天理教

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天理教(てんりきょう)は、日本の新興宗教の一つである。教祖中山みき(但し中山みきが天理教を始めたわけではない)・親神天理王命御霊様を崇拝対象とする。江戸時代末期に開かれた。天啓宗教創唱宗教

狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)及びその傘下の被包括宗教法人等(教会本部及び一般教会)からなる宗教集団を指す。広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す。本稿では、狭義の天理教について述べる。 広義には、天理教を信仰する全ての宗教団体が含まれる。宗教法人天理教の他、「ほんみち」・「ほんぶしん」・「天理教豊文教会」・「おうかんみち」・「神一条教」・「うち分け場所」・「茨木一派」・「天理三輪講」・「世界心道教」などがあげられる。また財団法人としてモラロジー研究所などがある。これらはそれぞれの項で述べる。

おさづけ」という儀式(息や手踊り)で、どんな病気でも治すことが出来るとしている。

街頭で、黒いハッピを着て鳴り物を鳴らし、歌を歌いながら踊っている集団が天理教である。

ようこそおかえり

天理教

Tenrikyo

天理教本部
本部所在地 奈良県天理市
創立日 天保9年(1838年)10月
教祖 中山みき
代表 中山善司 真柱
信者数 推定約20万人
専従者数 約2万人
機関紙誌 天理時報
外部リンク 天理教 公式サイト

概要[編集]

宗教法人天理教本部は奈良県天理市三島町にある。

かつて三島神社があったが取り壊したうえ、中山みき自殺を図るものの親神様に止められた境内の鏡池を天理教は埋め立ててしまった。

過去に創価学会から攻撃されていたため、反創価学会新興宗教勢力である。

天理教は教祖を中山みきとしているが、中山みきが天理教を立ち上げ指導したわけではない。中山みきの親族や側近らが立ち上げたものである。代表を真柱といい、代々中山みきの子孫が受けついている世襲制である。

中山みきの思想から天理教の教義は作られたが、異なるところも多い。正反対の内容であることもある。元々の中山みきの言葉を集めたものは、近年になるまで、幹部以外の信者に公開されなかった。

崇拝対象[編集]

親神様(おやがみ)・おやさま教祖)・御霊様

親神[編集]

天理王命南無天理王命のこと。人類創世の神。輪廻転生を司る。親神親様の身体に憑依した。

歴史[編集]

1838年(天保9年)10月26日に阿弥陀信仰深く、慈悲深い生活をしていた奈良県の農民中山みきが、病気の息子を治すために、山伏祈祷を依頼した。それでも治らなかったため、自ら修験者霊媒となった際に、三島神社にて「親神(おやがみ)」天理王命(てんりおうのみこと)が天降り、憑依したと主張している。しかし神様の名前が初期は、「天龍神」「天理明神」「天の大将軍」「転輪王神」などと一定しておらず、また、おやがみ関西弁をしゃべる。中山みきは、超能力を得て、安産の祈願や、人々の病気を治すなどの奇跡を起こしていたらしい。そして、近隣の農民や職人の尊敬を集めた。しかし、地域の寺社からは疎まれ、官憲からは弾圧を受け、中山みきは幾度となく、逮捕拘留された。

中山みきの側近達はおやがみを祭る新宗教を作ろうとしたが、中山みきはそれを禁じた。また、りっぱな建物を造ることも禁じた。簡素な仮の社でいいとした。なぜなら、中山みき自身が神が宿る社なので、おやがみを祭る建物は必要ないからだ。

中山みきの没後、側近達は新宗教を立ち上げようと活動を開始するが、当時において教えがきわめて特異的だったため認められなかった。その後政府の指導に従い、神道の一派(教派神道)として天理教を立ち上げた。1885年(明治18年)5月23日神道本局傘下の六等教会「神道天理教会」としての認可された。故に天理教で教祖とされる中山みきが天理教を興したのではない。あくまで彼女の思想が天理教の教理の元となり、彼女が天理教によって「親様(おやさま)」として祭られているだけである。1900年(明治33年)8月から明治政府の意向に配慮した「明治教典」等の編纂を行うなど各方面で努力をした結果、1908年(明治41年)に別派として独立することが出来た。(天理教ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している)。しかしこれは、本来の教祖の教え(おふでさきに書かれていることなど)に反することでもあった。元々教祖(=親神)は明治以前より始まっていた教団の認可活動を快く思っておらず、幾度と無く反対の意思を示しており(前述の明治維新に伴う吉田神祇管領の廃止=認可の無効も預言していたとされる)、明治に入り教祖が現身を隠した後、飯降伊蔵を通して神意を示す様になってからもこの姿勢を崩す事は無かった。

天皇崇拝に反対し、本来の教えを貫いた信者達は「ほんみち」という別の天理教団体を作った

1945年(昭和20年)に政府からの弾圧から解放され、1970年(昭和45年)、天理教自身が教派神道ではないと宣言し、新宗教諸派に分類されたが、現在でも神道色が濃い。

人物[編集]

中山みき[編集]

中山みきは生前、病気を治す能力を「おさづけ」として、適切な人物に能力を分け与えていたといわれている。これが現在の「おさづけ」と呼ばれる宗教儀式の原型となっている。

教理[編集]

神髄は、たすけ一条で、神の道具衆として、真実の意味において人を救う心を起こせば、親神の御心と導通を起こし、それによって霊的心身一如の成熟を得るので、真実の意味において自らもたすけられるというものであり、「だめの教え」といわれる。(だめ、とは駄目押しのだめであり、「最後の教え」との意味である。)

原典[編集]

教義の基礎とされる原典は、1711首の和歌体で書かれた「おふでさき」、つとめの地歌としての「みかぐらうた」、そして折々の伺いに対して下された「おさしづ」の3種類の啓示書。「三原典」と呼ばれて天理教教義の基礎となっている。

「三原典」については、

教祖には神が入り込んでいたと考えられており、また本席飯降伊蔵は「言上の許し」と言われる神の言葉を取り次ぐ許しが与えられていた。その為、三原典は全て「神意をあらわしているもの」であり、「人間の考えが混じっていない」、と考えられている点で、天理教内の他の書物とは全く異なるものであると考えられている。

陽気ぐらし[編集]

親神によって実現されるべき救済の理想は、が人間創造にかけた目的の成就ともいうべき陽気ぐらしと説き、それはすべての人間が神一条救け一条で、相たずさえて喜びの日々を生きることによって成るとする。自らは神によっていかされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、病気のない平和で豊かな世界を目指すことである。

また、月日・親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、陽気ぐらしを享受することができると考え、そのことに感謝を捧げ、報恩の行いとして人間は、親神の恵みである天然自然を活かし、親神からの借り物であるそれぞれの身体を、陽気ぐらしのために惜しまず使っていくことが大切とされている。また、すべての人間関係は、夫婦関係を基本として培う事が理想であるとされている。

ぢば[編集]

奈良県天理市にある「ぢば」(かんろだい)において人類が創造されたと主張しており、ぢば(地場)、おぢばと呼ばれる。その中心地は元々中山家の敷地内であった。神殿の中心にあたり、かんろだい(甘露台)がおかれている。丁寧語の「お」をつけて「おぢば」。本物のかんろだいは、警察によって押収されてしまった。現在は、レプリカのかんろだいが置かれている。現在この周辺地一帯に教会本部が置かれている。また今でもここで教祖(おやさま)は存命で、日々お働きになっていると天理教は主張している。

三島神社[編集]

教会本部がある土地には元々三島神社があった。天理教の移転要求に三島神社の氏子らから猛反発をうけたが、1988年(昭和63年)移転を強行した。1999年(平成11年)には天理教本部は無断で境内にあった鏡ヶ池を埋め立ててしまった。天理教側は三島神社を天理教の全額負担によって移転、天理教はこの件に関して話し合いで解決。このような行為について、地域住民だけでなく、天理教信者からも批判を受けている。なぜなら三島神社は教祖が天啓を受けた大切な場所であり、鏡が池は教祖が自殺を思いとどまったところであるからである。[1]

8つのほこり[編集]

天理教には、8つのほこりをしい欲しい憎いかわい恨み腹立ち高慢の事)という教えがある。悪いほこりを積むとよくないと説いている。また、身体は親神からの借り物であり、謙虚に生きることを説いている。

いんねん[編集]

天理教でよく使われる概念として、「因縁」というものがある。意味は言葉どおりである。「因縁」は生きている間にも増え る。これを「埃がつもる」という。 又、反対に因縁を切ることもできる。 それは親神様の心即ちたすけ一条の心人をたすける心に切り替え、 それを実行に移すことによってなされる。 と言われている。

== 理の親[編集]

天理教における、本部直属の教会、 又所属の教会の会長、会長婦人を指す。

存命の理[編集]

教祖中山みきがまだ生きていると言うこと(但し死亡は確認されている)。

おさづけ[編集]

おやがみの力を借りて病気がなおるようお願いすること。無償の儀式。

宗教活動[編集]

教会の外での活動も活発である。活動内容は、数名が組を作って町を練り歩くこと。「天理王命」と書かれた黒い旗を持つ人。拍子木を鳴らす人。太鼓を鳴らす人(合わせて「鳴り物」と呼ぶ)。時には、歌を歌い、踊りを踊る。

ひのきしん[編集]

ひのきしん」は親神の守護に感謝し、その報恩の行いすべてをいう。簡単に言えば、親神・親様への感謝を表す天理教に対する奉仕活動である。「つとめ」(てんりおうのつとめ)という祈りを通して、親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを願う。

お供え[編集]

仏教でいうお布施のこと。信者の志により、毎月納められる。

二の切り[編集]

二の切り命の次に大事なものをお供えする。つまり、お金をお供えすること。

かぐらづとめ[編集]

これまでは「ぢば」「かんろだい」でしかできなかったが、天理教豊文教会との訴訟に敗訴してからは、天理教豊文教会でも教祖の教えに沿ったかぐらづとめをするようになった。

にをいがけ[編集]

天理教における布教活動のこと。他の宗教に比べ、布教活動は熱心に行われている。

修養科[編集]

3ヶ月間詰所と呼ばれるところに宿泊し、天理教の教義を学ぶ宗教活動。目的は親里親神の教えを心に治め、信仰の喜びを養い、それを身に行うというもの。期間は3ヶ月間。費用は宿泊費・食費込みで約13万円~30万円と教会によって異なる。午前中は天理教の教えを学び、午後は天理教への奉仕活動(ひのきしん)を行う。将来のようぼくとなる信者が親里に集まり、修養科で修行を行う。また、本来様々な心身の悩みを持った信者が親里に集まり、修養科で修行を行うことでそれを解決するというもの。「ようぼく」とよばれる、親様の手足となって働く人を養成する。修養科の中で、別席を9回運ぶ。天理教の話を9回に分けて聞かせて頂く。ー その後、前期講習が3週間、後期講習が4週間ある。前期講習を修了すると、天理教を布教(にをいがけ)する資格が得られる。そして、検定を経て教会長の資格を得て、今度は信者を指導する立場となる[2]。  他に第二専修科などがある。

別席[編集]

別席は天理教の宗教活動の一つ。天理教の教えを繰り返し聞くことによって、それを身につける。天理教の「ようぼく」になるための儀式の一つ。「ようぼく」は天理教における信者に相当する(天理教に「信者」という概念はない)。「ようぼく」になりたいものであれば、一般の人でも運ぶことが出来る。参加できるのは天理教信者のみ。教祖(おやさま)より「おさづけの理」を拝戴出来るしかし生前、これはという人に力を分け与えていたという。これを「おさづけ」という。現在天理教の儀式として「おさづけの理」の元となった。

三日講習会[編集]

事情があって3ヶ月連続で修養科に参加できない人のために、何回かに分けて講習を行うもの。

機関誌[編集]

機関誌は、「天理時報」。発行部数15万部[3]。かつて、天理時報に部落差別をする記事が掲載されたことがあり問題となった[4]

行事[編集]

祭典[編集]

祭典日は26日。天理教信者が天理に集まる。この日は、JR近鉄とも、天理駅発着の臨時列車が運転される。団参で、天理へは通常より安い運賃で来ることが出来る。このほかにも、正月などに行事がある。

こどもおぢばがえり[編集]

こどもおぢばがえりとは、毎年7月下旬から8月初旬に行われるイベントで、全国の信者の子供達が天理に帰ってくる。各教会に属する詰所と呼ばれる宿泊施設でお泊まり会(日帰り参加者もいる)をし、天理市内の各施設のイベントに参加する。

また、こどもおぢばがえりについては各大教会分教会布教所などにポスターが貼られている。各詰所に立てられるアニメの看板は、こどもおぢばがえりの風物詩となっていた。しかしキャラクターの著作権者から著作権の侵害苦情があったため、現在はこどもおぢばがえりのキャラクターを看板に描いている。

しかし、近年、子供達の興味の多様化、塾通いなどにより参加者は激減している。

お節会[編集]

お節会とは毎年1月5日-7日に教会本部で行われる行事で、期間中に人類の故郷「ぢば」に帰り、参拝した人々に、教会本部の元旦祭に供えられていた鏡餅雑煮にしてふるまう行事。


教勢[編集]

天理教信者数は、正確に把握されていない。天理教には「全ての人間は神の子であり分け隔て無く助ける」との教えがあり、結果信者という定義が無く、かつては信者数の公表などは行っていなかったからである。

天理教本部によれば、明治末期の段階で10万人程度であった。戦前においては新宗教の中で最も大きな教団に成長したそうだ。太平洋戦争に突入する頃には、30万人程度に急増したらしい。時を同じくして(狭義の天理教から見て)分派団体が多く発生した。

外部調査である1998年(平成12年)度文化庁統計によれば、教師数202,000人、団体数37,500、信者数1,820,000人ということになっている。[5][6]

公称200万人前後。

このほか、天理教会本部とは別組織で天理教を信仰している団体がある。信者数は合わせて約30万人以上。天理教本部は、「天理教」は天理教本部の商標であり、天理教豊文分教会に「天理教」の名称使用を差し止める民事裁判を起こした。しかし、天理教本部側が敗訴した。これにより、天理教の教えに沿って信仰する団体は、いずれも「天理教」の名を用いることが出来ると認められた。天理教豊文分教会は「天理教豊文教会」と名をあたらめ、教祖の教えにそった宗教活動を行っている。

建物[編集]

おやさとやかた[編集]

おやさとやかたは現在も天理市で建設中の建物。地場を中心に建設されている。建設費用は信者からの普請によっている。修養科を行うために建設されている。

河川を架けるように建てられているおやさとやかた

詰所[編集]

詰所は天理教の宿泊施設。母屋とも呼ばれる。天理市内に100軒以上ある。第○○母屋とナンバリングされ、大きな看板が挙がっている。天理に訪れた信者はここで宿泊する

また夏には、こどもおぢばがえりでやってくる子供達を迎えるため、アニメの大きな看板が立てられる。しかし、著作権から苦情が寄せられたため、本部は詰所にキャラクターの使用を取りやめるよう指示した。最近はこどもおぢばがえりのキャラクターを描いている。

天理市[編集]

天理市は日本では唯一、宗教名が市名になっている宗教都市である。それだけ、天理市が天理教の聖地であることの表れだ。天理教は天理市へ毎年約15億5000万円[7]もの多額の寄付を行っている。しかも、天理市はそれを見込んで予算を編成している。それは、信者のお供えから支出している。寄付金は天理教祭典日の混雑緩和のための道路整備などに使われている。

天理教は天理市三島町の市の土地を不法占拠しているが、地代を天理市に支払っていない。教会癒着しているため地代を請求していないと、市民オンブズマンは指摘している[8]奈良県市民オンブズマン


世界の天理教[編集]

天理教明治時代から世界各国に進出していて、一つは集団移民した日本人日系人のうち、信者が布教した場所。現在も教会のある国としてはアメリカハワイ島、西海岸地区)、ブラジルアルゼンチンパラグアイなど。もう一つは、戦前の日本の占領地で移住した信者が布教した場所であり、台湾韓国などがあげられる。戦後進出した国は布教師布教を目的に入った場所が多いとされ、コンゴタイオーストラリアインドフランスインドネシアフィリピンネパールイギリスメキシコニュージーランドシンガポールなど、世界各国に及ぶ。いずれの国にも本部公認の拠点や教会布教所が存在する。しかし、海外での布教活動は一部地域を除いて失敗したといって良い。この為、天理教本部の海外布教部門が縮小され、海外部となった[9]



文献[編集]

引用[編集]

  1. 三島神社と天理教
  2. 天理教修養科案内
  3. 天理時報社発表公式発行部数
  4. 「天理時報」昭和44年4月27日号の天理健康長寿法(8)
  5. [1]
  6. 日本における宗教の概要
  7. 2007年天理市予算
  8. 奈良県市民オンブズマン http://ombudsmannara.main.jp/
  9. 本部発表より

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

サイト[編集]

公式[編集]

一般[編集]

Wiki[編集]

BBS[編集]

2ちゃんねる[編集]

宗教@しずちゃん[編集]

過去ログ[編集]

Blog[編集]