大阪戦争
大阪戦争(おおさかせんそう)は、1975年7月26日から1978年11月1日に掛けて大阪府周辺で起きた三代目山口組と二代目松田組との抗争事件。
ジュテーム事件[編集]
1950年代後半以降、小松島抗争、明友会事件、夜桜銀次事件等の抗争を通して神戸から日本全国に侵攻した山口組を支えていた組織力と経済力は、警察の「第一次頂上作戦」によって大きな打撃を受けていた。
1975年7月26日深夜、大阪 豊中市の喫茶店「ジュテーム」において松田組系 溝口組の集団が、先にいた溝口組幹部と面談中の山口組 佐々木組(組長・佐々木道雄)の組員3人を射殺、1人に重傷を負わせた。この背景には佐々木組内 徳本組の構成員が大阪 キタにある溝口組の賭場で起こしたトラブル(嫌がらせ)があったとされる。
この佐々木組と溝口組の衝突は一旦は和解のプロセスに乗ったが決裂。同年8月23日に松田組幹部の自宅に銃弾が打ち込まれた直後、佐々木組の本家である神戸の山口組本部に銃撃が行われたことで大阪周辺の山口組勢力も参戦する結果となった。この後、翌9月3日には大阪市南区(後の中央区)の山口組系 中西組(組長・中西一男)の組員が松田組系 村田組 大日本正義団組員に射殺されている。
この混乱に山口組の組長・田岡一雄は傘下の組織に自重するよう厳命したとされる。
日本橋事件[編集]
抗争は一旦沈静化したが再び大きな展開を迎えた。 翌年の1976年10月3日に大阪 日本橋で大日本正義団の会長・吉田芳弘が佐々木組組員によって射殺された。
(飯干晃一の造語である)「血のバランスシート」の考えからすると佐々木組からは前年3名の死者を出していることもあって、当然の報復だった。すぐに松田組側から報復が行われると警戒されたが、そのまま何事も無く1年以上の時が過ぎることとなった。
ベラミ事件[編集]
日本橋事件から1年9ヶ月後の1978年7月11日、山口組組長の田岡一雄は、京都市太秦の東映撮影所を訪れた帰りに京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」を訪れた。この時、田岡が「ベラミ」を時々訪れる情報を事前に掴み1ヶ月ほど前から通いつめて待ち伏せていた大日本正義団幹部・鳴海清によって田岡は狙撃された。凶弾は田岡の首に命中したが、奇跡的に一命を取り留めた。
この特攻とも言うべき狙撃は、当時既に巨大な組織となっていた山口組のトップが、命の危険に晒されたという意味で大きな衝撃を与えた。
<逸話> 田岡を狙撃した鳴海清が付き合っていた女性は、三菱銀行人質事件の犯人梅川昭美(うめかわ あきよし、1948年3月1日 - 1979年1月28日)とも付き合っていたようである。
山口組の報復と抗争終結[編集]
このベラミ事件は親分思いの山口組若頭・山本健一の怒りに火をつけた。鳴海 清を追跡する一方で、山本は容赦のない攻撃指令を出した。
報復は山本率いる山健組を中心に、宅見組(組長・宅見 勝)などが参加した。 同年8月17日から10月24日にかけて公衆浴場や松田組幹部自宅、路上といった場所でも無差別に松田組組員を次々と射殺した。田岡を狙撃した鳴海 清は9月17日に六甲山の山中で、激しい暴行を加えられたことが明らかな状態の他殺体となって発見されたが、真犯人の判らぬまま1993年に時効となった。
松田組との手打ちすら望まない山本健一は、11月1日に報道陣を神戸の田岡邸に招いて一方的に抗争終結を宣言。松田組も終結宣言を大阪府警に提出し、大阪戦争は終結した。
大阪戦争後と、その影響[編集]
- 山口組は第一次頂上作戦以降薄れていた、その強さと威信を再び内外に見せつけることになった。
- 持病により元々体調の悪かった山本健一は保釈を取り消され、再び収監される身となり、肝臓病を悪化させたことで、田岡の後を追うように1982年に この世を去った。このことは後に山口組の4代目争いを引き起こし混乱と分裂(山一抗争)を招く遠因となった。
- 松田組は「松田連合」に改称して組織建て直しを図ったものの、傘下組織の相次ぐ離脱などにより勢力が激減し1983年5月25日に解散した。
参考文献[編集]
- 飯干晃一著『雷鳴の山口組 角川文庫―日本アウトロー史』(角川書店、1990年) - ISBN 4041464234