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山科区(やましなく)は、京都市を構成する11の行政区の一つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。

本項ではかつて同一地域に所在した宇治郡山科町(やましなちょう)、同町の町制前の名称である山科村(やましなむら)についても述べる。

概要[編集]

東山により京都盆地から、音羽山や醍醐山(笠取山)などにより近江盆地からは隔てられている。昔から京都東国とを結ぶ交通の要衝であった。

かつては滋賀県との境の農村だったが、現在は京都市街地や大阪ベッドタウンとなり、他地域からの移入者も多い。

東側は滋賀県大津市との県境に接しており、大津との結び付きも強い。また、南側は伏見区醍醐地区と接しており、山科区と同一の生活圏や経済圏を形成している。山科区と醍醐地区との繋がりは、伏見区中心部と醍醐地区の繋がりよりも深いと言われる。

地理[編集]

歴史[編集]

古代[編集]

山科周辺は古くから交通が盛んであり、東山を越える日ノ岡峠、大津宿へ抜ける逢坂関東海道の要所として知られていた。山科は東海道の街道町であり江戸時代には特に栄えた。また、逢坂から南へ抜ける奈良街道奈良に都があった頃の北陸道)、東山を日ノ岡の南で越える渋谷街道(東国と六波羅探題を結んだ)や滑石街道大岩街道など数多くの街道があった。

栗栖野の台地には縄文時代から人が住み弥生時代の大規模な集落跡も見つかっている。特に旧石器時代後期から室町時代にかけての遺跡が重なっている中臣遺跡は重要な遺跡である。

山科は古代より政権との結びつきが深く、669年には中臣鎌足によって精舎(山階寺)が作られ、7世紀末には天智天皇陵などが作られた。平安京比叡山延暦寺の創建後、安祥寺848年)・毘沙門堂門跡勧修寺900年)・曼荼羅寺(後の随心院991年)など多くの寺院が作られ、区外の山科川下流の醍醐・笠取山の山上・山麓には醍醐寺874年)が創建されている。

室町時代から戦国時代まで[編集]

中世には「山科荘」(やましなのしょう)という荘園があり、これを代々保持していた公家の一流は後に山科家と名乗っていたが、戦国時代を代表する教養人として知られた山科言継の代の1548年室町幕府によってこれを奪われている。

室町時代後期の1478年蓮如によって山科本願寺が建てられ、長大な土塁に囲まれた寺院群と寺内町が山科盆地の大きな面積を占めるようになった。しかし城郭都市のようになった本願寺の存在と門徒たちの勢いを恐れた細川晴元は、京都市内をほぼ勢力下に置いた日蓮宗徒らと結託して一向宗に打撃を加えようとした。

1532年天文法華の乱では日蓮宗徒たちは山科本願寺を陥落させ焼き討ちした(山科本願寺の戦い)。この後本拠を失った本願寺勢力は大坂石山本願寺)に移っている。山科本願寺は廃墟と化したが、今も高い土塁の跡が区内各地に残存している。

江戸時代[編集]

江戸時代は山科や四宮、そして髭茶屋追分(現在の大津市追分)までが東海道(三条通の開通に伴い、今は旧街道・旧三条通り等と呼ばれる)の街道筋として一続きの町となり、飛脚参勤交代をはじめ多くの人々が行き交った。髭茶屋追分からは京都を通らず大津宿伏見宿大坂を直接つなぐ伏見街道(大津街道)が山科盆地を南へ走っていた。また京都に住む天皇のため禁裏御料地として宮中に献上する作物を栽培したほか、近郊農村として京都の市民に野菜などを供給した。また大石良雄(内蔵助)は山科区の西の端にあたる西野山に住み、仇討ちまでの間、夜毎東山を越えて祇園に通いながら世間の目を欺いていた。

明治維新から第二次世界大戦まで[編集]

明治以降、琵琶湖疏水東海道本線、現在の京阪京津線などが山科を通り、1933年に京津国道(後の国道1号、現在の三条通)が開通し、大正から昭和にかけては繊維・染色関係の工場が建つなど、京都の郊外住宅・工業地として栄えた。

特に大きな工場は、1921年に西野にできた日本絹布であり、翌年鐘紡に吸収されその山科工場となった。多くの女工が周囲に住み、近隣には市場映画館もできるなど山科駅周辺の市街地化に貢献した。(山科工場は1970年に長浜に移転し、跡地は山科団地となっている。)

又、京都郊外のレジャー地区としてゴルフ場ダンスホール料亭なども開設されている。1931年に京都市東山区に編入されたが、この時点では住宅や工場は東海道沿いと山科駅周辺に集中しておりその他は竹やぶの散在する近郊農村だった。

第二次世界大戦後[編集]

戦後は、名神高速道路京都東インターチェンジや国道1号線五条バイパス、区内の外環状線国鉄(現JR西日本湖西線が開通している。高度成長期以降は盆地内の農地の宅地化が進み、大型団地が建設されるなど京都や大阪のベッドタウンとなった。ただし、この際に道路整備が追い付かなかった事が、区内各所での渋滞が慢性化している原因にもなっている。

1976年(昭和51年)に東山区から分区され山科区となった。近年は西大津バイパスなどの琵琶湖西縦貫道路や、京都市中心部から日ノ岡の下を通り山科区を南に縦断する京都市営地下鉄東西線が開通するなど更なる交通網の整備が進んだほか、山科駅前は地下鉄開通とともに再開発されデパート(大丸)が入る再開発ビルが建設されている。そのため山科駅周辺ならびに地下鉄東西線が地下を走る外環状線沿線は活気ある街に育ちつつあるが、かつてのメインストリートであった旧東海道や醍醐街道の繁栄振りは鳴りを潜め、空洞化が進んでいる。

「ババア絶対に許さん!」地域で暴言わめき散らし御用。半ズボン男、町内会委員が〝迷惑おじさん〟に豹変(2017年1月)[編集]

閑静な住宅街で住民たちに「クソババア!」などと暴言を吐き続け、傍若無人の限りを尽くしていた男。住民側の録音が決め手となって逮捕されたが、かつて寡黙だったという男が〝迷惑おじさん〟に豹変した理由とは…

「クソババア!」「文句あるんか、出てこい!」。

罵詈雑言の嵐にじっと耐えてきた住民たちの怒りがついに爆発した。平成28年11月、京都府警は同府迷惑行為防止条例違反(つきまとい行為等の禁止)で、京都市山科区に住む無職男(64)を逮捕した。決め手となったのは、男の傍若無人ぶりに耐えかねた被害者が、ICレコーダーで一部始終を録音していたことだった。

男の迷惑行為は平成27年7月から約1年半にわたり、住民らは地元警察署に対策を求める181人分の嘆願書も提出した。住民によると、数年前までは町内会の一員として地域活動に参加していたといい、寡黙で住民との目立ったトラブルもなかったという男。なぜ〝迷惑おじさん〟になってしまったのか。そこには、「ある事件」をきっかけに地域から孤立していく男の姿があった。

「またか…」

室内で近隣住民はうんざりしながら息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待っている。体格がよく、いかつい見た目の男は、いつも同じTシャツと半ズボン姿で、近隣住民の家の前に立って暴言を吐き続けていた。京都市山科区の閑静な住宅街では、こんな光景が日常茶飯事だった。

80歳の女性の場合、自宅の前から「クソババア!」「ふざけんな!」などと大声で叫ばれ、買い物にも行けなくなった。女性の娘が男のアパート近くの駐車場から車を出そうとすると「通せんぼ」されるなどの妨害にもあった。なぜ自分が標的になったのか思い当たる節はない。女性は「孫が遊びに来なくなった」と疲れた表情で語った。

住民の通報で、パトカーが毎日のように出動した。しかし、ターゲットとなったが最後、駆けつけた警察官に注意され、そのときは引き下がったりしても、男の暴言は止むことはなかった。それどころか、自宅アパート2階の廊下から「警察なんべんも呼んで許さへん!」と叫んでいたこともあったという。別の住民によると、男と同じアパートの2階に住む住民は耐えきれなくなり、みんな引っ越したとされる。

平成28年9月以降だけでも、住民からの通報を受けた府警山科署員が計104回も出動し、10月には対策を求める住民181人分の嘆願書が同署に提出された。住民の我慢も限界に達していたのだ。そんな男が逮捕されたのは11月24日。逮捕容疑は9月23日から約1カ月間、近くに住むパート女性(69)方の前で「おのれら絶対に許さへんからな。覚えとけ、こら。一生恨んだる」「ババア絶対に許さん」などと繰り返し大声で暴言を吐いたとされるものだ。

決め手は、被害女性が男の犯行を14回にわたり録音していたこと。男は逮捕時、「住民が110番や録音をしたから大声を出しただけ」と供述し、容疑を一部否認していたが、その後、京都地検は同罪で男を起訴した。男の逮捕に、被害に遭った経験のある80歳の女性は「やっと静かになった」と安堵する一方、「(男はいずれ)帰ってくるだろうから、対策を考えないと。今さら行くところもないし」と不安ものぞかせた。

平成27年7月ごろから始まったという男の暴言。それ以前は近所でも目立つ存在ではなかったようだ。住民の一人は「親しい間柄ではなかったが、あいさつは交わしていた」と話す。近隣住民によると、数年前までは町内会の委員として運動会の準備を手伝うなどもしていたほか、仕事をしていて「毎日、朝早く出ていって夜遅くに帰ってきていた」(80代男性)。

退職後は、自宅アパート近くにある、近隣住民も使用する駐車場の掃除に自主的に励んでいたという。地域に奉仕する住人という姿が浮かび上がるが、実は、それこそがトラブルの始まりだった可能性がある。地域では数年前、駐車場に止めている住民の車が傷をつけられたり、パンクさせられたりする事案が相次いだ。防犯カメラなどはなく、犯人の特定は困難だった。

そんな中、普段から掃除のために駐車場に出入りする男に、疑惑の目が向けられたというのだ。男は「やっていない」と否定したが、「男がやったのを見た」と証言する者も現れた。しかし、誰がやったという決定的な証拠はなく、事件は未解決のまま。男の怒りは収まらず「真犯人を捜してくれ」「腹の虫が収まらん」とこぼしていたというが、それ以来、地域から孤立していった。

男はこれまで、「自分は一人や」とこぼす姿や、「おっちゃん刑務所入っててん」「50回も警察に呼び出された」などと通りすがりの小学生に身の上話をしていた様子が目撃されている。地域で居場所を失った男の孤独がうかがえる。男の逮捕後、住民らは平穏な生活を取り戻した。男の自宅アパートを訪ねると、妻が台所の窓を少し開けて「ごめんなさい」とだけ答えた。

地域のためを思った行動なのに裏切られたと感じたからだろうか、それとも、ただの「迷惑おじさん」だったのだろうか。いずれもしても昼夜問わずに暴言を繰り返す行動が許されるはずもない。

沿革[編集]

テンプレート:日本の町村 (廃止)

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、宇治郡安朱村、上野村、御陵村、日岡村、厨子奥村、竹鼻村、四宮村、髭茶屋町、八軒町、小山村、音羽村、大塚村、西野村、東野村、北花山村、大宅村、椥辻村、上花山村、川田村、勧修寺村、西野山村、栗栖野村、小野村が合併して宇治郡山科村が成立。
  • 1926年(大正15年)10月16日 - 山科村が町制施行し山科町となる。
  • 1931年(昭和6年)4月1日 - 宇治郡山科町が京都市に編入。東山区の一部となる。
  • 1951年(昭和26年)6月 - 東山区役所山科支所が発足。
  • 1976年(昭和51年)10月1日 - 東山区から旧山科町が分区され山科区となる。

人口[編集]

山科区に相当する地域の人口の推移
テンプレート:人口統計/fluctuation 2015
総務省統計局 国勢調査より

行政[編集]

国の機関[編集]

教育[編集]

小学校[編集]

中学校[編集]

高等学校[編集]

大学[編集]

特別支援学校[編集]

隣接している自治体・行政区[編集]

交通[編集]

鉄道[編集]

※ その他、東海道新幹線JR東海)が米原駅 - 京都駅間で当区を通過しており、トンネル区間以外では後述の国道1号と並行している。

路線バス[編集]

かつては京都市営バスも路線を保有していたが、地下鉄東西線開通時にバス路線再編で路線網を京阪バスに譲り撤退している。

道路[編集]

高速自動車国道
都市高速道路
一般国道
主要地方道
その他の府道
主要道路

産業[編集]

1961年「清水焼団地協同組合」が設立され、1968年ごろより川田梅ヶ谷に造られた清水焼団地に、東山区の清水寺泉涌寺付近から多くの業者が移転した。1975年7月から開催された「陶器まつり」は五条坂で行われる陶器まつりと並ぶ夏の風物詩として知られたが後に取りやめとなり、陶器市は従前から秋に開催されている「楽陶祭」の中で『清水焼の里まつり』として開催されている。

名所[編集]

出身有名人[編集]

舞台となった作品[編集]

映画

郵便[編集]

集配郵便局である山科郵便局のほか、以下の郵便局がある。

  • 山科四宮郵便局
  • 京都山科音羽郵便局
  • 京都山科竹鼻郵便局
  • 京都東野郵便局
  • 京都山科椥辻郵便局
  • 京都山科大宅郵便局
  • 京都勧修寺郵便局
  • 京都山科川田郵便局
  • 京都山科西野郵便局
  • 京都山科御陵郵便局
  • 京都北花山郵便局


なお、郵便番号は607-00・-08・-09・-80・-81・-82・-83-・84が使用されている。

参考文献[編集]

  • 『モノクロームヤマシナ:未来へつなぐ山科の記憶』山科区役所、2006年

テンプレート:京都府の自治体