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英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した{{Sfn|長沼|2015|p=84 - {{Harvtxt|藤田|2010}}による。}}。 | 英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した{{Sfn|長沼|2015|p=84 - {{Harvtxt|藤田|2010}}による。}}。 | ||
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+ | 1913年(大正2)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。{{Sfn|都築|1917|p=351}} | ||
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*城山三郎『冬の派閥』新潮社、1982年、{{JPNO|82016419}} | *城山三郎『冬の派閥』新潮社、1982年、{{JPNO|82016419}} | ||
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*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41 | *{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41 | ||
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93 | *{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93 | ||
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563 | *{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563 | ||
+ | *{{Aya|片桐|安藤|year=1994}} 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、{{NDLJP|6045201/23}}{{閉}} | ||
*{{Aya|都築|year=1917}} 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、{{NDLJP|955971}} | *{{Aya|都築|year=1917}} 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、{{NDLJP|955971}} | ||
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吉田 知行(よしだ ともつら/ともゆき、1844年2月9日-1913年5月22日)は、幕末・明治期の尾張藩士、尾張徳川家の家職。同家の当主・徳川慶勝の命により北海道の開墾地を調査して遊楽部(のちの八雲町)を選定し、1878年から開拓委員として現地で開墾に携わった。1883年に同家の家令となり、当主・徳川義礼とともに欧州へ留学。帰国後、八雲に西欧酪農を導入した。晩年は愛知郡長久手村で暮らした。先編集者:由亜辺出夫
経歴
天保14年12月21日(1844年2月9日)、名古屋で、尾張藩士の父・知紀と母・林氏の間に生まれる[1]。
1875年(明治8)12月、尾張徳川家第16代当主・徳川義宣の死去、徳川慶勝の再家督に伴い、同家の家扶を命ぜられる[2]。
1877年(明治10)7月、徳川慶勝により、北海道の開墾地選定のため調査に派遣され、約3ヶ月間踏査。この調査を受けて、尾張徳川家は、明治維新政府から開墾地として遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の下付を受けた。[3]
1878年(明治11)7月、開拓委員として現地に派遣され、道路の開削や家屋の建築等を担当。同年11月に開墾地への移住が開始された。[3]
1883年(明治16)、尾張徳川家の家令となり、上京。開拓委員は海部昂蔵と交代した。[4]
1884年(明治17)頃、徳川義礼、野呂景義、堀鉞之丞らと英国・ロンドンへ留学[5]。3年間遊学した後、帰国[1]。
英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した[6]。
1900年(明治33)、退職し、吉田氏の旧領があった愛知郡長久手村岩作で暮らす[1]。
晩年、胃癌を患い、死去の前に本人の希望により北海道・八雲村に移る。
1913年(大正2)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。[1]
付録
関連文献
- 合田一道「北の歴史 動いた瞬間 開拓使の古文書 愛知県氏族移住事件」『朝日新聞』DIGITAL、2016年3月26日
- 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」『徳川林政史研究所紀要』no.44、2010年3月
- 城山三郎『冬の派閥』新潮社、1982年、JPNO 82016419
脚注
参考文献
- 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
- 長沼 (2015) 長沼秀明「徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
- 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
- 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23
- 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、NDLJP 955971