広島東洋カープ
広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
広島県を保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。
親会社を持たない市民球団として結成されたという、ほかの球団と比較して特異の歴史を有する(マツダはカープと関連してはいるが会社としての球団への経営参加はしていない)。現在は松田家による同族経営となっている。
目次
- 1 14年連続Bクラス
- 2 球団の歴史
- 3 チーム成績・記録
- 4 その他の記録
- 5 歴代本拠地
- 6 チーム特徴
- 7 ユニフォーム
- 8 歴代監督
- 9 永久欠番
- 10 キーワード
- 10.1 経営事情
- 10.2 FA残留拒否
- 10.3 8人の侍
- 10.4 疑惑のホームラン
- 10.5 身代わり出頭
- 10.6 線審負傷事件
- 10.7 完全試合とノーヒットノーラン献上率が高いチーム
- 10.8 沖縄県出身初のプロ野球選手
- 10.9 「カープを優勝させる会」
- 10.10 変則ダブルヘッダー
- 10.11 鯉の季節
- 10.12 外木場、3度のノーヒッター
- 10.13 江夏の21球
- 10.14 日本シリーズMVPの自動車
- 10.15 停電事故
- 10.16 背番号0の男
- 10.17 究極の右投手攻略法
- 10.18 日本球界初のアカデミー
- 10.19 クモ男
- 10.20 放火事件
- 10.21 2001年と2004年の順位
- 10.22 水道管破裂事件
- 10.23 スパイダーマン事件
- 10.24 社会人野球大会出場
- 10.25 ベースボールドッグ
- 10.26 始球式
- 10.27 応援の先駆者
- 11 応援歌
- 12 主なキャンプ地
- 13 キャッチフレーズ
- 14 カープ応援番組
- 15 カープを取り扱う雑誌
- 16 脚注
- 17 関連項目
- 18 外部リンク
14年連続Bクラス
2012年現在、広島のAクラスを目撃した小学生はこの世に存在しない。
全球団最後のAクラスの年
- SB 2011 中日 2011
- ハム 2011 東京 2011
- 西武 2011 巨人 2011
- オリ 2008 阪神 2010
- 楽天 2009 広島 1997
- 千葉 2010 横浜 2005
カープ14年間の内訳
- 4位2回
- 5位10回
- 6位2回
(参考)1997年シングル売り上げtop10
1位 安室奈美恵:『CAN YOU CELEBRATE?』
2位 KinKi Kids:『硝子の少年』
3位 Le Couple:『ひだまりの詩』
4位 globe:『FACE』
5位 SPEED:『STEADY』
6位 今井美樹:『PRIDE』
7位 TK PRESENTS こねっと:『YOU ARE THE ONE』
8位 Mr.Children:『Everything (It's you)』
9位 GLAY:『HOWEVER』
10位 SPEED:『White Love』
広島の生え抜きAクラス経験者
前田・横山・嶋
球団の歴史
壊滅の広島からプロ野球を 第一次低迷期
- 1949年シーズンオフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日にセントラル・リーグに加盟。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を広島カープとした。翌1950年3月10日に福岡平和台球場で行われたセ・リーグ開幕戦の選手入場時に掲げられたプラカードには何故か「広島カープス」と書かれていた。
- 本拠地球場は広島総合球場。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、監督の石本秀一自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平、内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章らが中心となったが寄せ集めのチームは著しく低迷。
- 1951年に深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な当時のお金で400万円を集めた。球団も四方八方手を尽くし解散を回避。この一件は、2001年5月1日放送のNHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。なお、この年は7球団による20回総当りの120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日があったため順位決定後の試合はすべて打ち切られた。とくに広島は最下位決定のあと、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化しなかった[1]。
- 翌1952年シーズン開幕前には、当時7球団だったセ・リーグの日程が組みにくいという理由のため、同年シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めがされた。設立より2年連続最下位だった広島が解散の最有力候補だったが、長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ勝率.316で解散を免れた(松竹ロビンスが最下位・勝率.288)。この年限りで石本は退任。代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団した。小鶴誠、金山次郎の入団だけで大パレードを敢行、続いて獲得に成功した日系二世選手・銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)、光吉勉入団の際には更に盛大な大パレードを行い、10万人の歓迎で、市中紙吹雪が舞った。「人出は天皇ご巡幸の時よりも多かった」ともいわれた[2]。
- 1952年から1953年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけしかなかった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- 1953年のオールスターゲームのファン投票で、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手がトップ当選。当時の野球ファンを驚かせ、集団投票事件などと批判を浴びた。オールスターの「組織票」の最初のケースがこの年の広島カープと推測される[3]。
- 1953年 - 1960年まで白石が監督を務める。チーム成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割とシーズン勝ち越しを果たした。その後、1961年から1962年まで門前眞佐人が監督を務めたが、勝率5割を割り辞任。この間1957年7月より、広島市民球場に本拠地を移転した。白石は1963年 - 1965年シーズン途中まで2度目の監督を務めた。
- 1965年7月から長谷川監督が務めた後、1968年、東洋工業(現・マツダ)が筆頭株主となり球団名を現在の広島東洋カープに改称。同年、根本陸夫監督のもと3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。しかし根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。
チームカラーを赤に 赤ヘル黄金時代
- 1958年に一旦は胸ロゴが赤い縁取りとなっていたユニフォームを着用していたが、1973年、別当薫が監督就任すると、チームのイメージを一新すべくユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字、胸番号、背番号に赤の縁取り、袖、腰、ストッキングに赤色のラインが入る。後にチームカラーとなる「赤」が取り入れられた。
- 1975年、球団初の外国人監督として、前年より一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。燃える闘志を表す意味をこめて帽子、ヘルメットの色が赤になった。(本来は1977年より登場するユニフォームを採用する予定であったが、予算がなく帽子のみ赤色となった)。ルーツはシーズン途中で退団したが、後任監督の古葉竹識のもと球団初優勝。平和大通りで行われた優勝パレードはファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた。これは現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となっている。以降、カープは球団史上に残る黄金時代に突入する。
- 1977年、胸文字、胸番号、背番号、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり"カープ=赤”が定着する。
- 1978年、日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二、衣笠祥雄をはじめジム・ライトルとヘンリー・ギャレットの両外人、水谷実雄や高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。
- 1979年・1980年には日本シリーズ2連覇を成し遂げた。
- 1982年、津田恒実が球団初の新人王に輝く。
- 1984年は山本浩二、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。
- 1986年から阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、ガッツ溢れる采配と手腕で、就任1年目にリーグ優勝[4]。また、打線のスタメンに、外人助っ人はひとりもいないという「純血打線」として人気を博す。
- 1989年に山本監督誕生。1991年、投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。翌1992年もシーズン成績を勝ち越し、この年リーグ優勝したヤクルトとは僅か3ゲーム差であったものの、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位[5]となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。1993年は佐々岡や北別府ら投手陣が崩壊し、最下位に転落。山本監督は責任を取り辞任。
- 1994年、三村敏之が監督に就任。1996年シーズン中盤は2位に最大7ゲーム差を付けるなど首位を独走していたが、最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、3位に。この年以降、現在に至るまでチームは深刻な投手不足に悩まされるようになる。三村は1998年限りで退任。この年、投打の主力選手だった大野豊、正田耕三の引退も重なった。
第二次低迷期の到来 ブラウン政権へ
- 1999年からは達川晃豊が監督に就任。伝統の猛練習でチームの底上げを図るも、1999年、2000年共5位に終わり、わずか2年で辞任。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。
- 2001年シーズンより再び山本浩二が監督として指揮を執るも、凡ミスの多い試合内容で1度もAクラスを経験しないまま2005年終了後に成績不振の責任を取り辞任。
- 2005年
ブラウン監督時代
ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れた。
開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。
キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していたが、交流戦で最下位に沈んだことで優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。
課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言。新井は阪神に、黒田はMLB・ロサンゼルス・ドジャースに移籍。
投打の柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。新井の人的補償として阪神から赤松真人を獲得し、他にも新人や新外国人選手を含め14人もの新入団選手を獲得した。
苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。
延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。
この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も「マツダスタジアム」に変更した。
オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。
シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く(特に前半戦は打率.220~.230台と極度の貧打に悩まされた)、低迷状態に陥り、1950年以来59年ぶりとなる対中日戦11連敗という球団史上最悪の記録を更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウン監督は楽天監督へ移籍した。。この年、緒方孝市が現役引退している。なおこの年、楽天が球団初のAクラスになったことにより、21世紀に入って、Aクラスになったことのない球団は広島のみとなった。
野村監督時代
ブラウン監督の後任として広島OBで、日本テレビ・広島テレビ解説者の野村謙二郎が監督に就任。しかし、オフに前年のチーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団、シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では球団ワーストの11連敗を2年連続で記録し8勝16敗、更に対阪神も9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となり、13年連続Bクラスとなった。
オフにFA宣言した内川聖一の獲得に乗り出すが、ソフトバンクとの争奪戦に敗れる。東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンとデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦も5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位まで浮上し期待を持たせた。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したが、チームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落。10月8日には14年連続Bクラスが確定し、結局3年連続で5位に終わった。豊田清が現役を引退。
中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で、4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健太がノーヒットノーランを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原健太が離脱するなど故障者が続出し、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す。
8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れた事で、Bクラスが確定している。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わっている。
3月、オーナー代行に松田一宏が就任。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく。4月13日に、前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位。
中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ5位で折り返す。9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続シーズン負け越しとレギュラーシーズン3位が確定した。
2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めたが、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定した。前田智徳、菊地原毅が現役を引退。
前年に続き、巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが、同時に広島の2年連続クライマックスシリーズ進出も決定した。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシ-ズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、3位が確定した。
10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定。10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回
- (1975年、1979年、1980年、1984年、1986年、1991年)
- 日本一 3回
- (1979年、1980年、1984年)
- Aクラス 20回
- (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年)
- Bクラス 41回
- (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2011年)
- 最下位回数 10回(1950年 - 1951年、1963年、1967年、1969年、1972年 - 1974年、1993年、2005年)
- 最多勝 75勝(1984年)
- 最多敗 96敗(1950年)
- 最多引分 18分(1978年)
- 最高勝率 .625(1984年)
- 最低勝率 .299(1950年)
- 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年 - 1991年)
- 連続Bクラス最長記録 18年(1950年 - 1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークス〔1978年 - 1997年〕の20年に次ぐ史上2位)
その他の記録
- 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年)
- 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年)
- 最多本塁打 205本(1978年)
- 最少本塁打 29本(1952年)
- 最高打率 .284(1978年)
- 最低打率 .213(1956年)
- 最高防御率 2.62(1959年)
- 最低防御率 5.20(1950年)
歴代本拠地
- 1950年 - 1957年:広島総合球場(現:Coca-Cola West野球場)(広島市西区観音新町二丁目)
- 1957年7月 - 2009年3月:広島市民球場(広島市中区基町)
- 2009年4月 - :MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島(広島市南区南蟹屋二丁目)
チーム特徴
- ニックネームの「カープ」は「鯉」の英語Carpに由来。名付け親は政治家の谷川昇(公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り。
- 広島市を流れる太田川が鯉の産地であること
- 広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、太平洋戦争での広島市への原子爆弾投下の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと
- 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐(こい)〔広島市西区の地名〕は鯉から転化したものであり、恋にも通ずる」から
- 加盟当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された2軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また、アトムズは原子爆弾からの連想で、原子爆弾に広島を象徴させる事が提案されたのは核兵器廃絶運動の拡大前という時代背景があった。これはその後1966年から1973年にサンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ鉄腕アトムに由来する名称として採用していた。
- 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳、門前眞佐人といった、他球団から選手として移籍してきた選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。
- 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人のほかは、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にメジャー・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスが日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、リッチー・シェーン、ゲイル・ホプキンス、ジム・ライトル、マイク・デュプリー、ルイス・ロペス、エディ・ディアス、ネイサン・ミンチー、アンディ・シーツ、コルビー・ルイスといった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年に千葉ロッテに移籍)やアンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍→現・オリックス)などの例が見られる。
- 球団マスコットは「スラィリー」。詳細はその項を参照。また、1975年6月より「カープ坊や」がマスコットとして存在している。スラィリー登場後も球団の応援グッズなどに描かれ続けている。
- 1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年日南市が読売ジャイアンツからキャンプのオファーを受けたこともあり、ジャイアンツキャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島カープのキャンプ地として知られる。(日南市天福球場の項も参照)
- 1984年に挙げた75勝がチームのシーズン最多勝記録で、セントラル・リーグに所属する球団では唯一のシーズン80勝未到達球団である。
- 球団創設から1967年までの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。また、1996年に福岡ダイエーホークスに抜かれるまではプロ野球ワースト記録だった。
- 元々資金が豊富ではないこともあってフリーエージェント (FA) 制度やドラフト希望枠での選手の獲得の活用に消極的(あるいは否定的)である。現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、2006年以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。FAに関しては2006年に資格を取得した黒田博樹に対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。2007年は阪神にFAで移籍した新井貴浩の人的補償として赤松真人を獲得した。希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでの宮崎充登がある。
- 合宿所は1軍と2軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1ヶ所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に2軍の合宿所を建設。三篠寮は1軍選手専用となった。
- 8月6日の広島原爆忌当日に主催試合がある場合は広島市民球場は使用せず、倉敷、福山等で試合を行う。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためである。広島市民球場最終年となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。
- 他の球団に比べ地方球場での主催試合が多い。上記の倉敷、福山以外にも、尾道、米子、松山坊っちゃん等の各球場で主催ゲームが実施される。なお2005年の松山での試合は、ヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつ組まれた。
- 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催主催ゲームでもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月あたりは週末ともなればよく東北(福島、宮城、岩手)でデーゲームを開催していた。2軍のフランチャイズを東北にということまで検討された時もあった。
- 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターのレギュラーの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市の日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込む等の方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合(土曜・日曜・祝日など)は薄暮試合という処置を取り、午後3時から試合を行う。
- 1990年代中盤以降は投手力の著しい低下に伴い、ルーキー投手も主力として投げることが多いが、これらの投手が1年目は活躍するものの、1年目の酷使がたたって早期に引退に追い込まれるケースが目立つ。逆指名入団の山内泰幸、澤崎俊和は新人王、小林幹英はセ・リーグ特別表彰を受賞したが、2年目以降は故障などで尻すぼみになり、3人とも10年以内で引退している。なお、3人とも現在は広島の一軍あるいは二軍投手コーチを務める。高卒では苫米地鉄人が1年目から開幕1軍入りするなど活躍したが、その後は伸び悩んで結局7年で引退した。
- 2008年現在、新規球団の楽天を除く11球団の中で、最もリーグ優勝・日本一から遠ざかっているチームとなっている。加えて1998年以降、チームが11年連続でBクラスのため、主力選手のほとんどが優勝はおろか、Aクラス入りの経験すらしていない。21世紀になってから一度もAクラスになっていないのは、セ・リーグ球団では広島のみであり、2008年現在優勝経験のある生え抜きの現役選手は緒方孝市、前田智徳の2名だけである。
- 打線は機動力や小技を発揮出来る選手の育成が進まず、本塁打に頼る野球になり、阪神と中日が強くなった2003年頃からは、阪神甲子園球場やナゴヤドーム等の広い球場では点が取れず広島の“鬼門”とも呼ばれている。逆に本塁打の出やすい神宮球場ではヤクルトとの好相性もあってか勝つことが多い(1998年は14戦全敗だった)。
- 交流戦導入後、2005年(11勝24敗1分)、2006年(16勝20敗)、2007年(5勝18敗1分)と3シーズン連続で負け越していた。負け越しの数も多く、これもシーズンの足を引っ張る要素の一つであったため、交流戦も阪神戦や中日戦と同様に、広島の“鬼門”と呼ばれることが多かった。しかし、2008年は13勝11敗で初めて勝ち越し、2009年は14勝9敗1分と大きく勝ち越した。
- 2007年から公式ファンクラブが結成された。12球団で最後の結成。
ユニフォーム
変遷
- 1950年 - 1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
- 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、フマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
- 1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用は南十字星がベース。帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。
- 1958年 - 1962年 レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めてユニフォームに「赤」が取り入れられる。帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルはHirosima)。また、胸番号も登場。
- 1963年 - 1972年 白石勝巳監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」のHマークになる(Hマークは現在の球団旗にも使われている)。
- 1973年 - 1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズ、中央大学と同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。
- 1975年 - 1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤に、Cマークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。
- 1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=赤が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。また、スパイクが白地に赤のラインとなる。
- ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかなスカイブルー地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。
- 1989年 - 1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。シンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。
- 1996年 - 2001年 大リーグで主流となった前立てラインが登場する、袖のラインが消え、ホーム用に「CARP」、ビジター用「HIROSHIMA」(1963年 - 1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、球団創設50周年のマークが入る。
- 2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを桜文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。
- 2009年 - 本拠地の新広島市民球場移転に伴い、ユニフォームを一新。ピンストライプが取れ、1988年まで使われた紺色が復活。ホーム用は胸には筆記体の赤いロゴに紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取り、色は上下ともに白。ビジター用は上着が赤地に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」のホーム左袖と同じ白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」の白いロゴに紺の縁取り。ズボンは白。キャップは従来の白いCマークに紺の縁取り、ツバの縁にも紺のラインが入る。
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- 球団の歴史、ユニフォームの変遷の節にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- 2005年から、ヘルメット、ユニフォーム袖にマツダがホームゲーム限定のスポンサーとなる。ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。2005年は8月後半までは新型プレマシー、それ以降はAll New ROADSTER、2006年の始めは新型MPVとなり、2007年のキャンプはMAZDA CX-7、シーズン途中からMAZDA デミオ、2008年のキャンプでは新型MAZDAアテンザ、シーズン途中から2009年6月までMAZDA ビアンテ、2009年6月からMAZDA アクセラとなっている。
歴代監督
- 石本秀一(1950年 - 1953年)
- 白石勝巳(1953年 - 1960年)
- 門前眞佐人(1961年 - 1962年)
- 白石勝巳(1963年 - 1965年、第2次)
- 長谷川良平(1965年 - 1967年)
- 根本陸夫(1968年 - 1972年)※1 ※2
- 別当薫(1973年)
- 森永勝也(1974年)
- ジョー・ルーツ(1975年)※3
- 古葉竹識(1975年 - 1985年)
- 阿南準郎(1986年 - 1988年)
- 山本浩二(1989年 - 1993年)
- 三村敏之(1994年 - 1998年)
- 達川光男(1999年 - 2000年)※4
- 山本浩二(2001年 - 2005年、第2次)
- マーティ・ブラウン(2006年 - )
※1 ここから広島東洋カープ
※2 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行
※3 1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは野崎泰一が代行
※4 1999年から2000年の登録名は達川晃豊
永久欠番
永久預かり(honored (honoured) number)
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
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経営事情
カープは当初、広島県、広島市、呉市、中国新聞、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。
また、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。
1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは株を保有し、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。1984年にマツダが東洋工業から社名変更した際、球団名を“広島マツダカープ”に変更するという話要出典があったが、「販売店の広島マツダと混同する」という理由から立ち消えになっている。
FA残留拒否
1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、広島は横浜やダイエーと共に一貫してFA権の行使は認めても行使後の残留(FA残留)は一切認めてこなかった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。さらに、年俸の高騰を招くため他球団のFA選手の獲得も行っていない[6]。更には、2008年オフに東京ヤクルトスワローズと東北楽天イーグルスが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島は消滅した近鉄を含むセ・パ13球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となった。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲(現阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められなかった。
そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹投手がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。球団にとって彼の流出は死活問題となるので、今回ばかりはFA残留を認めざるを得ない状況になった。しかしこの年の黒田はFA権を行使せずに残留した。また翌2007年に新井貴浩内野手がFA宣言した際も、球団はFA残留を認める方向だったが、結局阪神に移籍した。現在も広島にFA残留した選手はいない。
8人の侍
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。
3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
疑惑のホームラン
1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。
当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。
そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。
身代わり出頭
詳細は木戸美摸投手負傷事件を参照のこと。
1956年5月20日に広島総合球場で開催された対巨人戦で、ファンが3連敗に怒り物を巨人選手が引き揚げ中のグラウンドに投げ込み、巨人投手の木戸美摸にビール瓶が直撃し負傷する事件が発生した。未必の故意による傷害行為であり、ファンによる水原監督への暴行もあって、巨人側が「犯人を出さない以上、二度と広島でゲームはしない」と強硬な態度を示した。その後カープのためとファンの男性2人が何もしていないにもかかわらず「替え玉」として出頭し、事態を収拾した。
線審負傷事件
1966年6月5日、対阪神戦で山本一義が死球を受けたためファンが騒いだが、一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の負傷。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
完全試合とノーヒットノーラン献上率が高いチーム
完全試合を合計3度献上しており、これは日本プロ野球最多の数字である。その一方で外木場義郎が1968年9月14日に完全試合を達成しているがその相手は2番目のゲームでの達成者、佐々木吉郎がいた大洋である。
ノーヒットノーランに関しても球団創設以来9度も献上しており、この献上回数もまた日本プロ野球チームで最多である。2004年10月には阪神の井川慶にノーヒットノーランを許した直後の横浜戦でも9回裏2死までノーヒットであと一人で吉見祐治投手にまでノーヒットノーランを許してしまう事態となり、あわや日本プロ野球初となる1シーズン2度ノーヒットノーランを相手球団の先発投手に許すという不名誉な記録を作るところであったが、そこから福地寿樹(現東京ヤクルトスワローズ)が二塁打を放ち、ぎりぎりの所でこの記録から免れた(ちなみに、この試合での広島の安打はこの福地の二塁打1本のみであり、福地自身のシーズン初安打でもあった)。
沖縄県出身初のプロ野球選手
1964年入団の安仁屋宗八投手は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
「カープを優勝させる会」
1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之、石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。
こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。しかし、90年代後半から続いている広島のふがいない成績や戦いぶりに「もう一度この会を復活させよう」という声が上がっている。
変則ダブルヘッダー
1967年10月12日、カープは日程調整の関係でデーゲーム(13時開始)に巨人戦(後楽園球場)、続いてナイター(19時開始)でサンケイ戦(神宮球場)を行った。同じ日に同じチームが違う対戦チーム・違う球場でのダブルヘッダーを行ったのは、1952年に現在のフランチャイズ制が確立されて以降これが唯一である。
鯉の季節
初めてAクラス入りした1968年、カープは阪神との岡山・姫路での開幕シリーズに連勝。7連敗で一時3位に転落したものの6月12日には首位に返り咲き、7月6日まで守った。この年はピンキーとキラーズのデビュー曲「恋の季節」がヒットしたこともあり、曲のタイトルとカープ(=鯉)を引っ掛けた「鯉の季節」という言葉が新聞紙上を飾った。最近でも「鯉の季節」という言葉自体は使われるが、「鯉のぼりの時期までのカープは勢いがあるが、それを過ぎれば転落していく」という、からかい半分またはファン自らが自嘲的な意味で使うことが多い。
外木場、3度のノーヒッター
日本のプロ野球において、ノーヒットノーランの最多記録保持者は沢村栄治(巨人軍)と当チームの外木場義郎の2名。回数は3回である。
外木場は1965年10月2日、デビュー2戦目の阪神戦でプロ入り初勝利・初完封をノーヒットノーランで飾る快挙を達成すると、1968年9月14日には大洋を相手に2度目のそれを完全試合(史上10人目、カープとしては初)で決め、日本タイの3回目のノーヒッターは1972年4月29日、沢村が所属した巨人との対戦で飾った。
江夏の21球
1979年、近鉄バファローズとの日本シリーズ第7戦で、江夏豊がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け広島を日本一に導く。このシーズンで自身初、そしてリリーフ投手で初のMVPに輝く。なお、この詳細はNHK特集に取り上げられた。
日本シリーズMVPの自動車
カープは過去に1979、80、84年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。
広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。
停電事故
1982年7月8日に開かれた阪神戦と2004年9月15日の巨人戦の清原和博選手の打席後、及び2006年8月2日のヤクルト戦でナイター照明の停電事故を経験している。1982年のケースは岡山県営球場での事故で、ナイター照明に蛇が絡まったことによるもの、他2つは本拠・広島市民球場による事故で、試合中市内での落雷発生によるもので何れも数十分間試合が中断した。2006年の場合はその後豪雨が降ったためにグラウンドコンディションが悪化し7回表途中でコールドゲームとなった。
背番号0の男
1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。
究極の右投手攻略法
1988年6月26日、盛岡での横浜大洋ホエールズ戦でのこと。大洋の先発投手を右の斉藤明夫と読み切った監督の阿南準郎は、以下のオーダーを組んだ。
守備 | 選手 |
---|---|
二 | 正田耕三 |
右 | 山崎隆造 |
遊 | 高橋慶彦 |
一 | 小早川毅彦 |
中 | 長嶋清幸 |
左 | 松林和雄 |
三 | 高信二 |
捕 | 達川光男 |
投 | 大野豊 |
小早川・長嶋・高・大野は左打者。また正田・山崎・高橋・松林はスイッチヒッターで右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。
試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝った。この後もカープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。
1984年2月28日、鹿児島でのロッテオリオンズとのオープン戦では、以下のような、山崎・高橋・川口のスイッチヒッター3人以外は左打者だけのオーダーを組んでいる。
守備 | 選手 |
---|---|
二 | 山崎隆造 |
中 | 長嶋清幸 |
遊 | 高橋慶彦 |
一 | 長内孝 |
三 | 小早川毅彦 |
左 | 西田真二 |
右 | 定岡徹久 |
捕 | 山中潔 |
投 | 川口和久 |
日本球界初のアカデミー
アメリカ合衆国のメジャーリーグでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏季にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)
日本ではそれまで下部組織は国内の2軍だけだったが、チームがメジャーリーグなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々のデメリットを危惧したことを受けて、上記メジャーリーグのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。
クモ男
1990年5月12日開催の対巨人7回戦(広島市民球場)6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋をはいた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったといわれるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者だった。この日、野球中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件についてマスコミからコメントを求められるや「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され罰金20万円の刑事処分をうけた。なお、この男は2001年頃のテレビ番組『あの人は今!?』で取材を受けた際、「今はメジャーリーグに興味が移った」という旨の発言をしている。2007年4月5日(木)の対横浜戦におけるRCCインターネットラジオ内で、解説の安仁屋宗八は広島市民球場開設50年の想い出を聞かれ一番初めにこの事件のことを口にした。また後にこのクモ男と居酒屋で飲んでいたことも語った。
なお、2009年5月16日の対巨人8回戦(マツダスタジアム)でも、作務衣姿の男が5回裏終了後のグラウンド整備中に三塁側ベンチ横のバックネットによじ上る事件が起きた。男は5mほど登って観客に手を振ったあと球場係員に注意されて自席に戻ったため不問とされた。試合にも影響はなかったが、スポーツ紙はこれを「19年ぶりにクモ男が出現」と報じた[7][8]。
放火事件
1998年5月27日開催の対横浜戦(広島市民球場)試合終了後、広島が敗戦したことに怒り、広島のファンが右翼席のごみに放火した。火はすぐに消し止められ、けが人はなかった。
2001年と2004年の順位
1998年から2008年まで11年連続Bクラスだが、2001年は勝率では3位ながら、順位では4位となった。これはセ・リーグの順位決定方式が従来の「勝率優先」から「勝利数優先」となった為で、広島はシーズンを勝率3位の68勝65敗7分(.511)で終えたが、横浜の69勝67敗4分(.507)に勝利数で下回り、4位になってしまった。シーズン中は試合消化の早いチームが上位になりやすく、また引き分けの価値が負けに等しくなるなど不評で、翌年からの従来通り「勝率優先」に戻された。このため、2004年は60勝77敗1分(.437)で敗数は最下位(6位)だったが、逆に「勝率優先」に戻ったことが幸いして勝率では敗数5位だった横浜を僅差で上回り、順位では5位となった。
水道管破裂事件
2007年4月12日開催の対巨人戦(広島市民球場)2回表の巨人の攻撃中、突然3塁ベンチの水道管が破裂し、10分間試合が中断した。巨人の門倉健投手が最も近くにいたが、少し濡れた程度だったらしい。
スパイダーマン事件
2005年7月9日開催の対巨人11回戦(広島市民球場)試合終了後、広島が勝利したことに嬉しさのあまりか、広島ファンのスパイダーマンがグラウンド内に乱入したが、すぐにグラウンド外につまみ出された。試合は、広島が9-8で巨人にサヨナラ勝ちした。
社会人野球大会出場
カープ2軍チームは2002年から社会人野球の公認大会であるJABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。
- 戦績一覧
- 2002年 1回戦敗退(2-3 三菱三原硬式野球クラブ)
- 2003年 優勝(決勝戦:4-0 三菱重工広島)これは全国の社会人野球の大会でプロチームの初めての優勝だった
- 2004年 優勝(決勝戦:4-3 三菱自動車水島=現・倉敷オーシャンズ)
- 2005年 準決勝敗退(準決勝:4-6 デュプロ)
- 2006年 予選リーグ敗退(7-0 常石鉄工、1-4 JFE西日本 予選Bグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
- 2007年 予選リーグ敗退(8-1 ツネイシホールディングス野球クラブ、2-3 伯和ビクトリーズ 予選Aグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
- 2008年 優勝(決勝戦:8-1 三菱重工広島)
ベースボールドッグ
ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では背番号111のカープのユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの[9]ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。
この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗したベースボール・モンキーとしてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。
2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなし、多くのプロ野球ファンを魅了した。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。
2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。
始球式
本拠地での開幕試合は広島市長が始球式を行うこともあり、有名人の起用があまり無く、2004年まではほとんどは抽選で選ばれた子供たちなどの一般者が投げることが多かったが、2005年から主にカープファンの有名人、番宣絡みでの有名人起用を増やしてきた。
- 過去の有名人の始球式
- 2004年
- 2005年
- 角田信朗(2005年4月17日対横浜戦 付き添いにチェ・ホンマン。打者・石井琢朗。6月に広島グリーンアリーナで行われるK-1の宣伝告知を兼ねて)
- 堂珍嘉邦(CHEMISTRY)(1回目)(2005年5月21日対楽天戦 4492(よしくに)の背番号が入ったユニフォームの姿で投球。打者・礒部公一)
- 中尾明慶(1回目)(2005年7月8日対巨人戦 打者・清水隆行。同日TBS系列で放送のドラマ「ドラゴン桜」の番宣告知を兼ねて)
- TIM(レッド吉田・ゴルゴ松本)(2005年8月3日対巨人戦 打者・川中基嗣。「TIM神様の宿題」の企画。投手役がゴルゴ、捕手役がレッド)
- 尾方剛(2005年9月2日対巨人戦 中国電力所属・2005年世界陸上男子マラソン銅メダリスト 打者・清水隆行)
- キム・ヨンチョル(2005年9月3日対巨人戦 韓国人俳優 打者・清水隆行)
- 2006年
- ※実際は田中のみ投球
- 2007年
- ※例年地元開幕戦は市長が投げるのが恒例だったが、この年のみ異なった
- 2008年
- 『少林少女』ラクロスチーム選抜の4人(原田佳奈・乙黒えり・いとう麻見・千代谷美穂)も登場
- 2009年
- ピッチャーはEBIが担当し、ファースト・阿部義晴、セカンド・手島いさむ、サード・奥田民生、ショート・川西幸一のシフトとして参加
- 川村陽介(2009年4月30日対巨人戦 映画『ROOKIES-卒業-』番宣 打者・松本哲也)
- 捕手として中尾明慶も登場
- 1999年度には球団設立50年として過去のカープOB、当時の現役選手が連日広島市民球場で始球式を行った。
月日 | 対戦相手 | 氏名 | 備考 |
---|---|---|---|
4月6日 | 阪 神 | 白石勝巳 | ※1 |
4月7日 | 阪 神 | 長谷川良平 | |
4月8日 | 阪 神 | 長谷部稔 | |
4月9日 | ヤクルト | 渡辺信義 | |
4月11日 | ヤクルト | 松山昇 | ※2 |
4月20日 | 巨 人 | 川本徳三 | |
4月21日 | 巨 人 | 備前喜夫 | |
4月23日 | 中 日 | 原田信吉 | |
4月24日 | 中 日 | 緋本祥男 | |
4月25日 | 中 日 | 平山智 | |
5月8日 | 中 日 | 古葉竹識 | |
5月9日 | 中 日 | 鵜狩道夫 | |
5月11日 | 巨 人 | 山本一義 | |
5月12日 | 巨 人 | 安仁屋宗八 | |
5月28日 | 横 浜 | 衣笠祥雄 | |
5月29日 | 横 浜 | 大石弥太郎 | |
5月30日 | 横 浜 | 三村敏之 | |
6月11日 | ヤクルト | 河合昭時 | |
6月12日 | ヤクルト | 高橋里志 | |
6月13日 | ヤクルト | 久保俊巳 | |
6月15日 | 阪 神 | 水沼四郎 | |
6月16日 | 阪 神 | 深沢修一 | |
6月25日 | 巨 人 | 木下富雄 | |
6月27日 | 巨 人 | 山本浩二 | ※3 |
7月6日 | 横 浜 | 北別府学 | ※4 |
7月7日 | 横 浜 | 小林聖始 | |
7月8日 | 横 浜 | 今井譲二 | |
7月30日 | 巨 人 | 金石昭人 | |
7月31日 | 巨 人 | 川口和久 | |
8月1日 | 巨 人 | 高橋慶彦 | |
8月4日 | 横 浜 | 渡辺弘基 | |
8月5日 | 横 浜 | 宮本幸信 | |
8月13日 | 中 日 | 及川美喜男 | |
8月14日 | 中 日 | 高木宣宏 | |
8月15日 | 中 日 | 福島久晃 | |
8月19日 | ヤクルト | 新美敏 | ※5 |
8月25日 | 阪 神 | 小川達明 | |
8月27日 | 巨 人 | 高橋直樹 | |
8月28日 | 巨 人 | 定岡徹久 | |
8月29日 | 巨 人 | 中利夫 | |
9月4日 | 中 日 | 野村謙二郎 | |
9月5日 | 中 日 | 江藤智 | |
9月14日 | ヤクルト | 前田智徳 | |
9月15日 | ヤクルト | 浅井樹 | |
9月25日 | 横 浜 | 金本知憲 | |
9月26日 | 横 浜 | 福地寿樹 | |
9月28日 | 阪 神 | 玉木朋孝 | |
9月29日 | 阪 神 | 木村拓也 | |
9月30日 | 阪 神 | 嶋重宣 | |
10月1日 | 阪 神 | 江夏豊 | ※6 |
10月3日 | ヤクルト | 朝山東洋 | |
10月4日 | ヤクルト | 野々垣武志 | |
10月5日 | 横 浜 | 新井貴浩 | |
10月6日 | 横 浜 | 東出輝裕 | |
10月11日 | 巨 人 | 緒方孝市 |
※1 実際の始球式は秋葉忠利広島市長が行ったためVTRで登場。
※2 前日が雨天中止のため長持栄吉と務める。
※3 前日が雨天中止のため金城基泰と務める。
※4 来日したゲイル・ホプキンスと務める。
※5 前日が雨天中止のため杉本正志と務める。
※6 8月16日が雨天中止となったため。
応援の先駆者
鳴り物応援 も参照 広島では、現在のスタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。
- トランペット応援・選手別応援歌
- 戦前のプロ野球ではチームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られた(大阪タイガースや阪急軍のブラスバンド演奏は数々の文献に出ている)が、戦後は手拍子や野次を中心にした応援が主流だった。しかしカープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したことから応援スタイルが徐々に変化していった(トランペット応援の発祥がカープにあるというのは「プロ野球ヤジ講座」〔おかひろみ編・自由国民社〕、「巨人がプロ野球をダメにした」〔海老沢泰久著・講談社〕にも記述されている)。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている。最初の1コーラス目は選手別応援歌を歌い、続く2コーラス目以降はトランペット演奏に合わせて選手名をコールする。
- ジェット風船
- スクワット応援
- 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1990年代に泥酔した観客が始めたものと伝えられている。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(ズームイン!!朝!の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
- 高木豊が数えたところ、1試合のスクワット回数は約700回(「伊集院光 深夜の馬鹿力」豆知識予備校より)。
1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーのメガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。
ホームで9回裏には、「燃える赤ヘルぼくらのカープ」が流れる。
応援歌
- 『勝て勝てカープ』(歌・塩見大治郎)
- 『それ行けカープ 〜若き鯉たち〜』(歌・塩見大治郎、南一誠、鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)
- 『燃える赤ヘルぼくらのカープ』(歌・事崎正司=現・加納ひろし)
- 『痛快!赤ヘル音頭』(歌・柏村武昭)
- 『ゴーゴーカープ』(歌・富永一朗)
- 『Red~僕らの広島カープ~』(歌・石田匠)
- 『わしを市民球場に連れてって。』(歌・堂珍嘉邦)
- 『勝利を我らに!~Let's win!~』(歌・鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)
主なキャンプ地
キャッチフレーズ
- 1953年 闘志なき者は去れ
- 1973年 スピードとスリルある野球
- 1974年 HOTTER BASEBALL!
- 1975年 100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉)
- 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST
- 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP
- 1978年 ALL MEN DASH!
- 1979年 LET'S SPARK!
- 1980年 3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START)
- 1981年 3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL)
- 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL
- 1983年 START FROM ZERO
- 1984年 BLAZING BASEBALL
- 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL
- 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力)
- 1987年 3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION)
- 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ)
- 1989年 WINNING SMILE
- 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発)
- 1991年 WILL TO VICTORY
- 1992年 VALUE OF VICTORY
- 1993年 RED CHARGE
- 1994年 TOTAL BASEBALL
- 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER
- 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP
- 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現)
- 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて)
- 1999年 YES, WE CAN
- 2000年 START FROM ZERO ZERO
- 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」
- 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」
- 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」
- 2004年 WILL TO VICTORY
- 2005年 REBORN TO WIN「赤ヘル再生」
- 2006年・2007年 ALL-IN
- 2008年 ALL-IN激
- 2009年 ALL-IN烈
カープ応援番組
カープを取り扱う雑誌
- 広島アスリートマガジン 選手が表紙に起用されている月刊誌、株式会社サンフィールド
脚注
- ↑ 定本・プロ野球40年 報知新聞社、1976年、121頁
- ↑ 真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社
- ↑ 真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社
- ↑ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。
- ↑ この当時は引き分け再試合制であり、引き分け試合は事実上ノーゲームと同じ扱い(ただし記録は残る)だった。そのため、勝数の差=ゲーム差であった。
- ↑ 横浜・ダイエーはFA残留は認めなかった一方でFA選手の獲得は行っていた。ダイエーでは村松有人が移籍を前提としたFA宣言をした際は、例外的にFA残留を認める姿勢で交渉したが、球団への不信感もあり翻意できなかった。ソフトバンクの経営となってからは姿勢を明らかにしていないが、残留を前提としたFA宣言選手はまだいない。横浜は三浦大輔が初のFA残留選手となった。
- ↑ 19年ぶり!? 広島の巨人戦に「クモ男」(日刊スポーツ 2009年5月17日付)
- ↑ 19年ぶりクモ男出現!バックネットに登り手を振る(スポーツニッポン 2009年5月17日付)
- ↑ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。
関連項目
外部リンク
- 広島東洋カープ
- カープ情報(中国新聞より)
- 広島アスリートマガジン
- たる募金(中国新聞より)
- RCC CARP Internet Stadium(RCC 中国放送より)
- こいうた - カープ応援団作曲班公式サイト
- 全国緋鯉会連合ホームページ
- 叶鯉会
- CSJ-NET.COM
- 経済調査統計月報 バックナンバー(中国電力株式会社より)
- 広島東洋カープと新球場の経済効果(2006年3月)(PDFファイル)
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