代、日本SFの胎動と展望』、奇想天外社。(双葉文庫から『SFの時代』のタイトルで復刊)。
- ブライアン・W・オールディス、『十億年の宴SF―その起源と発達』、創元社。
- ブライアン・W・オールディス、『一兆年の宴』、創元社。
- とり・みき、『とりの眼ひとの眼』、筑摩書房。
外部リンク[編集]
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