「地下鉄サリン事件」の版間の差分
(→その他) |
(→この事件を扱ったドラマ) |
||
242行目: | 242行目: | ||
*「[[緊急報道ドラマスペシャル オウムVS警察 史上最大の作戦]]」(日本テレビ)(2004年2月24日放送) | *「[[緊急報道ドラマスペシャル オウムVS警察 史上最大の作戦]]」(日本テレビ)(2004年2月24日放送) | ||
*「[[地下鉄サリン事件 15年目の闘い〜あの日、霞ヶ関で何が起こったのか〜]]」(フジテレビ)(2010年3月20日放送) | *「[[地下鉄サリン事件 15年目の闘い〜あの日、霞ヶ関で何が起こったのか〜]]」(フジテレビ)(2010年3月20日放送) | ||
+ | ====ドキュメンタリー==== | ||
+ | オウム20年目の真実(2015年2月21日。テレビ朝日) | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == |
2015年2月21日 (土) 19:12時点における版
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年(平成7年)3月20日に東京都の地下鉄でカルト新興宗教団体のオウム真理教が起こした化学兵器を使用した無差別テロ事件である。
神経ガスのサリンが散布されて、死者を含む多数の被害者を出した事件である。この事件は、大都市の民間人を標的とした世界初の毒ガステロ事件であり、日本の社会のみならず世界に大きな衝撃を与えた。警察庁による正式名称は地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件(警察白書にある表記)。
目次
概説
1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄(東京メトロ)、以下営団地下鉄)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。
事件直後、この5編成以外の編成で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5編成以外で発生はなかった。しかし、乗客等に付着したり、気化したりしたサリンは他の駅や路線にも微細に拡散していった。
有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル (PAM) は当時多くの病院で大量ストックする種類の薬剤ではなく(主に農薬中毒用の薬だった)、被害がサリンによるものだと判明すると同時に都内でのストック分が使い果たされてしまった。このため全国の病院・薬品卸会社へ収集令が出されることになり、東海道新幹線沿線では各病院・卸会社の使者が最寄り駅まで薬剤を届けて別の使者が東京行こだまに乗車して各駅で受け取るという作戦が展開された(後述)。
営団地下鉄では事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
事件から2日後の3月22日に、警視庁は新興宗教団体オウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。
東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、林郁夫を除く散布実行犯全員に死刑を言い渡した。林郁夫は自首し、さらに事件の詳しい内容などを自供したため無期懲役。2009年(平成21年)12月10日、最高裁判所で上告が棄却されたため、総合調整役である井上嘉浩の死刑が確定した。
背景
オウム真理教に対する目黒公証役場事務長拉致事件・坂本堤弁護士一家殺害事件などの疑惑追及の動きが高まり、警察の強制捜査が想定されていた。事件2日前の3月18日、麻原ら幹部を乗せたリムジンにおいてサリンを散布する案が浮上し、強制捜査の直前に大規模なテロ事件を起こせば、警察の捜査の目を逸らすことができると考え、朝の通勤時間帯で混雑する地下鉄内でのサリンの散布を信者達に命じた(リムジン謀議。また車中謀議とも)。リムジン謀議には麻原、村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一の6人の幹部がいたが、謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。
このため霞ヶ関や国会議事堂・永田町などの、国家の中核を支える重要な地点が標的にされた。後の調べによると、警視庁も標的になっていたのではないかと言われている。
2010年(平成22年)2月22日、共同通信は、事件当時の警察庁長官だった国松孝次が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱのインタビューに答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ」と報道している。
犯行
1995年(平成7年)3月20日は平日の月曜日で、事件はラッシュアワーのピーク時に発生した。霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多い。しかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多く、8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の内部を知っている者が犯人の中にいたからではないかと推測できる。
液体のサリンはビニール袋に入れられた上で聖教新聞としんぶん赤旗の新聞紙に包まれていた。この新聞の読者は、ほぼこれらを発行している団体の構成員(聖教新聞は創価学会、しんぶん赤旗は日本共産党が発行)とその支持者に限られるため、濡れ衣を着せ、一時的にオウムへの矛先をそらすためだったと思われる。各実行犯は、およそ1リットルの袋詰めを2つを運び、林泰男だけが3つを携帯した。
犯人は割り当ての列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いた後に列車を降り、各々が共犯者の用意した自動車で逃走した。営団地下鉄はラッシュアワー時には非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。
この事件は麻原が首謀、村井秀夫が総括指揮を担当、そして井上嘉浩が現場調整役を務めた。サリンは土谷正実・遠藤誠一・中川智正が生成したものが使われた。サリン散布役は5人選出されたが、林郁夫のみ麻原が選出し、残り4人は村井が選出した。
千代田線(我孫子発代々木上原行・JRの車両による運用)
マスク姿の林は当日、千駄木駅より入場し、綾瀬駅・北千住駅で時間を潰した後、JR東日本常磐線我孫子駅から直通する代々木上原行列車番号「A725K」の先頭、1号車に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分ごろ新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。列車はそのまま走行し、二重橋前駅 - 日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのを境に次々に被害者が発生し、霞ケ関駅で通報で駅員が駆け付け、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが更に被害者が増えたことから次の国会議事堂前駅で運転を打ち切った。サリンとは知らずに危険物を排除しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負っている。
丸ノ内線(池袋発荻窪行)
丸ノ内線の池袋発は散布役の広瀬健一と送迎役の北村浩一が担当した。
広瀬は池袋から7時47分発(列車番号A777)の第3車両に乗車し、御茶ノ水駅でサリンを散布した。中野坂上駅で乗客から通報を受けた駅員が重症者を搬出し、サリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続した。終点荻窪駅に到着。新しい乗客が乗り込みそのまま折り返したため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が出ることとなった。同線では1人が死亡し、358人が重症を負っている。
丸ノ内線(荻窪発池袋行)
荻窪発丸ノ内線は散布役の横山真人と送迎役の外崎清隆が担当した。
横山は列車番号B701の5号車に新宿駅から7時39分に乗り込み、四ッ谷でパックに穴を1つ開けサリンを散布した。列車は8時30分に終点池袋駅に到着した。その際、本来なら終点駅で駅員によって車内の遺留物の確認が行われるがこの時はされなかった。A801として折り返し荻窪駅に向け出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップで掃除し、B901として池袋駅に再び戻った。列車は新宿駅に向け運行を継続した。列車はサリン散布の1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行停止された。同線では約200人が重症を負っているが、この電車は唯一死者が出なかった。
日比谷線(中目黒発東武動物公園行・東武の車両による運用)
中目黒発日比谷線は散布役の豊田亨と送迎役の高橋克也が担当した。
豊田は中目黒発東武伊勢崎線直通東武動物公園行きの列車番号「B711T」の先頭車両に7時59分に乗り込み、恵比寿駅でサリンのパックを刺した(ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。六本木駅 - 神谷町駅間で異臭に気付いた乗客が窓を開けたが複数の乗客が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者を病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出たため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は霞ケ関駅へ向けて運行継続された。列車は霞ケ関駅で運行停止した。同線では1人が死亡し、532人が重症を負っている。サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていた。また当時共同通信社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出している。
日比谷線(北千住発中目黒行・営団車両による運用)
北千住発日比谷線は散布役の林泰男と送迎役の杉本繁郎が担当した。
他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林は村井からの指示で3パックを携帯した。また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。彼は北千住発の列車番号「A720S」3号車に上野駅から7時43分に乗車した。林は秋葉原駅で実行犯のうち一番多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した。この状況下で一般乗客のとっさの判断を責められるものではないが、後にサリンによる被害が拡大することになってしまった。
サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま列車は運行を継続し、車内でも一時は収束したが、5分後、八丁堀駅に停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(この時の救出時の光景がテレビで中継された)。列車は直ちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため、「築地駅で爆発事故」という憶測が続いた。
小伝馬町駅ではサリンのパックが出されたことで、A720Sの後続列車である、八丁堀・茅場町・人形町・小伝馬町で運転を見合わせた4つの列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、小伝馬町駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させた後に小伝馬町駅に停車した列車の5列車が入線した。小伝馬町駅では5列車が到着し、内2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切った為、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧等でホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となった。小伝馬町駅は4人が死亡し、深刻な被害が発生した。
この路線では合計で8人が死亡し2475人が重症を負っている。
緊急処置
事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。次第に被害が拡大したため営団は8時35分、日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認が遅かったため、運行が継続された。
9時27分、営団地下鉄のすべての路線で全列車の運転見合わせを決定した(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった南北線も含む。副都心線は未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。
被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。
大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになり、丸ノ内線・千代田線については被災車両を車庫や引込み線に退去させたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)して運転を再開したが、サリンが散布されたことが判明して自衛隊による除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は銀座駅 - 四谷三丁目駅間、千代田線は大手町駅 - 表参道駅間を部分運休した(このとき、霞ケ関駅の引込み線にあった千代田線の被災車両も松戸電車区(現在の松戸車両センター)まで回送されている)。除染作業終了後はほぼ所定どおりのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
上記3路線以外の路線は確認を終えた路線から順次運転を再開させたが、全駅、全列車に警察官、警備員などが配置される異例の事態となった。
救助
東京消防庁は化学機動中隊・特別救助隊・救急隊など多数の部隊を出動させ被害者の救助活動や救命活動を行った。
警視庁では東京消防庁との連携の下、警察当局としてもまずは機動隊の機動救助隊を出動させ被害者の救出を行った。
地下鉄構内で「急病人」「爆発火災」「異臭」という通報があり駆けつけた警察は、同じく通報があり駆けつけた消防と協力して事件現場での救出活動を展開。
当初はサリンによる毒ガス散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に飛び込み被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が、原因物質の特定に当たったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった。さらに、この分析結果は、「化学物質が原因の災害である」ことを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで、時間を要した。そのため、消防吏員や警察官にも多数の二次被害が発生、消防・救急隊員の負症者は135名にのぼるほか、警察官にも多数の負症者を出した。さらに、現場で負症者の除染が行われなかったために、搬送先病院でも負症者に付着したサリンが気化し、医療関係者を襲うという二次被曝も発生した。
警察
当時の警視総監であった井上幸彦により緊急記者会見が開かれ、都内地下鉄構内にて「無差別テロ」発生及びオウム真理教が首謀者であると全面的に発表。同日警視庁内に井上警視総監をトップに対策本部を設置。警視総監が事件の総合調整と捜査の総指揮を行う。
対策本部には警視庁刑事部長、刑事部参事官・捜査一課長・捜査一課理事官・捜査一課管理官など主だった刑事部幹部と捜査幹部が招集され警備公安警察の各部長も招集された。
鑑識
警察と消防が救出活動を行っている最中、警察の捜査当局も救出活動と並行しつつ現場検証を行った。警視庁鑑識課が現場へ急行し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し現場検証を開始した。
警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官が検査するとその毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明。この情報がすぐさま関係各所へ伝達されたので、消防や病院は早期の段階でサリンと判定し対NBC兵器医療を開始した。
救命活動
東京消防庁・病院
東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」の通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」の報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。
この事件では特別区(東京23区)に配備されているすべての救急車が出動した他、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では、救急車が来ない・救急車が来ても搬送が遅いという状況が見られた。
緊急に大量の被害者の受け入れは通常の病院施設では対応困難なものであるが、聖路加国際病院は当時の院長日野原重明の方針[1]から大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていたため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる。」との宣言のもと無制限の被害者の受け入れを実施、被害者治療の拠点となった[2]。又、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療は直ちに中止。その後、警察から検証の為にとの理由で、被害者の救急診療に携わった病院スタッフの白衣などが押収された。虎の門病院も、数名の重症被害者をICU(集中治療室)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った。
また、聖路加国際病院から「大量のPAMが必要」と連絡を受けた薬品卸会社は、首都圏でのPAMの在庫が病院も含めほとんどなかったことから、西日本の各営業所および病院にあるPAMの在庫を東京に緊急輸送する為、東海道新幹線に社員を乗せ、停車駅ホームで在庫のPAMを受け取り、輸送する緊急措置が取られ、陸上自衛隊衛生補給処からもPAM2,800セットが送られた。またPAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや硫酸アトロピンを関西地区から緊急空輸し羽田からはパトカー先導にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で、有機リン薬剤を作っている責任上解毒剤も用意しておくのは同社の責任だとして毎年製造を続けていた。
有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には、2時間で2本が標準とされる。
当時サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫がテレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファックスで伝えたため、適切な治療の助けとなった。一方で、「急病人」「爆発火災」「異臭」という通報で駆けつけた警察官や消防官の多くは、サリンに対してはまったくの無防備のまま、地下鉄駅構内に飛び込み、救急救命活動に当たったため、多数の負傷者を出した。そのため、消防官・警察官・病院スタッフにも多数の二次被害が発生、消防・救急隊員の負傷者は135名にのぼり、警察官にも多くの負傷者が発生した。さらに、現場で負傷者の除染が行われなかったために、搬送先病院でも負傷者に付着したサリンが気化し、医療関係者を襲うという二次被曝も発生した。
この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。
自衛隊
陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第101化学防護隊、第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)及び陸上自衛隊化学学校から教官数人が専門職として初めて実働派遣された。除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った。第101化学防護隊はサリンなどの神経ガスをはじめとした化学兵器についての知識や経験が豊富であり、核兵器・生物兵器・化学兵器(いわゆるNBC兵器)の防護技術に精通した日本最高のスペシャリストである。この事件がきっかけでその重要性が示されることとなった。なお、派遣した隊員が出動から約8時間以上もの間、防護服を着用状態のため、尿意に対し対処できず、後に支給された戦闘用防護衣には排尿器(専用紙オムツ)が支給されることとなった。
また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から医官21名及び看護官19名が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った。
幸い自衛隊中央病院から駆けつけた医師が直前の幹部研修において化学兵器対応の講習を受けており、現場派遣時とっさに研修資料を持ち出して聖路加病院に到着し研修の内容資料と患者の様子から化学兵器によるテロと判断し、PAMや硫酸アトロピンの使用を進言したのも早期治療に繋がった。
被害者
事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った。多くの者はそれによって症状を悪化させた。犠牲者のうち何名かは列車の乗客を救助することでサリンの被害を受けた。
被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、地下鉄に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。
また、その当時、重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には未だに、重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる。
裁判では迅速化のため、重症者は14人だけに絞る訴因変更を行っている。
作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』がある。
自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーのさかはらあつしによる著書『サリンとおはぎ』がある。
ジャーナリストの辺見庸も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。
死者
- 33歳女性 1995年3月20日午前8時5分頃死亡(日比谷線・北千住発・小伝馬町駅で搬送)
- 92歳男性 1995年3月20日午前8時10分頃死亡 (日比谷線・中目黒発・神谷町駅で搬送)
- 50歳男性 1995年3月20日午前9時23分頃死亡(千代田線・霞ケ関駅で搬送)
- 29歳男性 1995年3月20日午前10時2分頃死亡 (日比谷線・北千住発・築地駅で搬送)
- 50歳女性 1995年3月20日午前10時20分頃死亡(日比谷線・北千住発・小伝馬町駅で搬送)
- 42歳男性 1995年3月20日午前10時30分頃死亡(日比谷線・北千住発・八丁堀駅で搬送)
- 51歳男性 1995年3月21日午前4時46分頃死亡(千代田線・霞ケ関駅で搬送)
- 54歳男性 1995年3月21日午前6時35分頃死亡(丸ノ内線・池袋発・中野坂上駅で搬送)
- 64歳男性 1995年3月22日午前7時10分頃死亡(日比谷線・北千住発・小伝馬町駅で搬送)
- 53歳男性 1995年4月1日午後10時52分頃死亡(日比谷線・北千住発・小伝馬町駅で搬送)
- 21歳女性 1995年4月16日午後2時16分頃死亡(日比谷線・北千住発・築地駅で搬送)
- 52歳男性 1996年6月11日午前10時40分頃死亡(日比谷線・北千住発・築地駅で搬送)
- 年齢性別不明 1995年3月21日か22日頃死亡(2008年12月施行のオウム真理教犯罪被害者救済法上での死者と認定。事件後入浴中に水死したためサリン吸引と死亡の因果関係が証明できないとして、起訴状では殺人未遂罪の被害者とされている、2010年3月6日に被害者の会が救済金を支給していると公表し、直接の死者には数えられないが、事実上、13人目の死者として認められた。)
真犯人の発覚
教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、全国の教団施設計25箇所で家宅捜査を実施した。家宅捜査で自動小銃や、軍用ヘリ、更にはサリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコールや三塩化リン、更にはサリンの溶剤として使用されたアセトニトリルなどの薬品も発見された。また、事件前の1月には上九一色村の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。
事件から19日後の4月8日、教団幹部であった林郁夫を放置自転車窃盗の容疑で逮捕した。警察は当初、教団の実態把握を目的に取調べを行っていたが、麻原や教団の不信感があった林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と自供した。林の全面自供で、5月6日、警察は地下鉄サリン事件をオウム真理教による組織的犯行と断定した。
関係容疑者の逮捕
- 首謀者
- 麻原彰晃(5月16日逮捕・死刑確定)
- 指揮者・調整役
- サリン散布実行犯
- 運転手
- サリン製造者
余波
地下鉄サリン事件は国内史上最悪のテロ事件であった。世界においても有数の凶悪テロとして犯行は社会の大きな混乱と広範囲の恐怖を引き起こすこととなった。
オウム真理教
事件によりオウム真理教は宗教法人の認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕により脱退者が相次ぎ(地下鉄サリン事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下になった)、オウムは組織として大きな打撃を受け破産したが、現在はAlephに改組し細々と活動を続けている。また、代表の上祐史浩は、地下鉄サリン事件が起きた際、オウム真理教の事件の関与を否定している。日本の公安審査委員会は破壊活動防止法に基づく解散措置の適用を見送ったが、アメリカ国務省は現在もAlephをテロリストグループに指定している。
多くの地方自治体や賃貸住宅が信者の居住を拒否し、商店主が信者への商品の販売を拒否した店もあった。また、信者への住居の賃貸、土地の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に公金を使うこととなった。
被害者の後遺症・PTSD
事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下など、比較的軽度のものから、PTSDなどの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在の所被害者への公的支援はほとんど無い。
不審物への対応
この事件後、全国の多くの駅ごみ箱が撤去され、営団地下鉄はこれ以降全車両のドアに「お願い 駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告ステッカーを貼りつけた(その後、東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して英語版も掲出、同時期に都営地下鉄にも拡大)。同様のステッカーが他の鉄道事業者に波及するようになるのはアメリカ同時多発テロ事件以降である。
その他
- 事件後地下鉄内に残されたサリンの除去に、創設後初めて陸上自衛隊大宮化学学校教官と、化学防護小隊が当たった。
- 地方の中学校及び高等学校などでは、この事件を受けて東京への修学旅行を中止するところもあった。
- 3月30日、事件の指揮に当たった、国松孝次警察庁長官(当時)が自宅のマンション前で銃撃される事件が発生(警察庁長官狙撃事件)。オウム捜査の攪乱を目的に行ったと思われるが、犯人が特定されないまま、2010年3月30日に時効を迎えた。
- 4月19日には横浜駅異臭事件が発生したが、オウムとは全く関係無い便乗犯による犯行であった。
- 5月16日、松本被告逮捕の夜、青島幸男東京都知事(当時)宛の郵便物が開封した瞬間に爆発する事件が発生する(東京都庁小包爆弾事件)。
- 同年6月に起きた全日空857便ハイジャック事件で犯人がオウム教団を名乗り、液体の入ったペットボトル(サリン入りとしていたが実際には水)を見せ「松本を釈放しろ」と要求した。犯人逮捕後、オウムとは無関係の愉快犯によるものであったことが判明した。
- 同年7月15日に『耳をすませば』と同時公開された『On Your Mark ジブリ実験劇場』はその内容やサリン事件の余波から、オウム真理教がモデルと考えたファンが多かったが、同作品の下書きは事件の2ヶ月前のため、実際はただの偶然である。
- 2009年、裁判員候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。
- 2010年3月20日、発生から15年となった、東京メトロ霞ケ関駅(東京都千代田区)で慰霊式が開かれ、鳩山由紀夫首相や前原誠司国交相らが献花に訪れた。
東日本大震災と異なり3月20日では取り上げていない。松本サリンは2014年6月27日の超報道で特集放送された 2015年1月にテープ公開された。1月14日の超報道で当時の安藤優子のシーン放送された
報道関係
- 事件が発生した日、テレビではNHK教育以外全ての局において8時30分以降の通常番組が報道特別番組に変更された。NHKを含む在京キー局の中で、現場映像と同時に事件速報がもっとも早かったのが、テレビ朝日で生放送中だった『スーパーモーニング』であった。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。
- 新聞・テレビなどの各マスメディアは、本年1月に発生した阪神・淡路大震災を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「緊急報道スペシャル」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。
- 新聞も一般紙はもちろんのことスポーツ紙までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどでプロ野球関係が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。
- ドイツでは『ナチスの毒ガス東京を襲う』と報道された。
- 事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連のニュースはトップとして扱われた(全日空857便ハイジャック事件や麻原教祖逮捕など)。オウム真理教による一連の行動を察知していなかったアメリカ合衆国のCNNでは、日本支局経由で速報を伝える段階で「アラブ系テロリストによる犯行の可能性がある」と報じた。
特記事項
事件5日前の3月15日に霞ヶ関駅で放置された3個のアタッシェケースの内1個から実際に蒸気が噴出する事件が発生した(霞ヶ関駅アタッシェケース事件)。後にそれがオウム幹部たちによって設置され、猛毒のボツリヌス菌の散布を目論んでいたものであったことが判明した。なお、アタッシェケースは警視庁・警察庁構成員の人々が利用する「A2」出入口構内に置かれていた。
地下鉄サリン事件で使用されたサリンは松本サリン事件と同様サリンと他の薬品を混合させた純度の低いものであることが判明している。このため異臭が発生した。なお純度の高いものは無色無臭で、皮膚からも体内に浸透する。これに関して、麻原は「純度は低くてもかまわない」と信者に言い、純度よりも攻撃を最優先させたのではないかとされている(純度が高いものが使用されていたら死者が数千人以上出ていたと推定されている)。
北朝鮮の工作員がオウム真理教のサリン製造に関与していたという都市伝説があったが、元韓国国家安全企画部(現・国家情報院)部員の韓国系日本人が近年著した書籍によると、そのサリンは日本国外から持ち込まれたものと合わせて、現在日本本土に保管されているという。
脚注
関連の攻撃事件
- 1974年三菱重工爆破事件、8人死亡・367人負傷
- 1980年新宿西口バス放火事件、6人死亡・14人負傷
- 1994年松本サリン事件、8人死亡・660人負傷
- 2001年アメリカ同時多発テロ事件、2,993人死亡・6,291人負傷
- 2001年アメリカ炭疽菌事件、5人死亡・17人負傷
関連の鉄道攻撃事件
- 2003年大邱地下鉄放火事件、192人死亡・148人負傷
- 2005年ロンドン同時爆破事件、56人死亡・700人負傷
- 2004年モスクワ地下鉄爆破事件、41人死亡・約102-120人負傷
- 2010年モスクワ地下鉄爆破事件、39人死亡・102人負傷
- 2004年香港地下鉄放火事件(中国語)、14人負傷
この事件を扱ったドラマ
- 「緊急報道ドラマスペシャル オウムVS警察 史上最大の作戦」(日本テレビ)(2004年2月24日放送)
- 「地下鉄サリン事件 15年目の闘い〜あの日、霞ヶ関で何が起こったのか〜」(フジテレビ)(2010年3月20日放送)
ドキュメンタリー
オウム20年目の真実(2015年2月21日。テレビ朝日)
関連項目
- 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律(組織的犯罪処罰法)
- 破壊活動防止法(破防法)
- 無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(団体規制法・オウム新法)
- アンダーグラウンド (村上春樹) - 村上春樹による当事件の被害者・関係者へのインタビューをまとめた作品
- 伊東乾 (作曲家) - 現代音楽の作曲家。実行犯の1人・豊田を追ったドキュメンタリー『さよなら、サイレント・ネイビー』で2006年の開高健賞。
- 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)
- 東京地下鉄(東京メトロ)
- 野中広務 - 当時の国家公安委員会委員長