日本国との平和条約
日本国との平和条約(にほんこくとのへいわじょうやく、英:Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)とは第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約である。アメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことからサンフランシスコ条約・サンフランシスコ平和条約・サンフランシスコ講和条約・SF条約、対日平和条約・対日講和条約などともいう。
この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている[2]。これは当時国連公用語だった英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5カ国語[3]のうちソビエト連邦と中華民国がこの条約には加わらなかったことからロシア語版と中国語版が作成されなかったことによるもので、また日本語が加えられているのは当事国であるからにほかならない。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得たうえで条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。
1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、その後国会承認と内閣批准を経て翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。日本国内では、昭和27年4月28日条約第5号として公布されている。
この条約によって正式に、連合国は日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条(b))。なお、第1条(a)にあるように国際法上ではこの条約の発効により、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされポツダム宣言の受諾を表明した1945年(昭和20年)8月14日や国民向けラジオ放送を実施した8月15日、降伏文書に署名をした9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとして扱われている。
目次
内容・解釈等
要旨
- 日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
- 日本国民の主権の回復(第1条(b))
- 日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a))
- 日本の台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(b))
- 主権を持っていた千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(c))
- 南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(d)(f))
- 南西諸島や小笠原諸島を合衆国の信託統治に置くことの承認(第3条)
- 賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など)
- 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾(第11条)
領土
日本には領土の範囲を決めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。
いわゆる外地人の日本国籍喪失
条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした通達(昭和27年4月19日民事甲第438号法務府民事局長通達「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示され、最高裁判所も同旨の解釈を採用した(最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁)。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である(最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁)。これに対し、千島列島・南樺太は法体系上は内地であったため権原放棄に伴う国籍の喪失はないとされている。
著作権保護期間の戦時加算
戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律(昭和27年8月8日法律第302号)が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例が設けられている(戦時加算 (著作権法)を参照)。
11条解釈
日本国との平和条約第11条の解釈 を参照
講和会議
1951年(昭和26年)7月20日、米英共同で日本を含む全50カ国に招請状を発送。韓国は対日軍事同盟国とは見なさされず、オブザーバーとして招待された。「中国」に対しては代表政権についての米英の意見(中華民国か中華人民共和国か)が一致せず、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして招請は見送られた(1952年(昭和27年)4月28日、中華民国(台湾)との間に日華平和条約を調印。1952年(昭和27年)8月5日発効)。
8月22日、フランスの要求を容れインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)にも招請状を発送。
9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス(War Memorial Opera House)において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。インド・ビルマ・ユーゴスラビアは招請に応じなかった。
日本の全権団は首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)の6人。
9月8日、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、中国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。
署名した国
アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カンボジア、カナダ、セイロン(→スリランカ)、チリ、コロンビア(※)、コスタリカ、キューバ、ドミニカ共和国、エクアドル、エジプト、エルサルバドル、エチオピア、フランス、ギリシャ、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インドネシア(※)、イラン、イラク、ラオス、レバノン、リベリア、ルクセンブルク(※)、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パキスタン、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、サウジアラビア、シリア、トルコ、南アフリカ連邦(→南アフリカ共和国)、イギリス、アメリカ合衆国、ウルグアイ、ベネズエラ、ベトナム国(→ベトナム共和国→ベトナム社会主義共和国)、日本
- 署名順【日本を除きABCD順に署名している】。
- ※は、署名はしたが批准していない国。
- →は署名後、国名が変わった国。
なお講和会議に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ郊外のプレシディオ陸軍基地に場所を移して日米安全保障条約を締結した。この2つの条約をもって日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰したと言える。なお日米安全保障条約には吉田首席全権のみ単独で署名した。
日本国内の経緯
会議前
日本国内では主に左翼陣営が、ソビエト連邦などを含む全面講和を主張した。
会議後
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効
この後、日本はこの条約を締結しなかった国々と個別に平和条約を締結したがソビエト連邦(現・ロシア)とはいまだに平和条約を締結しておらず(法的には現在も関係不正常状態)、北方領土問題などを残している。
また、条約の発効をもってレッドパージの一環として占領軍により発行を禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。
署名から50年後
2001年(平成13年)9月8日(日本時間では9日)、講和会議の会場であったオペラハウスにて北カリフォルニア日本協会(the Japan Society of Northern California)の主催により「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれた。日本からは田中真紀子外務大臣が、米国からはコリン・パウエル国務長官が出席しそれぞれ演説を行ない、日米の同盟関係のさらなる強化の必要性を確認し合った。なお、この式典の前にプレシディオ元陸軍基地において旧・日米安全保障条約署名50周年記念式典も行われた。
参考文献
- 入江啓四郎『日本講和条約の研究』(板垣書店)
- 西村熊雄『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』(鹿島平和研究所)
注釈
- ↑ 池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)。
- ↑ 日本語では「及び」と「並びに」の違いが分かりにくいが、英文では明解で“DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後にくることになる。
- ↑ アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。
関連項目
外部リンク
- 日本国との平和条約(中野文庫)
- サンフランシスコ平和条約 準備対策(外務省-日本外交文書)
- サンフランシスコ平和条約 対米交渉(外務省-日本外交文書)
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